コラムの練習 《え》
英 語
私が取得した教員免許が「英語」であるのは、まったく偶然のことと云ってよい。
所属していた文学部で高校の教員免許が取れる教科は、当時「英語」「国語」「社会」の3つであったが、私はイタリア文学科という辺境な学科に在籍していたので、そのどれとも近しい関係はなかった。
自分の好みで云えば、「社会」が好きだった。中学、高校の社会科の先生はたいてい話し上手で、その授業は漫談か講談みたいで笑いが絶えない楽しいものだった。自分もそんな話術を持つ教師になれるとは到底思えなかったが、社会科を教えるのは楽しいだろうなと思った。ただ、社会科の中身は、日本史、世界史、地理、倫理、政治経済と多岐にわたり、その免許を取得するためには、英語・国語の1倍半ほどの単位を取る必要があった。(現在は「地理歴史」「公民」の2つの教科に分割されている)
私が教員免許取得に取りかかったのは遅かったので、社会科関連のたくさんの授業を受ける余裕はなかった。それに、社会科免許は、文学部以外に、法学部や経済学部などでも取得できるので、その免許所有者の数はかなり多い。そして、その割りには、英語・国語よりも高校での授業時間数が少なくて、その分、教員採用数も少ないと云われていたので、早々と諦めざるをえなかった。
残ったのは国語と英語である。どちらも、苦手でも嫌いでもなかったが、得意でも好きでもなかった。国語では、現代文はおもしろかったが、古文と漢文は苦手といってもよかった。それらの基本的な文法を学ぶところで手抜かりがあったうえ、古語辞典や漢和辞典の使い方にも馴染めず、おろかなことに、市販の、教科書の「虎の巻」を買って、それで間に合わせるという、まことに手抜きの勉強をしていたので、定期試験は何とかそれで切り抜けたが、「実力」はまったく付いていなかった。
英語はそこまで手抜きはしていなかったが、与えられた教材を何とかこなしていくという程度で、自分から積極的に食いついていくということはなかった。「暗記」とか「暗誦」というのは語学学習には必須であるが、それが苦手、というより軽視しているところがあって、そんな性癖には、のちのち大きな後悔を強いられることになる。
しかし、教員免許取得という現実を前にして、そんな個人的な好みや得手不得手に気を取られている余裕はない。単位取得という点では、大学の教養部時代に必修だった英語の授業の合計8単位が英語の教員免許の単位に流用できると聞いて、大きく英語に傾いた。一方、国語の方では、国語学の教授で、受講届と受験届に名前だけ書いておけば、だれでも「優」の単位をくれるという奇特な先生がいて、そのおかげもあって、いつの間にか、国語免許の単位も揃っていって、どちらの教科も、あと最後の「教科教育法」という授業の単位だけを残すのみとなった。
これはうまくいけば、英語と国語の両方の免許を取れるかもしれないぞ。同じ学科の大学院生で、国語の免許を取得して、すでにある私立高校の非常勤講師のアルバイトをしている同級生もいたことから、国語を教えることも満更不可能ではない、と開き直ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。在籍最後の年の時間割りを見ると、「英語科教育法」と「国語科教育法」が同じ時間帯に設定されていたのだ。社会科も同じであった。
どうも、私みたいなズボラな学生に、簡単に免許を与えないためであろう。仕方なく、私は当初の方針通り、英語を選んだ。その最大の理由は、英語の方が国語より授業時間数が多くて、教員の採用数も多い、と云われていたからであった。
そのようにして、受講しはじめた「英語科教育法」の授業は、それまでの一般的な英語・英米文学関連授業とは打って変わって、厳しいものだった。実際に生徒たちにどのように教えればよいか、その方法論が具体的に説明され、時には、順番に当てられて実演させられたりもした。しかし、それはその後実際に教壇に立った時、いちばん役に立ったことばかりだった。
「英語科教育法」の単位を取り、最後に、地元の出身中学校で「教育実習」を終えて、無事、「中学一級・高校二級」の英語教員免許状を取得すると、取りあえず、大阪市内のある私立男子校の非常勤講師に採用された。
私に割り当てられたのは、高校1年の「英文法」の授業だった。その頃、高校の英語授業は「リーダー(読本)」「グラマー(英文法)」の二本立てになっていて、その高校では、「グラマー」に、週3時間が割り振られており、私は5クラス担当したと記憶している。
英語授業のこの構成は、私自身が高校時代に受講していた時と変わってはいなかった。「グラマー」の教科書というのは、それまで中学校で習った文法事項を、「名詞」「動詞」「時制」「不定詞」などと体系化して整理した簡単な説明と例文が並んでいて、各単元の最後に1ページほどの練習問題があり、そのまた最後に5題ほどの「和文英訳」問題がついているというものだった。
授業では、言葉足らずの教科書の説明を補足するかたちで、黒板に板書して文法事項を解説し、練習問題を生徒たちに当てて答えさせるというスタイルだったが、練習問題が足りないので、教科書に準拠した「ワークブック」のようなものを持たせていたような気がする。その授業は、かつての私自身が体験したように退屈極まるもので、すぐにザワザワと私語する生徒たちの注意を惹きつけるための工夫が必要だった。
とはいっても、新米教師の私にはもとよりそんな余裕はなく、とにかく教科書に書いてあることをきちんと教えることだけで精一杯だった。先に述べたように、私は大学で英語を専門に勉強したわけでもなく、ただ「英語免許」取得に必要な授業を受講していただけで、そんな自分が一人で教室に入って、大勢の生徒に対して何を、どう教えればよいのか、日々それと格闘するばかりであった。
手助けとなったのは、その教科書の「指導書」、いわゆる「教師用虎の巻」であった。そこには、その教材の意図やより深い説明、さらには練習問題の解答ならびに、英訳問題のさまざまな「別解」などもていねいに記されていた。
それと、自分が過去に受けた授業の記憶である。かなり朧(おぼろ)げになっているが、その文法項目を昔、自分はどのように教えられたのか、ということも思い起こして参考にした。
中学生の時、ある英語の先生が「不定詞の用法」は「こと、べき、ために、して、結果」と憶えておけば大丈夫、と豪語していたのが耳に残っていた。
すなわち、「~すること(名詞的用法)」「~するべき=~するための(形容詞的用法)」「~するために(目的をあらわす副詞的用法)」「~して(感情の原因をあらわす副詞的用法)」「~となって、その結果~(結果をあらわす副詞的用法)」をまとめて「呪文」のように暗記するというものだったが、その口調のよさが10年以上経っても、耳から離れなかったのであろう。
私はそれに、「~するとは(判断の基準を表す副詞的用法)」「~するには(程度をあらわす副詞的用法)」「~するのは(限定をあらわす副詞的用法)」を付け加え、「こと、べき、ために、して、とは、には、のは、結果」という新しい呪文をこしらえて、生徒に憶えさせようとしたが、はたしてうまくいったのだろうか。少し長すぎた嫌いがあったし、何でもおもしろがって暗唱する年齢はすでに過ぎてしまっているので、それほど効果はなかったのかもしれない。
また、高校生の時、テレビやラジオで「百万人の英語」という講座があって、五十嵐新次郎という大学教授が人気を博していた。テレビでは、羽織袴にカイゼル髭をつけて、芝居がかった独特の口調で喋っていたが、ラジオでは、そういう演出を排したスマートな講義だったように思う。
「音声学」が専門とあって、その英語の発音は流暢で、日本語もまた歯切れのよい江戸っ子弁だった。私は定期的に視聴していたわけではなく、ときおり、気が向いた時にダイヤルを合わせて聴いていただけだったが、ある時、次のような内容の講義があった。
「woman」という単語をみんな「ウーマン」と発音していますが、それはちがいます。本場の正しい発音は「うおまん」です。魚屋の屋号で「魚万」というのがよくあるでしょう。あれと同じです。
本当だろうか? と眉に唾をつけたが、後年、あのボブ・ディランは名曲「Just Like a Woman」で、たしかに「うおまん」と唄っていた。また、あのジョン・レノンも、これまた名曲の「Woman」で「うおまん」と唄っているのを知った。これでアメリカでもイギリスでも「うおまん」だということに納得がいったのである。
また、日本人が苦手とされる、「R」と「L」の発音の違いについて。
「ごはん」と云うつもりで、「ライス」と注文すると、それは「lice(シラミの複数形)」としか聴こえません。お皿一杯にシラミが盛られてきたら大変でしょ。「ラ」を発音する前に、口を思い切りすぼめて、軽く「ぅ」と発音して、「ぅライス」と発音すれば、「ごはん」が出てきます。同様に「right(正しい、右)」は「ぅライト」、「ライト」と云えば「light(軽い、光)」、「race(競争、人種)」は「ぅレイス」、「レイス」なら「lace(レース、締め紐)となってしまいます。
さらに、これは、英米文学科に進んだ同級生に教えてもらったことだが、未来の助動詞 shallに、二人称を主語にして、You shall do it. で、I want you to do it.(あなたにそれをして欲しい)の意味をあらわす用法がある。この例文として、「You shall die.」とすると、「あなたに死んでほしい」、すなわち、当時流行していた「東映やくざ映画」の名セリフ「死んで貰います」となる。
このような「小ネタ」をいろいろと用意して、退屈になりがちな授業の合間に投げ込み、なんとか生徒たちの注意と関心を引き寄せるというようなことをしていたが、最初の1年は、とにかく「英文法の再学習」に必死だった。
かつて自分が生徒だった時、あまり熱心に聴いていなかったツケが廻ってきて、知らないことがいっぱいあったが、とにかく、知ってるふりをして生徒に教えなければならない。同室の英語のベテランの先生にいっぱい質問して、ていねいに教えてもらう毎日だった。
そうやって1年後、運良く、別の私立男子校に、今度は「専任の教諭」として採用された。最初に配属されたのは、六年一貫の「中学2年」だった。
その学校での英語の時間は、中1から高3まで一貫して「週6時間」であったが、その学年は4クラスだったので、教師の持ち時間の関係もあって、4時間と2時間に分割され、専任である私は「検定教科書」を用いる4時間の方を担当することになった。あとの2時間は、非常勤講師で来ている公立高校の定時制の先生が受け持って、自分で選んだ「サイドリーダー」や「問題集」を使って授業をしていた。
当時、前の学校でもそうだったが、公立高校の定時制の先生が、昼間、非常勤講師で私学に教えにくることはよくあった。そういえば、私が昔通っていた公立高校でも、その高校の「定時制」や「通信制」の先生が、私たち、昼間の「全日制」に教えにくることもよくあって、中には、その後、「全日制」に移ってきた先生もいた。
さて、今度の教科書は、「文法」もあるが、「読み物(リーダー)」が中心である。もうすっかり忘れてしまったが、結構おもしろい話もあった。生徒に当てて、そこを朗読させてから、和訳させる。それを修正したあと、もういちど、訳し直す、という古典的な「文法訳読方式」だが、その前後に、教師がリードして、本文の英文を全員で大声で朗読する「コーラス・リーディング」をした。
何か大きな声を出すと「発散」するのか、「コーラス・リーディング」は、生徒が好きだった。だから教室がざわつき始めると直ちにコーラス・リーディングをした。ただ、そのモデルとなる「教師のリーディング」の発音はイマイチで、自分でも少し恥ずかしかった。
その頃、すでに「カセット式」のテープレコーダーは発売されていて、学校にも何台か置かれていたが、あまり使われている様子はなかった。教科書には、その本文や収録単語などをネイティヴ・スピーカーが収録した録音テープが「付属教材」として存在していたが、学校には購入されていなかった。ただ、生徒の中に、その「家庭用」のテープを持っている者がいると知って、試しに、彼からそれを借りてみた。
家で聴いてみると、よくできていて、授業でも十分に使えそうだったので、学校にあるテープレコーダーの埃を払って教室に持ち込み、「コーラス・リーディング」の時に、そのテープを流すと、とても好評だった。
生徒から借りたテープをいつまでも授業で使うわけにもいかないので、先輩の先生を通して、学校に買ってもらった。それは、「家庭用」とはちがう「授業用」のもので、生徒がコーラスする「ブランク」があらかじめ設けてあり、また、それが数回繰り返されるなど、授業で使いやすいように、きめ細やかに作成されたものだった。このあと、テープレコーダーの使用は、他の学年でも常態化されていく。
この学校では、同じ学年をずっと持ち上がっていくことになっていたので、高校になると、4時間の「リーダー」と2時間の「グラマー(英文法)」のうち、「リーダー」の方を持つようになった。使用する教科書は自分で選ぶことができたが、よく分からないので、上の学年と同じものにした。高校の「リーダー」を教えるのは初めてだったが、内容は、中学のものと比べて格段におもしろくなっていた。英語の表現について詳しく説明する自信はあまりなかったので、その書かれた内容について、背景や裏話に蘊蓄(うんちく)を傾けるのを売り物にせざるをえなかった。さいわい、教師用の「指導書」には、参考資料として、そのネタになるようなことがたくさん載っていた。
どんな話があったのか、当時の教科書はもう手許にないので、記憶は薄れてしまっているが、ただ、オー・ヘンリーの短編があったことだけは憶えている。たしか軽いラヴ・ストーリーで、公園でデートする場面の挿し絵が入っていた。そういうところを、説明を加えながら和訳するとき、ちょっと滑稽味を出すために「関西弁」風にやってみたところ、大受けした。のちに生徒のだれかが「大阪弁の英語や」と云い出して、それがいつしか私の授業のトレードマークとなってしまった。大阪訛りの英語ってどんなものか分からないけど、なぜか「言い得て妙」な表現で、私も気に入っていた。
この最初の学年を高3まで持ち上がって卒業させたあと、2廻り目は中1からだった。この学年から5クラスとなったので、英語の割り振りは3時間ずつになり、メインの立場の私は「教科書」担当となった。ちょうど、この頃からいわゆる「ゆとり教育」が始まり、「特別活動(必修クラブ)」や「ゆとりの時間(総合学習)」が設けられ、それが英語の時間を削減することによって捻出されたので、中学英語の時間は5時間から3時間に減り、「関係副詞」や「仮定法」などが学習範囲から除外されることになっていた。
だから、3時間の教科書を3時間でやるのはちょうどよかったのだが、あとの3時間をどうすればよいのか。「サイドリーダー」や「問題集」などまだ使えない「入門期」の中1では、週3時間、何をすればよいのか。
その時、それを担当することになった、若い意欲的なA先生が画期的な案を持ってきた。NHKのラジオ講座「基礎英語」を教材に使いたい、というのである。
「基礎英語」は月曜から金曜の早朝6時から15分間放送されている、第一歩から英語を学習する内容で、ちょうど学校の中学1年で習うものに相当していた。A先生は以前から、ラジオの「英会話」の愛聴者で、その関連から「基礎英語」も時々聴いて、教材として使えるのではないかと思ったとのこと。この学校に赴任してから数年間持ち上がってきた学年が高校を卒業すると、次は中1に回ることが決まっていたので、秘かに準備していたそうだ。もちろん、私に異存はないので、すぐさま快諾した。
A先生のスタートは早かった。「基礎英語」の新年度の放送は、4月に入った第1週から始まる。それは入学式の前なので、それまでに周知徹底させておかねばならない。春休みに入ると、新入生とその保護者が全員学校に集められて、事務的なことなどの説明会が開かれる。その時、わざわざ時間を設けてもらって、「中1では、教科書以外に、NHKの『基礎英語』を使います」という「案内ビラ」を用意し、A先生が、新入生と保護者に向かって、直接語りかけた。
「4月になったら、必ず『基礎英語』を聴いてください。テキストは学校で一括購入して、教科書といっしょに配布します。朝早い時間ですが、早起きしてください。テープに録音したりしないで、生放送で聴いてください。録音すると、いつでも聴き直せるので、つい気が緩んでしまいます。一発勝負、今しか聴けない、という緊張感が貴重なのです。それが集中力を育てるのです。なお、学校が始まると、通学時間の都合で朝6時の放送を聴くのが難しい人が出るかもしれません。そんな人が、夕方や夜に再放送を聴くのはやむを得ませんが、録音はしないでください」
A先生の熱っぽいアピールにみんな納得したようで、学校が始まって最初のA先生の時間には、みんな、それまで放送された番組を聴いていたそうだ。A先生は生徒全員に、毎月、色画用紙でつくった「基礎英語・聴取カード」なるものを配り、放送を聴いたその時の「集中度」をカレンダーのような表に◎・○・△と記入させ、毎週集めて、チェックしていた。
毎回の放送の中心となるのは、決まった登場人物による「スキット(寸劇)」で、そのあと、そこに出てくる重要表現の説明があり、最後に、1つ選ばれた重要構文による「パターン・プラクティス(文型練習)」があった。A先生は、早朝、自宅で生放送を聴きながら、録音し、それを教室に持ち込んで流しているとのことだった。放送そのままを流すと、それだけで時間が経ってしまうので、スキットと文型練習のところだけピックアップしてコーラスさせていたとのこと。
詳しくは知らないが、ともかくA先生は無事に1年間、「基礎英語」をやり終えた。A先生は翌年は次の学年にメインとして入ることが決まっていて、そこでも教科書ではなくて、再度「基礎英語」をすることになっていた。問題は、サブとして「基礎英語」をしているこの学年の翌年をどうするかということであった。
なにしろ、「基礎英語」を使うというのは初めての試みだったので、だれにでもできるというわけにはいかない。外部から新しく来た非常勤講師にやってくれというのも酷なので、結局、メインとして持ち上がっていく私がそのあとを担当し、サブの先生には無難な教科書をやってもらうことにした。そのような方針は中1のなかば頃から覚悟していたので、翌年の授業のことは早くから考えていた。
「基礎英語」のあと、6:15から15分間「続基礎英語」というのがあった。担当は、成城大学の安田一郎教授が14年間にわたって担当していた。
構成は「基礎英語」と同じ、「スキット」と「パターン・プラクティス」で成り立っていたが、長年続いているだけあって、そのスキットはとてもこなれた内容で、個性的な登場人物が大長編の物語の中を動きまわるような構成になっていた。また「転換演習」と名づけられたパターン・プラクティスは特に充実していた。例えば、次のごとくである。
I went to Kyoto yesterday. (私は昨日、京都に行きました)
(Kyoto?) Did you go to Kyoto yesterday? (昨日、京都に行きましたか?)
(answer)Yes, I did. I went to Kyoto yesterday. (はい。昨日、京都に行きました)
(Kobe?)Did you go to Kobe yesterday? (昨日、神戸に行きましたか?)
(answer)No, I did't. I did't go to Kobe yesterday. (いいえ。昨日、神戸には行っていません)
(Where?) Where did you go yesterday? (昨日、どこへ行きましたか?)
(answer) I went to Kyoto yesterday. (昨日、京都に行きました)
このように決まったパターンで、いろんな文型の文章を転換させていくという練習を繰り返し繰り返しするようになっていた。「継続は力なり」というのが、安田一郎氏の決まり文句で、その穏やかな語り口と、ネイティヴ・アシスタントの、ジャン・マケーレブさんとマーシャ・クラッカワーさんも魅力的だった。
だから、翌年、A先生のあとを引き継ぐのは不安だったが、この「続基礎英語」という番組の魅力と人気に負ぶさっていけば何とかやっていけるだろうと目算していた。ところが、年が明け、年度末が近づいてくると、思いがけないことが発覚した。長年担当していた安田一郎氏が退陣し、番組が一新されるというのだ。
3月になって発売された新しい年度のテキストを見ると、後任の担当者は、東京外国語大学の松田徳一郎教授、アシスタントのネイティヴも変わっていた。そして、驚いたのは、それまでの「続基礎英語」は、中学2年から3年のなかばぐらいまでに習う文法項目を使って、豊かで幅広い英語表現の活用を目指していたのが、今度のテキストを見ると、中学で習うすべての文法事項をカバーし、それらをまるで英文法の教科書のごとく、文法項目別に配列し、スキットもその項目に合わせた、とってつけたような内容になっていた。そして、安田氏時代の売り物だった「転換練習」も姿を消し、ありふれた「書き換え問題」の羅列になっている。
こんな堅苦しい番組では生徒も興味を失ってしまうだろう。番組のおもしろさに依拠したいという私の思惑はまったく外れてしまった。これは1年遅れで、このコースを歩むことになるA先生にも大ショックだったようだ。
乗りかかった船だから、先に進むしかない。「基礎英語」同様、「続基礎英語」のテキストも持たせて、放送も聴かせた。しかし、その聴取チェックはほどほどにし、授業では、スキットの部分だけコーラスして、あとはプリントを用意した。
テキストに添って、出てくる文法事項に関する「解説」を、文章完成(穴埋め)問題の形式の設問にして、その穴を埋めていく作業を通じて、自然とその文法事項が理解できるようにしたのである。そして、その最後には、「ダイアローグ英作文」の問題を付け加えた。これは、与えられた疑問文に対して2回返答を繰り返すスキットをつくるものである。例えば、
A: Who is that man (or woman) standing in front of your house? (君の家の前に立っているあの人はだれ?)という疑問文が与えられると、
B: That is my mother. She is waiting for me. (ぼくのお母さんだ。ぼくを待っているんだよ。)
A: How kind your mother is! (なんて優しい!)
B. Oh no. She is angry. She has found my English test. (いいや。怒ってるんだよ。ぼくの英語のテストを見つけたんだ) という風にである。
授業の時だけでなく、定期テストの最後に「Let's Make a Dialogue」という問題として、毎回出題した。配点を5点とすると、一応、スペル、文法に誤りなく書けておれば3点。あと、内容がおもしろければ、1点もしくは2点をプラスするという要領。毎回、テストを返すときに、よく出来ている解答を10編ほど選んで、「Best Dialogues」というプリントに印刷して全員に配った。その時の記録がパソコンの奥の方に残っていたので、いくらか紹介する。
A: Who is that man standing in front of your house?
B: Maybe he is waiting for his girl friend. (たぶん、ガールフレンドを待ってるんだろうよ)
A: Why do you know that? (なんでそんなこと知ってるんだ?)
B: Because his girl friend is my big sister. I know him very much. (彼のガールフレンドはぼくの姉貴なんだ。だから彼のことはよく知ってるんだよ)
A: Who is that man standing in front of your house? B: That man? No one is standing there. (あの男? だれも立っていないよ)
A: Really? I surely saw a man standing there. (ほんと? たしかに男が立っているのを見たんだけど)
B: I can't see any person. I think you saw a ghost. (だれも見えないよ。幽霊を見たんだよ)
A: Who is that man standing in front of your house?
B: I don't know. I've never seen him. He wears black suits and dark glasses. He seems to be a very dangerous person. (知らない。見たこともない人だよ。黒い服を着て、黒メガネをかけてるね。とてもヤバイ奴みたいだ)
A: Maybe he is a robber. Oh, he is opening the door. We must shout! Oh no! He comes running to us. We may be killed by him! (たぶん強盗だ。ドアを開けている。大声を出さなきゃあ。あ、こっちに走ってきた。殺されるかもしれないよ)
B: Oh, don't worry! I've found who he is. He is my uncle. (心配無用だ。だれだか判ったよ。ぼくのおじさんだ)
いずれも「5点」を取った「作品」である。
この企画はけっこう好評で、みんなおもしろがって競い合い、この授業の目玉となった。のちに、高校で英作文を担当したときも試してみたが、その時も好評だった。与えられた日本語を英訳するだけでなく、いくらかでも自分の「創作欲」を満たすことができる、そんな機会が学校では珍しかったからだろう。
ところで、授業で使う教科書は6年間持ち上がっていくメインの教師が選ぶことになっていた。前の廻りでは初めてだったので、あまり考えずに上の学年のそれに倣ってきたのだが、今回はじっくりと選んでみようと思った。
中学の教科書は種類が少なく、その程度もほとんど変わらないが、高校の教科書は種類が多く、高校の多様性に対応するように、その形式やレベルにはいろいろなものがあった。
教科書専門の出版社もあれば、参考書や問題集を出している出版社、さらに一般の書籍もたくさん出している出版社など、数多くの会社から次々と見本が送られてきて、それらに目を通すのは大変な作業であったが、おもしろくもあった。そんな中、私はこの分野では新興の出版社の、ある「リーダー」の教科書に注目した。そこには、「ビートルズ」がとりあげられていたのである。
1980年代初頭だったので、ビートルズが解散して10数年、あのジョン・レノンが非業の最期を遂げた直後の頃で、教科書にビートルズが載ったのを目にしたのは初めてだった。
内容は、ビートルズの結成から解散、そして現在までを略述した、ごくありふれたものだったが、ビートルズの大ファンを自任するものとしては無視することができなかった。教えている生徒にとっては少しレベルが易しいきらいはあったが、私は敢えて採択した。そして、いよいよビートルズの章となったとき、私はある企画を実行した。
ただ、文章だけでビートルズの興隆の推移をたどるだけでは物足りないので、どんな音楽だったのか、実際に聴かせてみよう、それも、ビートルズだけではなく、ビートルズが影響を受けたそれまでのロックンロール、そして、ビートルズと同時代の音楽などもじっくり聴かせてみよう。そのために、特別に1回の授業時間を潰して、日頃は滅多に使わないLL教室に生徒を入れ、「音楽コンサート」をしたのであった。
まずは、ロックンロールの最初のヒット曲、ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」から始まって、ビートルズもカバーしている、チャック・ベリーの「ロールオーバー・ベートーベン」「ロックンロール・ミュージック」、そして、エルビス・プレスリー、ザ・ローリング・ストーンズ、ボブ・ディランなどの曲を、ビートルズの代表曲に交えて、次々と流した。
もちろん、そのすべての曲の歌詞はプリントして生徒に配り、LL教室なので、各自の机にはテープレコーダーがついていて、そこに、各自持参したカセットテープを入れると、生徒たちもそれらを録音することができるようになっていた。
この異例の授業の反響はどうであったか。その準備と実施にあまりにも熱中してた私は、それをしっかりと把握することはできなかった。ただ、生徒たちが退屈や反発をしていなかったのは確かだが、私ほど熱狂していたようにも思えなかった。この授業のおかげでビートルズのファンになったという声も聴いた憶えはあまりなかった。とにかく、私のハメを外した授業ぶりに唖然としていたのかもしれない。
余談になるが、それから30年ほど経って、今度は、オノ・ヨーコが英語教科書に登場した。ビートルズのメンバー、ジョン・レノンの奥さんである。そのことを話題にしたものではなく、オノ・ヨーコの本領である、彼女の「芸術活動」についてであった。
その中に、幼少期、太平洋戦争で田舎に疎開していたときのこと、まだ幼い弟が空腹に耐えかねて、泣き出したので、いろんなお菓子やご馳走の名前を挙げて、それを「思い浮かべてごらん」というと、眼を閉じた幼い弟の顔に笑顔が浮かんだ、というエピソードがあった。
これって、あの「イマジン」じゃないか。 Imagine there's no heaven. No hell bellow us. (天国なんてないって、思い浮かべてごらん。地下にも地獄なんてないって) と同じ発想じゃないか。
調べてみると、ジョン・レノンは、ヨーコが書いたそのような発想の詩を参考にしたと、生前語っていたそうだ。そして、2017年に、この名曲がふたりの共作であると認定されたとのことだった。
この学年にB君という生徒がいた。中学のころから英語が好きで、教室の一番前に座って、いつもニコニコと、私の話にいちいち頷いてくれて、それはそれは大きな励ましとなった。私が授業中ちょっとしたミスをすると、トントンと背中をたたいて、こっそりと教えてくれたこともよくあった。6年間で担任をしたことはなかったが、ずっと英語を教え続け、いわば「英語の愛弟子」のような存在だった。
彼は卒業後、大学では法学部に進んだのだが、好きな英語を捨てきれず、英語の教員免許を取るために、4回生の時に教育実習にやって来た。そこで久しぶりに再会した彼と昔話をしたり、現況を聴いたりしたのだが、彼は、今でもNHKのラジオ講座を聴いていると知って驚いた。
なんでも、中1の「基礎英語」、中2の「続基礎英語」を授業でやったあと、その次の段階の「英語会話」という番組をずっと聴いていたとのこと。さらに、大学に入ってからは、その次の、最高レベルと云われる「やさしいビジネス英語」を聴きはじめ、それは現在まで続いていて、おかげで、大学のアメリカ人の先生ともナチュラル・スピードで自由に会話できるようになっているとのことだった。
ラジオ講座だけで、英語がペラペラになるとは、まさに「NHKの優等生」そのものだったが、また、彼は、中1の時に彼に「基礎英語」を与えたあのA先生の隠れた「一番弟子」でもあったのだ。
B君は、教員免許を取得すると、すぐに母校の非常勤講師に採用され、そして、数年後には専任の教諭となった。そんな彼が、ある時、リーダーの教科書に出てきた「シャーロック・ホームズ」の物語になぜか嵌まり、教科書にあった以外のホームズの短編を何編かプリントにして読ませたり、そのころテレビで放送されていたホームズのドラマを録画して、LL教室で生徒に見せたりしたのである。
その結果、その熱意に打たれたのか、あるクラスでは、文化祭でホームズの短編を脚色して上演し、大いに拍手喝采を浴びるということもあった。そんなB君、今やB先生の「ホームズ狂い」を見て、私はかつての自分の「ビートルズ狂い」を思い起こさざるをえなかった。恥ずかしくて、本人に確かめることはなかったが、あの時の私の「ビートルズの授業」の影響が思いがけなくもこんなところに顕れているのかな、とも思った。
このB君もいた学年を6年間持ち上がったあと、私は希望して、高校生ばかりを持つようになった。そうなると、途中からの参入なので、英語ではサブの立場となって、「リーダー」ではなくて、その頃は「グラマー(英文法)」から変わった「コンポジション(英作文)」を担当することが多くなった。
英作文は、それ以前は「英文法」の各章の練習問題の最後に、おまけのように「和文英訳問題」が付いているだけだった。しかし、それだけでは大学入試の英作文には対応できないので、私の高校生の頃から、教科書以外に、英作文の問題集を持たされて、それを教科書代わりに授業で使っていたのを憶えている。それがいよいよ、検定教科書でも独立することになったのだ。そして、「英文法」は「リーダー」の各章末に「この章の文法事項」というかたちでまとめられることになった。
独立したとはいえ、「コンポジション」の検定教科書を見てみると、やはり「文法事項」別に配列されていて、それまでの「グラマー」の教科書を衣替えしただけのようなものばかりだった。これはつまらないな、と思っていたところ、文英堂という教科書出版では後発の会社が「トピック別」という配列でまとめた『ユニコーン・コンポジション』という教科書を出しているのを見つけた。
「学校生活」「旅行」「食事」「動物」などといった項目別に章立てをし、それに関連した例文を集めるとともに、使われている語法や文法も、徐々に難しくなっていくようにうまく配列されていて、これなら生徒も興味を持ってくれるだろうと採択した。
この「トピック別」というのはヒットしたようで、検定教科書でもその後、その方式を採用する出版社がいくつか出てきたが、問題集の世界では、「英作文」だけではなく「読解問題集」でも、過去の入試問題をその「内容別」に分類し、語法や文法的なこと以上に、その内容についてたっぷりと蘊蓄(うんちく)を傾けた解説を載せたようなものさえ現れはじめた。
ところで、ある年、高3生を送り出したあと、久しぶりに中学に下りることになった。中学2年で、そこにはあのB先生がいた。
中学の入門期の英語の教え方は難しい。「辞書」の使い方をどう教えるかもそのひとつだった。
中学に入学したとき、生徒がよく持っていたのは、小学校の卒業記念にもらったという、中学生向きの「初級の英和辞典」だった。出版社によって、いくつも種類があり、授業中にそれらを使って、単語調べをさせるのだが、辞書によって、書いてあることが違うので、教えにくかった。また、中学の教科書には、巻末に、各章の「新出単語」がピックアップされ、その意味が書いているので、わざわざ辞書を引かなくても、それで十分、間にあった。
中1では、そんなことがいろいろ入り交じってかたちで「辞書指導」をしていたのだが、中2になると、ぼつぼつ「初級の英和辞典」は卒業して、「大人向けの英和辞典」に切り替えていかなければならない。その時、どんな辞書を買えばいいのか。どんな辞書を推薦すればいいのか。
これまで、そこが曖昧になっていたので、生徒は各自、本屋で好きな辞書を見つけて買っていた。中には辞書を持たずに、教科書の「虎の巻」を買ってきて、それで間に合わせている者もいた。こんなことでは、とてもきちんとした「辞書指導」などできない。
ただ、その学年が中1から使っていた教科書では、巻末の「単語リスト」に工夫が加えられていた。それまで、品詞名とその場合の意味しか書かれていなかったのが、まるで、辞書の一部を切り取ったみたいに、いろんな語義と例文も載せられていて、ちょうど、辞書を引いているのと同じような体験ができるようになっていた。それは、生徒にも教師にもなかなか便利なものだった。そして、「辞書指導」に関して、ふとある考えが浮かんだ。
教科書巻末の辞書風の単語リストをみんなでいっしょに見るのが効果的なら、辞書も同じようにみんないっしょに見られるように、みんな同じ辞書を持てばよいのではないか。問題集や参考書を買わせるように、辞書も指定のものを買わせて、それを教材として授業で使えばよいのではないか、と思ったのである。
ただ、辞書はけっこう重たいものなので、毎日学校に持ってくるのは負担である。面倒がって、授業中持っていない生徒がたくさんいたりすると、授業では使えない。そこで、学校でまとめて購入する辞書は「学校用」として、家に持って帰らずに、学校にある個人ロッカーに置いておくことにし、家で勉強するときには、もう1冊同じ辞書を買って、「家庭用」とすればよいのではないか。
さっそくB先生に相談すると大賛成してくれた。辞書は、その頃、語義の説明が分かりやすいので評判だった、学習研究社の「スーパーアンカー英和辞典」にしようと2人で相談して決めた。
同じ辞書を2冊も買うのはムダみたいだが、当時、辞書は1冊2000円未満で、塾だの、家庭教師だのの高い出費と比べれば、それで英語の実力がいくらかでも増進するならば安いものではないか。
お金のことだから、親にもしっかり理解してほしいと、ちょうど開かれた1学期の「保護者集会」でB先生はそのような熱弁を振るった。
さて、授業で使ってみると、やはりそれは便利だった。教科書に出てくる新しい単語をいちいち黒板に書いて説明しなくとも、みんないっしょにスーパーアンカー英和辞典を引いて、そこを読めばよかった。一度引いた単語は必ず、その「見出し語」と、そのときに使った意味のところを鉛筆でアンダーラインさせるようにした。「いちど引いた単語は、また、かならず二度、三度と引くことになる。アンダーラインしておけば、その時にすぐに見つかって、時間の節約になるぞ」
新出か否かに関わらず、すこしでも分かりづらいことばが出てくれば、すぐに「スーパーアンカーしよう」と呼びかけて、みんなでいっしょに引いた。そして、その時の語義以外の意味もついでに目を通し、例文も読んで、時にはそれをコーラス・リーディングしたりもした。「スーパーアンカーする」という動詞が英語の時間の流行語にさえなった。
その1年後ぐらいだったか、「ワード・バイ・ワード・イラスト辞典」という本を大手書店の洋書売り場で見つけた。米国製のものに日本語訳をつけた「日本版」で、各ページ見開きに「教室」とか「台所」とか「公園」「スーパーマーケット」「街角」などのイラストが大きく載っていて、その中のいろいろな「事物」に番号がふられて、その名称が下に英語で書かれていた。
そんなに難しい言葉ではなかったが、身の回りにありながら、あまり教科書などには出てこない単語が多かったので、さっそく購入して、B先生に見せてみた。すると、B先生もとてもおもしろがって、なんとか授業で使えないだろうか、ということになり、いろいろ考えた末、授業時間ではなく、宿題の教材として、範囲を決めて、毎週、その確認の小テストをするということになった。名づけて「生活英単語」。
小テストは、テキストのイラスト画を縮小コピーし、その指定された事物に当てはまる英単語を下の選択肢から選ぶ問題と、他に、英語を日本語に、また日本語を英語にする問題も混ぜて、30問つくった。そして、それぞれ違う時間にテストするのだから、同じ問題では都合が悪かろうと、面倒だが、その当時のクラス数の5種類の問題をつくって、毎週、小テストを実施した。
そこまで厳密にやっているなら、生徒たちを競わせてみたら、とB先生が提案し、各学期ごとに、その成績を集計して、上位者に、ボールペンなどのささやかな賞品を、ふたりのポケットマネーで与えたりした。
この「生活英単語」は1年近くかかって、その1冊をやり終えたのだが、はたしてその効果はあったのだろうか。それは思いがけないところから現れた。
その翌年、高校1年の希望者に、夏休み、オーストラリアに1週間ほど「ホームステイ」留学をする行事が試験的に行われ、英会話に堪能なB先生らが引率していったのだが、そこから帰って来た生徒たちが口々に云ったのが「生活英単語が役に立ちました」だった。
高校3年を担当すると、当然「受験対策」の授業となる。私は専らサブで入っていたので、「センター試験対策」を担当することが多かった。そこで、過去のセンター試験の問題を、前身の「共通一次試験」のも含めて、文章問題を除いた「小さな問題」をすべて、パソコンのデータベースに打ち込み、問題別、文法事項別などに分類し、それらを編集したプリントを作成して生徒たちにやらせていた。
宿題にして、学校ではその答えあわせと解説だけをすれば、たくさんの問題演習を効率的に済ませることができるのだが、その場合、どうしても、家でやってこない生徒が出てくる。生徒の方も英語だけやっていればいいわけはなく、他の教科の勉強もしなければならないので、一概にサボっていると非難することもできない。そこで、配ったプリントはすぐに授業中にやらせて、そのあとで答えあわせと解説をすることにした。こうすると、「宿題システム」の半分しか消化できないが、全員もれなく演習させることができる。こういうやり方は、予備校などで「テストゼミ形式」と呼ばれているそうだった。
ただ私は、生徒たちの「出来具合」をしっかりと把握したかったので、もう一工夫した。すぐに答え合わせをせずに、いったん回収することにした。といっても、それは小さな別紙にした「解答用紙」だけで、問題用紙は生徒の手許にある。そうすると、あとですぐに辞書を引いて、気になるところを確認する生徒もいることだろう。
回収した「解答」は、「マークシート形式」なので、すべて1~4の四択になっている。だから、生徒全員のそれぞれの解答をパソコンの「表計算ソフト」に入力するのはそんなに手間ではなかった。すると、生徒たちが何番に解答したか、その実数や正答率が瞬時に出てくる。次の時間に「解答用紙」を返却して、答え合わせをするとき、そのデータを知らせてやると、生徒たちの目が輝き、歓声やら溜め息やらが漏れた。出来具合を把握しておくと、解説にコントラストもつけることができて、とてもやり易かった。
ところで、1993年のセンター試験に次のような問題が出題された。
I'll be surprised ( ) an accident. He drives too fast.
(1) if Tom doesn't have
(2) if Tom has
(3) unless Tom doesn't have
(4) unless Tom has
正解は (1) である。「トムが事故を起こさなければ驚きだ。いつもスピードを出しすぎているから」という意味となる。(2)ならば、「トムが事故を起こせば」となって、意味が通らない。
問題となったのは、(4)である。これも「トムが事故を起こさなければ」となって、正解ではないのか。なぜならば、辞書で unless を引くと、「もし~でなければ、(= if ~ not)」と書いてあるから。
これは「事件」だった。
実は、unless は if ~ not よりも、「強い例外条件」を表して、英語で言い換えれば except if 、すなわち「~である場合を除いては、~しない限り」という意味になる。
とすると、(4)は「トムが事故を起こす場合を除いては(起こさない限り)驚きだ」という意味になり、トムが事故を起こす場合以外はいつも驚いている、ということになってしまって、おかしいことなる。
今では、どの辞書にもこのような説明が明記されているが、当時、そう書かれている辞書や参考書は、私たちが知る限りほぼ皆無だった。各出版社が慌てふためいて、その箇所を訂正した新しい版を出版したのは、云うまでもない。
のちに知れたことだが、unless がそういう意味であることは、もちろん専門家たちは知悉していた。なのに、だれも、辞書や参考書の記述の間違いに気がつかなかったのだろうか。気がついていたのに黙っていたのだろうか。出版社に知らせたけれども無視されたのだろうか。
それにしても、日本を代表する錚々たる英和辞典が揃いも揃って同じ間違いをするなんて... どの編纂者も、ろくにチェックせずに、「子引き孫引き」をしてきたのだろうか。私たちがそれまで盲信してきた「日本の英語学」の底の浅さを見せつけられたような気がした。
もしかすると、このような「盲点」が他にも存在するかもしれないと思いはじめた頃、学校に来ている日本語の達者なネイティヴの先生から、「if not」の意味について、興味深い話を聴いた。 if not には「perhaps even ことによるといっそう~」という意味があるというのだ。
例えば、The news is accurate in many, if not most, respects. の意味は「そのニュースはほとんどではないにしても(少なくとも)多くの点で正確だ」ではなくて、「そのニュースは多くの点で、ことによると、ほとんどの点で正確だ」が正しい、というのである。
そこで、私はそこに焦点を当てた問題をつくってみた。
We have 20 million yen ( ) our new house in this city, because it will cost as much as, if not over, 20 million yen.
1. and we'll be able to buy
2. and we've decided to build
3. but we're engaged in buying
4. but we've given up the idea of building
さて、正解は何番だろうか。この項に関して当時作成した説明プリントが残っているので、「別紙1」として、添付しておくので、気になる人は読んでみてほしい。
また、その頃、語学春秋社というところから、予備校などの講義をそのまま本にした「実況中継シリーズ」という参考書が出ていた。その中で、山口俊治というひとの『英文法講義の実況中継』がおもしろいと評判なので、買って読んでみた。すると、これまで、よく解らないまま、何となく丸憶えしていた文法事項が、実にうまく、解りやすく解説されているのに驚いた。例えば、「比較級の否定文」の項で、次の2文の意味はどう違うだろうか?
I am not stronger than my brother.
I am no stronger than my brother.
これについても、当時作成した説明プリントがある。「別紙2」として添付しておくので、ごらんになってほしい。
さて、サブの立場ではあったが、「センター対策」以外に、「二次試験対策」の授業を持つこともあった。
数学が「理科系」の学力を測る指標だとすれば、「文科系」の学力を測るのは英語だという話をどこかで聴いたことがある。なるほど、英語の試験は、外国語の能力だけではなく、日本語の能力をも確かめるものである。
「英文和訳」では、英語の読解力だけではなく、それを日本語で書きあらわす能力も必要だし、「和文英訳」は、英語の表現力以前に、問題文の日本語をしっかりと読解できていなければ話にならない。実は、なかば日本語の試験なのである。
「和文英訳」の授業では、ふつう、生徒を指名して、黒板に英訳文を書かせ、それを添削する、という方法を用いる。私は、英語の語彙や語句の持ち合わせが少なかったので、あらかじめ、いろんな解答を予測して、それに見合った「代替表現」を準備しておかねばならなかった。
「英文和訳」は、生徒に口頭で答えさせ、それを口頭で添削するのが普通だが、私は、この和訳文も黒板に書かせることにした。それも、設問になっている「下線部」だけではなく、全文を。その問題文全文をあらかじめいくらかに区切って、何人かの生徒に当てておき、授業が始まる前の休み時間に黒板に書かせておくことにした。そして、それを授業中、ゆっくりと添削するのである。英語と違って、日本語なら、事前の「仕込み」をしておかなくても、その場その場で代替の表現がいくつも浮かんできた。英語の時間に、日本語を直してもらうというのも珍しいことだったので、生徒にはけっこう新鮮に思えたようである。
「文科系の学力」を判定する「英文和訳」や「和文英訳」は、関西の国公立大学の入試では主流だったが、私学や、東京方面の国公立大学は、難しい英語をじっくり読ませるよりも、よりたくさんの量の英語を速く読ませる方に主眼をおいているようだった。単に語学としての英語の力を鍛えるにはたしかにその方が理に叶っているかもしれないし、「実用的」でもあるので、無視できないことだった。
私は、大学時代に英語や英米文学を専攻していなかったので、とにかく、英語を読む分量が決定的に欠けていた。教師になってからもそれが気になって、ペーパーバックを買ってきて読もうとしたりしたが、途中で挫折するばかりだった。結局、授業で教えなければならない英文を「精読」することで精一杯だったのである。
これではいかんな、と思っていたとき、ある英字新聞の見本紙をもらった。読売新聞社が発行していた「Daily Yomiuri」である。当時はたしか、8ページで、月の購読料が1000円だった。どうせたくさん読めないのだから、8ページもあれば十分で、1000円ならばムダ金になったとしても惜しくはない。ためらわず、定期購読することにした。
そして、毎朝、通勤電車の中でウトウトしながら英字新聞を開いた。知らない単語はたくさんあったが、すでに知っている事件ならすぐに想像がついて、思ったよりもすいすい読める気がした。1日少なくとも1つの記事は読み、余力があれば他の記事も読むが、日が変われば、次の日の新聞を開いて、前の日の新聞は、捨てはしないが、二度と見ないようにした。
20年以上は続いただろうか。ともかく、教師という職業を辞めるまで英字新聞を購読し続けた。その間に、ページ数は倍増し、購読料も2000円を超えるようになった。ただ、英語がわずかながらも、日常の一部となり、また、そこで読んだ英文をコピーして授業で使ったり、試験に出題したりして、それなりの利用価値はあった。
紙面の中に、唯一日本語の記事があった。それは週1回の「時事英作文コンテスト」というもので、日本語の記事や論説文を英語に訳して、応募するものだった。それは、なかなかおもしろい連載だったが、英作文が苦手だった私には無縁なものでもあった。
ところが、途中から、「Translate This」というタイトルの、英文記事を和訳するコンテストも始まった。英訳ではなく、和訳なら何とかなるかもしれないと、試しに応募してみた。すると、驚いたことに、いきなり「最優秀賞」に入選したのである。その記事のコピーは、今でも大切に保存している。「別紙3」がそれである。
気をよくして投稿を続けていくと、その次の次の週には「優秀賞」、さらにその後、断続的に「佳作」を5回受賞した。英語に関することで、こんなにも栄誉を受けたのは思いもかけないことだった。ただ、そのあとは、応募者が増加してレベルが上がってきたのか、佳作にも入らなくなってしまったので、いつの間にか応募はやめていた。でも、とにかく、何らかの自信となったのは確かである。
60才になり、定年で専任教諭を退いたあと、非常勤講師としてもうしばらく勤めることになった。担当は中学3年の「英文法」である。
中学の教科書はすでに終わっていたので、英語は高校教科書の「リーダー」と二本立てになっていたが、「英文法」の検定教科書はもはやなくなっているので市販の問題集を使っていた。そして、この頃には、この「英文法」の習得を徹底化するために「習熟度別クラス」という体制を取るようになっていた。
つまり、中2の最後の学年末試験の成績で、40数名のクラスの上位25名を「発展クラス」、残りの20名弱を「標準クラス」の2つに分け、その後、「中間」「期末」の試験ごとに、「発展」の下位5名と「標準」の上位5名が入れ替わることになっていた。私は、その「標準」クラスを担当した。
「標準」クラスは、ホームルームを出て、普通教室の半分ほどの大きさの「小会議室」のような部屋に移る。そこには、長机が並べられ、黒板も備え付けられていた。
このクラスに来る生徒に欠けているのは「几帳面さ」「ていねいさ」「持続力」だと思ったので、まず、文法事項の説明をするとき、問題集に付いている簡単な「まとめ」ではなくて、あらたにプリントをつくって、そこの空白に重要事項を記入させることにした。かつて、「続基礎英語」をやったときの手法である。そのプリントの原稿が残っていたので「別紙4」として、添付しておく。
このプリントを用いた説明が済んでから、問題集の問題に取りかかる。順番に当てて、答えさせるのだが、宿題にはせず、その場で答えさせたが、たとえ、記号の解答であっても、口頭ではなく、黒板に書かせることにした。その方が、正解が徹底できるからである。
そして、1章が終わるごとに、そこにあった問題をピックアップし、ときには、すこしアレンジを加えた問題で「小テスト」をした。その結果が、70%に満たないときは、放課後に残して「再テスト」をした。その「再テスト」をクリアすると、何点か加点をした。「小テスト」の成績は、学期の成績に反映させた。
また、中間、期末テストのあとには、必ず、その時間いっぱいを使って「テスト直し」をさせた。罫線だけを印刷した用紙を配り、間違った問題を、問題文の英語とその訳を3回ずつ筆記させた。この別名「写経」と呼ばれた「テスト直し」を済ませると、失点分の20%を還元して、学期成績に反映させることにした。例えば、得点が60点の場合、失点の40点の20%、すなわち8点が加わって、68点となる。20点ならば、80点の20%の16点が還元されて、36点になるというように。そうやって、彼らのモチベーションを刺激した。
この中3の「標準」クラスの仕事は、完全引退するまで6年間続けた。この小さな部屋は私にとってホームグランドのようになり、できるだけ和気あいあいとした雰囲気を保つように努めた。テスト結果がよくて「発展」に上がった生徒が、また「標準」に戻ってきて、「やっぱりこっちの方が居心地がええわ」というのを聴くと、それはあかんやろ、と思いながらも、内心、うれしくもあり、複雑な気持ちだった。
こうして、通算、40年にも及んだ私の「英語教師」人生も幕を閉じたのだが、それにしても、あまり得意でもなかった教科の教師の仕事、よく持ったものだと思う。しかし、一方、得意ではないと自覚していたからこそ、いろいろな「工夫」が生まれてきたのかもしれない。それらを、その時の生徒たちはどう受けとめていたであろうか。功罪なかば、反面教師だったところも多々あったかもしれないが、英語は他の先生方にも習っただろうから、そちらの方で補ってもらえていれば幸甚である。
(完)
【自註】
『北海道』『受験』と続いてきた「高校教師シリーズ」も、いよいよ核心となる「授業」の話へとたどり着いた。
実は、このテーマは私にとって、あまり自信のないところで、できれば避けて通りたかったぐらいだが、そうも云っておれず、肚を括って、いろいろ記憶を掘り起こしてみると、満更でもないような気もして、そんな「錯覚」に後押しされながら何とか書き進めることができた。
書いていくにつれて、いろんな資料を渉猟したくなったが、職を完全に退いて十数年ともなれば、手許には何も残っていない。これまで使っていた教科書や参考書、問題集など置いておけばなあ、と思ったが、後の祭り。1993年頃の「英和辞典」など、欠陥品め、と忌ま忌ましく処分してしまったが、いまや、「貴重な歴史的資料」かもしれない。
そんなこと云っても、置いておく場所もない陋屋の悲しさ、不毛の悔恨にすぎない。頭の片隅と、パソコンの奥底に残っていたものだけで、これだけの分量の物語が書けただけでも諒とすべきかもしれない。
(2025.04.18)