私学の時代2


付録『各論篇: 高槻中学・高等学校の場合』



 最後に、本校(=高槻中学・高等学校)との関わりについてすこし触れておきたい。

 これまで本校の入学者のおもな供給源となってきたのは、京都府、兵庫県、高槻市の三つである。このいずれにも、『小学区制』『総合選抜制』『地元集中受験』という、公立高校の受験の「自由競争」を制限する制度や運動が存在し、いわば、本校はそれに飽き足らない受験生(およびその保護者)を得意先としてきた。さらに他の私立中学と試験日をずらすことによって、京都や兵庫の有名私立中学の受験に失敗した者の「受け皿」としての役割をも担ってきた。この二つが長年本校が毎年安定した入学者を確保してきた基盤であって、これは例えば、同じ大阪府の私学でありながら星光学園が大阪市内の真ん中にあるため、公立進学校全盛の時代には長らくその併願校に甘んじなければならなかったのと比べると、大いに地の利を得たものであったといえる。

 1970年代末からの「第二次私学ブーム」は本校にも僥倖となった。志願者競争率がそれまでせいぜい2~3倍であったのが、たちまち5倍を超えるようになった。しかし、それと同時に合格者の入学辞退の数も増え、それまでの、辞退者を見込んだ合格者数を発表する方式は不可能となり、補欠合格制度をとらざるを得なくなった。また、中学卒業後に他の高校に転出する者の転出希望先が、それまでの公立進学校から他の私立進学校にと変化してきた。これは増えてきた私立進学校同士も「自由競争」の坩堝の中に投げ込まれるようになったからだと考えられる。

 大阪の私学はもともと高校が中心で、そのほとんどが公立高校の併願校、あるいは「受け皿校」であった。中学を併設するところはまれで、そこに通う生徒は特別にその学校に愛着を持つ者に限られていたといってよい。そんな中で、兵庫・京都型の六年一貫の私立進学校という本校の存在は、大阪の私学としてユニークなものであった。

 これは先に述べた「地の利」によるものであったが、他方、私立中学の「受け皿校」として、兵庫・京都型の私立進学校とも異なる性格を持っていた。つまり、本校は大阪の私学のような〈大衆型〉の性格と、兵庫・京都型の、上澄みだけを掬った〈精鋭型〉の性格を合せ持つ、もっと正確にいえば、〈精鋭型〉を目指しつつも現実には〈大衆型〉であることも否定できないという、はなはだ矛盾した性格を強いられてきたのである。

 そしてそれを克服するため、本校は具体的には、“私立進学校的なカリキュラム”を“公立進学校的な精神”で実施するというやり方をとってきたといえるだろう。しかし、そこには方法論的な自覚が欠如していたためもあって、生徒にも教師にも何か飽き足らない思いが付きまとい、また公立進学校の衰退によってその“公立的精神”が衰えるとともに、ますます自分自身のアイデンティティを見失っていったのも事実である。

 だから、「第二次私学ブーム」で、本校の志願者が飛躍的に増大した時期は、本校の抱えるそのような困難な性格を解消する絶好の機会であったともいえよう。その時に、合格者を思い切って絞りきることによって一気に純粋の〈精鋭型〉に切り替えることが可能であったかもしれないからだ。

 しかし実際にとられたのは、大阪府の「第二次ベビーブーム」による生徒増対策に協力するということで、クラス数やクラス定員を増やし、また補欠入学や「高校若干名募集」を利用してその定員を目一杯に活用することであった。つまり本校はその時点ではっきりと〈大衆型〉の道を選んだのであった。

 しかし、これは学校経営という視点から見れば、あながち悪いこととはいえない。たとえ完全〈精鋭型〉の私学になっても、だからといって特別高い授業料を取れるわけでもなく、また、「上澄み」として掬いとる生徒にも数に限りがあり、その小さいパイの熾烈な争奪戦に新規に割り込んでいくよりも、はるかに厚い「すこし濁った」層を相手にするこれまでの手慣れたやり方を続けたほうが得策だと判断するのも、経営者としてのひとつの見識であろう。

 それまで、それなりに順調にやってきた事業を大きく転進させるということはなかなかできることではない。そして、その結果、時代の流れから取り残されるということもよくある。しかし、本校の場合、それには当たらなかったであろう。これまで利点となってきた立地条件が今度はマイナスに働いたのだ。つまり、本校の地盤となっている阪急沿線は私立進学校の市場としてはかなり成熟し切っており、それが、改めて試験日を同一にして、小さくなった「パイ争い」に割り込むのを困難にしていたからである。

 「高度成長」開始以来、都市のドーナツ化現象が起こって、中産階級のサラリーマン層(すなわち学歴しか頼るものがなく、最も教育熱心な層)が大量に大阪郊外のベッドタウンに住むようになったが、その時まず最初に開発されたのが阪急沿線を中心とした大阪府北部であった。その後、宅地開発の波は近鉄沿線に沿って奈良県にまでおよび、また近鉄京都線沿いの宅地化も急速に進んだ。今後は、まだ開発の余地があり、また新空港開港に向けてさらに拍車がかかりそうな大阪府南部がその焦点になるといわれている。

 ところで、このような中産サラリーマン層の分布状況はそのままその地域の進学状況に反映されてくる。ちなみに学区制によってその地域性が明白となっている大阪の公立高校のそれを見れば一目瞭然である。すなわち、中産サラリーマン層が多く住む郊外型住宅地域を抱える北野、茨木、四条畷、三国丘などは大学進学成績においてまだかつての栄光のなごりを留めているが、大阪市内の下町が地盤の大手前、高津、天王寺などはその凋落が著しい。

 そして、「第二次私学ブーム」に乗って進学校として大躍進した、洛南、東大寺、星光などはいずれも急激に中産サラリーマン層が増加した地域を背景にしていたといえるだろう。(星光の場合は大阪市内を学区とする公立進学校の凋落という要素も付け加わってくる)

 奈良県や大阪府南部などは、供給がまだまだ増大しそうな需要に追いつかない状況なので、こういう地域ならば〈精鋭型〉進学校としての新規参入が可能かもしれない。しかし、本校が地盤とする大阪府北部は住宅地としては「代替わり」するほどの年月を経ており、住民は老齢化して、進学熱も以前から見れば下降気味だと考えられる。だから、もし10年前に本校が完全〈精鋭型〉への転進を図ったとしても、そう思い通りにはいかなかったような気がする。

 ともかく、270人という関西地区の私立中学では最大の募集人員を誇る本校が、質的にバラエティのある生徒を受け入れている〈大衆型〉であることは紛れもない事実である。にもかかわらず、その事実が無視され、強引に〈精鋭型〉に転換しようとしているところに本校の現在の混乱の原因があるといえるかもしれない。 

 本校はこれまで、その性格が曖昧だとかなんとか言われながらも、それなりの成果を挙げて無事多数の卒業生を送り出してきた。我々にはその間に培った本校独自のさまざまなノウハウの蓄積があるはずである。そこにはかつて「自由」だとか「面倒見がよい」とかの言葉で抽象的に表現されてきたものも含まれるであろう。しかしそれらも最近はあまり評価されず、また方法論的無自覚のうちにその場限りに終わって、後々まで伝えられることもなく埋もれてしまいがちなのは残念なことである。

 これらのノウハウをいま一度陽の目に当て、あらためて方法論的に再構築することが現在最も必要とされることではないだろうか。そうすることによって、本校がその誇りとアイデンティティを取り戻すとともに、さらに、私立進学校がワンパターン的に目指す〈精鋭型〉とはひと味違う〈大衆型進学校〉とでもいうべき方式をあらたに創造することができれば、それは「私学の時代」において更に新しい地平を切り開く、歴史的な意義を持つものとなることであろう。


(初出誌:「雑想」第3号 1991年10月。

前掲の『私学の時代?』の最後に掲載されていた)


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