北海道2



北海道2





 通算して、6回目の北海道旅行に行ったのは、あの丙午(ひのえうま)の学年の修学旅行から4年後のことであった。この前と比べると、ずいぶんと間隔が縮まったが、それには次のような理由がある。

 私の所属する英語科や、その他、国語科、数学科、体育科には、ある学年に特定された「専門科目」というものがないので、中高6年一貫のこの学校では、6年単位でグルグル廻るのが普通だった。そして、英語科の場合は、高3を終えて中1に戻った教師は、中1を2回繰り返してから、上の学年へ持ち上がっていくことになっていた。

 しかし、その循環を2回経験した私は、このへんですこし気分を換えてみたいと思いはじめていた。ちょうどクラスの数が増えて、英語の授業も「専任教諭1名・非常勤講師1名」という体制から、「専任教諭2名」というようになっていたので、うち1人は必ずしも6年連続で持ち上がらなくてもよいようになっていた。そこで、1年間、中1を教えたあと、うまい具合に新しい高1に空きがあるのを見つけて、なんとかそこに潜り込むのに成功した。

 6年ずつの持ち上がりを5~6回繰り返して定年を迎えるという教師人生に、なにか「飽き」のようなものを感じていたこともあるが、教師生活も10年を超えると、いつまでも「若手」として大目に見られることもなくなり、何らかの「強み」を持っていないと、このあとの「中堅」としての仕事に差し支えが生まれるのではないかという懸念と予感を抱きはじめていた。

 担当する英語の授業で、生徒の絶対的な信頼を得るという自信があればいうことはないのだが、もともと「でもしか教師」で、付け焼き刃した学識しか持ち合わせておらず、いまさら研修を重ねても追いつかないのは自覚していた。そこで目をつけたのが、授業ではなくて、「校務分掌」でそれまで2回経験して、少しは手応えを感じていた、大学への進学、つまり「進路指導」の仕事だった。

 当時のこの学校は、大抵の教師が6年間持ち上がっていく「学年団」単位で、授業以外のことも動いていく傾向にあった。そのため、学年によって、まったく「指導のカラー」が異なり、同じ学校でありながら、まるで校内に6つの「全然ちがう学校」があるみたいだ、という批判もあれば、一方、「現場」をいちばんよく知る者がそれにいちばん合ったやり方をするのだから良いことではないか、と評価する声もあった。

 高3の「進路指導」に関しても、各担任が学年団の中で相談して、取り組んでいたが、6年に1回の経験では最新の情報には疎くなる。そこで、各学年から1名ずつ「進路指導委員」というのを出して、「進路指導部」を結成し、そこで進路情報を交換したり、毎年の高3の「進学データ」をまとめた『進路の手引』という冊子をつくったりしていた。

 私も、その委員となって、何年か進路指導部の仕事に従事してきたのだが、そのおもな仕事である、その年の「進学データのまとめ」も、実態は、当該する高3所属の教師がほとんど1人でやり遂げるようになっており、その内容もそんなに充実したものではなかった。

 そこで、私は、進路指導部にある程度の期間、連続して所属し、専門的にその仕事に従事して、その中身をもっと充実したものにしようと思った。そのためには、高3の指導が6年毎ではまどろっこしいので、できれば、中学は省いて、高校だけを循環するようになれば、と考えたのである。

 大部分の教師が中1から持ち上がっている、いわば「出来上がった」学年に「中途入社」するには、それなりの苦労があった。「このオッサン、何者(なにもん)や?」と、胡散臭いものを見るような、冷たい視線が、生徒だけではなく、教師にもあった。

 そこで私がとった対策は、クラス担任を持つということであった。通常、中途から入った教師は、学年の様子がよく分からないということで、最初は担任を持たなくてもよいことになっていたのだが、私は敢えて担任を志願した。 担任を持てば、すくなくとも自分のクラスの生徒とは個人的な関係を持つことができる。また、自分のクラスを持っていれば、他の教師とも対等に話ができる、と考えたのである。 誰しも、担任の「激務」から解放されるのはうれしいことなので、私の志願に異を唱えるものはなかった。


 さて、修学旅行の本番は高2だが、1年前の高1の夏休みには下見に行かねばならないので、その基本的な企画は、通常、中3の秋ごろから始まっている。各クラスで、旅行に興味のある生徒を募って「修学旅行委員」に任命し、行き先をどこにするか、北海道か、九州か、などの生徒アンケートをとり、行き先が決まったら、いろいろコースを調べさせる、という作業が続く。もちろん、決定するのは教師の側で、「修学旅行担当」の教師が複数いて、そこに、旅行を請け負う「旅行社」の社員の助言も入ってくる。

 私がこの学年に入った頃には、すでにその大枠は決まっていた。「北海道」は変わらなかったが、これまでのように、道東の「阿寒湖・摩周湖」まで行かずに、道南の「洞爺湖」までとし、その代わりに「東北」が入っているという、修学旅行担当の2人の若手教師が生徒たちと練り上げた意欲的なプランだった。

 9:00に新大阪から、新幹線の「ひかり」に乗って東京に向かった。修学旅行で新幹線を使ったのははじめてだった。家族旅行で乗ったりして、もはや新幹線など珍しいものでもなくなっていただろうが、学校の団体旅行で乗り込むのはまた格別だと見えて、みんないつも以上に興奮し、疾走する車窓の風景に目を輝かし、「富士山だ!」と叫んで、車内を走り回ったり、大いに盛り上がっているうちに、東京駅に着いた。

 その頃、新幹線は東北新幹線の始発駅の上野まで延びていなかったので、普通電車に乗り換えなければならなかった。昼間の閑散時間帯とはいえ、さすが東京駅は人が多く、そんな中を200人を超える団体を引き連れて通勤電車のホームまで移動し、その長いホームに分散させて並ばせ、1本の車両に一度に乗り切れなければ、残った者は次の電車にするなど、神経を使う引率作業だった。

 新幹線ではしゃいでいた者たちの中には、乗り遅れたり、人混みに巻き込まれて迷子になってしまう者が出るのでは、と危惧されていたが、事前に「乗り換えの行動は自己責任だ。乗り遅れてしまったら、あとはひとりで大阪に帰ってもらうぞ」と脅しておいたのが効いたのだろう、上野駅で点呼を取ったとき、誰ひとり脱落していなかった。

 上野からは東北新幹線の「やまびこ」に乗った。新幹線も二度目とあって、もう飽きたのか、あるいは疲れが出てきたのか、はしゃぐ生徒は少なく、シートで居眠りする者が多かった。「ひかり」と比べて「やまびこ」は少し天井が低かったような記憶があり、すこし閉塞感があって、それも彼らの奔放さを抑圧する要因となっていたのかもしれない。しかし、大宮・盛岡間開業から5年、上野・大宮間が開通して2年しか経っていない東北新幹線に乗っているというので、「鉄道研究部」に所属する生徒たちはその胸のときめきを抑えきれない様子だったのを憶えている。

 終点の盛岡の手前の「新花巻」駅で下車した。そこから迎えのバスに乗って、「花巻温泉」に着いた。高層の巨大なホテルが3つ建ち並んでいて、そのうちの「ホテル花巻」というところが最初の宿泊場所だった。

 これらのホテルはすべて、少し前、世の中を騒がせた「ロッキード事件」の主役の1人・小佐野賢治の国際興業グループが所有する豪華なホテルで、ひと昔前の修学旅行ではありえないような環境に、生徒たちはとても満足しているようだった。この3つのホテルは連絡通路で繋がっていて、そこを通って、別のホテルの大浴場に行くこともできたので、生徒たちとは離れて、ゆっくりと温泉を楽しむことができた。

 この学年の修学旅行を担当した、国語と英語の若手教師が「文学好き」だったせいか、それとも生徒の修学旅行委員たちの要望だったのか知らないが、翌日、十和田湖へ向かう行程には、2つの文学施設があった。「宮沢賢治記念館」と「石川啄木記念館」である。

 「宮沢賢治記念館」は花巻市内にあったので、出発後すぐに着いた。いろんな企画展が展示されていたが、時間の都合で30分しか滞在できず、ざぁっとひと回りしただけで出て行かなければならなかった。有名な『永訣の朝』などの詩作品や童話の自筆原稿(コピーだったかもしれない)もあって、もっと時間があれば、見応えがあったのに、と悔やまれた。

 「石川啄木記念館」は花巻から北上した盛岡市の北部の、旧渋民村にあった。ここでも30分しか時間がなくて駆け足の見学だったが、啄木が通っていて、のちに代用教員として教壇に立ったこともある「旧渋民尋常高等小学校」や、啄木一家が間借りしていた旧家が移築されていたのは憶えている。

 そのあと、「小岩井農場」に立ち寄って、ジンギスカンの昼食を食べた。午後には雨が降ってきて、その中、八幡平の山岳地帯を抜けて、十和田湖へ急ぎ、湖畔の「ホテル十和田湖荘」に着いた。


 実は、この時より10数年も前、就職してまもない夏休みに、ふらりと青森方面に一人旅をしたことがあった。上野から東北本線に乗って、青森に着いたのは夜の11時過ぎ。行き当たりばったりの旅だったので、泊まるところも考えてなくて、そのまま、夜の青函連絡船に乗って、函館まで行ってしまった。北海道が目的ではなかったので、朝食を食べるとまた連絡船に乗って、青森にUターン。青森市郊外の浅虫温泉の小旅館に泊まって、翌日、あらかじめ考えていた唯一の目的地の「竜飛(たっぴ)岬」へと向かった。

 この、津軽半島最先端の辺鄙な地に行こうと思ったのは、太宰治の『津軽』を読んでいたからだった。戦時中の昭和19(1944)年、太宰は生まれ故郷でありながら、それまで足を踏み入れたことがなかった津軽のいろんな地域を旅するのだが、その時、昔の友人といっしょに竜飛岬まで行って、そこで一泊している。

 国鉄津軽線に乗って、終点の三厩(みんまや)に着いた。なんでも、平泉を逃れた源義経がこの地まで逃げ延び、ここから蝦夷に渡ったと言い伝えられていて、義経寺(ぎけいじ)というお寺まであるそうだった。そこからバスに乗って、竜飛岬へと向かった。

 太宰は『津軽』のなかで、竜飛岬に近づくにつれ、風景が異様に凄くなり「悽愴」とでもいうべき様子になった、と書いていたが、実際に行って見ると、そこまでの感じはしなかった。ただ、人の影はあまりなく、風が強くて、8月というのに、とても涼しかった。

 高台のようなところがあって、そこに登ると、灯台があり、自衛隊の建物もあって、レーダーのようなものがくるくると回転していた。風はいっそう強くなったが、そこからの眺めは雄大で、津軽海峡がすっかり見渡せられ、澄みきった空気の向こうには北海道がはっきりと見えた。『津軽』には、時節柄、国防上の機密に触れるかもしれないのでこれ以上詳しくは書けない、となんども記されているが、なるほどと納得した。津軽海峡は、どんな国の軍艦でも自由に通行できる「国際海峡」なので、そこをこれほどまで明快に監視できるのは、まさに、軍事的要衝の地に他ならなかった。

 そして足もとに目を移すと、岬の突端あたりの低い丘の斜面に「青函トンネル工事中」という大きな看板が掲げられていた。ああ、これがそうか! その頃はまだあまり話題になっていなかった、というより、私の関心の中には入っていなかった、この画期的なトンネルはその15年後に開通する。

 他にとくに見て回るところもなく、次の帰りのバスに乗って、三厩まで戻り、駅前あたりの小さな食堂で遅い昼食を食べた。店内のラジオでは、甲子園の高校野球の実況が放送されていた。関西方面は雨のようだった。そのかなりひどい雨の中、怪物といわれた作新学院の江川卓投手が、銚子商業相手の延長12回裏、二死満塁2ストライク3ボール後の6球目が外れて、押し出しでサヨナラ負けするという「伝説的な」場面をその時ラジオで聴いた。

 再び青森方面に戻り、近くの大鰐温泉に泊まった。この大鰐も、前夜の浅虫も、『津軽』の中に出てきた温泉地という理由だけで訪れ、駅前の案内所で紹介された小さな安宿に泊まった。

 翌朝、朝食を運んできてくれた女中さんに、「金木(かなぎ)へはどう行けばいいのですか?」と訊いてみた。金木は、云わずと知れた太宰治の生まれ故郷で、その大きな生家が今では旅館になっているとのことだった。

 「金木ですか? お客さん、あんなところに行っても何もありませんよ。わざわざ大阪から来られたのなら、十和田湖とか岩木山に行かなきゃあ」

 私はその時、太宰の名前を出すことができなかった。はるばる大阪から来て、地元の人も知らない古い家を見に行くというのが、とても浮世離れした、恥ずかしいことのように思えたのだ。今では大いに後悔しているが、その時は世間の「常識」に屈して、私は金木行きをあきらめた。

 駅前のバスターミナルに行くと、いろんな方面行きのバス停が並んでいて、ちょうど「岩木山」行きのバスが止まっていたので、それに乗ることにした。

 岩木山は「津軽富士」とも呼ばれる青森県屈指の名山だが、私がその名前を知ったのはその時がはじめてだった。バスに乗ると、前方はるか遠くに、富士山を小型にしたような大きな山が見えたが、それが岩木山らしかった。道路はよく舗装されていて、山道をどんどん登り、7合目あたりまで行っただろうか。バスはそこまでで、そこからは、スキー用と思われるリフトに乗って、さらに上昇、それも尽きると、あとは徒歩で頂上へと向かった。私は、あいにく革靴を履いていたのだが、それでも何とか、頂上に登り着くことができた。

 山頂の標識のあるあたりは、濃い霧が立ちこめていたが、風が吹くと、済みきった青空のもと、サァーと、360度の眺望が開け、あたりには、けっこうたくさんの人がいた。中学校の部活の生徒10人ほどを引き連れて登ってきていた先生がいて、すこしことばを交わすうちに親しくなり、弁当として持ってきておられたおにぎりや烏賊(いか)の煮つけを頂いたりした。何でもこのへんは烏賊の漁場として有名で、今頃は毎晩、烏賊釣りの船が日本海に出漁し、その煌々と輝く集魚灯は人工衛星からの画像にも写っているとのことだった。

 「おかげで、毎日のおかずは烏賊づくしでね。カレーライスもこの辺ではメインは烏賊ですよ」

 彼らは下から歩いて登ってきたそうだが、私は来た道と同じようにリフトに乗って、バス乗り場まで戻り、そこからいちばん早く出る「十和田湖」行きのバスに乗った。バスは曲がりくねった山の道をぐるぐる走って、十和田湖に近づいていったが、ときおり、木立の間に垣間見える湖の姿は、まさかこんなところに、という意外性とも相俟(あいま)って、とても神秘的だった。大正の終わり、このあたりをたびたび探勝した文人の大町桂月もおそらく、その神々しいまでの美しさに魅せられたのであろう。彼のしばしばの絶賛に満ちた紹介により、十和田湖は風光明媚な観光地として全国に知られるようになったとのことだった。

 十和田湖では、有名な、高村光太郎の「乙女の像」などをざっと見物して、今度は青森行きのバスに乗った。所持金もそろそろ乏しくなってきたので、その日は青森に泊まり、翌日、列車で大阪に帰るつもりだった。そんな風に何気なく乗ったバスであったが、十和田湖から「奥入瀬(おいらせ)川」に沿って北上するこのバス旅は、思いがけず素晴らしいものだった。

 おりしも岩木山から下山した頃から「残暑」が厳しくなり、午後の陽射しで、汗がだらだらと流れてきたが、バスには冷房はなく、窓からの風が唯一の救いだった。だから、発車間もなく、奥入瀬川の渓流地帯に入って、涼しい風が窓から入ってくると、ほっとひと息つくことができた。青森まで長時間の乗車なので、なんどが途中休憩の停車があり、そんなとき、バス停近くの売店を覗くと、かならず冷たい水で冷やしたリンゴが売られていた。品種はやはり「つがる」だっただろうか。よく冷えた薄黄色のリンゴを皮ごと丸齧(かじ)りすると、すうぅと全身から汗が引いていく気がした。そのあと、青森まで、途中休憩で停車するたびに売店で冷やしたリンゴを見つけては齧った。

 また、前半の奥入瀬渓流では途中、整備された「遊歩道」の部分があり、そこではバスから下りて自由に散策できるようになっていた。涼しい木陰の下を歩くのはこの上もなく心地よいものだったが、渓流から聴こえてくるせせらぎの音がさらに気持ちをなごませた。

 私はもともと水が流れるのを眺めるのが好きで、ちょろちょろ、さらさらと流れる小さな波が小石や岩にあたっても、いつも同じかたちを保っているのをじっと眺めて、いつまでも飽きることがなかった。しかし、バスはあらかじめ決められた時間までしか待っていてくれないので、まさに後ろ髪を引かれる思いでその場を離れなければならなかった...


 閑話休題。修学旅行の話に戻ろう。

 花巻温泉から、宮沢賢治記念館、石川啄木記念館、小岩井農場を経て、十和田湖に着いた。投宿した「ホテル十和田湖荘」は立派なホテルで、大浴場では、古代ギリシャの神殿を模した円柱がまるい大きな湯船の周りに林立していたのが印象的だった。

 ひとり旅の時は、高村光太郎の「乙女の像」を見て、そそくさと立ち去ったのだが、今回は翌日「十和田湖遊覧船」に乗った。秋には沿岸の紅葉が美しいそうだが、6月はこれといったものもなく、肌寒い湖風に吹かれただけだった。そのあと、バスで青森へと向かい、当然、奥入瀬渓流沿いも走ったのだが、この前のような感動はなかった。あのときは暑い夏の陽射しがあって、そこから逃れた「天国感」があったのだが、この季節では望むべくもない環境で、おまけに雨が降り出して、「遊歩道」を歩くこともできなかった。

 青森から「青函連絡船」に乗った。雨は上がって、好い天気になっていた。ひとり旅で、函館からUターンしたときを除いて、過去3回の乗船は深夜ばかりだったので、よく晴れた昼間に、甲板のベンチにゆったりと腰掛けて、のんびりと津軽海峡を眺めるのは優雅なものだった。

 「あっ! イルカだ!」

 そんな叫び声を耳にして、急いで、船べりに駆けよると、50メートルほど先に、数頭のイルカが、時々大きくジャンプしながら、連絡船に並走して泳いでいた。水族館以外で、イルカを見たのははじめてだった。やがて、イルカは泳ぎを緩め、見る見る連絡船に追い抜かれて、視界から消えていった。この青函連絡船も、あの「青函トンネル」が翌年3月に開通するとともに廃止されてしまったので、修学旅行で乗船するのもこの年が最後となってしまった。

 函館に着くと、迎えのバスに乗って、トラピスチヌ修道院へと向かった。厳格な女子修道院で、中でつくっているクッキーやマドレーヌが名物となっていて、それらを売っている売店のところまでは行けたが、それ以上、中に入ることはできなった。また、いったん中に入った修道女は死ぬまで外に出ることは許されない、という厳しいところだった。ただ、ガイドさんいわく、「そんな厳しい戒律を負っている修道女たちも、重い病気になったとき以外に、例外的に院外に出ることが許されるときがあります。それはどんなときでしょうか?」

 正解は「選挙の投票に行くとき」とのこと。

 旅のはじめなのでお土産を買う者は少なかった。そのあと、宿泊地となる、近くの「湯の川温泉」に到着し、海沿いにある「湯の川グランドホテル」という大きなホテルに入った。これまでのホテルでは、教師の部屋も、定員の割には小さくて窮屈だったが、このホテルではゆったりとしていて、はじめて伸び伸びと過ごすことができた。

 翌日は半日、自由行動となった。生徒はあらかじめつくっておいた5~6名の「班」単位の行動で、一応、行き先の行程表を提出させてはいたが、集合場所と時間さえ守れば、それで好しとした。そして、われわれ教師もとくに分担は決めずに、勝手に自由行動となって、私は、立待岬の石川啄木のお墓に行ってみませんかと誘われた。誘ってくれたのは、国語を担当する中年の女性教師だった。


 男子校に女性教師は珍しかった。授業だけ担当する非常勤講師にはときどき女性がいたが、専任教諭ではこの先生がはじめてだった。かつて公立高校で10数年教鞭をとり、その後いったん退職して家庭に居られたが、息子さんが2人とも成人されたのを機に、縁あって、この学校の教壇に立つことになったのだった。古典文学、とくに「源氏物語」には造詣が深く、よく通る名調子の授業には、男子生徒たちも一目置いているようだった。

 当初、学校に慣れるまで、高校の学年を何年か持ったあと、中1から6年間持ち上がりでこの学年を担当することになった。中学生ははじめてだ、と云いながらも、まだ子どもに毛の生えたような新入生には、自分の母親よりもずっと年上の、もっと怖いお母ちゃんが学校にもいるような感じで、ピシッと引き締まった緊張感とともに、母性愛豊かな、きめ細やかな指導もあって、陰では「おばちゃん」と呼びながらも、よく懐(なつ)き、よく慕って、これまでのこの学校にはなかったような雰囲気が出来上がっていた。

 また、中2から、公立高校の校長を勤めたのち、天下り的に、管理職待遇でやって来た数学の先生もいた。その閲歴は、当時の校長と似ていたが、タイプは、堅苦しい形式主義者の校長とは正反対の、人懐こい、くだけた人柄で、この先生が、「おばちゃん先生」と並んで、学年の、お父ちゃん、お母ちゃん、のようになっていた。そして、その下の「息子」に当たるのが、英語、数学、国語、理科の若手教師で、それぞれ、大学新卒やら、他校の講師経験者や予備校講師経験者など、経歴は様々だったが、ここ数年の間に新採用された人たちだった。

 云ってみれば、ほとんどの先生が、私などよりもあとにこの学校に入ってきた先生ばかりで、そういう顔ぶれで固まった学年は、他の学年とは異質な印象があり、とくに、この学校に古くからいる教師たちからは白い目でさえ見られていた。

 そんなメンバーをうまくまとめていたのが、私よりも5歳ほど年長の理科の先生だった。在職20年を越え、この学校の実務にはすみずみまで精通していて、その「調整型」の穏やかなで誠実な人柄もあって、みんなの信頼は厚かった。私とも親しい「飲み仲間」だったが、この先生が中心にいることで、この学校には日の浅い老若男女の教師団を和気あいあいとさせるとともに、学年外の教師たちにも安心感を与えていた。

 ところが、高校になったとき、その理科の先生が管理職に抜擢されて、学年を離れてしまった。そこへ、私など何人かの「古株」の教師が入ってきたものだから、それまでずっと持ち上がってきた教師たちの間には「楽園崩壊」とばかりに、緊張が走った。あからさまな警戒感むき出しの張りつめた空気の中で始まった最初の学年会議は、この1年間の学年運営の方針を決めるものだったが、各教師の仕事の分担を巡って、案の定、はじめから意見が衝突した。

 生徒のしつけに関することだっただろうか、今年も引き続き、と当然のように出された計画は、学校生活の細部までこと細かに規定した規則だったので、「もう高校生なんだから、そんな細かいところまでやらなくても...」 と遠慮がちに意見を述べると、中1から持ち上がってきた若手の「本流」教師のひとりが血相を変えて、「この学年に来たからには、この学年の〈しきたり〉を守ってもらわなければ困ります」とピシャリと云い放った。

 その気迫には驚くと同時に、何を、この若造が生意気に、という反発心も込み上げてきて、「〈しきたり〉などという硬直したものがないのが、この学校の〈しきたり〉でしょ。これまでやって来たことでも、折りに触れて、見直したらいいじゃないですか」と言い返すと、あわや一触即発の険悪な様相になり、これには、調整型の理科の先生から「学年代表」の役目を引き継いだ「おばちゃん先生」が、必死で、まあまあと取りなす事態となった。

 その後もしばらく衝突は続いた。しかし、学校の仕事は「授業」が8割以上を占める。学級担任を持ったことが功を奏して、生徒たちとの距離は早い時期に埋まり、3年間「母性愛」の世界に育った彼らはこころ優しく、素直で、教室に行くのが楽しみになっていった。授業が軌道に乗っていくことによって、私自身も心のゆとりが生まれてきて、週1回のギスギスした学年会議も苦にならなくなっていた。

 中2から入ってきた、元公立高校校長の数学の「お父ちゃん役」の先生は、人懐っこく、くだけた人柄と先述したが、同じ学年になってみると、いろんなところも見えてきた。お酒、というより「酒席」がお好きで、中学の時も、この先生の音頭取りで、学年の飲み会を頻繁にやっていたらしい。そのあと二次会でスナックに流れて、そこでカラオケに興じるのもお好きだった。すでに学校近辺に「行きつけ」の店を何軒も持っていて、この学年になっても、学年団の「歓送迎会」「花見の会」「遠足の打ち上げ」など、次々と飲み会が催されていった。

 そんなとき、この先生は仕事や生徒の話はまったくせず、全然関係はないけれど、不思議に魅力的な話題を次々と持ち出して、座を和やかにさせるのが上手だった。おそらく、こういうのがこの先生の「老獪」な処世術で、それを駆使して、強(したた)かに公立高校の世界を世渡りし、校長まで上り詰めたのであろう。その風貌や、腰が低くて、抜け目なく気配りを利かせる所など、その頃、自民党内で力を伸ばし、その後間もなく総理大臣になった「竹下登」と似ているような気がしたので、私は秘かに「この学校の竹下登」というあだ名をつけていた。

 その「竹下」先生の術中に嵌まったわけでもないが、当初厳しく対立した若手「本流」教師たちとも徐々に打ち解けるようになっていった。そして1年が経ち、次の学年に上がるとき、1年間「学年代表」の仕事をしてきた「おばちゃん先生」が、「わたし、仕方ないから1年間頑張ってきたけど、みなさんもお判りのように、この仕事は私の柄ではないので、来年は勘弁してほしい」と云い出した。

 その気配はこれまで、みんなも感じていたことだったが、後継者を誰にするか、そこまでは煮詰まってはいなかった。若手「本流」教師たちは、とんでもないと辞退するし、来年新しく入ってくる未定の人に頼むわけにも行かない。話が頓挫してきたので、思い切って云ってみた。「じゃあ、私がやりましょうか?」

 一瞬、沈黙が場を支配し、しばらく続いた。それを破ったのはおばちゃん先生だった。

 「それも好いかも知れないわね」

 どこかから何か云いたそうな声が出そうになったが、誰も何も云わなかった。すると、それまでずっと黙っていた「竹下」先生がポツリと云った。

 「わしがするしかないかな」

 実は、私も含めて、みんなそう思っていたのだ。もう「竹下」先生しかいないのは自明だった。ただ、管理職の仕事もしているので、はたしてそれと両立できるのか、そういう立場が他の教師全体からも承認されるのか、そこのところが不明だったので、だれも云えなかったのだが、「やってもええか、校長に訊いてみるわ」のひと言で、一件落着した。

 かなり溶け込んでいたとはいえ、まだまだ私の「立候補」が受け入れられるほどではないことは、私にも分かっていた。結果的に、それを見透かしたうえでの高等戦術となったのだが、この経緯を通して、「竹下」先生とは暗黙の貸借関係が生じたような気がした。というのは、その後、それまであまり歯牙にもかけてもらえなかった先生から、何かと気を使ってもらえるようになった。例えば、会議の席で、「これでええかな?」と確認を求められることが多くなった。

 ただ、この修学旅行の頃は、まだまだ融和が十分ではなく、またこの修学旅行に関しては、担当の2人が全権を握って、学年会議などであまり相談せずに物事が決まっており、われわれはただ、云われたことをやるだけで、あまり「当事者意識」を持つことができなかった。

 誰かに仕事を任せたら、他の者は文句を云わずに云われたとおりにする、というのが、この学年の積年の「文化」らしかったが、それは私にはどうしても馴染めないものだった。そんな感覚は他の「中途入社」の「傍流」教師にもあったようで、この旅行中、私は「学年中枢」よりも、そういう先生たちや、他学年から応援に来た体育の先生、付き添い看護師の代わりにやって来た、養護教師の資格を持つ、若い男性教師らと行動を共にすることが多かった。

 だから、おばちゃん先生に立待岬に誘われたのは意外だったが、この間、行動を共にすることが多かった、学年の体育の先生もいっしょだったので、気は楽だった。この先生も中1からずっと持ち上がっている「本流」教師のひとりだったが、酒席では多弁でも、会議の席ではほとんど発言することはなかった。


 函館山の裏に位置する立待岬は津軽海峡に面した断崖で、海からの強い風を受けた遊歩道に沿ったところに、啄木とその一族は墓が建てられていた。その日はとても好い天気で、海も空も真っ青で、対岸の下北半島まで見渡せる広々とした眺めは、それを目にするだけで心が洗われる思いがした。

 道中の道すがら、おばちゃん先生は啄木に関する蘊蓄深い話を滔々としてくれた。そして、タクシーの走っている大きな道路まで戻ったところで、ポツリと云った。

 「来年は是非ともやってほしいの。応援するから」

 私は、何も答えなかったが、体育の先生が、横でニコニコ笑いながら頷(うなず)いていた。

 昼前に集合、バスに乗って大沼公園で遅めの昼食を食べたのち、洞爺湖へと直行した。道南最大の観光地といえる洞爺湖は、背後に活火山の有珠山を控えた湖畔の狭い平地に「洞爺湖温泉街」があって、たくさんのホテルが密集している。私たちが泊まったのは「洞爺サンパレス」というどでかいホテルだった。

 中に入ると、大きなロビーの巨大なガラス窓のすぐ向こうに洞爺湖の景観が開けていた。その上の階の大食堂も同じ造りで、夜になると、花火大会が催され、湖上に浮かべた舟から打ち上げられた数百発の花火をそこから楽しむことができた。

 また、自慢の大浴場や露天風呂があるのは当然だが、地下にはおおきな「温水プール」もあって、そこに備えられた「ウォータースライド」で遊び過ぎて、足を挫く生徒もいた。ただ、そうした豪華な館内施設に比べて、案内された部屋は貧弱で、狭苦しいものだった。こういうところは、斡旋する旅行社としっかり打ち合わせしておけばありえないことなので、経験のない担当教師の不手際だと、夜の慰労会で遅くまで残って、「傍流」や体育系の先生たちと怪気炎を上げ、憂さ晴らしをした。

 また、昨夜の出来事のことも話題に上がった。生徒を就寝させて、教師の慰労会をしている最中、ちょっと廻ってくるワ、と云って出て行った、若手の「本流」教師のひとりが血相を変えて帰ってきた。生徒の部屋を見回ると、電気を消して寝ていなければならないのに、こっそり明かりをつけてゲームをしている連中を見つけたとのこと。叱りつけて、いま廊下に正座させている。明日の自由行動、おまえらは禁止や、と云っておいた、と大声で息巻いた。

 その剣幕に押されて、一同思わず頷いた。

 でも、ちょっと待った。暴れて大騒ぎしていたわけでもなく、邪魔にならないように遠慮がちにコソコソとゲームをしていただけだろ。それで、自由行動なし、の罰はきつすぎる...

 そう思ったのは、私だけではなかった。この学年ではずっと生活指導を担当している体育教師が口を開いた。「それぐらいのことやったら、自由行動禁止は堪忍してやってもええのでは」「でも、説明会の場でも、違反行為があったら、自由行動は即禁止、と、生徒と約束したじゃありませんか。約束したことは守ってもらわなくては」

 アルコールの所為もあって激高する相手に、体育の先生は諭すように「たしかにそういう約束はしたけど、自由行動いうたら、生徒にとっては、修学旅行最大の楽しみやで。あいつらもきっと、しもた、と思いっきり悔やんでいるはずやけど、これで自由行動でけへんとなったら、悪いのは自分に違いないねんけど、なんでここまでされるんや、と恨みだけが残るんとちがうか?」

 「しかし、約束は約束です。約束は守らなあかんということを、この際、しっかりと躾(しつ)けておかなければ...」

 ここで、学年代表で、管理職として校長代理も務めている「竹下」先生が割って入った。

 「まあ、今回は、説諭ということにしておいて、またこんなことがあったら、その時は自由行動なしや、ときつく言い渡す、ということにしましょう」

 おかげで、函館の自由行動は、ギスギスしたものにはならず、無事に楽しく終わったのであった。

 翌日は、お決まりのコースの「昭和新山」を見学して、バスで札幌へ。昼食は、札幌ビール園だった。思いっきりジンギスカンと生ビールを堪能。午後は自由行動だったので、何人かの先生と北海道大学の構内を歩いたあと、札幌駅地下街でお土産物を物色した。

 札幌の宿舎は、「札幌の奥座敷」といわれる「定山渓温泉」の「定山渓ビューホテル」という、洞爺サンパレスに負けないぐらい大きなホテルだった。ここにも立派な温水プールがあり、いろんな遊具もあって、生徒たちには好評だった。結局、札幌の宿は、「修学旅行専用旅館」から、東急ホテルなどの「シティホテル」を経て、「定山渓温泉」に定着することになった。







 帰りは、10:00小樽発の新日本海フェリーで、翌日16:30に敦賀港着。大阪に到着したのは20:00であった。

 ところで、この学年には野球部員が10数名いたが、彼らは全員、グローブとバットを持参してきていた。そして、みんなよりも早く起きて、ホテルの外の駐車場などで素振りやキャッチボールを欠かさなかった。当然、帰りのフェリーの長い船旅は、けっこうな練習時間となっていた。

 修学旅行に来てまで練習するのは、たまたま学年の体育教師が野球部の監督をしていたというだけではなかった。この年は、上の3年生の部員が少なく、レギュラーの大半がこの学年の2年生が占めていた。からだの成長の早いこの年代では、1学年ちがうと体格もパワーも全然ちがってくる。しかし、この学年の野球部員の多くは、2年生とは思えないぐらい立派な体格をしていて、パワーもあった。これまでも、甲子園の常連校に入れても引けを取らないと思われる選手は毎年1~2名はいたが、この年はそれが5名を越えていた。当然、それまでの戦績も近年にはない優れたものだったので、1ヶ月後の夏の大会の大阪予選が楽しみであった。

 実際、これまで1回戦か2回戦で敗退していたのに、その年は、くじ運に恵まれたところもあって、4回勝って、ベスト16まで進出した。3年生に技巧派の投手がいて、先取点を取ったあと、彼がコントロールのよい投球をして5回ぐらいまで粘ると、そのあと、2年生の剛球投手と交代して逃げ切るというパターンだった。この剛球投手は逞しい2年生の中でも特に頑丈な身体をしていて、少し荒れ気味だが、高校生としては図抜けたボールを投げるとともに、バッティングもよくて、彼の決勝打で勝った試合もあった。

 そして、もう1回勝てば、次はローカルテレビで実況中継されるというところまで行ったのだが、その試合は惜しくも敗れてしまった。

 選手たちや監督によれば、テレビに映ることよりも、次の準々決勝で、強豪のPL学園と対戦できなかったのが残念だったとのこと。この年のPL学園は、立浪和義(中日)、片岡篤史(日本ハム~阪神)、野村弘樹(横浜)、橋本清(巨人)ら、のちにプロ野球でも大活躍する選手たちを擁して、春夏連覇を遂げた、おそらくPL学園史上でも最強のチームだったので、到底かなわなかったにせよ、そんなチームと真剣勝負をしてみたかった、と口惜しがっていた。

 そんなチームだったから、彼らが3年生となる翌年は大いに期待されたのだが、そううまくは行かなかった。エースとなった剛球投手が制球を乱して、大量失点し、初戦で敗退してしまったのだ。

 ただ、のちに、卒業式のあと、その剛球投手の父親から聴いたのだが、プロ野球のある球団のスカウトが訪問してきたとのこと。勧誘というより、それ以前の、プロに入る意思はあるかという打診だったようだが、自分の実力は弁(わきま)えていたのか、本人が丁重に断ったそうである。父親は少し残念だったようだが、彼はその後、学校に依頼のあった、早稲田大学理工学部の指定校推薦の募集に応じて合格。大学卒業後、航空会社に入社して、パイロットになったという。







 その後、修学旅行でおばちゃん先生からほのめかされたように、高3になって、私は学年代表に選ばれた。全員一致の笑顔の中での選出だった。根回しが効いていたこともあろうが、修学旅行後、当初あった若手の「本流」教師たちとの確執も徐々に薄れ、個人的に飲みに行く機会も増えて、そんなときは、あの最初の学年会議での「言い合い」のことが、楽しい酒の肴になるぐらい打ち解けていた。

 学年代表はそれまで輪番で何度もやったことがあったので、その仕事にはある程度精通していた。生徒に関することは「本流」の先生方に任せて、それ以外の、学年の行事、とくに高校3年でのメインエベントである「大学進学」の指導の手順について、はじめて経験する人も多かったので、その手ほどきなどに注力した。進路指導については、自分も2回高3の担任を経験したほか、数年前から進路指導部に所属して、学校の全体的な仕事もはじめていたので、大いに重宝がられ、無事1年が過ぎた。


 生徒が卒業して学年団が解散すると、普通、翌年は中学1年に降りる教師が多い。ところがこの年は、中学1年があまり空いてなくて、逆に高校1年に空席がたくさんできていた。どうも中学の3年間を受け持った「本流」教師の中から、そのまま高校へと持ち上がらずに、また中1に戻っていく教師がたくさん出たからのようであった。そういえば、職員会議でも話題になったことがあるが、この学年が「荒れて」いてトラブルが頻発し、それに嫌気が差した教師が続出したのだろう。

 ということで、否応なしに、高3からこの学年に入る教師が多くなった。「高校志望」の私は、もともとこの学年に入るつもりだったが、それ以外の、英語、国語、理科、数学の若手教師たちは、不本意ながらの異動であった。しかし、その結果、それまで数年間いっしょに仕事をしてきた連中とまたいっしょに仕事ができるということになり、それはそれで、新しい環境に入る緊張をいささか和らげることになって、ありがたいことだと云えた。

 以前の丙午の学年では、生徒同士の喧嘩や暴力行為、そして校外での万引きなどが問題行動の中心だったが、この学年では、そういう「非行」ではなくて、授業中に騒いで、授業ができなくなるという「授業妨害」が多いということだった。

 確かに、はじめて教室に入ったとき、鋭い、どこか冷笑を浮かべたような視線を一斉に浴びせかけらたような気がした。最初だから、おしゃべりをしたりはしないが、かといって、教師のことばを聴いているようにも見えなかった。一応前を向いてはいるが、そこに立ってことばを発している教師の存在などまったく気にしていないようにさえ思えた。そして、やがて、クラス分けで新しくなった級友たちとも馴染んでくると、ペチャクチャと小声でおしゃべりがはじまり、それがだんだん大きくなって、教師の声はかき消されていくことになる。しかたなく、教師が大きな声をあげて一喝すると、一瞬、ハッと、静かになるが、その叫びの主がだれだか分かると、また遠慮なくおしゃべりがはじまった。

 新しくこの学年に入ったどの先生の授業でも最初はこんな風だったようである。私は、このときも前に述べたような戦略的理由で志願して担任を持っていたので、最初のホームルームの時間に「生活と学習に関するアンケート」という用紙を配り、そこに記入された、生活習慣、趣味、得意科目などの情報を基に、翌日から、昼休みと放課後に、担任クラスの生徒ひとりひとりと「個人面談」を始めた。

 教室では冷たい視線をしている生徒も、個人的に話してみると、けっこう明るい顔でいろんなことを喋ってくれた。途中、その時間に別の用事が入ったりして、クラス全員の面談を終えるには2ヶ月ほど要したが、いったんそのように言葉を交わした生徒はその後、教室での目の色が変わって、温かいものになっているような気がした。

 高3からいっしょにこの学年に移った若手の英語の先生は、6年間ぶっ続けで担任を持って疲れたから、少し休みたいと、この年は担任を外れ、その代わりに「生活指導」の担当になった。そんな彼がたちまち暗い顔をするようになった。生徒が全然云うことを聞かない、あいつら何を考えているのか分からなくなった、と云う。

 元来、とても楽観的なタイプで、前の学年では、生徒に一番人気があった先生だったのに、この学年ではまったく通用しなくなっていた。場をなごませようと、駄洒落めいた軽口を叩くと、前はあんなに受けたのに、あのオッサン、何云うとんねん、とシラーっと凍りついた空気が拡がり、それに焦って、ちがう言葉で取り繕おうとすると舌がもつれて... そんな自分を、いちばん前に座っている生徒が、いつも上目遣いで薄笑いしながらこちらを睨んでいるようで、もう生徒が怖くなってしまった、と珍しく弱音を吐いてきた。

 担任がないので、個々の生徒と接する機会がなく、教室だけの関係となり、また、「生活指導」の担当となったので、その役目を果たそうと、冒頭に、柄にもない強面(こわもて)風の説教などやってしまったのも裏目に出たようであった。

 その後、彼は、担任の代わりに、放課後の教室掃除の監督の役を買って出て、上から目線で「監視」するのではなく、いっしょに掃除を手伝ったり、また、英語の質問に来る生徒にもていねいに対応したりすることによって、個人的なコンタクトを深めていき、なんとかピンチを克服して、以前の、陽気で人懐っこい先生に戻っていったが、その期間中、家に帰ると、毎日、渥美清の『男はつらいよ』シリーズのビデオをすがるように見て、フーテンの寅さんを囲む暖かい世界に癒しを求めていたそうである。

 またこんなこともあった。新学年がはじまって1ヶ月ほどした頃であろうか、保護者有志の集まりがあるので、先生方全員で来てほしい、という申し出が保護者代表の人からあって、土曜日の放課後、会場へ出かけていった。すると、冒頭、前に座っていた母親のひとりが立ち上がって、「先生方は、今年の大学入試の結果について、どう思っておられるんですか」と大声で詰問してきた。

 実は、その頃、国公立大学の入試制度がコロコロと変わっていた。国公立大学を「一期校」「二期校」の2つにわけて、2回の受験機会があるという制度がながらく続いてきたが、「共通一次試験」の導入とともに、一本化されて、受験機会は1回になってしまった。試験は「共通一次」「大学ごとの二次試験」と2種類に増えているのに、受ける機会が1回に減ったのでは、受験生の負担が大きすぎる、というので、数年前に改められて、日本を西と東に二分割し、それぞれA日程、B日程と、試験日をずらせて2大学受験できるようにし、両方合格した場合は好きな方を選べるという「連続方式」という制度が導入された。

 ところが、そうなると、例えば、京都大学を志望している受験生はA日程で京大を受験したあと、B日程で東京大学も受験できるようになった。そして、その両方とも合格した場合、初志の京大ではなく、「すべり止め」に受けた東大に入学する受験生が続出したのである。いつの間にか「東京一極集中」が進行していたのだが、そうなると、それまで「西日本の雄」と誇っていたプライドを大いに傷つけられることになった。そして、同じような現象は、大阪大学、神戸大学、九州大学など西日本の有力大学に軒並みに起こったので、不満が爆発した。

 そこで、同じ大学が「前期」「後期」の2回にわけて募集し、前期合格者は「入学辞退」しなければ後期もB日程も受験できない(あるいは無効となる)とする「分離・分割方式」が新たに考案されて、この年から併用されることになり、西日本の多くの有力大学がこの方式を採用することとなった。

 即ち、京大志望の受験生が「前期」で京大を受験し、「B日程」で東大を受験したとして、もし「前期」で京大に合格しておれば、「B日程」の東大の合格発表よりも前に入学手続きをしなければ、無効になってしまうというのである。

 逆に云えば、東大志望の受験生がすべり止めに「前期」で京大を受験して合格したとしても、そこで手続きをしてしまえば、「B日程」の東大入試の結果は無効になってしまうので、どうしても東大に行きたければ、せっかくの「前期」合格を辞退しなければならない、という大きなジレンマに立たされることになった。

 その結果、それまで、この両大学に合格した者の多くが地域に関係なく東大に入学し、辞退者続出の京大は追加合格を出したりと、その分、入りやすくなっていたのが、今度は、東大志望者が「B日程」不合格のリスクをおそれて、やむなく「前期」の京大に入学するケースが増えた結果、京大の難易度がぐんと高くなったのであった。それは、大阪大学、神戸大学、九州大学なども同様だった。

 そのような影響をもろに受け、また、東西の大学を「ダブル合格」することもなくなったので、この年の本校の現役の京都大学、大阪大学の合格者数は激減した。さらに、前年の卒業生の入試結果が近年になく好調で、その2大学に現役合格した者が多かったので、その学年の浪人合格者数がいつもより少なくなって、その結果、現役・浪人を足した数で表示される週刊誌などの「高校別大学合格者数」は、前年と比べると半減してしまったのである。そのことをその母親が指摘し、その高3生を担当していた教師が大勢この学年にやってきたことで、自分の息子たちの将来を強く危惧したのであった。

 「その件に関しましては、先週行われた保護者向けの大学入試結果説明会でも申しましたように、入試制度の変更の結果...」と、いま述べたようなことを説明しようとしたが、それを遮って、「それは伺いましたが、ずっと指導されてきた先生方の責任はどうなるのですか。前の年にはあんなに好成績を挙げていたのに、同じ学校の生徒が、教師がちがえば、こうも結果が変わるものですか」と聴く耳を持たない。

 教師に責任はまったくないとは云わないが、入試は生徒個々の問題である。合格者が少なくても、ちゃんと合格している生徒もいれば、合格者が多くても、自分が落ちていれば何にもならない。各人の努力、志望校の選択、時の運、個々の生徒にそれぞれいろんな事情があって、一回勝負の試験結果が出てくる。そんなものを集約して、ひとつの「数字」に還元し、それを基に、教師の質や生徒の質を判定するのは、一種の幻想に過ぎない。

 そんな思いが頭の中を駆け巡ったが、今はそんな論理が通用する場ではなかった。あとで知ったが、この学年は、いわゆる「第二次ベビーブーム」のピークに当たる学年だった。戦後まもなくの「ベビーブーム」、のちの「団塊の世代」の子どもたちに当たる世代で、生徒数が急増した時期だった。その分、おそらく、幼い時から、激しい競争にさらされ、それをサポートする親たちの心も、生き馬の目を抜くような貪欲さに汚れて、学校に対しても常に厳しい要求を突きつけてきたのであろうか。そんな姿を目の当たりにして、この学年から大勢の教師が離れていった理由が分かったような気がした。

 嵐のようなその場を何とか切り抜けたあと、憂さ晴らしに飲みに行ったわれわれ教師団の口数はいつになく少なかった。予想以上のきつい反応にみんな衝撃を受けたが、それに屈したり、嫌気を起こしたりする者はだれもいなかった。

 その後、あの会合で怒号を放った母親たちは必ずしもこの学年の多数の意見を反映したものではない、ということも分かってきた。これまでのヒステリックな対応のために、この学年が教師たちから嫌われているのではないかと危惧し、なんとか正常で円満な関係を築こうとする保護者のグループもあった。

 結局は、双方の信頼感の欠如が原因なので、なんとかそれを回復すること、そしてその相手は保護者というより、まずは生徒だということで、生徒との信頼関係の醸成を図る方策を、とくに相談したわけでもなく、教師各人がそれぞれ工夫して実践するようになっていった。

 それは、私の場合は、先に述べた、クラス生徒に対するていねいな個人面談だったが、担任を持たない教師は、生徒の「個人指導」に力を入れはじめた。

 授業中、ぜんぜん教師の話を聴かずに勝手に好きなことをしている、というのがこの学年の生徒の特徴だったが、そうやって授業を無視ばかりしていては勉強が身につかないのは明らかである。その分は、塾や予備校で勉強しているから平気だ、と嘯(うそぶ)く者もいたが、せっかく学校に通っているのだから、それを無駄にしたくない、と考える生徒が大半で、そういう生徒は、授業が済んだ休み時間や放課後に、それぞれの教師のところに「質問」というかたちで、個人指導を求めにやってきた。それを、「忙しい時に、うるさいわ」とおざなりに扱うと、「あの教師、なんや?」と不信感が生まれることになる。そうではなく、どんな質問にでもていねいに対応していくと、それでどれだけ理解が深まっているかはわからないが、すくなくとも信頼感だけは生まれる。そうなると、授業でも、耳を澄ましてよく聴いてみようということになり、徐々に、前向きの授業風景が生まれるようになっていった。

 生徒・教師間の関係改善は、親にも知れ渡ることになり、いつしか、かつての「過激な」教師追及の声は聴こえなくなった。あのときの急先鋒だった母親も、保護者との懇親会で個別に話してみると、そんなに難しい親ではなく、バンド演奏に嵌まって勉強がおろそかになった息子に頭を悩ます、ごくありきたりの母親だった。


 さて、この学年の高校2年での修学旅行は、大阪駅から出発したが、以前のように午前の発車ではなく、17:30発の寝台特急「日本海」だった。2年前に青函トンネルが開通して、青函連絡船は廃止されていた。だから、連絡船で眠るということはできなくなって、寝台車ということになったのだろうが、私にとっては初めての経験だった。

 窓際に通路があって、それに沿って、ゆったりとした2人掛けのシートが向かい合わせに並び、その頭の上に二段ベッドがあった。ただ、ベッドに入ってカーテンを下ろしてしまえば、プライバシーは守られるので快適ではあった。私は上段になったが、夜になってカーテンを閉め、ベッドランプを点けて、持参の文庫本を読んでいるうちにいつの間にか眠っていた。夜中にかなり揺れたような気がしたが、気にはならなかった。

 夜が明けてしばらくしてから、青函トンネルに突入した。海底トンネルといっても、乗っている者にとっては普通のトンネルと変わらない。この頃は、トンネルの途中に2ヶ所「海底駅」というのがあった。いざという時に備えたもので、この列車はその前を徐行するだけだったが、ここに停車する列車も何本かあって、1000人が収容可能な「一時避難所」や地上に脱出するための「斜坑」などが見学できるようになっていた。

 トンネルの途中で、朝食が配られてきた。小さな箱に入ったサンドイッチと缶ジュースだった。函館駅には11:00着。別の列車に乗りかえて、札幌に向かった。かつての北海道の玄関口だった函館駅も、このように通過されてしまうと、さぞかし寂れていることだろうと想像された。札幌で迎えの観光バスに乗って、定山渓温泉へ。ホテルはこのところ「定宿」となっている「定山渓ビューホテル」だった。


 この修学旅行の担当者のひとりが、高校に行く段階で降りてしまったので、だれかその代わりを引き受けなければならなかった。そこで、旧高3の若手教師の一人がその任に当たることになったが、彼は引き受けるに当たって、「やりますけれど、その代わり、いっさい、私たちに任してくださいね」と念を押した。几帳面で、その点では信頼できたが、妙に厳格なところのある、あの、前回、就寝時間のあとゲームをしている生徒を摘発して、自由行動取り上げを強硬に主張した教師だっただけに、この変な念の押し方は気になった。

 その危惧はまもなく現実のものとなった。高1の夏に下見に行ってきたあと、急に高圧的になってきたのである。学年会議で、彼が提案する旅行計画について、だれかが疑義を挟もうものなら、「みなさん、みんな私たちに任すとおっしゃったじゃないですか」と耳を貸そうともしない。前の学年での「全権委任主義」の悪弊が首をもたげてきたのだ。

 特に議論となったのは、5日目の、函館の自由行動だった。午前中がそれに当てられていて、午後の函館発の列車で青森に戻って、十和田湖に行くことになっていたが、自由行動の時間をできるだけ取れるように、昼食も生徒の自由にすればいいのではないかという意見が出た。ところが、彼は頑として首を縦に振らない。生徒に勝手に食べさせて、食中毒にでもなったらどうするのか、などと云って拒否する。

 自由行動の間に、生徒が勝手に「買い食い」したりもするはずで、そんな時の食中毒などは心配していないのだから、理由にもならない理由である。どうも、すでに昼ごはんの食堂と契約してしまって変更できないというのが本当の理由らしかったが、そんなこと旅行社を通していくらでもキャンセルできるはずなのに、それはしてはいけないことと思い込んでいるようで、結局、押し切られてしまった。

 さらに、最初に宿泊のホテルに着くと、教師は部屋に入る前にロビーに集められて、その日の任務分担を告げられた。風呂当番、食事の座席の点呼・誘導、部屋の見周り、就寝の点呼、など細かく、小刻みに配分されていて、それは見事に「公平」なものだったが、まとまった時間がなくて、ゆっくりと入浴もできない状態で、こんなことが毎日続いて、要らぬ疲労が溜まっていくことになった。 


 翌日は、午前中、札幌自由行動で、はじめの1時間は、本部になっていたテレビ塔の食堂での待機当番に当たっていた。そのあと地下鉄で北海道大学へ行った。学園祭があると聞いていたが、時間が早すぎて何もやっておらず、札幌駅の地下街で時間を潰して、昼食場所の「札幌ビール園」に向かった。そこには、2年前に卒業して北海道大学に進学した卒業生が4人来てくれていたので、生徒相手にスピーチをしてもらうと、「先輩」というのは威光があるのか、日頃やんちゃな生徒たちもしっかりと耳を傾けていた。そのあと、彼らといっしょに食事して近況などを語り合った。

 午後はバスで洞爺湖へ向かった。途中、昭和新山に寄って、ホテルは「洞爺湖万世閣」。前に泊まった「サンパレス」に負けないほどの大きなホテルだった。夕食後、その近くにある「柴田屋」という土産物店に行った。六花亭の「ふきのとう」という銘柄のホワイトチョコレートを買うためである。最初の修学旅行のとき、日本で最初につくられたホワイトチョコレートだと、バスガイドに紹介され、買って食べてみると、そのあっさりとした甘さに魅かれ、お土産としても好評だったので、リピーターになってしまった。ただ、売っている場所が当時かなり限られていて、柴田屋はその数少ない1軒だった。

 次の日、バスで函館に向かった。2日前に列車で走ったルートを逆行したわけだが、途中の「大沼公園」で串揚げの昼食を食べたあと、午後はいくつかのコースに分かれて活動した。公園周辺をサイクリングするコースもあれば、少し向こうに遠望する「北海道駒ヶ岳」の麓までバスで行き、そこから、頂上に向けてできるだけ高いところまで登山するという過激なコースもあった。私に割り当てられたのは、近くの「ワールド牧場」という所で、いろんな動物たちとの触れ合いを楽しむというものだった。

 さて、バス2台、教師4名、添乗員1名で乗り込んだ「ワールド牧場」だったが、行ってみると、名前に似合わぬこぢんまりしたところで、ところどころに、柵や檻があって、何やかしらの動物がいたが、とくに触れ合いができるというものではなく、動物園とも牧場ともつかぬ中途半端な施設だった。何よりもわれわれ以外はお客がまったくいないといううら寂れた、というよりも荒涼とした風情で、生徒たちもたちまち飽きるというより、気味悪がり、教師、添乗員で相談して、早々と立ち去ることにした。

 不満というよりも呆気にとられたような顔の生徒たちに向ける顔もなく、いったい、ちゃんと下見をしたのか、と恨み言が浮かんでくるばかり。予定よりもずっと早く帰って来た大沼公園のいろんな施設で気を取り直したように楽しみはじめた生徒たちをみて、ホッとしたものだった。サイクリングも、登山も大好評だっただけに、救われた思いだった。

 その日は、湯の川温泉の「ホテル花菱」に投宿。夕食後、バスで函館山の夜景を見に行った。有数の観光名所だけあって、大型のロープウェイがピストン運転されていても長蛇の列ができていた。

 頂上に上がると、さすが日本三大夜景のひとつと謳われるだけあって、素晴らしい景色だった。ちょうど函館山のある岬に向かって両側がくびれているところが、立体感を感じさせるのであろう。そのあたりに船のようなものが浮かんでいるのが見えたが、あとで調べると、青函連絡船に使われていた「摩周丸」が船上海洋博物館として活用されているとのことだった。








 さて翌日は函館自由行動。駅前までバスで送ってもらって、解散。連絡船のなくなった函館駅は見るからに寂れていた。駅前の名物「函館朝市」もお客さんが少なく、活気がなかった。坂を登って、ハリストス正教会などに行ってみたが、時間が早くて閉まっていたりして、そこから見おろす海の景色はのどかだったが、人が少なくて、寂しいものだった。







 時間に追われるように駅前に戻り、バスで「五稜郭」へ向かった。榎本武揚、土方歳三らの「函館戦争」の舞台となった五芒星(ペンタグラム)の形をした西洋式の要塞跡が、横に建てられた「五稜郭タワー」からみごとに見られるのだが、そこに昇る時間はなくて、目的はその下にある食堂での昼食だった。

 今回の修学旅行の昼食はどこも不味くてひどいものだったが、その極め付けがこの五稜郭の昼食だった。メインの料理が函館名物といわれる「イカそーめん」だったが、細切りのイカの刺し身は明らかに鮮度を失って、白く濁り、硬くなって、いくら噛んでも咽喉を通らない状態だった。イカそーめんは噛まずに呑み込むんだ、と豪語していた北海道通の先生でさえ、手に負えない代物で、ほとんどの生徒が食べずに残していた。「これじゃ、駅弁でも食べた方がずっとよかった」 そんな声が教師たちの中から聴こえてきた。

 また函館駅まで送ってもらった北海道の観光バスとはこれでお別れ。駅の改札に入る生徒たちにハンケチを振って別れを惜しむバスガイドさんの目には涙、といういつもながらの感動のシーンを経て、列車は再び青函トンネルを通って青森へ。今度は東北の観光バスが迎えに来ていて、十和田湖の「休屋ホテル」に入った。

 またも、任務分担の集合がかかって、風呂当番、食事当番と細切れの仕事が続き、さすがにみんな疲れ切って、夜のお酒の入った反省会でついに不満が噴出した。

 教師の任務分担をもっと簡素にして、休憩時間を十分つくってほしい、という要求のほか、今日の五稜郭の昼食の不味さ、この前の「ワールド牧場」のひどさについても激しい苦情が出た。これにはさすがの「全権委任主義」の先生も言葉がなく、また、この旅行を企画した旅行社の添乗責任者も平身低頭するばかりだった。

 翌日は、観光船に乗って、子の口(ねのくち)というところまで行き、そこからバスで南下、「尾去沢(おさりざわ)マインランド」に着いた。

 秋田県鹿角(かづの)市に位置する「尾去沢鉱山」は奈良時代に発見され、銅や金を産出、東大寺の大仏や、中尊寺の金色堂にも使われたといわれている。明治になって、三菱の経営するところとなったが、1978年に閉山、坑内や鉱山施設が見学できるテーマパークとなっていた。

 坑内に入ると、坑道は、床、壁、天井のいずれもが、意外にツルツルとなめらかに整備されており、ところどころに銅や鉄の鉱脈が浮かび上がっていて綺麗だった。坑夫たちが掘削している姿や、お茶を飲んだりして休憩している場面、さらには江戸時代の採掘現場の様子などが、等身大の人形を使って再現されていて、30~45分の見学コースは十分に満足できるものだった。

 そのあと、花巻温泉へ。ホテルは前にも泊まった「ホテル花巻」。昨夜の「抗議」の甲斐あって、ゆったりとした任務分担になって、空いた時間に、気の置けない先生たちと、隣のホテルの大浴場に入りに行き、夜はミーティングのあと、教師の部屋に数人集まって、アルコールを友に、遅くまで、最後のホテルの夜を楽しんだ。

 最終日は、バスで平泉へ。有名な中尊寺へはけっこう山道を歩いて行かねばならなかった。「五月雨の降り残してや光堂」と芭蕉が詠んだ「金色堂」は雨ざらしになっているのかと思いきや、鉄筋コンクリートの覆堂(ふくどう)内のガラスケースに収納されていて、その金色のお堂はたしかに光り輝いていたが、思っていたより小さく、何だか「つくりもの」のような気がして、やや失望した。それにしても、中尊寺から下って行く眼下に見える平泉は一帯田圃ばかりで、こんなところに、はたして奥州藤原氏三代の栄華を極めた「都」があったのだろうか、と不思議だった。まさに、「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」だった。

 一関から新幹線に乗って、上野で乗り換え、新大阪に着いたのは19:30。やんちゃな生徒が多くて心配だったが、そちらではたいしたことは起きず、逆に管理者の教師の側でいろいろとあって、はじめて疲れを感じた修学旅行だった。 


 後日談として、この学年のはじめに親から厳しく大学入試の「不振」を指弾された旧高3のあの学年の生徒は、翌年はよく頑張った。「前期・後期」の分離分割方式を採用する大学が東日本にも急増したこともあって、次々と志望校に合格し、現役と一年浪人生を合わせた合格数は、好調だった前年度の学年に引けを取らないものとなった。

 また当初、親子そろって「教師不信、学校不信」に陥っているかに見えたこの学年も、われわれの地道な努力が実を結んだのか、あるいは、第二次ベビーブームに応じた定員増で、高校からほぼ1クラス分の新入生が入学して、学年の中に清新な空気が入ったことも幸いしたのだろうか、本来持っていたと思われる「素直な努力家」の面が表立ってきて、大学入試結果にもよい数字を残してくれ、われわれも「汚名」を雪いだのであった。







 次の修学旅行は2年後のことだった。少し間隔が詰まっているのは、いつものように高3のあと高1ではなく、高2に入ったからである。それは、たまたま高1に空きがなくて、高2が空いていたからであったが、なぜ高2が空いていたのか、それには理由がないともいえなかった。

 4年前の大学入試で大成果を上げ、翌年、入試制度の変更に苦しめられて合格者数を激減させた私たちの学年の「不振」を際立たせた学年があったことは先に述べたが、その時の中心メンバーが再びつくりあげたのがこの学年だった。

 リーダーとなっていたのは、私より10歳ほど年下の国語の先生で、学生時代から私立中学受験専門の「学習塾」の講師を勤め、赫々(かくかく)たる成果を挙げてきたという触れ込みの人だった。

 ただ、当初担当したのは高校の学年で、まだ高校生には慣れていないということもあったのか、あるいは、そんな「触れ込み」が逆効果になって、他の教師や生徒たちにも胡散臭い目で見られたためか、浮いた存在となって、苦しんでいたようだ。そんな彼が活路を見出したのは、数年後、中1に入って、そこで、2人の先生と出会ったことにあった。

 ひとりは、以前、述べたことがある、あの英語科の酒豪の長老先生の「阪神ファン友だち」として、一滴も呑めないのによく酒席をともにしていた、職員室では虫も殺さぬほど温厚なのに、教室に入ると学校一怖い先生に変貌する、と紹介した数学の先生だった。そして、もうひとりは、武道系の体育の先生で、その「強面(こわもて)」ぶりで生徒たちを震え上がらせていた。

 この3人が組んで実行したのは、「刷り込み」という方法だった。「明快」かつ「厳格」というのがこの国語先生の特徴だったが、すでに「出来上がっている」高校生相手に「厳しい」指導をしても、ついてくるどころか、反発されるだけである。これまで小学生相手にやって来た手法がまったく通じないと知って、さぞかしショックだっただろう。しかし、入学したばかりの新中学1年生は、まだ小学生みたいで、これまでの相手とたいして変わらない。そんな連中が、「大きくなる」前に、しっかりと自分のやり方を「刷り込んで」、その後も教えやすい生徒にしてしまおう、ということだった。

 しかし、ひとりだけそんなことをしても孤立するばかりでうまく行かない。運が良かったのは、厳格さでは右に出るものがない数学先生が同じ学年だったこと。そこに生活指導には定評のある武道先生が加わって、生徒の「躾(しつ)け」面を引き受け、ここに、国語、数学、体育のトロイカで「刷り込み体制」が出来上がることになった。この3人が集まったのは偶然ではなく、それ以前に「意気投合」していて、いわば示し合わせて同じ学年になったのかもしれない。

 その「刷り込み」は凄まじいものだったようだ。国語と数学の毎日の宿題は膨大なものだった。例えば、国語の宿題は、1年生にはとうてい無理と思われるような、高校レベルの「長文問題」のプリントが配られ、生徒は、それを解く前に、その長文も含めた問題文をすべて書き写さなければならなかった。

 1文字ずつ筆写すれば、それだけよく頭に入って、理解は深まるのだろうが、時間がとてもかかった。個人差はあったようだが、夜中遅くまでかかっても国語の宿題が終わらないこともあり、さらにそのあと数学の宿題も残っていた。そして、翌日、宿題を提出できないと、はげしく叱責された。詳しくは知らないが、今日(こんにち)では「パワー・ハラスメント」とされるような「暴言」や、時には「体罰」もあったようである。

 そのような「苦行」に耐えて、着々と実力をつけていった生徒もいたが、挫折した者もいた。なかには、不登校になった者もいた。学校カウンセリングの委員もしていた私は、そんな生徒のひとりのカウンセリングを担当したことがあった。

 何回も家庭訪問し、その時はいつも温和な笑顔で応対してくれたが、学校でどんなことがあったかはひと言もしゃべらなかった。場を変えて、母親と面談した時、大量の宿題に親子ともども涙しながら徹夜したことが何度もあったとか、学校に行かなくなってからは、家の中で暴れて、襖や家具をほとんど壊してしまったなど、凄まじい話を聴いた。

 そんな彼が、高校1年の頃、久しぶりに学校に顔を見せたことがあった。その時、中庭で、あの「刷り込み」の国語先生と遭遇した。

 その場に居合わせた私は、ハッと、マズイことになったな、と思ったが、「やあやあ、久しぶりだな。元気にしてるか?」と、先生がまったく悪びれない笑顔で話しかけると、彼は、私に見せるよりも数倍明るい顔をして、うれしそうに、「ありがとうございます」と応えて、ふたりはそのまま近くのベンチに座り込んで話しはじめた。

 席を外した私があとで彼に「どうだった?」と訊いてみると、「懐かしかったです」のひと言だった。こころからそう思っているようで、あれだけひどい目にあわせた張本人だからさぞかし恨んでいることだろうと思い込んでいた私は肩透かしを喰らった気がした。力づくの「恐怖支配」だけではなく、そこには、何か、こころが通じ合うものがあったのだろうか。そういえば、こういうこともあった。

 私がこの学年に入ってすぐの春休み、新しいクラス編成をしていた時のこと、私はもちろん志願して担任を持っていたのだが、成績不良のため、上の学年から留年して落ちてきた生徒がひとりいた。この学校では珍しいことだったので、誰もが困惑し、二の足を踏んでいた。その時「ぼくが持とう」と云って引き受けたのが、その国語先生だった。そして彼は、その後2年間、その生徒の担任となって、実にきめ細かく面倒を見、無事に卒業させて、現役で大学に入学させたのである。


 この修学旅行を担当したのは、「刷り込み」トリオの3人のようであった。下見も3人で行ったようで、その中の武道系の先生は、5年前、私たちといっしょに「東北・北海道」コースの修学旅行の応援引率に来ていたので、そのコースを参考にしたとのことだった。

 9:29、新大阪発の「ひかり」に乗って、東京駅で東北新幹線の「やまびこ」に乗り換えた。5年前とちがって、東京・上野間の新幹線が開通していたので、乗り換えは楽だった。東京までは、「刷り込み」の国語先生と同じ席になった。この学年に来て2ヶ月になるが、これまで差しで話をしたことはなかった。

 開口いちばん、「この学年の生徒はどうですか?」と訊かれて、取りあえず、「みんなおとなしく、よく授業を聴いてくれます」と答えると、「ここまで持って来るのに、どれだけ苦労したことか...」と、中学1年以来の「刷り込み」の歴史を滔々(とうとう)と語りはじめた。

 「生徒にはもちろん、親たちにも、学習は最初が肝心、最初さえスムーズにスタートできれば、あとは楽になります。ただ、そのためには少々手荒いことをするかも知れませんが、それはご容赦ください、と口酸っぱく云って、なんとか今までやって来たんですが、それはいろいろありました...」という話が延々と続いた。

 前の廻りでの画期的な実績を引っさげていたので、親からも生徒からも大いに期待されていただろうと思っていたが、その裏側の「手荒な」やり方に対する危惧も拡がっていたようで、「刷り込み」の道はそんなに平坦なものではなかったようだ。強く支持する親たちがいる反面、不安と批判を内心に秘めた親も少なくないようだった。

 私がこの学年に入って1ヶ月経った頃に開かれた、親向けの「学年集会」の冒頭で、彼は「毀誉褒貶、という言葉をみなさん、漢字できちんと書けますか? 私は何と云われようと、それが書けるように、生徒たちに教えてきました」と謎めいたコメントをした。いったい何が云いたいのか、その時は判らなかったが、あとになって、彼の、この学年、あるいはこの学校での複雑な立場を物語っていたのだな、と思った。


 「やまびこ」に乗り換えたあと、遅めの昼食が配られたが、その駅弁はとても豪華なもので、前回の貧弱な昼食とは雲泥の差であった。また、ここからは、トリオの、数学先生と武道先生も同席となった。武道先生は5年前の修学旅行の際、他の体育系の先生たちといっしょに行動をともにするうちに懇意になっていたし、数学先生とは阪神タイガースのファン同士ということで、他のファンの先生らといっしょに何度も甲子園へ「応援ツアー」に行った中であった。しかし、こうして一同が勢ぞろいする中に入ったのは初めてで、中でも数学先生が意外に饒舌で、話題が広く、花巻までの数時間、ほぼひとりで会話をリードしていたのには驚いた。おかげであっという間に時間が経って、列車の中でウトウトする時間はまったく取れなかった。

 そういえば、この数学先生は、以前、私が持っていた「丙午」の学年が中学生の頃、「総合学習」か何かの時間で、ソフトボール、サッカー、テニス、卓球などの運動系のほか、楽器合奏、写生、俳句、自然観察など、芸術系や文化系などからも生徒が自由に選べる「講座」を開設したとき、わざわざ他学年から応援にきてくれたことがあった。

 そのとき先生が提案したのは「数学入門」という講座であった。岩波書店から出ていた、遠山啓の『関数を考える』という、中高生向きにかかれた本を、応募した10数名の生徒全員のために学校の図書館で購入したのを貸し与え、週1回、1年かかって読み合わせるというものである。残念ながら、その講座がどのようなものだったのか、先生は怖くなかったか、など、受講した生徒から聴きそびれてしまったが、教室では「鬼」と陰口を叩かれている先生の、いかにも数学教師らしい「数学好き」な一面を垣間見て、微笑ましく思ったものである。

 花巻は、私にとってはもはや3回目になる「ホテル花巻」だった。ホテルに着くと、国語先生が、他の先生方に、「ホテルでのことは、私たちが、生徒の修学旅行委員や各班の班長を使って、きちんとやりますから、みなさん、ゆっくりと休んでください」と告知。そこでお言葉に甘えて私たちは自分たちの部屋に荷物を置いて、いつもと同じように、渡り廊下を通って、隣のホテルの大浴場をゆっくりと楽しんだ。夕食は、テーブルごとに運ばれてくる大皿から各人が自由にバイキングする方式で、料理はどれも美味しかった。

 生徒の就寝時間が過ぎたあと、料理とアルコールが出て、「反省会」があった。旅行社の添乗のキャップも最初同席していたが、2年前と同じ旅行社で、その時はサブでついていた添乗員が今回はキャップに昇格していた。顔見知りだったので、「この前の食事はあまりよくなかったけれど、今回はよいみたいですね」と遠慮なく云ってみると、「あの時はたしかに悪かったですね。私もそう思っていたのですが、応援部隊で、何も云う権限がなかったもので... その節はたいへんご迷惑をおかけました。今回は、下見の先生方のチェックもしっかり入っていますので、全然心配はありません」とのことだった。

 必要な打ち合わせが終わったあと、慰労会になった。しかし、新幹線の中でまったく眠れなかったのが応えて我慢できず、早々と部屋に退散したが、トリオの先生方らは1時頃まで「反省」していたとのことだった。

 翌日は朝から雨だった。以前、丙午の学年の修学旅行で「雨男」認定された先生が今回参加していて、どうもその先生の所為(せい)のようだったが、そのことは誰にも云わなかった。この日は「八幡平」「小岩井牧場」「尾去沢マインランド」と3つのコースに分かれる予定だったが、雨で計画が滅茶苦茶になってしまって、とてもそんな冗談口を叩ける雰囲気ではなかったからだ。

 私が付き添った「マインランド」はさいわい雨の被害がもっとも少ないコースだった。坑道を歩くのは2回目だったので、前回ほどの感動はなかったが、生徒たちはけっこう目を丸くしていたようだった。外の食堂でジンギスカンの昼食を食べたあと、坑道を利用したライド施設に入り、アドベンチャープルトン号という高速の乗り物に乗った。坑内は真っ暗でそんなところを走ってもしようがないのだが、レーザー光線を使ったさまざまな目のくらむような映像が窓から楽しめるようになっていた。

 3グループが合流して、十和田湖へ。遊覧船には乗ったが、奥入瀬渓流の遊歩道を歩く予定は流れて、その真っ只中にある「奥入瀬渓流グランドホテル」に到着した。

 このホテルは今回の修学旅行の最大の目玉だそうで、中に入るとロビー中央には、あの岡本太郎製作による大きな陶製の暖炉が設えられ、その上には巨大な釣り鐘がぶら下がっていて、度肝を向かれた。まだ出来てまもなくの、修学旅行で使うのは今回がはじめてという豪華なホテルで、「刷り込み」トリオ、および旅行社の自慢の企画だった。

 部屋も立派で、夕食後、カラオケルームを生徒に開放したのが好評で、雨に祟られた一日のマイナスを十分に取り戻すことができた。教師にも、夜、美味しいご馳走とワインなどが準備されて盛り上がり、この夜は私も張り切って、2時のお開きまでお付き合いした。

 次の日は青森までバスで出て、JRで青函トンネルを通って函館へ。昼食は、車内の駅弁だった。午後は自由行動となる。青函トンネル開通のあおりを食って寂れかけていた函館市内はこの2年間ですっかり立ち直っていた。函館港沿いに並ぶ古びた「赤煉瓦倉庫」は内部を改装して、飲食店やお土産物店などに変身、一大観光名所となっていた。

 そんな中のひとつのカフェに、「中途入社」組の気の置けない先生方数名と入って、ゆっくりとコーヒーを飲み、そのあと、市内の「日本最古」巡りをした。

 幕末にいち早く開港された「国際貿易港」の土地だけあって、数々の「日本で初めてのもの」があると、生徒の修学旅行委員たちが作成した「観光案内」に紹介されていたので、それを頼りに「日本最古のコンクリート電柱」「日本最古のストーブ」「日本初のコンクリート製寺院(真宗大谷派函館別院)」「日本初のギリシャ正教会(函館ハリストス正教会)」などを次々と廻り、市電に乗って、湯の川温泉のホテルに到着した。生徒の各班も、17:30の集合時間までにすべてホテルに到着した。夕食後、函館山の夜景へ。今回も綺麗に見えた。ただ、生徒間のちょっとした「いじめ」事件が発覚。夜遅くに、被害者の生徒が訴えてきたもので、詳しい調査は翌日にすることになった。

 翌日は、バスで大沼公園に向かった。「ワールド牧場」でひどい目にあったところだが、今回は全員一律に「サイクリング」となった。その前に「いじめ事件」の調査が、生活指導担当の武道先生を中心に行われ、すぐに事実を確認、加害者も素直に認めたので、長万部での昼食後に手短に「引率者会議」を開いて「謹慎処分」を決定、指導分担も決められた。その驚くべきスピード決着は中学時代の「刷り込み」の賜物だったのかも知れない。

 洞爺湖に入ると、まず「フルーツ村」に行った。イチゴのビニールハウスで食べ放題したあと、リンゴ農園で余分な実を間引く「摘果」作業もした。わずか30分ほどだったが、後日、その時のリンゴが実ったと、大量のリンゴが学校に送られてきて、生徒全員に配布することができた。

 それから、定番の「昭和新山」へ。今回はその麓から「有珠山ロープウェイ」に乗って、有珠山山頂まで登った。標高737メートルからの展望は、真ん中に島を持つ洞爺湖の全景が見渡せられる予想以上の素晴らしいものであった。ホテルもいつもの「洞爺湖サンパレス」だったが、夕食後の湖面の花火大会はなんど見てもこころが高揚する。部屋は前回と打って変わって快適だった。「いじめ事件」の謹慎指導も順調にいっており、その夜の「反省会」は大いに盛り上がって、2時頃まで続いた。

 翌日は、札幌と小樽の2つに別れての自由行動となっていた。私は小樽に配属されていたが、小樽ははじめてだった。港があり、運河があって、赤煉瓦の倉庫が並んでいる、という、あの函館とはどこか似たレトロな雰囲気があり、当てもなく、町中をぶらぶらし、「ヴェネツィア美術館」でガラス製品の展示を見たりした。そのあと観光バスで、このところ定宿となっている札幌郊外の「定山渓ビューホテル」に入った。












 翌朝は、バスでまた小樽まで行き、小樽港から新日本海フェリーに乗った。5年ぶりだったが、今度乗った「ニューあかしあ号」というのはさらに改善されていた。100人以上入る「シアタールーム」が設置され、そこではカラオケもすることができたので、数時間ずつ2回ほど借り切って「カラオケ大会」をした。以前はこういう時に出てきてマイクを握る生徒は限られていて、教師が無理やりひっぱり出されたものだったが、このたびはマイクの前に行列ができるありさまで、唄いたい教師もその列に並ぶしかないほど、時代は変わっていた。

 例の「いじめ加害者」の謹慎指導の当番以外とくに仕事はなく、教師にとって、帰りのフェリーは旅の疲れを取る絶好の時間だった。ベッドで昼寝する者もいれば、映画のビデオを何本も借りてきて部屋のテレビで見る者、甲板に出て、ぼんやりと海を眺めている者などさまざまだった。私も、ベッドでウトウトしながら、持参した文庫本をはじめて開いていた。そして、夜になると、打ち合わせのあと、ビールやワインを飲みながらの「反省会」。そんな中、生徒が飲酒して泥酔しているのが発覚、その場は看護師さんに手当をしてもらって、取り調べは翌日ということになった。

 朝食の関係で起床は7:00。昨夜遅かったので、眠い目をこすりながら食事を済ませると、自分の部屋に戻ってベッドでウトウトしていた。

 そこへ、「少し部屋を借ります」と入ってきたのは生活指導の武道先生。恐縮しきった生徒を連れていた。昨夜の泥酔生徒である。武道先生が怖いことは入学以来強く刷り込まれているので、恐怖でぶるぶる震えているのが判った。

 半殺しの目に合うのでは、と目をつぶって正座したその生徒にかけた武道先生の声は意外に優しかった。この先生とは5年前の修学旅行以来懇意にしていて、その気性はある程度知ってので、私には予想できたことだった。

 強面で高圧的な「締めつけ」がこの学年の特徴と思えたが、こと生活指導に関しては、事細かに「管理する」という発想はなかったようである。「はみだした」行動をしてしまうのはこの年代の若者の特質で、自分自身、その頃を振り返えれば思い当たることは多々ある、という立場。とくに「やんちゃ」なことはいろいろやってきたと、なかば自慢気に語ることも多い武道先生だけに、機微を心得ているところがあった。

 先生がまず、「事の子細を包み隠さず話してみい」と抑えた声で促すと、すっかり怯えきっていた生徒はスラスラと経緯を述べた。その場で自分と一緒にいた者やいっしょに飲んだ者も隠さずに白状した。

 その素直さに頷いた先生は「酒の飲み方知らんやつが無茶な飲み方して、急性アルコール中毒で死んでしまう者もいてる。そんなこと聴いたことあるやろ。そやから、泥酔した者が出た時、怒られるのん覚悟で知らせに来たのはええことやった。それは褒めたる。そやけど、高校生の分際で、しかも修学旅行で酒を飲むなんて、とんでもないことや。それは反省してもらわなあかん。それに、ぐでんぐでんになって、助けを求めなあかんようになってしもたことは、もっともっと反省してもらわなあかん。世の中、何ごともけじめが肝心や。よう憶えとけ」

 思いがけない優しい指導に、生徒は感極まって、号泣していた。

 「勉強しない」ときには、とびきり厳しい制裁があったが、生活指導に関しては、けっこう人情味のあるところもあったようだ。もっとも、取り調べの部屋に、私ら何人かの教師が同室していたことも意識されていたのかもしれないが。

 飲酒生徒たちの指導は学校に帰ってからということになり、船は16:00に舞鶴港に着き、バスで大阪に戻ったのは19:00だった。

 かくして、はじめは、おっかなびっくりだった、この学年の修学旅行は無事に終了した。リーダーの「刷り込みトリオ」の先生たちの、私たち一般引率教師に対する気配りはきめ細やかで、彼らに統制された、修学旅行委員を頂点とする班単位の生徒たちの動きもきびきびとしていて、最初から最後まで気持ちのよい旅だった。それもこれまでの長い「刷り込み」の努力の賜物だったと云えるのだろう。


 このあと、体育祭、文化祭などの大きな行事も無事にこなし、3年生になって本格的な受験勉強も順調に進んで、予定通り、立派な進学成績を残すことができた。

 そんな生徒たちが卒業して何年か経った後、彼らと再会する機会があったが、その時、だれもが口を揃えて云ったのが、「とにかく、勉強する習慣だけはつけさせてもらいました」という言葉だった。


    ひややかにみずをたたへて

    かくあればひとはしらじな

    ひをふきしやまのあととも


 太宰治がよく引用していた、芦ノ湖を読んだ生田長江の歌である。私が2年間接したのも、凄まじい「修羅場」を経たのちの、平和で穏やかな世界だったのかもしれない。


(つづく)


【自註】

 合計11回の北海道旅行の6番目〜8番目の3回分を取りあえずまとめた。もはや「旅行記」というより、学校の仕事の記録のようになってきたが、こんな時代、こんな学校もあったのだ、というささやかな「歴史」の証言ともなればと思っている。

(2022.09.08)




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