北海道3


北海道3




 「刷り込み」の学年は予定通り、大学入試で好成績を残して卒業した。「刷り込みトリオ」の先生たちはまた、新しい「刷り込み対象」を求めて、中1へと降りていったが、私はいつも通り、高1の学年に入り、前回から3年後にまた修学旅行の引率団に入った。

 誰が云い出したのか、どういう経緯があったのか、よくは憶えていないが、旅行中の夜のミーティングでのアルコールはやめようということになった。

 12年前の丙午の学年の修学旅行で、私が事実上の引率責任者として意地を張りあった相手の、あの形式主義者の校長はすでに退任し、後任にはやはり公立高校の校長経験者がやってきていたが、この校長は、学校を「公立色」に染め直そうという傍(はた)迷惑な「改革野心」はまったくなく、昔からの前例を唯々諾々と踏襲するタイプだったので、そこから指令があったとは思われなかった。ただ、この学年のメンバーはここ数回とは違って、比較的馴染みの深い人たちだったので、そこから出てきたこの新方針には却って口を挟むのも憚られるところがあった。

 しかし、日常とは異なる時間・空間に置かれることによって、日頃気がつかない友人関係を見出したりすることができるのが、宿泊をともなう団体旅行の醍醐味ともいえるのだが、それは引率する教師にも当てはまって、一日の仕事を終えたあと、お酒でも飲んで寛いだ中で交わされる雑談のうちに、人間関係や仕事の上での発見があったりもする。だから、そんな機会が少なくなるとすれば、修学旅行の楽しみも半減だな、と思わざるをえなかった。

 夕方に大阪駅に集合し、17:47発の寝台特急「日本海1号」に乗車した。寝台車も二度目とあって、こちらも慣れてきて、夕食として配布された弁当といっしょについていた缶ビールを飲みながら同僚の教師と雑談したあと、午後8時過ぎには2階のベッドに上がり込んで、文庫本を読んだりしているうちに、ウトウトと眠ってしまった。下の席では、何人かの生徒がやってきて、こんな時とばかりに、教師との会話を楽しんでいたようだった。

 朝の光で目が覚めたのは午前7時。列車は秋田付近を走行していた。朝食の弁当が配られ、青函トンネルを通って、函館駅に着いたのは11:16。さっそく自由行動となったので、何人かの先生たちと「朝市」や「倉庫群」をぶらぶらして、倉庫の中の海鮮食堂で、ウニ・イカ・イクラの「三色丼」を食べた。話の種にと奮発したのだったが、2000円もした。魅力的な海産物のお土産もたくさん売られていたが、旅が始まったばかりなので、最小限のものだけにした。

 集合場所から観光バスで洞爺湖温泉へ。ホテルは「洞爺湖パークホテル」というところで、目の前に、例の土産物店の「柴田屋」があったので、夕食後の自由時間に行って、六花亭のホワイトチョコをどっさり買い込み、店から宅配便で自宅に送ってもらうようにした。前々回の修学旅行あたりから、宅配便が普及して、旅行の終わり頃に生徒たちも、お土産物や洗濯物を段ボールの箱に入れて家に送り届けることができるようになっていた。

 夜にはいつもの花火大会があったが、もうこれまでに何度も見たので、その時間を利用して入浴した。就寝時間後の教師のミーティングは予告通り、アルコールはなし。コーヒーやウーロン茶を飲みながら、今日一日の総括と明日の予定・分担を確認すると、早々と散会となった。部屋に入ると、冷蔵庫にはビールやお酒がたくさん入っており、その横のお盆の上には「夜食」として、唐揚げ・ポテトフライ・おにぎりなどが載ったお盆が用意されていたので、同部屋の先生たちと杯を交わしたが、そんなに盛り上がることはなく、早々と就寝した。

 翌日は、阿寒湖の観光船に乗ったあと、定番の昭和新山へ。短い自由行動があったので、近くの「昭和新山熊牧場」に入ってみた。

 深い堀の向こう側に大勢の「ヒグマ」がたむろしていた。餌として、リンゴを刻んだのを売っていたので、それを購入して、投げ入れてやると、後ろ足で立ち上がり、上手に口を開けてパクリと喰いついた。その姿がおもしろくて、なんども餌を買い足した。中には、そんな私に手を振って餌を求めるヒグマもいた。投げてやると器用にキャッチして、また手を振っている。なんだか、ヒグマのぬいぐるみの中に人間が入っているような気がしてきて、可愛いというより、不気味になってきて、そそくさと、その場を立ち去った。

 昼は前回にも行った「フルーツ村」で、リンゴの摘果はしなかったが、屋外でジンギスカンを食べた。付き物のビールは出なかったが、濃いタレのついた焼き肉が白いごはんとうまくマッチして、何杯もお代わりして、お腹がいっぱいになってしまった。

 そのあと、バスで北上して、層雲峡へ。ホテルは、なんども泊まったホテル層雲の別館に当たる「層雲峡グランドホテル」というところだった。ここでの目玉は、翌朝のサイクリングだった。石狩川沿いの渓谷美の名所に沿って、サイクリングロードが設けられていて、朝の涼しい空気を切って、そこを走り抜くのは思っていたよりもずっと楽しいものだった。しかし、天候が傾いてきて、サイクリングが終わった10時頃から雨が降りだした。そういえば、あの「認定雨男」の先生が同行していたのだった。

 バスで、然別(しかりべつ)湖へ行くうちに雨は本降りとなった。到着した「然別湖畔温泉ホテル」は停電していて、昼食をつくることができず、急遽調達された弁当を薄暗いホテルの部屋で食べる羽目となった。

 この日の午後にはいろいろなコース別のイベントが予定されていたが、マウンテンバイクのツーリングは中止となった。然別湖でのカヌーはビニールのヤッケを着て強行されることになった。また、近くの川での「渓流マス釣り」の一行も出かけていった。さいわい、私の担当は屋内での「ソーセージつくり」だった。いろんな材料を混ぜたものを練って餡(あん)をつくり、それを特殊な機械を使って豚の腸の中に注入する。その作業はおもしろかったが、途中、カヌーが転覆した、という知らせが入った。

 急いで、外に出てみると、2艘のカヌーがひっくり返っていて、さいわい、浅瀬だったので、乗っていた生徒がじゃぶじゃぶと歩いて岸に戻ってくるところだった。どうもふざけていて転覆したらしい。こっぴどく叱られた彼らは、着替えをしに部屋へ入って行った。

 あの雨の中のマス釣りも6尾の成果があったとのことで、付き添いの釣り好きの先生が釣った1尾がバター焼きにされて教師の食卓にも出てきたので、ひと箸味あわせていただいた。もちろん、自分たちがつくったソーセージも湯通しされて出てきて、その歯応えと美味を堪能した。

 ホテル3日目のその夜は、アルコールなしのミーティングが解散したあと、もう我慢できなくなった「アルコール派」の教師たちがある部屋に集まり、各教師部屋の冷蔵庫から集めたお酒やビールを飲みながら、これまでの「不満」を吐きだすとともに、好かったことなども意見交換し、大いに気炎を上げることができた。

 翌日はバスでさらに南下して「日高ケンタッキーファーム」へ。昼はまたジンギスカンだった。焼きそばもついていたが、咽喉の渇きを我慢しながら白ごはんをかき込んだ。

 ここは、元競走馬の牧場を中心に、いろんな施設があり、午後はそこでの自由行動となった。見廻り方々、マウンテンバイク、アーチェリー、卓球などをした。

 自転車は前日乗って好い気分が続いていたが、同じところをグルグル廻るので飽きてしまい、次に手に取ったアーチェリーは私の好みに合いそうだったが、意外に膂力(りょりょく)を必要とするようで、すぐに疲れて、そうなると、全然「的外れ」になってしまって、これも中途でダウンした。

 やっぱり頼りになるのは、高校時代に2年間ほどクラブに入って活動した卓球だった。あれから30年以上経っていたが、一度身についたフォームは身体が覚えていて、経験のない「素人」の生徒など歯牙にもかけない力はまだ残っていた。挑戦してくる相手に連戦連勝、ごく狭い範囲でのことだったが、生徒たちの間でちょっとした「修学旅行の神話」ともなった。

 宿泊は、ファーム内に点々と建てられた、丸木造りの山小屋風の「コテージ」に分宿した。小さいながらも二階建てになっており、ベッドが6つほど置かれていて、風呂、トイレもついていた。夕食はファーム内の「大食堂」で、ジンギスカンではないにしても、またしてもバーベキューだった。この日は、昨日のミーティングで強硬に主張したのが通って、やっと生ビールが出た。

 私は、物理の選択クラスの授業を持っている関係で他学年から応援に来た先生といっしょに、小さめのコテージに泊まった。日頃からよく酒席をともにする気の置けない先輩の先生だった。少し冷えてきたので、備え付けの「薪ストーブ」に点火し、ベッドでウトウトしているうちに、点呼の時間がきたので、午後10時半に手分けして、分担されたコテージを廻った。帰ってからシャワーを浴び、日が変わる前に就寝したが、翌朝、とんでもない事件が起こっていた。

 朝食後、緊急の会議が招集された。昨夜、深夜に、少し離れたところにある、バスガイドさんたちが泊まっているコテージのひとつに侵入した者があったというのである。

 寝ていたガイドさんが目を覚ますと、ストーブの向こうに複数の人影がしたので、怖くなって大声を出すと、人影は慌てて、入り口の扉から逃げていったとのことだった。

 急いで、バスの主任運転手に館内電話で連絡すると、旅行の添乗員を通じて、引率責任者の先生らが駆けつけてきた。玄関の鍵はたしかに内側から閉めたはずだったが、どうも風呂場の窓の鍵が閉まっていなかった。小さな窓なので大丈夫と思っていたようだったが、格子が入っているわけでもなく、人が通るのがまったく不可能ではない大きさだった。ガイドさんの持ち物を調べてもらうと、ストーブの傍に乾してあった下着が数枚なくなっていたという。

 宿泊客は、われわれ修学旅行の団体しかいない。まさか、うちの生徒が? いや、きっと外部の人間の仕業に違いない。

 そう思いたいのは人情だが、客観的に見て、それはありえないことだった。生徒たちに知られると大騒ぎになるので、こっそりと調べることになった。まず、ありうるのは、盗んでいった下着の始末だ。事件が発覚するのは決まっているので、それをいつまでも持っているのはリスクが大きいから、きっと処分しているはずだ。生徒たちがコテージを出て行ったあと、表に出されたゴミ袋を調べてみよう、ということになった。

 また、ガイドさんたちが泊まっているコテージの場所など教師も知らなかったのに、どうして知っていたのか。それはガイドさんの証言からすぐに判明した。一昨日、然別湖のカヌーで転覆した生徒の衣類はなんとかホテルで乾かしてもらったが、靴が十分に乾いていなくて、ガイドさんのコテージのストーブには薪が用意されていると聞いて、何人かの生徒が靴を乾かしてもらいに来たという。

 生徒が出て行ったあとのコテージとゴミ袋の捜索は空振りに終わった。目的の下着は見つからなかったが、ビールの空き缶やたばこの吸い殻が見つかったところがあった。「この忙しい時に」と、忌ま忌ましく思ったが、放っておけないので、あとで呼び出すことになった。

 さて、残ったのは、靴を乾かしてもらいにコテージを訪れた生徒の調査である。それが誰だか、ガイドさんにはわからなかったが、カヌーを転覆させた生徒は判っている。ただ、このあと、バスで札幌に向かって、自由行動の予定となっており、出発時間が迫ってきたので、その4名の生徒の調査は、札幌に着いてから、ということになった。

 札幌大通り公園のテレビ塔が本部となって、自由行動となったが、私と、コテージで同室だった物理の先生が、そのうちの1人の生徒の尋問を担当することになって、一室に呼びだした。ちょろちょろとした、授業中に教師に突拍子もない質問をして教室の笑いを取ったりするのが好きな、お調子者の生徒だった。

 まず、ガイドさんの部屋に行ったことがあるか、と尋ねると、それはすぐに認めた。そこで、実は、と深夜に起こった出来事を話し、何か心当たりはないか、と訊くとそれは強く否定した。あと手を変え、品を替えて、いろいろ尋ねてみたが、靴を乾かしてもらいに行っただけでそれ以外のことは一切知りません、の一点張りだった。そこで、実のところ、われわれも困ってるんや、と、方向を変えてみた。

 「ガイドさんたちは激怒してはって、警察に訴えると云っている。夜中に人の部屋に勝手に入ったりするのは〈不法侵入〉で立派な犯罪なんやから、それはもっともなことや。そやけど、警察に被害届を出されると、警察がやって来て、捜査が始まるよな。そうなると、われわれみんな足止めを喰(くろ)うてしまう。今晩泊まって、明日の朝早くフェリーで大阪に帰る予定やったけど、捜査の決着がつくまではフェリーに乗られへん。当然、なんでやとみんな騒ぎだす。挙げ句にもし誰か、われわれの中から犯人が見つかったら、それがこんな大騒ぎを引き起こした張本人やと判ったら、そいつはきっと一生みんなに恨まれるやろな。でもな? もし、早いこと犯人が判ったら、なんとか謝り倒して、被害届だけは出さへんようにしてもらえるかもしれん。そやから、なんとか、われわれも手掛かりが欲しいんや」

 それまでじっと黙っていた物理の先生がここで口を挟んだ。この生徒は物理を取っていないので、この先生のことは知らない。

 「警察が来たら、まず最初に調べるのは、ガイドさんのコテージに行ったことのある者らや。お前もそうやな。実は、俺はこの学校に来る前に警察に勤めとったことがあるからよう知ってんねんけど、警察の取り調べは、こんなもんやあれへんぞ。この10倍ぐらいはきつい。覚悟しときや」

 そこで彼を解放して、私たちは自分の自由行動に出かけた。ぶらぶらと歩いて通りを北上し、途中でラーメンを食べて、札幌駅の地下街でお土産物の買い物をした。

 「先生、ほんまに警察に勤めてはったんですか?」

 「あれはウソ。あんまりしらばっくれるから、ちょっとハッタリかましたったんや。P先生が警察に居たはったん、知ってるやろ。昔、あの先生と万引き生徒の取り調べをしたことがあるんや。なかなかしぶとい奴でな。そこでP先生があんな風に啖呵切ったら、あっという間に吐きよった。今度も、効果があったらええねんけどなぁ」


 テレビ塔の本部に帰ると事件は解決していた。

 なんでも、私たちの尋問が終わると、あの生徒は真っ青な顔をして、慌てて跳び出して行ったという。そして、30分ほどして、同じコテージだった3人を引き連れて、自首してきた。付き添いの女性看護師に、彼らのバッグを調べてもらうと、盗まれた「下着」が見つかったとのこと。

 ガイドさんやバス会社への謝罪などで、学年代表、学年の生活指導担当、校長代理などの役目を背負った人たちはたいへんだったようだが、旅行の日程は崩せない。自由行動が終わると、バスで定山渓温泉の「ビューホテル」へと向かった。問題の4人の生徒たちは、バスに乗せずにタクシーに分乗させて、教師が連れて行った。夕食後、アイヌ文化の伝承やアイヌ伝統工芸品の復元などの活動に尽力されている「小川早苗」氏の講演を聴き、生徒たちを就寝させてから、ミーティングとなった。

 カヌーで転覆した生徒がガイドさんのコテージで靴を乾かしてもらったという話をすると、同室の誰からともなく、行ってみよう、ということになり、真夜中の2時過ぎに出かけて行ったという。当初、どこか隙間があれば覗いてみようというぐらいだったが、たまたま風呂場の窓の鍵が開いていて、何とか入れそうだと、一人が侵入。玄関の鍵を内側から開けて、みんなを招き入れたとのこと。すると、ガイドさんの一人が目を覚まして大きな声を出したので、慌てて、逃げ帰った。彼らはそのように証言したそうである。もうこれだけで立派な犯罪なのだが、一歩間違えば、取り返しのつかない事態になっていたとも限らない、おぞましい事件である。

 さて、これからこの事件をどう処置すべきか。正式の処分は学校に帰ってから職員会議で決定されるのだが、それに提案する学年の案をつくらなければならない。開口一番、学年代表の先生が口を開いた。あの「認定雨男」の先生である。

 「学校に残す、という方向で指導したいのですが」

 この学校の規定では、生徒の処分は「退学」「停学」「謹慎」の3段階であったが、ほとんどの場合、「謹慎」で済ませていた。それも授業を受ける権利は保障するために「学校謹慎」ということで、授業中、おとなしくしている限り、教室に入るのを許していた。そして、昼休みには職員室に呼び出して、そこの別室で弁当を食べさせ、そのあと、担当の教師の指導を受け、また放課後にも2時間程度、指導を受けることになっていた。期間は普通1週間で処分は完了である。中にはなんども処分を受ける生徒もいたが、だからといって、ランクを「停学」などにあげることはまずなかった。「なんども同じ間違いを繰り返す者に対しては、なんども同じ指導を繰り返していくしかない。それを繰り返すことによって、だんだんと善くなっていくのだ」という思想が根底にあった。

 しかし、年月が過ぎ、教師も少しずつ世代交代するにつれて、その姿勢は揺らぎはじめてきた。犯した罪の軽重に応じて、罰にも軽重を付けるべきではないか、問題を繰り返す生徒に対してはもっと思い罰を与えないと「抑止効果」はないのではないか、という議論が起こりはじめ、「学校謹慎」の次は「家庭謹慎」となり、ついには「停学」処分を受ける生徒も現れはじめた。

 学年代表の「雨男」先生が、調査もまだ終了していないこの時期に、ふと、そんな提議を漏らしたのは、そんな背景があったからである。学校に帰って職員会議でこの事件を報告すれば、「なんてひどいことだ!」「とうてい許されるべきではない!」などという声が出て、思いっきり「厳罰」を求める提案が出てくるかも知れない。処分の原案は、職員会議の前に、各学年の生活指導担当が集まった「生活指導部」と当該の学年団との合同会議で決められるが、その第1案は学年が出すことになっていた。その学年での意思統一の段階で「先手」を打っておきたいという思惑が「雨男」先生にはあったのだろう。

 厳罰とは、いわば「伝家の宝刀」のようなものである。抜くぞ抜くぞと脅している間は効果があっても、いったん抜いてしまえばそれでおしまいだ。その罰にはすぐに狎(な)れてしまって効き目が薄くなるので、もっと厳しい罰へとエスカレートすることになる。学校の場合、行き着くところは「退学」で、それではもはや「指導」ではなくて、「厄介払い」にすぎない。

 若い頃、何年間か、生活指導を担当していたこともあった。そのとき、警察や家庭裁判所と各学校の生活指導担当者が意見交換をする会合があった。その時、警察の少年課の係官や家裁の裁判官たちがくりかえし要望してきたのは、生徒を簡単に退学させないでくれ、ということだった。

 問題生徒を退学させると、学校はそれで清々するかも知れないが、問題はそれで解決したわけではない。退学になった生徒は不安定な立場で街に放り出されて、狼を野に放つ、というよりは、野獣の群の中に傷ついたウサギを放り込むことになり、その対応に、われわれ警察や家裁は追いまくられることになる。だから、できることならば、なんとか学校内でうまく指導して欲しい、とのことだった。

 また、生徒が校外で問題を起こしたとき、警察はなるべく学校には知らせないようにしている。なぜなら、学校に知らせるとすぐに退学させてしまうケースが多いから、という警察の本音の声も聴かされた。

 学校が「厳罰主義」に傾いていくにつれて、生徒が正直に白状することも少なくなるであろう。これまでなら、最後は許されると思っているから、包み隠さず何もかも話し、そこからはじめて「指導」というものが始まるのだが、本当のことを云うと、学校を追い出されてしまうかも知れないとなると、口を閉ざすか、嘘で塗り固めてしまうしかない。その先は形式的な「罰則」が適用され、機械的に「指導」されて決着する。そんなところからは、生々しくも温かい人間のドラマなど生まれようがない。「警察の厳しい取り調べ」をほのめかされて、「おそれいりました」と白状する「可愛さ」も消えていってしまうであろう。

 要するに、学校が罪を判定する裁判所みたいになり、逆に、警察などの方がずっと「教育」的なのである。このあと、私が定年を迎えて「専任教諭」の地位を去るまでの10年ほどの間に、その傾向は大きく進んでいった。

 その夜のミーティングは長く続き、全員が集まった場でははじめてアルコールも出された。それぞれ意見を云い合って、続きはもう少し取り調べが進んでからということで2時頃お開きになったが、気が昂ぶって、3時ごろまで眠れなかった。

 それでも翌朝は早起きしなければならない。目をこすりながら、バイキングの朝食を食べて、7:50発のバスで小樽港へ。10:00出航のフェリー「らべんだあ号」に乗り込んだ。送りのバスは到着すると、すぐに踵を返して帰ってしまい、恒例の「涙の出航シーン」は一切なかった。

 しばらく、部屋のベッドでぼんやりしていると、昼食の時間になり、そのあと会議が開かれた。4人のこれからの「指導」と、船内の見廻り、とくに深夜の見廻りの当番を決めたりした。そのあと、隔離した4名をそれぞれ呼び出して、教師が交代で、事情聴取の続きと「指導」を行った。深夜の見廻りは籖引きで「3:00~4:00」に当たっていたので、夕食後、早めに「仮眠」して、その時間前に起き、同室の3人の先生たちと、船内をパトロールして、4:00にまたベッドに入って寝た。

 7:30起床。朝食を食べて、10:00から学年会議。応援の先生方は外れてもらって、学年の教師だけで、今後の指導方針、具体的には「処分原案」の叩き台について議論した。これまでになかったような「悪質」な事件だったので、職員会議では、これまでなかった「退学」という意見が出るかも知れない。学年内にも強硬な意見の人はいたが、さすがに「退学」まで考えてはいないようで、悪くとも「停学」というかたちで何とか収めようということになった。

 船内では、恒例の「カラオケ大会」なども行われていたようだが、あまり記憶がない。いろんな先生の部屋に行って、事件の収拾について語り合ったり、部屋でテレビを見たりしているうちに、16:00に舞鶴港に着いた。あとは迎えの観光バスで帰るだけである。途中の、京都駅と大阪駅で最寄りの生徒たちを下車させ、いつもなら、いっしょに下車する教師もいるのだが、この日は全員、学校まで帰った。19:30に帰着した学校では、連絡を受けた4人の生徒の保護者が待っていたので、学年の教師全員で詳しく事情説明をした。ことの重大さを認識していない親もいたので、つい言葉が荒くなったこともあった。

 周到な準備が功を奏して、生活指導との合同会議や職員会議では、学年の原案が通って、4人は「無期停学」となった。目処は1ヶ月で、生徒たちの将来を考慮して、「学籍簿」等の記録には残さない、という措置となった。

 「停学」といっても、家で放ったらかしにしておくわけには行かない。たまたま当該生徒の担任となった教師だけではなく、学年団の教師全員が分担して、放課後に家庭訪問することになった。「通学区」のない私学なので、こういう場合以外に家庭訪問をしたことがなかったが、なかにはけっこう遠いところから通っている生徒もいて、その道をはるばる辿っていくのは興味深いことでもあった。両親が共働きで、本人が家でひとり静かに勉強している場合もあれば、大きな邸宅だが、家庭では複雑な問題を抱えていて、なかば崩壊状態というところもあった。それらは実際に訪問しなければ判らなかったことだったが、しかし、たとえそこにどんなに深刻な事情があったにせよ、今回の事件とは無縁のことだ、と思うようにした。




10


 修学旅行での思いがけない事件のあと、それまでどことなく浮ついていたこの学年の雰囲気が一気に落ち着いたものとなり、秋の二大行事の「体育祭」「文化祭」の中心的な職責も無事に果たすことができた。そうなると、もともと実力のある生徒が多かったので、1年あまりの受験勉強ののち出した結果は、これまででは出色のものとなった。

 この学校の大学入試成績の指標としているのは京都大学の合格者数だが、週刊誌の情報によれば、その数字が全国で6位、大阪府で2位だった。それに加えて特筆すべきは、中でも最難関とされて数年に1人ぐらいしか合格者のない京都大学医学部に、この年2名、翌年にまた2名、合計4名の合格者を出すという、近年にない大成功の学年となった。


 そしてその次の年、いつもならまた高校に行くのだが、この年はあいにく空きがなく、中学2年に入ることになった。中2を持つのは、あの丙午の時以来だから17年ぶりだが、すっかり様変わりしていた。かつては、鳥取県の大山登山が中2の夏の恒例行事だったが、地元の学校優先で入山許可をとるのが難しくなったとかで、いつの間にか、冬の「スキー合宿」に変わっていた。

 学校から観光バスで延々6時間半、着いたところは富山県の立山山麓スキー場というところだった。宿泊した立山国際ホテルのすぐ目の前には「極楽坂」ゲレンデがある。私は、それまでスキーをしたことがなかったので、今回の旅行は気が重かった。引率のリーダーを務める先生から盛んに、一度どうですか、と勧められたが、50歳を過ぎた「老体」の初心者が、もし怪我でもすれば迷惑をかけるだけだからと固辞した。

 さいわい、スキーをしない先生が他にもいたので、彼といっしょに、ホテルに陣取って、何かあったときの「後方支援」の役割を担った。それでも、せっかく雪世界に来たのだから、と彼といっしょにゲレンデに出て、リフトに乗ったことはあった。

 たいへんな好天で、コートを着ていると汗ばむほどの陽気だったが、不思議なことに雪が解ける気配はまったくなく、その「乾燥」してサラサラとした手触りは、精製した砂糖か塩をすくっているような感じだった。リフトを何回か乗り継いで頂上までたどり着いた。すると、下界一面真っ白な雪世界は鋭く目を射ったが、視線を上げると、北の方には、雪を冠った連山が日光を受けてきらきらと輝き、そのはるか向こうには濃紺の日本海が見えた。このような雄大な景色を観ることができただけでも、スキーはせずとも、遥々(はるばる)とここまでやって来た値打ちはあったと思った。


 この学年には、丙午の学年の時の生徒がひとり、教諭となって、中1から英語を教えていた。そんな気安さもあって、このまま彼といっしょに高3まで行くのも好いなと思っていたのだが、年度末も3月になって、思いがけないことが起こった。あの「刷り込み」トリオの中心となっていた国語先生と数学先生が、高校2年となる直前に突如退職したのである。

 その理由についてはさまざまな憶測があった。なんでも、新しい学年でいつものようにやっていた強力な「刷り込み」作業に対して、生徒や親の一部から強い批判が出て、それを受けた校長から何度か注意されていたらしい。前の、形式主義者の校長の時には庇ってくれていたのに、今度の校長はそういうことはまったくなく、自分たちが築いてきたこれまでの進学成績もそれほど評価してくれないのに我慢できなくなって辞表を叩きつけたのではないか、というのが、もっとも妥当な見方だったが、まったく別の理由もある、という噂もあって、実際のところはよく判らなかった。数学先生はあと1年で定年という年齢だったが、同志の国語先生に殉じたようだった。

 いずれにしても、強烈な影響力を持った2人の教師が急に辞めたということで、その穴埋めをどうするか、学校側は混乱に陥った。数学には、少しタイプは異なるが、同じような傾向の強面(こわもて)の若い教師を充て、国語には逆タイプで温厚な、しかし文芸方面には一家言をもつベテランの教師を充てた。しかし、足りないのは、国語先生の有していたカリスマ的な「進学指導」能力で、その穴を埋めるものとして白羽の矢が当たったのは、このところずっと進路指導部の代表を務め、特に2年前に近年最高の入試結果を挙げた高3にも属していた私だった。

 あの高3の好成績はなにも私の手柄ではない。私はただ参考になる過去のデータを学年教師に提供し、終わったあと、その結果を整理しただけである。私を指名してきた管理職にそう弁解したが、そんなことは判っている、しかし、何とかして、権威のある、新しいカリスマをつくりあげなければ、親も生徒も承知しないのだ、と説得してくる。

 この思わぬ苦境に、私としてもなんとか協力したいとは思ったが、どうしてもできない理由があった。というのは、私がその高2に入るとすれば、入れ替わりに出て行かなければならないのは、あと1年で定年を迎えるという英語の先生だった。しかも中1からずっと持ち上がっておられて、生徒たちからもとても慕われているという評判だった。そんな先生を追い出すことになるのは、気の毒というより、なんか不自然で、そんなかたちで入っていってはたしてうまくやっていけるだろうか、という不安の方が強かった。だから、そのあと校長室に連れて行かれ、校長からも強く懇願されたが、それだけはできませんと断った。最後には、「業務命令を出してもダメですか?」「はい」という問答にまでなった。

 実は、その時、私は「業務命令」という言葉の意味をよく解っていなかった。いま辞書で引けば、「業務を遂行するために、上司が部下に発する命令。公務員の場合は、職務命令と呼ばれて、原則として拒むことはできない」とある。すなわち、その命令を拒否すれば、解雇されても仕方がない、ということなのだが、そんなこととは露知らぬ、まさに「知らぬが仏」「盲蛇に怖じず」の私に呆れてしまったのか、そこまで云うのなら、と私の云うことに納得してくれたのか、翌年の高3にはかならず行く、今年の高2でも「進路指導アドバイザー」として出来るだけのことはする、という約束で、なんとかその異動を免れることができた。

 そして1年後、約束通り、私はその高3に入った。高2から学年代表としてテコ入れに入っていた、私に白羽の矢を当てた管理職と共同というかたちだったが担任も持った。例年通り、それまでの模擬試験のデータを整理し、それを基に夏休み前に2日間かけて、生徒全員について学年教師が意見を述べ合う「検討会」を実施して、そのあとの生徒・保護者・担任の「三者面談」に備えた。そうした教師側のサポートと、「刷り込み」によって勉強する習慣を身につけた生徒たちの頑張りによって、この年は、指標となる京都大学合格者数が、空前の、そしてそれから20年以上経った現在でも「絶後」の数字を挙げることができた。

 後年、その学年の卒業生から聴いたことだが、私が行く前に、例の管理職先生が、「本校の最近の進学成績向上の立て役者」「進路指導の最高のカリスマ」などと、本人はもちろん、それを聴かされた生徒でさえ顔を赤らめるような「謳い文句」を連発していたとのこと。そんなことも知らずに、高2のときのホームルームの時間に全員が講堂に集められた場で、1年前の好成績だった学年の進学結果を、詳細な資料を配って得々と喋っていたのだから、まさに冷や汗ものである。当時の切羽詰まった状況では、それぐらいの「ハッタリ」はやむを得なかったのだろうが、好い結果が出て、「笑い話」で済んだのは幸いだった。


 さて、思わぬ回り道をして、またもとの学年に戻ることができたのだが、新学期が始まるとすぐに修学旅行である。その前に、進路指導担当の私には、その春の入試結果のデータ整理をして、それをもとに保護者向けに講演したり、またそれらを1冊の冊子にまとめて全生徒に配布するための原稿を書いたりする仕事もあった。その原稿を印刷所に収める締め切りがちょうど修学旅行の出発日直前だったので、旅行準備と並行して、連日8時頃まで学校に残って仕事する日が続いた。

 この年の修学旅行の前に大きな異変があった。3月31日に洞爺湖の有珠山が噴火したのである。1万2000メートルの大噴煙を上げた1977年の噴火以来の出来事で、麓の洞爺湖温泉街は宿泊不能になった。そこで急遽、洞爺湖の対岸、北に聳える羊蹄山の麓にある留寿都(るすつ)というところに泊まることになった。

 さて、出発は17:47大阪発の寝台特急「日本海1号」、5年前と同じである。例によって、弁当が配られ、缶ビールも豊富にあって、同席の先生方と大いに歓談、消灯の10:30には下段のベッドに潜り込んですぐに眠ってしまった。そして、夜中の3時ごろに目が覚めてトイレに行くと、生徒席の方が何やら騒がしい。どうしたのかと見に行くと、一角のベッドのところに大勢集まって、誰かが持参した小さな携帯テレビでサッカーを見ていた。何かの国際大会で日本代表が準決勝でフランス代表と対戦していた。日本がリードしているそうで、みんな興奮気味だ。「日本のサッカーが世界一に勝つんですよ!」

 どれどれと覗き込んだとたん、たちまち同点にされてしまった。これはいかん!

 大きな溜め息が渦巻く中、そっとその場を抜け出して、自分のベッドに戻った。翌朝訊いてみると、PK戦で負けたとのこと。さすがに、「先生が見に来たからや」とは云われなかったが、みんながっかりしていた。でも後日、3位決定戦には勝ったそうなので、大殊勲だと云えよう。2年後の「日韓ワールドカップ」ではベスト16という好成績を残したが、今にして思えば、その前兆となっていたのかもしれない。

 函館では自由行動で、前回は自前で食べた三色丼だったが、今回は、教師全員が添乗員に案内されて、漁火市場の2階の座敷で、ウニ・イクラ・ホタテの三色丼と毛ガニをご馳走になった。そのあと、数人の先生といっしょに、赤煉瓦倉庫街、ハリストス正教会、函館旧公会堂などを見物。高台から坂道を見おろすと海が見える景色が好天に恵まれて絶品だった。集合は各自、湯の川温泉の「ホテル平成館」。ここも立派なホテルで、教師にはそれぞれ個室が割り当てられていた。

 早めに夕食を食べて、バスで函館山へ。まだ明るく、だんだんと暗くなっていくのを見るのも乙なものだそうだが、冷えて寒くなってきて、そろそろ帰る時間に近づいた頃にようやく夜景らしくなった。そうなると、さすがに美しいもので、寒さも吹っ飛ぶ気がした。ホテルに帰ると、生徒は入浴、われわれは交代で風呂当番。10時半の消灯点呼のあと、軽くミーティング。そのあと大浴場に行ってから、部屋でひとりでちびちびやって就寝した。

 翌日は早めに出発して、9:30には大沼公園へ。40分しかない時間で急いでサイクリングを済ませて、13:30に壮瞥(そうべつ)フルーツ村へ。有珠山の近くだったが、ここは噴火の影響を受けていなかった。前回と同様、野外で石狩鍋を食べたが、お腹が空いていたせいか、とても美味しくて、生徒にも教師にも大好評だった。あと、苺の蔓を切る作業をしてから、恒例の食べ放題。そして、洞爺湖温泉の代替地の留寿都(るすつ)へ。

 宿泊した「ルスツ・リゾートホテル」は大理石をふんだんに使った豪華なホテルで、8年後に「北海道洞爺湖サミット」が近くのルスツ・ウィンザーホテルで開かれた時には、「国際メディアセンター」となったところである。売店などもモールになっていて、質・量ともわれわれには不釣り合いなぐらいゴージャスだった。しかし、そんな富裕層相手だけでは商売にならないと、修学旅行生も積極的に受け入れていて、その時にも、別棟にはいくつかの学校が同宿していたそうだ。夕食はバイキング。若者向けに「揚げ物」が多いメニューだった。風呂はすべて部屋でということだったので、風呂当番はなし。教師にはここでも個室が割り当てられていたが、消灯時間後、別室に集まってミーティング、そのあとは飲み会となって、0:30まで盛り上がった。そういえば、今回はミーティングでのアルコールはいつの間にか解禁になっていた。というより、はじめから、やめようという声はいっさい出ていなかった。

 翌日の朝食もバイキング。こういうところでホテル側もコストを節約しているのだろう。出発して、途中、支笏湖でトイレ休憩。この湖に来たのは、あの丙午の学年以来17年ぶりだった。そして、日高ケンタッキーファームへ。前回、いやな思い出が出来てしまったが、ここは外せないスポットで、またもジンギスカンの昼食のあと、少しだけ自由時間があって、この前と同じように、アーチェリーと卓球を楽しんだ。

 2時に出発して、近くを流れる「沙流(さる)川」沿いを遡って、平取地区の「二風谷(にぶたに)」という、アイヌの人たちが多く住む地区を訪れた。チセと呼ばれる、アイヌ風の大きな掘っ立て小屋の中で、川上勇治氏という語り部から、クマに襲われたアイヌなどの昔話を聴いたあと、うまく現代風にアレンジした「アイヌ資料館」を見学した。川上氏の情景描写と語り口が素晴らしく、その感動がさめやらぬうち、ちょうど外で実演販売していた「槐(えんじゅ)」の木彫りが気に入り、そのうちのフクロウの像を1対買ってしまった。




 夕方に、トマムに到着。大雪山の東、阿寒湖との中間点に当たる新しい観光スポットで、「アルファリゾート・トマム」と名づけられた広大な丘陵地帯に、30数階の巨大なタワーホテルが4本林立するという、かなり独特な風景だった。





 タワーホテルの中央にはエレベーターが設置され、その周りにいくつもの部屋が取り囲んでいて、そのうちのひとつが各教師にあてがわれて、その階の生徒を監督することになっていた。風呂は各部屋で、夕食は、生徒に「ミール・クーポン」が配られて、ホテルの内外に散在するいくつもの各種レストランで、班単位で自由に食べることになっていた。私もお酒好きの先生たちと3人で中華レストランに入った。すでに数組の生徒たちが来ていた。配られたクーポンは3500円のコース料理だったが、はじめに生ビールを1杯飲んでから、ランクのちがう3種類の紹興酒の2合瓶と追加料理を自前で注文して、大満腹、大満足して部屋に帰った。風呂場でゆっくりシャワーを浴びて、しばらくぼんやりテレビを見、10:30の就寝点呼を終えるとすぐに眠ってしまった。

 このホテルでは連泊することになっており、二日目がさまざまな活動の日だった。早めに起きて、大きな食堂を有する「海鮮市場」という建物でバイキングの朝食を食べ、そのあと、バスで北上、富良野の近くの、空知川を堰き止めてできた「かなやま湖」で「ラフティング」「カヌー」「ルアーフィッシング」の3つのグループに分かれた。私は「ルアーフィッシング」に参加、ルアーを投げては巻き取るという作業を繰り返したが、一向に手応えがなかった。早朝や夕方ならいざ知らず、日が高く昇ったこんな時間ではもう遅いのであろう、ほとんど釣れずにみんな満たされぬままにその地をあとにした。ただひとり、1匹大物を釣った生徒がいて、それが幻の魚といわれる「イトウ」だということで、現地のインストラクターの人も驚いていた。






 昼はまたバスで「海鮮市場」に戻って、チキンカレーの昼食。各グループの話題で盛り上がったが、救命具を付けてゴムボートで急流下りをする「ラフティング」が一番おもしろかったようであった。





 午後はバスで「スポーツエリア」へ。「テニス」「パークゴルフ」「アーチェリー」「卓球」などに分かれたので、卓球に行ってみる。はじめは少人数でぼそぼそやっていたが、近くで「アイスクリームつくり」をしてきたグループが作業を終えてやってきて賑やかになり、彼らも交えて、1時間ほどボールを打った。前回と同じく、40年以上前に取った「杵柄(きねづか)」はいまだ衰えを見せず、入れ替わり立ち替わり挑戦してくる生徒たちを次々と撃退、セーターを脱ぎ、カッターシャツを脱ぎ、Tシャツ1枚となって汗だくだくになったが、その活躍ぶりは、またもや生徒や添乗員の間で話題になったとのこと。あと、アーチェリーとパークゴルフも少し覗いて、部屋に帰った直後の冷蔵庫のビールがとても美味しかった。

 その日の夕食は、「海鮮市場」で全員でバイキング。食べ放題だったが、すこし味付けが辛く、そこではビールは出なかったのであまり食は進まなかった。夜の点呼のあとのミーティングではアルコールが出たが、みんな疲れていたのか、そそくさと席を立つものが多く、いつもよりは早めに眠りに就いた。

 翌日は「札幌」と「小樽」に分かれて出発。私は小樽の方に入った。今回も同行となった「認定雨男」の先生といっしょだったせいか、途中、激しい雨に降られる。困ったなと思っていたら、正午に小樽に着いた時には奇跡的に雨が止んでいた。有名な小樽運河のところでバスを降り、記念撮影して解散した。バスの中でガイドさんからさんざん聴かされた「かま栄」という老舗の蒲鉾屋さんが近くにあったので、 バスで同乗の「雨男」先生ら3人で、まずそのビルの3階にあったラーメン店で腹ごしらえをし、お土産の蒲鉾を見に降りたのだが、1本が900円~1900円という上物ばかり、おまけに賞味期限が常温で2~3日というので断念した。

 そのあとはみんなと別れて、単独行動した。まずガラス製品のトップメーカー「北一硝子」に入って、これだけはかならず買ってください、とガイドさん一番のお勧めの「醤油差し」と、中でたまたま見つけたオルゴールのCDを買った。次いで「おみやげ市場・小樽屋」で六花亭のホワイトチョコレートを確認。通りかかった「利尻屋みのや」でほたての干物を買うなど、何のことはない、ガイドさんに教えられた名産物を忠実に辿ったかたちとなった。





 こうして、前回は何も判らないままに通り過ごしてしまった「小樽」を自分なりに存分に楽しんだ末、予定の時間ぎりぎりに札幌行きの快速電車に乗って、札幌へ。ここではいつもの地下街ではなく、駅前の大丸百貨店のデパ地下に入ると、そこでも六花亭の店が出ていて、ホワイトチョコレート以外に、ブラックやら何かやら10種類近くの板チョコが並んでいたのには驚いた。とにかくお土産用のホワイトチョコレートをたっぷり買って、集合地点の大通り公園・テレビ塔に何とか集合時間ぎりぎりに間に合った。しかし、中には小樽でグズグズして1列車遅れた班があったりして、出発が少し遅れた。

 その余波で、もはや定宿の「定山渓ビューホテル」に入るのも遅れ、部屋に入るとすぐに夕食となった。部屋は久しぶりに相部屋で「雨男」先生と同室。宅配便の段ボール箱にお土産品などを詰め込む作業と就寝点呼を終えてから大浴場で入浴。0時を過ぎて、部屋で「雨男」先生と少し飲む。

 6:30起床。バイキングの朝食を食べて、8:30出発、バスで南下して、函館へ。途中休憩の洞爺湖北西湖畔の「サイロ展望台」からは対岸の有珠山の3つの噴煙がくっきり見えた。展望台の近くでは、テレビカメラの放列や自衛隊のレーダー車などが並んでいて物々しい。








 洞爺湖を離れて、長万部の、ここも定番になった「かなや」でかにめしの昼食。3:30に函館に着いた。長い間お世話になった観光バスのガイドさんたちとも恒例の涙のお別れのあと、寝台特急「日本海4号」に乗り込む。往きとは逆コースで、青函トンネルに入る前に夕食の弁当が配られ、缶ビールを手に、同席と先生といろいろ他愛ない話をしながら長い食事を終え、8時過ぎには上段のベッドに潜り込んで寝てしまった。夜中の2時頃、トイレに行きたくなって目が覚めると、近くの生徒の一部がまだ起きていて遊んでいたが、同席の先生に一喝されて静かになり、こちらもまた朝まで眠ってしまった。




 7時に朝食の弁当が配られてきて、それを食べ終わった頃、琵琶湖が見えてきた。9:20、京都着。115名の生徒と教師8人がここで下車した。残りのものは9:56大阪で下車。コンコースで最後の点呼をとって、解散した。帰宅は11時頃に。これだけは送らずに携えてきた「小樽ワイン・ナイヤガラ」を冷蔵庫で冷やし、さっそく、夕食時に飲んでみた。葡萄の香りが素晴らしく、味も佳かった。1本1000円(小樽値段)というのはとてもお買い得だった。




11


 中2から、途中1年寄り道をしたが、最後の高3まで持った学年が卒業したあと、私は中3の学年に入った。中途半端なところみたいだったが、私には秘かな計算があった。この学年を高3まで持ち上がって卒業させると、そのとき私も「定年」となるのである。

 この中3は若い教師集団の学年だった。リーダーとなっているのは、この学校に来てまだ5年ほどの教師で、積極的にいろいろなことを提案し、それを受けて、ほぼ同年配の他の教師たちが豊かな肉付けをしていた。その白眉は秋の文化祭での「第九」の合唱だった。

 言い出しっぺは、歌の好きな体育の先生である。なんでもNHKの「のど自慢」に出場して、見事「鐘連打」を勝ち取ったという歌自慢で、ながらく地元の合唱団にも入っているとのことだった。その提案にさっそくリーダーの教師が食いつき、音楽の先生に相談した。最初は、まさか、と半信半疑だった音楽の先生も、元来、声楽畑の人だったのでだんだんと乗ってきて、授業で「第九」の練習をすることを快諾してくれた。

 なんといっても「男子校」なので、男声ばかりの合唱では話にならない。そこで女声要員として調達されたのが、音楽の先生が休日などにボランティアでやっている保護者対象の「ママさんコーラス」の面々だった。「第九」のソロパートの女声には、体育の先生の参加する合唱団から2名、そして伴奏のピアニストの女性も加わり、男声のソロには体育の先生と、生徒からも数名が抜擢され、指揮は音楽の先生が務めた。

 全員に、「第九」の合唱部分の楽譜の冊子が配られ、私たち教師にも廻ってきた。各クラスの音楽の時間での練習のほか、週1時間のホームルームの時間には学年全員の全体練習が行われ、ただぼんやり見学しているだけではつまらないので、志有る教師も参加することになった。中には、地域の「第九の会」で毎年歌っているという豪の先生もいたが、私はバス・パートの末席に加わった。

 秋の文化祭本番での「第九」は大成功。保護者の伝(つて)で地域の「ローカルテレビ」が取材に来て、合唱の一部が放映されたりもした。しかし、「文化祭の第九」はこの年限りで、「伝統」となって次の学年に引き継がれることはなかった。あまりにも必要な条件が多すぎて、それがその年実現したのは「僥倖」でしかなかったからである。






 それ以外に、夏休みには「学習合宿」という行事もあった。これは進路指導部がバックアップした行事で、ずっと私が担当しているものだった。

 そもそものはじまりは、私も高3で関与した「最後の刷り込み学年」が中3の時に実施されたものである。発案者は、あの「刷り込み」の国語先生で、その前のクールの卒業生たちが遊びに来た時に、塾の講師などをバリバリとやっている彼らと話すうちに浮かび上がってきたアイディアらしかった。

 はじめは学校とは関係のない行事で、中3の生徒の中から希望者を集め、夏休みに、どこかの宿坊でも借り切って数泊し、集中的に勉強させる「勉強合宿」だった。売り物は卒業生の大学生を大勢集めて「チューター」として生徒の学習指導に当てさせるというもので、付き添いは「刷り込み」トリオの3人と、その他数人の教師でやるつもりだったそうだ。

 しかし、この計画がおおやけになると、関心を示す生徒が予想以上に多く、また、教えている教師が生徒を勧誘するものだから、学校行事と勘違いして、学校に問い合わせする保護者もあって大問題となった。当時の校長は「刷り込み」の先生に好意的だったので、前向きに受けとめて、学校行事と認定されることになった。その年は時間がなかったので、刷り込み先生らの計画通り、ただし、参加希望者が多くなったので、業者を介してどこかのホテルを借りることになった。

 引率を求められて参加した学年の英語の先生によると、塾講師をしているチューターやかつてはその経験もあった国語の刷り込み先生による熱気溢れる講義があったり、短時間に集中的に問題を解かしたり、よくは知らないが、塾などがやっている特訓的な「勉強合宿」のような雰囲気の中で、あっという間に予定の3日間が過ぎてしまった、とのことだった。

 とにかく成功したということで、次の学年にも受け継がれることになったが、そのような「塾の勉強合宿」的なものは、スタッフの関係もあって、そういつもできるものではない。そこで次年度の担当者たちはいろいろ知恵を絞って、卒業生たちが後輩に勉強を教えるというのをいちばんの売り物にした行事とし、会場も、丹波篠山の松下電器系のリゾート施設を見つけてきて、勉強の合間に、そこに付属した施設を使って、ソフトボール、釣り、フィールドアスレチックなどのリクレーションを入れるようにして、その名も、特訓的なイメージがある「勉強合宿」を「学習合宿」と改めて、正式発足した。

 私はその翌年に中3だったので、第2回目の「学習合宿」を経験している。この合宿では、学校での授業とはちがった刺激を与えるため、あえて「習熟度別クラス」とした。「能力別」という露骨な表現を緩和するために当時の文部省が発明したのが「習熟度別」という言葉だったが、われわれはそれを本来の意味の通りに活用することにした。

 教科は、英語と数学の2つ。1学期の成績を基に、会場の教室の定員数に合わせて、6名~20名のクラスに成績順に分けた。ポイントは、英語と数学を別々に成績順に並べたこと。こうすれば、英語はよくできても、数学はいまいち、という生徒でも、それぞれ自分の実力にあったクラスに入って、それに合った勉強ができる。生徒の部屋割りは、クラス別・出席簿順に機械的につくって、あらかじめ知らせてあったが、その、英語と数学のクラス名を書いた個人票は出発のバスの中で配った。そうすることによって、生徒は教室に行ってみてはじめて自分のクラスが判るが、それが他のみんなに知られるということはない。

 この作業はけっこう面倒なものだったが、パソコンを使って合理的にできるよう工夫した。もし、ここをおろそかにして、英語・数学別々ではなく、その合計点で並べたりすると、それは個々の教科の「習熟度」を反映したものではなく、ただ漠然と、人間をランク付けしたものになってしまう。面倒くさいとばかり、その順番で部屋割りをつくったりすると、案内のパンフレットにそのランキングがまるまる載ってしまい、余計な屈辱を与えて、生徒を大きく傷つけることになってしまう。だから、そのような配慮は絶対に欠かせなかった。


 そして、今回の「学習合宿」でも同じように「習熟度別クラス」をつくったのだが、リーダーの先生から、3泊4日の合宿中、2日目、3日目の夜に試験をして、その成績優秀者を顕彰するなどしたらどうだろうか、という提案があった。いささかマンネリになっていた「リクレーション」の代わりとなるものだが、賛成するものも多かったので、やってみることにした。

 「夜の模試(模擬試験)」と名づけられた試験は午後8時から10時まで。終わるとすぐに採点に入る。大勢の卒業生のチューターが手分けして採点した結果を、用意した設問別の得点一覧表に打ち込んでもらい、午前0時頃に完了。卒業生たちには寝てもらい、あとは私ひとりでパソコンのデータを整理し、最終的には各人の個人成績票をプリンターで打ち出して終了したのは2時になっていた。





 翌朝は、朝食前に「朝の散歩」と称して、生徒は三々五々、建物を出て、5分ほど歩いたところにある別棟まで行くと、その前のベンチに教師が待機していて、昨夜の試験の個人成績票が渡される。それを持って食堂のバイキングの行列に並ぶのだが、そのようにすると、わざわざ点呼を取る必要もなく、行列の待ち時間の調整にもなって、一石二鳥だった。






 食事を終えて、自分の部屋に帰る途中の廊下に、「成績優秀者」の名前を貼り出した。名前を貼り出されるのはうれしいものなので、なるべく多くと、参加者の4分の1にあたるベスト50まで掲示した。英語と数学ではけっこう顔触れも違い、また、下のクラスの者が上の者を追い抜いてかなりの上位に行くという「下克上」もあって、黒山の人だかりとなった。この成績でもう一度クラス替えをするのもおもしろかったが、そうすると、せっかく担当生徒の顔と名前を憶えたチューターたちが混乱すると思って、それはやめた。

 2回目の「夜の模試」の結果は、朝の散歩も、貼り出しもなく、最終日午前の授業が終わったあとの「閉校式」で発表された。「ゲーム感覚」を採り入れようということで、大げさに「カウントダウン方式」で上位者が発表され、教師たちがカンパして買ったいろいろなお土産品を賞品として授与した。また、単に成績が良いものだけではおもしろくないので、2回の試験でもっとも「偏差値」を伸ばした者をハプニング的に、「高度成長賞」として発表し表彰したが、これは大好評だった。

 このように、若さと積極性、創造性がうまくコラボした、とても好い学年で、ここが定年前の最後の学年になるとはラッキーだな、と思っていたのだが、学年末になって、思いがけない「どんでん返し」を喰らってしまう。

 ひとつ上の学年の英語に1人穴が空き、高3を終えた教師にお鉢が回っていったが、自分はいつも尻拭いばかりさせられているので、今度ばかりは断りたいと、彼は断固固辞した。そこでしかたなく、これまでいろいろと「わがまま」を聴いてもらっていたこともあり、その高校2年に入ることになった。

 結果的には、抜けた新高1もかなりメンバーが入れ替わって、あの中3の時のような闊達な雰囲気は薄れてしまったようだったので、好かったのかもしれない。かくして、またあたらしい出会いとなったのだが、すぐに修学旅行だった。


 前年もそうであったが、進路指導部の代表になると学年団から離れなければならないということになり、担任はおろか、学年会議もオブザーバーという立場になった。それでも、高2しか授業に行っていないので、修学旅行の引率団には選ばれた。ただ、他学年からの応援部隊と同じように、云われた仕事をただこなすという、気楽といえば気楽だが、生徒に「先生も修学旅行に行くんですか?」と訊かれるほど、影の薄い存在になっていて、少し寂しい思いがした。やはり担任を持てなかったのが響いているようであった。

 初日は朝早く「新大阪駅」に集合して、8:40の「ひかり」に乗る。11:43に東京に着き、12:36の「やまびこ」に乗り換えて、14:48に仙台に到着した。仙台に来たのははじめてだったが、目的は仙台港からのフェリーの乗船で、その時間つなぎで、バスで青葉城公園に上り、伊達政宗の銅像などを見た。






 仙台港からは「太平洋フェリー」の「きそ」という船で、さっそく夕食のバイキングとなったが、これまで乗り慣れた「新日本海フェリー」とは数段上の豪華な内容で満足できるものだった。今回の旅行では、生徒の前では飲まないようにという窮屈なことになって、夜のミーティングの時にやっとアルコールにありついて、ひと息ついた。






 翌日の10:45に苫小牧着。観光バスで「日高ケンタッキーファーム」へ。すっかり修学旅行ではお馴染みのスポットとなったが、いま調べてみると、2008年に閉園し、現在はなくなっているとのこと。実は「バブル崩壊」で経営が不振になって身売りされ、われわれが行ったこの年には自己破産して、地元有志の設立した会社がなんとか経営を引き継いでいた頃だった。そんなことはつゆ知らず、昼のジンギスカンはビールがないと咽喉が詰まるなぁ、と愚痴りながらも、白ごはんがけっこう合って、何杯もお代わりした。





 午後は同行の先生に促されて、馬に乗ってみた。といっても、係りの人に曳き綱を持たれておとなしく歩く馬に股がって、小さな馬場を一周しただけだったが、いざ乗ってみると、馬の背中は意外に高く、鞍の座り心地も不安定で、これが走ると凄いことになるなぁ、と思いつつも、おそらくこのあと二度とないであろう貴重な体験を存分に楽しんだ。

 そのあと、15:30に、3年前にも行った二風谷(にぶたに)のアイヌ博物館へ。その充実した展示はこの学年の生徒たちにも好評だった。そして、18:00、トマム着。3年前とまったく同じである。ミール・クーポンをもらって、教師4人で、今度は和食の店に入った。石狩鍋定職というのがあったので注文すると、ボリュームが半端でなく、鮭もたらふく入っていて、お腹がいっぱいになり、最後の雑炊は咽喉を通らなかった。もちろん、ビールも思う存分飲んだ。部屋はひとりで、21:30ミーティング、22:30就寝点呼というパターンでやっていくことに。

 翌日は早起きして、6:30にはチェックアウト。荷物をバスに放り込んでから、朝食、そして「体験学習」という手順だった。前回は連泊だったので余裕があったが、今回は違うところに移動するので、スムースに運ぶためにこういうことになったようだ。

 午前中は、「マウンテンバイク」「蕎麦打ち」「釣り」「スポーツ」に分かれた。まず「蕎麦打ち」を覗いてから、「卓球」へ。少し打たせてもらったが、この頃は「五十肩」がひどくて、腕が上がらず、フォアハンドが全然入らなくて、3年前の「神話的活躍」がどこに行ってしまったのか、早々と退散、すっかり落ち込んでしまった。しかし、そのあと通りかかった先生から「電動アシスト自転車」を貸してもらう。「いっぺん乗ってみぃ。すっごい楽やで」

 まったくその通りだった。少し登りに入って負荷がかかると、スイッチが入って、ペダルが軽くなる。どんな坂道もへっちゃらで、スイスイと進める。すっかりうれしくなって、広いトマム・リゾートの敷地内を走り回り、先ほどの鬱屈した気分はすっかり吹っ飛んでしまった。






 昼は、例の「海鮮市場」に集まって、カレーライスを食べ、午後は「ラフティング」「カヌー」「ルアーフィッシング」などへ。一度、ラフティングをしてみたかったのだが、今回もフィッシングに回されてしまった。前と同じ「かなやま湖」へ。インストラクターも同じ人だったようで、驚いたことに、前回の「イトウ」のことをよく憶えていて、「君たちの先輩が、幻の魚というイトウを釣りました。たいへん珍しいことで私もびっくりしました。君たちも頑張ってください」と檄を飛ばしてくれたが、案の定、成果はほとんどなかった。(その後、ここでの体験学習は「ラフティング」一本になったそうである)





 あまりにも釣れないので、早めに切り上げて、このグループのバスは先に次の「富良野」に行くことになった。スキー場で有名なところで、国体のスキー競技場にもなったそうだが、1980年代に、ここを舞台にしたテレビドラマ『北の国から』が大ヒットして、一挙に北海道でも有数の観光地となった。

 宿泊した「富良野プリンスホテル」はとても瀟洒な、洒落たホテルだった。早く着いたので、ひとり部屋でシャワーを浴び、冷蔵庫に入れてくれていた缶ビールを1缶ぐっと開けて、最高の気分だった。夕食の中華風のバイキングも美味しく、食後の自由時間に、ホテル近くの「ニングルテラス」と呼ばれる、樹々に囲まれたショッピングエリアを散歩した。テレビドラマに誘われて訪れる女性観光客の好みそうな、可愛いグッズ満載のお店が並び、木工製品を製作即売しているクラフト工房もいくつかあった。





 ここまでは気分よく過ごしてきたが、その夜の就寝点呼で少しトラブルがあった。担当の部屋の鍵が閉まっていて、いくら叩いても応答がない。しかたなく、まわりが何ごとかと顔を見せるほど大声で扉を叩き続けると、近くの部屋からぞろぞろと生徒が出てきてこの部屋の鍵を開けて入っていった。

 まったく反省の色もなく、あまりにも平然と入って行ったのにカチンと来て、全員を引きずり出して、廊下に正座させた。なんでこんな目に遭うのか、とあからさまに不貞腐れた顔をする者がいて、それは授業中いつも騒いで手を焼かせている生徒だったので、ムカッと来て、思わず手が出そうになったが、その時、すこしバツの悪そうな顔をして、上目遣いに私をうかがいながら、その不貞腐れた男の頭をおさえつけている者がいた。Q君だった。

 高校2年になると、大学進学を念頭に、クラスを「文科系」「理科系」に分けるが、この学年ではもうひとつ「運動系」というのが要るのではないか、と冗談で云われていた。

 大学の「スポーツ推薦」を目指すコースということだが、それぐらい、勉強せずに、運動部の活動に熱中している者が多いからであった。特に、サッカー部、ラグビー部、アメリカンフットボール部に多く、アメフット部のQ君はその代表的な存在だった。

 アメリカンフットボールは、部活動がある高校は大阪でも10数校しかないマイナーなスポーツだったが、この学校ではなぜか古くからアメフット部が存在し、サッカー部やラグビー部よりも歴史が長かった。しかし、だからといって、決して強豪校ではなく、いつも下位を低迷する存在だった。

 ところが、それまでOBの大学生が学業の合間を縫ってコーチに来ていたのを、5年ほど前から、大学で本格的に競技を体験した人材を教諭に採用し、監督に起用すると、めきめき強くなって、それまで固定していた大阪のビッグ4の一角を崩すほどの実力を持つようになってきた。Q君はそんな中、最強豪校の監督が、是非うちに欲しい、と云わせたほどの逸材だと云われていた。

 目の前にみるQ君は、がっしりとした体格ではあったが、そんなに身長もなく、巨漢ぞろいのアメフット部員の中では小柄な部類で、とてもそんな逸材には見えなかった。しかし、ユニフォームを着て、いったんピッチに立つと、その臨機応変ですばしこいランは、敵のタックルを受けてもビクともしない強靭さをも併せ持ち、またたく間に敵陣へ走り込む力強さを持っていた。

 ただ、その勉強嫌いは徹底していた。授業中は、騒いだりはしないが、いつも寝ているか、ぼんやりと窓の外を眺めていた。試験は白紙に近かったが、何とか「赤点」にならないギリギリの点は取っていた。こういうタイプの生徒は他にもたくさんいて、だから「運動系」が必要だと揶揄されていたのだが、そんな連中も、Q君には、その逸材ぶりに敬意を表してか、一目置いているようだった。

 その場は駆けつけた他の先生によって穏便に収めてもらえたが、その夜は、そこまでキレそうになった自分に、そして、学年の中で、そういう立場にいつの間にか追い込まれている自分に、不快と自責の念が込み上げてきて、なかなか寝つかれなかった。そんな中、あの時のQ君の、諧謔と親しみの混じった、何ともいえない眼差しを思い起こすと、すこしは気持ちが癒されるような気がした。

 しかし、そのQ君はかならずしも「人格者」ではない。むしろ「乱暴者」で通っていた。これまで何度も校内のいろんな連中と喧嘩をして問題となっていた。その極め付けは、翌年の春、近くにある大学の学園祭で、こともあろうと、大学生たちと大立ち回りを演じたことだった。

 それは学園祭の「前夜祭」のときで、夕方から、キャンパス内ではいろんな催し物と模擬店などが開かれていた。そこへ友人たちと遊びにいったQ君が、模擬店でアルコール飲料を飲み、その後、ささいなことで大学生たちとトラブルになって殴り合いとなり、たいしたことではなかったが怪我をさせた、というものだった。

 殴り合いになった原因はおたがい様で、相手の大学生も空手部か何かの人物だったそうで、小柄でそんなに強くは見えないQ君に油断していたのか、思わぬ反撃を受けて負傷してしまったとのこと。それは「喧嘩両成敗」で済ませられたが、問題はQ君がその前にアルコールを飲んでいたことで、これが大問題となった。

 それまでの「前科」もあって、「よその学園祭に乗り込んで、酒を飲んで大暴れした、とんでもない事件」という受け取り方をされ、職員会議では、「退学」をにおわす強硬な意見も出たが、その時、アメフット部の監督の先生が涙ながらに弁護して、「謹慎処分」に落ち着いた。

 さて、翌日はバスで札幌へ。到着後、前半はテレビ塔での本部待機当番で、それが終わった14:00頃から、ひとりで市内をブラブラと歩いた。時計台近くでラーメンを食べ、北海道庁を見て、駅に新しくできた高層のJRタワーに登ってみた。




 

 ガラス張りの展望台からは、札幌市内全体が一望され、ずっと遠くのほうには、「札幌ドーム」らしきものも見えた。トイレに入ると、驚いたことに、そこの壁もガラス張りになっていて、用を足しながら、市内の景色を堪能できるようになっていた。






 夕方にいつもの「定山渓ビューホテル」へ。夕食後に、お土産などを宅配の段ボールに詰めると、なぜか気が軽くなった。就寝点呼のあと、大浴場に入って、その足でミーティングの二次会へ。

 次の日はバスで洞爺湖に向かった。3年前の有珠山噴火も収まりをみせ、温泉街も日常を取り戻していた。洞爺湖観光船に乗ったあと、西山火山見学コースへ。あちこちで地割れして、今でもあちこちで煙が出ているところを歩いた。







 昼はお馴染みの「ホテル・サンパレス」で昼食を食べる。ホタテの陶板焼きにかやくごはん。そのかやくごはんの中にカニのそぼろが入っていた。それがチェック漏れで、誤って、アレルギーのある生徒の口に入ってしまったために、症状が出て、3人が病院に。幸い大事に至らなかったが、食物アレルギーがそんなに迅速で強力なものだとは知らなかった。

 午後は函館に向けて出発。途中の大沼公園は時間の都合で写真撮影だけだった。湯の川温泉の「グランドホテル」に着くとすぐに夕食。食べるとバスで函館山へ、少し曇っていたが、うえに登ったとき、急にガスが消えて、百万ドルの夜景がすっきりと見えた。私自身はもう何度も見た景色だが、生徒がわぁー、と歓声を上げるの聴くと、初めて見た時の感動が甦ってきた。

 やがて見物客はどんどんと増え、帰りはロープウェイだったが、待ち時間が結構かかって、ホテルに帰ったのは予定よりも1時間遅い21:30だった。それから入浴となったので、就寝点呼は23:00となった。そのあと、われわれも大浴場に入って、二次会へ。ビールが美味しかったが、まもなくお開き。未練がましくビールとおつまみを持って、部屋でもう1本。寝たのは2時を過ぎていた。

 さすがにしんどくて、やや二日酔い気味。朝食もあまり食べられなかった。今日は函館自由行動だが、あいにくの雨模様。今回の旅行でははじめての雨で、こんなに好天続きも珍しかった。やっと傘の出番かと思いきや、39℃の熱を出した生徒がいて、悪いけど、その付き添いをしてくれないか、と云われる。函館市内はなんども歩いているし、おまけにこの雨なので、望むところでもあった。





 みんなを見送ってから、ひとり残ってくれた添乗員といっしょに近くの病院に連れていった。さいわい、ただの風邪ということで、ホテルの一室で寝かせておくことにする。手筈はすべて添乗員がやってくれたので、ロビーのソファーでウトウトしていればよかった。

 昼はホテルの向かいにある小さな店でラーメンを食べ、15:30にタクシーでその生徒、添乗員とともに函館駅に向かった。駅の売店で、慌ただしく、名物の「いかめし」やワインをお土産に買って、16:39の寝台特急「日本海」に乗り込んだ。まもなく配られてきた弁当は、幕の内とカニ寿司の二本立てという豪勢さ。缶ビールもしっかり貰って、気持ちよく眠りについた。朝食は三角のサンドイッチが2つ。大阪駅には9:57に到着。解散式をして、帰宅は午前11時だった。かくして、11回目の(最後の)北海道旅行は、やや尻切れトンボのかたちで幕を閉じた。


 最後に、あのアメフット部の逸材Q君のその後についてすこし触れておこう。

 高3の春の、大学生とのトラブルというピンチをかろうじて切り抜けたあと、Q君は東京の某有名私立大学のスポーツ推薦に応募して、みごと「内定」を勝ち取った。

 その大学の野球部、ラグビー部、陸上部などは、日本を代表する超有力大学だったが、アメフット部は後発で、その頃やっと関東のリーグで優勝して、日本一を決める「甲子園ボウル」に出場するところまで上昇してきたところだった。そこで、その勢いをより確実にするために、全国から有力な高校生を集めるべく、スポーツ推薦の枠を拡げていて、それにうまくQ君が乗っかったのであった。

 早々と進学先を決めて、夏休みは、勉強は免除でもっぱらアメフットの活動に邁進していたQ君のところに、9月になって大学から思いがけない連絡が届いた。「申し訳ないが、今回の推薦内定はなかったことにしてほしい」

 これには、Q君だけではなく、監督の先生が激怒した。すぐさま上京して、大学アメフット部の監督たちと直談判した。大学全体のスポーツ推薦の枠が決まっていて、その割り振りが途中で変更になって、アメフット部が当初見込んでいた人数が大きく削られた、というのが、大学の言い分だった。

 「そんなのはそちらの〈内部事情〉でしょ。そんなことで対外的な約束が破られて堪(たま)るもんですか」「それはたしかにそのとおりでございます。でも、まことに申し訳ございませんが、枠を確保するのはどうしても不可能な状況で、お怒りなのは重々承知しておりますが、何卒ご理解のほどを」

 このような押し問答が繰り返されたそうだが、そのうち、こんな不実な大学に入っても今後碌なことはないにちがいないと見切る覚悟ができて、席を蹴ったとのことだった。

 こうして、Q君の進学は唐突に振出しに戻ってしまったのだが、関西の大学でもスポーツ推薦の時期はすでに終わっていた。ただ、それ以外の「一般推薦」入試がこれからあり、アメフット界では関西最強とみなされている私立大学の出願資格に、学業成績以外に「クラブ活動の実績」というのがあるのが見つかった。

 ずっと勉強に背を向けていたQ君の学業成績は惨憺たるものだったが、アメフットの大会では何度も表彰されていて、それらをアピールして、何とか出願に持ち込むことができた。あとは「面接口頭試問」である。

 その「模擬面接」をしてやってくれないか、とアメフット監督の先生から頼まれた。「面接」を受ける生徒はたくさんいて、彼らの面接の練習のために「模擬面接」をするのは進路指導部の仕事だった。

 教室とはうって変わって畏まって座っているQ君に対して、志望の動機、この大学にどんな印象を持っているか、大学ではどんな勉強をしたいか、など、ありきたりの質問をしたあと、とっておきの問いかけをしてみた。「君は商学部を志願しているが、商学部と経済学部とは、どこが違うのかね?」

 私自身は文学部の出身で、通っていた大学には商学部というのはなかったので、その違いをきちんと把握していなかった。「商」とあるから、「商売」に関する学問か、ぐらいしか思っていなかったのだが、その数カ月前に、とある「大学説明会」に出席した時、ある大学の商学部の先生に詳しい説明を受けて、なるほどと理解したところだった。

 「経済学部というのは、物やお金などの動きや仕組みを、地域、国家、世界という大きな視野のもとで研究する学部ですが、商学部は、それぞれ人間のかかわる個々の経済活動を身近な視点から研究する学部で、生産者と消費者を結びつける商業そのものと、それに伴う「マーケティング」「流通」「金融」「会計」など、より具体的な事柄を研究の対象とする学部です」

 そのように、Q君は私が聴いてきたのと同じようなことを訥々と答えたのには驚いた。あらかじめ、予習していたのだろうが、丸憶えしたものを一気に吐き出すというのではなく、自分で考えたことをひと言ひと言噛みしめるように述べたのであった。

 その筋金入りの勉強嫌いぶりから、英語で曜日の名前を全部云えないのではないか、などと揶揄されていたQ君の意外な「勉強家」ぶりに度肝を抜かれた。体力よりも頭脳がものをいうスポーツと云われるアメフットで活躍していたのはも伊達ではなかったのである。推薦入学には合格した。

 大学入学後、もちろんアメフット部に入部したのであろうが、その音沙汰は、アメフットが小さくしか扱われない一般紙のスポーツ欄からは伺い知れなかった。ただ一度、彼が3回生の時だっただろうか、所属の大学が、大学日本一を決める「甲子園ボウル」に出場した。年末にその模様がテレビ中継されたが、途中、Q君がパスを受けて敵陣に突進するRB(ランニングバック)というポジションでプレーしている場面を見て、その健在を確認した。大学卒業後は、地方の金融機関に就職したらしいということを風の便りで耳にしたが、はたして元気でやっているだろうか。

(完)



【自註】

 最後の北海道旅行から20年が過ぎた。私が学校を「完全退職」してからもすでに10年が経つ。この原稿を書くに当たって、いろんな事実関係をネットで調べるうちに、北海道もずいぶん変わっているのを知った。訪れた施設やホテルがもはや存在しないということも少なからずあった。

 一方、勤務していた学校もかなり変貌を遂げたようである。新しい校舎がどんどん建ち、創立以来の「伝統」を破って「男女共学」になったともいう。もはや、私がこの物語のなかで描いてきたのとは別の学校になっているのかもしれない。

 この物語の終盤に当たる時期に、デジタルカメラを購入した。だから、途中から急に写真が多くなっている。それらが読者の「想像力」の妨げにならず、「百聞は一見に如かず」の好ましい効果をあげていることを願うばかりである。

(2022.10.08)



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