北海道1


北海道




 関西に住むものにとって、「北海道」という地名には特別な語感がある。同じ日本でありながら、そこには「異郷」の匂いがぷんぷんするからである。もっとも、江戸末期まで先住民のアイヌ民族が支配し、生活してきた土地だから、そこはかつてはまぎれもなく「外国」であって、そのような「異郷感」は関西人に限ったものではないかもしれない。

 高校生に、修学旅行の行き先の希望調査をすると、いつも北海道が圧倒的に1位だった。「九州の方が、ホテルも、食べ物も、サービスもずっと上なんですがね」というのが、斡旋する旅行社の担当員の言葉だったが、関西人にとって、九州はとても近しいところで、あんなところいつでも行けるやないか、と一蹴されてしまっていた。

 ずっと昔、関西の高校生だった私自身もそうだった。しかし、そんな豪語とうらはらに、九州に行ったのは、 結局、 当時の修学旅行の1回きりで、その後、いちどもその地を踏んだことはない。

 私がはじめて北海道に行ったのは、高等学校に就職して3年目の時だった。最初に受け持った併設の中学2年の学年は、そのまま持ち上がって、高校1年になっていた。私立男子校のこの学校では、高校2年の時に修学旅行に行くことになっていて、1年前にその「下見」に行ってみないかと誘われたのだ。 

 夏休みも終わりに近い8月下旬の出発で、メンバーは、中年の先生と、私よりも2歳上の先生の3人だった。3人とも下見ははじめてだったが、2歳上の先生が北海道出身だったので心強かった。

 この学校では、当時、修学旅行などで「飛行機」を使ってはいけないというのが不文律となっていた。校長よりももっと上の、学校法人のトップあたりの意向だったらしい。それを直接聴いたことはないが、その理由は想像がつく。万が一の事故に遭った場合、学校が崩壊の危機に陥ることを危惧したのであろう。

 今回の修学旅行でも飛行機は使わず、どういうわけか、なんと、その対極の、往復とも「フェリー」利用ということになっていた。ただ、下見の場合、それではあまりにも時間がかかりすぎるというので、学校に交渉して、特別に往復とも飛行機となっていた。私にとっては、北海道もはじめてなら、飛行機もはじめてで、出発の日が近づくにつれて、胸が躍るのを抑えきれなかった。

 ところが、出発当日になって、思いがけないことが起こった。前日より近づいていた台風が、その早朝に神戸に上陸したのだ。

 住んでいる西側を台風が通過したので、強い南風が吹き込んできて、雨も激しかった。確か朝の9時頃の便に乗る予定だったが、ニュースでは当然伊丹空港の離発着は中止されている。キャップ格の中年の先生に電話して、とにかく空港まで行ってみようということになった。吹き降りの雨のため、最寄りの駅まで歩くだけで、傘をさしていてもびしょ濡れになってしまった。この日のために買った新しい革靴も台無しである。

 空港で3人が集まって、運航再開を待った。まだ風も雨も強くて、午前中は無理のように思えたが、予定よりも1時間遅れの10時に出航となった。

 まさかと思いつつ、機内に乗り込んで、安全ベルトを締めると、まもなく飛行機は離陸した。飛行機は離着陸の時が一番危険だと聴いていたので、緊張した。風に吹かれて、少し横揺れがひどいように思ったが、なにせはじめての飛行機なので、それがどれほど異状なのか見当がつかなかった。

 無事離陸して、上空に上がると、揺れはなくなった。しばらくして、機長から「現在飛行機は台風の上を飛んでいて、まもなく、台風を追い越しますので、安全です。ご安心ください」という放送が入ったのでホッとした。しかし、いつもなら、このあたりで消えるはずの「安全ベルト装着」のランプはそのままで、2時間弱の搭乗中、消えることはなかった。

 台風の上だから大丈夫と云われながらも、飛行機はときおりエアポケットに入るのか、高速エレベーターに乗っているみたいに急降下することが何度もあり、そのたびに肝を冷やした。また、窓から外を眺めると、ちょうど翼が見えて、そこに大きなエンジンが付いていたが、それが風に吹かれて、ゆらゆらと揺れていて、いつそれが外れて落下するのかと、気が気でなかった。

 いつ終わるともわからぬジェットコースターに乗っているような不安定な時間を過ごして、なんとか、北海道・千歳空港に着陸した。

 慌ただしく昼食を済ませて、予約してあったレンタカーに乗った。運転は北海道出身の先生。予定よりも1時間遅れており、そのうえ、追い抜いてきた台風があとを追って、北海道に近づいているとのことで、どんよりとした、今にも破裂しそうな空模様だった。とにかく急がねばならない、と、1日目の宿泊地の「層雲峡」へと向かった。

 北海道には慣れているためか、それとも、もともとせっかちな性格なのか、その北海道出身の先生の運転は猛烈なもので、幸か不幸か運転免許を持っていない私は気がつかなかったが、助手席に座っていた中年先生はハラハラしどうしだったとのこと。

 しかし、そのおかげで、途中から降り始めた雨の中を突っ走って、石狩川沿いに、札幌、旭川、石北峠、上川を経て、大雪山系麓の層雲峡温泉に7時頃に着くことができた。なんでも私たちが通った数十分後に、石狩川の名勝「神居古潭」のあたりで堤防が決壊して、道路が通行止めになったとのこと。まさに間一髪だった。

 予定よりも遅くなったが、なんとか夕食を用意してもらい、温泉にも入って、ひと息ついたが、外は雨風が激しくなるばかりで、なかなか寝つかれなかった。

 翌朝は、台風も抜け、打って変わって「台風一過」の雲ひとつない快晴となった。しかし、台風の残した爪痕は大きく、夜中にこの層雲峡温泉でも山崩れがあって、別のホテルの従業員寮が生き埋めになったと朝のテレビで流れていた。

  また、石狩川があちこちで氾濫して、道内の道路は寸断、鉄道は道内全線が不通となっていた。函館と札幌を結ぶ函館本線も不通となって、「青函連絡船」に乗ってきた乗客や物資を道内に運ぶため、急遽、連絡船を函館港ではなく、苫小牧港に着けるという措置がとられたりしていた。

 こうなると、不要不急の観光客は旅行をキャンセルする者が続出、おかげで、被害に遭っていない道内の道路はガラガラで、すっきりとした青空のもと、思い切ってドライブできる環境となっていた。

 次に向かったのは、層雲峡温泉からずーっと南下した、帯広市郊外にある「十勝川温泉」だったが、斡旋の旅行社が下見用に用意してくれたのは、十勝川温泉街から更に山奥に入った「筒井温泉」という、たった1軒だけのホテルだった。

 要するに、十勝川温泉のホテルは自分で確かめて、好いのを選んでほしい、ということだったが、実際、その地に行ってみると、今はどうなっているか知らないが、当時の十勝川温泉にはあまり大きなホテルはなく、200名近い団体が泊まるには2つに分宿しなければならなかったり、それに何よりも温泉地そのものが、すたれた歓楽地のような、薄汚れた雰囲気が感じられて、あまり気が進まなかった。

 それに比べて、たまたま泊まった筒井温泉は、山の中の1軒屋で、まわりには自然以外何もないところだったが、全員が十分泊まれる広さがあった。そして、何よりも湯量豊かな温泉が魅力的で、その泉質は「モール泉」といって、太古の巨木や植物が泥炭化した、そのグリーンのお湯が実にさらさらとして肌触りがよかった。

 「いっそ、このホテルにしようか。周りには何もない山奥だけど、まず、こんなところに生徒たちを放り込んで、それから徐々に賑やかなところに近づいていくというのも乙(おつ)な趣向じゃないか」

 だれ云うともなく、そういう結論になって、本番での最初の宿は筒井温泉でいくことになった。

(いま調べて見ると、筒井温泉は最近閉鎖されたそうである)


 翌日は、ほぼ無人の道路を車で飛ばして西に向かい、阿寒・摩周地域に入った。この修学旅行の最大の目玉地区である。

 阿寒湖、屈斜路湖を通り、摩周湖へ到着した。とても好い天気だった。土手のようなところを登って展望台に上がると、一面に真っ青な湖が拡がっていた。

 真ん中にポツンとひとつ小さな島があった。周りはすべて鋭い崖に囲まれ、しーんと静まり返っていた。人間はおろか、いかなる動物も、その湖面に降りることはできないようだった。

 「霧の摩周湖」とは云うが、そんな霧などまったく存在しない、あっけらかんと晴れ渡った摩周湖に、かえって拍子抜けするほどだった。

 ここでの宿泊地は、摩周湖と屈斜路湖の中間にある「川湯温泉」だった。近くには「硫黄山」といって、年中、硫黄の煙を吐いている観光名所がある。川湯温泉のお湯はまさに「硫黄の湯」であった。筒井温泉のサラッとしたモール泉とは対照的に、ヌルヌルと身体にまとわりつくようなお湯で、石鹸の泡はまったく立たなかった。そこで、硫黄泉とは別に、普通のお湯の湯船も用意されていて、その近くの洗い場の水栓は普通のお湯が出るようになっていた。

 そのあとは、どういうルートを通って札幌までたどり着いたのか、なにしろ半世紀近く前のことなので、まったく記憶がない。

 ただ憶えているのは、札幌では、すすき野あたりのビジネスホテルに泊まったこと。北海道出身の先生は久しぶりに昔の友だちに会うといって夜の街に出かけてしまったので、シングルルームでもうひとりの中年の先生とテレビを見ていたことぐらいである。

 札幌といえば、「サッポロ・ビール園」のビール飲み放題、ジンギスカン食べ放題には行ったと思うが、その記憶も、帰りの飛行機の記憶も消えてしまっている。





 さて本番の修学旅行は翌年の6月だった。北海道には梅雨がない、ということで、関西では雨と湿気に悩まされるこの時期を選ぶのが定番である。

 学校に集合したのは夕方前だった。舞鶴までバスに乗って、そこから「新日本海フェリー」で小樽まで行く。その時間は30時間。夜遅くに出港して、船内で2泊し、明後日の早朝に着くということになる。その長い船旅の退屈しのぎにと、保護者の役員をしているお母さん方がウィスキーのダルマ瓶を数本差し入れてくれたのには驚いた。

 新日本海フェリーもその後だいぶ改善されたが、この頃は、乗客よりも荷物を満載したトラックの方が主たる客だと云われていた。人間の客はトラックの運転手のみ、それ以外の一般客は「おまけ」みたいなもの、といったような状態だった。だから、生徒が泊まる「二等船室」は、船底のだだっ広い大広間で、枕と毛布が配られ、そのあたりに適当に寝転がって眠るというようになっていた。

 ほとんどの生徒ははじめての船旅、しかもこんなに遅い出帆となれば、船長さんらからのさまざまな注意事項の説明が済んだあと、すぐに眠れというのも無理な話なので、甲板には出ないこと、乗り合わせている運転手さんたちの迷惑には絶対にならないことを厳命して、あとはある程度放任することにした。

 すると生徒たちは、早々と大部屋で毛布に包(くる)まって就寝するものもいたが、大部分は、甲板の内側の二階建てになったロビーのあちこちで、持ち込んだお菓子を食べながら、友だちとしゃべったり、トランプなどのゲームをしたりしていた。

 教師にあてがわれたのは「一等船室」だったが、それも6人ほどが泊まれるだだっ広い和室で、それが2つと、それ以外に、付き添いの女性看護師の部屋といざという時のための保健室用の部屋が用意されていた。

 なんといっても30時間の長旅である。教師とてもすぐに眠れるわけもなく、ひとつの部屋に集まって、差し入れのウィスキーのほか、旅行社の添乗員が用意してくれたおつまみ、ビール、お酒で酒盛りがはじまった。

 今回の添乗員は、この学校の卒業生で、学年代表の年長の先生の教え子でもあったので、その当時の昔話からはじまって、話題は転々、止(とど)まる所を知らず、まるで教師たちの慰安旅行のようなおもしろ楽しい時間が過ぎていった。

 途中、交代で、生徒の様子を見廻りに行くのだが、明日も丸1日船の中なので、あまり騒ぐなよ、とクギを刺す程度。生徒も教師も夜更かしし放題という調子で、例の北海道出身の先生など、持ち出したダルマウィスキーをロビーのベンチでグビグビやりながら、取り囲んだ生徒に促されるまま、学生時代の色恋話などを披露し、挙げ句は泥酔して生徒に介抱されるという羽目の外しようであった。

 おかげで翌日は朝食に叩き起こされたあと、みんなそれぞれ、船室の毛布の中や、ロビーのベンチでグウグウと眠って、一転船内は驚くほどの静寂となった。時間と退屈を潰すために「演芸大会」のようなものをやったのは確かであるが、この往きの船であったか、帰りであったか、その両方であったか、憶えていない。

 次の朝、やっと北海道に上陸した。小樽港近くの食堂で朝食を摂ったあと、今度はバスで南へ縦断、ほとんど一日がかりで「筒井温泉」に到着した。

 山の中の一軒家のホテルだと、事前の説明会で散々聴かされてはいたが、行ってみると本当にそのとおりだったので、さすがの生徒たちも驚いたようだった。

 しかし、若い者は適応が早い。船の中では揺れてお湯がこぼれそうな風呂しかなかったので、広々として爽やかなモール泉は好評だったし、粗末としか云えなかった船中食と比べるとホテルの夕食は破格のご馳走に見え、大満足しているようだった。

 外は「自然」しかない、寂しいところだったが、まだ明るい夕食前に、真っ白な昆虫網を持って近くの林に入り、北海道の蝶々を採集してきた剛の者もいた。

 「本州にはいない珍しい種を採集してきました」

 これまで、遠足や林間学校などでも欠かさず昆虫網を持参していた、その生物部部長の生徒は満足そうに云った。

 翌日、バスは川湯温泉へと向かった。途中、これといった観光スポットもなく、またもや一日がかりのバスの旅は退屈きわまりないはずであったが、生徒たちはバスガイドの軽妙なおしゃべりに乗って、楽しく過ごしているようだった。男子校なので、女性ガイドと親しく口が聴けるのがうれしかったのだろう。私自身も、二度目の北海道とは行っても、こうして正式な観光案内を聴くのははじめてだったので、長(なが)のバス旅は気にならなかった。

 「北海道は涼しいので、夏でもクーラーは使いません。このバスにも冷房はついてません」というのは予想できたことだが、「わたし、ゴキブリって見たことがないんですよ。北海道にはいないみたいですよ」には驚いた。

 さて、お待ちかねの「摩周湖」だったが、下見の時はあんなに簡単に、きれいに見えたのに、肝心の本番では、空が曇ってきて、展望台に上る土手の階段のあたりからすでに濃い霧が立ちこめていた。

 うえに上っても、いったいこの向こうに本当に深い湖があるのだろうかと疑われるほど何も見えなかったので、結局、もうひとつのポイントの「硫黄山」のもうもうたる硫黄の煙で満足するしかなかった。

 川湯温泉に泊まったあと、屈斜路湖、美幌峠を経て、層雲峡に着き、一泊して札幌に向かった。

 札幌では、修学旅行専用の小さなホテルに泊まったが、別の学校が2つほど同宿していて狭苦しい感じだった。

 そして、翌朝早く、小樽から再び新日本海フェリーに乗り込んだ。往きと同じ30時間だが、朝の出発だったので、船中泊は1泊で済んで、翌日の午後に今度は敦賀港について、バスで学校に着いたのは夕方だった。

 帰りのフェリーは、二度目の船の旅なので、退屈というより、慣れたといった感じで、今度ははしゃぐこともなしに、みんな、もっぱら横になって、それまでの不足気味の睡眠を取り戻すのに専念していた。そんな中、奇妙な「事件」が起こった。

 1日目の夕食が済んでしばらくしてからのことだっただろうか、何人かの生徒が教師の部屋にやってきた。

 「A君とB君が、ずっと布団の中で抱きあっているんです」

 一瞬、なんのことか判らなかった。とにかく、それぞれの担任教師が駆けつけてみると、船底の大部屋の隅っこの、薄い毛布にカバーを掛けた布団の中でふたりがそのとおりになって眠っているようだった。

 叩き起こして、ふたりを教師部屋に連れてきて、どうしたんだ、と問い質してみたが、ふたりとも、まったく悪びれることもなく、顔を見合わせて、ただ微笑んでいるばかりだった。

 他の生徒の話によると、このふたりは旅行のあいだ中、ずっとこんな調子で、かといって、それ以上のことをするわけでもないので、同じ部屋の者は慣れてしまって気にならなくなってしまったが、船内の大部屋ではさすがにそうもいかなくなった、ということのようであった。

 ふたりを別室に隔離して、さっそく、引率の教師の間でどうしたものか、と会議が始まった。

 「不純異性交遊」かといえば、異性ではないし、ただ抱きあっているだけでそれ以上のことはないようだから不純ともいえないし、と、困惑するばかりで、とにかく周りが迷惑しているのは確かだから、ここは「厳重注意」ということにして一件落着させることになった。

 修学旅行では、校長が形式的な引率責任者として参加することが建て前だが、「代理」で間に合わせることが多かった。この時は学年で国語を教えていた「教頭格」の先生が校長代理となっていたので、その先生に「厳重注意」してもらうことになった。

 数年前に公立高校を定年退職して、この学校にやってきたこの先生は、管理職臭くない、元文学青年の洒脱な人だったが、こんな場合どう注意すればいいのか、昔から「衆道」っていうのもあったからねぇ、と困り切っていたが、なんとか注意してもらった。

 後年、何十年も経って開かれた同窓会でその時のことをA君に尋ねてみたところ、「君たちは、人の道を外れたとんでもないことをしている」などと、ひどい言葉で叱られた、と憤慨していた。さすがの「元文学青年」も窮地に立たされて、只の教師に戻っていたということだろうか。

 このふたりは、修学旅行から帰ったあとも、授業中に机をくっつけて、おおっぴらに「いちゃつく」などしていたが、その後、徐々に離れ、卒業後は別々になって、それぞれ結婚し、幸せな家庭を築いている。

 当時はテレビで、キャンディーズやピンクレディーなどが大流行していた。学校の文化祭でも、短いスカートをはき、ヒラヒラのドレスを着て、その歌をバックに振り付けを真似て踊りまくるという「女装コンテスト」が毎年開かれていたが、中学生のころから毎年優勝していたのがA君だった。そんなA君に惚れて夢中になっていたのがB君で、優しいA君がそれに合わせていたというのが真相らしかった。

 そのA君が、どのような経路を経て、そうなったのか詳らかではないが、大学卒業後、その「女装」力を生かした職業につき、京都の中心街に自分の店を持つようになった。

 「オカマ・バー」ですよ、と本人は云っていたが、いざ行ってみると、お客が40人近く入る大きな店で、中央にステージがあって、1日何回か「ショー」が行われていた。

 その内容は、A君の自由自在な、軽妙なトークに導かれて、美しい「ニューハーフ」たちが華やかに唄ったり踊ったりするもので、お客の約半分は女性。彼女らが大いに乗って盛り上がっていたので、思っていたよりも明るくて、「健全」な印象を受けた。

 A君はときおり、ローカルのラジオやテレビのちょっとした番組にレギュラー出演していたこともあり、今日隆盛を極めるこの種のタレントの草分けのような存在のひとりでもあった。

 もうすでに還暦を迎える年齢になっていようが、その「美貌」は衰えを知らず、いまもお店は順調のようで、図らずも、この学年一番の、学校全体でも有数の「有名人」になっていた。





 次の北海道旅行はその5年後となる。今度は修学旅行ではなくて、妻とのプライベートな旅行だった。

 結婚してから、毎年、夏・冬・春の休みには1~2泊の旅行をするのを常としていたが、妻がぜひ私もいちど北海道に行ってみたい、と云い出し、生まれてまもない長男を妻の実家に預けて、8月の初めに約1週間の北海道旅行に出かけた。

(この頃から、簡単な「日誌」をつけはじめていたので、記憶はやや正確なものになる)


 朝の8:55に大阪伊丹空港を離陸した「ジャンボ機」は、10:40には北海道千歳空港に着いていた。ところが、涼しいはずの北海道で待っていたのは「灼熱の太陽」だった。

 申し込んであった旅行社のツアーで用意された観光バスに乗って、札幌を抜け、炎天下で「逃げ水」の走る直線道路を旭川に向かって走り抜けていた頃、水銀柱は35℃を超えていたとのこと。おまけに乗ったバスは「北海道仕様」の冷房なしで、窓から入ってくる風も熱風のごとくだった。

 「北海道に住んで20云(うん)年のわたくしでも、こんな暑さははじめてです」

 その倍ぐらいは住んでいそうなベテランのガイドさんが必死になって弁解していたが、バスの中はみんなぐったり。それに腹の立ったことに、途中休憩の駐車場には、「北海道仕様」ばかりではなく、涼しそうな冷房完備のバスも結構あるではないか。

 煮えくり返るような思いを抑えて、やっと最初の層雲峡のホテルに着いた時は山岳地帯に入ったこともあって、大分涼しくなっていた。

 温泉に入って、夕食を食べたあと、妻とふたりでホテルの外に出てみた。温泉街らしきものはほとんどなかったが、その分、星空がきれいで、天の川がくっきりと見えたのが感動的だった。

 翌朝は早起きをして、ホテル近くにある乗り場から「黒岳ロープウェイ」に乗ってみた。5合目まで行くことができて、その先はリフトになっていた。5年前の6月の修学旅行のときもここまで来たが、その時は、周囲に雪がたくさん残っていて、スキー客もいくらかいた。

 5合目の見晴らしと涼しい空気を存分に楽しみ、ホテルに戻って、バイキングの朝食を食べた。出発は8時と早かった。

 石狩川沿いのいくつかの名勝の滝、大函、小函、石北峠を経て、美幌で昼食を食べた。日誌によれば、ここもバイキングとある。暑さは前日と変わらず、堪え難いものだったが、そのあとオホーツク海に出て、小清水の原生花園で休憩した時、砂浜で靴を脱いで、海水の中をしばらくじゃぶじゃぶと歩いたのがとても気持ちよかった。

 バスは西に向かって網走へ。網走監獄や流氷館を見学し、近くの網走湖畔のホテルに着いた。「網走湖荘」というそのホテルは、部屋の窓から網走湖が一望に見え、部屋も大浴場も料理も、このときの旅行ではベストと云えるものだった。

 翌日は、目玉コースの「知床」だった。といっても知床岬を船で廻るのはたいへんなので、「知床五湖」のうち、2つだけ廻った。なんでも熊が出ることがあるというので、バスガイドは同行しないとのこと。「どうかお気をつけて」と送り出されたが、大丈夫なのか、と一瞬不安になった。

 知床横断道路に入って、知床峠まで行き、Uターンして、ウトロでは毛ガニの昼食。そこから、阿寒・摩周へと向かったが、そのあたりから天候が怪しくなってきた。

 日が陰って少し涼しくなったのはよかったが、やはり、目的の摩周湖は完全に霧に包まれていて、硫黄山の威容と阿寒湖遊覧船でお茶を濁さざるをえなかった。

 阿寒湖畔で泊まった次の日は午前中から雨。北海道横断の長い道のりのバスは、さすがに冷房がなくても涼しかったが、十勝と日高の境目の日勝峠を越えた頃からは豪雨になった。

 なんとか夕方までに「登別温泉」に着いた。ホテルのテレビを見ると、太平洋から道東に上陸した台風の影響で、道央(北海道中央)地方は大豪雨に襲われ、石狩川が決壊して大洪水になっているとのことだった。

 登別も雨はひどかったが、さいわい洪水のおそれはなくて、豊富な湯量を誇る登別温泉を堪能することができた。硫黄泉、カルシウム泉、ラジウム泉、鉄鉱泉など、とにかく種類が多く、女湯も充実していたそうで、パンフレットで喧伝される男湯と比べて、女湯がいつも貧弱なことを憤っていた妻はご機嫌だった。

 翌日も雨が降る中を洞爺湖に向かい、洞爺湖観光船や昭和新山などの観光名所をこなして、札幌に入った。最終日の札幌泊は「札幌プリンスホテル」で、夕食は各自で、ということだったので、「サッポロビール園」へ行った。サッポロビールの工場に隣接して設(しつら)えられた赤煉瓦のレストランは、食べ放題のジンギスカンと、隣の工場で出来たばかりのビールが飲み放題、というのが売り物だった。

 冷房がよく効いているといっても、兜型のジンギスカン鍋で次々とヒツジ肉を焼いていくと当然、汗ばむほど暑くなってくる。しかしそこに運ばれてきた出来立ての生ビールはいつまで経っても冷たいままなのは不思議だった。日誌によれば、そのあと、すすきのの「ラーメン横丁」に行って、味噌ラーメンを食べたとある。

 いよいよ帰阪の日となったが、夕方の飛行機の時間までは自由行動となった。雨は昨夜から止んでいて、この日は好い天気だったと記憶している。集合場所の札幌駅に荷物を預けて、北海道大学、北海道庁、時計台、大通り公園など、定番の観光地を妻に案内して、飛行機に乗り込むと、上空からは石狩川が決壊して洪水となっている模様がよく見えた。

 このたび、この文章を書くためにネットで調べていると、この1981年8月3日~4日の台風のあと、月末の22日~24日にも豪雨に見舞われ、この年は、それまでの記録だった1975年の時の2倍以上の面積が浸水するという「500年に1度の大洪水」の年になったとあった。

 その1975年8月22日~24日といえば、前述した、私が修学旅行の下見ではじめて北海道へ行った時である。奇しくも、私は北海道を揺るがしたこの2度の大洪水に遭遇したことになるが、いずれも運良く難は免れた。ありがたいことである。

 思えば、あの異常だった暑さも、あとからやって来る台風と大豪雨の前触れだったのかもしれない。

 午後7時25分に無事伊丹空港に着いた時、まだあかるさは残っていた。久しぶりの大阪はとても涼しくて、気持ちがよかった。ならば、自分たちは今までどこに行ってきたのか、どっちが北海道なのか。思わず、苦笑してしまった。





 その翌年の8月初め、またもや修学旅行の下見で北海道に行くことになった。当初、別の人間が行く予定だったが、急に行けなくなって、その代役が回ってきたのだ。その頃、学年の主任のような仕事をしていたので、結局、本番では、事実上の引率責任者となってしまった。

 旅行のコースは、それまでの「修学旅行担当」の教師らと、生徒から選ばれた「修学旅行委員」たちが相談してすでに決まっていた。前年私たち夫婦が行ったのと同じように、道東の阿寒・摩周から知床まで足を伸ばす欲張りなコースである。今回の往きは列車を使うということだった。

 この頃には、7年前の下見のように、レンタカーを借りて、教師が運転するということはなくなっていた。いつもいつも北海道出身の教師がいるわけでもなく、万が一事故でも起こした時はどうなるのか、という懸念もあって、現地で使用するバス会社から運転手つきの自動車を用意してもらうことになり、それに旅行社から添乗予定の社員(以下、添乗員と呼ぶ)も同行することになった。

 10:20大阪発の特急「白鳥」に乗り込んだのは、添乗員のほか、教師は、私と、それまで修学旅行を担当していた、私より年下の若手が2人。米原から北陸本線に入って、金沢、新潟を経て、青森に着いたのは23:50だった。

 印象では、金沢から先がとても長いということだった。金沢から新潟まで行くのに、大阪から金沢までの倍以上の時間がかかり、さらに秋田へもそれぐらいの時間がかかった。

 青森からすぐに青函連絡船に乗り換えて、翌朝4時すぎに函館に着いた。まだ早いので、予約してあった駅前の旅館で仮眠し、朝食を済ませたら、バス会社差し回しのライトバンがやってきた。運転は道内を知悉したベテランドライバーである。

 その日は、函館市内の函館山、トラピスチヌ修道院などの観光地をざっと廻って、大沼公園を経由し、長万部で昼食を食べた。

 その食堂は、本番の修学旅行でも利用するところである。生徒と同じメニューの食事を出してもらったが、それ以外に、特別に、カニめしやカニサラダ、帆立て貝などの料理も出た。とくにカニサラダは、すでにむしった毛ガニの身が大きなお皿に山盛りになっていて、そんなにたくさんの美味しいカニを食べたのは、それまでも、それ以後もない。

 云ってみればわれわれは大きな団体客を率いる重要な顧客なので、そのご機嫌を損なわないためにそのような過剰といってよいサービスが提供されたのであろう。それに、旅行社の添乗員が同行していたのも大きかった。

 教師のわれわれだけなら、たった1回限りの顧客だが、旅行社はこれからも長い付き合いを続けていく相手なので、今後の取引を顧慮すれば、絶対に大事にしなければならない存在だろう。そのような二段構えの接待を受けるかたちとなるこの下見旅行は構造的に、まさに「大名旅行」そのもので、そこが前回の下見とはちがっていた。

 午後は洞爺湖に行って、火山博物館、昭和新山を見て、宿泊地の支笏湖に着いた。ここでの生徒の夕食はメニューの写真を見ただけで、われわれには、鴨鍋とか毛ガニのご馳走が出た。運転手は、バス会社専用の宿泊施設があるらしく、到着直後にそちらに行ったので、ホテルには教師3人と添乗員の4人で、夕食のあとはとくに仕事もないので、添乗員の勧めで麻雀をすることになった。4人とも初心者に毛が生えたような腕前だったので、そんなにカッカとなることもなく、和気あいあいと時間を潰して、眠りについた。以後、どのホテルに泊まっても、夕食後はそのようなスケジュールが定番となった。

 次の日は1日ずっと移動日。道東に行くためにはやむを得ない行程である。本番での昼食場所の日高はパスして、池田町の「ワイン城」に行くことになった。

 大きなコンクリート製の、西洋中世のお城のような豪華な建物で、中にはワイン製造工場とレストランがあった。ここで名物のワインを飲みながら、自慢の牛肉のステーキでも食べましょう、と、旅行社からの「接待」のようであったが、入ってみると中は満席。1時間待ちとかで、せっかくのご馳走も棒に振らねばならなかった。結局、どこかのドライブインでカレーライスか何かを食べて空腹を癒した。夕方には阿寒湖畔のホテルに到着。ここでは連泊して、翌日3コースに分かれて、活動することになっていた。

 その3コースとは「知床五湖」「雌阿寒岳登山」「野付崎・トドワラ」であったが、今回は手分けして、若手2人が登山、私と添乗員が車でトドワラと知床五湖に向かうことになった。

 支笏・洞爺からここ阿寒湖に来る途中、周囲の景色はずいぶんと変わってきた。人家がまばらになり、広々とした畑や牧草地が地平線まで伸びていく。それまであった「観光地」の要素はすっかり消え失(う)せ、単なる農業・牧畜の土地と化して、車窓から見る風景も変化は乏しくなっていった。単調な「移動」は観光バスのガイドにとっては苦痛の種だったかもしれないが、一方、それを巧みに「娯楽」の時間にする腕の見せ所でもあっただろう。そしてやっと砂漠のオアシスのような、阿寒・摩周・屈斜路という観光スポットに到着する。

 トドワラへは、そこからさらに東へと向かったコースをとる。中標津(なかしべつ)、標津(しべつ)といった町を経由する草原地帯は、かつての「北海道開拓時代」の雰囲気をどこか漂わせて、のどかというより、荒涼とした空気が充満し、まさに異国の地に来たと有無を云わせずに実感させるようなところがあった。そして、いよいよオホーツクの海岸に着くと、眼前には国後(くなしり)の島影が大きく視界を占めている。

 その手前には、オホーツクの荒波に運ばれてきた砂礫が、鳥の嘴(くちばし)のように細長く堆積した、野付崎の砂嘴(さし)が延々と伸びている。そこに渡された木道をトコトコと歩いて行くと、トドマツが白く枯れて、いたるところで白骨のようになった「トドワラ」に到着した。

 そこはまるで、この世の終わりのような殺伐とした景観で、夏だったにもかかわらず、冷たい風が吹いていたが、そんな中、真っ赤なハマナスの花がところどころ咲いていたのが救いだった。

 そのあと、車をとばして、知床五湖まで足を延ばし、ホテルに帰ったのは夕方6時になっていた。

 登山組の2人はすでに帰っていて、入浴も済ませていた。なんでも、途中、霧が出て、小雨も降ってきて、あやうく道に迷いそうになったとのこと。その夜の食事は、それぞれの貴重な体験談の花が大いに咲いた。

 翌日は、神秘の湖「ペンケトー」「パンケトー」が見える「双湖台」、雄阿寒岳・雌阿寒岳が見える「双岳台」、そして、摩周湖、硫黄山、屈斜路湖、美幌峠と、道東の有名観光スポットを次々とたどりながら、層雲峡へと向かった。ただ、期待の摩周湖は、この日も深い霧に包まれて、まったくその姿を見せなかった。

 最終日は途中の滝川の昼食場所で、本番の試食をして、札幌に入った。本番の札幌の宿は、従来使っていた「修学旅行専門旅館」がもはや時代遅れになって、あまり評判がよくなかったので、思いきって市内のホテルを使うことにし、その東急ホテルの下見をした。

 支配人と話をし、ツインに補助ベッドを入れて4人部屋にした部屋の見本を見学した。また、夕食はないが、朝食はできます、とのこと。ただ、翌日はフェリーの時間の関係で朝食を早くしてほしいと云うと、その時間では、個々に配膳することはできないが、バイキング形式ならできます、というような打ち合わせをした。

 これで下見の仕事はすべて終わった。 あとは17:05千歳空港発のジャンボ機に乗るだけである。本番では小樽からフェリーに乗ることになっていたが、「30時間の船旅ではあとの仕事に差し支えますので、何とぞご容赦を」という旅行社の要望でそうなったのであった。少し時間があったので、サッポロビール園へ行って、早めの夕食を食べた。食べ放題、飲み放題しているうちにすぐに時間が経ち、慌ててタクシーを飛ばしたのを憶えている。

 ジャンボ機が離陸して、もうあと2時間あまりで久しぶりの家に帰れると、中央のシートにゆったりと腰掛けて、廻ってきた雑誌を手に取り、ウトウトとまどろんだ。ところが、そのあと思いがけないことが起こった。

 ジャンボ機は順調に飛行して、大阪上空に近づき、まもなく着陸態勢に入るかと思われた。ところが、その後、ぐるぐると旋回を繰り返すばかりで、なかなか下降しようとしない。さすがに機内の客がざわつきはじめた時、機長のアナウンスがあった。「現在、大阪空港上空に雷雲が発生、激しい雷雨のために着陸できません。もうしばらく上空を旋回して、雨が収まるのを待ちます」

 窓から外を見てみると、まだ明るさの残った空の下には確かに大きな黒い雲が広がっていて、稲光のようなものが光っているのが見える。

 仕方がないので、そのまま、雑誌や新聞などを読んで時間を潰した。30分ほど旋回していただろうか、また機長のアナウンスがあった。「雷雨が収まりそうにありませんので、いったん羽田まで引き返します」

 羽田に着いて、そのまま機内で待機となった。旅行慣れした添乗員でもこんなことはあまり経験がないそうで、下手をすると、羽田のホテルで泊まらなければなりませんね、と云う。困ったことになったな、と思うと同時に、こんな珍しい体験も貴重だ、ホテルで退屈したら、また4人で麻雀をすればいいんだ、と、のんきなことを考えて、いつの間にか楽しみにするようになっていた。

 でも、結局、雷雨も収まったようで、機内備え付けの新聞・雑誌もすべて読み尽くした、夜10時近くになって、羽田を出発した。

 大阪伊丹空港は騒音問題訴訟の判決で夜9時以降の離発着は禁じられていたが、このときは緊急事態ということで特例となったのであろうか、11時前に着陸した。荷物の受け出しをしているうちに、終電の時刻が過ぎそうになったので、空港からタクシーに乗って、自宅に帰ったのは真夜中だった。





 翌1983年5月26日午前11時59分、秋田県能代市西方沖80kmを震源とするM7.7の「秋田沖地震(日本海中部地震)」が勃発した。

 秋田市で震度5などの被害があったほか、津波が発生、ちょうど遠足で海岸に来ていた小学生のうち13名が流されて死亡したほか、護岸工事中の作業員、釣り人など、合わせて100人の犠牲者が出る大惨事となった。

 反対側の三陸海岸と違って日本海側では津波の心配はない、という思い込みがあったほか、津波に対する警報システムも現在ほどは整備されていなかったためだった。当然、近くを走る「奥羽本線」は不通となった。修学旅行本番の2週間前のことだった。

 この年高校2年になったこの学年は私が中学1年からずっと持ち上がってきた学年で、他の教師たちもほとんどそうだった。中心となっていたのは、以前修学旅行の下見にいっしょに行った、北海道出身の先生で、私よりも2歳年上だったが、他は私よりも年下ばかりという、他学年と比べて、圧倒的に若い年齢構成だった。

 堅苦しい「伝統」など全くない学校だったが、それでも、これまでこうやってきたと、前例を重んじたり、「上から目線」で生徒を縛りつけるのをよしとする教師も多かった。若い教師ばかりということは、そんな制約を受ける必要がないということを意味し、自分たちが思うようにやれるということだった。別に申し合わせたわけではないが、できるだけ目線を下げて、生徒たちと同じような立ち位置で物事に対処しようという原則がほぼ同意されていた。

 この学校自体、教師間の関係を上下ではなくて水平に見るという思想を持っていて、いわゆる「学年主任」にあたる立場も「学年連絡係」という名称にして、それも経験の有無に関係なく、できるだけ「輪番制」にするという方針がなんとなく出来上がっていた。

 最初に「学年連絡係」になった北海道出身の先生は、「カウンセリング」や「ワークショップ」に興味を持っていて、独自に研修されていたが、その技術を生かして、夏休みに希望する生徒を集めて、ワークショップをしてみないかと提案、それに賛同する私たち学年教師の有志も加わって、最初は、校内での一日研修、その後、山間部の「セミナーハウス」での宿泊研修を実施した。

 そこでは、与えられた「課題」やゲームを通して、手探りながらも、生徒各自が自分が抱え持っているものを自然に表現し、お互いに心を開けあうという活動を楽しんでいた。毎回50名ほどの生徒が参加していたが、それは学年全体の約2割に当たる。

 しかし一方、その頃、日本全国では、「学校が荒れる」という現象が広まっていた。「校内暴力」という言葉が新聞の見出しに飛び交い、窓ガラスが割られて荒廃しきった中学校の写真が掲載されたりしていた。そんな状態のピークと見なされていたのが、私たちが受け持っていた「丙午(ひのえうま)」の学年だった。

 「丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という言い伝えがむかしからあったようで、1906年の丙午では、前年より出生数が約4%減少したという。

 もちろん、これは何の根拠もない〈迷信〉なので、その後廃れてしまったかと思いきや、この学年の1966年生まれは、前年よりも25%も減少してしまっていた。1年下の学年を担当していた先生によると、その学年の保護者との懇親会で、「もちろん、あの年は出産を回避しました。当然でしょ」と得々と語る母親がたくさんいたそうである。

 そんな世相に囲まれて、彼らがそれまでどれだけ「謂われなき偏見」にさらされてきたか、私の勤める学校は「男子校」だったので、それは女子ほどではなかっただろうが、かなりのものがあったであろう。この学年が全国的に「校内暴力」のピークと見なされてきた一因もそんなところにあったのかもしれない。

 私の学校の場合、新聞やテレビで喧伝されたような激しいことは起こらなかったが、それでも例年とは違っていた。

 中学1年生として入学してきた時は、みんなまだ子どもの面影をいっぱい残した「可愛さ」に溢れていた。一部に、やや乱暴な「やんちゃ」な生徒もいたが、子どもの範疇に収まる程度だった。

 しかし、2年生になって、そろそろ声変わりしはじめる者が出始めると、空気は埃っぽい、粗暴なものになっていった。

 ちょっとしたことでつかみ合いの喧嘩となって、からだも大きくなってきているので、大騒ぎとなる。当初の「やんちゃな」生徒を中心とするグループが、外の影響を受けてのことだろう、「ツッパリ」とよばれた特殊な服装、髪形をし始めて、他の同級生たちを威嚇しはじめた。

 それからは、彼らの引き起こす問題の処理に追われることになる。大多数の生徒には手は出さなかったが、まだからだの小さい「弱い」生徒や、突飛な言動で少しはみ出し傾向にある生徒たちを狙って、暴力を振るったり、恐喝めいたことをしたりした。

 それらの非行は表面化することが少なく、指導の機会を捉まえるのには苦労したが、ひとつひとつ地道に解決していった。こういったことは、前に持っていた学年ではほとんどなかったことだった。

 ところが、中学3年の中頃あたりから、今度は「ツッパリ」グループとは全然別の生徒の中から、「喫煙」「万引き」「放置自転車の窃盗」などで補導される生徒が次々と出てきた。

 毎週のように、彼らの処分を決める「臨時職員会議」が開かれた。処分の対象となる生徒の範囲は高校1年になっても拡がり続け、ついには、父親にも出席してもらうよう、日曜日に保護者説明会を開催して、学校での現状を報告し、各家庭の協力を求めたりしたこともあった。

 こういった状況は私たちの学年で突出していたので、他学年の教師たちからは白い目で見られていた。「若い教師たちが生徒を甘やかした結果だ」とか「躾(しつけ)のできていない学年」などという陰口が公然と囁(ささや)かれていた。

 しかし、校内には、こんな難しい学年を、経験の浅い「若手」に押しつけていたわれわれにも責任があると、高校になって、数学科と英語科の「長老」的な先生が学年に入ってくれることになり、また、そろそろそういう年頃にもなってきたのか、高校2年にもなると生徒たちもだいぶ「おとなしく」なってきていた。

 だから私たちは楽観していたのだが、それでも、「この学年、本当に修学旅行なんかに行けるんかいな」と、心配というより、なかば「からかい」の混じった声も耳に入っていたところに、今回の地震による奥羽本線の不通である。本当に行けなくなってしまうのでは、と心細くなって、旅行社の添乗員に電話した。

 「出発の日までには復旧すると思いますが、万が一の時は、新幹線で東京にいって、そこから東北本線で青森へ行くルートを確保しておきます」という返事だった。当時はまだ、東北新幹線が大宮~盛岡間が暫定開通したばかりだったので、在来線を使うつもりだったのだろうか。とにかく、信頼できる、しっかりした添乗員だったので、任せるしかなかった。

 6月7日、奥羽本線復旧の知らせが入った。

 出発はその2日後の6月9日だった。早めの9:00に大阪駅に集合して、予定の列車に乗り込んだ。青森到着は23:50。生徒たちは、おしゃべりをしたり、持ち込んだゲーム類で遊んだり、ラジオやウォークマンを聴いたり、中には本を読んだりするものもいて、それぞれ楽しそうに、日本海沿いの長い鉄道の旅を楽しんでいるようだった。

 昼の弁当は各自持参で、夕食には駅弁が配られた。教師には缶ビールが廻ってきて、それを飲んでウトウトしていると、午後10時前に突然、列車が揺れて、急停車する音が聞こえた。

 「地震だ!」という大きな声がして、また、ぐらぐらっと止まっている列車が大きく揺れた。

 車内は騒然となった。携帯ラジオをつけてみると、21:49に秋田沖で、M6.1の地震があったとのこと。この前の地震の余震だった。「津波があるかもしれないから、絶対に海岸には近づかないように」と、ラジオは執拗にそればかり連呼し続けていた。

 列車はちょうど秋田駅を過ぎたところを走行中で、止まっているのは鉄橋の上のようだったが、今は動けない。「心配ないから、落ち着いて」と、教師たちが車内を廻って生徒たちの様子を見に走った。

 しばらくして、不安定な鉄橋の上から、徐行運転でなんとか最寄りの「八郎潟」という駅にたどり着いた。

 「これから線路の点検を行います。終わりますまで、しばらくここままお待ちください」という放送が流れた。点検をして、行く手に大きな故障箇所でも見つかったら、このまま大阪まで引き返さなければならないのか。そうなれば、完全に修学旅行は中止だ。動揺が拡がったが、ここは待つしかなかった。

 まだ携帯電話などない時代だったので、校長と二人でホームに降りて、私は公衆電話でとりあえず、心配しているだろうと、保護者の学年代表の家に電話したが、今ほど地震の報道が迅速になされていない時代だったので、この地震のことは知らないようだった。夜遅くの電話には驚いておられたが、とにかく今の状況を説明しておいた。校長も、留守役の教頭に電話したところ、同じような反応だったそうだ。

 修学旅行の形式的な引率責任者は校長だが、他にも仕事があって多忙なので、その代理として、実際は、教頭やそれに類する教師が来ることが多かった。しかし、この時は、校長本人が来ていた。

 この校長は、公立高校で校長を勤めてからこの学校にやってきた人で、当初の数年間は教頭をしていたのだが、2年前、前校長の退任にともなって校長に昇格していた。几帳面そうな人だったが、堅苦しい形式主義者の面もある、公立校長にはよくありそうなタイプの人だった。

 今回、敢えて修学旅行に同行してきたのは、「問題の多い」この学年のことを危惧したためのようだったが、この校長のこれまでの遣り口からみて、私たちがこの学年でこれまで取ってきた指導方針とは齟齬する事態が予想されて、このとき「学年連絡係」として、実質的な引率責任者となっていた私は秘かに頭を痛めていた。

 そこで、途中でいろいろ口出しされないように、あらかじめ、1時間単位の表形式で、引率者全員の任務分担を詳細に記した一覧表を拵(こしら)えて、みんなに配っておいた。旅行の詳しい行程も併記したその一覧表はちょっとした冊子となったが、それを見れば、いまどこに居て、自分は何をすればいいのかがひと目でわかるものだった。何かあって変更があれば、「司令塔」の私が連絡することになっていた。

 さて、このままUターンして修学旅行は中止、という悪夢は免れて、約2時間後に列車は動きはじめた。しかし慎重に、スピードは上げられないので、青森に着いたのは真夜中の2:30だった。乗る予定だった連絡船はとっくに出てしまっていて、どうなることかと思ったが、手際よく、臨時の船便が用意されていて、私たちは無事に津軽海峡を渡ることができた。

 函館に着いたのは午前6時過ぎ。本来ならば、4時過ぎに到着して、駅前の旅館で仮眠するのだが、今回はその必要はなくなり、朝食を食べるとすぐに観光バスがやってきた。

 予定では、函館山などを市内観光をすることになっていたが、あいにくの雨だった。みんな寝不足で疲れているだろうからと、予定はキャンセル、途中の「大沼公園」も素通りして、昼食場所の長万部へと向かった。午後は、雨が止んだので、洞爺湖、昭和新山などを見物して、宿泊地の支笏湖畔のホテルに到着した。

 夕食は「ジンギスカン」で、教師席ではこれまでの旅行のようにビールが出された。すると、その夜の教師の打ち合わせ会で案の定、校長から「生徒のいるところでアルコールはまずいのではないかね」とクレームがついた。「いや、これまでの林間学校でもそうしていましたよ」と押し問答になった。

 校長は、旅行中に教師がアルコールを飲んではいけない、と云っているわけではないようで、そういえば、公立学校では、旅行時の食事の時には「やかん」にアルコール類を移しかえて持ってこさせる、というような話を聞いたことがあった。

 結局、その日は折れて、教師は生徒とは別の部屋で食事することになった。「生徒さんの世話はわれわれがちゃんとやりますから」と添乗員が云ってくれた。

 また、添乗員から、「このたびの地震で列車が2時間以上遅れましたので、特急料金が払い戻しになりました。そのお金はどうしましょうか。帰ってから返金しましょうか、それとも全員に何かおみやげの品物でも買って配りましょうか」との報告があった。そこで即座に私はこう答えた。「ならば、そのお金で生徒の夜食用に毎晩、お握りを配ってください」

 これまでのいろんな学年の修学旅行で、夜、生徒がホテルから抜け出すことがあるのは、お腹を空かせて、外でラーメンなどを食べに行ったりするためだ、という話を聞いたことがあった。夜食を配っておけば、いくらかは防げるかもしれない。

 異論を唱える者はだれもいなかった。「それでは明日の晩からその手配をします」

 これは「グッド・アイディア」だった。夜、生徒の部屋を見回ると、みんな、そのお握りを頬張りながらゲームなどをして遊んでいた。お腹が膨れると、心も穏やかになるようで、みんなニコニコして、その後、トラブルは幾分か減ったような気がする。

 この成功に気をよくして、学校に帰ってからの職員会議でその報告をしておいた。すると、その後、修学旅行の計画の中にあらかじめ「夜食」を入れておく学年が増えた。

 さて、まだ夜食のなかった支笏湖の翌朝、朝食の後、数人の生徒が教師部屋にやってきた。ゆうべ深夜に、だれか数人が部屋に押し掛けてきて、寝ているものを足蹴(あしげ)にし、置いてあった「お菓子」などを持ち去った、とのこと。

 心当たりはないか、と訊くと、一昨日、大阪駅で列車に乗り込む時に、例の「ツッパリ」グループとささいなことでトラブルになった、その意趣返しではないか、と云う。

 そのトラブルは、たまたま目撃していた教師がいた。それによると、旅行かばんが肩に当たったとかで口論になり、つかみ合いになりかけたので、慌てて止めに入ったという。その後、不穏な空気を感じたので、乗車中も双方に気を配っていたとのこと。

 一日かかって阿寒湖まで移動するバスの停車時間に「ツッパリ」グループに問い質してみると、案の定、しらばっくれて否定する。被害者の方も確証がないようだったので、今回はそれきりにした。おそらく、これでは済まず、またやるにちがいない。そのときは現行犯で捕まえてやろう。

 阿寒湖のホテルでは連泊することになっていた。生徒たちが夕食を食べはじめてからしばらくして、教師たちは別室に用意された食卓に向かった。アルコールは付いていて、料理も生徒とはちがう、ワンランク上のものになっていて、かえって後ろめたい気がした。生徒の様子が見えないのも落ち着かないもので、ゆっくりとビールを飲む気もせず、そそくさと席を立って、生徒の食べている部屋に戻る教師もいた。気まずい空気が流れ、さすがに校長もそれに気がついたのか、その夜の打ち合わせ会で「別食」はやめようと提案すると、反対はしなかった。

 夕食のあと、有志の教師たちで今夜の作戦を立てた。彼らを捕まえるのが第一目的ではなく、未然に防ぐことができればそれに越したことがないので、食後から就寝時刻まであいだ、何人かの教師が入れ替わり立ち替わり、ツッパリグループの部屋を「訪問」した。これ以上やったらダメだぞ、というメッセージを送るつもりで、不審がる彼らといっしょにトランプをしたりした。

 そして、夜も更けた頃、やはり彼らは動き出した。それを見越して、数人の教師といっしょに狙われている部屋の近くの廊下の陰に身を潜めて、彼らが「わぁー」と云いながらその部屋になだれ込んだ時、とび出して、彼らの襟首を掴んだ。不意をつかれて驚いたようで、数人いたうち何人かは取り逃がしたが、主犯格の2人は確保できた。

 観念した2人は教師部屋のひとつに連れ込まれ、待ち受けた4~5人の教師の尋問を受けた。

 「あいつら、生意気や。カバンをぶつけといて謝りもせえへんから頭に来たんや」

 たわいないきっかけのイザコザだったが、かつては自分たちの威嚇にビクビクしていた連中が、高校生になってからだも大きくなるにつれて「云うことをきかなくなった」のに苛立っている、ということのようだった。

 もう、君たちの時代は終わったのだよ、と云いたいところだったが、それは抑えて、そのあと、彼らの愚痴や生い立ちなどを延々と聴くことになった。一応の聴取は終わったので、自分の部屋に戻る教師もいたが、夜中も3時を過ぎていて、中途半端に生徒を部屋に返すのもよくないかと思い、そのまま部屋に残して、説教というより、カウンセリングのような時間をすごした。彼らもだんだんと乗ってきて、その語らいはいつ終わるともなく続き、ようやく窓の外が白みはじめた頃、部屋に帰っていった。

 翌日は、「知床五湖」「雌阿寒岳登山」「トドワラ」の3つのグループに分かれて行動する日だった。私は、校長、英語科の長老先生とともに「知床五湖」のグループに配属されていた。このグループには徹夜で「指導」した2人の生徒が入っていたので、校長には昨夜の経緯をかいつまんで伝えておいたが、どこまで理解してもらえたかは不明であった。

 天候には恵まれた。さすがに眠くて、バスの中ではずっと寝ていたが、五湖に着くと、晴れた青空が湖面に映り、爽やかな風も吹いて、とても気持ちよかった。

 例の2人はどうしているかといえば、五湖の入口を入ったところで、眩(まぶ)しそうな顔をしてしゃがんでいた。眠たいんだろうな、と思ってそっとしておいたが、それを見とがめた校長に「おおい、行かんか。好い天気だ。歩いたら気持ちがええぞ」と促されて、渋々立ち上がった。校長は彼らが当該の2人だとは気がついていないようだった。

 5つの湖のうち、3つほど廻って、外に出ると、見違えるように明るい顔になった2人の姿があった。売店の近くに小さな犬のような動物がやって来た。「キタキツネ」だった。たくさんの人間がいてもまったく怯(ひる)むこともなく、しばらくその辺を歩き回って、またどこかへ姿を消した。

 お酒が大好きな英語の長老先生が売店で珍しい「マタタビ酒」というのを買ってきて、私にも少し飲ませてくれた。意外に飲みやすかったが、かなり強い酒だった。

 この先生には高校からこの学年に来ていただいた。前年、高校3年生を卒業させたばかりの先生に、文字通り頼み込んで来てもらったのである。60歳の定年に近づきつつある初老の先生だが、学殖豊かで、人柄はきわめて温厚。その声はいつも低く、ぼそぼそとしていて、いったい授業ではどんな声を出しておられるのだろうかと不思議だったが、生徒はおとなしく傾聴しているようで、職員室には、英作文を添削をしてもらいにやってくる生徒たちがよく列をなしていた。

 そんな先生が、実は大酒飲みだった。といっても、いつもひとりで飲むのを好まれていたので、目立った存在ではなかった。

 夕方、仕事が終わると、まず市内の「立ち呑み」の店に立ち寄る。そんな店を何軒かはしごしてから電車に乗って、自宅の最寄りの駅の近くの居酒屋に寄ったり、ときには、途中下車して、その地の酒場に立ち寄ったりと、夜遅くまで飲み歩くというのが、ほぼ毎日のことのようであった。

 いちどご一緒したことがあったが、その時、珍しく、むかし話をしてくださった。なんでも戦争末期に、学徒動員で召集されて、台湾の方へ連れていかれたとのこと。そこで、右手、左手に同時に鉛筆を持たされて、それぞれ三角形と四角形を同時に描いてみろと云われて、それができたら、飛行部隊に廻されたとのこと。特攻隊の候補生ということだったそうだが、その頃には、訓練する飛行機もなくなっていて、何もしないうちに終戦になったという。

 阪神タイガースの、戦前からの筋金入りのファンでもあった。ひと回り年下の数学の先生で、職員室では虫も殺さぬような優しい人なのに、教室に入ると人格が一変して、学校一怖い教師になるといわれている人がいて、その人と大の仲良しだったが、その共通の話題は「阪神タイガース」だった。その先生は一滴も酒が飲めないのに、ふたりでよく居酒屋で鍋を囲んだりしていたそうで、これも不思議だった。

 この修学旅行中、バスが休憩で止まるたびに、売店でアルコール類とおつまみをどっさりと買い込んでおられたようだ。何か用事があって、そのバスに行った時、先頭の座席の辺りはお酒の匂いがプンプンしていて、バスガイドさんも苦笑いしていた。そのすぐ後ろの席には「悪童」どもが列をなしていて、どうしたんだ、と訊くと「先生にお菓子をいっぱい貰えるんです」とうれしそうに云った。

 帰りのフェリーの中、一泊した朝早く、ある若い教師がトイレに行った帰りに、ビールの自動販売機の前で、長老先生が実に美味しそうに500㎖の缶を傾けているのを見て、度肝を抜かれたそうである。その若い教師は日頃から酒が強いのを自慢にしていたのだが、「起きがけのビールには参りました」と云っていた。

 無口な長老先生だが、旅行中に私にこう云ったことがあった。「あの校長さん、とにかく主導権を取ろうとしてるね。自分の存在を誇示したいんだろうか」

 他人の論評など滅多にされない長老先生だけに、その言葉は重かった。

 1日が終わると、その日の9時頃から、教師の「打ち合わせ会」をすることになっていた。最初の会の時、みんなが集まると、校長が開口一番「これから打ち合わせ会を開きます」と宣言したのにはみんな驚いた。

 出発直前に同行を決めた校長は、この修学旅行の詳細についてや、この学年の生徒について、何も知らないはずで、普通、みなさんよろしくお願いします、といって、おとなしくしているものだった。それなのに、自分が会を主宰するかのような態度を見せたので、みんな違和感を感じたのだった。

 実際の進行は実務を把握する私がするので気には留めなかったが、「司令塔はあんたなんだから、あんなこと云わしておいたらだめだよ」と先輩の北海道出身の先生から「活」を入れられて、次回からは、機先を制して、先に「開会宣言」をすることにした。それでも、いちいち何やかやと嘴を挟んでくるので、「先生には最後にお気づきの点をご指摘いただきます」とクギを刺さねばならなかった。

 さて、知床五湖見物も無事に終えて、帰路に入った。天気は快晴。バスも順調に走って、予定よりも早い時刻に、摩周湖のあたりにやって来た。この天気なら、じゅうぶん摩周湖が見えるのではないか。

 はじめての時にあっさりと見えたあと、前の本番、夫婦旅行、今回の下見、と「3連敗」していたので、千載一遇ではないかと思いつめ、添乗員を通して、ちょっと摩周湖に寄ってもらえないか、と頼んでみた。

 ところが返事は芳しくない。このバスに乗ってきた添乗員はいっしょに下見に行ったチーフ添乗員ではなく、若手の下っ端だったので押しが弱いのかと、直(じか)に運転手に交渉してみたが埒が明かない。

 この運転手も、このチームのチーフではない下っ端で「裁量権」がないのか、決められたコースは変えられないんですよ、の一点張り。業を煮やして、あの校長さえも「君、何とかならんもんかね」と助け船を出してくれたが、頑として折れず、「明日もいい天気で、きっと見られますよ」

 押し問答をしているうちに、摩周湖は過ぎてしまった。

 ところが、翌日は一転して雨。摩周湖どころか、もうひとつの見どころの「美幌峠」もさっぱりだった。だから云わんこっちゃない、と地団駄踏んだが、あとの祭り。以来、道東に行くことはなくなったので、摩周湖の再見は果たされぬままに終わってしまった。

 その晩は、打ち合わせ会で、前の晩の「捕り物劇」の報告をしたあと、私は早めに寝てしまったが、その晩も、夜中に騒いで走り回ったりしていた別のグループの生徒の「大捕り物」があって、若手の先生たちが朝の5時まで「指導」していたとのこと。中には二晩続きで「徹夜」の人もいて、次の日一日中、二日酔いで苦しんでいた。

 ちなみに、トドワラに行った一行は、思いがけない悪天候に見舞われていた。野付崎でバスを降りた頃には冷たい雨が降り出し、急に冷え込んできて、あのトドマツが白く枯れた荒涼たる風景をゆっくり味わう間もなく、あわててバスに駆け込んで、そこで寒さに耐えていたという。

 どうも、その中に「雨男」の教師がいたらしい。

 この学年ははじめからよく雨に祟られていた。まず中1の夏に滋賀県湖西の「琵琶湖バレイ」のキャンプ村に一泊で行った時、夕方の飯盒炊さんの時に激しい雨に降られた。さいわい炊事場所には簡単な屋根が付いていたが、それでも降り込んでくる雨で、ごはんは生炊け、カレーはサバサバのスープみたいなものになって、そんなものでも何とかかき込んで空腹を満たしたものだった。

 そしてその翌年の中2は恒例の鳥取県の「大山登山」だったが、2泊3日の2日目の登山の日は朝から豪雨となった。これまでも少々の雨なら無理にでも登っていたのだが、この時ばかりは、いくら待っても雨は収まらず、ついにあきらめて、バスで「松江」方面の観光に行かざるをえなかった。大山にまったく登れなかったのは、あとにも先にもその年だけだった。

 こんなに雨に降られるのはきっと誰かが「雨男」だからにちがいない、と、半ば本気の冗談を云いあったものだったが、私自身、前の学年でもけっこう雨に出会っていたので、秘かに責任を感じていた。

 しかし、今回、トドワラは悪天候だったのに、知床も、そして雌阿寒岳も好い天気だったということで、「雨男」の容疑は晴れたと確信した。と同時に、トドワラに付き添っていたある教師の容疑がぐっと濃くなって、ほぼ「真犯人」と、お酒の席で認定されるに至った。

 ところで、例のツッパリグループは、さすがにこのあとはおとなしくなった。阿寒湖をあとに、小雨降る中を層雲峡へ向かう石狩川沿いの名勝「流星の滝」で、他校の修学旅行生の、同じような傾向の生徒数人と「睨み合い」したりすることはあっても、同級生に手を出すことはなくなった。

 ほぼ雨で、良いところがない一日だったが、層雲峡のホテル内にはボーリング場があり、無料でやり放題だったので、これは大好評で、生徒たちの顔も明るくなった。

 最終日は札幌に入った。宿泊する東急ホテルに荷物を置いて、班別自由行動となった。夕方に、大通り公園のテレビ塔に集合。ちょうどその前で、氷の上に裸足でどれだけ立っていられるか、という「がまん大会」が催されていた。それに挑戦した、ツッパリグループの1人がみごと優勝、景品をもらって、満面の笑みを浮かべていた。その後、テレビ塔内の食堂で石狩鍋の夕食を食べて、みんなでブラブラと歩いてホテルに戻った。

 ホテルには前回の修学旅行にいっしょに行って、いまは北海道の大学に通っている卒業生2人が会いに来てくれていた。同学年だった北海道出身の先生と4人で、できればホテル外の店で食事をするつもりで、ロビーで少し話し込んでいると、若い教師が駆けつけてきた。

 「下の階に泊まっている東京から来た女子高の団体とうちの生徒が〈接触〉して大騒ぎになり、校長が近くにいた教師を召集して、階段の〈張り込み封鎖〉を命じてます」

 慌てて駆けつけてみると、階段のところで教師がパイプ椅子に腰掛けて、「校長が突然云い出したんだよ。司令塔はどこに行っていたんだ」と不機嫌そうに云った。

 部屋に行くと、校長が「とんでもないことが起こった」と興奮気味。生活指導担当の先生に訊いてみると、その生徒はおとなしくて、これまで問題を起こしたことのない生徒で、ちょっと下に降りて廊下を歩いていたら、部屋から出てきた女生徒が大きな声を出したので、慌てて逃げて帰ってきたとのこと。

 それを見かけた校長が、これはたいへん、またこんなことが起こったら困る、と慌てて、階段封鎖の処置を取ったのであった。

 前回の修学旅行で札幌の修学旅行専門旅館に泊まった時、いくつかの学校と相宿(あいやど)になった。その時、校長代理として来ていた教頭格の洒脱な国語の先生が相手校の代表者に「表敬訪問」していたのを思い出し、「謝罪かたがた、相手校に挨拶に行こうと思うのですが、いっしょに如何ですか」と云った。すると校長は目の色を変えて、「僕は行かない。行っても文句を云われるだけだから」

 なんて度量の小さい人だろうとあきれ、「それでは、私一人で行ってきます」と、ロビーで見つけた相手校のチーフの先生のところへ行った。

 まず、先ほどのことを謝罪すると、「いやぁ、どうってことなかったんですよ。うちに、ちょっと過敏な子がいましてね、その子が大げさに驚いたので、すこし騒ぎになりました」とサバサバとした答えが返って来た。「今後、こんなことがないよう、しっかり注意しておきます」と云うと、「おたくは2年生ですってね。うちは3年生なので、迷惑をかけるのはこちらかもしれませんよ」とえらい控えめなお言葉に、すっかりなごやかになってしまった。そしてふと気がつくと、いつの間にか校長が私の横に座って、ばつの悪そうな笑顔を見せていた。

 一件落着したが、訪ねてくれた2人の卒業生と食事に出る機会は失われて、彼らは北海道出身の先生の部屋で話し込んでいた。そこに合流して、冷蔵庫のビールなどを飲みながら、かつての修学旅行の思い出話とともに、今回の旅行の苦労話などもした。

 「君たちの学年はおとなしくてよかったよ」 思わずそう云うと、

 「ぼくらだって、結構悪いことをやってましたよ。下級生に生意気な奴がいたら、校舎の裏に呼び出して、よく殴ってましたからね」

 そう云ったのが、かつてはクラスのみんなを笑わせていたひょうきんな三枚目の卒業生だったので、その意外性に驚いた。

 翌早朝の「バイキング」の朝食もスムーズに運び、無事、9:00に小樽港を出帆する新日本海フェリーに乗船した。

 初日の「地震との遭遇」以来、波乱万丈続きだった今回の修学旅行もやっと終わりを迎えようとしていた。このフェリーは7年前に往復で乗船したものだったが、当時の「貨物中心」的な船旅からはずいぶん様変わりしていた。あの船底の大広間はなくなり、いくつかの区画に区切られて、寝台車のような「二段ベッド」が並び、カーテンで仕切って、一応、プライバシーが保てるようになっていた。食事も格段に向上し、お世辞ではなく「美味しい」と云えるものになっていた。教師にあてがわれたのは「一等船室」という名の4人部屋で、そこの二段ベッドに横になって30時間、ゆっくりと疲れを取りながら家路に向かうのは至福の時間だった。

 しかし、そうは簡単に休ませてはくれない。1日目の午後、フェリー旅行では恒例の「演芸会」が中央デッキ内のホールで開かれていた時、司会進行を任せていた、これもやや「やんちゃ」なグループと例のツッパリグループが些細なことで喧嘩となって、後味の悪い、険悪な雰囲気のうちに幕となってしまった。

 夕食後、この事態をどう収拾するかという会議がもたれた。そこで出てきたのは、この2つ以外の「第3のやんちゃ」グループがあって、彼らに問題を解決させてみたらどうだろうか、という案だった。もう私たち教師団もけっこう疲れ果てていたので、もうどうとでもなれ、というのが本音の苦肉の策だったが、さっそく、彼らに顔の利く教師が連絡を取ると、何人かが集まってきた。

 「今日のあんなかたちで修学旅行が終わってしまったら、君らだって、おもしろくないだろう?」と水を向けると、結構乗ってきた。

 「俺たちだって、たった一度の修学旅行だから、好い〈思い出づくり〉はしたいと思っている」

 そう言い放って、彼らは戻っていった。あとは彼らに任せてみて、静観しよう。私たちもそういう方針で、その夜はぐっすりと寝た。

 翌朝、彼らがやってきて、「今日、朝食が済んだあと、みんなを集めたいんですが」

 朝食後、ぞろぞろと集まってきたみんなの前で、彼らのひとりがマイクを握った。

 「修学旅行もいよいよ終わりだ。この5年間、いろんなことがあった。いやなこともたくさんあったかもしれない。しかし、こうして、われわれがこの学校で出会って過ごしてきた5年間は、今後の長い一生のうちで忘れられないものとなるだろう。そんなわれわれにとっての最後のメイン・エヴェントとなる修学旅行では、ぜひとも、好い〈思い出づくり〉をしなければならない」

 訥々とした語り口だが、心のこもった訴えかけに、他のメンバーも次々とマイクを取って、いろんな思い出話などを語りはじめた。

 やがて、集まった生徒たちの中からも前に出て、マイクを握るものも出てきて、最後にはあのツッパリグループの連中が、「昨日はせっかくの雰囲気を壊してしまって、すまなかった。また、旅行中、いろいろ迷惑をかけた人たちにも、この場を借りて、お詫びします。すみませんでした」

 大きな拍手とともに、この少し早めの「修学旅行・解散式」は終わった。あとは昼食を食べて、16:00前に敦賀港に入港。バスで大阪の学校に着いたのは夜の20:00頃だった。

 今回の旅行では本当にいろんなことがあったが、それを実質的な「引率責任者」として何とか乗り切ることができた。そんな立場に立った重圧はなかったかといえば、この学年団の組織が上下のない、横並びのものだったので、「司令塔」ではあったが、その進路を決める権限はみんなに一律に付与されており、同時に、何かあったとしても、その責任も一律に負わされているので、重圧はまったく感じなかった。

 これは私たちの学年だけではなくて、その当時のこの学校の、どの学年にも共通したものだった。ただ他所からやって来た今度の校長にはそれが理解しがたい、あるいは容認しがたいものだったかもしれない。

 帰校して、生徒もみんな帰ったあと、校長が私の方にやって来て、ニコニコ笑いながら、「このたびは本当によくやってくれた」と手を差し出してきた。

 それは単なる「上から目線」の「慰労」だったのだろうか、それとも「君には負けたよ」という「和解」の意思表示だったのだろうか。その真意はよく判らぬまま、その時は、複雑な気持ちで握手を返したのであった。

(つづく)

 


【自註】

 私が北海道に行ったのは、合計11回になる。だから、この物語も「11章」まで続くということになるが、とりあえずはひと休み。つづきをお楽しみに。

(2021.11.25)


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