詩を暗誦する4



詩を暗誦する(4)



ギター部に入る

 大学に入学して、最初の1年間はあっという間に過ぎた。それまでよりも1時間以上早く起き、1時間以上かけて通学する毎日は、まるで「遠足」のようだったし、大学の教養部の授業は、おもしろい「講演会」の連続であった。高校時代にテレビで見た「フランス語講座」のフランソワーズ・モレシャンの、あの鼻にかかった発音の言葉が習えるかと思うと胸が躍ったし、何よりも授業が終わったあと、新しくできた友人たちと近くの喫茶店に行ったり、時には、彼らの下宿に押しかけて、安酒を飲みながら、夜を徹して話したり、議論したりするのがおもしろくて堪らなかった。

 そんな友人の多くはいっしょにデモに行ったり、ビラ配りをしたりした仲間であったが、なぜか地元の京阪神の者は少なくて、群馬、栃木、茨城、東京、埼玉といった関東出身者が多く、これまで全く馴染みのなかったそんな土地に生まれ育った連中と交わるのはとても新鮮だった。

 それ以外に、大学ではサークル活動もやってみたくて、なにか「楽器」の習得ができればと、ギター部というところに入ったこともあった。

 クラシックギターといえば、その代表的な名曲に、映画で有名になった、ナルシソ・イエペスの『禁じられた遊び(愛のロマンス)』があるが、この曲は入門者の誰もが挑戦する「登竜門」であり、そしてまたそこで挫折を味わう「関門」でもあった。

 最初の出だしは、右手さえ動くようになれば比較的簡単に弾くことができて、早くも味わえたギタリスト気分に初心者は感激するのだが、その後の展開で、左手の働きがだんだんと高度になり、ついに指一本でフレット全体を押さえなければならないところになって、大抵の者が挫折するのであった。

 私も例に漏れず、そこらあたりからは先に進めなくなってしまったのだが、それでも1年間はクラブに在籍していた。というのは、1年前に「同好会」から「部」に昇格したばかりのこのクラブは「草創」の意気に燃えており、しっかりとした創部のコンセプトを持っていたからである。それは、ギターだけの「合奏団」をつくるということであった。

 それまで、合奏楽器としてのギターといえば、その頃どの大学にもあった「マンドリン・オーケストラ」の伴奏の地位しか与えられておらず、コンサートではせいぜい幕間に短い独奏曲を披露することぐらいしかできなかった。

 そんな現状に飽き足りないものを感じた「若きギタリスト」たちが、なんとかギターだけの合奏をやってみたいと、同好会を起ち上げて3年、彼らの献身的な努力によって、私が入ったころには60名近い部員がいるクラブに成長していた。

 当時は、医学部5回生の前部長、経済学部3回生の現部長、そして工学部2回生の次期部長ら草創のメンバーが健在で、その頃取り組んでいた、『ラ・クンパルシータ』『カニミート』など〈タンゴ〉の名曲や、メロディーのきれいな〈映画音楽〉などの合奏用のパートはこの3人が「編曲」していて、出来上がった「青焼きコピー」の楽譜がみんなに配られていた。

 いっしょに入部した新入生は10数名いたが、そのほとんどが私と同じような初心者で、そんな私たちのために、先輩部員が交代で、「教則本」を用いて、基本のレッスンをしてくれた。

 ところで、ギター部に入れば、当然自分のギターが必要となる。私の場合、たまたま、家の近くに住む小学校以来の友人の家に、誰も使っていない新品同様の、「古賀政男」監修と銘打った入門用のギターがあったので、それをしばらく借りて使っていた。いわゆるクラシックギター風の木目の生地のものではなく、濃い茶色に色付けされた、「歌謡曲」の伴奏にでも使うような体裁のもので、みんなの中では少し違和感があったが、それを試し引きしてくれた現部長から、なかなかしっかりしたギターだ、と言ってもらってホッとしたのを憶えている。

 当時、教養部の正門を入って左手奥のところに、旧制高校の遺物のような木造二階建ての「講堂」があり、そのころはもう「講堂」としては、たまにある「学生大会」ぐらいにしか使われていなかったが、その一角の控え室のような部屋がギター部の部室になっていた。そこへ週何回か放課後に通い、そのロッカーに預けてある自分のギターを持ちだして、誰も使っていない講堂の片隅で練習したり、そこを別のクラブが使っているときには、2階へ上がる階段の踊り場などで、初心者向けのグループレッスンを受けたりした。

 入部まもなくの6月には、クラブにとって初めての本格的な「定期演奏会」が祇園石段下の本格的なホールを借り切っておこなわれた。もちろんその時は、「下働き」しかできなかったが、夏休み終盤の8月末には、福井県の「三方五湖」の国民宿舎で「強化合宿」があった。そこでは、私たち新人も何か1曲、ソロの曲の披露しなければならなかったので、教則本の中の練習曲で何とか自分でも弾けそうな曲を必死で練習したものである。

 合宿での「強化練習」の中身の記憶はほとんどないが、行く途中、いろんな列車に乗り換えて、そのひとつが「蒸気機関車」だったので驚いたことや、練習の合間のリクリエーションとして、宿のそばの小高い山にみんなで登ったことなどが長く記憶に残っていた。

 新しい「自分の」ギターを購入したのも、その夏休み前のことであった。何人かの新人といっしょにたしか次期部長に連れられて三条商店街の大きな楽器店を訪れ、手頃なギターの中から、次期部長に実際に弾いてもらって良いのを選んでもらった。

 矢入貞雄という人の「手工ギター」で、「愛好家のために之を入念製作致しました」という署名入りの紙が中に貼ってあった。4月から始めた家庭教師のアルバイトで貯めたお金を使って、たしか1万2000円だったかで購入したが、今の貨幣価値に直せばその10倍にはなるだろう。でもそれは「矢入ギター」の中では格安のものであって、当時すでにその10倍以上もするギターを持っている先輩もいた。このギターは、学生時代以後はほとんど手に触れたこともないが、今でも部屋の片隅で埃をかぶっている。

 このあと、1回生の終わりの春休みに「広島遠征」の合宿があった。広島市郊外のユースホステルに宿泊して、地元の広島大学ギター部との「合同演奏会」を市内のホールで行うというものであった。無事演奏会も終わって、解散になったあと、何人かの部員といっしょに、市内の「原爆ドーム」や「原爆資料館」を見学した。

 2回生になってまもなく、ギター部は退部した。もともと、楽譜もろくに読めないのを、なんとか「合奏」の単線的なパート演奏で凌いできたのだが、それにしても練習する時間がなかった。大きな図体のギターを抱えて、長い時間の通学をするのはたいへんだったし、それに家に持って帰っても練習に当てる時間はそんなになかった。そのため、ギターは部室のロッカーに置きっ放しで、放課後とか空き時間に行って練習するしかなく、また、部長に昇格した次期部長が全体の「グレードアップ」を宣言して、練習も厳しくなってきたので、それを機に、退部する決心をした。



「活動家」と「シンパ」

 しかし、ギター部をやめたのには、別の理由もあった。練習時間云々というより、ギターの練習以外にしたいことがいっぱいあった、ということであろうか。

 自治会関係では、時折デモに参加する以外に、自治会選挙の「選挙管理委員」というものになった。後期の改選ということで、12月頃だったろうか、校門辺りとか、学内に何ヶ所かある投票所で、投票の受け付けをしたり、最後に開票したりする仕事であった。

 こういう選挙にはやや微妙なところがあって、期間中に投票箱がまるごとなくなったりすることもあるそうで、それらを監視するために、立候補している各セクトから推薦された人間が選挙管理委員として派遣されるのが常だった。ただ、この時は、最大の反対派である「政党系」のセクトがなぜか「選挙ボイコット」をして、候補者を立てていなかったので、そんなややこしいこともなく、実にのんびりしたものであった。逆に言えば、そんな状況の選挙だったから、私のような「素人」でも役に立つ、あるいはセクト色を薄める効果になると思われて白羽の矢が立ったのかもしれない。

 そのほかに、入学時に新入生に配布する、自治会の「新入生歓迎パンフレット」の作成にも、クラスの友人たちと参加した。

 その冊子は、学生部長の巻頭言で始まる100ページ以上の活版印刷の「公式」の大学自治会ガイドブックで、その大半は文化系クラブやサークルの紹介であったが、その巻頭にちかいところに置かれる、「戦後学生運動史」という10数ページに及ぶ文章を作成する仕事がわれわれに与えられた。

 すでに関係の書物はいろいろと用意されてあり、1回生のわれわれは各自に分担された年代のその部分を読んで、それを所要の長さの文章に書き改めたりする仕事だったが、そんな作業をするうちに、それまで知らなかった過去の学生運動の歴史などを学ぶという仕組みになっていた。

 ところで、どうして選挙管理委員や自治会ガイドブックの編集などという仕事が舞い込んできたかのというと、それは同じクラスのWという人物のためである。

 前回のところで述べたように、私の属するフランス語を第一外国語とするクラスは1回生のなかでは有数の「先進的」なクラスだったが、その主導権をめぐって、入学までにすでに何らかの「政治的閲歴」を持っていた者たちのあいだでヘゲモニー争いがあった。それは、5月ぐらいの時点で、自治会の執行部を握るブント(社会主義学生同盟=社学同)とよばれるセクトを支持する勢力が勝利を収めるかたちで決着がついたが、その中心となったのがWである。

 入学当初から、クラスの語学の授業や、それ以外の「一般教養」の授業で、いつも教室の一番前の席に陣取って、大きくうなずきながらニコニコと授業を受けている男がいた。丸刈りで登山帽を被り、痩せ細った顔つきや体つきは極度に「尖った」感じであったが、その大げさな物腰と、それにマッチしたどこかゆったりした口調が、まるでスキだらけのように見えて、何となく相手に安心感を与えてしまう、そんな、いわばエキセントリック(風変わり)な印象の、とても目立った存在がWであった。

 そういう人物は一見、学生運動とは、その対極に位置するようなタイプに見えたが、いつの間にか、その物怖じしない、やや厚かましく見えながらも、ひと懐っこくて、つい警戒感を解いてしまうようなキャラクターで頭角をあらわし、いつの間にかクラスの中の「活動家」の代表格になっていた。

 当然いろいろなセクトからのオルグ(勧誘)も受けていたようだ。「政党系」ではない「新左翼」のセクトは、ブント以外にも中核派や、構造改革系などいくつもあったが、そのすべてからオルグを受け、熟慮した末、ブントに加入した、とのことであった。

 おれもとうとう「同盟員」になったよ、と、しみじみと、まるでそれまで生きてきた「堅気の世界」をあとにするかのような口調でWが私に語ったのは、たまたま夏休みに大学に顔を出して、学生食堂でばったり出会ったときのことである。Wとふたりきりで話をしたのはその時が初めてだったが、それまでそんなに親しくもなかった私にそんな話をしたのは、彼なりにかなり気が高ぶっていて、それを誰かに話したくてたまらなかったためだろう。彼の人生はその後、その決意にたがわずに劇的に展開していくことになる。

 Wのブント加入に前後して、クラスで他に何人かが加入した。彼らは以後、「活動家」として、授業前に他のクラスに入ってアジ演説をしたり、他の新入生相手にオルグ活動をしたりしはじめていた。もちろん自分のクラスもこれまで通りに掌握しておかなければならないので、その手足となる人材、いわゆるシンパ(同調者)層の確保が必要で、たぶんその中に入っていた私たちにいろいろな「公的」な仕事が回ってきたようだった。

 安保、大管法という大きな闘争が終わって2年経ち、また学生の質も大分変わってきて、従来の「インテリ」というかたちからはみ出した、政治などにはあまり関心のない人間が大量に入学してくる「危機的な大衆化状況」の中で、活動家の数も急激に減少していた。

 何をするにも、人手が足りなかった。

 例えば、ある日のデモの宣伝活動をするとき、垂木にベニヤ板を打ちつけた大きな「立て看板(タテカン)」に、ポスターカラーで、スローガンとスケジュールを大書し、それを立て掛けるとその前で、小型のアンプ付スピーカーで登校してくる一般学生に参加呼びかけのアジ演説をし、それが一段落すると、自治会ボックス(事務所)に戻って、散らかった机の片隅で、ガリ版でビラを切り、謄写版で印刷して、授業が終わってぞろぞろ出てくる学生に配る。そんな仕事をわずか数人でこなしていて、その同じ人物が、放課後の集会では演説をして、デモの指揮者にもなる、と獅子奮迅の働きをしなければならなかった。

 そしてそんなに頑張っても、ビラを素直に受け取ってくれない者も少なくなく、集会の参加者はまばらで、警備の警官の目に哀れみさえ浮かびそうなほどの少人数の「しょぼい」デモをしなければならない。そんな徒労にちかい連続でついに疲れ果て、「消耗」してしまって、仕事を投げだし、姿を消してしまう活動家も多かった。

 何日か経って再び元気に復帰する者もいたが、「消耗」したまま二度と戻ってこない者もいた。そんな状態であっても、闘争のスケジュールは非情に次々とやってきて、現場はネコの手も借りたいほど多忙なものになってくる。そして私たちにも「オルグ(勧誘)」の触手は迫ってきていた。

 いち早く声をかけてきたのは、自治会執行部を支える「主流派」をブントなどとともに構成する、ある小さなセクトであった。歴史的には、スターリンにソ連を追放され、のちにメキシコで暗殺されたトロツキーの流れを直接受け継いでいるとされていたが、学内でも全国的にも少数で、それぞれの「主流」を形成する組織に、言い方は悪いが「寄生」するかたちで、勢力を維持していたようである。日常的な活動において、多数派のブントとの違いはよく判らなかったが、「学習会」でいっぱい本を読む、いわば「勉強好き」なセクトで、その同盟員は、他からは「人民公社」と揶揄されていた、とある一軒家の借家で集団生活をしているという噂であった。

 「勉強好き」なだけあって、そのメンバーはどちらかといえば活動家というよりは学究的な感じの者が多く、「人民公社」とかいわれていても、いわゆる「カルト」臭は皆無で、どちらかといえば、好感が持てたが、そのオルグは執拗で、その熱心さに却ってこちらが怖けついてしまうようなところがあった。というより、もともと私は、活動家なんてとんでもない、とはじめから思っていたわけで、ただ同じクラスにすでにそのセクトに入っている者がいて、彼を通じて、せっかく声をかけてくれているのを無下に断るのも悪い、と、しばらくは話を聴いたが、結局は断った。

 ところで、クラスで先陣を切ってブントに加入したWは、私に対してはそのような誘いはかけてこなかった。Wは見かけによらず、したたかな「政治家」で、あのトロツキー系のセクトのようにやみくもに手を出したりはしなかった。彼はその前に、クラスの状況を観察し、そのメンバーがオルグの対象としてどんなものなのかを慎重に「値踏み」していたのだ。

 学生運動をしようと思って大学に入ってきたようなタイプ、そんな連中はすでにいずれかのセクトに「唾をつけられ」ている。一方、政治にはまったく無関心、というより、政治の話になると即座に目を背ける「政治アレルギー」も少なくない。学生運動に関心はあるが、活動家はどうも、という者もいる。

 そのへんをじっくり見極めた結果、選挙管理委員や冊子の編集など、直接的ではない活動に係わらせることによって、徐々に私たちをオルグしようとしていたのかもしれない。また、クラスには、いわゆる「文学青年」タイプも多いということで、「クラス雑誌」みたいなのをやったらどうか、という提案が暗にWからなされて、それに乗って、さっそく発行されたのがクラス名そのままをタイトルにした『えるほう』という冊子であった。




同人誌『光芒』の創刊

 手もとに残っているその冊子を見れば、創刊は1964年12月14日で、ガリ版刷り手作りの26ページ、執筆者は9名で、詩が4編、小説が3編、(政治論を含む)エッセイが4編であった。奥付けには4名の編集委員の名前があり、私もそのひとりだった。私は、エッセイ1編を執筆するとともに、集まった原稿のガリ切りなども担当した。作業は、自治会のボックスで、そこの用具を貸してもらっておこなわれた。出入りする上級生の活動家が興味深そうに私たちの活動を眺め、中には謄写版で印刷したり、ホッチキスで製本するのを手伝ってくれた人もいた。

 冬休み直前の発行で、中には「原稿募集」の案内チラシがはさんであって、休み中に編集委員まで郵送してください、とある。そして、そのとおり郵送されてきたのだろうか、翌1965年1月20日付けで第2号が発行されている。その後、4月19日、5月17日と、精力的に発行された。第4号は、相変わらず粗末なガリ版刷りであったが、堂々60ページとなっている。この号までの執筆者は実数で20名、実にクラスの半数近くになった。裏表紙に定価50円(第2号までは20円)とあるのが、当時を思わせて懐かしい。

 クラス雑誌『えるほう』は、このように一応の成功は収めたが、当初Wが意図したような、これを通じて、政治的な勢力拡大を図るという目的を達したかどうかは疑わしい。自治会執行部の全面的支援を受け、そのボックスで作業していたこともあって、出入りする活動家たちにいくらか親しみを感じるようになったのはたしかだったが、それまで政治に無関心だった者が「目覚めた」ということはなかったようである。そして、一方、「文学青年」タイプの方では、こんな中途半端のではない、もっとしっかりした「文芸同人雑誌」をやりたいという動きも出てきて、その年の11月に、『えるほう』を発展的に解消したかたちで、同人誌『光芒』が生まれることになる。


 さて、4月になって私たちは2回生になり、あたらしく新入生が入ってきた。校門前は各派の「立て看」や「ビラ配り」で賑やかになり、いろんな集会や勉強会を覗きに来た新入生をチェックして、勧誘のオルグも始まった。その動きは速く、入学式のあと1週間もしないうちに、目ぼしい1回生のリストが出来上がっているのをWが見せてくれた。その中には、Aという名前があった。

 Aは、私の高校の後輩である。それも私が高校2年まで2年間在籍していた「卓球部」の後輩でもあった。




高校卓球部の思い出

 私の通っていた中学校には「卓球部」はなかったので、私は高校に入ってから正式に卓球を始めた。本作品集15の『アトランタの教訓(4)』でもすこし触れたように、それまでの「遊びの」卓球の癖を抜くために、夏休みまでの3ヶ月間は、まったく卓球台では打たせてもらえなかった。それは私だけではなく、ほぼ全員の新入部員がそうであった。

 ところが、私たちが高校2年になったとき、今度新しく入部してきた部員の中には、中学時代から卓球部に入っていて、しかも中学の大会でいい成績をあげていたものが2名いると上級生にいわれた。「エリート」の登場である。私たちは正直、動揺した。

 その2名は入部早々、3年生を相手に卓球台で球を打ちはじめた。その打ち方は、さすが、と思わせると同時に、やや力不足な気もした。もちろん、これはその力を測るためのセレモニーであって、「エリート」の彼らといえども、他の新入部員と同様にランニングや筋肉トレーニングを免れることはできなかった。1年前と打って変わって、私たちが新入部員の「筋トレ」の指導役となっていたが、その年もおおぜい入ってきた部員たちの中で、彼ら2人は心なしか、やや不満げな思いを抱いているように見えた。

 そんなある日、練習が終わって更衣室で着替えをしていたとき、Aのカバンからポロッと1冊の本がこぼれた。ふと見ると、その書名が目に入った。『マルクスの政治思想』。たしか、そのようなタイトルだった。

 もうこんな本を読んでるのか、と私は驚いた。私に見られて、彼はちょっと顔を赤らめたようだったが、黙って本をカバンにしまった。

 やはり、実際に球を打ってみると、その2人もただの中学生だった。球に威力がなく、こちらのドライブのかかった打球に圧倒されて、ミスを重ねるばかりだった。そのうち、いっしょに入った「初心者」の部員ともだんだん区別がつかなくなり、そのうちに2人とも練習に顔を出さなくなってしまった。

 夏の強化合宿にも来なかったので、退部したのかと思っていると、9月に入って、Aがふらりと練習にあらわれた。身長が伸びて、身体もがっしりしてきたように見えた。そして驚いたことに、その卓球スタイルがすっかり変わっていたのだ。

 最初は、その頃から流行りはじめた、「攻撃型シェークハンド」スタイルだったのが、それまでのシェークハンドの伝統だった「守備型」に変わっていた。つまり、あいての打球をことごとく、下からすくうような「カットボール」で打ち返すのである。

 上から擦るように下向きの回転をかける「ドライブボール」は、コートに入ると加速されて跳ね返ってくるが、その逆回転の「カットボール」は、ストップがかかったように、あまり弾まず、それをそのまま打つと、その回転のためにポトンと下に落ちて、ネットに引っ掛かってしまう。それを避けるためには、ラケットをやや上向きにして、それで引っかけるようにドライブをかけなければならないので、その分スピードは落ちてしまう。そうして、お互いに相手のミスを待つ、粘り強いラリーの応酬になるのだが、大体は、「攻撃型」の方が、先に「スマッシュ」攻撃をかけて、それで決まるか、ミスをするかで決着した。

 だから、「守備型」の方は受け身で、自分から仕掛けずに、あいての仕掛けを待たねばならない。ということは、相手が仕掛けてくるまでに自分がミスすることは絶対に許されず、そのためにはどんな打球でも確実に返せるという、しっかりした「技術」が必要となる。そして、Aはどこで身につけたのか、いつの間にかその技術を自分のものにしていた。以前はボロボロとしていたミスがすっかりなくなり、その確実さに、焦った相手が自滅していった。

 私は、高校2年で卓球部をやめたので、その後のAの卓球がどうなったかはよく知らないが、彼は「生徒会活動」の方でも活躍しはじめていた。

 当時どこの高校でも「社会科学研究会(=社研)」というクラブがあって、社会科学、すなわちマルクス主義を研究していた。私の学校にもあり、けっこう盛んで、そのメンバーが生徒会の核になっていたようだったが、なぜか私の学年ではほとんどメンバーがいなくて、一時鳴りをひそめていた。どうやらAは、そんな社研をテコ入れしたようだった。校舎の奥まったところにあったその部室には、Aのほか何人もの彼の同級生が出入りするようになり、ときおり開かれる「生徒総会」では、彼らが弁舌爽やかに発言するようになった。

 私が大学に入った1回生の秋、友人に誘われて、母校の文化祭を見物しに行ったことがあった。すると驚いたことに文化祭はかなり「様変わり」していて、舞台で「エレキギター」を用いた演奏があったり、ある教室では「ベトナム戦争」についての展示と討論会がおこなわれていた。

 どんなものかと覗いて見ると、当時「トンキン湾事件」などが起こって、アメリカのベトナム内戦への介入が注目されていた頃で、それについて、参加者は熱心に自分の意見を言っていた。その時、司会者に「先輩が来ておられるようですが、なにか一言」と振られて、大学で仕込んだばかりの知識をもとに、臆面もなく一席ぶったのを憶えている。





「活動家」の末端に.....そして「政権明け渡し」

 Wは、Aが私の高校の後輩だということは把握していたが、私はそれ以上のことは言わなかった。Aをオルグするときにそれを利用されたくはなかったし、そんなことをすれば逆効果だと思っていた。そして、結局、オルグに失敗して、Aが他のセクトに入ってしまったとき、私はほっとした。

 「Aは、将来のことを考えると組織がしっかりしている方がいい、といって、中核派に入ったよ」と、Wは私に言った。

 「将来のこと?」

 当時、「しょっかく」という言葉があった。漢字で書くと、「職革」、すなわち、「職業革命家」のことである。学生運動をしていても、卒業すれば普通はみんな就職していく。そうではなくて、学生でなくなっても、そのまま「労働運動」や「社会運動」に「プロ」として係わって「革命運動」を継続していく、ということだが、活動家の中ではひとつの究極の「理想」として考えられていた。前年の夏、Wがブントに加入したときにもらした「悲愴感」は、Wが自分の将来として、「職革」を念頭に置いていたためだったようだが、Aは大学入学早々、すでにそのことをもっと「現実的」に考えていたのである。

 自治会執行部の主流派を形成するセクト間でも競争があるうえ、先の自治会選挙では、上部団体の政党内の内紛のため、やむなく「選挙ボイコット」をした政党系のセクトも態勢を立て直し、「大学大衆化状況」のなかで急速に増加しはじめた「無党派層」あるいは「政治無関心層」を巧みに取り込む運動を展開して、勢力は急拡大しつつあった。

 そんな中、それまで控え目だったブントの私たちに対するオルグ活動も活発になってきて、私自身もいろいろな先輩、中には、大管法闘争で大活躍をしたといわれる「伝説的な」先輩活動家からも直接オルグを受けるようになった。

 私ごときに対してそこまでするとは、もはやセクトとしても、組織維持のためになりふり構っておれなくなったのだろう。ほぼ連日のように、喫茶店のテーブルを挟んでの1対1の話し合いが繰り返され、もう根負けしてきた。

 「今まで通りの、クラスの中でやってきたことぐらいならできますが、教室に飛び込んでアジったり、知らぬ相手をオルグしたりすることなど、とてもできません」と、私は断ったが、「それでもいい、何もかも今のままでいい。ただ毎週ある同盟の会議にだけは出てくれれば、ほかは何もかも今のままでいい」とまで言われて、それ以上断る理由がなくなってしまった。しかし、粗末なガリ版刷りの用紙に、名前を書き、拇印を捺したとき、なぜかすっきりと清々しい感じがしたのはたしかである。長い間ノドの奥に詰まっていたものがすっと取れたような気さえした。

 それから毎週1回、夜に寮の会議室などでおこなわれる「同盟の会議」に出席するようになった。これまでクラスの中で、加盟書に名前を書いたものが何人いたかは知らないが、その時点では、Wと私のほかには、大阪出身のFというひょうきんな人物がいて、彼もWと同様、私よりもひとつ年上だった。会議にはその他、正式には同盟員ではないが、シンパとしてときおり参加している同級生も何人かいた。その中のひとりは、大学の生活協同組合(生協)の「組織部」に入っていた。

 生協というのは、学生や職員が出資してできた団体で、学内で食堂や書店、文具・生活用品の購買部などを経営していた。出資者(組合員)の中から選ばれた「理事会」がその経営を担当するのだが、「組織部」はその手足となって、おもに「情報宣伝活動」などに従事していた。

 説得に負けてやむを得ず加入した、というかたちの私だったが、でも実際はそれほどいやいやでもなく、これを機会に、これまでの自分から脱皮して、何か新しい可能性を開拓できるのではないか、という希望も持っていた。ただ、いわゆる政治的な活動は性格的に向いていないし、何よりも与えられた政治課題に心底から同感できていたわけでもなかったので、それを他人に働きかけるということなど、どうしてもできなかった。

 その点、「生協活動」なら、「商売」の延長みたいなものだから、なんとかモチベーションができるかも知れないと思い、その同級生の彼に様子を聞いて見ると、ちょうど欠員があるとのことだった。

 「大学生協」は同盟の大きな地盤のひとつで、その幹部の何人かは理事を務めていたぐらいだったので、その話はすんなり通って、私は組織部員の一人となった。しかし、やっとこれで心置きなく、やり甲斐のある仕事ができる、と張り切ったのも束の間であった。

 勢力を急拡大させていた政党系のセクトは、生協に対しても攻撃をかけてきていて、生協理事会を選ぶ母体となる、各クラスや職域から選ばれた代表(総代)を次々と自分たちの陣営に取り込みはじめていた。そして私が組織部に入った頃から、形勢は「拮抗」から「逆転」へと傾きはじめていて、1ヶ月後に予定されている「総代会」では、現理事会が不信任されて「政権交代」が起こるかもしれない、というところまできていた。

 もちろん、そんなことにならないように、すでに決まっている総代を訪問して、なんとか自分たちの支持を取りつけようという活動は行われていたが、それもその頃にはほとんど決着がついていたようで、もうほとんど打つ手がない状態になっていた。そして、総代会の当日がやってきた。

 反対派が現執行部の「不信任案」を出す前に、別の決議をいろいろ出したり、その決議の提案理由を長々と説明したり、揚げ句には、議長席を占拠して議事進行を止めようとしたり、要するに「引き延ばし作戦」をとって、それに嫌気が差した「無党派」の総代が次々と退席して、あわよくば、総代会そのものを混乱のうちに「流会」させてしまおうという戦術しか残されていなかったのだが、そんなことがうまくいくはずもなく、「不信任案」が可決され、反対派による「新執行部」が選出されて、我々は完敗した。

 その1ヶ月後ぐらいに行われた自治会の選挙でも敗北した。決め手となったのは、全学の半数を占める教養部の自治会で、ここで敗れたために全学自治会でも多数を取れず、60年安保闘争以来守り続けた「牙城」をついに明け渡さなければならなくなった。

 同盟の会議はそれまで通り毎週、寮の会議室などで行われた。議題は「敗北の総括」と「今後の再建」。選挙の終盤ごろから頻繁に顔を見せるようになった、「安保」「大管法」時代の闘士たちも出席した。彼らは私たちもよく名前だけは聞いていた伝説的な活動家だった。いわゆる「職革」として、同盟の事務所や、どこかの労働組合の専従職員になっている人もいたが、学習塾などで生活費を稼いでいるような人もいたようだった。

 ブントというのは、「安保」や「大管法」など、闘争が盛り上がってそこに結集してくる学生によって支えられた組織だったので、めぼしい闘争がなくなると組織自体が縮小していくことになる。「大管法」のあとは、大きな闘争課題はなくなり、「憲法調査会」や「日韓条約」反対運動を設定していたが、それらは学生大衆を惹きつけるようなものにはならなかった。そうなると、だんだん結集してくる「活動家」も「シンパ」も支持者も減ってきて、そこに「安保」も「大管法」も知らない、学生運動にも関心がないような世代の新入生が大量に入学してきて、一挙にその基盤を失ったのであろう。

 一方、勝利した、政党系のセクトは、はじめから自治会活動に「政治」を持ち込むことを廃し、まるで高校の生徒会のような「非政治的」な自治会活動を訴えて、そんな「新人類」的な新入生に浸透していった。もちろん彼らも、上部団体であるその政党の方針に沿った政治課題を背負っていたが、その活動をするのは自治会ではなく、その政党の、学生のための下部組織やそれらが運営する各種サークルとなっていた。そして自治会活動に集まってきた学生の中からめぼしい者を個別にオルグして、それらの下部組織やサークルに送り込むことによって勢力を拡大していった。

 ブントはもちろんそういう方向をとることはありえず、今後、より求心力のある「闘争」を求めていくとともに、当時ようやく高まりはじめていた、「安保」以来、四分五裂していた旧ブントを統一する気運を促進するため、有力な活動家を東京に送り込むという方針も決まった。そして、「大管法」世代の幹部活動家を東京に派遣して、当時旧ブントの末裔組織が拠点としていた明治大学と中央大学の自治会のオルグに乗りだした。

 そして、早くもその年の7月末、それら東京の組織と、関西ブント(京大、同志社、大阪市大が中心)とが統合する「社会主義学生同盟再建全国大会」なるものが開かれた。この大会には、その後の「力関係」のために、「全力動員」となり、私もその一人としてはるばる上京して、出席した。

 すでに「東海道新幹線」は開通していたが、そんな「高級な」ものは利用できず、私たちが乗ったのは、夜、関西を発って、10時間以上かかって早朝に東京に着く「鈍行(普通)列車」であった。

 車内は満員で、10数名で乗り込んだ私たち全員の座席はなく、交代で座ったり、通路に新聞紙を敷いて横になったりして、十分な睡眠もとれないまま、早朝の東京駅に到着した。眠い目を擦りながら、国電に乗り換えて降りたのが、お茶の水駅、目指すところは明治大学の自治会ボックスであった。壊れかけたドアをノックすると、泊まり込んでいた活動家が目を擦りながらあらわれ、私たちを近くの大衆食堂に案内してくれて、いっしょに朝食を食べた。

 会場は、千駄ヶ谷区民講堂というところだった。全国から30支部120名の同盟員が出席していたが、大きな会場は空席が目立って閑散とした感じだった。話し合いがつかずに不参加になった分派や、警戒感を強める他の「新左翼」セクトによる「殴り込み」があるかもしれないという情報も流れて、会場には緊迫感が走ったが、そんな気配もなく、真夏の暑い陽射しを避けた室内は、冷房が利いていたのか、それとも開け放たれた窓からそよ風が入っていたのか、よく憶えていないが、次々と繰り返される「激烈」な演説にもかかわらず、なんとものどかな空気が流れていて、寝不足の身では「船を漕ぐ」のを禁じえなかった。





次世代の「うねり」

 しかし、振り返れば、これは歴史的な大会であって、この時に再建された「統一ブント」は、その後、中核派などと組んで、いわゆる「三派全学連」を結成し、1967年の「羽田闘争」以降の学生運動の大きな盛り上がりの基盤となったのであった。私の大学内での「低迷」とは反比例するように、世の中にはおおきな「うねり」が現れはじめていたのだ。

 ひとつは、いわゆる政治課題ではなく、「授業料値上げ反対」とか「学生会館の管理運営権」「学生寮の自治」など、学内問題における闘争が各地で頻発してきたということであった。

 とくに1965年には、それまで学生運動には縁がないと思われていた慶応大学でも「授業料値上げ反対」の闘争が起こって世間を驚かせ、それは、中央、明治と伝播して、66年の早稲田の闘争でピークに達した。

 注目すべきは、そのどの闘争においても学生側が一定の勝利を収めたことで、とくに早稲田では10年以上にわたって総長として君臨していた大濱信泉を退陣に追い込むことになった。そして、この時、学生の中心となったのは「全学共闘会議」という従来の自治会をやや超越した組織であった。これは、セクトのデパートといわれるほど、いろんなセクトが乱立していた早稲田では、各セクトが牛耳る学部自治会を超えた組織でなければ身動きが取れなかったためであろう。この組織形態はその後全国に波及し、いわゆる「全共闘」として一世を風靡することになる。

 もうひとつはベトナム戦争。

 1955年にベトナムから敗退した「旧宗主国」フランスに代わって、60年代からアメリカが反共産主義の南ベトナム政府を支援しはじめたが、その政府が不安定なうえ、北ベトナムに呼応するゲリラ活動も盛んになってきた。そこで、65年には、アメリカの爆撃機が北ベトナムを「北爆」するまでにエスカレートしていったが、戦況はアメリカにとっていっこうに改善されず、そんなアメリカに対する批判が世界中から起こりはじめるとともに、アメリカ国内でも徴兵されてベトナムに送り込まれる若者たちから、戦争反対の声が上がりはじめた。

 日本でも、小田実、開高健、鶴見俊輔らによって「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」が結成された。いわゆる「市民主義者」の「ぬるま湯」的な運動だという批判もあったが、その「主義主張は問わない」という間口の広さのために、「ベトナム反戦」の雰囲気を醸成するのには貢献したといえる。京都では、ベ平連の呼びかけで、毎週日曜日、四条河原町の高島屋前の歩道で「ベトナム反戦」の座り込みが実施されて、市民や観光客の注目を浴びていた。

 このように世の中は徐々に「政治的」な方向に蠢動しはじめていたのだが、私はといえば、自治会も生協もなくなってしまって、それを機会に、「政治」からは遠ざかろうとしていた。その代わりに少し取り組んだのは「文化」方面である。

 先に述べたクラス雑誌の『えるほう』は、同人誌『光芒』に発展していた。今度はガリ版ではなく、印刷屋に出して、「タイプオフセット」印刷で、きちんと製本されたものである。かなりの費用がかかり、1部100円で、手を尽くして売りさばいたが、いつも赤字であった。それでも、年に1号ずつ4号(1968年)まで発行された。





野党としての「学園祭」~そして加藤登紀子の登場

 また、全学自治会を失ったことで、1959年から続いてきた学園祭も様変わりすることになった。サークルの企画や、体育会担当の模擬店などは変わらないが、メインの「講演会」や「シンポジウム」は、そのテーマも講演者も、新しく執行部となった「政党系」セクトの政党色の強いもので、それはとても我慢のならないものであった。

 そこでなんとか、これまでの「伝統」を絶やしたくない、ということで、文学部など「生き残った」ブント系の自治会やサークルなどが自力で企画を組んで、小規模ながらも独自の講演会などを行った。その時、企画の目玉のひとつとして、「アマチュア・シャンソン・コンクールで優勝した東大生」として話題になっていた加藤登紀子を呼ぶことになった。

 まだ素人の学生といった感じの加藤登紀子が人前で歌うことには慣れていなかったためだろう、彼女をサポートするかたちで、30代ぐらいの男性シャンソン歌手も同行していた。彼女は何曲かシャンソンのスタンダードナンバーを唄ったはずだがあまり記憶がない。あくまで「話題先行」のアトラクションで、同行の男性歌手の安定した歌唱が、ステージを支えていたようだった。

 終わってから、学内に設けられた模擬店風の喫茶室で、「加藤登紀子を囲む会」のようなものが開かれた。彼女は緊張して落ち着かないような様子で、この時も同行の男性歌手がしっかりとサポートしていた。ステージ用のロングドレス姿の彼女は「やせぎす」な感じで、帰り際に私たちの中から「もっと太りなさいよ」と温かい声がとんだとき、含羞んだように微笑んだのを憶えている。

 彼女は、そのあと同志社大学へも公演に行った。というより、そちらの方が実はメインで、同志社が招いた加藤登紀子を、「盟友」の誼みで、こちらにも「配分」してくれたというのが実態だった。そして、このとき加藤登紀子はのちに結婚するF氏と同志社で出会ったようである。

 また春が来て3回生になり、私は教養部から文学部に進級した。ところが同じクラスの仲のよかった友人たちのほとんどは「留年」して、そのまま教養部に留まってしまった。

 「進級」は所要の単位さえ取ればいいので、さして難しいことではない。ただ、語学や体育など「出席点」がしっかり入っている科目では、欠席が多いと、教官によっては試験でよっぽど良い成績を取らないと危ないことがある。私の友人たちは、いろいろ自分ですること、したいことがたくさんあって、退屈な大学の授業にはとても耐えられなかったのだろう。語学の時間でも、だんだんと出席者の数が減ってきて、学年の終わり頃には、女子を含めても半数以下になっていた。

 「文学なんて、家で一人でも勉強できますよ」と、欠席には寛容な先生もいれば、入室早々、その閑散さに顔をしかめ、たまに出席してきた学生にきつく当たる先生もいた。それは、このままではいかんぞ、という警告でもあったのだろうが、そういう目に遭った本人はますます授業から遠のくことになる。そういう先生が増えていたのか、発表された成績は予想外に厳しいものであった。

 「同盟員の連中が進級して、なんでおれたちが落ちねばならねえんだ」と、冗談交じりの泣き言を言われたが、確かに、その時点で、同盟に名が残っていたWと私と、もうひとり大阪出身のひょうきん者のFの3人はみんな合格していた。

 文学部はまだわれわれの牙城で、春の選挙で圧勝した私たちはWを委員長に新しい執行部をつくった。私よりも年上で、同盟歴も長いひょうきんなFは、所属した学科が「政党系」セクトの牙城であったために、自治委員になることができず、自治委員でないと執行部に入れなかったので、Wに頼まれて、私が入ることになった。Wは委員長以外ならどんなポストでもいいよと言ったが、私は控え目に「文化」担当の執行委員を選んだ。

 雑然としながらも活気のあった教養部とはちがい、文学部の自治会は落ち着いた雰囲気であった。全学の自治会は取られたが、上部団体の府学連は、同志社のおかげでまだブント系であった。だから、私の大学の全学自治会が勧める「政党系の政治行動」とは別に、府学連が主催する従来通りの行動もあって、私たちは、文学部、理学部、教育学部といったこちら系の自治会の旗を持って参加することになっていたが、参加の主流は、教養部の若い学生たちであった。だから、そんな「定例」のデモにも時折参加するだけで、あとの日常活動はビラを作ったり、学部長室に執行部で乗り込んで「学部長団交」をしたりすることだけだった。

 そして秋になって、学園祭の季節となった。

 前年の、自主的な企画がそれなりの反応があったので、今年はしっかり準備して、もっと充実したものにしようということになり、これが文学部の自治会の方針ともなった。

 テーマも決めた。『検証の時代への強制送還』

 これまでの『仮眠の季節におくる僕達のあいさつ』『故郷喪失の時代とぼくら』『噛むときは言葉を考えるな』『ああ自然死!』と比べるといかにも生硬だったが、何人かでああでもないこうでもないと頭を絞った揚げ句、この際すべてを見直さなければならない、それが強いられているのだ、という、今の自分たちに一番ふさわしい状況認識として出てきたものであった。





吉本隆明講演会に関わる

 その時の講演の目玉のひとつは、吉本隆明だった。

 大学に入っていろいろな書物にめぐりあった。吉本の他、埴谷雄高、谷川雁、小川徹、澁澤龍彦といった著者たちの本は、どの友人の本箱にもあった。また、当時毎日のように覗いた、大学の時計台下にあった「生協書籍部」の、彼らの本が並んでいた棚の一角は今でも鮮やかに思い浮かべることができる。

 彼らの多くは、過去に大学の学園祭に来たことのある顔ぶれだった。中でも、吉本氏は人気で、ほとんど毎年のように来ていた。この年は、関西のいくつかの大学の学園祭を巡回する一環として私たちの大学にも来ることになっていて、この講演の名目的主催と当日の接待は、私たち『光芒』同人会が担当することになった。

 いわば憧れの文学者と間近に接することができるのはうれしいことだったが、いざとなるとかえって気後れしてしまった。そんななか、それほど吉本に興味がなかった同人のMが、「じゃあ、おれがやったるわ」と言って、すぐに電話して、当日の段取りを決めてくれた。

 そして当日、その講演のことはまったくと言っていいほど記憶に残っていないが、終わったあと、近くの喫茶店に案内して、ひと休みした時のことは鮮明に覚えている。

 ベージュのトレンチコートを着たまま端っこの席に座った吉本氏は意外に大柄に見えたが、無口だった。コーヒーを飲みながら、ゆっくりと煙草をふかしていて、ちょっと近寄りがたい感じだったが、そんな時もMは物怖じせずに、発行されたばかりの『光芒』の最新号を手に、何やら話しかけていた。その『光芒』にしばらく目を通してから、吉本氏はMにひとことふたこと小声でしゃべっていたが、離れたところにいた私には聞こえなかった。あとでMに尋ねると「おれの詩を見せたら、ざあっと目を通して、とにかく、毎日机に座って、少しでもいいから書きなさい、って言われた」とのことだった。

 翌年、同級生の友人たちが1年遅れでどっと文学部に進級してくると、私はやっと自治会の仕事から解放されることになった。「文化」の仕事も友人の一人に引き継いだ。今でも「職革」を目指していたWは文学部自治会のようなのんびりしたところでは飽き足らなくなったのか、再び教養部に降りて、そこで同盟の「キャップ」の地位に就いた。年下の同盟員を率いて、春にはおもに新入生の勧誘活動をしていた。

 そんなある日、ひさしぶりに教養部を覗いてみると、ボックスの外に出した簡易ソファにWがいかにも充実したような表情で座っていた。どうだ、と尋ねると、Wは得たりやおうとばかりに関東訛りの関西弁で言った。「なんかしばらくおらん間に、世の中えらい変わっちゃって、こっちからオルグする前に、向こうから、入れてください、っていうのが多いんや」

 そういえば、ボックスの中には新入生らしいのが大勢いて、何やら活気に溢れているようだった。「いっぺん、デモに来てみい、おもろいでぇ」

 誘われるまま、翌週に行われた府学連のデモに出てみた。例によって、学内の集会があったが、数年前から比べるとはるかに人数が多かった。そして、校門を出て次の府学連集会の会場に向かうために国道に出るや、デモ隊は横に10人ぐらいが手をつないで道路いっぱいになる「フランス・デモ」の隊形になって、そのまま駆け足で走り始めた。普段は車が走っている道を「人間さま」がそれこそ大手を振って走っていくのは爽快きわまりないものだったが、デモ隊はいつまでたっても走ることをやめず、そのうちに私はたちまち息が切れて、やっと止まった時には、ハアハアと激しい気を吐いていた。そんなことを何度か繰り返すと、会場の同志社大学に着いた。

 よくわかったよ。人いきれがするぐらいいっぱい入った講堂のどこかにいるはずのWにそっと声をかけたつもりで、私は会場をあとにした。デモに出たのはそれが最後であった。





10.8 羽田闘争の衝撃

 当時の佐藤栄作首相が戦争中の南ベトナムを訪問するのを羽田空港で阻止しようとする闘争が行われたのは、その年の10月8日であった。

 大きな人工島である羽田空港に通じる3つの橋を、当時「三派全学連」を形成していた3つのセクトがそれぞれ分担するように渡ろうとしていた。当然、機動隊の厚い壁があり、そこで激しい衝突が起こった。それまでデモ隊は乱闘服などで装備した機動隊に押しまくられていたのだが、この日は少し違った。デモ隊の学生の頭には工事用のヘルメットがあり、手には角材が握られていた。そのように「武装」した学生に対して、大きな装甲車をバリケードのように止めて橋を渡らせまいとする機動隊は警棒で応酬し、双方にたくさんのけが人が出て、中核派の学生が死亡した。

 デモで学生が死亡したというのは、60年安保以来のことである。このニュースはテレビ・新聞で大きく報じられた。亡くなった学生は私たちの大学の1回生だった。聞いたことがある名前だな、と思っていると、それが、私の高校時代の友人の弟であることが判明した。

 その友人は、高校3年の時に同じクラスで、放課後、よく学校に残って勉強した仲間の一人であった。3学期になって授業がなくなると、私たちは市内のいろんな図書館に通って勉強した。ある日、空いているというのでよく利用していた桜宮の府立図書館の分館(造幣局近くの泉布観のすぐ横にあった旧桜宮公会堂を転用したもの)に行った時、彼は弟を連れてきていた。「今度うちの高校に入る予定。おれと違ってよく出来るから、合格は間違いないよ」

 友人とよく似た顔立ちのその弟は、ちょこんとお辞儀をしたあと、ほとんどしゃべらずに、図書館にある本を読んでいた。

 あれから3年半経つのか。新聞に大きく載った写真はたしかにその顔だった。友人とも大学入学後はほとんど会っていない。テレビのニュースで映し出された葬儀や追悼集会では、両親らとともに友人の姿もあった。

 私の衝撃は大きかったが、それをさらに大きくする報道がなされた。彼は機動隊の暴行を受けて亡くなったのではなく、バリケードがわりに置いてあった装甲車に轢かれたのだ、と。しかもそれを運転していたのはそれを占拠した学生だった、という警察発表が出されたのだ。

 それに対する反論はすぐに出された。当のデモ隊からだけではなく、報道陣や文化人と呼ばれる人たちからも異議が唱えられ、報道フィルムを分析した記録映画がつくられたりもした。それが真実なのか、警察のでっち上げなのか、お互いの主張を検討してみても判然としなかったが、こういうかたちで取り上げられること自体が、死の悲しみをさらに深めるものとなった。

 この年も、文学部自治会を中心に自主的な学園祭が開かれていて、また吉本隆明が招かれていた。しかも、この羽田事件が起こり、次は佐藤首相のアメリカ訪問を阻止しようとする第2次羽田闘争の直前のことであった。今度は、私は完全に聴衆のひとりだったが、その時、吉本隆明がはたしてこの問題に触れるのだろうか、触れるとすれば、何と言うのだろうか、と固唾を呑んでいた。

 「かつての戦争でも、たくさんの日本人が戦死したが、そのみんなが戦場で敵の弾に当たって死んだわけではない。味方の流れ弾に当たって死んだり、戦場に行くまでに、事故で船が沈没して亡くなったりした者もたくさんいた。でもそんな人たちも、戦死したことにかわりはない。誰もがそうおあつらえ向きに、敵に撃たれて戦死するわけではない。だから、警察の暴行によろうが、誤って学生に轢かれようが、闘争で亡くなったことにはかわりはないのだ」

 この明快な見解を聴き、私の胸のつかえは下り、ほっと楽になった。

 先ほど名前をあげた著者の中では、私は圧倒的に吉本隆明の本を読んでいた。「困った時の吉本頼み」みたいに、どうしていいか分からない時に、「指針」を求めるようにその本を読んだ。例えば、ある時期、自分を見失いかけていた時に私を支えてくれたのは「内部世界を論理化すること」という、たしか『自立の思想的拠点』という文章の中にあった吉本の言葉であった。彼の著書はほとんど買い揃えて、何度も何度も読み返した。

 しかし、年をふるにつれて、それらの本も書棚の隅で埃をかぶるようになってきた。昔のように無制限に書棚で部屋を占有することも許されなくなり、引っ越しや家の中の模様替えのたびに、愛着のあった本を次々と手放さなければならなくなった時でも、吉本の本はすべて生き残ってきた。しかし、数年前、おそらくこれが最後の模様替えとなるであろう自宅の改築をおこなった時、もうそのページを開けなくなってから30年にもなる、その当時の「吉本本」をついに処分した。

 その時は、泣く泣くという感じはなく、かえってさっぱりしたような気分だった。しかし、80歳を過ぎてなお健在の吉本隆明の最近の、講演、対談、インタビューなどのいわゆる「口述本」は、今でも時々購入して、やはり「指針」的に読んでいる。そして、その時処分してしまった本の中にも、また読みたくなった本があって、「文庫本」になっているのを買い直したこともある。

 吉本隆明の詩については、処女詩集『固有時との対話』とそれに続く『転位のための十篇』を収めた、思潮社版の『吉本隆明詩集』を持っていて、いちおう目を通したはずであるが、このたび読み直そうと探してみるとどこにも見つからなかった。処分本の中に入っていたのだろうか。そこで、何らかの愛着があってまだ残していた『模写と鏡』という1968年増補版の評論集に収録されている (11) 『佃渡しで』という詩を暗誦することにした。「吉本にしてはほのぼのとした異色の詩」と評された作品である。



(11) 佃渡しで


佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
(あくた)がたまって揺れてるのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水は黒くてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街があり住んでいた
蟹はまだ生きていてとりに行った
沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶
(とんび)だろう
むかしもいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿膜
(わた)
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘には云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる




 ところでその詩を暗誦したのは2007年9月だから、すでに2年半以上経つ。それを振り返りながらこの原稿を書いている最中の2010年3月15日の毎日新聞で「谷川雁特集」があった。懐かしい名前である。85歳になった吉本隆明が元気なコメントを寄せており、兄である(とこの時私ははじめて知った)民俗学者の谷川健一が最も好きだと推す谷川雁の『恵可』という詩の一部が掲載されていた。

 谷川雁は、友人の本棚や「生協書籍部」の書棚でおなじみの名前で、『原点は存在する』『工作者宣言』という挑戦的で魅惑的なタイトルの書物をパラパラと繰ったことは何度もあったが、その中に入っていくことはできなかった。

 しかし、いまその詩をはじめて目にし、口の中で朗読してしてみて、その言葉の「凛とした」強さに驚いた。これまで2年半にわたって30数編の詩を暗誦してきた成果であろうか、かつては全然反応しなかったものが、いま、私のこころを打ったのである。

 私は急いで何冊か所有する「アンソロジー詩集」で、谷川雁の名前を探してみた。そして、見つけたのが、吉本隆明の『現代日本の詩歌』という最近の「入門書」のなかで、谷川雁の代表作として引用されていた (33)『革命』という作品だった。



(33) 革命


おれたちの革命は七月か十二月か
鈴蘭の露したたる道は静かに禿げあがり
継ぎのあたった家々のうえで
青く澄んだ空は恐ろしい眼のようだ

鐘が一つ鳴ったら おれたちは降りてゆこう
ひるまの星がのぞく土壁
(つちかべ)のなか
肌色の風にふかれる恋人の
年へた漬物の香
(かおり)に膝をつくために

革命とは何だ 瑕
(きず)のあるとびきりの黄昏(たそがれ)
やつらの耳に入った小さな黄金虫
(こがねむし)
はや労働者の骨が眠る彼方に
ちょっぴり氷蜜
(こおりみつ)のようにあらわれた夕立だ

仙人掌
(さぼてん)の鉢やめじろの籠をけちらして
空はあんなに焼け……
おれたちはなおも死神の真白な唾
(つば)
悲しい方言を門毎
(かどごと)に書きちらす

ぎ な の こ る が ふ の よ か と
(残った奴が運のいい奴) 




 17行の詩の暗誦は難しいものではなかった。というより、その高い象徴度ゆえ、その意味するところは正直言って不明なところが多かったが、歯切れのよい硬質な言葉によって描き出されるイメージは非常に明確で、ともかく、憶えるのに苦はなかった。もういくつか暗誦してもいいかな、とも思ったが、この際、吉本隆明の「硬質な」詩も暗誦してみたいと思い、アンソロジー詩集を繰って、(35)『涙が涸れる』を選んだ。



(35) 涙が涸れる

きようから ぼくらは泣かない
きのうまでのように もう世界は
うつくしくもなくなつたから そうして
針のやうなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめつぽい貧民街の朽
(く)ちかかつた軒端(のきばた)
ひとりであるいは少女と
とおり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしている
胸のあいだからは 涙のかわりに
バラ色の私鉄の切符が
くちやくちやになつてあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視
(み)せて とおくまで
ゆくんだと告げるのである

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
(ねた)みと嫉みとをからみ合わせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによつて
きみはぼくらによつて ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ






騒乱の時代へ

 さて、時代は騒然としてきていた。10月8日の「羽田闘争」ではじめて学生デモ隊がヘルメット、角材で「武装」して登場したのだが、実は、これはその前夜に、「三派」のセクト間で内輪もめがあり、それを「実力的」に決着させようとして、お互いが「武装」、結局、衝突は回避されたが、翌日そのままの姿で、羽田に向かったのだ、という話がある。後日、絶望的にその「おぞましさ」を深めていった「内ゲバ」の公然化であった。

 その時の対立はそのあとも尾を引き、後日、私の大学でも、東京からやってきた中核派所属の当時の「三派」全学連委員長を学内で「講演」させるかどうかでもめて、深夜、「乱闘」が起こるという事件があった。

 翌朝、校門前では、少し離れて陣取った両派のマイクが、お互いに相手を強く糾弾するアジテーションを繰り広げていたが、その校門の物陰で、10数名のたぶん1回生であろうか、まだ少年の面影を残した若者たちが、ヘルメットを被り、白っぽいレインコートで、手に角材を持ち、所在なげにウロウロと歩き回っているのが目撃された。その姿は、押っ取り刀で「見物」に出かけた「元先進的」な私たちの目には、とても「新鮮」なものに見えた。しかし、それらはもはや自分たちからはどんどんと遠ざかっていくものでしかなかった。

 この騒ぎは、間に入った者がいて、まもなく収拾されたが、その時行われた両派の「手打ち」に、相手方の代表として出てきたのが、高校の後輩のAであった。久しぶりに垣間見た彼は険しい顔つきをしていたが、色白の切れ長の目元は持ち前の冷静さを失ってはいなかった。

 翌68年の3月、私は大学を卒業して、先の当てもないまま、ただ社会に出るのを先送りするためだけのように大学院に残った。同じクラスの友人の多くは教養部で留年して1年遅れだったので、何となくひっそりとした感じの卒業式だったが、時計台下の大ホールで総長の「式辞」を聴き、そのあと各学部で卒業証書をもらい、全員の記念撮影をする、という長年お決まりの卒業式風景は、実はこれが最後となる。


 その頃、東京では情勢が急進展していた。

 早稲田、慶応など各私立大学の「授業料値上げ反対闘争」、ベトナム戦争反対の「羽田闘争」と続いて、学生運動はどんどんと盛り上がり、68年に入ると、医学部の無給医局員制度に反対する運動が全国で激化し、東京大学ではそれに関連してなされた学生処分が誤認であったことから、全学バリケードストライキへと発展していった。

 一方、それまで「学生運動」には反対で、保守政権の「番犬」とまでいわれていた日本大学で巨額の使途不明金が発覚、それに対して長年の自由抑圧に耐えてきた学生の中から「学園民主化」を求める動きが出はじめた。大学側はすぐさま「子飼いの」体育会系学生を使って暴力的に弾圧しようとしたのが、火に油を注ぐことになり、たちまち「全学共闘会議」が結成されて、全学をバリケード封鎖、度重なる大学側の右翼学生と機動隊の攻撃に鍛えられて、日大全共闘の「叛逆のバリケード」は最強のものとなり、それまで「帝王」のように大学経営に君臨してきた独裁者・古田重二良会頭をついに辞任に追い込んだ。

 東大と日大という、これまで対極的と思われてきた2つの大学が軸となって、「全共闘運動」は東京で盛り上がり、翌年1月の、東大安田講堂バリケード陥落まで続く。

 おりしも世界に目を向けると、アメリカではベトナム反戦運動が激化、当時のジョンソン大統領が異例の「二期目立候補断念」を表明する一方、黒人運動指導者のキング牧師や、大統領予備選挙に出馬していたロバート・ケネディが暗殺された。フランスでは学生運動に労働者のゼネストが呼応する「五月革命」が勃発して、ドゴール大統領を窮地に追い込み、チェコスロバキアでは、「人間の顔をした社会主義」をスローガンに「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こった。文化大革命の嵐が吹き荒れる中国では、「紅衛兵」によって旧指導層が「三角帽子」をかぶせられて「吊るし上げ」られているというニュースが連日報道され、「壁新聞」「自己批判」「実権派」「武闘」「造反有理」といった独特の用語が日本中に飛び散った。

 さらに、10月21日の「国際反戦デー」では、学生デモ隊が新宿駅を占拠して「騒乱罪」が適用され、さらに12月には、あの府中市での「三億円事件」も起きている。

 しかしながら、関西ではその間、さして大きな動きはなく、そのような、東京や世界の出来事はまるで「別世界」のことのように、テレビで見ているしかなかった。しかし、内心で「血が騒いで」いたのは確かで、ただその吐き出し口がない、という状態だった。だから翌年、東大のバリケード封鎖が機動隊によって「解除」されたのと入れ替わるように、京大の学生部の建物が、学生寮の「闘争委員会」によって占拠されるという事件がおこると激しい反応が起こった。

 当初は、その闘争を支援するため東京から強力な「応援部隊」がやって来るという噂におびえた大学当局と封鎖反対派(これは例の政党系の学生であった)がパニックを起こして、「外人部隊」が入ってこられないように大学の各門を「逆バリケード」するという、異常な事態から始まった。しかし、のちに「狂気の3日間」と呼ばれたこの「逆バリケード」も、そのパニックから醒めた学生たちによって結成された「全学共闘会議(全共闘)」によって撤去され、あらためて築かれたバリケードによって封鎖された大学は、それが「解除」される秋まで、全面的に機能マヒする。

 そして、これを合図のように、「バリケード封鎖」は瞬く間に全国の大学に拡がり、また、封鎖が「解除」された東大でもその後の混乱をおそれて、その年の入学試験が中止されるという、まさに前代未聞の「激動の1年」となった。

 ただ、私自身はそうした動きからは少し距離を置いていたので、当時のマスコミ等の報道の他は、1年留年したためにこの「激動」に巻き込まれ、その後の人生の「進路変更」を強いられた友人たちから後日談を聴いたぐらいで、直接の「回想」は何もない。


 ところで話は戻るが、「政権明け渡し」後の毎週の同盟の会議で、「再建プラン」のようなものを各自で考えて提出せよという課題が与えられたことがあった。そのとき私は、その頃、全国の大学で頻出し始めていた「学生会館、寮、サークル」などの自治権をめぐる「学園闘争」に着目して、それを足がかりに闘争を構築できないか、という案を出した。安保、憲法、反戦といった「政治スローガン」では一般学生はもはやついてこないと思ったからだ。

 その状況認識はみんなから一定の理解は得られたようだったが、では、具体的にどうするのか、と問われ、取りあえず、全国の「学園闘争」の情報を収集して、分析し、それをみんなに知らせる「情報宣伝」活動から始める、と答えると、それではただの「評論家」ではないか、と一蹴されてしまった。

 たしかに「活動家」とすれば、具体的な「学内問題」をどうやって「大状況」的な「政治」課題にまで高め、いかにしてそこに大衆を結集させていくかという、ダイナミックな展望を出さなければならなかったのだろうが、そういった「政治主義」の限界はその後の歴史が示すとおりである。

 68年~69年の「学園闘争」の中心となった「全共闘」に集まった学生は、ノンセクト・ラジカルズ(無党派急進派)と呼ばれたように、それまでの政治セクトとは一線を画すものであった。60年安保がそうであったように、あれだけの大きな闘争では、既成の「政治」党派はすべて乗り越えられてしまう。もちろん、闘争の下準備の段階でのセクトの貢献は大きかっただろうが、それが大きく発展して「頂点」へ向かっていくにつれて、セクトの影は全く薄くなっていた。おそらく、セクトの本音は、「大学解体」などではなく、「70年安保」や究極的には「革命」といったところにあったのだろうが、「全共闘」運動が全体として、そういう方向に動くことはなかった。だからセクトとすれば、闘争終焉後、学園を追われた一部の学生を引き連れて、別の「戦場」、例えば、「三里塚」とか果ては「海外」へと流れていく他はなかったのであろう。





後日譚三つ

 あの「職革」を目指していた同級生のWが「バリケード封鎖」の時、どのような行動を取ったのかは詳らかではないが、風の便りで、彼はその後「三里塚」に行って、そこで逮捕されたということを聞いた。その時、彼のことを心配した学科の主任教授が現地の警察まで行って彼に面会し、将来のことを考えて闘争から身を引くようにと説得したが、Wはその異例の「説諭」に感涙しつつも、きっぱり断ったということだった。

 その後、彼は東京で、なにか地道な「地域活動」に従事しているらしいということを耳にした。また、ちょっとした「内ゲバ」に巻き込まれて怪我をしたという噂もあった。そして長い空白を経た8年前、かつての「先進的」クラスの同窓会が開かれ、約3分の1が出席した中に、Wの姿があった。33年ぶりの再会だった。

 「W、おぬし、よお生きとったなあ」と、思わず、やや冗談めかした声が上がった。あのあと、いろいろ陰惨な事件もあったので、なかば本音もまじっていた。

 東京で長年、「職革」といえばまだしも、不安定な「ルンペン・プロレタリアート」的な生活を続けていたというWは、その日は寛いだセーター姿ではあったが、かつての尖ったような印象は消え、顔色もよかった。今は、会社勤めをしていて、結婚もしたとのことだった。どんな会社?と聞くと、とある農業関係の「認証」の仕事をしているところで、驚いたことに、それはあの加藤登紀子と結婚したF氏が設立した会社だった。

 「拾ってもらったんだよ」

 二人きりになったとき、Wはそっと私に言った。あの頃、同志社の幹部活動家だったF氏と接触した記憶は私にはないが、私よりもずっと長く、またずっと深く同盟と関係していたWはF氏とも懇意だったのだろう。会社の業績はさいわい好調だそうだが、そのF氏がいま末期ガンに襲われて、時間の問題だということをWから聞いた。耳を疑ったが、その半年後、F氏の死が大きく報じられた。今はWがあとを継いで会社の代表者になっているという。


 加藤登紀子は周知のように、あのあと、プロの歌手になり、『赤い風船』でレコード大賞の新人賞を得たあと、『ひとり寝の子守歌』『帰りたい帰れない』など、パーソナルな自作曲で注目され、『知床旅情』が大ヒットして、押しも押されぬ「大歌手」となった。

 30年ほど前、毎年大阪で催されるコンサートに行ったことがある。

 かつて、大学の学園祭で心細げに唄っていた面影は全くなく、バンドをバックに数々のヒット曲を堂々と唄っていた。そしてそのあと、ギターを抱えての「弾き語り」に入ったとき、一升瓶を抱えた中年の女性客がさっと舞台に近づいて加藤登紀子にそれを手渡した。思わぬ「差し入れ」に一瞬驚いた加藤登紀子だったが、その表情はみるみる綻(ほころ)んで、「じつは私、大好きなんです」と、そのまま舞台の端に腰掛けるように座り込み、いっしょに渡された湯呑み茶碗にお酒を注いで、それをグビグビやりながら、「弾き語り」を始めた。

 たぶん、それがのちに有名になった「ほろ酔いコンサート」の嚆矢(こうし)であろう。今では、主催者側がお酒をたくさん用意して、希望のお客さんにふるまって、みんなでグビグビやりながらのコンサートになっているという。

 これでますます加藤登紀子が好きになり、その後、レコードやCDを買ったり、レンタルしたりするようになった。そんな中の1枚、『全曲集・百万本のバラ』というアルバムの中に入っている (34)『時には昔の話を』をという曲を聴いて、私の胸は思わず震えた。これはあの頃の自分たちではないか。

 加藤登紀子が自分の学生時代を唄った歌であろうが、彼女は私とほとんど同世代(2歳上)なので、それは私たちの「昔の話」と重なるものでもあった。何度も聴いて、そのたびに、全身が痺れるような気がして、涙が出そうになった。


(34) 時には昔の話を

時には昔の話をしようか
通いなれた 馴染みのあの店
マロニエの並木が 窓辺に見えてた
コーヒーを一杯で一日
見えない明日
(あした)を むやみに探して
誰もが希望を託した
揺れていた時代の 熱い風に吹かれて
体中で瞬間
(とき)を感じた
そうだね

道端に眠ったこともあったね
どこにも行けない みんなで
お金はなくても なんとか生きてた
貧しさが明日
(あした)を運んだ
小さな下宿屋に いく人もおしかけ
朝まで騒いで眠った
嵐のように毎日が 燃えていた
息が切れるまで走った
そうだね

一枚残った写真をご覧よ
ひげづらの男は 君だね
どこに居るのか 今ではわからない
友達もいく人かいるけど
あの日の全てが 空しいものだと
それは誰にも言えない
今でも同じように 見果てぬ夢を描いて
走り続けているよね
どこかで 



 この歌は、1987年に作られたものだが、その5年後、宮崎駿のアニメ映画『紅の豚』の挿入歌として使われ、その時、違うバージョンとして唄い直されている。これは『加藤登紀子ベスト』というアルバムに収録されているが、そのあと、アルバム『マイ・ベスト・アルバム』『シャントゥーズTOKIKO~仏蘭西情歌』にも収録されて、どれもバージョンが違っている。時間が経つにつれて、だんだんと年をとっていくのだから当然かもしれないが、老いて、功成り名を遂げた人物が若かりしころを懐かしむ、という風に、微妙に唄い方が変わってきているような気がする。しかし私は、その時の悔恨を今も引きずりながら、思い詰めたように絶唱していた最初のバージョンが一番好きだ。

 ところで、この原稿を書くに当たって、この歌の歌詞を、いつもの調子で暗誦してみた。唄うのではなくて、普通の〈詩〉として暗誦してみた。すると、曲なしではどうも物足りないのだ。言葉に「ちから」が感じられないのだ。どうしてだろうと考えて、気がついた。

この歌詞の「サビ」といえるのは

 1. 揺れていた時代の 熱い風に吹かれて 体中で瞬間(とき)を感じた

 2. 嵐のように毎日が 燃えていた 息が切れるまで走った

 3. 今でも同じように 見果てぬ夢を描いて 走り続けているよね

という箇所だが、では、こういうことが、本当にあの頃あっただろうか、と考えると、少なくとも私には、「こうであってほしかった」ことではあるが、「こうだった」とは言えない。

 その意味で、これは「感傷」であって、その、現実から「逸れて」いる分だけ、言葉の「ちから」が弱まっているのであろう。

 〈青春〉といえば、「青春時代が夢なんて 後からほのぼの思うもの 青春時代の真ん中は 胸にとげさすことばかり」という、阿久悠作詞の『青春時代』(森田公一作曲・唄)の方がおそらく、より真実に近いだろう。

 しかし、この『時には昔の話を』の「センチメンタル」な歌詞が、あの哀調を帯びた曲に載って、加藤登紀子の思い詰めたようなあの絶唱で唄われると、堪らない「郷愁」が呼び起こされ、甘美な「昔話」に酔いしれてしまう。これは音楽の持つ「ちから」であろう。




(補足)

.....と、以上のように書いたが、その後、例によって、湯船の中で「暗誦」および「歌唱」を繰り返すうちに、ちょっと「思い違いだったかな」と感じはじめた。

 つまり、この歌詞を読み込んでいけば、指摘した「サビ」に至るまでの箇所は、これは私にとっても憶えのある、まぎれもない現実にちがいなく、それを受けて「サビ」では、現実はそのように〈惨めったらしい〉ものだったけれど、でも実はこんな〈凄い〉ことだったのよね、そうよね、となっているのではないか。そう解釈すれば、最後の「返し」の、「そうだね」という言葉の意味もわかってくる。

 どうも、私の筆が「上滑り」したようだが、そんな露呈した「未熟さ」も、ひとつの「過程」として残しておく方がいいかなと思うので、あえて「訂正」ではなく「補足」とした。




 最後に後日談をもうひとつ。高校の後輩で、学生運動をするために大学に入学したAは、その後、所属するセクトで着実に頭角を現していった。67年羽田闘争直後に、私の大学で起きた「内ゲバ」公然化のときには一方の代表格になっていたことはすでに述べたが、その翌年1月、長崎県佐世保にアメリカの原子力航空母艦エンタプライス号が寄港するのを阻止する闘争があった。この時の模様は、前年の羽田闘争のこともあったので、大きく報道され、学生デモ隊と機動隊が衝突する「佐世保橋」付近にはテレビカメラが設置されて「実況」放送がなされていた。そんな真っ最中、橋の上で激しく衝突するデモ隊と機動隊の間隙を縫って、2人のデモ隊員が川の浅瀬を走って対岸の米軍基地に侵入するという挙に出た。場合によっては、米軍の兵士による狙撃もありうるという危険な行動だったが、そのうちのひとりがAだということがのちに判明した。

 Aに関する「風の便り」はしばらく途切れる。その後、彼の属するセクトは文字通り「血で血を洗う」凄惨な内ゲバの中心に位置することになる。そして、ある時、新聞の片隅に、大阪の電車の車内で白昼「内ゲバ」事件があって、加害者が逮捕されたという記事が載り、そこにAの名前があった。たしかもうすでに「中年」に近い年齢になり、組織の中でもかなりの地位にあったであろうAがそんな「現場のヤバイ仕事」をしていたということに「悲哀」を感じた。

 長い間忘れていたAの消息が入ってきたのは思いがけないところからだった。

 3年前(2007年)のある日、ふと気が向いて母校の同窓会のホームページを見ていたときのことである。その中の、毎月、各界で活躍する同窓生を招いて開催されている「セミナー」の講師になんと、あのAの名前をみつけたのである。肩書きは「ワイン会社の農場長」で、テーマは『ワインの話』。

 まさかと思って、中をあけてみると、写真があり、その風貌はすっかり「貫録」がついていたが、あのAにちがいなかった。添付されたレジュメによると、「セミナー」の内容は、ワインの基礎知識からその製法と歴史、日本におけるワイン製造の概要、そしてその味わい方、最後には「試飲」まであるという本格的なもので、好評だったのか、1年後にその「パート2」も催されている。

 写真ではあるが、Aの顔を見たのはおそらく40年ぶりで、その間の彼の足跡は、そこに記された「71年、大学中退、以後93年まで社会運動に従事、96年、ワイン会社入社」という短い履歴しかわからないが、ともかく50歳近くまで「職革」として頑張ってきて、そのあと「足を洗って」、今の職業についたことになる。とすると、新聞で見た例の「事件」は、いつのことだったのか、ひょっとして、あのあと「服役」「更生」して現在に至ったのだろうか、だとすれば、あの逮捕されたとき、実はほっと安堵したのではなかったか、と勝手な想像が次々と湧き上がってくるが、本当のところはわからないし、それはもはやどうでもよいことである。しかしそれにしても、Wといい、Aといい、ひとの人生というのは、なかなか「一筋縄にはいかない」というべきだろうか。  

(つづく)



自註: 

 前回からの続きを書き終えて、やっと一段落した。だらだらとかなりの分量になってしまったが、実は、この時代の話は、34年前に、同人誌『樹海』に、原稿用紙で150枚も書いたことがある。だから、今回のは結果的に、その「焼き直し」になってしまうのかもしれないが、少しでもそれを避けるために、あえて過去の作品を読み返すことはしなかった。当時は、まだ若く、渾沌としていたあの時代のことを自分でもなんとか「総括」したいと思って、洗いざらい書き散らしたので、量だけの「大作」になってしまったが、もしかすると、稚拙な中にも、そんな「必死の思い入れ」が、一種の「迫力」を醸し出していたかもしれない。それと比べると今回のは、「傷つきようもない、高見の見物みたいで....」と、ちょうど本文中で加藤登紀子の『時には昔の』の別バージョンに吐いた苦言が、まさに「天にした唾」として、我が身にも降りかかってくるのかもしれないが、その時には、この年齢になれば、こんなものしか書けないのだよ、と開き直るしかないであろう。(2010.5.5)


 加藤登紀子の『時には昔の話を』に関して、思い違いがあったようなので、「補足」しました。(2010.5.16)


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