詩を暗誦する3




詩を暗誦する(3)



60年安保

 昨年の夏(2009年8月)、NHKの衛星放送で『日めくりタイムトラベル』という番組を見た。昭和のある1年間の1月から12月までに起こった出来事を3時間にわたって、当時のニュース映像を見たり、関係した人物に話を聴いたりする、いわゆる「昭和回顧バラエティ」番組である。私が見たのは、「昭和35年の巻」だった。

 スタジオには、その昭和35年生まれの著名人3名(名越康文・サンプラザ中野・織作峰子)を中心に、それより「年長組」として、昭和8年、13年、26年生まれの3名(天野祐吉・ミッキーカーチス・高橋源一郎)、「年少組」として、昭和42年、43年、55年生まれの3名(ピエール瀧・岡田圭右・大島美幸)の、計9名のゲストが招かれ、その背後には、平成生まれの若者が20名ほど「見学者」として参加していた。

 さて、昭和35年の出来事といえば何といっても「60年安保」である。もちろんこの番組でも大きく取り上げられていた。

 冒頭、マイクを振られたゲストの女性漫才師(昭和55年生まれ)が、「あんぽ? あんぽって、(干し柿の)あんぽ柿のこと?」と、とんちんかんに「ボケ」たあたりは、どうなることかと思ったが、以後の内容はなかなかしっかりしたもので、昭和35年生まれの女性カメラマンのゲストがレポーターとなって、当時の関係者にインタビューしたり、かつての「現場」を訪れたりするなど、十分に見ごたえがあるものだった。

 蛇足ながら、「安保」というのは、「日米安全保障条約」のことで、昭和26年(1951年)、日本が連合国の占領から解かれて主権を回復したとき、憲法によって「戦争を放棄」した日本の安全を保障するため、引き続きアメリカ軍が日本に駐留する、ということを取り決めた日米間の条約である。

 この条約はいわば、それまでのアメリカ軍の日本駐留をそれ以後も継続していく法的根拠を与えるためのものであったが、それをもう少し整備して、日米共同で、日本およびその周辺の安全を保持していくためのものにしようという「改定」交渉が、当時の岸信介首相によって始められた。

 今振り返れば、その「改定」そのものはある意味当然ともいえ、「安保」によって、アメリカが日本を基地に東アジアに大量の軍隊を駐留させていることに対して、当時、強硬に反発していた中国なども、その後、「米中和解」がなると、アメリカ軍が駐留していることが、日本の「軍事大国」化の歯止めになっているということで、逆に、「安保」を容認、さらには「歓迎」するまでにも変わってきている。ではあの時の騒ぎはいったい何だったのか、ということになるが、当時は、その理由は十分にあったのだ。



「安保闘争」が盛り上がったのは

 まず第一に、条約改定を推進していた首相の岸信介の閲歴。

 彼は日米開戦を決断した東条英機内閣の重要閣僚で、それ以前は商工官僚として、旧満州国の経営に辣腕を振るっていた。戦局が振るわなくなってのち、東条英機に反旗を翻し、東条失脚に加担したりもしたが、敗戦後は、A級戦犯容疑で、巣鴨プリズンに収容される。昭和23年(1948年)、東条らが処刑された数日後に不起訴処分で釈放された。

 この頃からアメリカとソ連の「冷戦」が厳しくなり、まもなく「朝鮮戦争」が始まるのだが、そういったなかで、アメリカの「占領方針」が微妙に変わってきて、それまで忌避されてきた「大日本帝国」の人材を温存する方向に変わってきた。当時それは「逆コース」と呼ばれたが、岸信介の釈放も、その流れの中にあったのだろう。

 そして、占領が終わった昭和27年に「公職追放」が解除されると、すぐさま政界に復帰。同じく追放から解除された鳩山一郎らと行動を共にして、曲折はあったが、そのあとを継ぐかたちで、総理大臣になった。

 戦争に深く係わって、戦犯容疑で入獄していたにもかかわらず、戦後政界復帰したときの岸信介の政治スローガンは「憲法改正、再軍備」であった。その不屈でブレのない信念はある意味では立派といえるかもしれないが、その当時身近にいっぱい残っていた戦争の記憶や傷跡を目の当たりにすると、日本をこのような敗戦の荒廃に導いたことに対して一片の反省もない人物が、急速に頭角をあらわして、復帰後わずか5年で首相の地位にまで上り詰めたことに、保守層も含めて、強い危惧を感じる者も多かった。そして、実際に政権につくや、岸内閣は「警職法(警察官職務執行法)」を改定して警察の力を強めようとしたり、教職員の「勤務評定」を実施して教育を統制しようとするなど強権的な姿勢が目立ち、再び、日本を戦争に導くのではないか、という不安が広がった。

 そんな岸内閣に対抗したのが、国会内では日本社会党、国会外では全学連(全日本学生自治会総連合)の学生だったといえる。

 この番組では、安保関係の出来事として、昭和35年1月16日の「岸首相訪米阻止・羽田事件」、5月19日の「衆院での強行採決」、6月15日の「国会突入事件」の他に、闘争の盛り上がりのきっかけとなった前年11月27日の「国会乱入事件」も取り上げている。

 これは、社会党議員団を先頭にした「国会請願」デモのとき、代表として国会に入った社会党議員のうしろにいた全学連のデモ隊が警官の制止を振り払って構内に乱入し、数時間にわたって座り込みをしたという事件であった。デモ隊が国会構内に乱入したのは前代未聞で、とんでもない「不祥事」だとされたが、デモ隊の側からすると、主権者たる国民が国会構内に入って何が悪い、ということで、画期的なことでもあった。

 ところで、この頃私は中学2~3年生であったが、「全学連」とか「安保」とかを最初に意識したのは、この11月27日の事件の責任を問われて逮捕状が出た2人の全学連の幹部学生が東京大学構内に立てこもっているという新聞記事であった。まわりを取り囲んでも「大学の自治」の建て前上、構内に入れない警察と、反発する学生、あいだに挟まれた大学当局の三つ巴のせめぎ合いが大きく報じられていた。その時、新聞などから「袋叩き」にあっている全学連の幹部に多くの東大生がいるということを意外に思ったのを憶えている。

 1月16日、岸首相が改定された新安保条約の調印のために訪米するのを「実力阻止」するために羽田に結集した全学連の学生が、空港食堂を占拠して、幹部を含む大勢が逮捕された事件も「不祥事」とされたが、とにかく、それまで無関心だった世間の目を「安保」に向けたことは確かだった。

 やがて安保の国会審議が始まると、ニュースや国会中継でその模様が連日放送されるようになった。攻める側の社会党は、横路節男、飛鳥田一雄、石橋政嗣らの論客を委員会に送り込み、受けて立つ政府は、岸信介首相のほか、所管大臣は、財界出身の藤山愛一郎であった。

 海千山千の岸はその「そつがない」と形容された弁舌で巧みに攻撃をかわしていたが、長年、日本商工会議所の会頭を務めるなど経済界の大立て者で、岸に請われて民間人のまま外務大臣に就任した藤山は、不慣れな国会答弁で立ち往生することがしばしばであった。とくにこの条約において「日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威」とある「極東」とはどの範囲を指すのかについての答弁が二転三転して何度も審議が中断したりした。

 鋭い眼、尖った鼻、出っ張った前歯の、まるで猛禽類のような容貌の岸信介に対して、白髪にロイド眼鏡で、いつも笑みを絶やさない藤山は、長年経済界に君臨してきたとは思えぬ穏やかなイメージで、委員会で横路節男に「さあ、どうなんですか、はっきりしなさいよ。なんだ、おどおどして」とどやされて「いいえ、別におどおどしているわけではないのでありまして...」と羞じらったような笑みを浮かべておっとりと答えるありさまは、一触即発に緊迫した雰囲気を和らげることもあった。

 当時、薄いビニールシートにレコードの溝を掘り込んだ「ソノシート」を綴じ込んで、「音の出る雑誌」という触れ込みで発売されていた『月刊朝日ソノラマ』の中にその一場面が収録されていて、おもしろかったので何度も聴いたものである。

 またその頃、テレビで『国会討論会』というのがよく行われていた。現在でも、毎週日曜日の朝にNHKで放送されている『日曜討論』の前身に当たるもので、顔ぶれは、各党の幹事長・書記長、国会対策委員長などだったが、国会審議が白熱するにつれて、学生、労働者、一般市民による国会デモも高揚し、それらを背景に「討論会」の議論も白熱して喧嘩みたいになることもあった。安保容認の民社党から出席していた水谷長三郎という戦前からの古参政治家が、何かの拍子に、「政界の寝業師」といわれていた自民党幹事長の川島正次郎を「この狸おやじ」と罵ったりするなど、中学生が見ていてもおもしろく、翌日の学校の休み時間の話題になったりもした。

 くわしい日付は憶えていないが、私はこの年の5月に修学旅行で東京・鎌倉方面に行っている。その時、国会議事堂にも行って、たしか空っぽの本会議場を見学したりした。5月の、国会デモたけなわの時期だったはずだが、その日は「日程」が入っていなかったのか、平静そのもので、正門前で撮ったクラス写真も残っている。

 そうこうするうちに、5月19日の「強行採決」、6月15日の「国会突入」=東大女子学生の死、と事態は進展し、6月19日の「自然承認」で、とにかく、幕は下りる。

 岸首相は退陣し、池田勇人内閣ができた。池田は、吉田茂内閣の大臣時代に「貧乏人は麦めしを食え」とか「中小企業の5人や10人、自殺してもやむを得ない」などの「暴言」を吐いたことで、「冷酷な官僚政治家」というイメージを持たれていたが、首相になると、それまでの岸内閣の強硬な「政治主義」から一転、記者会見で深々と頭を下げて「低姿勢」を強調する一方、「10年間で所得を倍増します。私はウソは申しません」と自信満々の「経済主義」的なスローガンを打ち上げて、それまでの混乱した政治状況を収拾してしまった。「給料が2倍? ほんまかいな」と、みんな胡散臭い目で見ていたが、これがその後の日本の「高度経済成長」のきっかけとなるとは、当時だれも気がつかなかった。

 番組では、昭和42年以降生まれの年少組は概ね、全学連の闘争に対して懐疑的だったようだ。言ってることはわからないわけでもないが、とにかく、やり方が悪い、という、いつの世にも存在する「常識派」的な意見である。

 しかし当時をリアルタイムで知っている「年長組」は、「とにかく、当時はデモをすることがカッコいいことだった。小学生の自分たちも、訳がわからないまま学校で《安保反対ごっこ》でデモのまね事をして、先生にたしなめられたことがあった。でもそんな先生たちも、仕事が終わると国会へデモしに行ってたんだよね」と回顧していた。

 やがて、闘争が終焉すると、全学連のことも報道されることが少なくなって、翌年私は高校に入学した。高校でも前年の昂揚期には「安保反対」の何らかの動きはあったのかもしれないが、私が入学した時にはその痕跡はほとんど残っていなかった。

 大学での「学生運動」については、全学連が分裂して混乱しているというニュースがときたま新聞などで報じられるだけだったが、ただ一度、池田内閣が《学生運動対策》として立案した「大学管理法(大管法)」に反対する運動が全国的に盛り上がり、京都大学では自治会が前代未聞の「全学封鎖ストライキ」を提起したというニュースが新聞の三面トップに大きく取り上げられていたのを憶えている。

 そして昭和39年(1964年)、大学に入学するとともに、それまで外部から傍観していた「学生運動」を、多少なりとも、内側から体験することになった。



「学生運動」の現場

 「学生運動」というと、いまや死語、あるいは歴史用語になってしまった感もあるが、私が大学に入学した頃は、まだまだ健在であった。

 校門の周りには、青や赤のペンキでスローガンが大書された「タテカン(立て看板)」が林立し、門を入るときには何種類ものガリ版刷りのビラが手渡された。教室に行くと、机の上にもビラがいっぱいで、学生が集まってきて、もうすぐ講義が始まるというところで、どこからか「活動家」が現れて、教官が来るまでの間、新入生の私たちに激しい「アジ演説」をした。 大学全体で見れば、新入生たちはそんな「アジ演説」には概ね冷淡だったようだ。「大管法闘争」も政府が法案を撤回したために終焉し、次は、憲法改正の動きに反発して「憲法調査会反対」や、「日韓会談反対」がテーマになっていたが、大きな盛り上がりにはなっていなかった。

 そもそも「学生運動」の依って立つ基盤は学生自治会にある。自治会の活動と運営は構成員である学生の「総意」に基づくことになっているが、その「総意」とは、学生全員の「考え」が自動的に、公平に反映されたものではなく、積極的に表示された「意思」の集合である。しかし学生全員が自治会の活動と運営に関心を持って、自分の「意思」を表示するとは限らない。積極的に「意思表示」するものはむしろ少数である。しかし、実際に自治会を運営し、活動を支えていくのはその少数の「積極的」な学生たちで(当時は「先進的」と呼ばれていた)、その核となって「執行部」を形成し、学業そっちのけでその活動に専念するのが「活動家」であった。そして、彼らは、「執行部の選挙」を通して、当時「ノンポリ(=nonpolitical 非政治的)」と呼ばれていた大多数の学生から、自治会の運営と活動を「委託」されるということになっていた。

 また、執行部を形成する活動家たちは、自分たちが行ってきた自治会の運営や活動を「後輩」に引き継いでいくための「後継者予備軍」を必要とする。そのため、主義主張を同じくする者の集団が形成されたが、当時はそういうのは「セクト(党派)」と呼ばれていた。

 学生自治会に限らず、団地やマンションの自治会、町内会、会社の労働組合、はては日本国の政府に至るまで、日本の自治組織の態様はそれに似たものであろう。誰かがやらなければならない仕事だと分かってはいるが、自分の時間を犠牲にしてまでやる気はない。それが何かの拍子に、押しつけられたり、輪番制で廻ってきたりして、嫌々やっているうちに、そこには結構「権力」みたいなものもあって、それを思い通りに駆使するのがおもしろくなってきて、やめられなくなってしまう、ということになったりもする。

 何ごともない時は、執行部(または政府)は、構成員(または国民)を疎外した、「浮いた」機関にしか見えないが、いざ事あらば、そのまわりを透明な「空気」のように取り巻いていた構成員(または国民)たちが急に「雲」のようにその存在をあらわにし、時には、核となる執行部(または政府)の存在を覆い尽くすこともある。

 私が入学した1960年代なかばは、60年安保闘争と2年後のその余震のごとき「大管法闘争」という大きな盛り上がりがすでに終息して、次の安保条約再改定の期限が来る「70年安保闘争」までの、「谷間の時代」だといわれていた。

 当時、「世代論」といって、「安保世代」「大管法世代」などと、2年ぐらいを単位に小刻みに学生を世代分けして論じるのが流行していたが、その世代ごとに学生運動的な体験が異なっていて、私たちの世代は、安保にも大管法にも乗り遅れた「遅れてきた青年」だと、大江健三郎の小説のタイトルを借用して、よく自嘲気味に言っていたものである。

 私の入学した文学部のフランス語が第1外国語のクラスは、歴代ユニークな学生が集まるクラスだといわれていたが、この年もその例には漏れなかった。約三分の一を占める女子学生はともかく、残りの男子のうちの、そのまた三分の二ちかくは浪人経験者で、中には、他の大学から、受験し直して入ってきたものも少なくなかった。そんな彼らは、大学はちがっていても、世代的には「安保世代」「大管法世代」でもあって、学生運動をかなり意識していたようである。何十年も経った「同窓会」の時にはじめて聞いたのだが、前の大学の時に60年安保の国会デモに参加し、その時、ダークブルーの自治会旗をかざしたこの大学のデモ隊の「活躍」ぶりにすっかり魅せられて、京都までやって来たという者もいた。

 そんな連中を中心に、私たちのクラスには、入学早々の4月の段階で早くも「先進的」な雰囲気が生まれていた。教室に入ってきた活動家に誘導されて、「クラス討論」というのをやったり、岩波新書の『日本の憲法』という本の読書会をしたりするうちに、毎週のように催されているデモ行進にクラスで参加してみようということになった。



「デモ」の体験

 講義が終わった3時過ぎから学内の大教室で、学内集会が開かれた。活動家たちが次々と演壇に立ち、早口の独特の口調でアジ演説をした。内容は、「世界資本主義の現状」から説き起こし、アメリカ独占資本の野望や日本帝国主義の台頭を糾弾し、それらを粉砕するために我々は立ち上がらなければならない、と鼓舞するものであったが、内容はよく分からなかった。広い会場には人はまばらで、10数名が「クラス参加」した私たちのグループが目立っていた。

 集会が終わると参加者たちは隊列をつくって、「京都府学連集会」という一ランク上の集会が開かれる別の大学までデモ行進をした。先ほどの集会よりも人数は増えていたがせいぜい100人程度で、リーダーのハンドマイクにしたがって、スローガンをシュプレヒコール(一斉唱和)した。四列縦隊で車道の左端を行進するのだが、その横を走り抜ける自動車と接触しないように、腕章を付けた交通警官が何人か横についてきた。

 「府学連集会」では参加者は1000人近くになっていた。私の大学の学生の数も増えていた。慣れた連中は、学内集会はパスして、「府学連集会」あるいはそのあとのデモ出発から参加しているようだった。同じようなアジ演説が別の大学の活動家から繰り返され、いよいよデモの出発となった。

 外に出ると、日はすっかり傾いて薄暗くなっており、人数が増えた分、みんなの気分は昂揚していた。私の大学からの参加者は、会場を提供した大学などと比べるとかなり少なかったが、これまでの「伝統」から、先頭に隊列を組むことになっていた。そのまた先頭の第一列は屈強な上級生たちが受け持ち、彼らは横に渡した1本の太い竹の棒を持っていた。そしてその前に後ろ手にその棒を抱えた数名の「デモ指揮者」が、押してくる隊列を抑えるようにうしろに思いきり体重をかけるような体勢で、「わっしょい」の掛け声とともに、ゆっくりとデモ行進が始まった。

 国道に出ると、大勢の、交通警官ではない警察官が多数待ちかまえていた。それを横目に、デモ隊は左右の者と腕を組み、前かがみに前の列の腰を掴んで、そのまま前方へ突進した。その勢いを、今ははっきりと後ろ向きになった「指揮者」たちが竹の棒を思いきり押し返し、それでも抑えきれないデモ隊の前進する力を巧みに操って、長い蛇が蛇行するようにもっていった。いわゆる「ジグザグデモ」である。国道いっぱいに練り歩くデモ隊のために、交通は完全にストップした。警官隊は、遠巻きにそれを眺め、むしろ自動車の方を規制しているように見えた。そして、「ジグザクデモ」が一段落し、本来の位置に戻ったデモ隊の行進が始まると、警官たちはさっとデモ隊の右側に張り付いた。

 実は、学内集会が終わって、「府学連集会」にいく前、デモがはじめての1回生のために、「ジグザグデモ」のやり方を先輩に教わり、少し練習してきたのだ。しかし、いざ本番となって、やってみると、警官隊を向こうにしての緊張もあったためか、あとでハアハアと息が切れた。その日の指揮者のひとりは、日頃私たちのクラスによく顔を出す1年上の活動家で、「出たばかりの最初のところは黙ってやらせてくれるんや。せやけど本番は四条河原町の交差点。あそこでなんとかやりたいんやけど、なかなかさせてくれへんのよ」と言った。

 すっかり日が落ちた河原町通りを南下して、だんだん繁華街に近づいていくにつれて、人通りも増えはじめ、シュプレヒコールを繰り返すデモ隊の横の歩道を並歩する女子学生たちが通行人に今日のデモの趣旨などを書いたビラを配っていた。そして、明るく輝く繁華街を向こうに控えたひときわ幅の広い御池通まで来ると、その反対側には大きな黒い人垣が待っていた。「機動隊」だった。

 それまでの一列縦隊の警官隊と交代に二列縦隊で張り付いてきた機動隊員は、警官の制服とはちがう分厚い生地の濃紺の「乱闘服」を着用し、同じ生地の兵隊帽のような帽子を被り、登山靴よりも頑丈そうな半ブーツを履いて、そして何よりも体格が大きくて、見上げるような身長、私たちよりも二周り以上もありそうな体重で、みな一様に無表情だった。

 そして、いよいよ四条河原町の交差点にやってきた。デモ隊は歩みを止め、スクラムを組み直して、前かがみに腰を落としはじめた。いつの間にかやって来た警察車両のスピーカーが、「ジグザグデモは公安条例違反になります。やめないと検挙します」と大きなボリュームで連呼する。交差点の歩道は観光客らしい人々も含めた、見物の人でいっぱいになっていた。そんな中、指揮者の笛に合わせてデモ隊が「わっしょい、わっしょい」とジグザグデモに入ろうとするや、乱闘服の巨漢たちがデモ隊の先頭部分に殺到した。彼らは、太竹の横棒を後ろ向きに押して隊列をリードする指揮者を強引に引き剥がそうとするが、そうはさせじとデモ隊もそこに向けて突入して、学生と機動隊の猛烈な押し合いとなった。数で勝るデモ隊を体力で押し返す機動隊。何とか交差点の中央まで突破して、そこを制覇し、交通をマヒさせようともくろむデモ隊。それを何とか押さえ込んでそのまま左折させ、四条通りに流してしまおうとする機動隊。応援部隊を待機させていたのか、さらに増強された機動隊の壁はますます厚く、その衝突の接点では、機動隊員の重い靴が学生の下半身を思いきり蹴っていて、そのうち、ついに指揮者が引き剥がされて、先頭部分が潰れ、ジグザグデモは失敗してしまった。

 隊列が砕けてバラバラになってしまうと、丸腰の学生たちは逃げるしかない。そのまま、機動隊の分厚く高い壁に誘導されるように、道路の左側に押し込められ、蹴られて多分赤くなっているだろう太ももを引きずりながら、シュプレヒコールの意気も上がらず、四条通りを黙々と東進し、解散場所の円山公園に向かうしかなかった。公園に入る八坂神社の石段下のところで、もういちど隊列を組み直して、デモ隊はジグザグデモを試みた。今度は機動隊の壁は緩んで、私たちは、ひととき、ヤケクソのように「わっしょい、わっしょい」とそのあたりを練り走って、その足で公園に入っていった。東山通りは車も少なかったので、お情けで、いくらかさせてもらったようだった。

 公園では全員が集まることはなく、各大学のそれぞれのグループごとに安否を確かめあい、簡単な「総括」のあと、「流れ解散」した。クラスのものはみんな一応無事であったが、蹴られて足を腫らしたほか、衣服が少し破れた者などもいた。興奮はおさまらず、みんな機動隊の暴力に憤っていた。そのあと、すぐに帰宅したのかどうか憶えていないが、ともに「修羅場」を乗り越えたということで、このあと仲のよい友だちになったものがたくさんいる。

 指揮者をしていた例の活動家の姿が途中から見えなくなったが、四条河原町のところで検挙されたそうだった。「二泊三日で帰ってくるよ」と別の活動家がこともなげに言ったが、その通り、3日後に元気に私たちのクラスにアジ演説にきていた。学生が警察に捕まって平気で帰ってくる。こんなところに、高校までとは全然ちがう大学の「自由な空気」を感じ、なぜか感動したものであった。



「授業放棄」そして「ストライキ」

 何らかの「政治的な結集点」、例えば、「原子力潜水艦寄港阻止6.10全国学生統一行動」などと銘打たれた日には、クラス代表の自治委員が集まった「自治委員会」という代議機関で「授業放棄」の議決がなされ、各クラスに、授業をボイコットして、闘争(集会やデモ)に参加するように呼びかけがなされた。それを受けて、クラス単位で議決して成立すると、そのクラスは「授業放棄」して集会やデモに参加することになる。

 もっと大きな問題のときは、学部全体で、学生全員参加の「学生大会」を開いて「ストライキ」の決議が提案され、それが成立すると、この場合は、その学部学生全員が授業ボイコットを強制されることになる。

 ストライキ当日には、ストが破られるのを防ぐため、校門で数十人が腕を組んで「ピケを張り」、一般の学生が構内に入るのを阻止することになっていた。ある時、私たちのクラスも執行部からその「先進」ぶりを見込まれ、私も何人かといっしょにピケ隊要員になったことがあった。鉢巻きを締め、胸を張り、がっしりと腕を組み合って、校門に並ぶのは、晴れがましいというより、気恥ずかしさが先に立った。時には、強硬な反対派が来て、体当たりでピケラインの突破を計ることもある、と言われて少し緊張したが、もはや、慣れっこになったのか、敢えてそんなことを試みる者もなかった。たまにストを知らずに登校して、あからさまに不満をぶつける学生がいたが、彼らに対しては、横に控えた上級生の活動家がうまく説得して帰ってもらっていた。

 私たちのクラスはこのようにかなり「先進的」であったが、これは例外に近かったかも知れない。学部でいえば、文学部のほか、理学部、医学部などが「先進的」で、一方、法学部、工学部は無関心層が多かったようだ。とくに工学部は「高度経済成長」政策の結果、定員が急造して、大学の定員の約半数近くになっていたので、学生のかなりの部分が「先進的」とはほど遠い存在であったと言える。高校の同級生でいっしょにその年に入学したものもかなりいたが、高校時代、私たちがそうであったように、相変わらず学生運動にも政治にも無関心なままの者がほとんどで、そんな彼らは、ピケ隊の一員になっている私を見て、オッ、と一瞬驚いた表情を見せたが、そのうちに、疎遠になっていった。

 考えてみれば、自治会の活動と運営に関心を持って、積極的に「意思表示」し、それを中心となって担っていく「活動家」がいわゆる「左翼」である必要はどこにもない。現に高校までの「生徒会」はそうであった。生徒の身のまわりの要求を集約して学校に要求したり、文化祭、体育祭の運営やクラブ活動の予算の割り振りをしたりするのが本務であって、わざわざ「安保」や「憲法」や「日韓」などで、時の政府に刃向かう活動をすることはないだろう、というのは正論である。しかし、そうはならなかったのは、これまでに至る歴史のためだといえるだろう。

 何といっても戦争である。先の戦争では、学生たちもその身分のまま大量に動員され、戦地に送られたり、内地の軍需産業に駆り出されたりして、多くのものが若い命を失った。そして戦争が惨めな敗戦という結果に終わり、生き残った者たちは廃虚の前で、なぜこんなことになってしまったのか深く反省せざるをえなかったであろう。

 そこから生まれてきたのが、戦争は政治が引き起こすものであるが、戦争中、あるいはそれまで、自分たちがいかに政治に無関心であったか、あるいは無関心にさせられてきたか、その結果、自分たちは無謀な戦争に引きずり込まれたのではないか、という反省ではなかっただろうか。そんな中で、戦争中、長年獄中につながれていた「マルクス主義の政党」が見直され、政治に関心を持とうとする学生たちの中に浸透していったのであろう。私が大学で学生運動に触れた時、奇異に思ったのは、国政選挙では数議席しか獲得できない非力なそのマルクス主義の政党が、大学の中では結構大きな影響力を持っているということであった。



学生運動の諸「党派」

 『日めくりタイムトラベル』のなかでも正確に説明されていたが、戦後、政治的な学生運動をはじめた全学連の幹部はほとんどがその政党の学生党員だった。ということは、上部団体のその政党の「指導」下にあったということだが、おそらくその頃は、学生でない「大人の」その党員というのはまだ少数かつ脆弱で、また大学生の「インテリ度」「エリート度」が現在よりもはるかに高かった時代だから、理論的には「学生の」党員の影響力はかなり高かったはずである。そして、「スターリン批判」や「ハンガリー事件」を通して、ソ連が「社会主義の手本である」という教えに疑問が生まれてきたとき、彼らは、依然としてソ連を信奉する「大人の」党員たちと訣別して、「共産主義者同盟(通称《ブント》=ドイツ語で《同盟》を意味する)」という組織を結成した。それゆえ、彼らは「新左翼」と呼ばれたが、60年安保を闘った全学連の「主流派」は彼らである。

 ブントは、60年安保闘争が終焉したのち、その総括を巡って四分五裂する。その幹部のかなりの部分は、ブントよりも前に「反スターリン主義」を標榜していた「革命的共産主義者同盟(革共同)」というグループに合流したが、そこがまた分裂して、「革命的マルクス主義(革マル)派」と「革共同全国委員会(中核派)」に別れ、その後長く対立がつづくことになる。

 しかし、それらの分裂騒ぎも東京でのことで、関西ではブントは安保後も分裂することなく、「関西ブント」として、関西の「新左翼」運動を担ってきた。安保世代の活動家によれば、「関西には分裂するほどたくさんの活動家はいなかったんや」ということになるが。

 一方残されたその政党系の学生組織はいったん再建されたが、その後も、ヨーロッパの左翼政党の「構造改革」路線を支持するグループが離れ、ソ連と中国が対立するなか、ソ連寄りのグループが離党し、さらにそのあとは中国寄りのグループも離党するなど、次々と身を削られるように離党騒ぎがつづいた。しかし不思議なことに、最後に残った、ソ連にも中国にも距離を置く「自主独立」派が「一枚岩」の団結を確立して党勢を伸ばしていくことになる。ただ、そうした離党劇にともなって、それに連なる学生党員の離党もあり、そういった中には、国文学者で文芸評論家である野口武彦のような個性的な人物もいた。そして残ったのは、上で決められたことをおうむ返しに唱えるだけの頭の固い連中で、またそんな連中でないとやっていけないような、自由闊達を封じられた「信仰組織」のような不気味な組織であった。

 私が入学した頃の、学内のその政党系グループの活動家はブントの活動家と比べて、みんな演説がうまく、やや大人びた感じさえする連中だった。彼らの大半は高校時代から系列の組織での活動経験があり、学生運動に慣れているいわば「練達の士」であって、大学に入ってはじめて「目覚めた」タイプが多いといわれるブントとは対照的だった。

 しかし彼らの大半は、半年後にいわゆるソ連派の離党があった時、いっしょにグループを離脱してしまい、自分たちの小さなセクトをつくり、ブントとも共闘するようになった。そこで私たちも直接彼らの人間性に触れる機会をもつようになったのだが、確かに「練れた」、どこか「人情味」を感じさせる、変な話だが、叩き上げの保守政治家のような雰囲気さえ感じたのを憶えている。実は、彼らの大部分は地元の京都の高校出身で、そんなところも、地方出身が多かったブントとは一味ちがう「洗練」の一因だったのかも知れない。


 ところで、「先進的」であった我がクラスでも、あとで知ったのだが、そういったセクト間のヘゲモニー(主導権)争いがあったようである。当時は、高校生レベルでセクト的組織を持っていたのは、その政党系グループしかなかった。組織といってもその活動は、休日にみんなでハイキングに行って、歌を唄ったり、フォークダンスをしたりする程度だったらしいが、そんな連中が大学に入ってきて、「憲法」とか「日韓」とか生の政治課題を突きつけられ、何らかの行動を迫られたとき、いろいろと動揺があったそうである。その時、あくまでもその上部団体の方針を守ろうとするものもいれば、大学に入ってはじめて接した「新左翼」的なものに惹かれるものもいた。さらには、サークル的な活動はともかく、政治はどうもな、と、腰が退けてくるものもいる。そこへ、他大学ですでに学生運動の洗礼を受けてきた再入学組や、大学に入って、はじめて政治に目覚めたものなどが絡んで、ちょっとした葛藤があったようだが、それはすぐに決着がついた。その頃、自治会の執行部を握っていたブントを支持する勢力が勝ったのである。例の政党系のリーダーだった人物は、その後、授業にも来なくなってしまった。

 その政党系のグループが敗れたのは、先に少し述べたような路線上の争いが、その上部団体の政党にあって、そのため組織がガタガタしていたことも一因だったろうが、それよりも本質的なのは、やはり文学部というところは(今はどうか知らないが)当時は、いわゆる「文学青年」的なタイプが多かった。本を読んだり、詩や小説を書いたり、演劇を観たり、あるいは演劇をやったりするような人間は、「芸術は政治に奉仕するものでなければならない」といった雰囲気を持つその政党とは相容れなかったのであろう。



学生運動の中の「詩人」たち

 事実、その後、私自身だんだんと深入りするにつれて、学生運動の活動家たちや、それを取り巻く「シンパ(同調者)」層の上級生たちと身近に接するようになり、彼らは政治だけではなく、文学や演劇や芸術などにも深い関心を持ち、かつその活動をしているものが多いということを知った。

 毎年11月に学園祭が催された。主催は自治会である。普段は政治的なアジ演説ばかりしている自治会の委員長が学園祭パンフレットの冒頭に気の利いた挨拶の文章を書き、その表紙にはその年のテーマ・スローガンが躍っている。この大学で、学園祭がこのようなスタイルになったのは1959年かららしいが、その年のテーマは「戦後世代の意識の解明」だった。そして、安保闘争の60年は「現代独占資本主義下に於けるサディズムとマゾヒズム」。闘争の昂揚感の名残が感じられるスローガンだ。

 しかしその翌年からは、徐々に挫折感が滲んだものとなってくる。61年「仮眠の季節に送る僕達のあいさつ」、62年「故郷喪失の時代とぼくら」、63年「噛むときは言葉を考えるな」、そして私が入学した64年は「ああ自然死」であった。

 いつごろか忘れてしまったが、大学に入って何年も経ったとき、詩の好きな友人から古ぼけた詩の雑誌を見せられた。当時、『現代詩手帖』『詩と批評』、しばらくして『ユリイカ』という、詩と詩に関する評論を掲載した雑誌が発刊されていたが、それらではなく、たしか『現代詩』というタイトルの雑誌ではなかったかと思う。友人から示されたのは、その中のひとつの詩であった。作者は、清水哲男。私たちの大学の先輩であった。

 タイトルは、のちに詩集にまとめられたときには『唄・一九六一』となっているが、その時のタイトルもそうであったかどうかは憶えていない。すごい詩だよ、という友人に促されてさっと中身に目を通したが、詩に対してはまったく「音痴」であった私にはよくわからなかった。しかしそんな私にも、「眠ること / ひといきに眠ること/ 夢みはしない/ /夢みはしない」というラストのフレーズは印象に残った。たしかその雑誌で読んだときには、「夢は弱者の見るものである」といった内容の、レーニンのことばがエピグラムとして添えられていたと思う。内容はほとんど理解できなかったが、すくなくとも最後のこの4行で、この詩が、60年の安保闘争に敗北した学生の苦い心情をうたったものだということだけはわかった。

 1960年から62年にかけて、自治会やその周辺にいた学生が中心になって『学園評論』という雑誌が発行されていた。これは100ページ近い活版印刷の雑誌で、この大学の学生のほか、他大学の学生や若手の評論家らも寄稿して、政治論、文学論、映画論、詩や小説作品、翻訳などに健筆を振るい、全国の大学生に向けて発信されるという本格的なものであった。清水哲男氏はその初期の頃の編集長だったので、当然、学園祭にも何らかの係わりがあったはずで、61年の学園祭テーマの「仮眠の季節」は清水氏のこの詩と関係があるものと思われた。

 『学園評論』を編集していたグループは安保世代であったが、その志は次の、あの宇佐美斉氏ら「大管法世代」が発刊した『状況』という雑誌に引き継がれた。そしてその次は、というところで、その伝統は断絶する。もはや、学生によってそういう雑誌が発行されることが不可能な時代になったということであろうか。

 もはや、大部分が社会に出てしまった、『学園評論』と『状況』に関係したメンバーが再会して月1回、最近話題の小説を読むという読書会が催されていた。そんな中に、そろそろもっと若い世代の血も入れては、という声があったらしく、私たちが招かれることになった。私たち、というのは、例の先進的な教養部時代のクラスの中の、文学好きな者が集まって発刊していた同人誌『光芒』のメンバーである。『光芒』は同人メンバーがそれぞれの伝手を頼っても毎号、せいぜい100部ほどが捌ける程度の、こじんまりとした小雑誌で、『学園評論』や『状況』とは全然規模もレベルもちがう存在だったが、他にこれというものがなかったのと、学生運動を通じた人間関係から、声がかかったものであろう。たぶん私が4回生の頃で、すでに『光芒』は発行されなくなっていた。ちなみに、私が『状況』のメンバーだった宇佐美斉氏と知りあったのはこのときである。

 清水氏はすでに東京に行って、編集者の仕事に従事されていたが、年に1回ほど、京都に帰ってくることがあって、そんなとき、清水氏を囲んでの宴会が催された。そこではじめて、この、私たちの中では高名な詩人に直接接することになったのだが、そのいかにも詩人らしい風貌と、人をそらさない語り口、幅広い話題に、すっかり魅せられてしまった。

 清水氏は、詩を書く以外に、スポーツや音楽にも詳しく、その方面の文章も多い。清水氏の詩集以外の処女出版は1971年の『スポーツ・ジャーナリズム』(三一新書)ではなかっただろうか。次いで73年には『現代雑誌論』(三一新書)が出版された。読書会の席で、それらの出版の話を聞いて、さっそく買い求めて読んでみた。それぞれ「読み捨て新聞のバイタリティ」「その思想とデザイン」という副題がついていて、スポーツ新聞、競馬新聞、男性雑誌、婦人雑誌、ファッション誌、週刊誌、映画雑誌から少年雑誌、風俗雑誌にいたるあらゆる印刷媒体が縦横無尽に論じられ、氏の趣味の広さ、好奇心の強さに圧倒された。

 また、同じ73年には、『巨人軍死闘十番』(徳間ブックス)も出版されている。これは、戦前のプロ野球草創期から1972年の川上巨人による八連覇達成に至る36年間に於ける、讀売ジャイアンツの名勝負10試合を詳しく論じたものであった。昔のことを本や雑誌などで調べて書いたものもあれば、清水氏自身が、新聞、ラジオ、テレビ、球場でリアルタイムに接したものもあった。いずれにしても、私自身、少年時代に、同じように、新聞、ラジオ、テレビ、雑誌を通じて一喜一憂したものも多かったので、人一倍親しみを持って、読むことができた。

 ところで、『スポーツ・ジャーナリズム』が出た年に、私はいちど東京の清水氏のお宅を訪問している。その頃、私は大学卒業後の仕事を探しているところで、東京に出て、出版社に勤めることに憧れていた。

 出版社は見かけとはちがってその経営規模は小さく、希望者が多い割には採用が少なくて、その競争は熾烈をきわめると言われていた。ただ、小さい出版社ならコネで何とかなるかも知れなくて、そういうところから大手の出版社に移ったりすることもよくあるという話を聞き、片っ端からコネを求めて奔走するなか、例の読書会の先輩で清水氏と仲のよかったある人に、清水氏への紹介状を書いてもらうことができた。もうその頃は、フリーになっておられたが、河出書房などで編集者の経験のあった清水氏なら、何かのコネを持っているかも知れないと聞いたからである。



清水哲男氏とのささやかな交流

 ゴールデンウィークにかかった頃で、ちょうど東京に出て就職していた大学時代の友人を頼りに、東京というところの空気を吸いに、いわば「下見」のような気持ちで上京したある日、その紹介状を手に、私は中央線中野駅の近くにあった、清水氏の瀟洒な鉄筋アパートを訪れた。

 清水氏は、氏からすればまったくの初対面であった私をこころよく迎えてくれた。本題の就職の件については、あいにくだけれど、ということだったが、それはこちらも十分に予想していたことで、それよりも清水氏とじかに話ができるというのが楽しみであった。

 『スポーツ・ジャーナリズム』の他、清水氏がいろんな雑誌に書いていたことから、清水氏が野球では巨人ファン、ビートルズではポール・マッカートニーのファンであることを知っていて、そのことを尋ねると、「ぼくはミーハーだから」と少し照れた顔でおっしゃったのを憶えている。私も音楽が好きだと聞いて、こんなの知ってますか、とあるレコードをかけてくれた。確か、アル・クーパーだったと思う。名前は知っていたが聴いたのははじめてだった。

 ちょうど清水氏が結婚されて間がない頃で、その奥さんというのが私と同年配で、しかも同じ大阪出身だと聞いて驚いた。私とは少し離れた大阪市南部の高校の出身だったが、それでも話は大いに弾んだ。1時間ほどはお邪魔したであろうか、帰り際に、これ持ってますか、と清水氏が手渡してくれたのは、新書判よりもやや大きいサイズの、両側が開いた黒い箱に赤い表紙の『MY SONG BOOK水の上衣』というしゃれた装幀の詩集であった。

 後日、紹介状を書いてくれた読書会の先輩から聞いたところによれば、その詩集は清水氏が結婚式の引き出物につくったものだということであった。清水氏は1974年に、詩集『水甕座の水』でH氏賞を受賞される。時を同じくして、深夜叢書社から初期の2つの詩集を収録した『喝采+水の上衣』が発行されたのを書店で見つけて購入、その冒頭にあった『唄・一九六一』と、約8年ぶりに再会することができた。そして、翌1975年には、チャーリー・ブラウンから鉄腕アトムまで、内外の漫画のキャラクターをタイトルにした詩を集めて話題となった詩集『スピーチ・バルーン』も購入した。それぞれ一応目を通して、なるほど、と感心はしたが、まだ「詩の読み方」が全然分かっていなかったこともあって、清水氏の詩とはそれ以来縁が切れてしまった。私は清水氏の詩にとっても、よい読者ではなかったのだ。

 しかし一方、散文作品については、雑誌や新聞などで目にするたびに、それこそ貪るように読んだ。そして、雑誌『新潮』の2000年12月号、「さらば20世紀」と謳われた、その巻頭に、清水氏の250枚書き下ろし作品『さらば、東京巨人軍』が掲載された。しかも3ページの関連グラビア写真つきで。まるで、清水氏の特集号ではないか。私はその編集の「破格」に驚いた。そして、かつて二度目の倒産寸前の河出書房が、『文藝』の休刊号で、清水氏の「責任編集」による、文芸誌としては異例の「現代詩特集」を行ったのをふと思い出した。

 この作品はかつての『巨人軍死闘十番』の再現のように見えたが、実は、野球をネタにした「自伝回想」小説で、山口県の少年時代から、東京、京都、そしてまた東京での生活を、波瀾万丈のその「外面」だけではなく、そのうちに秘めた「内面」も含めて、縦横無尽に語られていた。そんな内容や形式は、僭越ながら、私自身も何度も試みていたものだったので、勝手に「魂の同質性」を感じながら、一気に読み通したのを憶えている。

 インターネットの時代に入った1997年から、清水氏の『増殖する俳句歳時記』というホームページが始まっている。その時期に応じた一句を400字程度のコメントをつけて紹介するものであるが、毎日更新されているのは驚異だった。その後、2006年からは、清水氏の俳句仲間7人との分担制になって、清水氏は週1回だけになったが、毎回冒頭の清水氏の「つぶやき」は今も毎日続けられている。だから、ブラウザの「待ち受け画面」にこのサイトを入れておくと、毎日、インターネットに接続するたびに、清水氏のその日の「つぶやき」が聞こえてきて、さながら毎日清水氏とお会いしているような気がするのであった。

 さて、その時までに「詩の暗誦」も7編を終了していた。これまで、暗誦しやすいように短い詩ばかり選んできて、いちばん長かったのは、『羊雲』の36行だった。この詩の暗誦には、かなりの時間と労力を費やしたが、その達成は一種の自信となった。それが支えとなって、その倍近い65行の、(8)「唄・一九六一」に挑戦する気持ちが生まれてきた。もうそろそろ「長さ」という制約から解放されて、自分の読みたい詩を暗誦したいと思うようになってきたのだ。

(つづく)



  1. 唄・1961


見つめていると
ぼくの胸に
(くら)い空がひろがっていく
裂目からたれさがるぬれているもの
たとえば
花 唾液のような
指 魚のような

パンを噛る
太陽の無い日曜日
眼のなかを
はしる
いちまいの魚
嘘でもよいから
食べてみてくれ
かつての礫(つぶて)のなかで飲みわけた
記憶のなかの涙という涙を
その透明な頭蓋を
溢れてくる
少女のあしうらの夢で
ぼくは一罐(かん)の水を沸きたたせ
ひときれのレモンをうかべてみたい

だが
美しい夜明けは
遠ざかるばかり
セロリのような神経の束を
ふくらませ
咽喉でせめぎあう
魚のひとむれ
黒い葡萄を押しつぶして
だあれも棲めない
季節が近づく

ある日
ぼくの胸には
魚がながれ
昏い水族館は
しめやかに開館するのだろうか
海を想わせる花を散るのか
唄うたって
みんなが哀しむ
季節の葉脈に
やわらかく太陽が育つのだろうか

魚はしる
魚ながれる
火刑地へ急ぐように
昏い空目指して
ぬれているものを
指でひっかきまわしたように
血を頒けた記憶は
絶望に身をこする
知っているのだ
美しい夜明けは
遠ざかるばかり

カレンダアをめくる手つきで
暗い日曜日を唄うひとたちよ
涙なんかあるものか
ぼくは知らない
花のように舞いおりる
魚のひとむれ
あるいは
殺しても
待たねばならない
眠ること
ひといきに眠ること
夢みはしない

夢みはしない 



【自註】

第3回目はすぐに書けると思っていたが、これが大間違いで、実に半年もかかってしまった。書こうと思っていた題材はちゃんとあったのだが、いざ書きはじめると、なかなかうまくいかず、何度も書き直したりして、やっと一段落のところまで辿り着いた。でも、これでまだ半分。続編の腹案もしっかりあるつもりだが、できるだけ早く手をつけて、やり遂げてしまわないと、またいつになることやら。しかし、一応書き上がった文章を何度も読み直して手を入れていくのは、やはり快感。文章を書く歓びはこんなところにもあるのかもしれない。

(2010.2.15)


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