アナログ処分の日


アナログ処分の日 ~ぼくのビートルズ・後日譚~




 1998年のことである。その年の夏、ビートルズのアナログ・レコードを処分した。

 それらは長らく、他のレコードとともに木製のラックの下の段に並べられていたのだが、その上にはもはやオーディオセットはなく、その代わりにパソコンセットが置かれてからだいぶ経っていた。かつては大阪・日本橋の電器街でもオーディオ製品が全盛だったのに、そのころにはすっかりパソコンに取って代わられていた。その同じ現象が我が家の中にも起こっていたということだろう。

 オーディオをあまり使わなくなってから、世の中はいつの間にか、レコードからCDに切り替わっていた。その少し前に、8ミリ(映画)がビデオに替わった時と同様、あっという間にレコードは姿を消してしまっていた。久しぶりに音楽を聴こうと思ってもCDしか売っていないので、やむなくCDデッキを買いにかつてそのオーディオセットを買った日本橋の店に出かけた。

 パソコン一色の看板に埋もれながらもその店はオーディオ専門店として健在だった。いかにも「叩き上げ」といった感じの、早口の大阪弁をややキーの高い声でまくし立てる小柄な店長も相変わらず元気であったが、店内の客の数は往年の比ではなく、それでも「オーディオ」の看板を捨てていないのは専門店の自負と意地を感じさせて、素直に好感が持てた。だから、単体のCDデッキよりもやや大型のラジカセを薦めてくれた若い店員のアドバイスにもすんなり従うことができた。

 家に帰ってさっそく聴いてみると店員のいうとおりなかなかよい音がする。普通の民家で可能な音量の範囲では、それまでの大仰なコンポーネントに負けないぐらいであった。もちろんCDは聴けるし、ダブルカセットなのでダビングも簡単である。かつて、その道の先輩に付き添ってもらい、いっしょに試聴室で長い時間聴き比べたすえ、ボーナスから大枚はたいて購入した「愛用」のオーディオセットが、粗大ゴミの山の中に消えていったのはそれからまもなくのことであった。

 しかし、ラジカセではレコードは聴けないのでレコードプレイヤーだけは残しておいた。そしてデコーダー(イコライザー)というものを買ってきて、それを通してラジカセに接続して、時々レコードも聴いた。というより、テープにダビングした。その方が使いやすかったからである。

 ダビングが一段落すると、レコードプレイヤーも御役御免になってきて、とうとうその場所をパソコンモニターに明け渡すことになった。こうしてこれまで買いためたレコードは事実上聴取不可能となり、パソコンラックとなったものの安定を図る「重石」役に甘んじることになっていたのである。

 もはや無用の長物となってしまったものを保存しておけるほどのスペース的な余裕はなかったのだが、数年間はその状態が続いた。家人から何度もその処分を迫られたが、愛着というより、どう処分してよいのか、その方法がわからなかったためといってよいだろう。

 オーディオセットのように、粗大ゴミに出すことも考えた。しかし、いつも回収前にハイエナのごとく目ぼしいものを求めて集まってくる廃品業者たちのひとりがあるときだれかに、「古いレコードなんかありまへんか」というのを耳にして、惜しくなるというより、なにか大切なものを凌辱される気がして、いっぺんにその気がなくなってしまった。

 音楽好きの知人の何人かに引き取ってもらえないかと打診してみたが、みんなとっくにCD化を済ませていて、もう結構ということであった。しかしそのひとりから、梅田に行けば古本屋のように中古レコードを売買している店がある、ということを教えてもらった。そして何かの用事で梅田に行ったついでに地下街の中を捜して、そういう店が軒を並べている一角を見つけ、そのうちの一軒に入った。

 いったいどれほどの値段で取り引きされているのだろうか、とレコードをパラパラと繰りかけたとき、ふと、ひときわ大きな文字で「高価買入」と書かれた張り紙が目に入った。その大きな文字に促されたように、私はついそのままふらふらと店のカウンターに近づいていて、おそるおそる、レコードを処分したい旨を告げていた。

 40歳そこそこに見える、もじゃもじゃ頭の無精ひげを生やした店主は、古本屋のそれと同じく、見るからに気難しそうな雰囲気の人物だったが、私の申し出をいかにも迷惑そうな表情で聞き流し、こちらの顔も見ずに、どんなものがあるんですか、と尋ねた。そこで私はこんなこともあろうかと用意周到に書き留めておいたレコードリストを店主に見せた。

 自分の買ったレコードの枚数を数えたのはこのリストをつくったときが初めてだったが、そのLPアルバムの総数は62枚(2~3枚組も1枚と数えて)だった。

 まるで死児の齢を数えるようだが、その内訳をあげておくと、ビートルズ12枚、およびジョン・レノンらメンバーの個人アルバム6枚、ビル・ヘイリー、チャック・ベリー、リトル・リチャード、エルビス・プレスリーとロックンロールの軌跡をたどったものが6枚、ローリング・ストーンズ3枚、それら以外のロック7枚、ボブ・ディラン4枚、クラシック19枚、ジャズ3枚、その他2枚、の計62枚である。このリストにさっと目を通すや、店主はにわかに興味を抱いたようで、なんと、お宅に伺って見せてもらってもいいですか、と言ったのである。たちまちのうちに約束ができ、その2日後に彼が本当に我が家にやってきた。

 あとから思えば、私も少しうかつであった。店主の重そうな腰を上げさせたのはリストの中のどの項目だったのか、そしてそれらの市場価格はいかほどであろうかを事前に十分調べておくべきであったのだ。わざわざ店頭まで出向かなくとも、インターネットで探せば、情報は十分に得られたはずである。また、売却する前に、まだテープにダビングしていなかった曲を、またぞろレコードプレイヤーを引っ張り出して録音する必要もあった。しかし、そんな暇(いとま)もなかったのは、当初、1週間後に設定されていた店主の来訪が、向こうの都合で急遽繰り上げられたためであった。のちに、それは、要らぬことを考える暇を与えまいとする相手のしたたかな作戦だったのかもしれない、と地団駄踏んだがあとの祭りであった。

 にわかに片づけられた応接間で、店主はレコードを1枚1枚ジャケットから取り出して電灯の明かりにすかして確かめながら、なにやら分類して脇に重ねていった。そして、どんなもんでしょう、という私の問いかけに意外に人なつっこい表情で、なかなか珍しいものです、保存状態もいいし、と感心してみせた。

 思い起こせばこの中でいちばん最初に買ったのが、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツクラブ・バンド』で1968年のことであった。とするとちょうど30年前で、いいかえれば30年間ずっと保存されていたことになり、これはちょっとした値打ち物である。ビートルズはいまでもそのCDがよく売れているようだが、私のレコードはビートルズがまだ現役で活動していた時期の、いわばリアルタイムのものばかりであった。

 ビートルズのレーベルは今でもAppleであるが、林檎の外側と中身をあしらった図柄で有名な、このアップル・レーベルになったのは1968年の年末に発売された、2枚組みの『ザ・ビートルズ(いわゆる「ホワイトアルバム」)』からである。それ以前の、日本では東芝レコードから発売されていたレーベルはOdeon(オデオン)というものであった。そして、レコードはジャケットケースの中に、ビニールではなく、東芝発売のいろいろな洋楽アルバムの広告を満載した紙の袋に入っていて、そのかたすみにはいつも、「埃がつかないEver Clean 」(たぶんevergreen のもじりであろう)と書かれていたのを覚えている。店主に、このオデオンというレーベルは値打ちがないのか、と問うと、彼はそれには直接答えず、この赤いのがいいのです、きれいでしょう、と言った。

 ビートルズのアナログ・レコードに「赤盤」というのがあるのを私はその時初めて知った。たしかに取り出して明かりにかざしてみると、その赤色が映えて見える。その「赤盤」がなぜ値打ちがあるのか、うかつにも、その時私は詳しくは聞かなかった。思い起こせば、この時の私の行動は「うかつ」の連続であった。今更、いちいち思い起こしていくのも心が痛むので、結論を急ごう。

 幸か不幸か、その時のメモが今でも残っている。それによると、私のコレクションの中で「赤盤」は『ステレオ!これがビートルズ Vol/1(英語タイトルはPlease Please Me)』『ビートルズがやって来る、ヤァ!ヤァ!ヤァ!(英語タイトルはA Hard Day's Night)』 『ヘルプ』『ラバー・ソウル』『リボルバー』 『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』『アビー・ロード』の7枚で、店主がつけた値段は1枚2,500円だった。それ以外に、1,500円ついたのが、ジョージ・ハリスンが主唱し、ボブ・ディラン、ラビ・シャンカールらが参加した『バングラ・デシュのコンサート(2枚組)』と3枚組の『チャック・ベリー大全集』の2つだけで、それ以外はビートルズといえどもせいぜい1枚500円止まりであった。総額は32,500円となっている。

 その時の私の感想は、何しろ、知人に無償で提供してもよい、あるいは粗大ごみでも、と思っていた位だったから、これは思わぬ収入だな、と思っただけだった。事前に少しでも調べておれば、店主の言い値に易々と乗ってしまうこともなかったのに、その時はそんなゆとりもなかった。ただ、いざ、手放すとなって、これまであれほど厄介者扱いしていた家人が、何か動物的な勘でも働いたのか、今、全部売らなくてもいいのでは、と言い出したのにはちょっと驚いた。

 しかし、もう処分すると決めていたし、そうなると、できるだけ早く厄介払いしたい気が先行し、さらに、わざわざここまで来てもらっているのだし、という気兼ねも働いて、あたふたと、売却に同意してしまった。

 店主は支払いを済ませて、私から領収書を受け取ると、手際よく準備していた、キャスター付きの簡易バックに買い取ったレコードをていねいに収納して、そそくさと帰っていった。玄関まで彼を送っていくと、彼は曲がり角で振り向いて、いかにもうれしそうな顔でお辞儀をした。その時突然、とんでもない事をした、という激しい後悔の念に襲われ、さっと顔が紅潮して、汗が全身から噴き上げてきた。思わず駆け出して、すぐに今売却したレコードを取り戻したい衝動に駆られたが、さすがに思いとどまった。

 しばらくは、落ち込んだ気分が続いた。遅まきながらインターネットで調べると、赤盤に1万円という値段がついていた。もちろん新品ではない。「保存状態良好」などとあったので、2,500円だった私の赤盤と大して変わらないものであろう。とすれば、私の赤盤も何処かで1万円の値札がついて、売り場に並んでいるのかもしれない。

 惜しいことをした、というより、その私の赤盤はいったいどういう人が買うのだろうか、と思った。というのは、私がビートルズのレコードを買ったのは、もちろんそれを聴くためであって、大切に保存しておくためではない。それに、当時はステレオセットなどは高価で手の届かないものだったので、最初はラジオにつないで聴く数千円のレコードプレイヤーで聴いていた。針はダイヤモンドではないし、針圧(ということばもその頃は知らなかったが)もかなり重かったにちがいない。そしておそらくはどのレコードも数百回は聴いていたはずだから、当然レコードには痛みが生じていたはずだ。中にはやや耳障りなジリジリという雑音さえ入っていたものもあったと思う。

 それらが2,500円としても、買ったときの定価2,000円を上回っているのだから、別に損をしたわけではない、それにどうせ持っていても聴けないのだから、とある時、言い訳めいた口調で、知り合いのビートルズファンにおそるおそる報告すると、彼はやや遠慮がちに、でも持ってるだけでも楽しいじゃないですか、と言った。

 そうか、「骨董品」ということか。いくら消耗品とはいえ、あれだけ売れたレコードだから、世界中で大量に保存されていたはずなのだが、レコードからCDへの劇的な切り替えという事態があいだに挟まったために、もはや無用の長物と見なされて大量に廃棄され、その結果、僅かに生き残ったものに希少価値が生まれたのであろう。さらにはそこに、日本の東芝音楽工業のみが一時期(1960年代)製造していた帯電防止付きEverCleanの「赤盤」という付加価値も付け加わって、さらに希少性を増したものらしい。要するに、例えば、テレビの「開運!なんでも鑑定団」という番組にゲストで呼ばれたとしても、堂々と持っていける程度の値打ちはあるかもしれない。そこまでいかなくとも、人に見せびらかせて、うちにも昔は何枚かあったんだがなあ、と口惜しがらせたりすることはできたであろう。

 こういう《物神崇拝(フェティシズム)》の世界に嵌まっていくときりがない。

 ビートルズのLPレコード以外に、シングル盤(45回転のEP盤、真ん中の穴が大きいのでドーナツ盤とも呼ばれていた)も何枚か持っていた。後期の、LPに入っていなかった「レディー・マドンナ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」の他、中期の『ビートルズ・フォー・セール』に収められた「ミスター・ムーンライト」「ノー・リプライ」「ロックンロール・ミュージック」など10枚近くあったと思うが、それらはジャケットに若気の至りの落書きをしたりしていたので、売却リストからは除外されていた。

 そんな中の1枚で、たしか、「のっぽのサリー」と「カンサス・シティー」が裏表に入っていたものだったと思うが、レコード盤に貼ってあるラベルが間違って、裏表とも「カンサス・シティー」となっているものがあった。ひょっとすれば、こんなのも「珍品」として値打ちが出ているのかも知れないと思うのだが、残念ながら、その他いろいろなドーナツ盤と一緒に収めた段ボール箱ごと、何度かの引越の最中に紛失してしまった。

 また、「ホワイト・アルバム」は、私がビートルズを聴き始めて最初の新譜レコードで、発売前から予約して購入したものであった。それにはジャケットの表に「通し番号」が打ってあって、たしか、Aの........とか、かなり若い番号だったはずである。「通し番号」そのものもその後なくなってしまったようなので、今から思えば貴重なものだったかもしれないが、これも友人に貸したきりになり、そのまま遠くに行ってしまったので、その後、輸入盤で買い直したが、それは処分時は500円であった。

 さらに、一番最後に発売された『レット・イット・ビー』は、最初、1枚なのに、分厚いケースに入って2枚分の値段の4,000円で発売された。その分厚い正体は、映画にもなった収録場面の「写真集」であったが、さすがにひどい商法だったので、まもなく、1枚2,000円の普通のレコードになった。初版で購入した私は、もちろんこの「写真集」付きのを持っていたが、そのケースはボロボロになったので処分し、写真集だけは今も持っている。その存在は例の店主でさえ知らなかった。

 まあ、言ってみれば、只の「年の功」にすぎないものであるが、こうしたものでも、几帳面に保存しておれば、場合によるとちょっとした「財産」になったのかもしれない。要は、その保管するスペース的な余裕があるか否かで、あって、「骨董品」の神髄は、「蔵」の存在によって担保されているといえるであろう。


 さて、ビートルズのアナログ・レコードを手放してしまってからほぼ10年が経った。その間にも、後日譚として思い起こすべきことはいろいろありそうだが、それは稿を改めてのこととしよう。


(2007年12月30日・脱稿)


自註:

 「新規書き下ろし」といいながらも、前半部は実は1999年、「アナログ処分」の翌年に書き始めたものである。その後、長い中断があって、今回やっと、それなりの「完結」を与えることができた。と言っても、結語にあるように、この続きはまだまだいけそうでもある。 


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