わがデジタル創世記(ネット版)
Part 3
第10章 デジタル生活、その後
「iWeek」というイベント
1997年12月に大阪ドームで催された「MacFan Expo in Kansai '97」というイベントに参加したことは「第5章」で述べた。その後、あのときほど大規模ではないが、似たようなMacユーザーのための行事が催された。「iWeek(アイ・ウィーク)」というイベントである。
「iWeek」は、大阪電気通信大学の魚井(うおい)宏高教授をはじめとする関西のMacユーザーが中心となって、1999年5月1日から4日間、大阪桜宮の大阪アメニティーパーク(OAP)という高層ビル内で開催された。Macユーザーグループの展示やベンダー各社のプレゼンテーションのほか、講演会もあって、そこには、Appleジャパンの原田永幸社長や、Mac雑誌・Mac Fanの滝口直樹編集長らが来演していた。
この催しはとても人気を呼び、その後、会場を大阪京橋の大阪ビジネスパークに換えて、2003年まで、毎年5月のゴールデンウィークに開催された。
私は、毎回、開会日に参加し、毎年律義に来阪する原田社長の「基調講演」を聴いた。2001年には、発表されたばかりで、まだ店頭にも出ていない、新しいデザインの「白いiBook」を携え、「本邦初公開です」と言って、みんなに見せてくれたり、また2003年には、講演の聴講者全員にApple製のプレゼンテーションソフト「Keynote」を気前よく無料で進呈してくれるなど、Apple社としてもこのイベントをとても重要視しているようだった。
「iWeek」での講演会の会場
「iWeek」の名物として、Mac機器のコレクターとして有名な立野(たての)康一氏の初期からの珍しいAppleコンピュータのコレクションが、「Macintosh博物館」と銘打って、どれも現役として今も正常に動く状態で展示されていた。
そこには、立野氏と交遊があるという、『ルパン三世』の作者、モンキー・パンチ氏のイラスト入りのサインが記されていた。そして、そのモンキー・パンチ氏ご自身が、ある年、催しのゲストではなく、1ユーザーとして「iWeek」に姿を見せていたこともあった。
「ルパン三世」のイラストが描かれた立野氏のMac
立野康一氏(左)とモンキー・パンチ氏(右)
休憩時間に一服するモンキー・パンチ氏(中央)
また、各ユーザーグループのMacに精通したパワーユーザーたちが各種の相談に応じてくれる「Macよろず相談室」というコーナーも人気を集めていた。
この頃、私はフロッピーディスクの70倍の100MB(メガバイト)の容量を持つ、Iomega(アイオメガ)社のZip(ジップ)というディスクをデータ保存に愛用していた。
ところがあるとき、その中のデータが、何かの拍子に消失してしまうという「事故」が起こった。それまで何年も使ってきて、そんなことは一度もなかったので狼狽した。折りしも、その年の「大学進学データ」をゴールデンウィーク中に家に持ち帰って整理しようとしていたときなので、大いに動揺し、ちょうど、「iWeek」が開かれているときだったので、あの「よろず相談室」のことを思い出し、翌日、朝いちばんに駆けつけた。
「相談室」では、持ち込んだZipのディスクとドライブ機器をMacにつないでいろいろと試してくれた。確かにディスクを差し込むたびにデータが一部消失することが確認できたが、その原因は分からなかった。とにかく、しばらくは、この機器を使わないことですね、というのが、長い時間を掛けたていねいな応対の結論だった。
唯一の頼みの綱にも見放され、お先真っ暗の暗澹たる状態に落ち込んだが、大切な資料なので、なんとかしなければならない。学校で使っていたMacにいくらかデータが残っているかもしれない、とその足で休日の学校に向かった。
誰もいない職員室の片隅にあるMacの前に座って、その中を浚(さら)って、いくらかのデータを回収することができたが、十分ではなかった。困り果ててるときに、思いがけない人物が現れた。「第6章」の中頃に登場した、「神の手」を持つパワーMacユーザーのY君が、同級の、こちらはWindowsやUNIXに精通しているI君といっしょにやって来たのだ。
ゴールデンウィークで大学の方もひと休みとなって帰省したので、久しぶりに学校を覗いてみたとのことだったが、彼らの近況を聴く間もなく、今陥っている苦境を訴えた。
すると、Y君は、「Zipなんてフロッピーと同じ磁気ディスクですから、脆弱なもんですよ。これからは、CD-Rにしなければ」などと言いながらも、I君といっしょに、壊れたZipの中身を、私にはよく分からない方法でいろいろと解析し、何とか、そのデータを救出できないか、長い時間、頑張ってくれたが、今回は『神の手」は働かなかった。
結局、失われたデータは、もう一度、旧高校3年の担任の先生方に頭を下げて、手許に残った手書きのいろいろな資料を見せてもらって、ある程度、支障のない程度まで回復することができたが、デジタルデータの「脆さ」と「バックアップ」の必要性を文字通り、痛いほど痛感したのだった。
「情報教育研究会」
ところで、2003年に、高等学校で「情報」という教科が新しく設けられることになった。
それに向けて、1999年、大阪府内の公立・私立の高校教師を対象に、「情報教育研究会」という組織が発足、学校にも案内が来たので、5月、南大阪あびこにある「府立教育センター」で開かれた設立総会に出席してみた。
会場には、府立高校を中心に大勢の教師が参加していて、その中には、府立高校の数学教師になった教え子の卒業生がいたり、驚いたことに、私の高校時代の同級生が今や校長となって、この研究会に起ち上げにいかに尽力したかを挨拶で力説していた。
しかし、この会の目玉は、その前年、NHK教育テレビで、学校でのインターネットの活用について10回にわたって放映された『実践インターネット講座』の講師を務めた静岡大学の永野和男教授の講演だった。
私は、この放送をテキストを買って、毎回観ていたのだが、その日の講演は、そのときよりももっと噛み砕いた、より突っ込んだ内容でとても感銘を受けた。そこで、学校に帰って、職員会議でこの日の報告をし、本校でも「教科・情報」の取り組みの準備をすべきだと主張して、その「準備委員会」の設立案が可決された。
各教科の代表、および有志の希望者によって構成された委員会のメンバー全員に、学校からNHKの『実践インターネット』のテキストを買ってもらって配布した。そのテキストには、その頃急速に広まり始めていた「インターネット」の仕組みの説明や、それを学校で活用するためのヒントがいっぱい書かれていたからである。
NHK「実践インターネット講座」のテキスト
「情報教育研究会」では、その年の10月、および、翌2000年5月に、大学の「情報科学」の専門家も交えた大規模な「勉強会」が催された。私の学校内では、まだ議論が盛り上がっておらず、出席したのは私だけだったが、その会合のあとには「懇親会」が持たれ、そこではたくさんの収穫があった。
「情報教育」といえば、もちろん、コンピューターがメインとなるのだが、そのシステムはどうなるのか、すなわち、Macを使うのか、Windowsを使うのか、ということである。
そのことについては、直接、誰も触れることはなかったが、当時の世間の趨勢として、Windowsを使うのが当然だろうというのが暗黙の了解のように見えた。そんな中、私があえて「情報教育」に関心を向けたのは、その導入に当たってヘゲモニーを握り、何とかMacでできないだろうか、という思惑があったためだったが、こういう会合に出席すると、そんな「野心」などまったく通じないような空気に圧倒されるばかりだった。
しかし、昼が終わって、夜の懇親会の席につき、初対面の先生方と杯を交わすうちに、アルコールの勢いも借りて、「やはりMacでは無理でしょうか?」と呟くと、ある先生からこんな声があがった。「職場ではWindowsですが、家ではMacを使っています。そんな人は多いですよ。現に、Y先生もそうです」
Y先生というのは、この「情報教育研究会」の事務局長を務めている、事実上トップの先生だった。そこで、私はさっそくビール瓶を携えて、Y先生のところへ挨拶に行った。
「Macはずうっと前から使っていますよ。やっぱり使い心地が全然違いますからね」
そう屈託なく応えるY先生のまわりには、「Apple II」の頃から使っています、という「強者(つわもの)」の先生らが何人も集まっていた。
「こういうご時世だから、今はしようがないけど、いつかMacの時代が来ると、ぼくは信じている」と、声高らかに宣明したY先生は、大塚商会のMac担当のS氏を紹介してくれた。
教えてもらったアドレスにメールすると、さっそくS氏から返事か来て、後日、大塚商会主催の「Appleセミナー」や、MacとWindowsをうまく共存させている兵庫県のS女子学園の見学会などに行って、Macについての最新の情報などを知ることができた。
しかし、「情報教育」の方は、その後、研修+レポートで「情報」の当面の「教員免許」を取得できるのは、「数学」「理科」「家庭」「商業」「工業」「農業」「水産」の免許所有者だけに限られるということになってしまった。「英語」教師などは、指定の大学に通って、膨大な単位を取得しなければならず、事実上、取得は不可能になってしまった。
「情報教育研究会」でも、この措置には反発する声が沸騰したが、そのときの「勉強会」の講師に来たある大学の教授によれば、「情報教育」に関係する学会に、「日本教育工学会」と「情報処理学会」のふたつがあって、「プログラミング」などを重視する後者が強引に「理科系」の方向に引っ張っていったとのことだった。これでは、「情報」の「文化的側面」がおろそかになってしまうではないか、と強い憤りを感じたが、どうすることもできず、それまで営々と築いてきた「ヘゲモニー」をWindows系の数学の先生に明け渡して、撤退するしかなかった。
「AUGM大阪」
2009年になって、Apple のユーザーたちが集まるイベントがあることを知った。Apple User Group Meeting(AUGM)という会合が全国各地で行われており、大阪でも「AUGM大阪」というのが、10月にあるというのをインターネットで知って、JR福島駅前にあるMicrosoft大阪支社まで出かけていった。Appleユーザーの会合が、ライバルのMicrosoft社で行われるのは不思議だったが、Microsoft社はWindowsだけではなく、看板商品のExcelやWordなどのソフトのMac版も発売していて、そのセクションの担当者もこの会に出席しており、その縁で会場となっているようだった。
2010年5月の「AUGM大阪」のポスター
「AUGM大阪」会場の模様
関西のさまざまなユーザーグループの人々が集まって運営しており、あの「iWeek」の仕掛け人だった魚井(うおい)宏高教授らが毎回、最新のMac情報についての講演をするのが売り物だった。「iWeek」とはちがって、Apple社が直接関わることはなく、Macの周辺機器を製造・販売しているさまざまなベンダーの人たちが入れ替わり、立ち替わり新製品のプレゼンテーションをし、休憩時間にはそれらを割引価格で販売していた。
いつも最後に「じゃんけん大会」というのがあった。担当の魚井教授を相手に全員が一斉にじゃんけんをし、魚井教授に勝った者だけが残って、最後まで残ると、各ベンダーさんが提供した賞品がもらえるというものだった。1回もらうと、10回ほどあとに「リセット」が掛かるまでじゃんけんには参加できない仕組みで、賞品はかなりたくさんあったので、誰もが、なにか1つか2つはもらえるようになっていた。
私もそこではいろんな物をもらった。USBメモリとかバッテリーパック、いちど、魚井教授がアメリカのApple本社の売店で買ってきたというAppleロゴ入りの真っ黒なTシャツという難物を勝ち取ったこともあった。そのほか、「防水スピーカー」というのが当たったことがある。
これは、その中にiPodなどを入れて密封すれば、風呂場の壁に掛けて、からだを洗いながら音楽などを聴くことができるというものだった。そんなものをもらったと、後輩の生物の先生で、「第6章」の後半に登場した、モバイル機器の先導者・T氏に伝えると、彼は即座に「じゃあ、生活ががらりと変わりますね」と言った。
そのときは、その意味がまったくわからなかったが、しばらくして、自分の生活の一部が激変しているのを知った。
私はその4年ほど前から、入浴中、「詩」を暗唱するのを日課としてきた。ただぼんやりと湯に浸かっているだけではもったいないので、この際、苦手な「詩」でも憶えてみようかと思ったのである。
はじめは、14行の詩でもなかなか憶えられず、完全に暗唱できるまで何週間もかかったものだが、そのうちに慣れてきて、「塵も積もれば...」の諺どおり、長い年月のうちに30編以上も暗唱できるようになった。なかには100行に及ぶものもあり、英文や仏文の詩もあった。
ただ「六十の手習い」の悲しさ、若い頃と比べて記憶容量が激減していて、新しく憶える尻から古い記憶が消えていくということを繰り返し、すこし疲れ気味になっていた。そんな折りに、浴室用の「防水スピーカー」が闖入(ちんにゅう)してきたのだから、たまらない。たちまち、それが奏でる音楽にのんびりと浸(ひた)ってしまうようになってしまった。
風呂場の壁に掛かった「防水スピーカー」
「AUGM大阪」に初めて参加した2009年当時、「Podcast」というものはまだ知らなかった。
これは、インターネットを通じて、「音声データ」を送信する仕組みで、「Broadcast(放送する)」の語源が「(放送電波を)Broad 広く cast 投げ放つ」であるのをもじって、「(放送データを)pod (= iPodに) cast 投げ放つ」すなわち、「iPodに放送データを送るもの」という意味を込めて、Apple社が名づけたと言われている。
その「放送データ」は巨大な放送局でなくとも、各個人が自分で作成し、それをAppleのiTunesというソフトを通して、全世界に発信することができた。そして、すでにそれを利用して、さまざまな「放送」が配信され、このAUGM大阪にも参画しているグループの、山村和久さんという人が、あの魚井教授らといっしょに、「Apple News Radio ワンボタンの声」という番組をやっているのを知った。
家に帰って、さっそくその放送をダウンロードし、以後、週3回配信されるその番組を聴くようになった。それ以外にも、「Appleクリップ」「Appleるんるん」「天王寺Appleクラブ」「うどんちゅるちゅる」「Apple Accent」など、Apple関連の番組を次々と聴取するほか、東京のTBSや文化放送など大手放送局が、人気番組の一部をPodcastで配信しているのもあったので、そんな番組もダウンロードして、浴室の防水スピーカーで聴くことも多くなった。
電話ぎらい
私は、「電話」というものが、あまり好きではない。遠くの人とも簡単に話せるのは確かに便利で、商売や仕事をするうえでは不可欠なものだろう。
何か用事があって、こちらから掛ける分には好いのだが、だれか知らない相手からとつぜん掛かってくるのが嫌なのだ。不意に、何時いかなる時でも、こちらの都合などまったく度外視して、ズケズケと「平穏な日常」に割り込んでくる、その「無遠慮さ」がたまらないのである。
それと比べると、「メール」というのはありがたい。いつでも好きな時に、こちらの都合の好い時を選んで開くことができる。そして、郵便とはちがって迅速である。
だから、私はパソコンでインターネットを使うようになってから、「メール」を愛用してきた。電話とちがって、内容が文章として保存されているのも好都合。自分の発信文も記録されているので、手紙よりも便利だ。
携帯電話というものが普及し始めたのは1990年代に入った頃だったろうか。勤め先の高校の修学旅行の引率についていったとき、旅行会社の添乗員が使っていたのを覚えている。私の妻が携帯電話を持ちたいと言い出したのは1995年、長男の高校受験の年で、合格発表の結果を勤務先でいち早く知りたいというのが動機だった。
私は携帯電話のことは全然知らなかったので、それに詳しい知り合いに頼んで買ってもらった。「関西デジタルホン」という会社のものだったが、その会社はその後「J-フォン」「ボーダフォン」と名前を変え、現在は「ソフトバンク」になっている。
その長男が大学に入ったときに、彼も同じ会社の携帯電話に加入、さらにその数年後、その妹も加入して、彼ら3人の携帯電話の名義は私になっているのに、私だけがいつまでも持っていないのは家族間の連絡にも不都合だということで、私もやっと携帯(電話)を手にすることになった。2006年のことだった。
携帯は確かに便利だったが、料金が普通電話の何倍もしたので、長話には使えなかった。そして、2年後の2008年には「iPhone」が発売され、その翌年には、同僚のT氏がさっそく、iPhone 3GS というのを購入していた。iPhoneはただの携帯電話とちがって、インターネットに繋がり、またいろんなソフト(アプリ)をインストールして使うこともできる、「携帯用のパソコン」といえるものだった。
私は、その同じ頃、iPod touch(第3世代)というのを購入した。これは、iPhoneの前身にあたるもので、これに電話がついてiPhoneとなったのであったが、電話回線ではなく、屋内の無線通信システムの「Wi-Fi(ワイファイ)」を通じて、インターネットに接続することができた。その頃すでに、職場にも、自宅にもWi-Fiが通じていたので、高い「データ通信料」が必要なiPhoneを使わなくても、これで十分だと判断したのだった。その6年後に買い替えたiPod touch(第6世代)ではカメラも付いていたので、iPhoneがなくても、このiPod touchと普通の携帯の2台持ちで十分やっていけたのである。
iPhoneが切り拓いた世界
iPhoneの発売はパソコン業界の勢力図に大きな変革をもたらした。この小型パソコンのような携帯電話は「スマートフォンSmart phone(利口な電話)」、日本では略して「スマホ」と呼ばれ、さらにGoogle社が、同工異曲の「アンドロイド」というシステムを起ち上げ、Apple社以外のメーカーにも「スマホ」生産を可能にする道を拓くと、たちまちのうちに「スマホ」が世界を席巻し、それまでの携帯電話は、特定の地域だけで進化し続けている絶滅危惧種という意味を込めて「ガラパゴス携帯(ガラ携)」と揶揄されるようになっていった。
いちど「ガラ携」の機種交換をしていた妻は、3度目の2012年10月にはスマホにしたいと言い出し、iPhone 5 を購入した。友人たちがスマホに切り替えはじめたためのようだった。その後、妻は無料で電話が掛けられるLINEに加入し、その機能を通じて、友人やボランティア仲間たちと連絡網をつくったり、iPhoneを使った「ノンキャッシュ」で買い物をしたりとか、女性特有の「電話好き」の本領を発揮して、どんどんと「スマホ生活」に嵌まっていった。
世の中全体がそんな具合で、電車の中で、新聞や本を読んでいる人はほとんど見られなくなった。みんな、何を見ているのか、スマホを開いている。その中には、おそらく、これまでパソコンなど触ったことがないような人が大勢いるのではないだろうか。パソコンはなくとも、スマホや「タブレット」で、その代わりを十分できるようになってきて、スマホは使いこなしても、パソコンは使ったことがない、という若者さえ増えはじめているそうだ。パソコンは、その最大の使い道だった「インターネット」の役割をスマホに譲ったあと、かつての、マニアやヘビーユーザーたち専用の機械に戻って行きつつあるのだろうか。
こうなってくると、パソコン界の雄・Microsoft社の影が薄くなってくる。とはいっても、業務用パソコンの大半を抑えているので、社運が傾くということはなかったが、時代の波から外れつつあるのは否めなかった。2010年に、遅ればせながら、Windows Phone というシステムを売り出したが、先行するiPhoneやアンドロイドには太刀打ちできず、その後、事実上、撤退を余儀なくされている。
Apple社が元来、ハードウェアとしてのパソコン機器メーカーだったのに対して、Microsoft社は、パソコン上で動くソフトウェアを開発する会社で、当初、Apple社のパソコン用のソフトをつくったりしていた。
その後、IBM社が製作したパソコンで動くOSとして「MS-DOS」の売り込みに成功、さらにMacを真似してつくったWindows を発売して、大ブレイクしたのだったが、そのWindowsを動かすパソコンは、自社ではなく、日本では、NEC、東芝、富士通、ソニー、シャープなど、海外では、Hewlett-Packard、Compaq、Dellなどの会社がつくっていた。
その経営戦略は、Windowsを広めるのには大いに貢献し、先行のMacを駆逐して、Windowsの「世界制覇」を達成したのだったが、近年のように、パソコンの世界そのものが地盤沈下しはじめると、それら世界中のパソコン機器メーカーが撤退、もしくは魅力的な「新機種」を発売する意欲を減退させていくことになり、それはMicrosoft社にはどうすることもできないことだった。
一方、一時は倒産寸前にまで追いつめられていたApple社は、20世紀末にスティーブ・ジョブズが復帰した頃から、明らかな立ち直りを見せ、Microsoft社とは対称的に、意欲的なハードウエアを次々と発売、そして、iPhoneやiPadなど、新機軸の製品の開発にも成功していった。
「パソコンの地盤沈下」は、Apple社といえども例外ではなく、その売り上げは、iPhoneなどと比べて「激減」していたが、それでも、より高速なパソコンを追求して、CPUを、「Power PC」から「インテル」に乗り換え、さらには、「Appleシリコン・Mシリーズ」へと進展させるなど、魅力的な新製品を次々と発表し続けている。
こんなApple社の「立ち直り」を象徴する出来事が、2004年に起こった。東京大学のECCS(教育用計算システム)にMacが導入されたのである。Mac-OSは、学術世界で使われているUNIXと親和性があり、また、「ブートキャンプ」という機能を使ってWindowsにもアクセスできる、ということなどが評価されてのことだった。東大の大学生協でも、Macのパソコンが推奨商品となったとのことだった。
その後に買ったMacパソコン
このように、Apple社の業績はMicrosoft社を凌駕するまでに上昇したが、その原動力となったのはiPhoneだった。ところが、私はずっと、iPod touchとガラ携との2台持ちを続けていたので、その後「Apple Watch」なども登場するAppleの「新展開」からは、まったく「蚊帳の外」の状態となってしまっていた。年に3回ほど開かれる「AUGM大阪」には、ほぼ毎回参加していたが、その中の話題もiPhoneが中心となっていて、私の楽しみは、最後の「じゃんけん大会」と、ときたま出席する「懇親会」のみとなっていた。
そこにさらにあたらしい状況が付け加わった。2006年に満60才を過ぎた私は勤務先の学校を定年退職することになった。その後、「嘱託」として、授業だけを担当する「非常勤講師」に採用されたが、収入は激減、それにともなって、私の「小遣い」も一挙に寂しいものとなってしまった。もうそれまでのように、気軽にApple製品を購入することはできなくなってしまう。そんな中、最後の「大きな買い物」のつもりで2010年7月、Macbook Pro 15 inch Core i5 というのを購入した。188,900円だった。
これはそれまで使っていたPower PC のiMacとはちがって、「インテル」のCPUを使っていたので、動画のレンダリングがとても速くできるようになっていた。そのころのパソコン作業の中心だった「テレビ番組の録画」の時間が約半分になったのである。
さっそく、どんどん溜まっていくテレビ番組をビデオレコーダーから転送して、パソコンのファイルに変換していった。ただ、スピードは速かったが、本体が発熱しやすく、一生懸命ファンが回っているのに、キーボードに置いた手にはその熱が強く伝わってきた。そして、購入してから5ヶ月後の翌年2月、CPUのレベルを「Core i7」にアップした改良型のMacBook Proの発売のニュースがあり、いやな感じがした。買うのを早まったのではないかと、後悔の念が湧いてきたのである。
その悪い予感が「的中」した、というべきだろうか。その年の10月、購入して1年3ヶ月目、映像編集の最中に、とつぜん画面が真っ黒になったのである。電源が落ちたわけでもないので、パワースイッチを入れて終了させ、再び起動すると、元の画面に戻った。
この「ブラックアウト」の現象は、当初、稀にしか起こらなかったが、時を経るにつれて、だんだんとその頻度を増していき、ついに、映像関係の作業がほとんどできなくなってしまったので、やむなく、Apple Storeに駆け込んだ。この前の「首振りiMac」を買ったときは、3年間の追加保証をつけていたのだが、何も起こらなかったので、今回はもとから付いている1年保証だけにしていた。口惜しいことに、その1年が過ぎた頃に不具合が顕れはじめたのである。
保証期間が切れているので、ある程度の修理代は覚悟して、大阪・心斎橋のApple Storeに出かけた。受け付けの「ジーニアス・バー」の係員は気難しそうな男性だったが、まず点検のソフトウェアを使って、持ち込んだMacBook Proのハード面を調べてくれた。
「とくに異状はないようですが」
「そんなことはありません。映像関係のソフトを起ち上げると、ブラックアウトするのです」
そう言って、実際に、いつも使っているソフトを起動させたが、こういうときに限って、お行儀よく、不具合は起きない。なんと意地の悪い奴だと、心の中でMacBook Proを呪詛しつつ、いろんなソフトを起動させていくうちに、やっと、ブラックアウトが起きた。
不具合が起こってホッとするのも変だが、係員の顔つきが変わった。いろいろと調べていたが、よく解らないようで、後ろを振り向いて、ベテランらしい別の係員に何やら呟いた。すると、その係員が入れ替わりにやって来て、私のMacBook Proをしばらくいじっていたが、やがて、「どうも電源が落ちていますね」と言った。
そんなことはないはずだと見直したが、確かに電源が落ちている。こんなことはこれまでにはなかった。
「ハードウェアには問題はないので、おそらく、ソフトウェアの方の問題でしょう。いちど、ハードディスクを初期化して、OSの〈再インストール〉をされることをお勧めします」
そう言って、その方法をくわしく教えてくれた。
いくばくかのお金を払って修理してもらうか、あわよくば、一種の「欠陥品」と認定されて、無償で新品と交換してもらう、とかのことを期待したいたが、肩透かしを喰った思いだった。
家に持ち帰って、言われたとおりに、初期化して、OSの再インストールをしてみた。けっこう時間がかかって、一日仕事だったが、何だかすっきりとしたものになった気がした。
しばらくの間は、ブラックアウトの発生は止まっていた。しかし、そのうちに、またボツボツと起こりはじめ、そのたびに、OSを「強制終了」した。すると、そのたびに、その状況をApple社に連絡するモードになって、トラブルの情報が送信されるようになっていた。何回もそんなことを繰り返しているうちに、あるときApple社から「修正のバッチファイル」が送られてきたことがあった。さっそくインストールすると、いくらか「改善」されたような気がした。しかし、またそのうちに、もとの不安定な状態に戻っていた。
そんな風に、だましだまし使い続けたMacBook Proだったが、ついに我慢できなくなって、2014年2月、新しいiMacを注文した。「最後のMac」のつもりで、先のMacBook Proを購入したので、不本意だったが、しかたなく、いちばん安いのを購入した。141.879円だった。
送られ来た新iMacは、見たところ、21.5 inch の大きな液晶パネルだけのようであったが、その中心部が少しふくらんでいて、その中に、パソコンの機器が収まっていた。CDやDVDのドライブは内蔵されていなかったので、後日、外付けのものを購入した。
CPUは「インテル Core i5」で、先のMacbook Proと同じだったが、動画のレンダリング作業をしても、特に「発熱」することもなく、順調に作動して、やっと、「ブラックアウト」に怯えることなく、快適な環境を手に入れることができるようになった。それとともに、Macとともに歩んだ私の「デジタル生活」の進化もここでほぼ一段落となったのである。
iMac 21.5inch, Late 2013
この10年間、スマホとか Apple Watch とか、さらにはAI(Artificial Intelligence 人工知能)の飛躍的な発展など、新しい動きはいっぱいあって、そんな情報は、PodcastのニュースやAUGM大阪の会合などで耳にはしていたが、私がしていたのは、ワープロソフトで文章を書いたり、テレビやラジオの番組をデジタルで録画・録音することばかりで、そんなデータを外付けのハードディスクの中にどんどんと溜め込んでいくだけだった。
その道具に使っていたのが、「第9章」に登場した、ビデオレコーダーとパソコンをつなぐ「カノープス」のアダプターと、それから取り込んだ番組データを編集する「iMovie HD」というソフトだった。AppleのMac OSは毎年のようにアップグレードされ、そのたびに各ソフトはそれに合わせてアップデートされるのだが、私がiMacを買って数年後、頼りにしていた「iMovie HD」はアップデートされず、アップグレードされた新しいMac OSでは動かなくなってしまったのである。
事前にそのことに気付いた私は、そこでOSのアップグレードを断念するしかなかった。ほかにも、使っているソフトで新しいOSに対応していないものがあったので、私のメイン機種のiMacのOSは、いまだに「10.9.5 マーべリックス」のままである。
常用するソフトの「進化」はそこで止まっても「仕事」を続けることはできた。しかし、世の中はどんどん進んで行く。古いOSで頑張っていても、インターネットを使わないわけにはいかない。そして、どんどん進化していくインターネットと「古いOS」の齟齬がついに現れはじめてきた。妻が使っているiPhoneに、私のMacのデータを取りこめなくなってしまったのだ。繋がりを回復するにはOSをアップグレードしなければならないが、それはできないことだった。
それはやがて、私の愛用するiPod touchにも影響してきた。私の使っている「第6世代」が「第7世代」に切り換わるとともに、iPhone同様、私が使っている「マーベリックスOS」とは繋がらなくなってしまった。
そして、2022年には、iPod touchの生産終了が発表されたのである。もういま使っている「第6世代」を使い続けるしかないと覚悟を決めた数年後、使いはじめて8年を過ぎたこの機種のバッテリーがついに劣化しはじめたのである。Apple Storeに駆け込んで、バッテリー交換を申し込んだが、交換されて手渡せるのは「第7世代」になるという。もはや「第6世代」の在庫はなくなってしまっていたのだ。
しばらくは、小型の「モバイル・バッテリー」を常時接続して使っていたが、その不便さに耐えられず、ちょうど、ソフトバンクのショップから「スマホにしませんか」との何回目かの勧誘のはがきが来たのを機に、2024年2月、やっと「iPhone SE」という廉価版の機種を購入することにした。
使ってみると「案ずるより産むが易し」というべきか、使用料金も思ったほどは高額にならなかった。Macには接続できなくて、いっぱい溜め込んだいろんなデータをこのiPhoneで再生することはできなかったが、NHKの「らじるらじる」などのインターネットラジオがそれこそ、Wi-Fiのある自宅にいなくてもどこでも聴くことができ、「聴き逃しサービス」を使えば、いつでも聴くことができるので、これで十分にやっていけるのはないかと確信するようになった。
しかし、悪いことは続くもので、2008年に購入した、東芝のDVDレコーダー「RD-W301」の寿命が尽きてきたのである。
一体型だった「VHSドライブ」はすでに怪しくなって、挿入したVHSテープを巻き込んでしまうおそれがあったので使わなくなっていたが、そのうち「DVDドライブ」もおかしくなって使えなくなった。でも、「ハードディスク・レコーディング」の方はまだ健在だったので、それに録画した番組を「カノープス」を通して、Macのパソコンに送り込んでいた。ところが、2014年になって、録画中に突然電源が落ちるようになったのである。いったん落ちた電源は数分後にはまた勝手に入っていたが、それまでに録画した内容は保存できていなかった。
はじめは、その「症状」は稀だったが、だんだんと頻度が高くなり、我慢できなくなって、2016年、メーカーに電話して、修理してもらうことになった。「電源基盤」が故障しているということで、それを交換、その部品代、技術料、出張代などで15,000円ほど掛かったが、以後、安定して録画できるようになって、まずはめでたし、めでたし。
しかし、それから5年経った2021年、またも「電源ダウン」が再発しはじめた。振り返れば、この機種を使いはじめて13年、もうそろそろ限界だろうと観念、再修理はあきらめて、新しいデッキの購入を検討しはじめた。
もはや100%年金生活者となって、経済的な制約も増え、贅沢な機種は買えなかったが、NHKが「政治」の圧力を受けて、2本あったBS放送を1本に減らしてしまったので、将来その「受け皿」になるだろう「BSプレミアム4K」は見たくて、「4Kチューナー」内蔵の機種を探した。そして、ちょうど、59,800円という安値で出ていたパナソニックの「DIGA DMR-4TS203」 という「ブルーレイディスクレコーダー」を購入した。2024年1月のことである。
パナソニックの「DIGA DMR-4TS203」
以前の機種と比べるとずいぶんコンパクトになっていた。それでいて、内蔵ハードディスクは2TBもあり、たっぷり録画することができた。ありがたかったのは、チューナーが4Kを含めて3機内蔵されていたことで、これまで同じ時間帯の番組はひとつしか録画できなかったのが、3つ同時に録画できるようになったのである。
さらに、思いがけない機能もあった。「どこでもDIGA(ディーガ)」というアプリをダウンロードすると、スマホで、このレコーダーに録画した番組や、予約など関係なしに、いま放送している地上波、BSのいずれの番組も、屋内、屋外に関わらず、それこそ「どこでも」視聴できるのである。
私が気にしていたのは、Macのパソコンへの転送だった。このレコーダーの外部出力端子は「HDMI」というものしかなく、アダプターの「カノープス」の入力端子は3色の「コンポジット」ピンジャックだったので、その2つをつなぐアダプターをネットで探して購入しておいたのだが、いざ、新しいレコーダーと接続しようとすると、「カノープス」とMacを接続するケーブルの端子が以前からすこし緩めになっていたのが、さらにおかしくなって、うまく繋がらなくなってしまった。
これで、レコーダーとパソコンとの接続は不可能となり、これまで長年苦心して維持してきたパソコンへのテレビ番組の録画の道が途絶えてしまったのである。もちろん、探せば、まだ新品の「カノープス」を売っているようだったが、数万円も出してそれを買わなくとも、2TBの内蔵ハードディスクに蓄えていけばそれでいいや、と思うようになっていた。
実は、その半年前の2023年5月、突然、7つある外付けのハードディスクのうちの1つが認識しなくなったのである。どうも壊れたらしい。中には、旅行や町歩き、それに歴史に関するテレビ番組がたくさん入っていた。ハードディスクはいつか壊れるもの、といわれていたが、実際に経験するとショックだった。「バックアップ」するほどのものではないと思っていたので、していなかったが、その半分以上は取りあえず録画して、いつか見ようと思っていたものだった。
「一期一会だ。番組でも映画でも、そのときに観たものが絶対で、それは自分の心の中に保存しておくものだよ」と言って、いっさいの録画や録音を否定している、ある友人のことばを思い出した。
そろそろ、私の「デジタル生活」も「終活」の時期に来ているのかもしれない。もう新たな録画はやめて、これまで録り溜めたものをゆっくり観賞せよ、という「啓示」なのかもしれない。だんだんとそのように自分を納得させて、その日その日を大切に過ごしていこうと決意した。
それにしても「デジタル」というのも、はかないものである。年々歳々、新しい技術が現れて、どんどん便利になっていくのは結構なことだが、それによって、古いものが滅びていく、つまり、「アクセス」できなくなってしまう、例えば、かつて隆盛を誇った「マルチメディアCD-ROM」のように、今のパソコンでは見られなくなってしまっている。いま現在、溜め込んだ大量の番組や映画の「録画ファイル」もいつかシステムが変わってしまえば見られなくなってしまうのかもしれない。
それとくらべると、紙に文字で書いた、あるいは印刷した「アナログ」のデータは、そのようなシステムの変遷に左右されることはない。ゆくゆく人類が「滅びた」あとにも残っていくデータははたしてどちらであろうか。
そんなことを夢想しながら、この長い物語を終わることにしよう。
(完)
「第10章」は2025年8月15日脱稿