わがデジタル創世記(ネット版)
Part 1
第1章 パソコンと出会うまで
初体験の「デジタル」
ことのはじめは、デジタル腕時計だった。1970年代のなかば頃だっただろうか、行きつけの時計屋で、こんなのどうです? と勧められたのが、リコーのデジタル腕時計だった。
時・分・秒を表示する3つの二桁の数字の下では、10個の小さな四角い枠の中を10分の1秒をあらわす黒点が忙しく走っていた。ゼンマイを巻く竜頭(りゅうず)みたいなボタンを押すとモードが変わって、時刻以外に、タイマーやストップウォッチになった。
何分後、何時間後と数字を入れてセットすると、その数字が刻々と減っていき、ゼロになると、かわいい音でブザーが鳴る。逆に、ゼロからスタートして、もう一度ボタンを押すと計時が止まって、その間の時間が10分の1秒まで計られた。昔、50メートル走のタイムを計る体育教師が持っていた、あの重々しいズッシリとした機器と同じ働きを、この軽い小さな腕時計がやってのけるのだ。
しかも、これには人間の走力の測定以外の使い道がいろいろあった。例えば、自宅から職場までのドア・ツー・ドアの正確な通勤時間や、その間の電車に乗っている時間、あるいは今やっている仕事を終えるのにどれだけかかったかなど、いろいろな「所要時間」を実に手軽に計ることができた。しかも10分の1秒まで正確に。
その時、私に、何かピーンと来るものがあった。それまでの時計といえば、現在の時刻を私たちに「一方的に」伝えるものでしかなかった。時計以外に、ラジオにしても、テレビにしても、さらに書物にしても、どれも「一方通行に」私たちに何かを伝え、教えるものばかりだった。なのに、このデジタル時計は、わずかではあるが、私の命じることを忠実にやってのけてくれる。自分の命じるとおりに忠実に働く召使いが、いま確かにこの手の中にある、という感触をぼんやりながらも、得た気がしたのである。
「ガリ版」印刷
私が高等学校で英語を教える職を得たのは1973年のことであったが、その時、「チョーク・ケース」とともに、学校から最初に支給されたのは、「ガリ版」と「鉄筆」だった。
もはや「過去の遺物」となってしまったので、一応説明しておくと、「ガリ版」とは細かい目がほられた鑢(やすり)の鉄板である。その上に、薄い繊維に蝋(ろう)を薄く表着させた「蝋原紙」を置き、先の尖った「鉄の筆」で字を書くと、その部分だけ蝋が剥がれて、印刷インクが通過可能になる。
その「蝋原紙」を「謄写版」のスクリーンに貼り付けて、その上にインクの付いたローラーを走らせると、鉄筆で蝋を剥がした部分だけインクが通過して、それが文字や絵として、下に敷いた紙に印刷される、というものだった。
蝋原紙
これは学生時代、手づくりの文集やビラを作成する時にずいぶんお世話になったものである。鉄筆で文字を書くことを「ガリを切る」といったが、かつてはそのプロも存在し、活版印刷の活字を拾う「文選工」や「植字工」と並んで、より安価な印刷技術の一翼を担っていた。
私が就職した学校では、英語の教師でもガリ版に鉄筆で、手書きのプリントやテスト問題を作成していた。もちろん、自前の英文タイプライターを持っている教師もいたが、タイプライターの場合、それ専用の謄写版原紙があって、蝋ではなく、黒色のコーティングをした用紙だった。それをタイプにはさんで、鋼鉄製の印字を打ち込むと、そこだけコーティングが剝げて、インクが通過するようになっていた。そうして打った用紙を謄写版にかけて印刷するのだが、よっぽど平均した力でタイプしないと、濃淡がムラになって読みづらくなるので、使っている人はあまりいなかった。
電動タイプライター
ところがある日、印刷室の隅っこの机の上に、いつもビニールカバーを被って、だれも使っていない様子の機械がひっそりと置かれているのに気がついた。
訊いてみるとアメリカ製の「電動タイプライター」だという。何年か前に、英語科の方から買ってほしいという要求があって購入、はじめはみんな触っていたが、いまはだれも使う人がいないとのこと。「けっこう高かったんだけどねぇ」と、事務所の課長が顔をしかめた。
英語科の先生に尋ねると、たしかにキーを叩けば常に一定の圧力で印字されるので、文字はとてもきれい、とのこと。ただ、キーを打つタイミングを間違うと、ダダダダダ、とキーが暴走して、たちまち同じ文字が10字ほど打ち出されてしまい、そうなると、それまで打ったものがすべてダメになってしまって、もう怖くてだれも使えなくなってしまった、ということだった。
試しに使ってみることにした。すこし埃をかぶった分厚いビニールシートをめくると、頑丈な、いかにもアメリカ製といった機械が現れた。
キーを打つと、かなりの圧力で鋼鉄製の印字が用紙に叩きつけられた。キーの反応は悪くない。ただ、打った指をそのままのせたままにしておくと、またもう1回打ったとみなされて、ダダダダと同じ文字が打ち出されてしまった。
つまり、このキーは単なるスイッチで、キーを打つ強さなど全く関係なしに、押せばモーターが廻って、一定の圧力で印字されるようになっている。とすると、きれいに印字できるように力加減を工夫する必要はなくなり、なまじ、強く打ったりすると、反応しすぎて、ダダダダ、となってしまう。
要するに、それまで手動のタイプライターに慣れている者には使いづらいが、私のようにタイプライター未経験者にとっては、ただスイッチを押せばいいだけなので、苦にならないどころか、むしろ楽だった。
ということで、この「高級電動タイプライター」はその後、私個人の専用機のようになったのである。
英字は、ガリ版で手書きするよりもタイプの方が断然見栄えがいいし、それに、入る文字数も多くなるので、プリントもテスト用紙もコンパクトになった。ただ、英文だけではなく日本語を挿入することも必要だったので、それは手で書くしかなかった。
手書きの場合は、ボールペンを使ってタイプ用原紙に書き込む。すると、ペンで線を引いた部分のコーティングが剥がれてインクが通過可能になるのだが、タイプ文字のような切れ味はなく、そこだけ変にインクが濃くなったりして、せっかくの英字の見栄えが台無しになりがちであった。また、時には、強く書きすぎて、原紙が破れそうになったこともあった。
しかし、その後、普通紙に書いた原稿をいわゆる「電送写真」的にマスター紙に転写する「ファックス」という機械が開発されて、その問題は解決する。
タイプ用の原紙ではなく、普通紙にタイプ印字し、日本語はそこに鉛筆などで手書きすればよくなった。
一方、タイプライターにも改良が加えられた。アーム式ではなくて、球形の鋼鉄に活字を彫り込んで、キーを押すとそれがクルクル廻って活字を選び出し、ボールごとその活字を用紙に打ち込むという、ボール活字式の電動タイプライターを開発していた日本メーカーのブラザーから、その後「電子タイプライター」というのが発売された。
「電動」ではなく「電子」とはどういうことか。キーボードの上に小さな液晶のディスプレイが付いていて、タイプした文字がすぐに印字されずに、いったんそこに映し出されるようになっていた。そして一文打ち終わって、定められたキーを押すと、一挙にその文章が用紙に印字されるのである。
印字する前に、打った文字をディスプレイで確認できるようになり、タイプミスがなくなるというわけであった。
そして、さらに便利なことには、自動的に文字間を調節して、行末をきれいに揃えたり、英単語が途中で切れないように、ぴったりと収めたりすることもできた。
これは、素晴らしいものが出たぞと、英語科の教員は、その「電子タイプライター」を奪うように使いはじめたのだが、そのブームは長続きしなかった。ほどなくして、「ワードプロセッサー(ワープロ)」というものが登場したからである。
ワープロの登場
ワープロというものに初めて接したのは、英語科が購入した東芝のRupo(ルポ)という機種だった。
ある「新しもの好き」の先生が注文したとのことで、キーボードの上に横長の全角40文字が4行ほど表示される液晶画面があり、その上のふたを開けると、簡単なプリンターとなっていて、熱に反応して黒くなる「感熱紙」をはさむと、かなり高速で印刷できた。また、入力したデータは、3.5インチのフロッピーディスクに保存するようになっていた。
Rupo JW-R50F
ワープロが「電子タイプライター」よりも優れていたのは、日本語を入力することができたからである。
それまで「和文タイプライター」というものはあった。
英語と違って、日本語は決まった数の「ひらがな」「カタカナ」の他に、「漢字」というものが無数にある。「和文タイプ」は、その無数にある漢字をある程度限定し、その限定された活字をすべてキーボード上に用意したものだった。
一定の法則に従って並べられた活字の中から、ひとつひとつアームで拾い出して、ガチャンと用紙に打ち込むという、まるで「力づく」のようなやり方で、おそろしく時間が掛かったが、活字で印刷することが必要な場合にはやむをえないことで、これは「プロの印刷」向けのものであった。
ただ、その頃には、それを小型化して、電動にした機種が出ていて、これも勤務先には置いてあったが、事務所の改まった文書作成のときに使うぐらいで、授業のプリントやテスト用紙に使う教師はまずいなかった。
電動和文タイプライター
だから、入力したひらがなを「変換キー」を押すことで、簡単に漢字に変換させるという「ワープロ」のアイディアは画期的なものだった。
やがて、変換の範囲が、漢字一文字から、語句、文節へと拡がり、さらに、前に変換したものを記憶しておいて、優先的にそれに変換するという「学習機能」が付け加わり、日本語ワープロは完璧なものになっていった。
アルファベットのキーボードと併用することもでき、ここに「和文タイプライター」だけではなく、「英文タイプライター」も、その命脈も断たれることになった。
ワープロの普及
ワープロの誕生は、それまでプロだけのものだった「活字の世界」を素人にも開放するものだった。
作品がそれなりに評価されて世に出る、ということを意味した「書いたものが活字になる」という表現もその意味を失った。プロの評価を経なくても、自分で自分の文章を自由に活字にすることができるようになったからである。
学校でも、英語科だけでなく、他の教科の教師たちもワープロに興味を持ちはじめた。
国語科や社会科、理科など、これまでガリ板で一生懸命プリントをつくってきた教師たち、そんな中でも、とくにそのプリント文字がきれいなのが自慢の「ガリ板名人」たちほど、ワープロ導入に熱心だった。
シャープの「書院」、NECの「文豪」、三洋の「サンワード」、富士通の「オアシス」といった各社のワープロが教師たちの机に並びはじめた。
ワープロの魅力は、「活字」を思い通り、自由に使える、ということだけではなかった。一度入力した文章を記憶(保存)して、それをあとから呼び出し、手直しして何度でも再利用できることも魅力だった。
そのうち、その保存された文章を自分だけではなく、他人とも「共用」したいという欲求が生まれてきた。
当初、各社バラバラだった活字の規格が、JIS規格に統一され、それを共通規格のMS-DOS方式のフロッピーにテキスト形式で保存することによって、異機種間の互換も可能になっていった。
当時、英語科で共用されていた東芝のRupoは、いまネットで調べて見ると、JW-R50F という機種だった。もはや「電子タイプライター」を卒業して、プリントやテスト用紙作成はワープロ一色になっていた私が、家でも使えるように自分のワープロを持ちたいと思うようになるのは必然のことであった。
そこで、これと同じRupo JW-R50F を求めて、大阪一の電器街である「日本橋」へ出かけていった。
その手の店に入ってみると、いろいろな会社のさまざまな機種がたくさん並べられていて、その中にRupoもいくつかあったが、私が探している JW-R50F のコンパクトな姿はなかった。
キーボードがむき出しで、その上に小さい液晶画面が付いている JW-R50F とは違い、並んでいたのは、どれもやや長方形気味で、蓋があり、それを持ち上げると下にキーボードが現れ、その蓋の裏に大きな液晶画面が付いているというタイプのものばかりだった。
私はひたすらJW-R50Fを捜した。新製品よりは、使い慣れていて、おそらく旧型で値崩れしているであろう機種を購入した方が賢明だと思ったからである。
ところが、JW-R50Fは、探せど探せど、どこにも売っていなかった。いつの間にか「オーディオ」からワープロとパソコンの街に変わっていた日本橋の「でんでんタウン」の、裏通りまで探し歩いて、とある中古品専門店の店先のガラクタの山の中に、目指すJW-R50Fが転がっているのを見つけた。私は喜び勇んで、その機械を手にした。
しかし、それは、私がいつも学校で使い慣れているものとはどこか違っていた。
全体のデザインは同じなのだが、よくよく見れば、側面にあるはずのフロッピーディスクの挿入口がなかった。Rupoにこんな機種があるとは、初めて知ったのだが、データを保存するフロッピーが使えないのなら、買っても仕方がない。
私は、JW-R50F を探すのをあきらめて、Rupo の新しい機種を買うことにした。
とりあえず数種類のカタログをもらって帰り、その中から、いろいろ検討した末に購入したのが、JW-80Fという機種だった。古い日誌をたどってみると、1988年12月6日、価格は6万9000円。
意外に安かったのは、最新機種よりも少し古い「売れ残り」商品だったからだろう。しかし、その機能は、当初探していたJW-R50Fとは桁違いに改善されていた。
まず、蓋の裏の液晶画面が2倍以上の10行になり、裏からライトを当てる「バックライト」という装置のおかげでずいぶん明るくなっていた。
この明るくて大きなディスプレイは、使ってみると圧倒的に便利なものだった。そして、内蔵のプリンターのスピードも速くなり、また、それまで東芝Rupo独自の書体であった「活字フォント」が、JIS規格の、他社ワープロとも互換できるものになっていた。
ほかにも、付属的な機能がたくさんついていて、私はワープロというのが文字通り日進月歩で、新製品は旧製品を数倍上回る、まさに「幾何級数」的な発展を遂げているのを初めて知った。そして、あのとき、もし、旧型のJW-R50Fを見つけて買っていたら、ひどく後悔しただろうな、と思わず背筋が寒くなったものである。
Rupo JW-80F
「表計算」機能の活用
はじめて買ったワープロ、Rupo JW-80F も大分使い込んできた頃、ある若い教師から、付属の「表計算」機能のことを教えられた。
私の勤めていた学校での、学期末の最大の仕事はクラス生徒の成績算出であった。
各科目の担当教師がつけたその学期の成績が、100点満点の素点として、クラスの名票に書き込まれ、担任のところに集まってくる。すると担任は、縦軸に生徒名、横軸に10を超える科目名の欄を設けた「成績一覧表」に、その成績点を転記する。
そして横の欄を合計して「各生徒の合計点」を出し、次いで、縦の欄を合計して「各科目のクラス合計点」を計算する。
最後に、「各生徒の合計点」の合計を計算して、それが、「各科目のクラス合計点」の合計と一致すれば、転記ミスや計算ミスがなかったことになり、やっと生徒個々に配る「通知表」に記入できることになっていたが、その合計がなかなか一致しなかった。
計算は単純な足し算ばかりだったが、とにかく、その数が多かった。
生徒が50人いて、14科目あるとすると、横の合計が50回、縦の合計が14回、その合計の合計が2回と、少なくとも66回は計算しなければならない。
私はさいわい、小学校時代に「そろばん塾」に通っていたので、計算はそれほど苦にはならなかったが、そうでない人たちは、たいへんだったようだ。
ポツポツと慣れない「そろばん」を弾いている人もいたが、たいていの教師が頼りにしていたのは、学校の備品のモーター式の卓上計算機だった。足す数字を打ち込んで、重いレバーを押すと、轟音とともに、それまでの合計が計算されて、電気式の文字盤に表示される、という代物(しろもの)だった。
「電卓」が登場し、一般的になってきたのは1972年に「カシオミニ」が発売されてからであるが、さっそく購入した教師もいた。
当時の定価は1万2800円だったが、その後、競争による価格破壊が進行して、みるみるうちに半額以下にまで下がり、当初は得意満面だったその教師をして顔色なからしめたものである。
しかし、学期末の成績処理の風景を一変させたのは、コンピューターの導入だった。
1980年代に入った頃だったろうか、ある「ラジオ工作マニア」の教師が、自宅で組み立てたコンピューターを学校に持ってきて、職員室の片隅の空いた机の上に設置した。
たちまち人だかりができ、興味を感じた何人かの教師たちは、その教師といっしょに放課後遅くまで残って、何やかや、その機械をいじっていた。そして、やがて彼らがつくり出したのが「成績処理一覧表」のプログラムだった。
ローマ字で記された生徒名の横に並んだ「点数欄」にキーボードから得点を入力して、最後にある特定のキーを押すと、即座にその合計点と平均点が出てきた。
また別のキーを押すと、接続された「プリンター」から、大きな音を立てて、「成績一覧表」が印刷されて出てきた。
このプログラムはその後、いろいろと改良されながら、他の教師にも広まっていき、ついには学校で正式に採用されることになって、新しい機械が何台か購入された。
私はその頃はその方面にまったく疎(うと)かったので、その機種名や、プログラムの基になるOS(Operating System オペレーティング・システム)などについてはまったく関知していないが、各学年で選ばれた担当者が、全教科の成績をまとめてキーボードで打ち込み、担任は、打ち出されてくる一覧表をもらって、その成績を通知票に書き込むだけでよくなった。
このように、全体の「成績一覧表」は学年ごとにコンピューターで処理されることになったが、そこに提出する自分の科目の成績の計算は、自分でしなければならなかった。
生徒の成績は、中間、期末の定期考査だけではなく、いろいろな小テストや宿題提出点、場合によってはノートチェックなど、きめ細かい評価を総合して出さなければならない。
できるだけきめ細かく評価しているということを生徒に示すのが、生徒の学習モチベーションを高めることにもなるからである。その結果、計算は面倒になって、そろばんや電卓からはなかなか解放されないことになる。
そこで、ワープロ付属の「表計算」機能がものをいうことになった。
この機能を使うと、学校のコンピューターでやっているのと同じことが、小規模ながらも自分で、自分の思い通りにできた。
すなわち、あらかじめ作っておいた「一覧表」に点数を入力するだけで、面倒な計算が瞬時にできてしまうのである。さらに、その結果を「保存」して、学期や学年が変わっても継続させていくことができるのがありがたかった。
かくして、「表計算機能」は大いに活用されることになるのだが、ただ、ワープロ付属の機能なので、その容量は大したことがなかった。
自分の科目の成績計算ぐらいなら何とかこなせたが、のちに「進路指導」の仕事を受け持つことになり、学年全体の生徒の学校成績やいろいろな模擬試験の成績などを入力しようとすると、それは無理だった。
そこでいろいろ調べてみると、東芝のRupoシリーズの中でとくに表計算機能の充実した機種があるのを発見した。
その機種は、JW-98UPⅡといい、「ロータス1-2-3」を内蔵しているという。「ロータス1-2-3」とはいったい何であるのか、私は全然知らなかった。カタログだけではよく分からない、とにかく実機を見てみなければと、大阪市西区にある東芝のショールームに行ってみることにした。
「ロータス1-2-3」
ショールームに入って、その実機の前に座ると、係りの人が近づいてきたので、「ロータス1-2-3 ってなんですか?」と尋ねた。すると、その女性は一瞬キョトンとした顔をして、「パソコンのソフトです」と繰り返すばかりで、それ以上の説明はしてくれなかった。
そこで、仕方なく、置いてある説明書を頼りに、JW-98UPⅡを1時間あまり、いろいろといじくりまわして、使ってみた。
そして何とか使えそうな感触が得られたので、学校の方へ、自分がやりたいこと、そのためには是非ともこのワープロが必要だという申請書を提出した。さいわい、口添えしてくれる人もいて、当時、20万円以上したその機種を買ってもらえることになった。
「ロータス1-2-3」は、いわゆる表計算ソフトで、注文の機種が届くまでに、職員室の数学科のコンピューターでソフトの使い方を教えてもらった。そして『ロータス1-2-3 ハンドブック』という市販のかなり詳しい解説書を借りて帰って、それを読みながら、「ロータス1-2-3」のいろいろな機能を予習しておいた。
ところが、1992年5月14日、そのRupoがいよいよ到着して、搭載された「ロータス1-2-3」を起動してみると、その画面は、「ハンドブック」や数学科の「ロータス1-2-3」とはまったく違うものであった。
あとで知ったのだが、数学科の「ロータス1-2-3」のバージョンは、Rupoのバージョンよりもかなり前のものだったのだ。パソコンのソフトは、バージョン(版)が違えば、別物も同然だということを、私はその時はじめて知った。
やがて「ロータス1-2-3」も何とか使いこなすことができるようになり、当初の目的だった、「生徒の学年成績や模擬試験の成績と大学合格の相関」を示す一覧表をつくって、「進路指導」の現場で好評を得ることができた。
資料は、年々データを蓄積していくことによって、より正確さを増していったが、一方、Rupo JW98-UPⅡ の記憶容量も限界に近づいていった。
そこで、カタログに付属品として、「拡張メモリ」というのがあるのを見つけ、買ってもらって取りつけた。正確なことは覚えていないが、1メガバイトのもので数万円もしたと思う。しかし、それによって増えた容量にも限界が見えはじめ、ことここに至って、ようやく、コンピューターというものが視野に入りはじめたのである。
第2章 50歳でパソコンをはじめる
「コンピューター」の印象
「コンピューター」という言葉をはじめて目にしたのは、中学に入った頃に読んだ、ある科学読み物だったと思う。1950年代後半の当時は、日本語で「電子計算機」と呼ばれる方が多かった。
そもそもは、第二次大戦中に、侵入してきた敵の飛行機を高射砲で撃ち落とす際、その飛行機の航路と高射砲の弾道とを瞬時に計算して、より正確な発射の方向を決められるようにと、アメリカで開発が始められたらしい。
10進法のかわりに「2進法」を使えば、数字は0と1の2種類だけで済み、その2つを電流のONとOFFに割り当てて「計算回路」をつくれば、電流の速さで計算が行われる、というのがその原理であったが、真空管を1万8000本も使い、重さが30トンにもなる、巨大な第1号機が完成したのは、戦争が終わった1946年だったといわれている。
たしかにスピードは速く、高射砲の計算には十分に間に合ったようだが、真空管がすぐに切れて、補修がたいへんだったそうだ。
また、高速の計算力を利用して、チェスのプログラムもつくられた。かなり強くて、チェスの名手を苦しめるほどだったが、一方、初心者の「定石はずれ」の手にはめっぽう弱かった、というようなことも書かれていた。
やがて、コンピューターの心臓部、CPU( =Central Processing Unit 中央処理装置)は、真空管から、トランジスタに変わり、さらに、シリコンなどの「半導体」の中に、トランジスタや抵抗やコンデンサーなどをつくり込んでしまうIC( = Integrated Circuit 集積回路)へと発展、その集積度がさらに高まって、1971年、CPU全体が小さなシリコンのチップに収まった「マイクロ・プロセッサ」が誕生した。
結果、それまでのように、中央に巨大なコンピューターを配置し、そこにいくつもの「端末機」を接続して共同使用する「メイン・フレーム」というシステムではなく、「マイクロ・プロセッサ」を搭載して小型化されたコンピューターが、それぞれ独立して、それだけで仕事ができる「パーソナル・コンピューター(パソコン)」が現れ、コンピューターは一挙に、個人が所有できるものとなったのである。
学校の成績処理にコンピューターが導入されたのも、そんな頃のことだったが、いかに大衆化されたといっても、その見かけはいかにも取っつきにくいものだった。
学期末の成績処理がおこなわれているのを横から見ていると、電源を入れて、「成績一覧表」の画面が出てくるまでに、何やら暗号みたいな、英字と数字がいっぱい並んだ画面が出てきて、そのところどころにある「選択ボタン」を押したり、何やら文字を打ち込んだりという操作を、何回も繰り返さなければならなかった。
また、職員室には、先にも述べたように、教科での研究用にと、数学科のパソコンが設置され、何人かの若い教師たちが毎日遅くまで残って、その前に座っていた。なかには、個人で購入して、家で使っているという教師も出てきた。
ワープロでの処理に限界を感じ、そろそろパソコンも考えなくてはならないか、と思いはじめていた私は、そんな教師のひとりに、パソコンって、いったい、いくらぐらいするものか、おそるおそる尋ねてみた。すると、彼は涼しい顔で、こう言った。
「パソコン本体とディスプレイ、キーボードなど機械一式は20万も出せば、まあ何とか買えますが、それだけでは《ただの箱》です。中に入れるソフトウェアも買わなければ動きません。それにはまた別にお金がかかります。あるいは、自分でプログラムを組むか、ですね」
まるで、こんな厄介なもの、あなたたち素人さんには無理だから、手を出さない方がいいですよ、と云われた気がして、パソコンは、自分には「雲の上の存在」でしかないんだ、と思うようになってしまった。
状況が変わったのは、それから大分経った、1995年のことである。英語科の会議で、入って3年目、いちばん「若手」教諭のF氏が、遠慮がちながらも決然と、パソコンの購入を提案したのだ。
Macとの出会い
「若手」といっても、F氏はこの学校の卒業生で、教員免許を取得するための「教育実習」に来たあと、翌年の4月から、英語の非常勤講師に採用されて、教壇に立っていた。
非常勤講師というのは、専任教諭と違って、担任の仕事やその他、いわゆる「雑務」を除いた、教室での「授業」だけを行う教師で、私立の学校では、人件費を節約するために、かなりの人数が採用され、この学校でも、当時は全授業の3分の1ほどを非常勤講師が担当していた。
F氏は温厚で穏やかな人柄で、専任教諭の持ち時間の隙間にできた半端な授業を、いやな顔ひとつせずに引き受けるなど、教師間の受けはよかった。また、在学中から「模型」や「アニメ」などに深い興味を持った、いわゆる「オタク」タイプの若者だったので、非常勤ながらも、そういう方面の「同好会」の世話をしたりして、生徒たちの評判も高かった。
彼自身、おそらくは、そうやって、少々の無理にも耐えながら、いずれは専任教諭に昇格することを期待していたのだろうが、どういうわけか、学校の方は、彼を専任にしようとはしなかった。英語科の全員で校長に直談判して、F氏の専任昇格を要求したこともあったが、校長は頑として、首をタテに振らなかった。
先行きの見通しが立たないまま、それでもかすかな希望を抱いてF氏は10年近く、慣れ親しんだ母校での仕事を続けてきたが、結婚して家庭を持つことになったのを機に、英語関係の専門学校に常勤の職を得て、後ろ髪引かれる思いで退職していった。
ところが、2年後、それまでの校長が退任して、新しい校長が就任すると、最初に行った仕事が、F氏の専任教諭採用だった。なぜもっと早くできなかったのか、と内心思いつつも、みんなこの人事に拍手喝采した。長年の宿願をはたしたF氏も、屈託のない、満面の笑顔でそれに応えた。
併設の中学校の新入生の担任に任命されたF氏は、満を持したように、それまで、非常勤講師のときにはできなかった担任の仕事や、クラブ顧問、学校行事の運営などに、全力投球で取り組みはじめた。そして、その年の秋の文化祭、F氏のクラスが決めた出し物は、8ミリでの映画製作だった。
何といっても、中学1年生なので、8ミリ映画の製作など、とても無理だとみんな思ったが、F氏の、これまで溜まりに溜まったものを一挙に吐き出すかのような、獅子奮迅の大奮闘がその不安を一掃した。
かつてあったテレビドラマ『ウルトラQ』に似た怪奇SFに、ややコミカルな味を加えたようなその作品の、脚本、監督、撮影、編集はすべてF氏が担当し、生徒はF氏に云われるまま、出演者として動きまわるだけで、まるでF氏の「個人映画」のようであった。
しかし、ちょっとした「特撮」などもある撮影や編集は、まだ幼さの抜けない1年生にとっては、物珍しくも、おもしろくてたまらないものだったようで、その時のクラスの生徒たちは、その後、高校3年まで6年間、その学年を持ち上がっていったF氏を支える「親衛隊」として、彼を一貫して、信頼し、慕っていったようである。
そんなF氏の提案だったので、英語科の面々もそれを無下に退けることはなかった。
もちろん、慎重論も出たが、結局、例の、ワープロを導入した「新しもの好き」の先生の、「こういうご時世だから、試しに1台入れてみて、みんなで使ってみたらどうかな」のひと声で、学校に申請することが決まった。
しばらくして、職員室にやってきた英語科のパソコンは、数学科や成績処理用のそれとはすこし違ったかたちをしていた。本体とディスプレーが一体となったもので、これまで学校にあったNEC製のものではなく、アメリカのアップル社製のLC 575という機種であった。
Macintosh LC 575
放課後、さっそく、F氏の主導で、お披露目の「試運転」が始められたが、それは「ただの箱」ではなく、すでにいくつかのソフトウェアが入っていた。
「クラリス・ワークス」というのがあって、画面にある、そのソフトを示す「小さな絵(アイコンというのであった)」を、長い尻尾のついたネズミみたいな「マウス」という器具を動かして、「マウスポインター」という矢印で探り当て、マウスの上部のボタンを連続的に2回押す(ダブルクリックする)と、大きな画面が開き、その中の、ある選択肢をひとつ選んで、今度は1回クリックすると、見慣れた「ワープロ」の画面が出てきた。
また、別の選択肢を選ぶと、「表計算」の画面も現れた。
NECのパソコンにしても、Rupoのロータス1-2-3にしても、キーボードのキーを叩いてカーソルを動かしていたのだが、マウスを使うと、一マスずつではなくて、一挙に遠くのマスまで簡単に移動することができた。
仕事が一段落して、「保存」をクリックすると、名前をつけてください、という指示があって、キーボードで名前を打ち込むと、画面にその名前がついたファイルのアイコンがつくられた。そして、それをまたダブルクリックするとファイルが開いて、仕事の続きをすることができた。
ファイルが不要になって消去したいときには、そのアイコンにマウスポイントを持ってきて、ボタンを押したまま、右下にある「ゴミ箱」まで引っ張っていって、そこでボタンを離すと、アイコンはゴミ箱の中に吸い込まれていった。その時、ゴミ箱の蓋は開いたままになっていて、「消去」をやめたいときには、もう一度ゴミ箱をクリックして、そのファイルを引っ張り出すと、元に戻すことができた。
と、ここまでは、ちょっとおもしろいな、という程度であったが、次にF氏が、同時に購入した「スキャナー」という機器の実演をしたとき、まったく仰天してしまった。
まず、スキャナーの蓋を開けて、F氏が英語の教科書をそこに挟んだ。そして、コピー機でコピーを取るように、そのページをスキャンしてから、パソコンの画面に開かれた「e-Typist(イー・タイピスト)」というソフトを少しいじると、画面に映った教科書の英語の文字がみるみる読み取られて、ワープロの画面の中に移っていったのである。
その間、10秒余り。あらかじめチェック機能がついていて、変なスペルになっている文字は色が変わっているので、その横に映った、教科書のコピー画面と見比べながら、手で修正をして、それでも、合計で数分ほどで、教科書1ページ分の英文がワープロに打ち込まれていた。
私が教科書を見ながら手で打っていけば、優に15分はかかると思われる量である。このデモンストレーションを見て、パソコンは凄い! と、私はすっかり感心してしまった。
ついにパソコンを購入
その後、放課後に残って、英語科のパソコンのいろんな使い方をF氏に手取り足取りで教えてもらいながら、パソコンの歴史的な知識も身につけていった。
すなわち、このパソコンが、Macintosh(マッキントッシュ、略してMac)というシステムで動いていて、それは、数学科などのパソコンのMS-DOSというシステムとは違って、GUI(Graphical User Interface グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)と呼ばれる、マウスを使った「視覚的な」操作方法をもちいた画期的なものである、とか、そもそも、IBMなどの巨大な「メイン・フレーム」ではなく、個人でも使える「パーソナル・コンピューター(パソコン)」を世界で始めて発売したのは、アップルである、とか、その創業者の、ジョブズとウォズニアックの「ふたりのスティーヴ」の、アップル社草創の物語とか、を教えてもらったりした。
当時、Macのパソコンを扱った雑誌は、「MacFan」「MacPower」「MacLife」「MacUser」などたくさんあったが、F氏はそのほとんどを毎月購読していて、そんな中の何冊かを借りて、家に持って帰って読んだりもした。
当時は、毎月のようにMacの新製品が発表されていた頃で、雑誌にはそれらの紹介記事が満載されていたが、どれも相当な値段で、私にとって、まだまだ「高嶺の花」であった。
ところが、7月に入って、期末試験も終わり、夏期一時金(ボーナス)ももらって、ようやく夏休みに入った頃のことである。用事があって、学校に行ってみると、机の上にメモが置いてあった。
「いま、LC630が大安売り。今月中なら、2万円のキャッシュバックもあります。もし、お買いになるつもりなら、いっしょに行ってもいいですよ」
F氏からのものだった。
LC630というのは、前年の9月に発売された、入門者向けの、機能をやや省略した「割安」の機種だと、ちょうど借りていたMac雑誌に載っていたが、それでも、発売時には本体だけで、25万円の希望小売り価格がついていた。
それが、F氏によると、約10ヶ月経った今では、半額以下の10万円程度に下がっていて、アップル社から2万円の払い戻しもあるのだという。また、「クラリスワークス」など、主なソフトはすでにインストールされており、いろいろなCD-ROMなども付属している(バンドルされている)とのことだった。
まだまだ先のことだと思っていたパソコン購入が突然、現実味を帯びてきた。というより、千載一遇の機会に恵まれた気になってきた。
ボーナスをもらって気が大きくなっていたこともあり、さっそく家の者に相談すると、異存はなく、すぐにF氏に電話して、日本橋の電器街に行く日取りを決めた。
ワープロを見に、日本橋に行ったことはよくあったが、パソコン売り場に行ったのは初めてだった。「付き添い」を買って出てくれたF氏はさすがに手慣れたもので、数ある「パソコン専門店」の中からいくつかに絞って、案内してくれた。
店には、それぞれ特徴があり、例えば、「ソフマップ」という店は、Macや関連商品の品揃えのよい、オーソドックスな店だった。また、それよりもすこし小さい「T-Zone(ティー・ゾーン)」という店があって、そこは、Mac用のソフトや関連商品が充実している、とのことだった。
しかし、どちらも値段は「普通」で、もっと安い店は他にあります、と言って連れていってくれたのは、とある小さなビルの上層階にある「阪神商会」という店だった。
ドアを開けると、小さな部屋の天井いっぱいまで、段ボールの箱に入ったMac製品が山積みされていて、太い字で手書きされた値札が貼ってあった。たしかに、先の2店よりは大分安くて、目指す LC630 も置いてあった。
F氏は、もう1軒、この手の店がありますが、そこも見てみますか? と言ってくれたが、かなり歩いていて、すこし疲れていたので、この店で買うことに決めた。
F氏はディスプレイも見つくろってくれた。同じブラウン管でも、やや丸く湾曲したものと、真っ直ぐなものとがあるそうで、画面の文字を見るには後者でなければならないと、ソニー製の「トリニトロン」の15インチを選び、店員との値引き交渉もしてくれた。
日誌によれば、購入したのは1995年7月27日、本体のLC630 が9万9800円、ディスプレイが5万3000円、あとから2万円戻ってくるので、思っていたよりも安い買い物で、折りしも、私の50歳の誕生日直前のことであった。
Macintosh LC630
私がMacを購入したと聞いて、理科の何人かの先生が「歓迎」のコールを送ってきた。彼らはいわゆる「飲み友達」で、仕事帰りによく一緒に酒杯を傾けながら議論しあう仲間だったが、それまでパソコンの話をしたことはなかった。私があまりにもパソコンに無関心だったので、その話題が自然と避けられていたためだったのだが、私も仲間に入ったとあって、その後は、がぜん、パソコンの話題が沸騰することとなった。
9月に入ったある日、そんな中のひとり、N先生が、私の机の上にどさりとフロッピーディスクがいっぱい入ったケースを置いた。何かと訊くと、「ここにMacのいろんなソフトがあるよって、インストールしてみ」とのことだった。「Excel(エクセル)」など、幾種類かのソフトが、何枚ものフロッピーに分割されてコピーされていた。
「ほんまは、勝手にコピーしたらあかんねんけど、古いバージョンやから、試しに使ってみて、気に入ったら、新しいのん買うたらええねん」
Excel はMac向けにつくられた表計算ソフトだけあって、マウスを使って自由自在に、計算枠(セル)を扱うことができた。いちいち、キーボードの矢印キーで移動させなければならないロータス1-2-3よりも格段使い勝手がよかったので、まもなく、「進路データ作成」の仕事用という名目で、学校から最新版を買ってもらった。
第3章 マルチメディアCD-ROM
MacのLC630を購入した時、バンドルされていたCD-ROMの中に、英和辞典と国語辞典を兼ねた辞書があった。それは、直径12cmの普通のCD盤よりも小さい、「Electronic Book(電子ブック)」という方式の直径8cmのCD-ROMで、ソニーなどの家電メーカーから出ているそれ専用の小型「EBプレーヤー」で閲覧するようになっていたが、Macには、それを閲覧できるソフトがインストールされていた。
その辞書自体は、内容が簡易版で、あまり使いものにはならなかったが、この「電子ブック」方式の小型CD-ROMには、ほかにもいろいろなものが発売されているのを知った。
『現代用語の基礎知識』という「電子ブック」を、ソフトのフロッピーを貸してくれた理科のN先生が持っていたので、貸してもらった。
すると、これがなかなかの「すぐれもの」で、本にすれば、薄めの電話帳ほどもある『現代用語の基礎知識』が、8cmの小さな円盤にすべて収められ、自由自在に検索することができた。これは凄い、と、私はさっそく、それとは同工異曲の、朝日新聞社から出ていた『知恵蔵』の「電子ブック」を購入した。
『知恵蔵』は、しばらくの間、私のMacの主人公であったが、さすがに、やや飽きてきて、別の「電子ブック」を物色、『ぴあCINEMA CLUB』というのを見つけた。
電子ブック『ぴあCINEMA CLUB』
これは、『ぴあシネマクラブ』というタイトルで、邦画、洋画の2冊本として毎年出版されている大部の「映画作品カタログ」を小さなCD-ROMに収めたものである。
「タイトル」「監督」「主演俳優」など、いろいろな項目から、数千本もの映画作品を検索することができた。出てきた資料は、文字ばっかりだったが、「スタッフ」「キャスト」「解説とあらすじ」の他、五つ星マークで、作品の評価が載っているのがおもしろかった。
私はまず、自分がそれまで見た映画を片っ端から検索し、その「解説」と「評価」を見て、自分の過去の印象と引き比べて楽しんだ。
この手の「映画作品総覧」としては、双葉十三郎の『ぼくの採点表』が有名である。
これも大判の分厚い本として何冊か出版されていたのを書店で見かけたことがあるが、いわゆる「名画」だけではなく、かなり怪しいB級、C級の作品もたくさん取り上げられていた。そういう本はとても貴重なので、「電子ブック」かCD-ROMにでもなれば、少々高くても絶対に買おうと心に決めていたが、結局、「電子化」されることはなかった。
私が購入した電子ブック版の『ぴあCINEMA CLUB』は、1993年版で、もう3年も前のものであった。だから、その後の作品も収録した「最新版」がいつ出るのか、首を長くして待っていたが、いつまで経ってもその気配はなかった。どうも「電子ブック」のブームは下火になっていたようだった。
待ちに待った、新しい『ぴあシネマクラブ』が、今度は12cmのCD-ROM となってようやく発売されたのは、1998年のことだった。
CD-ROM版『ぴあシネマクラブ』
「マルチメディア」という装いで、写真やちょっとしたBGM音楽が入っていたりしたが、すでに持っていた(後述の)アメリカ製の映画データベースCD-ROMとは比べ物にならなかった。
体裁よくつくられた枠の中に閉じこめられた「解説とあらすじ」は、「電子ブック版」と内容は同じだったかもしれないが、なぜか貧弱でアピール力を失った感じがし、何よりも、五つ星マークの「評価」がなくなっていたのにはがっかりした。
アメリカ製のCD-ROM
日本で小型の「電子ブック」がもてはやされていた頃、アメリカではすでに、12cmの各種マルチメディアCD-ROMがたくさん出ていた。
それについては、その頃、毎月買い始めていた「Mac雑誌」のコラム記事などを通じていくらか情報を得ていたが、ある日、書店で、『 CD-ROMガイド’96・USAセレクション 1500』(スチュアート・J・リービ著)という、大判の本を見つけた。
出版社は中央公論社で、この種の書籍を出すのは珍しかった。すでに処分してしまったので、詳しいことは憶えていないが、1500種のCD-ROMタイトルが、内容別に分類され、ラベル写真や、中身の説明、アメリカでの値段などが詳しく記された「CD-ROMカタログ」だった。
私はこの本をどれだけ熟読したことだろうか。
気になったCD-ROMタイトルに印をつけ、そのページに細く切った紙を栞(しおり)代わりに挟んでいったが、その栞でいっぱいになって、本がほっこりと膨らんでいた。
ただ、掲載されているCD-ROMがどうしたら手に入るのか、まだ分からなかった。Mac専門店には、いろんなソフトといっしょにCD-ROMも並んでいたが、数は少なく、主に日本製の、動植物や風景写真などが次々と変わっていく「スクリーンセーバー」的なものばかりで、輸入物が並んでいることはごく稀れであった。
そんなとき、購読していたMac雑誌の広告の中で、私が探しているアメリカ製CD-ROMを売っている店を見つけた。東京の「ハイパークラフト」という店である。
喜び勇んで、さっそく注文して買ったのが、映画データベースの『Microsoft CINEMANIA 96』と、『BLOCKBUSTER VIDEO GUIDE to MOVIES & VIDEOS』 であった。
『BLOCKBUSTER VIDEO GUIDE to MOVIES & VIDEOS』(左)と『Microsoft CINEMANIA 96』
「BLOCKBUSTER(ブロックバスター)」というのは、アメリカのビデオレンタルの会社で、そのCD-ROMはまさに、レンタルするビデオを物色する人向けの簡明な体裁だったが、もうひとつの『Microsoft CINEMANIA』 はかなり本格的なものだった。
作品のスタッフ、キャストはほぼ完璧に掲載され、そのかなりの名前が「リンク」を示す青色文字になっていて、マウス・カーソルを近づけると手のマークに変わり、クリックすると、その監督や俳優のページにジャンプすることができた。
そこには詳しい経歴と必ず「Filmography(フィルモグラフィー・作品リスト)」が付いており、その作品タイトルも青字のリンクが張られていて、作品ページへと移ることができた。
また、作品ページも充実していて、「Film Clip(名場面の短い動画)」や「Dialogue(名場面の音声)」「Music」も多く、また「解説」は異なる批評家のものが何種類も用意されていて、いろいろいじっていると、時が経つのを忘れるほどであった。
映画『カサブランカ』の説明目次
俳優「ハンフリー・ボガート」の説明目次
映画データベース以外に、百科事典も買ってみた。『1996 GROLIER MULTIMEDIA ENCYCLOPEDIA(略してGME96)』である。
これも文字情報以外に、Pictures(写真)、Movies(動画)、Sounds(音楽や鳥・動物の鳴き声)、Maps(地図)、Tables(一覧表)などが準備されていて、小さい画面ながらも、目で見、耳で聴いても、知識を獲得できるようになっていた。
『Microsoft Bookshelf』というのもあった。これは、「Dictionary(辞書)」「Atlas(地図帳)」「Thesaurus (シソーラス:類義語辞典)」「Chronology(年代記)」「Quotations (名言集)」「Almanac(年鑑)」「Encyclopedia(百科事典)」をひとつにまとめたもので、それぞれの辞典はそんなに詳しいものではなかったが、写真や動画、音楽などのマルチメディアも備えた「ミニ百科事典」のようなものになっていた。
百科事典『1996 GROLIER MULTIMEDIA ENCYCLOPEDIA』(左)と総合百科『Microsoft Bookshelf』
この頃、Microsoft社はCD-ROM の製作に意欲的で、本格的なマルチメディア百科事典として『Microsoft Encarta Multimedia Encyclopedia』というのも出していて、例の「CD-ROMカタログ」での評価も高かった。
その実物を、たしか一度、日本橋の「T-Zone」あたりで見た覚えがあるのだが、なぜかその時は買わなかった。けっこういい値段だったので持ち合わせがなかったのかもしれない。あとになって、買うつもりで何度も足を運んだが、すでに売れてしまっていて、それ以後、入荷することはなかった。
それから大分経って、このCD-ROMの日本語版というのが『マイクロソフト・エンカルタ総合大百科』というタイトルで発売された。しかし、それはWindows(ウィンドウズ)版しかなかったので買うことができなかった。
この「Mac版」「Windows版」というのも、頭痛の種だった。中に入っている「文字情報」や「マルチメディア情報」は同じ方式のものだろうが、それを見るソフトウェアがOS(Operating System 基本ソフト)によって違っていた。
もともと「マルチメディア」を推進してきたのはMacのアップル社だったが、1995年秋に発売された「Windows95」が大ブレークしたのちは、パソコンの主流はWindowsになっていった。CD-ROMもWindows版が多くなり、Mac版は片隅に追いやられつつあった。
「CD-ROMカタログ」の中でも、よいと思ったCD-ROMがWindows版しかないと知って、口惜しい思いをしたこともしばしばだった。
ただアメリカのMicrosoft社は、Windowsの本家であるにもかかわらず、ちゃんと「Mac版」のCD-ROMも発売していた。なのに、なぜ日本のマイクロソフトは、かくまでも狭量なのか。私は歯ぎしりした。
もうひとつ悩みがあった。
私の買ったMacのLC630というのは、コストを下げるために一部の機能が省略されていたが、それがFPU(Floating Point Unit 浮動小数点演算装置)という音や映像の処理に関係する機能だったため、私のLC630では見ることができないCD-ROMが出てくるようになった。
そこでやむなく、1年半後の1996年12月に、PowerMac 6300という機種を11万8000円で、あの阪神商会から買うことになってしまった。
日本製のCD-ROMも出始める
アメリカ製のCD-ROMをいろいろと買いつづけてきたが、いくら英語教師といっても、英語ばかりを読み聴きするのは、さすがにまどろっこしかった。そんな、日本語がぼつぼつ恋しくなったときに出てきたのが、先に述べた『ぴあシネマクラブ』のCD-ROMだったが、百科事典でも、小学館から『スーパー・ニッポニカ』というマルチメディア辞典が、CD-ROMの約7倍の容量を持つDVD-ROMで発売された。
これは、小学館から刊行されていた全25巻の『日本大百科全書』と1巻本の『国語大辞典』をベースに、動画80点、アニメ90点、音声320点、写真・図解9700点などのマルチメディアデータ、それに地図や年表も加えた、アメリカ製に負けない、本格的な「国産」マルチメディア百科事典だった。
だから、それだけに、簡単には手が出せない、かなり高価なものだったが、例の「新しもの好き」の英語の先生が敢然とそれを購入した。
そして、1年後に、そのアップデートとして「文字情報のみ」のCD-ROM版が発売されたとき、その購買権を譲ってもらって、やっと自分のものにしたのだが、やはり物足りなくて、翌年、私も、2002年版のDVD-ROMを購入した。値段は3万9000円だった。
スーパー・ニッポニカ 2002年版
そのほかの気に入ったCD-ROM としては「地図ソフト」があった。
大判の地図帳を繰ったりせずに、パソコンの画面で好きな場所を自由自在に見て廻れたら楽しいだろうな、と思って購入したのが『MapFan』である。
パイオニアの子会社で、カーナビソフトを開発している「インクリメント社」が発売元だったが、「首都圏版」「近畿版」「東日本版」「西日本版」と少しずつ規模を大きくしてしていって、「全国版」ができるまでに何年も掛かり、その間、何枚ものCD-ROMを買わされる破目になった。
MapFanⅡ日本地図全国版
その後、それよりも「進化」したものとして、地図の製作・販売会社のアルプス社から『プロアトラス』というソフトがDVD-ROM版として発売された。これは『スーパー・ニッポニカ』もそうであったが、パソコンのハードディスクにデータごとインストールして、いちいちDVD-ROMを挿入する手間なしに、日本全国の各地を、1万分の1(都会部は5000分の1)まで堪能することができた。
ProAtlas X DVD-ROM版
CD-ROM時代の終わり
ところで、私がアメリカ製CD-ROM を買う手づるにしていた「ハイパークラフト」が1996年12月に倒産した。
MacのソフトやCD-ROMの販売が事業の中心だったそうだが、MacもCD-ROMも売れ行きが落ちてきて、その結果の経営破綻のようであった。
その後、Macは持ち直したが、CD-ROMは衰退の一途をたどった。そういえば、愛読していた『CD-ROMガイド’96・USAセレクション1500』のあとがきで、著者のスチュアート・J・リービが次のようなことを書いていた。
「現在、マルチメディアCD-ROMは隆盛を極めているが、これはあくまでも過渡的なものである。やがてインターネット環境が整備され、高速な回線を通して、写真や動画などが簡単にダウンロードできるようになれば、マルチメディアの舞台はインターネットの世界に移って行くであろう」
その時は気にも留めていなかったその予言は、予想以上に早く現実化した。
私が心待ちにしていた『CINEMANIA』や『GME』の最新版はその後、発売されることはなかった。せっかく手に入れた『スーパーニッポニカ』を開くことも少なくなった。
インターネットには、無料の『Wikipedia ウィキペディア』というネット百科事典が登場し、新しい出来事や、現存する人物事典などをどんどん更新して、便利なものになっていった。
そこには、画像や映像はなかったが、ネットを検索すれば、「YouTube ユーチューブ」などいくらもそのようなサービスがあって、断片的な映像だけでなく、映画1本をまるまる見ることも可能になった。
また2004年には「Google Earth グーグルアース」という地図サービスがネットに現れ、日本だけではなく、世界のあらゆる場所を瞬時に、地図と航空写真で見ることができるようになった。
日本でも、アルプス社が2006年に「ALPS LAB」というウェブ地図サービスを立ち上げた。
グーグルの地図よりも画像が鮮明だったので、私は印刷して持参するのに重宝していたが、そのアルプス社も経営が傾いて、2008年にはヤフーに吸収合併されてしまった。
私が当時購入したCD-ROM 類はたいてい1枚1万円以上していたので、今から思えばずいぶん贅沢な散財をしていたことになる。
しかし、そういう顧客がいたからこそ、マルチメディアの事業が成り立っていたともいえるのだが、インターネット時代に入ると、そのサービスは「無料」が原則となり、収入は別の「広告」などから得なければならなくなった。そこにうまく「ビジネスモデル」を見出すことができなかった企業は、立ち行かなくなってしまうしかなかった。
CD-ROMはMacの中でも終わりを迎えていた。
私が最初、LC630を買ったときのOSのバージョンは7.5であった。その後、何度もバージョンアップを繰り返してきたが、MacOS 9.2.2を最後に、2001年からは、学術用のOSとして大学などで使われていたUNIX(ユニックス)を土台に置いた新しい「MacOSX(マック・オーエス・テン)」に切り替えられた。
当然、それまでの「MacOS 9」用のソフトは使えなくなったが、過渡的に「クラシック環境」という互換機能が設けられ、新しい「MacOSX」のなかで動く一つのソフトウェアとして、MacOS 9が起動して、古いMacOS 9用のソフトが動くということになった。
CD-ROMソフトの大部分は、MacOS 9対応のものだったが、引き続き、「クラシック環境」を通して、見ることができた。
ところが、その「クラシック環境」も、2007年10月にリリースされたMacOSXのバージョン10.5(Leopard レパード)から打ち切られてしまい、2000年以前に買ったCD-ROMはいっさい見ることができなくなってしまった。
さらに、2009年8月のバージョン10.6(Snow Leopard スノーレパード)からは、CPU(中央処理装置)がそれまでの、アップル・IBM・モトローラの3社が共同開発した「PowerPC(パワーピーシー)」というチップから、「インテル」社製のチップに切り替わって、ソフトのつくり方ががらっと変わってしまった。
しかし、このときも「Rosetta ロゼッタ」と名づけられた互換機能によって、PowerPC用につくられたソフトも動く環境が保証されたが、その「ロゼッタ」も、2010年10月のバージョン10.7(Lion ライオン)では廃止されてしまった。その結果、『スーパー・ニッポニカ』と『プロアトラス』も使えなくなってしまったのである。