青群



青群(せいぐん)





1



 昭和三十九年三月、肌に触れる風も生温かい中旬過ぎの午後、ぼくはひとり、京阪京橋駅から特急電車に乗り込んだ。この電車に乗るのも回を重ね、京都までの普通定期券もすっかり手になじんでいる。

 定期を貿おうと言い出したのは小学校から高校までずっと同級生であった男だったがこれは仲々の妙案であった。入学試験で数回京都、大阪間を往復した他、発表待ちの十日ばかりの間に何度も京都へ遊びに行けたのだから。しかしその定期券もひよっとして今日で使うのが最後になるかもしれない。

 発表は午後一時の予定であったが、ぼくはわざと一時間位遅れて家を出た。大勢が息を詰めて待つ中で、そろそろと白い巻き紙が掲示され、どっと見詰める視線が一瞬静まり、そして突如誰かが感に耐えかねたような喜こびの声をあげると同時に一挙にその場の緊張が解けてあとは新聞などでおなじみの悲喜こもごもの発表風景、そういったものを目のあたりに見るのはどうしてもいやで、又、第一あまり自信がなかったのだ。

 高校の教師からは、太鼓判とまではいかぬが、「まあいけるやろ」ぐらいの励ましを受け、自分でもそれなりの自信もあったのだが、最初の日の試験で失敗してしまった。

 文学部を受験したのだけれど、実は数学が一番得意であってかなりの自負心も抱いていた。ところがその数学で、出来ると思ってやり出した問題が計算の結果どうも駄目と判り、それで慌ててしまったのである。もう時間もかなり使っており、又、この思いがけぬ失敗で頭が混乱し、一瞬目の前が真っ暗になったみたいであった。

 他の苦手科目をカバーするという胸算用もあったし、それよりも、これまでなんとか勉強してきた支えとなっていたのは、数学が得意であるという自負心でもあったので衝撃は大きかった。しばらくは放心状態で他の問題に手をつける余裕もなく、その時頭の中に、その朝校門の前で配っていた予備校のビラや、母親の心配そうな顔などいろいろなことが思い浮かんだ。

 帰って夕刊を見ると早速その日の問題が載っている。解答を記憶と照らし合わせてみるとやっぱり間違っていた。きたるべき衝撃を和らげるためにあらかじめ悲観的な見通しをたてる癖がぼくにはあって、そうすればうまくいった時はその喜こびも又大きいのであるが、この場合はそんなゆとりもないようであった。

 一種の励ましだったのだろうが、予備校や私立にいくのは経済的に駄目だと日頃から母親に言われており、いつの間にかそれが心の重荷になっていた。でもこうなったからにはどうせ言わねばならぬ事なので、思い切って、「あかんみたいや」と遠回しに言ってみた。すると母親はちょっと暗い表情を見せたが、いつもの軽口とは違うと気付くと、「そんなお金はちゃんと用意したァるから心配せんでええ」と励まし口調で言った。

 あとの試験はもう破れかぶれ、駄目でもともとという気持でかえって腹が据わったみたいであった。夜もぐっすりと眠れ、体調もよく、苦手な科目も案外出来たようでそうなると、これはひょっとするとひょっとするぞ、と思うようになってきたのである。

 発表待ちの間は、高校同級の友人たちと思い切り遊んだ。もう幾日かすればお互い明暗にわかれるかもしれない、と誰も口に出しては言わぬが、それまでのつかの間を高校時代の最後としてパッと花を咲かそうという感じであった。そう遠くはないのにこれまであまり行ったことがなかった京都や奈良の有名寺院を見に行ったり、友人の家に集って覚えたての麻雀をしたりして楽しい時を過した。

 しかしいよいよ発表当日となるとやはり駄目であった。せっかく芽ばえかけた自信も大いにぐらつき、朝から気が重かった。京都まで行く足も重く、車中の四十分ばかりの時間がたまらなく長い。本を一冊かばんに入れてきたがとても読む気になれず、といってぼんやりしているといやな事ばかり考えてしまうので、仕方なく窓の外を眺めて京都まで線路を横切る踏切りの数を数えたりした。

 そしていよいよ大学に着いた訳だが、それまでの重圧でくたくたになっていたのだろうか、この時はまるで夢見ごこちで妙に落ち着いていたようだ。時間をずらしてきたのでさすがに人影は少なくて、文学部の発表場所には誰れもおらず、白い紙がポツンと戦いのあとのように風に揺いでいた。

 さあ、いよいよだぞ、と腹を括った覚えもない。ただフラフラとまるで他人事のようにその紙を眺めていたように思う。はじめから順番に目を走らせていくと一緒に受けた同級生の名前があったり、なかったりして、ああ、とふと思ったが、自分の名前をそこに発見した瞬間は何も考えていなかったみたいである。

 高校受験の時は、ぼくの中学校の受験生は全員合格で、見に行く途中で友人がその結果を教えてくれたので、発表を見てはじめて結果を知る、というのは今回が初めてであった。だからその結果を見てどう感じるか、来る途中の時間にあれこれといろいろな場合を想定して予測しておいたのだが、いざその場になるとそれらは全てはずれ、一瞬無感動な状態に陥ってしまったのである。

 嬉しいには違いないのだが、それを素直に表わすのがいけないみたいな気がし、目の錯覚ではないか、ということばかりが気になった。何度も眺めていると、二百人ずらりと名前が並んでいて、たかだかその一人ではないか、という気もしてくる。それにしてもこれを戦いと形容すれば勝ったことは確かなのだ。しかし、その勝ち方は、何かはぐらかされたような感じで、何だ、こんなものか、という気もした。でもともかくこの日からぼくの大学での生活が始まったのである。





2


 発表時の無感動もその後徐々に喜こびのようなものに変り、入学してしばらくはこれまでとは全然異なる環境の中で慌しくも昂揚した気分で夢中だったようである。

 本来宵いっ張りの朝寝坊のぼくが毎朝六時に起きて朝一番の特急電車に乗るのもさほど苦痛とは感じなかった。一般教養科目は大教室で行われ、さながら講演会のようで、そういう授業で毎時間ぞろぞろと教室を移動するのも物珍しく楽しかった。

 しかし徐々に大学にも慣れ、緊張も解けていくにつれ、だんだんと早起きの疲労が出て、早朝の授業など居眠りすることが多くなってきて出席は悪くなっていくが、それでも夏休みまでは勤勉に授業を受けていたようである。二百名の文学部新入生は教養部で四つのクラスに編成され、ぼくはフランス語第一外国語の四組、いわゆる L4(エルフォー)に入った。ドイツ語ではなくフランス語を選んだのは、高校時代、ジャン・コクトオの作品やジェラール・フィリップ主演の恋愛映画などをテレビで見てフランスはいいなあ、と漠然と思うようになったからで、又、仲々好きになれぬ英語のかわりに、というつもりか、高三の時テキストを買ってしばらくNHKテレビのフランス語講座を見たこともあった。

 しかし「エルフォー」ということばの響きにはそんな甘ったるいフランス崇拝をこえた特異な語感が伝統的にあったようである。それは、良くいえば、一風変った面白い連中の集まるクラス、具体的には、毎年二回生の終りに全学一の大量留年を出すクラス、というものであった。そしてぼくたちの時もこの伝統に忠実で、というより、そういう伝統の頂点を極めたと思われるほど多士済々で、そんな中での交遊によって得たものはぼくにとって限りなく大きかったといえる。

 日本人のフランスに対するイメージの中に微かに巣食う甘美な頽廃感、それを忌避する気持と、又裏腹にあるそれへの憧憬、それらが綯(な)い交ぜになってひとつの俗説めいた定説が確立し、その定説によって、もともとそんなでもなかったぼくたちも大いに鍛えられたのかもしれない。

 お互いまだ相手をよく知らぬまま何回か語学の授業を受け、そのうちに誰かから自己紹介をしようじゃないかという声が出た。その時、いつも中央最前列の席に陣どっている丸坊主に登山帽の男がすっくと立ちあがり、「では僭越ながら、わたくし、司会をさせて頂きます。よろしいでしようか?」と言うと、みんな唖然としているのも構わず、「ではわたくしから」、と滔々と自分の自己紹介をはじめたのである。

 この群馬県出身のAという男はその特異な風貌や、授業中、中央最前列で教官の話にいちいちコクリコクリと大きく頷く動作、それに初めから誰かれ構わず話しかける人なつこさで、多士済々の中でも最初からやたらに目立った存在であった。おかしな奴がいるなあ、とものすごく強烈な第一印象を受けたものだが、その彼がまもなく学生運動の世界に入り、ぼくも彼に引っ張られるかたちでしぱらく同志として付き合うことになろうとは、その時は夢にも思わなかった。

 こうして自己紹介が始まったのであるが、いろいろみんなの話を聞くうちに自分が未だいかに高校生臭を残した子供っぽい存在であるかを痛感せざるを得なかった。ぼくらの年は戦争の影響か、前年度に比べて極端に高校卒業者が少なく、そのためいわゆる大学浪人をした入学者が多かった。そういった連中の話には、何か人生経験の裏打ちのある成熟したものが感じられ、ぼくなど畏怖に似た感じを抱いたものである。関西以外のいろいろな地域から来ている者もたくさんいて、まず驚いたのは、彼らがはっきりした目的意識をもって京都までやってきているということであった。

 この大学の東洋学に憧れていたとか、フランス文学をやりたいなど自分の目標をみんなの前で堂々と話しているのを聞いて何故か不思議な気分に襲われたのである。というのは、ぼく自身に未だそのようなはっきりした目標がなかったこともあるが、それよりも、たとえそのようなものがあったとしてもそれを人前で軽々しく言うべきではないという気がしていたからである。それは一種の照れ臭さみたいなものに過ぎなかったかもしれない。しかし、そういうものを飛びこえて妙に恥じることもなく、自分の抱負をみんなに語りうる彼らに対して、即ちこれから自分が何年か生活する新しい環境に対して、何かしら新鮮なものを感じたのは確かであった。

 さて、大学に入ったばかりの新入生たちがまず何よりも先に接するのが学生運動である。校門まで来るとそこには大小色とりどりの看板がいくつも立てかけてあり、門をくぐるやパッとビラを渡される。構内に入ると又もや立看板が林立し、そのうしろで拡声機をもった男が盛んに何やら激烈なアジテーションをやっている。教室に入れば机の上は各種のビラだらけで、授業を受ける学生たちが大体顔を揃えた頃にはどこからか上級生らしき活動家が入ってきて、今日の集会の参加を呼びかける演説を教官が来るまでやっている。

 こういう、言ってみればかなり不躾(ぶしつけ)な接触に対し、素直に興味を示す者もいれば、当然アレルギー的な嫌悪感を起す者もいる。しかしぼくたちのクラスは初めから前者の方が多く、クラスとしての立ち上りは早かったようだ。早々に自治委員が決まり、クラス討論というものが始まった。中には、早くもデモに行った、という者もいて、それも何らかの刺激を与えたようである。

 後になってわかったのだが、高校時代からそういう運動の末端に関係していた者が何人かいて、彼らが当初クラスをリードしていたのだ。ところがしばらくして、彼らと、彼らによって啓蒙された連中との間に方針上の論争みたいなものがあったらしく、最初のリーダーたちは間もなく失脚してしまったのである。そしてそのあとに擡頭(たいとう)してきたのは比較的政治主義的な色合いの薄かった連中で、驚いたことに例の丸坊主に登山帽のAがリーダー格となったのである。

 自治委員二名をクラスで選び、彼らで構成する自治委員会で執行部の提起する方針が討論され、その結果を又、クラスで討論する、というごく当り前のいわゆる自治会民主主義に則ってクラスは動きはじめた。もちろんそういうものに生理的に反発する者や、何を今更、といった感じの者もいたが、それでもともかくこういったものを推進していったのは大学という新しい、そして広い世界の中で目を白黒させながらも闇雲に何かを吸収しようといういわば「うぶ」な連中たちであって、ぼくもその中の一人であった。

 当時、週に一度ぐらい「統一行動」と称したデモが企画されていた。「原潜(原子力潜水艦)寄港反対」などその時々の政治課題がスローガンの中心であったが、安保闘争、大管法(大学管理法)闘争などの昂揚期も過ぎて、運動は退潮期に入っており、参加する者は少なかった。

 大学内でまず集会がもたれるが集まるのはせいぜい百人程度で、五月雨(さみだれ)式にショボショボと同志社大学か立命館大学まで行進する。そこで京都規模の集会がもう一度あり、その間に何とか数が揃って、日が落ちる頃いよいよ河原町通を南下するデモがはじまるのである。

 丸太町通あたりからボツボツ警備の警察官が増えはじめ、御池通にくると乱闘服姿の屈強な機動隊員がどっと待ち構えていて、そこからはデモ隊にぴったりとくっついて規制をはじめる。その頃のデモの戦術的目標は四条河原町の交差点を左折する時に機動隊の壁を突破してジグザグデモをやり、一時的に周囲の交通をマヒさせるということであった。そこでいよいよその地点にやってくるとリーダーの笛を合図にスクラムをしっかりと組み直し、一斉に腰を落して、ワッショイ、ワッショイの二拍子の掛け声でやおらジグザグデモに入ろうとするのだが、それと同時にぼくたちよりも二まわり以上も大柄の強そうな機動隊員たちがどっと先頭集団に襲いかかり、殴る蹴るで、あっという間につぶされてしまうのであった。

 先頭がつぶれると後続はバラバラになってしまい、結局道路の中央までも押せぬうちに河原町通から四条通へと押し出されてしまう。もう一度隊列を組み直し、屈辱の怒りを押えて円山公園に向ってトボトボと行進し、終結点の祇園石段下でもう一度機動隊の壁にアタックするのだが、この時は向こうもいささか力を抜きかげんで、ジグザグデモが成立し、何とか欝憤を晴らして公園内に入る頃は汗だくだくで、時には服がどろどろのこともあった。

 誘われて初めて参加した時はさすがに驚いたが、何回も行くにつれて、あの、スクラムを固く組み、腰をかがめ、さあいよいよ、という時の緊張感が何ともいえぬものとなってくる。頑丈な編上靴で蹴られながらも必死に押し、そして崩され、隊伍を組み直して士気を高めるためにやけくそみたいに歌う〈インタナショナル〉。そしてやっと全コースを終え、無事だったか、と汗をタラタラかきながら知らぬ者同士互いに煙草の火をつけあう時の爽やかさ。稀れに機動隊に押し勝ち、道路いっぱいにジグザグデモやフランスデモを繰りひろげる時の快い征服感。何のことはない、ぼくにとってはどれも政治運動とは直接関係のない、言ってみれぱ若いエネルギーの吐け口であったのだ。

 何でもよいからとにかくデモに引っ張り出せばそこで機動隊に一発殴られて、どんな奴でも意識が変わるだろう、という荒っぽいオルグ論が活動家仲間で冗談としてよく言われていたが、こうして一緒に汗を流し、血を流し、屈辱の涙を流した者同士の連帯の絆にはいわゆる「思想」をこえた強いものがあった。

 このようにして運動に加わる者が増えるにつれてぼくのクラスは最も先進的なクラスと目されるようになり、デモ参加の他、クラスで宣伝ビラを作って、早朝駅頭などへ撒きに行ったりするようになった。ぼくは比較的、ビラを作ったりする作業が好きだったので、よく夜遅くまで自治会ボックスで印刷を手伝ったりした。そんな時、いつもは演壇に立って全体を鼓舞している自治会委員長が、ひとり黙々と明日の看板を書き、ビラを切っているのを見て、何故か自治会に対して強い信頼感をおぼえたりしたものである。そんなことをしているうちにぼくも妙に重宝がられるようになって、いつの間にかクラス活動家群の一員みたいになってしまった。

 授業の合い間や放課後こんなことで走りまわっている時に、高校時代の友人たちとすれ違ったりすることもある。そんな時はいつもいやな思いがした。大体、学生運動に首を突っ込んだりする者は高校時代からそういうことが好きだと見なされている者だ、というような感じが一般的にあり、高校時代そんな感じを殆んど与えなかったぼくがそういうことに関わっているのを見て、みんな一瞬怪訝(けげん)な表情をするのである。ぼく自身、実のところ、自分に対してそういう気も少々していたから、はにかみながら恐る恐る、勧誘めいた話をしてみると、みんな一様に表情が冷たくなって、そんなアホなことようやってるなあ、と言わんばかりの顔をするのである。

 高校時代親しかった友人が北白川あたりに下宿しており、物珍しさから、時々遊びに行ったのだが、そんな時、偶々運動のことに話が及んだ。すると彼は突如、生理的嫌悪感を露わにし、まるで人が変ったみたいに、デモのために一般市民がどれだけ迷惑しているか、というようなことを頑迷に述べはじめ、そんなことから口論みたいになって、以後気まずくなってしまった。

 理屈でいうと、ぼくたちのやっていることには違法な部分や一般の理解を得がたい部分もあり、論理的にはこちらも充分に自信がないので説得しきれず、何もしないくせに優位な立場にいる相手を怨めし気に見ながら、どうしてわかってくれないのだ、と心の中で繰り返すばかりであった。

 何故かよくわからないが、大学に入って以来、変らねばならない、古い上着は脱ぎ捨てねばならない、という自己変革の衝動がぼくの基調に流れていた。思いつく理由みたいなものをあげてみれば、例えば自分の性格ということについて、小学校以来、ぼくの評価は一貫して、内向的、消極的、内気、おとなしい、ということになっており、まわりの者や家族にもよくそういうように言われていたが、ぼくはそれがくやしくてならなかったのだ。

 確かにそういう評価が当っているところもあり、それをそのまま認めて、それなりに納まってしまえばよいのだが、それがどうしても出来なかった。おそらくこういう他人の評価などは軽い気持のものに過ぎないであろうが、ぼくはそれを必要以上に重大に受けとめて、いやそんなことはない、絶対に違う、よく見ていてくれ、といつも唇を噛んで大きくなってきたみたいである。

 ぼくにとって大学は広々とした世界であった。例えば酒も煙草も公認のいわゆる大人の世界で、又、全国から人間が集まっているという意味の広さの他に、高校時代までの、いつも目前にハードルがあって、それを跳びこえねば前へ進めないという窮屈さから解放された、というよりも、常にその一番高いハードルを飛びこえてきたという自負に満ちた解放感があった。やるべきことは全てやったし、もうこれからは誰もとやかく言うな、という一種過剰気味の自信が、物理的にも広い世界へ入って、さあ何でも思い通りにやれる、という楽天的な状態をもたらしたのである。

 今思えば、こういう情念には何か逸脱したものが感じられ、例えば高校時代の友人たちが見せたあの怪訝そうな表情の意味も理解できるような気がする。要するにぼくは大学に入って一挙に目標物を見失ってしまったのだ。このことは自分でもこれまで認めたくなかったのだが、つまり、それまでは大学へ入るためにのみ一生懸命勉強してきて、いざ入ってしまうと果してそこで何をやったらよいかわからなくなってしまうという、いわゆる「受験馬鹿」的アナーキーな精神状況に陥ってしまっていたような気がするのだ。そして薄々それがわかっていながらどうしても認めようとはせず、違う違うと呟(つぶや)きながら、それを実証せんがために何やかやと動きまわっていたところに、ぼくにとって、不幸といえば不幸なところがあったのかもしれない。

 しかし当時はそういうことに思い至らず、昔の友人たちがみんなおかしいのだ、これまでの自分がおかしかったのだ、と勢いにまかせて全て斬り捨て、それらと精神的に訣別することとひきかえに新しい世界が開けていくような充実感を感じていたが、何か無理をしているのではないか、という不安はどうしても拭いきれなかった。

 高校時代の同級生に好きな女の子が一人いて、卒業後もしぱらく手紙をやりとりなどしていた。しかし彼女は進学せずにすぐに就職していたのでお互いにだんだんと共通の話題も少なくなり、ぼくも先に述べたようなことで頭がいっぱいで、いつの間にか疎遠になっていった。何年か経って、どちらからともなく、逢おうということになり、二人で京都を歩いた。ぼくの通っている大学を是非一度見てみたい、と言うので、確か休暇中であまりひと気のない構内を案内し、何となく納得したみたいな彼女を連れて、折りからの小雨の降る中、銀閣寺から哲学の道を通り、南禅寺に出て、河原町まで、歩きに歩いた。日が暮れて雨は激しくなり、食事を共にする機転もきかぬままに、そのまま阪急電車に乗って高槻あたりの彼女の家の近くまで送っていった。その間ずっと、二人で何やかや取り止めのない話をしていたのだが、いよいよ別れる時になって二人とも急に口が重くなってしまった。何か言いたそうな、或いは何か言って欲しそうな顔をしているのがよくわかったが、結局何も言えず、そのままありきたりの別れの言葉をかわしただけであった。別れたあと、どしゃ降りの中、一人で傘をさして駅まで歩いているうちに徐々に空しさがこみあげてきて、どうしてよいかわからないのに、そのまま電車に乗る気もせず、偶々駅前にあったパチンコ屋へ飛び込んだ。こういう時に限ってよく玉が出るもので、欲しくもない景品をもって外へ出た時にはもうすっかり雨は止んでいた。彼女が平凡な結婚をしたと風の便りに聞いたのはぼくが大学院に入った年の冬のことである。






3


 学生運動も深入りしていくと、政治というものにぶつかる。四月から五月にかけてキャンパスで派手に繰りひろげられる自治会主催の様々な新入生歓迎行事、例えば有名講師を呼んでの講演会や映画会などの文化的行事、それに毎週企画きれる街頭デモその他、これら全て、ある一面からいえば新入生を出来るだけ運動の中に引き込む手段であるとさえいえるぐらいだ。そしてそれら多種多様の誘ないに、畏れと好奇心のまじった関心を寄せてくる新入生を出来る限り自治会の活動家に仕立てあげ、そして究極的には自分たちの党派の一員に繰り込みたい、という政治の意志があった。

 後に自分もその末端に関わるようになってから知ったことであるが、彼らは、教室でのクラス討論、自治委員会、デモの現場、サークル活動などありとあらゆる場所での新入生の顔ぶれやその言動について常に情報を把握し、めぼしい者をリストアップしてそれら各人の思想傾向を色分けし、そうした資料をもとにこれという者を選んで集中的にオルグ、即ち説得活動を行なうのである。

 大学というのは年々卒業、入学を繰り返す流動的な構成なので、その中で一定の組織を維持していくにはどうしても毎年の新入生を補充しなければならない。もしそれが出来ないとなると、組織というのは結局は人間でしかないから先細りとなり、数年後の消滅は免れえないのである。だからこそ毎年春になると何よりも新入生の獲得が重要となるのだが、運動の下降期においてはいわゆるシンパ層の幅が狭くなり、その中で有能な活動家になりそうだと思われる者はといえば数える位しかおらず、彼らの争奪をめぐっていくつかの党派が目に見えぬところでしのぎを削っていた。

 ぼくたちのクラスにもそうした誘いの声がいろいろな党派から個別にかかっていたらしい。しかし結局のところ、クラスの大勢は当時の自治会主流を占めていた「関西ブント」と呼ばれる、かつて安保、大管法闘争を主軸となって闘い抜いたと自負する党派の影饗下に入っていったようである。それは自治会執行部などとの間に出来た単なる人間関係による側面もあるが、この党派のかかえる厖大なシンパ層の醸し出す幅広い自由奔放さ、或いは一種文学的ともいえる雰囲気がぼくたちの肌に合ったということであろう。

 慌しい数ヶ月が過ぎて夏休みに入った頃であったか、みんな帰郷して人のまばらな西部構内の生協食堂でひょっこりAに出会った。同じ仕事を通じて大分親しくなっていたのでいろいろとつまらぬ話などをしたあと、彼は別れ際に、ニコニコ笑いながら、俺もとうとう同盟に入ることにしたよ、と打ち明けた。クラスで最も頑張っていた活動家であったので、当然これまでもいろいろな誘いの声がかかっており、彼にも考えるところがあってなかなか踏ん切りがつかないみたいであった。その彼が、ひと気の少ない食堂でふとさり気なくそういった顔はさばさばとして実に明るく、晴れ晴れとしていたのを覚えている。

 夏休みは寮の会議室を使って、同盟の新入生向け学習会があり、Aに誘われて顔を出してみた。テキストは「共産党宣言」「帝国主議論」といったもので、チューターとして同学会と呼ばれる全学自治会の幹部をしている小柄な人がやってきた。参加したのは十人足らずだったが、この人はやたら大きな声の演説口調で説明をはじめ、それが延々二時間三時間と続いて、さすがにみんな疲れてしまった。居眠りしたり、中には横になって本格的に寝込んでしまう者もあったがいっこうに平気で滔々と喋り終えてさっと帰ってしまったが、実に不思議な会合であった。

 しかしこういう会合に顔を出したりするうちにぼくにもぼつぼつと誘いの手が伸びてくるようになった。前に述べたように当時は運動の、停滞期であり、そういう活動をすることは一般に魅力的とは映っておらず、最初は物珍し気に集会などにやってくる連中もそのうちに姿を見せなくなり、ましてや活動家になろうという人材は新入生全体を見渡してもごく僅かであった。これでは政治組織にとっては日常的な活動を維持していくのも困難だという危機的な状況で、だからこそ、ぼくにまで誘いの手を伸ばさなければならなかったのだと思う。

 ぼくとしても強い関心はあったが、未だ、全てを投げうってそれに没入するという気もなく、せいぜい第一線のあとに控えるいわゆるシンパ層の一員ぐらいが妥当だと思っていた。それに、活動家になれば当然、毎日授業前に全然知らぬクラスヘ飛び込んでビラを配り、何かしらのアジ演説をしなければならない。ぼくにはそういうことが性格的にどうしてもいやでたまらなかったのだ。

 だから時々かかってくる誘いの声に対しては、いつも言を左右にして曖昧に断わりの意志を表示していたがはっきり断わることも出来なかった。というのは、こういう活動を通じて自分は変わるのではないか、思い切って同盟の活動家になってしまえば完全に生まれかわった人間になれるのではないか、という色気が少々残り、又、この世界と絶縁してしまってこれまでいくらか出来あがった人間関係を無にしてしまうのも寂しい気がしていた。だから同盟には加入しないまでも準同盟員的にこれまでどおりの活動にとどめておくことが一番好ましかったのであるが、そんなぼくを彼らの方では大いに脈のある存在だと見なしていたかもしれない。

 ぼくがしていたのは大体がクラス内のことについての仕事で、自治委員選挙の他、ストライキなどが設定されてクラスで参加決議を取らねばならぬ時など、Aや、その後同盟員となった大阪出身のBらとともに喫茶店に集まってクラス内の動態分析をしたり、票読みをしたりした。

 こういう会合の時、いつも電話で呼び出されて駈けつけてくる一人にCがいた。茨城県出身で二つ年上であったが、実にお人好しでそのやや訛(なま)りのある落ち着いた語り口には相手を安心させるようなものが感じられた。ぼくとは初めから気が合って、一乗寺にある彼の下宿へはよく泊まりに行き、しまいには、大阪住まいのぼくにとって、京都でのアジトみたいな感じがするぐらいであった。

 彼の下宿の近くにもう一人同級生がいて、お酒を買ってきて、三人でいろいろと夜を徹して話をしたものである。三人とも映画が好きだったが、映画好き同士は妙に馬が合うもので、「こんな映画みたか?」と言うと、「うん、見た見た。あの映画はここがよかったねえ」と話がはずむ。個人が背負っている記憶はもちろん各人別個のものであるが、その中に一本でも共通の映画があると、それがまるで共通の記憶のように思われ、それまで全く未知の相手であっても深い親しみをおぼえるようになるみたいである。

 十二月になって同学会、教養部自治会が改選期に入り、その時選挙管理委員を頼まれたことがあった。教養部の定員は十人程で各党派に比例配分されており、それぞれその党派の利害を背負って、時によってはえげつない工作をしなければならないポストだそうだが、この時は直前に反主流派内に分裂騒ぎが起り、勝敗は初めから決まっていたようなもので、実際にやる仕事は寒い中、校門のところなどに坐って投票事務をしたり、開票をするだけであった。

 選管委員長は二回生で、最主流の党派の中の切れ者というのがこれまでの慣わしであった。ところがこの時の委員長は医学部に籍を置く一学年上のP氏という人で、同盟の連中とは殆んど顔見知りのぼくにも面識のない人物であった。「何者や?」とそっとAに訊いてみると、「最近同盟員になったんやけど、仲々面白い人や」と妙なアクセントの関西弁で説明してくれた。

 一緒に仕事をしてみるとやはりAの言ったとおりの人物で、又とても元気がよいのである。投票事務のことでよく他党派の委員といざこざが起ったりするのだが、そんな時すぐに飛んできて掴みかからんばかりに口喧嘩をする。ところがそういうことになっても妙に憎めないところがあって結局、相手の方が苦笑して引き退ってしまうという按配であった。又、外見に似合わず几帳面なところもあり、夕刻の投票締切り時刻には毎日自転車で広い構内中を走りまわって投票箱を集めたりしていた。

 運動の下降期における活動家不足はひどいもので、教養部段階の同盟の活動者会議に顔を出したこともあるが集まるのはいつもせいぜい十人位で、いくら他派と共闘関係を結んで主流派を維持しているとはいえ、これだけの人数で二千人を超える教養部自治会を動かしているのかと思うと唖然としたぐらいである。もちろんこういう活動家の下にはそれぞれぼくみたいなシンパがいるのだろうが、こんな絶対的な活動家不足の中では、各々の活動家に仕事や責任が集中しがちで、それに耐え切れずに一時的に運動の表面から姿を消したりすることがよくあり、それを仲間うちでは「消耗」すると名付けていた。

 でもこの時は下降期とはいってもまだそのどん底まではいっておらず、半年後には自治会選挙で大敗して、もっとひどい状態が四十二年の羽田闘争の頃まで続くのだが、その苦しい時期に次々と殆んどの活動家が「消耗」していく中で、このP氏はAらと共に「消耗」しない数少ない活動家の一人であった。

 ぼくなどとやかく言う資格はないが、こういう時代を生き抜く、というより、こういう時代にこそ異彩を放つタイプというものがあるみたいである。例えばP氏などの場合、いろいろな理論学習を通じて成長していくという従来のタイプとは全く異なっており、日常の活動の中で生き生きと動きまわるのが性に合っているみたいで、理論よりも行動を通じて自分の思想を確立していくタイプのようであった。

 選挙に敗けてそれまで使っていた自治会ボックスを追われ、小さなサークルボックスしか拠点がなくなった時、彼はそのキャップとなって教養部の指揮をとっていた。その時それまで共闘関係にあった党派のキャップクラスと活動家の動員のことでいざこざがあり、P氏は鉄拳制裁を受けて翌日顔を大きく腫(は)らしていたことがあったが、その制裁の遠因となったぼくたちには、一切怨み事めいたことは言わなかった。

 同盟の会議の時も殆んど発言せず、隅の方で黙って耳を傾けているだけだったが、いざ現場に出ると水を得た魚みたいになり、又一番信頼できる存在であった。「消耗」しないということで、却ってかげでは馬鹿にされているようなところもあったが、そんな事は一切気にせず、とにかく走り続けていったようだ。ぼくが学部に進学すると共に彼との接触は絶え、その後どういう経緯があったか知らぬが、数年後大菩薩峠で逮捕されたという報を新聞で読んで、その間の軌跡が何となくわかるような気がした。

 クラスで雑誌を出しはじめたのは一回生の終り頃であった。ガリ版刷りをホッチキスで綴じた粗末な雑誌であったが二ヶ月おき位の割合で四号まで出した。しかしこの「えるほう」と名付けられたクラス雑誌発刊の構想も、もとはといえば政治的発想だったのである。

 AやBらと共に喫茶店でクラスの動態分析をしていていつもネックとなるのは非政治的文学青年グループとでも呼ぶべき一群で、これまでいろいろ働きかけをやったがどれも徒労に終っていた。そんな時、Aの発案で、文学青年だったら文学雑誌みたいなのをやればいいのではないか、ということになり、Bとぼくがその係りになってやってみることになった。

 さっそく声をかけてみると案の定彼らも興味を示し、中には長年暖めていた長編小説の一端という原稿を持ちこんでくる者もあった。ぼくもそこに短かいエッセイや映画評などを書いたが、卒業文集みたいなのを除いては、自分の書いたものを公けにするのは初めてであった。もともと以前から日記帳に思いの丈をこまめに書きつけたりするのは好きで、だからそんな調子でただ思ったことを恐いもの知らずに書いたのだが、案外好評の声もあって妙に自信がつき、書くことが面白くなってきたのは確かである。

 この雑誌がきっかけとなり、一年後にはもっと本格的な同人雑誌を、比較的政治的であった文学青年グループと共に出そうということになるのだから、この雑誌も当初の政治的な目論見の成果の程は確かではないが、思わぬ契機を生み出したものである。





4


 ぼくに対する同盟加入の勧誘はその後もAを通じてたびたびなされていたが、一回生の終りになってぼくも決心がつき加入することになった。

 工学部の委員長もしたことがあるいかつい顔のQ氏にある日喫茶店に呼び出しを受けたのだ。用件は薄々わかっていたが、行ってみるとそれまで殆んど口を聞いたこともないQ氏が日頃余り見せぬにこやかな顔で親切に説得してくるのである。だいたい心は決めていたが、条件をひとつ出した。それは仕事はこれまで通りで、又、アジ演説などは出来ない、というものであったが、Q氏は即座にそれを認め、もうこれで断わる理由もなくなったので加入用紙にサインをした。

 Q氏と別れて喫茶店を出て、夜の京都の街を歩いていると、その前の年の夏、生協食堂で会った時のAの晴れ晴れとした表情が思い出され、長い間の重荷をやっとおろしたような爽やかな気分であったのを記憶している。

 約東通り仕事はクラスのことが主で、ただ週一回程度行われる同盟員総会に出席することが義務づけられただけであるが、四月に入って新入生を迎える頃になるとそうもいかなくなってきた。

 前の年の冬、選挙管理委員をしていた頃は分裂直後で混乱状態にあった反主流の党派がこのところ急速に立ち直りを見せはじめたのだ。異分子を追放してかえって組織内がすっきりしたみたいで新一回生の自治委員もかなり獲得していた。だから、例えば二つに分裂していた統一行動のどちらに参加するか、といったことで自治委員会はいつも紛糾し、票差も少なくいつ逆転されるかわからぬ状況となっていた。

 そこで自治委員会の前日には必ず主流派の活動者会議が開かれ、明日の会に向けての自治委員のオルグの分担がなされるのであった。自治委員の多くを占める態度不明の委員がリストアップされ、その住所を書いた紙切れを渡されて、夜の京都の町へ散っていくのだが、ぼくもこの仕事から免れる訳にはいかなかった。

 全然見ず知らずの名前を貰い、それまで行ったこともないその下宿を、地図を頼りに捜すのは大変心細いものである。やっと家を見つけ、強引にあがりこんで、明日はこちらを支持してくれと説得するのだが、仲々相手の態度は冷たく、一方的にこちらの主張だけを述べて逃げるように帰ってくることが多かった。ある時など、出町柳から叡山電車に乗って岩倉まで出かけ、すっかり暗くなった田んぼ道をさんざん尋ねまわってやっと見つけると相手が留守で、かえって何かほっとしたようなこともあった。

 何度かこういうことをするうちに、自分にはどうしてもこんな仕事は耐えられないと思うようになった。あちこちと足を運ぶことよりも、向こうで相手を説得するのにどうも自信が持てないのだ。説明する政治方針そのものがどうしても自分になじまない気がするのである。もっと自分に適った仕事は他にないだろうかと思いかけていたある日曜日、吉田山山麓の小さな神社で開かれた活動者会議で同じクラスのDに会った。

 彼は中国文学志望の文学青年だったが半年ほど前から生活協同組合の組織部というのに入っていた。これまでいろいろと生協運動のことも耳にはさみ、少し興味と魅力を感じていたので、この時の帰り道、彼に、「組織部のポストは空いていないだろうか」と恐る恐る尋ねてみた。すると意外にも彼の顔が和いで、「今、組織部は人手が足りなくて困っているんだ。今日も実はそのことで応援を要請に来たのだけど、みんな忙しそうで、言いそびれてしまった」と言うのである。

 これは渡りに船、と今の自分の気持を述べ、生協組織部の活動についていろいろと聞いてみた。彼の話によれば現在、生協の方も自治会と同じくかなりピンチな状態だそうで、それは覚悟してくれよ、と何回も念を押されたが、ぼくは、自分が自治会の政治的活動よりも、どちらかといえば生協のような経済的な活動の方が向いている気がしていたので、その場でよろしく取り計ってくれるよう彼に頼み、後日Aを通して同盟の方にもその旨了承をとって、いよいよ組織部に入ることが内定した。

 生協とは、学生、職員などを組合員とし、組合員の出資した金を資本に食堂や書店などを経営し、市価よりも出来るだけ安く品物を供給する組織で、組織部とは学生の生協加入を促進し、又生協運動の意義などを宣伝する機関であったが、実質は生協運動の政治局的役割を担っていた。組織部員は一応生協の準職員であって、月々三千円の手当が出る。そのため組織部に入る手続きも結構面倒で、入部論文を求められ、原稿用紙に二十枚位、学生運動について思うところを書いて出したものである。

 こうして正式に組織部に入ってみて驚いたのはその政治状況が思っていた以上に悪いことであった。生脇労働組合と一体となった反主流派の攻撃がものすごく、連日誹謗中傷に満ちた宣伝ビラを大量に撤かれる中で、自治会の自治委員にあたるクラス総代の獲得が思うように捗らなくて、半月後に追った定期総代会に向けていくら票を読んでも足りない情勢であった。

 又、組織部員に大分欠員があって人手が足りなくて困っているというのを聞き、早速、Cらクラスのシンパ層などを口説いて無理矢理組織部に入ってもらうことになった。そしてここでも最初の仕事は総代をオルグしてまわるということで、Cと組んで二人で態度未定の新入生総代の下宿をいろいろとまわったが、ぼくたちが行く前に既に敵方は何度も訪問を済ましているといった有様で、こちらの不利な形勢を痛感させられるばかりであった。以前からいる組織部員たちはそういう情勢はとっくに知り尽しており、部内には既に敗北ムードが蔓延しかかっていて、議論の中心はもはや、いかに撤退するかということに移っていた。

 これまで月一回、組織部の主催で西部講堂において生協映画会が催され、ぼくもかつてはその大ファンだったのだが、それもわれわれの手でやるのはこれで最後ということで、この際好きなやつをやろうと、大島渚の『日本の夜と霧』という作品を選んだ。もうオルグにまわる気もせず、半分やけくそ気味でビラや立看板をたくさん作り、組織部一丸となって大宣伝を行ない、映画会は大盛況であった。その作品中には現在敵として闘っている党派を大いに揶揄するシーンがあり、それがこの作品を最後に選んだ眼目でもあったのだが、その箇所で大拍手が起こるのを客席の隅で聞きながら僅かに溜飲を下げたのであった。

 総代会当日は最初から荒れ気味で、というより、劣勢の明らかなわれわれが何とか混乱を起こそうとしていたのだが、圧倒的優勢を誇る敵方は、議長をまず確保して思いのままに議事進行を進めはじめた。それを何とか妨害しようと、野次を飛ばしたり、時には議長席に詰め寄ったりするのだが、その度にシャンシャンといった手拍子やカエレ、カエレの大合唱を浴び、思わずムカッとするがどうしようもない。こんなことを繰り返しているとこちら側に近い総代でさえ嫌気がさして、途中で退席したり、敵方にまわったりするのが明らかであったが、これ以外に方策がないのだからどうも致し方なかった。

 最後の手段として、新役員が選出される前に突如旧役員が総辞職するという戦術をとり、やや一波乱が起りかけたが、結局大した効果もなかった。勝ち誇って、万才、を叫びながら敵方が引き揚げていった会場に、こちら方の活動家だけが残って、いわゆる総括集会が湿っぽく行われたが、その時、ぼくは席の隅で、何故かこみ上げてくる涙を抑えることができなかった。

 こうなるとあとは撤退だけが残っているだけだったが、ぼくたちはその後も何やかや抵抗らしきものを続けながら夏までは居坐った。総代会に欠席し、委任状だけで理事に当選した男が敵万にいたのを咎めて、その委任状に押された印鑑が偽造ではないかとクレームをつけたりして新理事会にゆさぶりをかけたが、大体において屈辱的な毎日であった。

 敵方の総帥ともいうべき生協労組委員長の男が組織部長として乗り込んできた。組織部員は準職員的なもので選挙で選ばれている訳でもないから、彼らとしても一方的に解雇はできない。それを盾にとり出来るだけ居坐って足を引っ張ってやれ、というのがぼくたちの方針であったが、当然そんなことを簡単に許す訳はなく、新組織部長は組織部担当理事として入ってきた二人の学生と共にいろいろと難題を吹っかけてきて、ぼくたちを何とかしていびり出そうとする。何年も前の備品目録を持ち出してきて、このカメラはどうした、謄写版はどうした、とか、この多額の未払いの電話料金は一体何だ、とか責めてくる。電話は同盟の連中がよく利用していたので仕方なく、ちょうど欠員を埋めるため補充しておいた幽霊組織部員の給料があったので、それを下ろして何とか払うことが出来た。その他、組合員再点検と称して名簿の作り直しを命じたり、挙句には自派の原水禁運動の下働きまで命じるに至って、やっとぼくたちも撤退したのである。

 ぼくとしては一年間いろいろと動きまわった末、自分に適した場としてやっとみつけた生協運動からこのようなかたちで追放された訳だから、挫折感は大きかったといえる。その後自治会選挙も敗けて反主流となった同盟が新らたな拠点として再建した「レーニン研究会」なるサークルに加わったり、クラス自治委員をやったりしたが、全て惰性みたいなものであった。この間、同盟の総会が何回も開かれ、大学では当分劣勢を挽回出来ないだろうという判断に立って、最高幹部たちは盟友関係にあった明治大学、中央大学を拠点に、六十年以来長らく分裂をつづけていたブント各派を統一するオルグ活動のために次々と上京していった。

 こういう状態のぼくにとって救いとなったのは、クラスの友人仲間から出ていた同人雑誌発刊の話であった。前述したクラス雑誌「えるほう」が出て、それまで埋もれていたクラス内の文学意欲みたいなものが顕在化したのか、あんなちゃちなものではなくてもっとしっかりした雑誌を出そうという話が、確か組織部にいた中文志望のDあたりから出て、ぼくも賛同し、「えるほう」に詩を書いていた大阪布施在住のEや神戸出身で学生劇団の俳優であったF、そして共に実存主義ファンで、サルトル=カミュみたいだと冗談でみんなから言われていたIとJらが同人となって発足した。

 何回か会合をもち、雑誌の性格論議は抜きにしてとにかく各人好きなものを書いてみようということになって、期日を決め、原稿を集めた。IとJのサルトル=カミュ・コンビは当初大いにハッスルして、こんな雑誌にしたい、とかいろいろ抱負や理想を述べていたが、結局原稿は出ずじまいで、後に遠去かっていくことになる。

 中文志望のDの提案で誌名は「光芒」と決まり、装幀は当時出版されていた「中井正一全集」を真似て、真っ黒の表紙に銀の題字とし、河原町荒神口の恒星社という印刷所に印刷を依頼した。奥付けをみると発行は1965年11月26日、確か500部印刷のはずであったが半分以上は捌けたように記憶している。






5


 二回生も終りに近づくとそろそろ学部進学のことを考えなければならなくなる。それよりも必要単位を揃えて留年しないようにするのが先決であったが、ぼくは運動に関係していた割りには語学の授業にはよく出席していたので、危ない橋を渡りながらも無事進学することが出来た。

 クラス全般的にいえば、おそらくこの年が史上最高ではなかっただろうか、実に半数が留年ということになってしまったのである。ぼくの他、A、大阪出身のBなどは無事であったが、「なんで同盟員ばっかり上がって、俺たちが落ちねばならないんだ」と冗談まじりの恨み事をいわれた位、仲の良かった連中は殆んど留年組であった。

 専攻学科は大いに迷った末、イタリア文学ということになったが、その理由は結局何であったか、未だによくわからないところがある。入学前は歴史に興味があったが、入学後フランス語をやりはじめてフランス文学もいいなあと思うようになった。ところが周囲を見ると誰れもが仏文志望みたいで、かえって興醒めし、又、人数の多いところだと選挙のオルグなどをさせられた時大変だろうな、という変な考えも混じり、期日も迫って、偶々、伊文科に運動に関係していた時の顔見知りがいるのを思い出し、イタリア語ならフランス語と同じラテン系だし、と思って第一志望にしたのである。

 こういうことを言うと弁解めくが、実を言えぱ、ぼくは小さい頃から理数系が得意で、本当は天文学などに憧れていたのだ。ところが中学生の頃、校医から、君は色盲だから理科系は駄目だ、といわれて理想が狂ってしまった。その頃からちょっとへそ曲がりみたいになってしまい、文学部を選んだのも、誰れもが法科、経済などを選ぶのに反発したところが少々あり、又、受験の理科の選択科目でも、高校では文科系は生物と指導していたのに、敢えて一人物理を選んだりした。だから入学当初からずっと続いている目的喪失の状態の遠因はこんなところにあつたのかもしれないが、今となっては、もし色盲でなかったとしても、果してうまく行ったかどうかはわからない。

 しかしイタリア文学を選んだ時、ぼくにはぼくなりの熱情があったのは確かである。とりたててイタリア文学についての予備知識はなかったが、そもそもルネサンスの先駆の国であり、映画を見てもフランス・アメリカに引けを取っていないのに、どうして文学は日本では無視されているのか、という義憤みたいなものと、同時に、こういう人のあまり近づかぬところにはもしかして人知れぬ宝の山が埋れているのではないか、という山師的なロマンチシズムがあったものと思う。

 ところが三回生になっていざ正式に分属が決まってみると、伊文科はぼく一人しかおらず、心細くなってきて当初の意気込みも萎えてしまう感じであった。ともかく教授の部屋へ挨拶に行ったのだが、助手の人や大学院の人たちがたくさんいて、何かニヤニヤと笑いながら、「どうしてイタリア文学なんか選んだのですか」と言われてまず面喰ってしまった。そしてこの日からぼくの長い長い苦労が始まったのである。

 文学部には学友会という名の自治会があり、全学自治会の同学会とはやや別個のかたちで同盟の勢力下にあって、選挙においても一貫して不敗を誇っていた。文学部の学生には他学部とは違ったタイプみたいなのがある。それは時によってはアナーキーな破壊主義として顕われ、又、時には学究的ともいえる緻密な活動となって顕れる類いのものであるが、当時は後者の方であり、それまであまり見かけたことのない一群の活動家たちがボックスに詰めていた。

 新三回生はその主力となるべきぼくたちのクラスの同志たちが殆んど留年してしまい、当初人材不足が懸念されたのであるが、学部にあがれば、それまでそれほど目立った動きをしていなかった連中の中から続々と活動家が現われ、心配したほどもなく選挙も快勝し、Aが委員長となり、ぼくは文化部担当常任委員というあまり実体のない役職に名を連らねることになった。

 三回生になるともうデモなどにはあまり出なくなり、又それが当然ともされていて、自治会の活動も教養部時代とは違ってこじんまりしたもので、半年一回の学生大会の時がいってみれば最もヤマ場みたいなものであった。新執行部が提案する新方針を討議するのであるが、あらかじめ票読みは済ませてあり、ワイワイと野次が飛んだりしても結局は予定通りに運ぶことになっているのである。ぼくも常任委員として文化部方針なるものの説明のため、約十五分間、演壇に登って演説らしきものをした。大勢の前で演説をしたのは後にも先にもこれ一回きりで、何とか無事にやり終えて演壇から下りた時、上級生に「仲々新鮮な感じでよかったぞ」と声をかけられ、正直いってとても嬉しかった。

 さてイタリア文学の方であるが、イタリア語の予備知識はそれまで全くなく、しかも講読などは最初から原書を使うため、文法など勉強している間はなくて、フランス語と似ているというのを頼りにやたらと辞書を引きまくって何とか意味を把むという有様だったが、一ぺージ予習するのに、何時間もかかり、一体いつになったら分厚い原書が読みこなせるのかと途方にくれる思いだった。

 外部から想像しているだけの時は、宝の山の探険家という勇ましいイメージがあったが、いざ中に入ってみると、研究者の絶対的不足というハンディはきつく、辞書も日本には不備なのが二冊あるに過ぎず、語学の参考書のようなものは皆無に近かった。宝さがしに行くにも語学という羅針盤がなければ一歩も進めない。そしてその語学を習得する手助けとなるものは貧弱で、これはよほどの語学の達人でないと持たないぞ、と思うと急に自分のこれまでの語学嫌いが顕在化して、語学コンプレックスみたいなものを持つようになってしまった。

 又、当時、伊文科は、主任教授に対する不満などが長年に渡って鬱積し、教室全体は沈滞しきった空気に充ちていて、各人それぞれが自分の好きなことを勝手にやっているという状態であったのにも驚かされた。先輩たちの間には、ここにはよっぽどの物好きか変人ばかり集っているのだ、という卑屈な思い入れさえあったと思う。そんな中で五里霧中、何もかも自分で切り拓いていかねばならぬのは大層辛いことであった。






6


 学友会の方も前期が終り後期に向けての改選期になって、Aが、俺は今度は委員長をおりる、と言い出した。本人の希望によるのか、同盟の要請によるのかわからぬが、教養部に行ってそこで下級生の指導をしたいみたいであった。そこで早速後任を捜さなければならなくなったのだが、Aは、ぼくに、どうか、と言うのである。冗談かと思ったが、彼は軽口をたたくタイプではない。それほど信頼されていたのか、と一瞬嬉しい気もしたが、実際のところ、能力については別としても、もはやそういう意欲が明らかに減退しており、引き受けたとしてもそれが精神的な負担でしかないことがよくわかっていたので強く辞退した。

 同僚の大阪出身のBは自治委員でないから資格がなく途方に暮れてしまったが、その時思わぬところから天の助けみたいに、やってみようという者が現われ、彼を軸として新しい体制を築くことが出来た。そしてそれを機会にぼくは常任委員も辞し、ここにやっと、生協敗北以来一年以上もズルズルと惰性でやってきたことに一応の終止符を打ったのである。

 こうしていよいよイタリア文学の勉強に打ち込むことになったのだが、その学間の入り口で強い戸惑いを感じてしまったのだ。いつもざわざわとして活気に溢れていた教養部や、他愛ない政治的陰謀にああでもない、こうでもないと打ち興じていた学友会ボックスの雰囲気とは全く隔絶したところに文学部の建物は存在していたのである。

 昼間でもしんと静まりかえった古風な石の廊下に分厚い扉がずらりと並らび、一緒に進学したはずのあの二百人は一体どこに消えてしまったのかと思われる位であった。そして時たま廊下ですれちがう旧友たちは誰れも分厚い洋書を小脇に抱え、この建物に相応しい重厚な表情をして、分厚い扉の中へと消えていく。図書館に行っても、中庭に行っても、人の姿はあるが話し声は聞こえず、みんな人が変ったように一心不乱に勉強しているみたいなのだ。

 ここに至ってぼくは微かな敗北感を感じはじめていた。これまで運動の面においていろいろ工作し、叱咤し、それでもなお動かない者に対して、ぼくは軽蔑感さえ抱いていたのであるが、その彼らが、今やこの建物の中では水を得た魚のように生き生きとしはじめ、一方、ぼくはといえば、厚い語学の壁にぶつかって途方に暮れている。

 そうか、彼らは今日の日のために、こつこつと、ぼくの目に見えぬところで努力しつづけていたのか。そう思うといよいよ自分には、学問の府の中枢部に入っていく準備も資格も大いに欠けていたような気がしてきたのである。毎日毎日、出てくる単語を片っ端しから辞書で引くしかない自分が、原書を小脇に抱えた彼らと比べて、これまでの反動からか、必要以上に惨めに思えるばかりであった。

 同人誌「光芒」の方は、年一回のスローぺースではあったが、その後も順調に続き、同人の数も多少の入れ替わりはあったが大分増えていた。しかし、時が経って号を重ねるにつれ、いろいろと問題点が露出してきたみたいであった。

 それは、結局雑誌自体の性格の曖昧さに基因すると思うのだが、例えば、身近かにいた友人たちを勧誘してどんどんと同人を増やしたことなど、これはぼくにも大きな責任があったのだが、その安易さに後日復讐されたみたいなのである。同人が多ければ雑誌の販売も楽で経済的にも安定し、それなりの勢力もできる、という一種政治的な発想から抜けきれず、又、友人同士みんな一緒にいたい、というような甘さもあったのだと思う。

 毎号発刊後に同人が集って合評会をし、その時には発表された作品について各人が忌憚のない意見を言うのが慣わしであった。初めのうちは惨々叩かれて一時的にしゅんとしてしまっても、それは今後のための良薬であると自分を励まし、さほど問題はなかったのだが、号を重ねるにつれ、書く同人と書かない同人の二種に分かれてくるようになったのである。そして、書く同人の一人であったぼくは、自分の作品を合評会で叩かれるたびに、なぜ、いつも、書きもしない同人に文句を言われなければならないのか、という感情的な欝憤がたまりはじめてきたのである。

 もともと乗り気であったかどうかわからぬ友人たちを、無理矢理みたいに同人に引っ張りこんだのはぼくの方で、その時は、いつでも書ける時に書いてくれればよい、などと調子の良いことを言っていたのだから、とやかく言えるものではなかったが、それでも、たまにはそういうことが愚痴みたいに出てしまい、そんな時、そう簡単に書けるものではない、などと言われるともうそれ以上は何も言えなかったが、内心では、何を勿体ぶってるんだ、という気持が残り、立場の上で落差が生じてきたような気がするのであった。又、本来はみんな友人同士であるので、同人の集まりといっても、友人仲間のサロンみたいなところがあって、そんな雰囲気がどうもぼくには合わなかったのかもしれない。

 でも今から思えば、そんな不満を感じていたとしても、ぼく自身、結構楽しかったし、勉強にもなったし、結局この雑誌をやって一番とくをしたのは自分ではないか、という気さえする。

 小さい時から読書は好きであったが、文学的なものを読み始めたのは遅く、いわゆる文学青年ではなかった。だから同人の集まりでの雑談などでいろいろな作家や作品の話が出てくるたびに引け目を感じたりしたが、それが又、発奮材料となっていろいろな本を必死になって読み始めたのも確かである。

 又、読書体験と書くこととは別物で、書くこと自体はもともと好きだったから、それを挺子に巻き返そうという気持もあったみたいだ。だからいつも切羽詰った時に出てくる反撃は、「君も一度書いてみろ、書いてみたらよくわかるよ」という切り口上で、そこには多少の思い上がりもあったように思われる。

 「書かないでいるという状態は、書かないでいても続けられている困難な這行の内的な実感によってか、思索を現実の生活で表現することで飽和していることによってのみ支え得るものである。」

 これは、最終号となった「光芒」第四号の編集後記に寄せたある同人の文章の一節であるが、そんなぼくに対する頂門の一針であったかもしれない。当時は、何を言ってやがる、という気持が強かったが、近頃になり、その真意はともかく、この文章によって喚起され、ものを書く、ということには、ある本質的な不幸が含まれているのではないか、という気がふとすることがある。

 ところで、運動から身を引いてしばらくたった頃、ひとつの政治的事件があり、少なからぬ衝撃を受けた。

 それは、例の十・八羽田闘争において一人の学生が死亡したということと、その後の大学内における変化ということである。羽田の死者は、闘争現場における死者としては六十年安保以来であるという衝撃の他に、彼が高校時代の友人の弟であった、ということで、そういう意味での衝撃が強かった。

 兄の方とはその頃はもう疎遠になっていたが、高校時代一緒に図書館へ行ったり、古寺巡りをした仲であった。弟については、同じ大学に来ているということさえそれまで知らなかったのだが、当時一度だけ図書館で会ったことがある。取り立てて話もしなかったが無口で物静かな少年で、勉強しているぼくたちの横で、一人黙々と本を読んでいた。兄の方もそれほど政治に関心を示すようなタイプではなかっただけに、この事件を聞いて、ただただ痛ましい気がした。

 この羽田闘争の直前に、東京で二つの党派の間でいわゆる内ゲバ的抗争があった。そしてそれがたちまち京都にまで波及してきて、これまで共闘関係を結び、協力して自治会活動を支えてきた二つの党派の間に鋭い亀裂が生まれて、その時、ぼくは初めてヘルメットに角材という姿を見たのである。

 それは学内でのいざこざのあったその翌朝のことで、教養部正門のところへ行ってみると、正門を制圧した党派、それはかつてぼくも籍を置いていた党派であったが、彼らが盛んにマイクを使ってキャンペーンを行っていて、いわゆる一般学生が一体どうしたのかと人だかりしているところへ、第三者的党派が漁夫の利を求めて割り込み、三つどもえで宣伝合戦をしているところであった。そしてその時、正門横の大きな樹のかげで、それらの喧騒とは全く無関係といった感じで、ヘルメットにレインコート、そしてタオルで覆面をし、よく見ればおそらく一回生であろう、まだ幼なさの残る目に、恐怖と自信の色をこめ、何やら手持ち無沙汰に角材を握りしめている、十数人の一団がいたのである。

 それを見た時の印象は、正直いって、ものすごく新鮮だな、ということであった。そして、ちょっぴり、もう時代が変ったのだな、とも思った。

 その年の春、例の大阪出身のBに次のような話を聞いた。彼はその時、同盟の教養部キャップをしており、そのことを、「苦節三年、やっとエライさんになれました」と冗談まじりにぼくらに言うような照れ性の男であったが、その彼が真面目な顔で、「今年の新入生はオルグなんかわざわざせんでも、向こうから、同盟に入れてくれっていうのが仰山おって、正直、勘狂うてしまうワ」と言うのである。

 以後またたくまにヘルメット姿が当り前になった。一度集会に顔を出してみたが、参加者がものすごく多く、そのあとのデモも勢いがよくて、大学を出てほどなく、もうフランスデモになっている、という具合であった。どういう訳かわからぬが、とにかく、いつの間にか、時代は変っているようであった。






7


 四回生になっても卒業~就職のことなど全然頭になかった。未だ辞書と首っ引きの有様で、卒業論文など見通しもつかないのである。そもそもイタリア文学史の大まかな全貌さえつかめず、どの時代にどういう作家がいたのかということも判然としなかった。だから論文の対象として選んだ十八世紀のある喜劇の作家も、偶々講読のテキストとして読んでみて少々興味を感じただけのものであった。

 しかし時間的に迫られているので、語学の壁とか基礎学習の不足など悠長なこともいっておれず、ともかく無理にでも代表作ぐらいはきちんと読んで、又、参考書を見つけて作家の背景なども調べておかねばならない。そういうことで何とか準備を進めていったが、正月が過ぎ、いよいよ提出期日が近づいているのに、いざ原稿用紙に向かっても仲々書けないのだ。要するに何も書くことがないのである。

 締め切り数日前になって、もういよいよ駄目だ、もう一年みっちり勉強してやり直そうと決意した。そもそも三回生になって初めてイタリア語をやり始めるということ自体、もうスタートから遅れているのだから、もう一年余計にやってちょうどよいぐらいだ、とかえってさっぱりした気持であった。そしてその旨、研究室まで報告に行ったのだ。

 ところが、である。教授は留守で、助手の人ともう一人どこかの出版関係の客人がいたのであるが、助手の人の言うには、「そんなに思いつめることはないですよ、どうせ大学院なんて受けたら入れるのだから、入ってから勉強したらいいのです。留年なんて一年損するだけですよ」「でも、どうしても論文が書けないんです」と苦しさを訴えると、「論文なんて何でもいいんです、書きたいことを書いておけばそれでいいんですよ」 そしてそれまでニコニコしながら聞いていた客人が口をはさんで、「五十枚以内ということですね? それだったら少なくってもいいじゃないですか。さる有名な先生の卒業論文なんて、十枚そこそこだったけど、立派な論文だったそうですよ」

 きちんと気持の整理をつけてかえってさっぱりしていたぐらいなのに、こうまで言われると、いやそれでも留年します、とは言いにくく、又、その分だけ当初の決意も揺らいできて、「ではとにかくもう一度頑張ってみます」ということになった。

 期日までまる二昼夜、生れてはじめて徹夜を決意し、もう一睡もしないぞ、と当時薬局で売っていた眠気覚ましのアンプル液を大量に買いこんだ。こうして、ともかく原稿用紙の枡目を埋めることに全力を注ぎ、途中アンプル液が効きすぎて苦しんだりしながらも、確か三十数枚、そこから先はどうしても進めなかった。

 この後、大学院の入試があって、とても自信がなく心配であったが、結局は助手の人の言ったとおりで、何とかパスし、奨学金も貰えることになった。

 修士課程の奨学金は当時でも月一万三千円とかなりよく、それも大学院入学のメリットの一つであったが、七月頃、正式に決定してまとめて数万円入ってきた時は、初めて手にする大金に思わず有頂天になってしまった。

 ぼくの一年下の伊文科入学者は四名と近来にない数であったが、うち二人は仏文志望を落されて第二志望にまわってきた旧同級生、あとは、一人が工学部からの転学、もう一人が理学部からの学士入学で、全員、年令はぼくより上だったが、よく気の合うものばかりであった。そこで、奨学金の一部を出して、彼らや「光芒」の連中と一緒に、そのうちの一人の下宿に集まり、いろいろ材料を買ってきて料理をつくり、酒を飲んで大騒ぎしたりしたのである。

 大学院入学で何か気持がほっとして、それまでの重荷が一挙にとれたみたいな軽快な気分であった。「イメージ・チェンジ」というのがその頃のぼくの謳(うた)い文句で、友人たちにおだてられ、というより励まされ、一緒になって若作りの軽快な服装をしたり、ハンチングなどを買って被ったりした。プレーヤーを買ってちょっと音楽づいていた頃で、初めてビートルズのレコードを買ったのもこの時である。

 軽快で好調な気分はその後もずっと続いていたようだ。何だかからだも軽くなったみたいで、速戦即決、決断が速く、思ったことはすぐに実行に移す、という、これまでにはなかった状態であった。

 こういう時は、毎日の思索を毎日の行動の中で燃焼させているためか、かえって印象的な記憶はあまり残っていない。でもこういう調子一辺倒であったかというと、もちろんそうではなく、外面的にはごく普通の生活であったといえる。

 夏休みに百貨店の家具売り場ヘアルバイトに行って、その稼いだお金でステレオを買ったり、或いは、近所の知り合いの医師に頼まれて、健康保険申請事務のアルバイトをしたり、そして、その間にちょっとした失恋があったりもしたが、しかし、イタリア語の勉強をしたという記憶はいくら頭を振り絞っても浮かびあがってこない。

 この年、全国の大学は物情騒然たる雰囲気だった。日大や東大の学園闘争が頂点に上り詰めはじめていて、そんな空気が微妙に伝わり、何かしら浮き足だってじっとしておれぬような気持があったのかもしれない。京都ではまだ何も動きはなかったが、連日マスコミを通じて伝わってくる東京の方の動きに、学生全体が何かをじっと待ち構えているような空気があったことも確かなようだ。年末に伊文科の忘年会が例年の如く平穏に行われたが、その席で、一年下の旧同級生のG(彼は「光芒」同人でもあった)から、来年早々に寮の闘争委員会が学生部を封鎖するらしいという情報を聞いた。その時は、いよいよ京都でもか、と勇み立つ思いがしたが、まだまるで他人事(ひとごと)みたいな気しかしないところもあって、年が明けて、あのような大闘争に発展するとは夢にも思わなかった。

 いろいろと忘年会の多かった年で、一年ぐらい前から友人と共に、かつて大学で評論雑誌を出していた先輩連中で構成される或る読書会に顔を出していたのだが、その忘年会も木屋町筋の小さな料亭で行われた。いつになく盛会で、ヨーロッパ留学から帰ったばかりの人、これから行く人など入り乱れ、職業も学生、大学院生の他、大学教師、会社員などいろいろであった。その時偶々ぼくの隣りに坐っていたのは、大学病院精神神経科の無給医局員をしているR氏で、これまで、夢の分析とかフロイトの学説などについて少し興味をもっていたので、そんなことの初歩的な質間をしたり、文学者の精神病理学的な解釈についての話を聞いたりした。又、R氏はその頃新しい麻薬として話題となっていた幻覚剤LSDを医者の立場で実験的に服用した話などもしてくれていろいろと興味深かった。

 秋以降、保険事務の他に家庭教師のアルバイトが二つあって急に忙しくなったのだが、それらも年未になって一応冬休みとなり、その報酬として一万円札数枚を一挙に手にした。今思えば、その金額は当時としてもそんなに驚くべきものでもなかったが、学生で、しかも自宅通学していて生活の実感がよくつかめなかったため、それがとても多額に思え、少々豊かな気持になると共に、お金を稼ぐことなど案外たやすいものだな、という自信みたいなものも感じた。でもその自信は、多くの同級生たちのように就職もせず、しかもそれに見合う勉強もしていない自分の後めたさの裏返しであったかもしれない。

 経済的な余裕と共に、時間的にも週何日かの仕事から一時的に解放されて、無意識のうちの抑圧が少しはずれたのか、これまで心の奥底にためこんでいたことをどうしても他人に話してみたくなり、ちょうど大阪市郊外の親戚の家に遊びに来ていた茨城県出身の友人Cに電話をした。

 年の暮れが近づき何となく慌ただし気な大阪駅近辺のある喫茶店までわざわざ出向いてくれたCを前に、三時間にも及んだろうか、多岐にわたる話題を殆んどぼく一人で喋っていたようだ。さすがに疲れ、途中一人で中座して近くの薬局に入り、どういう訳かビタミン剤を買ってきて、それをCと二人で飲んで又、喋ったのだが、本当に疲れたのはむしろCの方かも知れず、突然呼び出されてものすごい饒舌を聞かされ、腹を立てるには相手が上機嫌すぎて、何やら訳のわからぬまま頭の混乱と肉体の疲労だけがあとに残り、大変な迷惑だったのではなかっただろうか。

 訳がわからぬのはぼくの方もそうで、やたら喋りたくなってくるのだ。これまでも何かふと安心を感じた時などに突然饒舌になったりすることがあったが、この時はいろいろな条件が重なってはずみがついており、又こういう状態を制御する方法も全くわからなかった。自分でも少し心配になって、母親に「この頃何か、よう喋るようになったんやけど、どっかおかしいのやろか?」と尋ねてみると、母親は平然と「よう喋るのはええことやないか」と言う。

 不眠症とまではいかないが、何か訳のわからぬ嬉しさみたいなもののためにやや神経が昂奮しており、あまり眠たくない。そしてそれが少しも苦痛ではなくてむしろ快適でさえあるのだ。

 偶々、例の読書会の幹事役がぼくにあたっていて、その時次回の案内状を書いていたのだが、預っている会員住所録を見ながら、ふと変な思いつきが浮かんだ。今のぼくのこういう状態をあの精神科医のR氏なら一体どういう風に解釈するだろうか、又R氏はLSDを飲んだというがやはりこういう気分になるのだろうか、ということを直接R氏に訊いてみたくなったのだ。

 一度そう思うともう我慢できなくなり、向こうも年末で忙しいだろうということなど忘れて、早速電話のダイヤルを回していた。そして例の、落ち着きの中に好奇心を秘めたR氏の声を電話で聞くと、ふと洒落っ気が出て、「今、ちょっとした思考の実験をしているのですが、よろしければ一度来てみませんか」と言ったのである。

 R氏はおそらく、それまで月一回の読書会での顔見知りに過ぎないぼくから突然そのような電話を受けて、職業柄、何かただならぬものを感じたらしい。妙に親切な口調で、「よしわかった、すぐに行く」と返事があって、ぼくの住所や電話番号を訊き、そして「最近誰かに会っていないか?」と言うので、Cに会ったと言うと、彼の連絡先も尋ねた。

 その日は十二月二十九日で、例年ぼくの家では翌三十日には昔ながらの石臼をひっぱり出してきて餅つきをすることになっていた。それが楽しみの姉のところの息子たちも泊りに来ており、ぼくがいつまでも子供たちとわいわい遊んで寝ようとしないので、母親が「はよ寝んと、あしたの朝は早いで」と言ったのだが、その時ぼくは冗談口調で、「ぼくが餅を搗(つ)けなくても、知り合いの偉いお医者さんが来て、搗いてくれはるから心配せんでもええ」と言ったのだ。それを聞いて母親は一瞬妙な顔をしたが、「おかしなこと言うなあ。あほなこと言うてんと、はよ寝えや」と怒って先に寝てしまった。

 しばらくして玄関を叩く音がしてCがやってきた。何かとても心配そうな顔をしている。Cは以前一度ぼくの家に遊びに来たこともあるので、さほどでもなかったが、その後R氏がやってくるに及んでさすがの両親もちょっと吃驚(びっくり)したらしい。布団に入ってうとうとしていたのに突然見知らぬ訪問者があって一体どうなっているのか訳がわからぬみたいだった。

 R氏は早速ぼくの手をとって脈を測ったりしはじめたが、ぼくは上機嫌でR氏やCにいろいろ話をしたくてたまらない。書棚からいろんな本をひっぱり出してきて、それをネタに話題は次々と飛躍していったみたいだ。R氏はそんなぼくに逆らわず、もっともらしく頷いていたが、話がどういう訳か薬のことに及び、この前梅田でビタミン剤を買った時薬局の店員に教えてもらったビタミン剤の性質や効用についてぼくが滔々と話しはじめると、突如R氏が決然として、「君の薬のことはよくわかった。ところでぼくもここにぼくの薬をもっているのだけれど、君のと一錠ずつ交換して今ここで一緒に飲んでみないか」と言うのである。おかしなことを言うな、と思ったがこちらも話に乗り、C君も一緒にぼくの薬を飲んでもらいたい、などと変な条件を出したりして、まるで子供の遊びみたいに薬を交換した。R氏のくれた得体の知れぬ薬は多分睡眠薬に違いないと思っていたが、飲んでみると果してそうで急に睡魔に襲われてきた。

 その薬を飲む前のことだが、R氏が、「君は大分疲れているから、ちょっとぼくのところで休んだらどうだ?」と言った。遠回しにR氏の関係する病院に入院しないか、と言っていることがよくわかったが、この時は何でも見てやろうみたいな気持で、又前々からそういう関係のところに関心もあり、そして一番強かったのは、そういうところに一度入って専門家に心理分析でもしてもらえば、これまで自分でもつかみ難かった自分というものがいくらかでもはっきりするのではないか、という期待で、結局素直に「よろしくお願いします」とか何とか言ったのである。

 揺り起こされて目が覚めると家の前に大きなタクシーが待っていた。ぼくが眠っている間に全ての手配が行われたらしいのだ。しかし裏庭では何事もなかったように餅つきが行われており、便所に行ったついでに、手伝いに来ていた親戚の人に軽く会釈をすると、向こうも「やあ元気にしとるか」と何も知らぬ風なのである。

 そしてまだ薬の効き目が残ってフラフラするからだをCと父親に支えてもらい、R氏と計四人で車に乗って京都方面に向って出発した。車の中でも眠くてうとうとし、着いたところはどうやら大学病院らしく、年末で外来はもうなく、すぐに病棟に入ると当直医らしい人がニコニコとしていて、「どうしたんや?」「ええ、何かようわかりませんねん」みたいな会話を交わし、しかしあとはもうとにかく眠くて眠くて、案内されたベッドの布団の中に飛び込むようにぐっすりと眠ってしまった。






8


 目が覚めると、一瞬、自分が今どこにいるのかわからないような不思議な気分にとらわれた。ベッドのすぐ向こうの廊下の外は薄暗く、まわりがざわざわしていてどうやら夕刻らしい。天井の高い石造りの広々とした部屋で薄暗い電灯の下にベッドがずらりと二列に二十ばかり並んでいる。

 しばらくそのままベッドに腰かけてぼんやりとあたりを眺めていると、白衣を着た男の人がやってきて折り詰めの寿司を持ってきてくれた。「突然のことで今日は食事の用意が出来ていないので、お父さんに買ってきてもらった」とのことだった。中を開けるとぼくの好きな鯖の寿司がぎっしり詰っており、急に空腹をおぼえてそれをパクつくのを優し気に見ながら、その看護人は病棟内の規則などについて説明してくれた。

 ベッドの横にブリキ製の行李が置いてあって、その中にぼくの日用品などが入っているという。食事を済ませて中をいろいろ調べていると、いつの間にか背広姿のR氏が来ていて、「取り敢えずどうしても今必要なものだけをお母さんに選んでもらった」と言う。なるほど、その中に収められた日用品は、洗面具にしても、髭剃り道具にしても、又下着や衣替えの上着にしても日頃ぼくが一番愛用していたものばかり全く過不足なく選択されており、母親の愛情というものを恐しいばかりに痛感した。

 食後に幾種類かの薬を飲み、再び布団に入る前に少し病棟の中を歩いてみた。病室は同じような部屋が隣りに一つあり、廊下を歩いてその奥に行くと大きなホールがあってテレビや卓球台が置いてあり、この建物の住人たちは今テレビを見ているところであった。

 ちょうど年末から正月にかけて自宅に帰っている人が大分いるとのことで、現在病棟に残っているのは十人余りであったが、ぼくがそばに行っても別にじろじろと見る訳でもなく、こちらが挨拶すれば向こうも挨拶を返してきて椅子をすすめてくれたりする。テレビは年末らしい番組をやっていたが、しばらく見ているうちに薬が効いてきたのか急に眠くなり、そのままフラフラといつの間にかベッドに入っていた。

 翌朝、「朝食が出来てますよ」と看護人に起こされて、いよいよ病棟での生活が始まった。いわば、生活環境が激変したのであるが、この時は全くそんな気がせず、新しい環境に不思議に何の抵抗もなくすんなりと適応していったみたいである。

 朝食が済むとみんなホールでそれぞれ椅子に腰かけてテレビを見たり、本を読んだり、瞑想に耽ったりしている。そんな一人一人に対して、ぼくはまるで如才ない新参者みたいに挨拶してまわったのだ。

 どうも依然として誰かと話したいという状態が続いていたらしい。「どうかよろしく」と挨拶をすると誰れも恐縮したように返礼を返すが、ちょっと戸惑ったような感じであった。そこですかさず、「どこが悪いのですか?」と尋ねると、みんな自分の病気には関心が深いらしく、いろいろと難しい医学用語などをまじえて説明してくれる。そして「あなたは?」とまるでその問いを催促されたように聞き返すので、自分のこれまでの乏しい知識で自己診断を下して、「ぼくは今、躁(そう)病だから、やたらお喋りで騒がしいでしょう」と言うと、それまで無表情の顔が急にほころんで、何か珍しいものでも見るように、「へえぇ」と言いながらまじまじとぼくの顔を見つめるのである。

 こうして次々と挨拶を交していくうちに思いがけない人に出会った。それはT氏といって昔、文学部学友会の自治委員選挙の時、同じ選挙区に属する学科の人であったが、こちら側のシンパとして、選挙の時によく彼の住む学生寮まで呼びに行った人なのである。面識はただそれだけで、その時は蒼白痩身の、いかにも神経質でとっつきにくい感じがしたものである。しかし今、ここでこうして思いがけなく再会することになって彼も最初はちょっと驚いたみたいであったが、すぐに懐かしそうにニッコリ笑って最初に出たことばは、「これは奇遇だね」であった。

 話してみると案外気さくな人でよく喋るのである。例によって「一体どうしたのですか?」と訊いてみると「う…ん、医者はね、自律神経失調だというんだけど、どうもよくわからねぇんだ。全く閉口するよ」と実に屈託がないのである。

 中にはこの道何十年で、転々とあちこちの病院を渡り歩いて、今ここに腰を落ち着けているという人もいて、そういう人はさすが堂々としていて、病棟内でもきちんとした生活信条を持っているようであったが、全般的には大学病院だけあって学生が多く、現役、OB含めた一種学生寮的な雰囲気があった。

 少し髪薄く、青々と髭剃りあと鮮やかな尖った顎の、目の優しい三十過ぎ位の人がいて、いつもテーブルの隅で黙々と辞書を片手にフランス語の勉強をしていた。何か原書を読み、しきりにノートをとっているようであったが、「何を読んでいるのですか?」と尋ねても、「いや、たいしたものではないです、つまらんものです」とやたら恐縮する。ところがこの人はどういう訳か時代劇がとても好きで、時間になるとテレピの前に坐って、時代劇ばかり選んで見ているのである。

 しかしその日は大晦日の三十一日で、みんな紅白歌合戦が見たいのだが、この人ひとり裏番組の時代劇を見たいという。日頃無口なこの道何十年という人までが懸命になって説得するのだが、時代劇となるとこの人も意外に頑固で、いつもの柔和な表情は崩さないが、「いや、ぼくはこの時代劇が見たいのです」とどうしても譲らずみんな往生している風であった。

 これを見て、ふとぼくに一計が案じたのである。この人は煙草が好きらしいのだが、あまり懐中豊かではないらしく、新生をパイプを使って吸っていたのを思い出したのだ。そしてぼくは入院時にいくつか珍しい外国煙草を持ち込んでいたので、それを一箱取り出して、「さあ、これで今日は我慢してくれませんか」と彼の手に握らせたのである。すると彼はふっとぼくの顔を見て、「本当に貰ってもいいのですか」と何度も念を押すので、そのうちの一本に火をつけて、又もや恐縮する彼に無理矢理喫ませたりするうちに、いつの間にか時代劇に対する執念も薄らいだみたいで、うやむやのうちに紅白歌合戦が始まった。

 われながら、随分思い切った、というか、おかしなことをしたものだが、この一部始終を横で見ていた看護人の一人が、もうこらえきれぬとばかり、くすくすくすくすと笑っていたのが印象に残っている。

 年が明けて三賀日に入ると、正月特別料理といってちょっとした御馳走に赤飯などが出る。古い人に聞くと毎年同じ海老フライだということだったが、仲々おいしかった。黙々とそれを食べ終ると、あとは例によってテレビを見たり、本を読んだりで、明けましておめでとう、という紋切り型の挨拶もない、静かな正月であった。

 いろいろと顔つなぎをしておいたおかげで早速親しくなった者もいた。一人は工学部の学生というでっぷりと肥えた男で、ややねちっこい口調の話し上手であるが、ここに入院した当座に電気ショック療法というのを受けてかえってそれ以来調子が悪くなったと盛んにこぼしていた。もう一人は細っそりとした農学部の学生で、いつも和服を着ており、顔立ちも口調も実におっとりとしていて、こういう所には相応しくないようであったが、訊いてみると、「夜眠れんで困ってるんや」という答えが返ってきた。

 この二人はぼくには格好の相手で、共によく話を聴いてくれるのである。工学部は巨体の男にありがちな細やかな神経の持ち主で、ぼくの話に好奇心に溢れた深刻な眼差しで身をのり出し、「うん、わかる、わかる」と相槌を打って、そして時にものすごく真面目な表情で、「それはこういうこととちゃうか?」と関西弁特有の滑りのよい口調で自分の意見を言い、「そうや、そのとおりや」と言うと、その丸い顔がはじけるようにほころぶのである。それを横で無表情に聞いているのが農学部の方で、あほくさ、というような顔をしているが、それでいていつまでも横を離れず、最後別れ際にひと言、どこかの訛りのある訥弁で、「あんたはおもしろい人やな」としみじみと言った。

 この農学部がどうしたことかプレーヤーと世界名曲全集といったレコードをいくつか持っていて、音楽が聴きたくなるとそれを貸してもらった。病室には電源がないので、看護人休憩室へそれを持ちこんで聴くのである。

 ぼくたちの居る病棟の他に、やや重症者用の病棟と、ずっと向こうの垣根越しには小じんまりとした女子病棟があって、正月にはこれら三つの病棟の間でささやかな交流が行われ、一番広いぼくたちの病棟に集って書き初めをしたり、トランプをしたりすることもあった。

 そんなある日、音楽が聴きたくなり看護人休憩室のベッドに横になって確かモーツァルトのピアノ曲を聴いていると、突然ドアが開いて誰かが入ってきた。見ると一人大柄な女性が立っていて、「音楽が聞こえてきたからやってきたんだけど、ちょっと聴かしてね」と横の椅子に腰をおろした。ぼくよりは大分年上のようだが、よく見るとなかなかの美人で、歯切れのよいピアノ曲に合わせて首を振り、時おり、「やっぱり音楽って素敵ね」と弾むように言う。やがてその曲が終り、今度はこれにしましょうかと、シンフォニーのレコードを見せると、「まあ、いいわねえ」と嬉しそうに言って、曲が始まると、今度はそれに合わしてメロディーを口ずさみ、「音楽を聴いているとね、頭の中に次々とその音符が浮かんでくるのよ」などと言っている。「それはいいですね、うらやましいですよ」と言うと、「いいけど、次から次と頭の中が音符でいっぱいになっちゃって、なんにも家の仕事が出来ないので主人はいつも困っているのよ」とこちらが問いかけるままにいろいろと自分の話をしはじめた。

 名古屋あたりの人で、家事や育児がどうも苦手で、本当は一日中ピアノを弾いていたいのだけれどそうもいかない、ということらしい。その口調が実に生き生きと楽しそうなので、「奥さんはひょっとして軽い躁病じゃないですか」と言ってみると、わが意を得たりとばかりに大きく頷いて、「ええ、そうなの、お医者さんはそうじゃないって言うんだけど、私はきっとそうだと思うのよ」と言い、最後にポツリと、「でもあなたも同類みたいね」とにっこり笑うので、こちらも茶目っ気を出して、「ぼくのは奥さんとは違って、躁は躁でも重い方で、重躁ですよ」といって大笑いになった。とその時、窓の外から声がして、「友達が呼んでるから、ではまたね」と言って立ち去った。この間三十分足らず、何か美しい幻を見ていたような気がした。

 正月が明けると次々と帰宅組が帰ってきて病棟内も賑やかになってきた。といってもみんな比較的物静かな人ばかりでぼく一人が躁(はしゃ)ぎまわっていたのだが、ぼくよりまだ上がいたのである。

 正月明けの或る日、昼食を食べていると一人の赤ら顔の男が大股に歩いて入ってきて食事中のみんなに対して一人一人、「やあ、おめでとう、今年もよろしく」とやっている。そしてぼくの方にもやってきて、「やあ、これは新しい人ですね、Uといいます、どうぞよろしく」と握手を求めてきた。やはり学生であったが、少年マガジンの最新号を持っていて、さっとその第1ぺージのアマゾン探険の劇画のグラビアを開け、「ええなあ、一度こういう所へ行ってみたいなあ」と大きなよく通る声で独り言を言っている。

 一見がさつな感じだが、つきあってみると仲々神経の細かい温かいところがあった。楽器が好きでトランペットを吹いたり、ギターを鳴らしながら物悲しい自作の歌を唄ったりしていたが、「気が滅入るとこうやって自分で自分に元気をつけるんだ」とよく言っていた。

 いよいよ診察が始まったのはそれからであった。ぼくにはこの際専門家に徹底的に自分を洗い直してもらおうというつもりがあったので、ここ数年間、ノートにして五、六冊にもなる日記帳をR氏に提出しておいたりしたのだ。診察は病棟とは離れた外来者用の診察室で行われ、R氏がいろいろとぼくの閲歴などを聞いたりした。そのあと、脳波の検査、そしてロールシャッハ・テストも受けた。ロールシャッハというのはインクのしみで出来た模様が果して何に見えるか、というもので、若い女性の検査員が、見えたものは全て言って下きい、と言うので、それならば彼女が筆記でくたくたになる位いっぱい言ってやろう、とその模様を縦横斜めにして頭を絞り、出てくるイメージを一枚につき、二、三十は出したと思う。

 このように提出した資料を基にして専門家から果してどのような解釈が出てくるか、それが大いに楽しみであったが、そのような期待はほぼ失望に終った。R氏も一応ノートにも目を通していくらかの解釈を出してくれたようであったが、正直いって、それらは見当違いが多く、動機付けの仕方がとても浅薄な気がするのである。

 しかし後で思ったが、自分の深層心理みたいなものをそのまま本人にも納得できるぐらいに暴き出してもらおう、ということをいくら専門家であっても、他人に期待することはそもそも無理なことなのかもしれない。昔見た、モンゴメリー・クリフト主演の「フロイド」という映画の中に、催眠術か何かで患者の抑圧された心理を暴き出すシーンがあったが、あのような劇的な場面は全くの作り事か、それともあるとしてもごく稀れなことに違いない。ひととおりの診察が終って何だかがっかりとしたが、精神医学というのもこんなものか、という気もした。

 ところで、ぼくがこのような生活をしている時、外の世界は大きな激動期に入っていた。東大安田講堂の攻防戦がテレビでも中継されていたが、京都でも、いよいよ寮の闘争委員会が学生部の建物を占拠したのである。そして彼らを排除するのに大学職員の他、一部学生も加わり、挙句には、他大学からの応援部隊が構内に入るのを阻止するという名目で、いわゆる「逆バリケード」というものが彼らによって築かれ、それを突破しようとする学生たらに放水したりしている、という奇妙な状況が出来あがっていた。

 又、今回の一連の大学闘争の出発点であった医学部でも情勢が煮つまってきて無給医局員の診察総辞退ということになり、それによってぼくの主治医もR氏から医学部助手のS医師にかわった。「ぼくの友人だから」とR氏がいうS医師とは、年末初めて病棟に入った時、「どうしたんや」と声をかけてくれたあの医師であって、眼鏡をかけた痩身のからだからは、一昔前の大学生みたいなのんびりと明るい雰囲気が感じられた。

 ぼくの病棟は開放病棟で面会は全く自由であり、両親や姉などの肉親の他、友人たちも大勢面会に来てくれた。入院時に世話になったCの他、「光芒」の友人たち、伊文科の人たち、そしてそもそもR氏と縁の出来るきっかけとなった読書会の人たちも見舞いに来てくれた。面会はとくに指定された部屋がある訳ではなく、病室でもホールでも看護人休憩室でもよかったが、他の人と比べてあまりに面会者が多く、さすがに気になり、その時すぐ横にいたU君に、「いつもすまんな」と言うと、彼は例のよく通る声で、「友だちは財産や、大事にせなあかん」と言って快く席を譲ってくれた。

 面会の友人たちとの話題も自然と現在の大学での闘争状況のことになりがちであったが、突如起った異常な事態が、それも刻々と思いがけぬ方向に変貌していくという一種極限的な政治状況に、むしろ見舞いに来てくれた彼らの方が昂奮気味のことがよくあった。

 彼らの話から大学での情勢がある程度手にとるようにわかった。当初のパニック的な逆バリケードが破綻し、今や、目が覚めたみたいに各学部に共闘会議が出来て急速に全学の封鎖が進んでいるという。そして伊文科でも博士課程のM氏や四回生の年上の四人らを中心に圃争委員会が出来て、封鎖した校舎を交代で守っているということであった。R氏に頼んで何度か車に乗せてもらって大学周辺を走ったことがあったが、逆バリケードが、まさにR氏も評したごとく、醜悪極まりないガラクタの山に過ぎなかったのに対して、その後の新しいバリケードは机や椅子をきちんと積み上げ、針金で結わいつけた強固なもので、それが今回の闘争の根の強さを表わしているようにも思えた。

 さてこうして何やかや慌ただしくも楽しかったのはせいぜい一月いっぱいぐらいまでで、二月以降になるとぼくの気分も落ち着き、というより、これまでの元気さが息切れしてきたみたいで徐々に精彩がなくなってきた。そして三月が過ぎ、四月の初旬となっていよいよ退院の運びとなるのであるが、いろいろたまった荷物を手に病棟を出る時、仲のよかった、工学部、農学部、U君、そして看護人の人たちに、「もう帰ってきたらあかんで」と言われたそのことばがとても強く心の中に響いた。






9


 山高ければ、谷深し。退院後しぱらくして物凄い憂鬱感に襲われた。久しぶりに家に帰るととにかく友人に会いたくなり、いろいろ電話をしてみたのだが、折悪しく彼らの大学院入試の時で、それをボイコットして試験場にピケを張るなどそれどころではなかったらしい。特に何度電話しても通じなかったCは、その坐り込みの時、不退去罪で逮捕されたというのだ。しばらくしてこの騒ぎも収まり、Cも二日間拘留されただけで大事に至らなかった。しかし大学院入試は強行されたそうで、Cや伊文科の四人の他、多くの友人たちが一年を棒にふることになったのだが、一年前のあの時もし留年していたらぼくも同じ運命だったか、と思うと複雑な感じがした。

 或る日、旧同級生の伊文科のGに案内してもらって、初めて封鎖された文学部の建物に入った。事務室などがある本館は完全封鎖で誰も入れず、東館の入り口には、机、椅子がぎっしりと積まれている。しかしよく見るとその一部に隙間があり、その机の山の上に陣どる見張り番の検分を受けてそこへ潜り込むと、中が迷路みたいになっていて、やっとそこを通り抜けると中庭に出る。しかし一階は扉も窓も全て封鎖されており、一本の怪し気な梯子が二階の窓にかかっていて、それをよじ登ってやっと建物の中に入れるのである。念の入ったことに、入口の机の山の真上にあたる石の廊下に穴があけられていて、その横には灯油の缶が置いてあった。いざという時にはそこから油を流して火をつけるということらしい。

 伊文科の研究室に入ると一人がソファーで居眠りをしていた。交替で守りに来ているとのことで、数日前も深夜、反対派の襲撃にあって中庭まで攻め込まれたが、火炎びんと教養部の応援部隊の助けで何とか事なきを得たという。書物などは全て図書館の書庫に移され、部屋はがらんとして乱雑であったが、その中にいる者の顔には疲れこそあれ、暗さはなかった。封鎖の時には、それまで殆んど大学に顔を見せなかった者が全て勢揃いし、バリケードを構築する時には、メジャーやトンカチをもって大活躍したそうだ。

 伊文科の中でもほぼ色分けが定まり、院生三人、旧四回生四人が闘争委員会を結成しており、ぼくもその末席に加えてもらうことになった。最年長のM氏は後期ルネサンス期の科学思想について、こつこつと研究していた温和な人物で、これまではどちらかといえばやや影が薄かったのであるが、ここに至って一大決断を行ない、この闘争に全てを賭ける決意をしたらしい。従来、OBの中でも現教授に対する不満は強く、むしろ現役のぼくたち以上に被害を蒙ってきたという話だったので、M氏を通じてその糾合をはかるべく工作を試みたが、結局殆んど乗ってこなかったということだった。

 そこでこのままでは手詰まりになるばかりなので何か研究会をしようということになった。最初イタリアの大学闘争に関する原文の資料を読みかけたが、もうひとつ面白くなく、結局、マリオ・プラーツというイタリアの文学史家の書いた、ロマン主義文学史に関する大部の書物を分担して翻訳しようということになった。早速分担分のコピーを持って帰って久しぶりにイタリア語の原文を目にしたのだが、その時、猛烈な憂欝感に襲われたのである。

 とにかく、まるっきりイタリア語が読めないのだ。辞書をひいて単語の意味を調べてもそれらの連らなる文章が一体どうなっているのかさっぱりわからないのだ。一瞬目の前が真っ暗になり、自分はこれまで一体何をしてきたのか、そしてこれから一体何をしようとするのか、と強い自責の念にかられはじめた。それらを振り切ろうと、気をとりなおし、もう一度その原文に対してみたが、目前のアルファベットの群れはもはや意味を伝える文字ではなくて、単なる模様にさえ見えてきて、ますますぼくを圧迫するばかりであった。

 その時思ったのは、これでは一体将来どうしていくのか、という不安であった。イタリア語で大学院まで来て、それを使って将来身を立てていかねばならぬのに、その今や唯一の頼りが全く駄目だとしたら一体どうなるのか、という危機感であった。

 これまでかろうじて均衡を保ってきた精神の中に、このように具体的な不安が芽生えるともう駄目である。その不安はどんどんと増殖し、自分のまわりの全てのものを灰色に染めていく。自分の抱えているあらゆる背景、あらゆる条件が全て悲観的な材料でしかなくなってしまうのだ。この止めどもない不安感は遂には肉体にまで及び、じっとしていても動悸が高まり、胸が締めつけられて呼吸さえ苦しくなってくるようであった。

 とうとう耐え切れず、両親に苦しみを訴え、ともかく主治医のS医師に診てもらおうということになって早速電話で連絡をとった。そしてその翌日、父親に付き添われて大学病院まで行き、S医師の診察を受けたのである。S医師はぼくの苦しい訴えにしばらく、「うん、うん」と耳を傾けていたが、やがて、「そうか、では薬を変えてみましよう、この抗鬱剤を飲んで下さい」と明るい声で言い、「そんなに心配しなくても、これまでの反動でそんな気になるものなんだよ、すぐ直るさ」と励ましてくれた。

 その時貰った薬ほどありがたかったものはない。この時の薬の効き目は劇的で、それを飲むと、それまでの不安がスーとまるで嘘みたいに消えた感じがしたのだ。でもそれはあくまで一時抑えに過ぎず、以後一年間ばかり、漠然とした憂欝感がぼくの心の底を流れていたのである。

 元来ぼくには気質的な潔癖感、いわゆる完全主義的なところがある。そしてその完全主義は常に一定した強さのものではなくて、気分の高低によって濃淡があるみたいである。躁とか欝とかいうと医学用語的な誇張感があるので、単に、アップ、ダウンと言いかえてみると、アップの時は完全主義が弱まり、ダウンの時はそれが強く、鋭くなるような気がする。完全主義とは結局は、自分に対する関心或いは自意識と呼ばれるものが強い状態のことなので、アップの時は自分への関心が弱まり、自分を見ている意識と自分そのもの、或いは精神と肉体と言いかえてもよいが、その二者の距離が狭まり、自意識が稀薄になって、関心の殆んどが外に向けられるのである。

 一方ダウンの時はその逆で、両者の間の距離が広くなり、自意識が強くなって、外の世界よりも自分そのものの方が鮮明に見えてくるのだ。その見え方は空白恐怖症的で、自分の像の中の欠けた部分だけがやけに目立ち、その空間を何かで埋めずにはおれぬようになる。例えば外国語を読んでいる時など、ひとつの単語、熟語の意味がよくわからぬとなると、それが気がかりで、もう一歩も先へ進むことはできない。日本語の文章でもそうで、ある一文がよく理解できないとなると、とにかくそればかり気になるのである。いってみれば、完全主義とは「気がかり」ということで、外出する時の、錠はきちんとおろしたか、ガスの元栓は締めたか、という心配と同じ類いのものなので、言いかえれば、反省意識がとても強いのである。

 しかし、又別の見方をすると、アップの時はそれだけ気がかりが少なく、心身ともに快調でよいのだが、そういう時は非生産的で、これまでためこんできたものをただ消費しているだけのようにも思える。外国語はスラスラ読める気がし、日本語の文章を読んでもすぐにピンと心の琴線が震えて感受性が鋭くなったような気がするが、実際は、反省意識が低下していて、自己を過大評価しがらで、思っているほど成果はあがっていないことが多い。

 ダウンの時は「気がかり」ばかり多く、自分の欠点だけが目立ち、自信喪失で何をやっても駄目みたいであるが、実はこういう時こそ本当に努力をしているのであって、その成果が、強い反省意識の影にかくれて、自分には見えないだけなのかもしれない。

 一時は絶望の淵にあったイタリア語ではあるが、その後いつの間にか少しずつ立ち直りをみせ、マリオ・プラーツの分担分の読解作業も遅々ながらも進みはじめていた。

 伊文闘(伊文科闘争委員会)のメンバーとは、各自の翻訳作業の打ち合わせということで週一回、大学の近くの喫茶店で会合をもっていたが、それも回を重ね、各人の作業も進むにつれて、ちょっとこの本はしんどいなあ、という声が出はじめてきた。この本をやることになったそもそもは、教養部時代から懇意であった或る仏文の先生の紹介によるもので、その道の専門家にとっては権威のある書物であるが、原文がイタリア語のために翻訳が仲々出ないのだ、ということであった。

 ところが少し読み進んでみると、困難さは別のところにあるのが分かってきた。イタリア語自体は大したことはないのだが、そこに出てくる作家、作品名、そして引用文などが大変なのである。フランス人が多かったが、殆んどが初めて聞くような人名、書名で、そういったものの知識がある程度ないと書名さえどう訳してよいかわからず、又、引用文のフランス語を読むのに、何年ぶりかで仏和辞典をひくのも大変だった。

 伊文闘のメンバーはぼくの他に、院生が先述のM氏、一学年上の鳥取出身のN氏、唯一の女性のO女史、そして大学院入試ボイコット組の、旧同級生のGとH、工学部から転学のK、理学部卒業のLの計八人であった。この八人が毎週土曜日、いつもの喫茶店に集合するのだが、翻訳の方は仲々予定通りに捗らぬので、自然と話題は翻訳を離れ、近況報告みたいな四方山話になる。そしていつの間にか日が暮れると、O女史を除いて、みんなで麻雀屋へ行くのが習いとなってしまった。しかし、それでも一応、下訳の締め切りを八月と決め、その時、メンバーのひとりの伝手による和歌山県加太海岸の海の家で合宿することになったのである。

 その日に向けてこつこつと辞書をひき、内容がよくのみこめないまでも、とにかく原文を日本語に直す作業を続けたが、期日までにはとても終らなかった。

 そして八月末にO女史以外の七名が加太海岸に結集したのだが、案の定、下訳をやり終えた者は誰もおらず、とにかく海に入ってひと泳ぎし、そして殆んど肝心の話はせぬままに麻雀となった。先に述べたこの翻訳自体の困難さに加えて各人それぞれ、自分の生活を支えていくためのアルバイトなどがあって思うように没頭できなかったのであろう。しかし、当初の目標まで仲々近づかなかったが、こうしていろいろ会合を重ねているうちにグループとしての親密度は深まったみたいであった。

 秋になって、遂に機動隊の導入による封鎖解除が行われた。年初めの東大、日大の陥落で、全国的には大学闘争もヤマを越えたみたいで、京都においても封鎖は半年以上になっていたが、もはやこれ以上は何も打つ手はなくなっていたのだ。封鎖解除後は攻勢に転じた大学側による収拾策が始まり、伊文科でもそれまでは面会を拒絶していた教授の方から話し合いたいという連絡があった。

 こうして第一回目の会談場所として教授が指定してきたのは、なんと京都ホテルで、そこの竹の間とやらで団交みたいなのがもたれたのであるが、ぼくたちが初めて京都ホテルの絨毯を踏んだ時、既に向こうのぺースに嵌っていたのかもしれない。このあと教授の自宅でもう一度会談がもたれた時も同様であったが、機動隊導入の不当性に始まり、伊文科体制の不備、教授の指導性の欠除、果ては教授自身の学問的無能性の追及にまで及んだが、「若い学問のイタリア文学の将来のために、私は日伊交流というかたちで全力を尽くしてきたつもりです」と涙を流さんばかりに弁明され、結局は煙にまかれたかたちで終ってしまった。

 こうなると、いわゆる「正常化」を拒否し、これまでの翻訳作業を意地でもやっていく他はない。しかし実際はそのように一致団結して進みはしなかった。各人の個人的な事情や翻訳対象に対する好悪など、いろいろな要素が重なり、又、これ以上どうしようもない、という虚無感もあって徐々に足並みは乱れ、ただ、週一回集って麻雀をすることだけがお互いの支えみたいになってしまった。

 年が明けてまたもや大学院入試の時期が巡ってきたが、四人のボイコット組も、結局もう一度受けてみることになったのである。「断じて屈服ではない」というのが共通認識であったが、それ以上のところには各人各様の意味づけがあったようである。結果は二人が受かり、二人が落ちたが、受かった二人のうち、工学部から来たKは、大学院を中退して、すぐに上京し、残った旧同級生で「光芒」同人だったGは妻子を抱え、大学院在籍は奨学金を貰うためだと割り切って塾をはじめた。落ちた二人はそれぞれ職の道を捜し、院生組も、リーダー格のM氏もしばらくして上京、鳥取出身のN氏はたまたまあった大学の口に就職、O女史は結婚して家庭に入り、マリオ・プラーツの翻訳作業は一応継続ということになったが、事実上伊文闘は組織としては完全に分解してしまった。

 ぼくはといえば、依然憂鬱な日々が続いていた。一日三回、病院で貰った抗鬱剤を服用していたが、もはや初めて飲んだ時のような劇的な効き目はなく、今や効いているのかいないのかわからぬような状態であった。それでも飲まずにいるともっとひどいことになりはしないかと心配で、ただその強迫観念のみで飲み続けていたが、本質的には薬ではどうにもならないような気もしていた。午前中気分がダウンして、午後から夕方になるにつれて徐々にアップしていくのが、この病いの定式だそうだが、ぼくの場合も、前夜、わりと明るい気分で眠りについたのに朝目覚めた時にはそれがまるで嘘みたいに、絶望的な沈み切った状態になってしまっている。

 でも、ひとつにはその当時のぼくの生活にも原因があったのだ。大学に出ないから、朝起きてもどこに行くあてもなく、テレビを見たり、本を読んだり、そして例のマリオ・プラーツの翻訳作業をするだけである。時には電車に乗って京都まで出かけることもあったが、同級生のCはこの年の春、所属する美学美術史科の大学院進学をあきらめて、故郷の茨城県水戸に帰って博物館に就職しており、伊文闘は分解状態で、たまに声をかけ合って麻雀をするぐらいであった。でもあまり家でじっとしていても気分が冴えないだけで苦痛だから、別に用もないのに外へ出て近所を散歩したりした。幸い近くは商店街でパチンコ屋や映画館などがたくさんあって、昼の時間はそこで時間を潰すことが多かった。とくにパチンコは、少なくともからだの一部分を絶えず動かしているということで何となく充実感があり、殆んど毎日のように通った。行きつけの店もいくつかあったし、散歩の途中などで思いがけずパチンコ屋を見かけたりすると、どんな台が置いてあるのか、と必ず立ち寄った。勝った時は楽しく、敗けた時は空しい。その勝敗によってその日の気分の状態を占ったりもしたが、毎日昼間、パチンコ屋に行けば、台もわかり、いくらかの元手があれば、少なくともそれ以上は取れるようにも思えた。

 しかしこんなことの毎日では、それだけでも気分が良いはずがなく、自分と同じ年頃の者は朝早く起きて勤めに出、それなりの稼ぎを得ているのに、自分は別に勉強もしていないのに、こうして毎日毎日無為に過していてよいものだろうか、という後めたさに絶えず悩まされ、外を歩いていても、家にいても、いつも申し訳ない気がしていたが、果してどうすればよいのかも全くわからず、ただひとつの支えは、今自分を包んでいる霧がさっと晴れて、青空が見える時がいつかきっと周期的にやってくるはずだ、という確信だけであった。

 こういう時に、心理的にも生理的にも救いであったのは、以前やっていた保険事務の仕事を引き続いてやらせてもらったことである。週三回、午後一時から八時頃まで、歩いて三十分位の医院に通って、そこの二階でカルテを見ながら、それを保険の点数に換算し、申請用紙に書き写す、という極めて単純な作業であったが、その単純さがよかったのだ。使用する薬の組み合わせはほぼ決っていて、何度も書き慣れた文字を書き、そろばんをちょっと弾いて計算するという仕事は全く着実そのものに思えた。ラジオを横に置き、それを聴きながらやるのだが、全く着実に時間を埋めてくれる。一日の仕事が終ってその日に書きあげた枚数をノートの隅に控えておくのだが、その数が毎日少しずつ増えていくのが楽しみだった。

 やがてこの仕事を中心に生活の時間が定まってきた。起床時間はだんだん遅れて殆んど正午前となり、起きてごはんを食べ、仕事の日は出かけ、そうでない日は適当に過ごす。医院で夕食をよばれ、診察が終るのを待って、先生に家の近くまで車で送ってもらうと九時頃になり、しばらくテレビを見て、家の者が寝る頃に自分の部屋に入って、翻訳の作業をしたり、「光芒」がつぶれて、今や全くあてのない書きものをしたりする。その間夜食を食べ、三時頃には布団に入るが、しばらくは寝床で本を読み、そしてやっと眠くなる、という毎日であった。

 いつの間にか薬とも縁が切れており、こうした一般的には正常ではないが規則的な生活になるにつれて、徐々にそれまでぼくを包んでいた霧が晴れて、そして青空が見えはじたのである。

 要するに自信がついてきたのだ。イタリア語も大分スラスラとわかるようになったし、アルバイトとはいえ、着実な仕事もあって、少ないけれど定まった収入もある。もう何も後めたいことなどないじゃないか、と思いはじめたところで、又もや妙なはずみがついてしまった。

 山高ければ、谷深し。その逆に霧のかかった深い谷ばかりずっと歩いていると思っているうちに、いつの間にかとてつもなく高い山に登ってしまっていることもある。これまで、朝早く起きて出勤するという当り前の勤め人に対する後めたさと同時に、そういう生活に対する無意識的な恐怖感があったのだが、何もそれが全てではないじゃないか、自分は自分だから、自分のやりたいようにすればよい、又、それができるのではないか、と思えてきたのである。

 早速本屋に行って、六法全書や商法、経営学などの本を買ってきた。自分で何か自立した商売みたいなものができないだろうか、と思ったのである。商売をやるのにまず本を買ってくるというのもおかしな話だが、そういう本をよく理解できないまでも読んでいるうちに、何だか容易(たやす)いことみたいに思えてきたのだ。偶々、自分たちの才能ひとつで巨億の富を築いたビートルズの伝記などを読んだ影響もあって、お金なんか、訳のわからぬ時流みたいなものにうまく乗っかれば、幾らでも儲けられるのではないか、という気がしはじめたのである。

 こういう仕組みはどうだろうか、と試みに頭の中で組みあげたのは、ドリーム・エンタプライズというもので、これを合名会社とし、その他に、財団法人、社団法人をつくるのである。それは一種のPR会社であって、その頃開催されていた万国博覧会もヒントのひとつで、要するに不浄の金を儲けている企業、組織、個人などをイメージ・アップするのである。例えば、当時、八百長などでプロ野球を追放された選手たちをかき集め、誰か、とにかくものすごくお金を持っている粋狂な人物をスポンサーとして興行を打ったりできないか、というのである。お金なんてあるところにはいやというほどあるはずだから、それを気持よく使って損した気も余りしない、という方法を見つけると、そんな遊び金みたいなものはいくらでも集まってくるのではないだろうか。財団法人はそれらを集めてリクレーション的な楽園をつくり、社団法人は文化出版組織で、マリオ・プラーツの出版もそこで思い通りにできるではないか。

 虚業家というか、大風呂敷の詐欺師みたいな発想の荒唐無稽な構想であるが、いざこうしてプランを作ってみると、案外うまく行くのではないか、という気がしてくるのである。

 当然こんな話を普通の人にすると一笑に付されるのがオチであるが、身近かな者にちよっと話してみるとやはりその通りであった。そこで「ああ、なるほど」と目が覚めるのが普通であるが、ぼくの場合は少し逆上してしまったのだ。

 規則的とはいっても不安定極まりない生活で、ある意味ではかなり追いつめられていたといえる。「夢みたいなことを言いなさんな」という忠告に対して強く反発し、こららが懸命にやっていることに対して悪意をもって邪魔ばかりしてくるように受け取ってしまい、又、悪いことに、そういう態度がすぐ表に出たのである。

 伊文科の先輩のM氏にわざわざ家まで来てもらい、近くの喫茶店でこうした話をしたのだが、その時、ちょっと話に凄みをもたせるために、ポケットから千円札を取り出し、ライターをともして、「ここにあるのは千円札で、千円分の品物と同じ価値があるものですが、もとはといえば紙に過ぎない。今このライターの火をつけるとまたたく間に灰になってしまってそれで終りです。お金なんて結局はこんなものですよ。ところでMさん、あなた、この千円札を今灰にしてしまう度胸がありますか」などとやったため、さすがのM氏も度肝を抜かれたようだった。

 こういうことが他にもあったので、両親はとても心配し、例のR氏らにも助言を求めて、結局、ぼくをあまり家から出さないようにした。そしてそれからはずっと家にいたのだが、家の中ばかりにいると、かえって心の中の鬱憤はますます募ってくるばかりであった。

 自分でもちょっと状態がおかしいな、とは思ったが、とにかく腹が立って仕方がないのだ。そもそも一昨年の末に大学病院に入院したのだけれど、あの時本当に入院しなければならなかったのか、ということに強い疑問を感じはじめた。おかげで、今、自分は社会的に失格者のレッテルを貼られ、今更どうしようもなくなっているのではないか、そんなぼくが自分で自分の道を切り拓こうと一生懸命努力しているのに、どうしてみんな寄ってたかって足ばかり引っ張るのだ、という論理であった。そしてR氏に対して、そういった怨みつらみ、さらにこの一年間自分がいかに辛い思いをしてきたか、そしてそんなぼくをまわりの友人たちがいかに励ましてくれたか、など、長い長い手紙を書いた。便箋二、三十枚にもなろうか、書いていざ出そうとして、果して相手に間違いなく着くかどうかが急に気がかりになり、書留でも物足りず、配達証明というので投函した。

 さっそくR氏から確かに受けとった、という電話があり、「是非一度会いたい」と言うと、「わかった」という返事で、あれから一年半ぶりにR氏が又、ぼくの家にやってきたのだ。

 この時は相当荒れたようである。ぼくも言いたいことを言ったが、R氏も敗けずに反撃し、かつての医師と患者という関係を超えて、むき出しの自我がぶつかりあった場面もあったみたいだ。結局最後にぼくが、「皮下脂肪というのはエネルギーの塊りや、体力ではあんたなんかに負けへんでぇ」と変な啖呵を切って幕となったのであるが、もうこの時には、自分がどうしようもなくなっているのはよくわかっていた。

 不思議な一時期であった。昂奮して眠れぬというのを聞いて、保険事務に行っている医院の先生が心配して睡眠導入劇というのを持ってきてくれた。「一錠飲んで駄目だったらもう一錠飲みなさい」という指示で、その夜早速試してみた。一錠目で何だかからだが熱くなってきたがまだまだという感じで、もう一錠飲むと、急に吸い込まれるように眠くなった。

 何かとても深い眠りで、まるで目覚めるまで一瞬みたいな感じがしたが、その前に夢を見た。梯子を伝って木造の建物を下へ下へと降りていくのである。板の隙間からいくらか光がさしていて決して暗くはないのだが、下へ降りるに従ってだんだんと寒くなってくる。ぞくっとする寒さで、恐くて恐くてたまらないのだが、それでも下へ下へと降りていく。それにつれてますます寒くなり、もう凍え死にそうな気がして思わず叫び声を出したところで目が覚めた。

 目が覚めるともう朝も大分遅くなっていて、ふと見ると姉が枕元に坐って何やら本を読んでいる。「何しに来たんや」と訊くと、「お母ちゃんから来てくれ言われて、心配して来たんやけど何ともないみたいやな」と言う。「いま物凄う恐い夢、見たんや」とその話をすると、「そうか。胸に手置いて寝てたんとちゃうか」と何でもないように言って、又、本を読みはじめたが、何故か、十何年も前の少年時代に戻ったような気がした。







10


 もう自分でもこれ以上、どうしようもないな、と薄々思っていたので、R氏の勧めを受けて再び大学病院で診察してもらうことになった。R氏の配慮で主治医は前と同じS医師となったが、そのS医師に対しても何やかやと噛みついたようである。少し顔を曇らせながらもS医師は耳を傾けてくれ、おかしいところはおかしいとはっきり言ってくれた。

 そして、何回か外来に通って診察を受けた後、「どうや、もう一回ゆっくりと静養したら」と言われ、ぼくも素直に応じた。しかし、「前のところやったらベッドはちょうど空いているけど」と言われた時、「あそこはもういやです」と即座に拒絶した。一年前退院する時に言われた、「もう帰ってきたらあかんで」ということばを思い出したのだ。だのに又、おめおめとあそこに帰るとすれば、一体どんな顔をして行けばよいのか、又、〈再発〉というのがこういう病いの通例となっており、再び同じところに戻って、常識的な再発だな、とみんなに思われるのが、そしてそれ以上に自分でもそう思ってしまうのがとてもいやだった。

 S医師に頼んで何とか民間の信頼できる病院を捜してもらった。そしてしばらく待っていると、白衣の穏やかな中年の人が迎えに来て、父親と一緒に三人でタクシーに乗ってその病院へ行き、簡単な診察を受けていよいよ病棟へと向かったのだが、ちょうど初夏の、ぼつぼつ汗ばんでくる頃であった。

 迎えに来てくれた白衣の人を、てっきり医者だと思っていたのだが、実はこの病院の看護長で、この人に手をとられて、診察室からずっと奥へ奥へと、うねうねと長い廊下を歩いて大きな扉のところにやってきた。そこで所持品検査をされ、ベルトもマッチも取りあげられて、そしてその大きな鉄の扉の中へ入ったのだが、それが締められた時、ガチャンと錠がかかる音がして、強い衝撃を受けた。

 鉄筋のまだ新しい建物であるが、前と違って内部は和室で、大小いくつもに区切った部屋には畳が敷いてある。やはりホールがあって板の間に卓球台とテレビが置いてあるが、窓という窓には全て鉄格子がはめてあった。

 これはえらい所に入ったぞ、と一瞬後悔し、又、入口の錠と窓の鉄格子に、今までの自分がいかに甘えていた存在であったかということを心底から思い知らされた気がした。

 さっそく自分の部屋に案内されたが、一番奥の二十人ばかりの大部屋で壁に小さな棚がつくってあって、その自分のところに日用品などを置くようになっていた。押入れには布団が入っているが、入れる順序がきちんと決まっていて、又、布団を敷く場所も決まっており、よく憶えておくように言われた。

 前の時とは、病棟の構造も規則も、そして中にいる住人も全く違っていた。前のところは学生が多く、一種学生寮的な雰囲気だったが、今度は、京都の町の、職人とか店員とか会社員とか社会人の人が多かった。そしてその症状も前と比べて全般的にはいくらか重いみたいで、中には、頭を坊主にして、殆んど痴呆に近いような人も幾人かいる。規則は厳しく、煙草は一日に五本の配給で、火をつけてもらう時間も決まっていて、それに合わせて半分ずつパィプを使って吸うのである。起床、就寝の時間も厳格で、面会も制限されていた。

 一見、監獄のようなイリーガルな雰囲気で、各部屋ではトランプを使って、一日五本の煙草を賭けたオイチョカブをやっている。そこには不思議なぐらいたくさんの煙草が集っていて、どうやら裏のルートみたいなのがあるらしく、敗けてもどこからか新しい箱を持ってくる者がいる。ぼくも最初ちょっと手を出してみたが、あっという間に全部まきあげられてしまい、しょんぼりとしていると、山のように勝った煙草を積みあげた親分みたいなのが、その中から何本かこちらに放り投げて、「あんたには無理や、もうやったらあかんで」と言われた。

 この親分はキクちゃんといって、年頃もそう違わず、入院歴もそんなに古くないみたいだったが、八十キロをこえる巨体で、弁も立ち、碁が強く、何となく風格があって、さながら牢名主みたいである。しかし仲々に気のよいところがあって、何かと面倒見もよさそうなので、そんなところがみんなに信頼されているようであった。

 ぼくの、部屋でのすぐ横は、二つ三つ年上の、目のギラギラした男であったが、彼も親分肌で、キクちゃんとは両巨頭的であった。こららは将棋が滅法強く、真偽の程はわからぬが、小さい頃、プロの修行をしたことがあるというだけあって、物凄い「早見え早差し」で、うかうかしているといつの間にかどんどん攻め込まれて、あっという間に詰められてしまっている。それでは、ときっちり自陣を堅めていると、向こうもがっしり陣を組み、じりじりと位を張ってきて、これ又、にっちもさっちもいかない、といった具合であった。

 卓球では好い勝負だったが、それも十本勝負の時だけで、二十一本となると息切れしてきて歯がたたなかった。というのは、反射神経が滅茶苦茶に鋭く、どんな球を打っても必ず返してきて、しかもその球に威力があるのである。その他、博打はもちろんのこと、何をやらせても頭の回転が凄く速くて、その才能は並みはずれているようであったが、悲しいことに癲癇(てんかん)の持病があった。薬を飲んでずっと抑えているのだが、それでも時として発作が起こり、倒れはしないものの、血走った目をかっと見開いて、きりきり舞いをしている姿はとても痛ましかった。

 誰れも見かけとは違って、付き合ってみると結構好い人間ばかりでそういやな思いはしなかった。一人、脳梅毒だという老人がいて、もうかなりの末期症状でものも言えず、四六時中わあわあと何やら叫んでいるだけで悲惨なものであった。もう菌は一切出していないということであったが、困ったのは殆んど垂れ流しに近いということで、そのため入浴などは一番最後と決っていて、なるべくそれに近くならぬようにと、入浴の順番を取るのに気を使ったものである。

 しかし、看護人でもいやがるそんな重病人の世話をひとり黙々とやっている人がいた。かなり恰幅のよい、上品な感じの老人で、その病人と小さな部屋でいっしょに寝起きし、食事の世話から下の世話まで、いやな顔ひとつせず、淡々とやっているのである。唯一人スポーツ新聞をとっているので、よくそれを見せてもらいにいったが、話をしても全く普通の人で、みんなからも一目置かれている風であった。ある時、キクちゃんにこの人のことを訊いてみると、「あの人は気の毒な人や。戦争行って苦労して帰ってきやはったら、ヨメはんがよその男と一緒になっててな。それでカッとなって、奥さんを殺してしまわはったそうやけど、その罪ほろぼしで、一生懸命あのオッサンの世話したはるんや。よう見てみ。頭の横に傷があるやろ。ロボトミー手術の跡や。もうあれで一生ここ暮らしやな」と教えてくれた。もちろん真偽の程は定かではない。

 でもその話を聞いてふと思ったのは、巷で何か犯罪を犯して、精神鑑定を受けて強制入院させられる話をよく聞くが、そういう人がこんな病院に入っているのではなかろうかということである。そういえばそんな噂を中でも時々耳にするし、又、奥まったところにある独房みたいな個室には随分変ったのがたくさんいるみたいだ。しかし、それはあくまで想像上の観念であって、実際に顔を合わすとそんな感じは全然せず、一度も恐しいと思ったことはなかった。考えてみれば、ぼくがそんな観念を持っているのと同様、向こうの方でもぼくに何かしらの恐怖心をもっているのかも知れず、ここに一緒にいる限りは相身互いということなのであろう。

 入院してしばらくは強い鎮静剤をずっと飲んでいたため、一ヶ月ほどしてダウンの状態になってきた。そうなると猛烈に反省的になってきて、アップの時の、いろいろな自分の言動の行き過ぎた部分ばかりが次々に思い出されてきて、それが恥しくてたまらなくなってくるのである。これまでの反動もあろうが、その恥しさというものは並大抵のものではなく、自責と後悔の念に苛(さいな)まれて思わず涙がポロポロ流れ、「そんなこと誰も何とも思ってへんやないか。元気ださなあかん」と看護人のひとに慰めてもらったこともあった。

 お盆には、盆踊りやのど自慢などの催しがあって九月になり、やっと退院となった。途中数日間外泊を許されて自宅に帰った以外は全くの監禁生活であったが、それがかえってよい薬になったみたいだ。

 狂気と天才、などという甘ったれた考えは木端微塵に砕かれた。才能をもてあまして頭がおかしくなる、なんていうことは全く架空の話だと思う。これまで狂気と呼ばれるものを持っているとされている人物に何十人と会い、一緒に生活したが、そんな人は一人もおらず、みんなごく普通の人間ばかりである。ただどこかで社会との関係がうまくいかなくなり、歯車が狂って、それが又加速され、その結果常人とは全く異なった人格となってしまっただけのように思われる。もちろんぼくもそうなりかけた一人であったといえるが、社会との関係に疲れてくたくたになった者にとって、ここの生活は、不自由なことさえ我慢すれば意外に快適なのである。いろいろ気をつかうことはないし、衣食住は保証されている。もしお金がなければ法律の適用を受けると一切無償ですむそうだ。

 十五、六の時から二十年近くもここで暮している人がいて、その人はもうどこから見ても正常な人なのである。そこで、職の世話をしてもらい、二十年ぶりに外の世界へ出たところが、結局耐えられず、一週間もせぬうちに帰ってきたという。そして再び従来通り病院内で雑用などをしてささやかな小遺いをもらう生活に戻っているが、おそらくもう一生社会復帰は無理だろうと言われている。

 そういえば、退院してからしばらく外来に通っていた時、ぼくよりもすこし前に退院していたキクちゃんと待合室で顔を合わしたことがあった。そこでのキクちゃんは、病棟内でのあの溌剌で堂々とした雰囲気が全く消え、どこかオドオドとして元気がなく、ボソボソと小声で話す姿は、何となく小さく縮んでしまったような気がして驚いたものである。この分では、また近いうちに「中」に戻ることになるのではないだろうか。

 こりゃあいかん、と思った。この世の地獄というものを垣間見た思いがした。人間とことんまで堕ちねばならぬ、などというのは単なるロマンチシズムに過ぎない。とことん地獄に落ちると、そこには鬼がいて、針の山、血の池で身を苛まれるという風にドラマチックではないのだ。現実の地獄は、実にここちよい楽園で、ただその中で、真綿で首を締められるように安楽死してしまうだけである。

 これはもう、自分で這いあがっていくしかないと思った。変な気取りは一切捨てて、ただただ平凡な人間に戻らなければならない。そしてまる二年ぶりに大学の授業に出るようになったのである。


 ここでぼくの大学での生活は実質的には終りとなる。あとの一年余りは、修士課程を修了するためと、いざという時のための教員免許を取るために費やされた。いろいろと過去の行きがかりもあったが、たとえ何と思われてもただ黙々と大学に通うつもりであった。幸わい友人で何人かまだ大学に残っている者もいて、授業を受けるのも心強かった。

 例によってしばらくは憂鬱な状態が続き、薬も飲んでいたが、とにかく平凡でも規則正しい生活をするのが一番だと思って、それに徹しようとした。そんな時、大学構内で思いがけずS医師と出会った。「どうしてる?」と訊かれて、「どうも思うように勉強が捗りません」と言うと、「無理をしない方がいいよ。どうせ今は病気だから出来ねえんだと思えばいいよ」と慰めてくれた。

 春になって事務室の掲示板に求人の紙が出るようになり、その中のいくつかの試験を受けてみた。出版関係にちょっと憧れがあり、そればかり選んで受けたのだが、結局はみんな駄目だった。しかし、何回も試験で東京へ行き、二年前に上京した工学部出身のKのところへ泊めてもらい、そのあと上京していたM氏とも久しぶりに会ったりして、そちらの交遊関係の方が楽しかった。

 在籍年限もこの一年が最後で、とにかく論文を書きはじめたが、今度も納得のいくものは出来ぬままに期日が来てしまった。結局就職は決らず、他に手だてもないので、仕方なく、博士課程進学願を出しておいたが、今度はあっさりと落とされた。その時はちょっとがっかりしたが、今にして思うと、変な未練に足を引っ張られることから免れたのだから、感謝すべきことだったのかもしれない。

 かくして、八年にわたったぼくの大学生活もとうとう終りを告げた。だが、ひとつの終りは、又、新しいはじまりでもあるのだ。

(完)



(初出誌 「樹海」第4号 1976年10月)




【自註】

 実に半世紀近く前に書いた、しかも、その後に書かれた別の文章にも重複する内容を含んだこの作品を、このたび敢えて復刻することにしたのは、やはり、「人生の謎とき」というジグゾーパズルを埋めるのに不可欠なピースがここにあったからだという他はない。

(2023.09.18)



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