体重


コラムの練習 《た》


体重 



 

 自分は一生、60キロを超えることはないのではないか。高校3年の中頃までずっと、そう思ってきた。体重のことである。

 顔はまるまるしているのに、裸になったら、ガリガリやな。子どもの頃、親戚の大人たちによくそう云われていた。確かに、胸はぺしゃんこで、あばら骨が大きく浮き出ていた。「洗濯板」とも呼ばれていた。

 小学生の頃、同級生たちと海で撮った写真が残っている。それを見ると、私だけはでなく、みんな「洗濯板」の胸をしていた。中には、頬の肉がげっそりと落ち、顔が逆三角形になって「おにぎり」というあだ名がついている友だちもいた。

 そんな彼が、ある時、「急性腎臓炎」にかかって、1ヶ月ほど学校を休まねばならなくなった。小学校5年生ぐらいの頃だっただろうか。お見舞いに行くと、布団に横たわって、食事は、塩気のないものをまずそうに食べていた。

 やがて病気が治って、学校へ来はじめると、彼はみるみる、ふくよかになっていった。代名詞だった「おにぎり」は、三角形から、楕円形に替わり、細かった腕にも肉がつき、胸の洗濯板も消えていた。病後に、親が食事に気をつけるようになり、栄養のあるものをたくさん食べるようになったからのようであった。

 要するに、私たちがみんな痩せていたのは、栄養不足のせいだったのだ。戦争が終わって、まだ10年も経っていない頃で、いっときのような、急激な食料難はなくなっていたとはいえ、その名残はまだ続いており、やがてやって来る欧米式の「高蛋白高脂肪」の食習慣もまだ始まっていない時代だった。私自身の記憶でも、中学に入った1957年頃までは、ごはんには、半分近く麦が混ぜられているのが常だった。現在のように、健康を考えてのものではなく、経済的な理由によるもので、いつになったら、そのパサパサとした味気ない「麦めし」から解放されて、白米だけの「銀めし」が食べられるようになるのか、と思ったものだった。

 子どもの頃、私の家は、明治8年生まれの祖父夫妻が家計を握っていた。その祖父の好みもあったのだろうか、食卓には煮魚や焼き魚が出ることが多かった。肉といえば、年に数回、特別のご馳走として、牛肉のすき焼きがあったぐらいである。鯨肉と水菜をすき焼き風に煮た「ハリハリ鍋」というのはよくあった。豚肉というものはほとんど食べたことがなかった。

 小学校に通うようになって、昼は学校給食を食べることになった。主食はパンだったが、パンもそれまでほとんど食べたことがなかった。給食では、平べったいアルマイトのお皿に、コッペパン2つか、薄く切った食パンが5枚ずつ配られていたと記憶している。おかずはいつも、これもアルマイトのお椀に野菜などが入った汁物(スープのようなものといえようか)と、アルマイトのカップに注がれた温かいミルクがついていた。牛乳ではなく、あの悪名高い「脱脂粉乳」である。でも、そもそもそれまで本物の牛乳を飲んだことがなかったので、私にはそんなに不味いとは思われなかった。時々、甘い味がついているときもあって、そんなときは美味しいとさえ思ったようである。

 給食のおかずについての記憶はほとんど残っていないが、これだけはどうしても咽喉を通らなかったものとして、お汁の中に入っていた鯨の「ベーコン」のことは憶えている。

 当時は南氷洋での「捕鯨」が盛んだった頃で、日本人が摂取する動物性タンパク質の中心となっていたのは「鯨肉」だった。牛肉や豚肉よりもずっと安価なものとして、庶民の食卓によくのぼっていた。お総菜のカツといえば「鯨カツ」で、カツ丼やカツサンドのカツも鯨であった。「豚カツ」というのはレストランでしか食べられない高級料理だった。鯨肉を用いた缶詰めが「牛肉大和煮」という名称で堂々と売られていたりもした。

 鯨の脂身の多い部分を塩漬けにしてから燻製にした「ベーコン」は、安価な惣菜として、生のまま醤油をかけてよく食べた。また、脂身から油を絞った残りを乾燥させた「コロ」はおでんの材料として、家の大人たちがよく好んで食べていた。

 そんなご時世だったから、汁物に野菜といっしょに刻んだ「ベーコン」が煮込まれていることもあったのだが、生のときよりも硬くなっていて、まるで輪ゴムのゴムのようで、どうしても咽喉に通らず、嫌な思い出としていまだに脳裡にこびりついている。

 汁物には「煮込みうどん」などもあり、それに載せて食べるように「かき揚げ」の天麩羅が小さな紙袋に入れられて配られることもあったが、それをうどんには載せずに、食パンに挟んでサンドイッチにして食べるのが好きだった。同じように時々袋入りで配られた「コロッケ」もそのようにして食べた。とにかく、学校で食べるものは、家での「和食」中心の食事とはいささか趣を異にしていたので、お世辞にも美味しいとは云えなかったが、楽しみにはしていたようである。

 小学校の高学年になったころには、祖父母たちも衰えて、やがて亡くなり、また、大阪の都心部に就職していた姉が、帰りがけに、心斎橋や難波で「ケーキ」や「豚まん」などハイカラな食べ物を買って帰ったりするようになって、わが家の食卓も様変わりしてきた。

 うるさい年寄りがいなくなって、それまで「洋食」といって別扱いされていた「カレーライス」や「カツレツ」「コロッケ」などの揚げ物、焼きめし、焼きそば、お好み焼き、といった「粉もん」など、これまで食べたくてもなかなか食べられなかった料理が頻繁に食卓に上るようになった。そして、その頃から、ごはんも白米だけの「銀めし」になっていた。ちょうど成長期の食べ盛りの時期に指し掛かっていたのでラッキーだったといえる。そんな頃に新しく登場した食べ物が「インスタント(即席)ラーメン」だった。

 インスタントラーメンといえば、日清食品の「チキンラーメン」が元祖といわれているが、それが大々的に発売される前に、私には、百貨店の実演販売で別の「即席麺」を買って食べた記憶がある。のちの日清のチキンラーメンとは違った、もう少しコクのある味がして、もっと食べたかったが、百貨店にしか売っていなかったのでそれきりになってしまった。

 いまネットで調べてみると、チキンラーメンよりも数ヶ月早い1958年11月に、大阪市阿倍野区の東明商行という会社がつくった「長寿麺」という、熱湯に3分入れただけで出来上がる即席麺がH百貨店で実演販売されて人気を呼んだ、という記事が見つかった。H百貨店が「阪急百貨店」だとすれば、私の記憶と一致する。そういえば「長寿麺」という名前だったような気もする。

 記事の続きを読めば、東明商行は一足先に出願していた特許を、数年後、日清食品に譲渡したという。その頃は「鶏糸麺」を発売していた大和通商という会社も特許出願するなど、インスタントラーメンの「戦国時代」になっていた。結局、その特許も取得した日清食品が事態を収拾し、今では、日清食品の安藤百福がインスタントラーメンの発明者ということになって、テレビドラマの主人公にもなっているが、その裏にはいろいろなことがあったようである。 

 さて、熱湯を入れた丼に蓋をして3分間浸けるというスタイル以外に、鍋で麺だけ煮て、あとから袋に入った粉末スープを加えるというタイプもその後登場した。いずれにしても数分間で出来立てのラーメンができるのは、夜遅くまで勉強しなければならない中高生にとっては重宝で、恰好の夜食となった。

 中学・高校時代の食生活についてはあまり記憶に残っていないが、夜食にインスタントラーメンを頻繁に食べるようになったのは、高校に入ってからだったように思う。

 夕食の後、夜遅くまで机に向かって、ラジオの深夜放送を聴きながら勉強しているうちにお腹が空き、ラーメンをひとりでつくって食べると、満腹して、眠くなり、そのまま寝てしまうというのが常だった。すると、朝起きても食欲がなく、またぎりぎりまで寝ているので時間もなくて、朝食を食べずに学校に行くようになった。

 当然、午前中にお腹が空いてくるので、昼休み前の休憩時間にすでに開いている食堂に駆け込んでパンを買って食べたり、「早弁」したり、末席ながらも「卓球部」に所属していたので、毎日その練習があって、帰りにもお腹が空いて、定時制の生徒のためにまだ開いていた生徒食堂で、パンやうどんを食べて帰ることもあるなど食生活は乱れていたようだったが、育ち盛り、食べ盛りの時だったから、いくら食べても太るようなことはなかった。自分は一生60kgを超えることはないのではないか、と思っていたのはその頃である。

 ところが、3年生になって、レギュラーでもなかった卓球部の練習から足が遠のき、自然と退部状態になると、大学受験に専念といえば聞こえはいいが、要するに、一挙に「運動量」が減ってしまった。一方、食生活の方はそれまでと変わらず「暴食」気味のままであったから、その頃はまったく意識はしていなかったのだが、エネルギー収支のバランスが崩れはじめたようで、受験間近の冬のころにはいつの間に体重は60kgに到達していた。

 でもまだ、体重が増えはじめているということには気がついていなかった。運良く試験に合格し、大学に通うようになって、目の前に新しい世界が開け、それに夢中になっていたからであろう。「受験勉強」から解放されたという安堵感もあった。もう強制された勉強はしなくてもよい、自分の好きな本を思いっきり読み、映画やテレビも気兼ねなく見たいだけ見てもいいのだ。

 大学は高校よりもはるかに遠いところにあって、通学には朝早い電車に乗らなければならなかった。もちろん、朝食は抜きでとび出して行く。大学には講義が始まる時間よりも大分早くに着いていた。すると、ありがたいことに「生協食堂」はすでに開いて営業していた。朝食のない下宿生のためでもあったのだろう。その食堂で、毎朝「朝食」を食べるのが日課となった。お気に入りのメニューは「カレーライス」、そしていつも「クリームシチュー」もいっしょに注文した。長い電車通学の間にすっかりお腹が空いていたのである。そうして、お腹が膨れると、瞼(まぶた)が垂れてきて、1時間目の退屈な講義では、グウグウと寝込んでしまうことも少なくなかった。そんなことがあってもだれに叱られることもない、夢のような数ヶ月が過ぎて夏休みとなった。 

 しばらく会っていなかった小学校時代からの友人から連絡があって、この夏に瀬戸内海の無人島に行こう、ということになった。それぞれいくつかの高校に分かれて進学していた5人が集まった。この春にはみんな別々の大学に入学していた。そのうちの2人が、高校時代に入っていたクラブ活動の影響で「アウトドア」に詳しく、そんな彼らがとある週刊誌の「夏休みを無人島ですごそう」という記事を見つけてきたのだ。その春に創刊された「平凡パンチ」ではなかったかと思う。

 そこには、日本全国から選び出された恰好の「無人島」がいくつか紹介されていた。そんな中で私たちが手頃と思って選んだのが「瀬戸内海の無人島」だった。記事に掲載されていた「連絡先」に電話をするとスムーズに話が進んで、とんとん拍子で、無人島行きが決定した。

 テントやマット、毛布、ランタン、それに飯盒、鍋、ポリタンク、クーラーボックス、ナイフ、スプーン、割り箸、そして、米、缶詰めなどの食料など、と、キャンプ生活に必要なものを、「アウトドア通」のふたりの指導のもとに調達し、いよいよ出発となった。7月の終わり頃だったかと思う。

 山陽本線を途中で「呉線」に乗り換えて、たしか「竹原」という駅で降り、その港からフェリーに乗って「大三島」という瀬戸内海では結構大きな島に上陸した。そこに「連絡先」となっている「船宿」があり、そこから釣り船を出してもらって、目的の「無人島」へと渡るのである。その無人島について、いまあらためて、地図で調べ直してみると、大三島の少し沖合いにある「横島」というところだったようだ。大小二つの島で成り立っていたのを憶えているが、地図では「大横島」「小横島」となっている。

 島につくと、向かいに「小横島」を望む細長い砂浜があり、大きな松の並木もあって、テントを張るには好適の場所であった。今は無人島だが、以前は人が住んでいたこともあり、いまでも時々、近くの島から海水浴客が来ることもあるとのことで、ありがたいことに、まだ使えるトイレや、少し丘を登ったところには飲料に適した「井戸」もあった。

 初日はテントを設営したりするのに忙しく、食事をつくるまで手が回らなかったので、大三島で買い込んだ弁当のようなもので夕食を済ました。そして、無人島での最初の夜をテントで過ごすことになった。昼間は気がつかなかった、砂浜に打ち寄せる波の音が気になって、なかなか寝つかれなかったが、そのうちに眠ってしまった。










 夜が明けて、空が白みはじめてきた頃だったろうか、脚のふくら脛(はぎ)のところがムズムズするので目が覚めた。薄暗い中で目を凝らして見ると、なにやら長く黒いものが脚のところをモゾモゾと歩いている。

 瞬間、ムカデ! と、思わず動いた手が払いのけて、その黒い長いものは姿を消した。

 朝になって、そのことをみんなに報告すると、信じたものはだれもいなかった。寝ぼけて夢でも見たのだろう、と云われた。ムカデなら噛まれたあとがミミズ腫れになっているはずだと指摘されて、脚を確かめてみると、そんなあとはどこにもなかった。

 とにかく朝ごはんをつくらねばならないという忙しさの中で、ムカデのことはみんなの頭の中からすぐに消えた。飯盒で炊いたごはんはうまくできて、思った以上に美味しかった。昨日はゆっくりと見る暇(いとま)もなかったのだが、潮が徐々に引いていて、砂浜が昨日よりも数倍も大きくなっていた。

 水着に着替えて歩いて行くと、見事な遠浅だった。腰までの水面が胸から首にまで上がり、いよいよ足が立たなくなるなと思ったところで、また徐々に浅くなって、向かいの「小横島」の浜に着いていた。いまネットの地図で測ってみると、2島の間は約200メートルであった。

 上陸して、島の周りをぐるりと歩き、小高い丘にも登ってみたが、たいしたものはなかったので、また来た「海の道」をジャバジャバと歩いて帰った。往きよりもさらに浅くなっているようだった。

 そんな遠浅の浜も、昼が過ぎて、すこしずつ日が傾きかかるにつれて、見る見る潮が満ちてきて、砂浜が小さくなり、そこから海に入ると、たちまちにして、首まで水面が来て、背が立たなくなってしまった。







 夕方、忙しくごはんをつくり、テントの前で、それを楽しく味わってから、ふと海を見ると、暗くなった海いちめんに点々と青白い光の粒が拡がっていた。夜光虫だった。海辺に近づいて、その光るものを手ですくってみると、まるい透明の単細胞のような物体があり、その中心部の黒い点から、青白い光が点滅しながら発せられていた。

 2日目となって余裕もできたので、食後はゆっくりと寛ぐことにした。2つ建てたテントの一方に集まり、車座になって「トランプ」や「花札」をして遊んだ。大三島で買い込んだビールやお酒が場の雰囲気をより盛り上げた。

 アルコール類は法律では20歳まで禁止となっていたが、大学生になると解禁されるというのが当時の社会通念だった。大学入学の春には、クラスやサークルで「新人歓迎コンパ」のような宴会がよく開かれたが、新入生の多くはまだ未成年だということを顧慮するものはだれもいなかった。

 煙草もそうだった。このときすでに煙草を吸っているものがいて、そんな彼から1本もらって、はじめて煙草を体験した。どうするのか、と訊くと、煙を口に含んで、思いっきり咽喉に吸い込むのだ、と云ったので、そのとおりにしたら、むせ返って、頭がくらくらとした。一番強いと云われていた「両切りのピース」だったので、そうとうきつかったのだろう。なんとか1本吸い終えたが、口が苦くて、こんなもののどこがいいのか、とそのあとはまったく吸う気もしなかった。

 しかしその頃は、煙草は「おとなの特権」あるいは「おとなの象徴」と見なされていて、成人男子の9割以上が吸っていた、あるいは吸った経験があったのではないだろうか。同級生のほとんどにならって、私も20歳になった頃から自然と煙草を吸いはじめた。友だちの下宿に何人か集まって、夜を徹して、他愛もない議論で時間を過ごすことも多かったが、そんなとき、会話の潤滑油になるのは、アルコールよりも煙草だった。まだ煙草の自動販売機がなかった頃で、夜中に煙草が切れると、しかたなく、灰皿の中から、まだ吸えそうな「しけモク」を拾い出して、吸い直したりしていた。

 さて、テントの中で、そんな風に楽しく、時を忘れて、かなり夜も更けてきた頃、カードを繰っていたひとりが、突然、ひぇっ! という声を上げて、髪の毛を掻きむしった。すると、カードを撒くシートの上にどさりと落ちてきたのは、色も鮮やかな、まぎれもないムカデだった。

 場は大騒ぎとなった。手近にあった新聞紙で叩く前にムカデはすでに姿を消していた。どこから彼の頭の上に落ちてきたのか、みんなテントの天井を探ったが、そんな隙間はなかった。テントの外は真っ暗で、先ほどのムカデがどこに行ったのか、また、そのお仲間のムカデたちがどこに棲息しているのか、見当もつかなかった。

 みんな恐慌状態に陥った。私が今朝云ったことがみごと実証されたわけだが、それを自慢したりするような余裕はなかった。またいつ襲ってくるかもわからない脅威にどう立ち向かえばいいのか、突然の事態に混乱した頭を抱えて、なんとか導き出した結論はこうだった。

 ともかく当面の危機を回避することが第一だ。どうもムカデの行動は夜に限られ、人間がザワザワしているところはあまり好まないようだ。よって、今夜はこのまま徹夜でトランプをしよう。そして、朝になって、ムカデの脅威が去ってから、ゆっくり寝ればいいのではないか。

 そのあとのトランプゲームは何とも不思議な雰囲気だった。ムカデのことがどこか頭にあるので、ゲームに十分集中することができず、かといって、そんなことに気を取られていれば、とても徹夜なんかできない。ということで、つい、慣れないアルコールに手が伸びることが多くなった。そして、いつの間にか、空が白む前に、力尽きて、5人が狭いテントの中で崩れ落ちるように眠ってしまったのである。ムカデがどうした、矢でも鉄砲でも持ってこい! 

 太陽が昇りはじめた頃、目を覚ました私はフラフラと自分のテントに戻って、横になって寝直した。すでに「相部屋」の二人は先に戻って眠っていた。

 その後、私たちの生活は思いっきり不規則なものとなった。昼前に目を覚まして、食事の準備をし、午後は海で遊んで、夕方、暗くなる前に夕食をつくって、といっても、飯盒でごはんを炊いて、持ち込んだ缶詰め類を開けるだけだったが、暗くなると、テントに集まって朝方までトランプなどのゲームをした。

 何泊したのだろうか、よく憶えていない。途中のある日、どこかの島から小さな遊覧船のようなのがやってきて、子どもやおとなが数十人、おそらく地域の「町内会」のようなグループだろうか、にぎやかに海水浴にやってきたこともあった。

 また、長い夜、トランプだけでも飽きるので、ふと砂浜に出て上を見ると、それまで曇っていてわからなかったのだろうか、満天の星空が拡がっているのに気がついた。以前見た「プラネタリウム」で映し出された星空よりもさらに鮮明で、「天の川」がくっきりと見えているのには驚いた。まさに Milky Way というごとく、白いミルクを流したような幅広い「川」が天空の中央を流れていた。天の川の実物をこんなにはっきり見たのは、現在に至るまで、このときの1回きりである。あまりの美しさに、茣蓙と毛布を砂浜に持ち出し、その夜は、ムカデの恐怖も忘れて、そこに仰向けに横たわって、星を見ながら一夜を過ごした。

 その翌々日のことだった。目を覚ますと、テントの外に、往きの船で送ってくれた船頭さんが腰掛けて、煙草をふかしていた。台風の影響で海が荒れると船が出せないので、早目に迎えに来たとのことだった。

 持ち込んだ携帯ラジオで台風のことは知っていた。しかしそれがそんなに接近しているとも思っていなかったので、余所事のように思っていたのだったが、たしかに、砂浜に打ち寄せる波はいつもより高いようだった。まだ数日分の食料が残っていたので、残念な気もしたが、船頭さんには逆らえないので、急いで荷物を整理し、テントを片づけて、迎えの小さなモーターボートに乗り込んだ。さすがに海は荒れていたが、大三島から本州に渡る連絡船は何ともなかった。大阪に帰って数日後、迷走していたその台風が大阪にやってきて、強い雨風を吹かせた。


 無人島から帰ってくると、大阪は夏の盛りだった。この年はどういうわけかお中元などでビールを貰うことが多く、いつも冷蔵庫にいっぱい入っていた。

 祖父も父も酒飲みで、正月には子どもにも平気でお屠蘇を飲ませるような家庭だったので、アルコールには慣れていた。といっても、それまでは正月だけだったが、大学生となるともうおとなだということで、だれ憚ることなく夕食時にそのビールを飲んだ。そして秋になって、いつの間にか、体重が60kgどころか、65kgにもなっているのに気がついた。 

 この夏は、8月の終わりに、春から入部していた「クラシック・ギター部」の合宿が、福井県の三方五湖であった。その時の写真も残っているが、そんなにまるまると太っているというようには見えない。しかし、以前は目立っていた「あばら骨」はすっかり姿を消していた。






 いま思えば、大学1回生のこの夏休みは、私にとって、ひとつの「ピーク」だったのかもしれない。自分がそれまで生きてきた世界の「ピーク」に達したということである。しかし、その世界もまもなく幕を閉じ、その次の世界がはじまると、そこから先の道は長く険しいものとなった。ピークに達するどころか、ピークを仰ぎ見ることさえできない年月が続いた。そしてその険しい行路にさらに負荷をかけるように、体重がすこしずつ増えていった。

 1回生の夏休みが終わって、大学に戻ると、同級生たちが口を揃えて「太ったなぁ」と云った。そんなことを云われたのははじめてだったが、体重計の目盛はたしかにそのことを示していた。鏡に映った姿からはそうは見えなかったが、何かのときに撮られた写真を見ると、以前とは違う自分の姿があった。

 その後、「太っている」というのが私の代名詞になっていった。もちろん、私には不本意だった。私の抱く「太っているひと」のイメージは、まるまるとした顔に、はち切れんばかりに膨らんだ胴体をした、現在の知名人で云えば、タレントの伊集院光や石塚英彦のようなタイプで、何よりも「陽気」な雰囲気を持ったものだった。しかるに私は、無精ひげを生やした顔はぷっくりと膨れ、その下のシャツとズボンははち切れそうにからだに食い込んではいたが、いかにも不機嫌な陰鬱な表情をしていた。

 

   


      伊集院光



石塚英彦



 その頃読んだある本に、詩人・清岡卓行の次のような文章が引用されていた。


 ぼくは詩を捨てた。北向きの五帖の部屋で女房と長男と三人で仲よく暮した。勤めに出かけ、時たままだ卒業していない大学の仏文科に通い、酒を飲み、そして寝るだけであった。昔の友人や先生に会っても、言葉がうまく通じなかった。 (中略) 後輩の中村稔の処女詩集『無言歌』を、仏文学の研究にいそしむ橋本一明の称讃を通じて受け取っても、ぼくは読まなかった。(現在はそれを何回読み返していることだろう!)ぼくはとにかく自分で考えてもダメになり、そして悲しくも肥りはじめた。

(「ぼくにとっての詩的な極点」)


 終戦後、満州から引き揚げてきてのち数年間の、詩人にとっては「スランプ」の状態だった時期を、やや自虐的なユーモアを交えて回想した文章である。私は、当時、この詩人のことはあまりよく知らなかったが、最後の「そして悲しくも肥りはじめた」という一文に強くとらえられた。

 肥る(太る)というのは、少し前の経験では、さいわいにも栄養が足りてきた結果という、ありがたいことのはずだったのに、それが「悲しい」ことになってしまっている。この「逆説的事態」は、自分がいま陥っている状態とまったく同じではないか、という「悲しい」共感をこの詩人に感じてしまった。

 そういえば、「肥満児」という言葉が出てきたのもこの頃のことではなかっただろうか。私の小学生時代、太っている同級生はほとんどいなかった。それが、太り過ぎて、いろいろな面で不都合が生じている子どもが登場してきたのである。食糧事情の改善と高カロリー化の効果を幼い時から享受してきた結果であろう。これが、いまに至る「太っているのはマイナスである」という時代のはじまりだった。そんな「時代の病」の洗礼を、私は同年代でいち早く浴びてしまったのであった。

 かつては、いくら食べても太るということはなかったのに、今は、食べることを控えても、体重は減らない。これは、それだけ食事が高カロリーになってきたからということだろうが、同時に、それをうまく消費するという行為が自分には欠けているからではないか。そう思っても、いまさら本格的なスポーツをやりはじめる気もないので、家で手軽にできる「腕立て伏せ」や、「腹筋運動」をせっせとしたり、時には、一大決心して、日の暮れた夜道をランニングしたりしたが、あまり効果はなかった。

 ある友人に云わせれば、中途半端にウエートトレーニングをすると、筋肉のまわりについた脂肪分が溶けて消えるのではなく、筋肉と混じって、いわば「霜降り」の状態になるとのことだった。その説がどこまで本当か疑わしかったが、汗だくになるまでやってもさほど体重が減らないことから、何かが足りないのではないかとうすうす感じはじめていた。そして、かつてのいくら食べても太らなかった時代を思い起こし、現在との違いを考え直してみたところ、ひとつ気がついたことがあった。

 蓄積したエネルギーを消費するのは、身体的な運動だけではないのではないか。それ以外に、例えば、頭脳を使うことによるエネルギー消費もあるのではないか。たしかにあの頃は、毎日毎日、追われるように、学校の勉強や受験に備えての勉強をしていた。それらはおもしろいとはいえなかったかもしれないが、ある種の手応えと達成感を与えてくれていたのは確かで、それに励まされて、日々、膨大なエネルギーを消費していたにちがいない。しかるに、現在はどうだろうか。

 講演会のような講義や、週1回ずつの語学の授業はおもしろくはあっても、さほど厳しいとは思わなかった。かといって、難しくないということではなくて、ただ自分が、難しさを感じるほど深くまで、そこに入って行こうとはしていなかっただけではないか。例えば、それまで勉強してきた英語や新しく習いはじめたフランス語の、その代表的な名作の原書に挑戦して読んでみよう、とかいうようことなど思いも寄らず、ただ授業で与えられた教科書を消化するだけの勉強になっていた。そこから何か新しいものを見つけようという意欲もなく、それによって得られる歓びや手応えを求めようともしていなかった。そもそも、そんな自分の情熱を思いっきり打ち込める対象を見つけることができなかったといえば、言い訳になるが、要するに、大学に入る前ほど頭を使っていないのではないか、そんな後ろめたさが、体重の増加という事態を「悲しい」ものにしていたのではなかろうか。

 結局、私は大学での専門教育の入り口のところで立ち往生するばかりで、その真髄には「触れる」ことさえかなわなかったといえよう。だから、70kgを超えた体重は、そんな私の不本意ながらも「不勉強」だった大学生活を象徴するものとなっていた。

 しかし一方、私の大学生活は「勉強」のことを除いては、たくさんの好い友人に恵まれて、とても楽しく、充実したものであった。

 大学へは自宅から通学していたので、食事はずっと家でしていたが、友人たちが住む下宿や学生寮を泊まり歩くことも多かった。そんな時は学生相手の食堂で外食したり、部屋に集まって、わずかなアルコールと煙草で談論に耽ったりしていたが、いわゆる外に「飲みに行く」ということはほとんどなかった。そんなお金はみんな持っていなかったのだ。

 下宿生たちは食べ物に苦労していて、仕送りや奨学金やアルバイトのお金が入る前など、部屋でごはんを炊いて、塩だけをふって食べたりすることもある、などという話もよく聴いた。そんな中、自宅で「うまいもの」をたっぷり食べてぶくぶくと太っている私は恰好の揶揄の対象となって、「いじられる」ことが多かった。そんな時は、たまった脂肪の奥に秘めた「悲しさ」などおくびにも出さず、栄養的には優位な立場にいる自分を無理やり意識しつつ、笑って、聴き流すだけだった。

 やがて学校の教師の仕事を得て、自分でお金を稼ぐようになると、食生活も変わってくる。「飲みに行く」ということがぐっと身近になってきた。新人歓迎会にはじまる、さまざまな公式的な宴会のほか、仕事が終わってから、先輩や同僚たちと居酒屋に立ち寄って、お酒を飲むということも多くなった。

 私が最初に配属された学年の教師たちはみんなお酒が好きで、行きつけになっている居酒屋での議論が「第二の学年会議」のようになっていて、そこで仕事の重要な勘所が決まっていくような感さえあった。また先輩たちの「昔話」は自分の、この職場でのこれからの仕事の参考になることも多く含んでいた。ありがたかったのは、年功などによる上下関係は一切なく、新米の私なども対等な同僚として扱ってくれたので、居心地はとても好かった。

 そこで1時間あまり過ごして、家に帰ると、夕食は用意されているのでそれも普通に食べた。他の人たちは、別の店に「はしご」しに行ったが、私は家に食事が用意されているので、後ろ髪ひかれる思いで、みんなと別れた。そんな窮屈さがいやにもなって、まもなく、生まれてはじめて親元を出て、アパートで一人暮らしすることになった。

 そうなると、もう何の遠慮もなくなって、みんなといっしょに何軒もはしごして、自分の部屋に帰ると、10時を過ぎている、ということも多くなった。お酒を飲む時、あまり「肴(さかな)」を食べない人もいるが、私はたっぷりと食べる方だった。それでいて、家にいた時も、帰ってから普通どおりにごはんを食べていたほどだったから、一人暮らしになると、帰っても何もないのだから、より以上に「肴」をたくさん食べるようになった。それでも物足りない時は、(アルコールが入っていると食欲が昂進されて、たいてい物足りないのだが)、遅くまでやっている、うどんやラーメンの店に立ち寄るのが常だった。後述するが、その後、毎日体重を計るようになると、そういう時はいつも前日よりも明らかに2kg近く増えていた。現在なら、その後しばらく「節制」して体重を落とすのだが、当時はそんなことにも気がつかなかった。狭いながらもバス・トイレ付のアパートで体重計など持っていなかったので、たまに実家に帰った時、久しぶりに近所の銭湯の体重計に乗って、いつの間にか75kgを超えるところまで達しているのを知って驚いた。

 ただそれは、学生時代のように鬱屈した「悲しい肥満」ではなかった。仕事も軌道に乗って、かなりの手応えもある、いろんな意味で十分に「発散」したうえのものだったので、そのあたりを頂点として、それ以上には増えなくなっていた。ただ、着ているもの、とくにズボンのサイズが合わなくなって、何度も買い替えなければならなかった。

 そんな私に大きな転機となったのは結婚だった。結婚して大きく変わったのは、朝ごはんをきちんと食べるようになったことである。中学生のころ以来だから、17年ぶりのことになる。

 はじめは昼の弁当もつくってもらっていたが、小学校に勤めている妻は、昼はこどもたちといっしょに学校給食を食べるので、朝の忙しい中、早起きして、わざわざ私のためだけに弁当をつくってもらうのも心苦しく、私はまもなく、職場の生徒食堂や近くの食堂、あるいは、通勤途中でパンを買ったりするようになった。また朝も、出勤時間が私の方が大分早かったので、先にトーストとコーヒーで済ませるようになった。

 毎日朝ごはんを食べると、食事が規則的になり、生活にメリハリがついてくる。

 学生時代からそうだったが、朝ごはんを食べないとお腹が空いてきて、昼までは持たない。だから学校に勤めるようになっても、午前中の授業のない空き時間に、生徒食堂に行って、早めの昼食を済ませたりした。すると午後になってお腹が空いてくるので、また食堂に行って、パンや麺類で空腹を満たし、退勤後にはみんなと居酒屋に行って、かえりにラーメンを食べて、帰ってすぐに寝る、とパターンが週に何日もあった。みんなと飲みに行かない日はひとりで外食し、休日には、家で自炊をした。そんな時は、スーパーなどで出来合いのお総菜を買うことが多かったが、時折、カレーやクリームシチュー、焼きそば、焼きめしなどをつくったりした。

 カレーやシチューはスーパーで具材と、箱入りのルーを買って、その箱に書いてあるレシピどおりに調理すれば、けっこう美味しいものができた。ただ分量は6皿分などとかなり多いので、数日間、カレーやシチューが続くことになったが、好きなものであれば同じメニューが連続してもまったく苦にはならなかった。何度も温め直しているうちにより味にコクが出てくるような気がし、二度目以降は、トンカツやコロッケ、唐揚げなどを買ってきてトッピングを楽しんだりした。また、クリームシチューではごはんよりもパンが合うように思い、パリパリのフランスパンをちぎって浸して食べたり、サンドイッチやハンバーガーを買ってきて、それをシチューといっしょに食べたりした。

 ひとりで外食の時はもちろん、自炊でも、ビールなどのアルコール類は必須で、夕食前に先に入浴を済ませておき、それからやおら大きなジョッキに注いだビールをごくりと飲んで、テーブルに並べた料理をパクパクと平らげた。

 そんな時のごはんの友は、テレビよりは「活字」だった。堅苦しい本ではなくて、肩の凝らない雑誌などが中心で、そのころ沸騰していた「ロッキード事件」の内幕を書いた読み物やスポーツ関係のドキュメンタリーを読むと、どんどんと食が進んだ。そして、十二分に満足するほど食べると、あと片づけもそこそこに布団に潜り込んで朝まで眠ってしまう。こんな食生活が、生き甲斐といえば大げさだが、人生の大きな楽しみのように思っていた。

 こんな「暴飲暴食」を続けていながら、体重が76kgをピークにそれ以上は増えなかったのは、おそらくそのあたりに消化器官の限界というものがあって、それを超えると決まって下痢をしたりして、食欲が落ちるのであった。

 しかし、こういった野放図な食生活も結婚を機にまともなものになっていった。朝食をきっちりと食べることによって、昼食、夕食の配分が決まって、規則正しいバランスが出来てきたのだ。もっとも、週何回かの居酒屋通いの習慣は続いた。

 子どもが産まれてからも、妻はずっと学校勤めを続けていて、その間、子どもたちは近くに住む妻の実家に預かってもらっていた。妻は仕事帰りに実家に寄って、そこで実家の母といっしょに夕食をつくり、それを容器に入れて子どもたちといっしょに帰ってきて、みんなで食べることになっていた。しかし、仕事で遅くなることもあり、そんな時は、子どもたちは先に母がつくった夕食を食べており、そこに帰ってきた妻もいっしょに食べて、私の分だけ持って帰る、ということもあった。そこで、私が今日は約束があるから食べて帰る、と伝えておくと、私の分を用意する手間が省けることになり、そうなると、こちらとしても、いくらか後ろめたさが軽減された気になり、心置きなく飲んで帰れるという事になった。

 だから、体重は少しは減っても、70kgを切るということはなかなかなかった。もちろん、気が向いた時に、腕立て伏せ、腹筋運動、ジョギングという努力は続けていたが焼け石に水であった。

 そんな中で大きな転機になったのは1995年、50歳の頃だろうか、NHKテレビの健康番組で「ダンベル体操」というのを見た時だった。

 筑波大学の鈴木正成(まさしげ)教授が考案したというそれは、軽い2つのダンベルを使って、腕、胸、足腰、ウエスト、腹などを鍛える体操が13種類あり、それぞれ10~20回ずつ繰り返すと約10数分で終わるようになっていた。目的は筋肉を鍛えて、筋肉の量を増やすこと。そうすることによって、なにもしない安静状態でも消費される、エネルギーの「基礎代謝量」が増え、自然に体重が減る、というものだった。

 https://www.youtube.com/watch?v=r7hz4AQ4yps

 さっそく、ダンベルを買ってきてやってみた。ダンベルは、1kg、2kg、3kgの3種類を購入して試してみたが、私には2kgがちょうどよかった。

 体重は急には減らなかったが、目に見えて効果があったのは、ウエストだった。ダンベルを持って腰をひねる運動が意外に効果的で、それまで二握りほどあった脇腹の脂肪が掴めないほどに減っていた。当然、穿いていたズボンがゆるくなり、それまで穿けなかったズボンも徐々に穿けるようになっていった。これはとても感動的なことで、以来、四半世紀、現在でも毎日続けている。

 また、その頃、同じ鈴木教授の「食べながらやせるダイエット法」というのもテレビで見た。

 そのポイントは、ひとことで云えば、昼ごはんを控えよ、というのであった。朝食は、おかずも含めてしっかりと食べる。夕食も減らすことなく、普通に食べる。アルコールを飲んでもかまわない。ただ、昼は、軽い「つなぎ」の食と考えて、うどん1杯か、おにぎり2個程度に収めなさい。元来、人間は、朝と晩の二食で、昼は食べていなかった、という歴史的事実が根拠になっているとのことだった。

 実行してみると、確かに効果はあった。朝食を充実させる時間的な余裕はなかったので、昼を、コンビニのおにぎりやサンドイッチなど軽いものにしただけだったが、体重はやや減り気味になったような気はした。少なくとも、昼にたくさん食べると絶対に太るというのが判って、外の食堂へ定食を食べに行ったりするのはやめにした。


 風呂のある家に住むようになって、銭湯には行かなくなったので、体重を計る機会がなくなった。そこで体重計を買ったのだが、それがいつごろだったのかはよく憶えていない。とにかく、毎晩、入浴のたびごとに体重計にのって一喜一憂していた。

 「レコーディング・ダイエット」というのがある。「オタク」評論家の岡田斗司夫が提唱して有名になった減量法である。その方法は、毎日摂取する食物とそのエネルギー量を記録することによって、自分が摂っている食物の内容、エネルギー量を自覚して、食生活の改善につなげていく、というものであった。

 なんでも岡田斗司夫は、この方法によって117kgもあった体重を67kgまで激減させるのに成功し、しかもその後「リバウンド」は起っていないという。そんな頃、久しぶりにテレビで岡田斗司夫の姿を見た。以前は、伊集院光とそっくりなはち切れるような体型だったのが別人のようになっている。ただ、それはほっそりとスマートになったというよりも、詰まっていた中身がすうっと抜けた抜け殻みたいな印象で、顔のしわがやたらと目立ち、以前見た時からの年月を考えても、それ以上に老けたような気がした。





 しかし、この減量法の効果は間違いがないようで、さっそく真似してみようと思ったが、毎日の食事をいちいち記録して、そのカロリーを計算するのは面倒で、たぶん長続きはしないと思った。そこで、この方法の肝は、自分の食生活の実情を「自覚」して、改善に結び続けていくことにあるのではないかと勝手に解釈し、食事の内容ではなくて、その結果である「体重」を自覚していこう、ということになった。

 そこで、それまで漫然と気まぐれにおこなっていた体重計測の方法を定式化した。すなわち、計測するのは、入浴を終えて、からだを拭いた直後の全裸の状態の時に決めた。これは少しでも体重が少ない時に計りたいというささやかな願望からきているもので、実際、入浴前の下着を付けた状態と比べると、1~1.5kgほど少なかった。知りたいのは、体重の絶対値ではなくて、相対的な変化なのでこれで十分だった。記録は、毎日つけている「日誌」にその欄をつくった。

 残っている最初の記録をいま探すと、2005年1月5日で、72.5kgとあった。意外に多いな、と思ったが、日誌の記述を読めば、どうもこれはいわゆる「正月太り」で、これはいかん、とそのあと節制して、意識的に体重を落としていったようである。その背景には年末に受けた人間ドックの受診結果もあった。

 人間ドックはその10年以上前から毎年受診していた。ある年齢を超えると、健康保険組合から人間ドック受診の補助が出る。さらに勤務先の学校からも福利厚生の一環として、ある程度の助成金が出て、両方あわせると、大阪市内の一流ホテルの中にあるクリニックの一泊コースで、そのホテルに泊まり、フルコースの食事を食べても、1万円程度の自己負担で済むというのを職場の同僚から聞いて、さっそく申し込んでみた。

 フルコースは大げさだったが、朝から絶食して昼過ぎから始まった1日目の検査は4時前には終わり、シングルの部屋のキーとともに渡されたお食事券はホテル内、もしくは近隣の指定のレストランや食堂でも使える4000円相当のものであった。ホテル内の店では指定のメニューがあり、それらは洋食でも和食でもちょっとしたご馳走で、ビールも1本だけなら自弁で飲んでもよかった。

 翌日は絶飲絶食で検査が始まり、主なものは「ブドウ糖負荷試験」といって、ブドウ糖の溶液を飲んだあと、1時間後、2時間後に2回採決して血糖値を調べる検査だった。わざわざ1泊することもなかろうに、とも思ったが、最後に医師の診察と1日目の結果の速報値の説明があって、11時頃には終わる。そしてまた今度は1500円の食事券がついていたので、帰りは、近隣の指定のレストランに入り、不足分は自分で足して、生ビールを何回もお代わりするのが楽しみだった。

 当初の数年間は心配すべき結果は皆無で、年に一回、日頃泊まる機会のない一流ホテルでゆっくりと静養するのが楽しみだったのだが、50歳をいくつか過ぎたあたりからだろうか、何やかやと黄信号が出始めてきて、その主なものは糖尿病に関するものだった。ブドウ糖を飲んだあとの血糖値の下がり具合が鈍くなってきたとか、過去1~2ヶ月間の血糖値の平均をあらわすグリコヘモグロビン(HbA1c)の値が高くなって「糖尿病境界型」とか「糖尿病疑い」の診断が出るようになった。またエコー検査の結果、「脂肪肝」といわれたりもした。

 医者の診断によれば、血糖値を下げる薬を飲んだりする必要はないが、とにかく体重を落としなさい、とのことだった。

 そこでごはんの量を減らしたりしてみると、少し体重が減ったようだったが、気を許すとまたすぐ元に戻ってしまう。とくに、正月は家で朝から飲んだり喰ったりの、文字通り「暴飲暴食」の無礼講なので、体重計の目盛は上がる一方だった。この記録の最初に出てくる数字はおそらく、そういうものだったのだろう。やがて、普段の食に戻るとともに、1ヶ月後には69kg台になっている。その後、70kgを超えたことはない。そしてその3ヶ月後の2005年4月に68kg台、5月には67kg台となっているので、このあたりが当時の普段の体重だったのだろう。

 ところが、その後、思いもかけないことが起こった。それまで、いろんな手を尽くしてもなかなか減らなかった体重が、少しずつではあるが、着実に減りはじめたのだ。

 その変遷を先に概述しておくと、次の通りである。

 66kg台になったのが、その約2年後の2007年3月、65kg台はさらに3年を経た2010年12月だった。66kgの「壁」を超えるのに5年を要したが、次の65kgの壁を越えて64kg台になったのは1ヶ月後の2011年1月、そして2年経った2013年9月には63kg台になっていた。身長(cm)から100を引いたものに 0.9 を掛けるという簡易的な「標準体重」、あるいは、体重(kg)÷ 身長(m) ÷ 身長(m) で算出される「BMI(Body Mass Index ボディマス指数)」の値が22となる「標準体重」のいずれも、私の場合は63kgであるので、いつの間にか、その8年間で7kgほど減って「標準体重」に戻っていたことになる。

 どうして、このように減量できたのだろうか。

 この間、とくにエネルギーを消費する「運動」をしていたわけではない。1日15分のダンベル体操は欠かさず続けていたが、その他は、時折、通勤の帰りの電車を1~2駅前に降りて歩いたりしたぐらいで、それも長続きはしなかった。

 あるいは、体重を毎日記録するという、自分流の「レポーティング・ダイエット」が功を奏して、食生活に対する「自覚」が深まったのだろうか。そんな手応えがとくにあったわけでもなかったが、その頃食生活に関する「環境」が変化していたのは確かだった。

 勤務先の学校では、月に1回「定例職員会議」というのが開かれることになっていた。月1回だから、いろんな議題がたまっていて、発言者も多く、活発な議論が展開され、大抵、3時半から始まって6時過ぎまでかかるのが通例だった。そのあと、すぐに帰る人もいたが、会議の興奮を冷ますため、いくつかのグループに分かれて、居酒屋などに駆け込むものもいた。

 私も毎回、気の合った数人で帰り道の行きつけの店に寄って、その日の会議のことを話題に、9~10時頃まで気炎を上げるのが常だった。会議は「定例」以外に「臨時」のもあり、その他、校務分掌や組合関係の会議もあって、かつてのように、学年会議があるたびに飲みに行くということはなくなったが、平均すると、週に1回ぐらいはそんな機会があった。

 ところが、体重の記録をつけはじめた2005年はといえば、私が60才の「定年」を迎えた年である。定年後も「非常勤講師」というかたちで6年間ほど働き続けたが、「非常勤」となると、授業を担当するだけで、会議類とはまったく縁がなくなる。したがって、会議のあとで飲んで談論風発するという機会はなくなってしまった。もっとも、それ以前に、年上が多かった飲み仲間の人たちが先に定年になって、そういう場を去ってしまっていたので、すでに、飲む機会は激減してしまっていた。

 先にも述べたように、飲むと、よく食べる方であった私は、帰り道で「しめ」の麺類も食べたりして、その日の体重は前日よりも2kgほど増えているのが常だった。体重計に乗って、これはいかん、と翌日から節制するのだが、またすぐに次の機会がやってきて、体重が戻る間がないという状態が続いていたのだが、そういうことがこの頃からなくなってきた、というのが、体重の下降の大きな要因だったかもしれない。

 次の節目は2012年、その非常勤講師の仕事も辞めて、完全な「年金生活者」になったことである。通勤というものがなくなって、毎日家にいるようになると、「外食」の機会はほとんどなくなった。学生時代や旧職場での古い友人たちと飲む機会はあったが、年に数回のことだった。

 さらに、その数年前には、妻が30年以上勤めた小学校の仕事を定年前に退職して、専業主婦となっていた。家にいると、料理の面でもいろいろな工夫を始め、「有機栽培の野菜」を使った料理教室に通ったりするようになった。結婚前にも自宅近くの料理教室に通っていたとのことで、それまでは、そこで習得した、ハンバーグ、コロッケ、ロールキャベツ、酢豚、唐揚げといった代表的な洋風・中華風の家庭料理を得意としていたのだが、以後、菜食主義とまではいかないが、肉や魚が減って、野菜中心の料理が多くなった。

 このように、仕事からリタイアしてから、外食はしなくなり、家で食べるものも野菜が中心となると、摂取するカロリーも軽減されてきて、その当然の結果として、体重が減ってきたのであろう。体重が減ってくると、人間ドックでも「脂肪肝は消えました」と告げられ、その効果に驚いた。かつては「健啖家」でならしたものだったが、この頃では「バイキング」や「食べ放題」の店に入っても、すぐにお腹がいっぱいになって、お手上げとなってしまうようになった。胃袋も自然と小さくなってしまったのだろうか。

 2013年に63kg台だった体重はその後、6年ほどかかって、2019年には62kg台になった。そして、2020年11月以降は61kg台以下に収まっている。その間、2020年2月2日に、入浴後の「最小体重」とはいえ、60kgを切って、59.7kgになった時は、さすがに驚いた。実に57年ぶりのことである。

 このまま体重が減っていくとどうなるのか。どこかからだに悪いところがあるのではないか、と逆に心配になってきた。

 さいわい、その後、体重は60~61kg台を上下して、それ以下になることはなくなった。新聞の「健康欄」に、高齢になると消化器官が衰えてきて、体重が減るものだ、とあったので、そんなものかと少し安心した。 血糖値はそれほど下がってはいないが、なんとか「糖尿病境界型」のラインあたりを維持している。

 それにしても、古稀を過ぎて、50年前の体重に戻るとは思わなかった。これから先、この体重をめぐる物語がハッピーエンドとなるかどうかは不明ではあるが、とにかく、今の健康な状態ができるだけ続いて、無事天寿を全うすることができますように、今はそう願うばかりである。

(完)

 

【自註】

 毎度のことであるが、タイトルの「体重」は、この作品のテーマというより、いわば「誘い水」である。誘われて出てくるのは、これまでに蓄積されたさまざまな記憶で、それを呼び起こすことによって浮かび上がってくる、ひとりの人間の生き様、あるいはその人間が生きてきた「時代」の空気といったものが、書きたいテーマだといえよう。ただ、記憶といっても映像フィルムとして頭の中に残っているわけでもなく、あくまで、現在の私がいま生成しているイメージにすぎないので、実際にあった現実そのものかどうかは確かではない。切れ切れのイメージをつなぎ合わせるためには、なんらかのフィクションも交えなければならないこともあるだろう。そうして出来上がったものは、無名の人間を主人公にしたひとつの物語であって、その人物を知る自分自身にとっては興味深いものであっても、そうでない人にとってはつまらないものかも知れない。しかし、「文芸」の真髄は、What to Write(何を書くのか)ではなくて、How to Write(どのように書くか)にあると信じるがゆえに、今後もこの道を突き進んでいこうと思う。

 (2012/09/11)



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