五〇年後の断想



第1部 五〇年後の断想









 播州赤穂といえば、まずは「忠臣蔵」の赤穂浪士、そして、その頃にはすでに有名な特産品だった「赤穂の塩」、さらに近ごろでは「赤穂の牡蛎(かき)」も観光客を惹きつけている。そこに、近年、「第4の名所(名物)」が誕生した。それが「ビートルズ文化博物館」である!と印刷されたポスターが駅構内に貼り出されていた。

 私がはじめて赤穂に行ったのは2012年12月のことである。JR播州赤穂駅を降りて、徒歩で、浅野家の菩提寺である「花岳寺」を訪れ、その門前の、きれいな敷き石で舗装された道を南下すると、突き当たりに「赤穂城」があった。12月14日に恒例の「義士祭」を控えて、日頃は空所になっている天守台に、鉄パイプを組み合わせてつくった天守閣状のイリュミネーション設備が設けられるなど、いろいろな催しものが準備中だったが、「ビートルズ文化博物館」というものには気がつかなかった。

 それもそのはずである。「ビートルズ文化博物館」が設立されたのは、その3年半後の、2016年5月であった。赤穂出身のデザイナー・岡本備(そなう)氏が、母親の介護のために帰郷したのを機に、赤穂市の「空き店舗活用事業」で借り受けた古民家を改装して、その1階に「博物館」を設けたのである。岡本氏は14歳の時にビートルズの音楽と出会って熱中し、以来50年間、2万点ものビートルズ・グッズを収集、それらを用いて、それまで、独自のビートルズ・イベントを各地で開催してこられたとのことだった。

 私が2回目に赤穂を訪れた2017年11月、同行した妻を案内するかたちで、花岳寺から赤穂城まで同じ道を歩いた。その時、横道の向こうの方に何やら派手な飾り付けをした家があるのが目に入ったが、それが何だか判らなかった。それが「ビートルズ文化博物館」だと知ったのは、その後しばらくして、あるテレビの旅番組で紹介されているのを見たときだった。

 この時の、11月の赤穂は、まだ名物の牡蛎にはすこし早かったので、今度はもっと好い時期に行ってみようと、2019年2月に、妻と3回目の赤穂に行った。その時は、着くとすぐに、その「ビートルズ文化博物館」に直行した。

 おもてにはビートルズの大きな写真など、いっぱい飾り付けがしてあったが、木造のごく普通の民家で、戸を開けると、すでにテレビで見知っていた岡本氏の顔があった。口髭を生やして、ちょうど、ラグビーの平尾誠二氏を少しくだけさせたような風貌で、大阪から来たというと、それはそれは、と人懐っこい笑顔で迎えてくれた。

 6畳と10畳のふたつの部屋の仕切りを取り払ったほどの広さといえようか。その双方に頑丈な四角いテーブルと椅子が並べられていて、すべての壁面にはさまざまなビートルズ・グッズが展示されていた。

 岡本氏がデザイナーだけあって、ご自身が作成された大きなビートルズのポスターが壁一面に何枚も貼られているほか、もちろん、ビートルズのレコード、それも、日本で発売されたもの以外に、イギリス本国やアメリカで発売されたいろんなバージョンのものが飾られていた。

 そして、次の部屋の行くと、窓際に2メートル以上もある黄色い大きなグッズ。それは、あのアニメ映画『イエローサブマリン』に登場した潜水艦の模型であった。正面のテレビ画面には、ビートルスの映像がその音楽とともに延々と流れている。その隣は図書のコーナーとなっていて、ビートルスに関するさまざまな文献が並べられていた。

 「本やレコードはごく一部です。奥にこの何倍もしまってあって、時折、入れ替えているのです」


 

 


 これまで書店で目にしたものもあったが、はじめてのものの方が多かった。1冊ずつ、ていねいにビニール袋に収められているので、そう次々と見るのは憚られたが、そんな中に、「ジョン・レノン死去」に関する記事がファイルされたバインダーが目に入ったので、それを開いてみた。そこには、1980年12月8日のあの痛ましい事件の、新聞、雑誌、週刊誌などのあらゆる記事が網羅されていて、思わず、時間を忘れて、読み入ってしまった。

 しかし、このビートルス文化博物館の最大の目玉は、2万点のビートルズ・グッズというよりは、岡本館長その人であろう。初対面のわれわれに対して、まったく臆することもなく、その口から滔々と溢れ出てくるご自身の「ビートルズ体験」に、まったく圧倒されてしまった。

 かつて世界中を熱狂させたビートルズ、そしていまもその人気は衰えず、周期的にラジオなどで特集番組が組まれ、また学校の音楽の教科書にもその曲が載っているビートルズであるが、解散して半世紀も経つと、さすがに、その熱中ぶりをあからさまにする人は少なくなっていた。そんな中、かつての「ビートル・マニア」の姿をいまだに現役で保っている岡本氏の存在はとてもユニークなものだ。






 聴けば、小さいながらも、「ビートルズ博物館」という施設は日本全国でここだけだという。さらに、岡本氏は毎週週末には神戸に出かけて、その地で「ビートルズ・セミナー」なるものを開いているともいう。ビートルズが「世界無形文化遺産」に登録されることが、岡本氏の夢だそうだが、その前に、岡本氏自身が「無形文化財」に御せられるべきだろう。

 旅のスケジュールで予定していた1時間はあっという間に過ぎてしまった。どんなグッズがあったのか、その記憶と印象も、ただただ、岡本氏の熱い「ビートルズ熱」に上書きされてしまったようだった。しかし、そのおかげで、私の中で長年冬眠中だったビートルマニアが目を覚ましたようで、13年ぶりに筆を執って、つづきを書いてみようという気が起こってきたのもたしかであった。





 赤穂のビートルズ文化博物館が開館した2016年は、ビートルズのあの「日本公演」の50周年に当たる年で、テレビのBS放送では、それに因んださまざまな番組が放送されていた。そこでは、ビートルズが日本に滞在した5日間のさまざまなエピソードが当時の関係者の口から懐かしそうに語られ、また、赤穂の博物館にも置いてあったが、『ビートルズ来日学』という大判の分厚い書籍も出版されていて、来日中のあらゆる出来事が網羅されていた。

 日本にいたあいだ、警備の都合上、会場の日本武道館に行くほかは、ずっと、ホテルに缶詰めにされていたビートルズのメンバーだったが、そのうちの、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが厳重な警備の網の目をすり抜けて、ホテルを脱出、都内を徘徊するという「事件」が起きた。

 ポールはスタッフの一人といっしょに、皇居が見たくて、お堀端を歩いているところを警察官に見つかり、わずか5分後には連れ戻された。しかし、ジョンは車に乗って、乃木坂、青山、原宿、麻布材木町の古美術店や骨董品店などを巡り、最後はファンに見つかって大騒ぎになりかけたので、慌ててホテルに戻って来ざるをえなかったが、実に1時間ほど、東京の空気を自由に吸うことができた。

 これらはとても有名な出来事で、テレビ番組でも、また書籍の『ビートルズ来日学』でも取り上げられていたが、彼らがどのようにして「脱出」したのか、その詳しい経緯までは明らかにされていなかった。ところが、最近、ジョンの脱出の手引きをしたという日本人についての本が手に入った。『ザ・ビートルズをピンクのキャデラックに乗せた男』(入内島泰広著・2018年・文芸社刊)である。



     



 1966年6月29日午前3時39分、羽田空港に到着した飛行機から、JALのマークの入った法被(はっぴ)を着て日本に降り立ったビートルズの4人は、すぐにピンク色のキャデラックに乗って、宿泊先の、赤坂の東京ヒルトンホテルに向かった。「ビートルズ来日」といえば、かならず放映される映像であるが、このキャデラックを運転していたのが、当時38才の入内島(いちじま)登氏、この本の著者の父親である。

 東京神田神保町の長屋で5男1女の5番目に生まれた入内島氏は、幼い頃に父親を失い、女手ひとりの家庭で大きくなった。家は貧しかったが、向学心が強かったので、新聞配達や牛乳配達をしながら、英語の専門学校に通って、英語を身につけた。そして、GHQの車両部隊に就職、事故処理の仕事をしていた関係で、その後、外資系の保険会社をいくつか転々としたあと、オーレル・インシュアランス・カンパニーに引き抜かれて、その社長秘書となった。

 社長のポール・W・オーレル氏は元アメリカ軍の将校で、退役してから、日本で保険の代理店をしていた。オーレル氏は、その仕事の関係上、いろんな人々と会って人脈づくりをするのに熱心で、秘書の入内島氏は、社長のピンクのキャデラックを任されて、その運転手として、社長のさまざまな接待のお供をするようになった。

 そんな人脈の中に、ビートルズを日本に招いたプロモーター・協同企画の永島達司社長がいた。オーレル社はビートルズの滞日中の賠償責任保険の契約を結ぶのに成功、その時、あのピンクのキャデラックを運転手つきで貸してくれないか、と永島社長に求められた。仕事は、羽田空港からホテルまでの送迎のほか、協同企画から注文があればそれに応じられるよう、滞日期間中は、ビートルズと同じホテルに泊まってほしい、というものだった。

 入内島氏はジャズは好きだったそうだが、ロックなどには興味はなく、ビートルズについても、新聞などで名前は聴いたことがある、というぐらいで、予備知識はほとんどなかった。

 ビートルズ到着の日も、当初の予定では、他にもたくさんの車が用意されていて、入内島氏のピンクのキャデラックにはビートルズ本人たちではなく、スタッフが乗る予定となっていた。ところが、当日になって、季節外れの台風が日本に上陸、ビートルズはアラスカのアンカレッジに足止めとなった。ビートルズが羽田に着いたのが深夜の3時過ぎとなったのはそのためだったが、その結果、車の配車の段取りが狂って、その数が少なくなり、急遽、ピンクのキャデラックにもビートルズを乗せることになった。

 ただ、4人を分散させて乗せるうちの1台であって、実際、当日、案内の協同企画の社員が先頭を歩いてきたポールをキャデラックに乗せたあと、続いたジョンを別の車に誘導しようとしたところ、なぜかジョンがそれを嫌って、キャデラックに乗り込み、さらにリンゴもそれに続いてしまった。それで、キャデラックのうしろの座席はいっぱいになったのだが、残されたジョージも係りの指示を無視して、入内島氏の横の助手席に乗り込んできた。またたく間に、なんとビートルズ全員がピンクのキャデラックに乗ってきたので、これには入内島氏も驚いて、たいへんなことになったと、大いに緊張したそうである。

 しかし、ビートルズの連中はそんなことは気にもかけず、発車してまもなく、ポールが次のように話しかけてきたという。

「ミスター、5日間、お世話になります。自己紹介させてもらっていいですか?」

 そして、ポール、ジョン、リンゴ、ジョージの順に自己紹介していった。慌てて自己紹介を返した入内島氏は、いわゆる「スター気取り」など全くない、彼らの礼儀正しい態度に感心し、急速に親近感を感じたと云う。

 そのあと、台風の被害はどうだったのか、日本での自分たちのファンはどのような様子か、日本武道館では有名なアーティストたちがよく演奏するのか、はては、日本では今でも頭に髷(まげ)を結っている人がいると聴いたが、本当か、など、ホテルに着くまで、次々と質問してきて、それに答えているうちに、和やかな雰囲気になっていったという。

 ビートルズ一行は東京ヒルトンホテル10階の全フロアーを借り切っていたが、入内島氏もその中の一部屋を与えられて、待機していた。はじめの予定では、滞日中、箱根あたりを案内することも協同企画では考えていたようだが、大勢のファンの殺到と厳重な警備のため、それは不可能となり、入内島氏の仕事は、せいぜいみんなを武道館まで運ぶことぐらいしかなく、部屋でブラブラしている時間が多くなった。

 そんなある時、正確には、ビートルズが日本に到着した翌6月30日の朝食のあと、ジョン・レノンが突然入内島氏の部屋を訪れてきた。そして彼はこう云った。

「昨日、車の中でも云ったように、自分は日本の文化にとても興味を持っている。今こうして、せっかく日本にやって来たのだから、日本の美術工芸品や骨董品、壷や漆器や象牙の加工品などをぜひこの目で見てみたい。そこで、何とかして、ぼくを外に連れだして、そんな店に連れていってくれませんか」

 ジョンからの、そんな思いがけない依頼に入内島氏は困惑した。このフロアの廊下にも警察官やガードマンが四六時中張り付いて警備している。そんな中を、ビートルズのメンバーを外に連れ出すなど、絶対に不可能だ。入内島氏は即座に断ったが、ジョンはあきらめず、必死の表情で何度も頼んでくる。入内島氏は最後まで承知はしなかったが、ジョンは、「急ぎませんから、何かよい方法が思い浮かんだら、声をかけてください」と云って、部屋を出ていった。

 えらいことを頼まれた、でも、そんなことはできっこない。そう思った入内島氏だったが、しばらくするうちに、しょんぼりと去っていったジョンの後ろ姿が思い出され、それほどまで日本が好きで、しかも自分を頼りにしてくれているのなら、なんとか手助けできないものか、と、具体的な方法をいろいろ模索しているうちに、なんかできそうな気がしてきて、それが、かならずできるという確信に変わり、さらに、やるんだ、やるしかない、という決断へとなっていったという。

 そして、翌7月1日の午前に、それは決行された。

 ロード・マネージャーのニール・アスピノールといっしょに、入内島氏の部屋に現れたジョンは、自分もスタッフの一人だという顔をして、ガードマンが見張る、従業員用のエレベーターに乗って、地下駐車場に降り、そこから、ピンクのキャデラックに乗って、ホテルから脱出することに成功した。

 入内島氏の案内で、彼らは最初、乃木坂の骨董品店に入ったが、そこにはたいしたものがなかったので、青山の象牙専門店、原宿のお土産店「オリエンタル・バザー」、そして、麻布の骨董品店「朝日美術」へと巡っていった。

 しかし、ピンクのキャデラックはあまりにも目立ち、また、それがビートルズが乗ってきた車だと知っているファンが、もしかして、と、集まりはじめていた。そして、最後の店に入っていた頃には、大勢の人だかりができ、交通警官が整理に来たり、近くのテレビ局からカメラを持って走ってくる連中が見えたりしたので、慌てて、ジョンを裏口から逃がして、なんとか、見つからずにホテルに帰ることができた。しかし、その時、午後のステージの時間が迫っていて、みんな、武道館への車に乗り込んでいるところだったので、入内島氏は警察関係者をはじめ、みんなの冷たい視線をいっしんに浴びることになった。

 当然のこと、入内島氏は警視庁の警備責任者からきついお灸をすえられ、そのあと、ビートルズのメンバーを武道館まで送り迎えする仕事も外されてしまった。そんな入内島氏をジョンは心配し、スタッフだけの送り迎えになったピンクのキャデラックに強引に乗り込んできたこともあったいう。

 問題の「買い物」については、店内訪問は途中で中断せざるをえなかったが、その後、各店の店員がたくさんの商品を持参してホテルを訪問してきたので、ジョンのみならず、他のメンバーもさまざまな珍しい「日本土産」を購入することができた。1時間あまりの「冒険」はムダではなかったのである。

 ホテルに缶詰めにされて不自由な時間を過ごしていたビートルズ一行を、たとえひと時だけでも喜ばせることができたという達成感もあったのだろうか、入内島氏は最終日におもわぬ「失態」を演じてしまう。彼らを無事羽田空港に送り届けるのを最大の使命と位置づけていたその日に、不覚にも寝坊してしまったのである。

 気がついて、廊下に出ると、10階のフロアには人の気配がなかった。慌てて、下に降りると、今しも一行が車に乗り込み終えて、出発寸前であった。かろうじて、残っていたスタッフをピンクのキャデラックに乗せて、車列の最後尾について、空港に向かったのであったが、その間、入内島氏の頭の中はずっと真っ白だったという。もちろん、ジョンにも、他のメンバーにも別れのことばをかける機会さえなかった。

 入内島氏がこれら一連のエピソードを、この本が出るまでいっさいおおやけにしなかったのは、この最終日の苦い思い出があったからではないだろうか、と息子で著者の入内島泰広氏は推測する。

 しかし、ジョンはこの時の恩を忘れてはいなかった。後年、小野洋子と結婚して、いっしょに再来日したとき、入内島氏の勤める会社に、会いたいと連絡してきたという。そして、入内島氏が滞在先のホテル・オークラを訪れて、ふたりが再会した時、ジョンは最終日に会えなかった真相を聴いて、「私は、最後はぜひとも入内島さんの車に乗りたいと、なんども行ったのだけど、入内島さんはいないし、キャデラックには鍵がかかっているし、どうしたのかと心配していたんです。そうだったのですか」と大笑いしたそうだ。

 ところで、あのように苦労して購入した日本土産の古美術品や工芸品だったが、次のツアー先だったフィリピンのマニラ空港ですべて没収されてしまったとのことだった。

 実は、フィリピン公演の時、ビートルズに、イメルダ大統領夫人から歓迎パーティーへの招待があった。しかし、スケジュールが詰まっていて休養が取れていなかったので、マネージャーのエプスタインは辞退する旨の連絡をしていた。ところがそれが、どうしたことかうまく伝わっていなかったらしく、結果的には、ビートルズが一方的にキャンセルして、イメルダ夫人に待ちぼうけを喰らわせたことになってしまった。それで大恥をかかされたと激怒した一部の市民たちが帰りの空港に押し寄せ、あわや袋叩きにあう寸前で逃げ込んだ飛行機は、当局の「いやがらせ」でなかなか離陸できず、コンサートの収益をすべて(いわゆる、袖の下として)当局に渡して、やっと離陸許可が下りたと云われている。おそらく、ジョンが日本で買った「土産物」もこの時に没収されたのであろう。

 この事件は、世界ツアーに疲れを感じていたメンバーが、いよいよツアーを打ち切って、スタジオ録音一本に切り替える大きなきっかけとなった。また、日本公演で必要以上の警官を動員して、ビートルズとファンを完全に遮断する方針を貫徹した日本の警察当局は、来るべき「70年安保」の警備の「予行演習」をしているのではないかと酷評されたりしていたが、このフィリピンの事件のおかげで、相対的に評価が高まり、のちにビートルズのメンバーから、日本はよかった、というコメントを得て、警備責任者は胸をなで下ろしたという。もちろん、そのコメントには、入内島氏の尽力に対する感謝も含まれていたにちがいない。





 ビートルズに関する記録映像は1995年に発売された『ビートルズ・アンソロジー(DVD5枚組)』に網羅されていたので、2016年9月に公開された、ロン・ハワード監督の『エイト・デイズ・ア・ウィーク EIGHT DAYS A WEEK, The Touring Years』という記録映画は二番煎じに過ぎないと思っていたが、テレビでそれが放映されたときに観てみると、いろいろな新発見があった。

 この映画は、1963年~66年に世界中を公演旅行して廻ったときの記録が中心で、ビートルスがもっともビートルズらしかった頃を題材にしている。 

 1964年の夏、ビートルズは2回目のアメリカツアーとして、34日間で24都市を廻ったが、その中に、アメリカ南部、ジャクソンビルのゲイター・ボウルという会場での公演があった。当時アメリカでは「公民権運動」が盛り上がっていたが、南部ではまだ人種差別が根強く残っていて、このゲイター・ボウルも「人種隔離」の対象となっていた。

 そのことをビートルズが記者会見で問われたとき、「受け入れがたいよ。人種差別だなんて、どうかしている。バカげているよ」というポールの発言を皮切りに、ハラハラとするマネージャーのエプスタインを尻目に、メンバー全員が次々と「動物扱いは許されない」「これは4人の考えだ。英国人の多くもそう考えている。英国の公演では隔離なんかしない」「われわれは人々のために演奏する。あの人たちや、この人たちのためじゃない」と発言し、ついに、「人種隔離をするのなら、行かない」と宣言してしまう。



  



 これには、ツアーに同行していたアメリカ人放送記者も衝撃を受けたようで、「若い4人の世の中の見方に驚いた。この敏感な問題に立ち向かい、アメリカ人の多くを刺激すると承知の上で、堂々と主張した」と述懐している。

 結局、ゲイター・ボウルでは、人種隔離が撤回され、そのあとの南部の大きなスタジアムすべてでも撤回された。

「ものすごく驚いたのは、私の席の周りにいろんな人々がいたこと。今でもよく憶えているが、白人たちが大勢いて、みんな立ち上がり、思いっきり大声で叫んで、いっしょに歌いまくった。違う人々といる、という初めての経験だったが、違いなんか、たちまち消えると知った」と、のちに歴史家となった、ある黒人女性が証言している。

「何かする前に、全員が同意する必要があった。それがビートルズの基本だ。何であれ、それを実行するには4人の賛成票がないとね」「個人主義より、強い絆と完全な平等を重んじた」「ぼくたちの特徴のひとつだよ。互いにとても親密だ」「全員が同意するから決心が固い。だからうまくいったんだ」 彼らはそう述べる。

 またジョージは後年、こうも云った。「エルヴィスと違って、4人いてよかった。エルヴィスは哀れだ。スタッフがたくさんいても、彼はひとり。彼の気持ちはだれにも分からない。ぼくたちは4人で分かりあえていた」

 そのエルヴィス・プレスリーとビートルズは1965年8月27日に会見している。渡米2年目、人気がますます爆発して、数万人収容の大スタジアムでの公演を繰り返していたとき、ロサンゼルスのプレスリー邸を訪問した。この、1回限りに終わった歴史的な顔合わせは、映像、音声とも、まったく記録に残されていなかったので、その内容は関係者の証言によるしかない。

 ウィキペディアによれば、次のようである。

 ビートルズの面々が心躍らせて部屋に入って行くと、エルヴィスはテレビを見ながら、ベースギターを弾いて寛いでいた。「本物のエルヴィスだ!」とその姿に見とれていると、「そうやってずっとぼくを見ているだけなら、ぼくはもう寝るよ。せっかく演奏ができると思って待っていたのに」とエルヴィスに云われて、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノ、ドラムがなかったので、リンゴはビリヤードやサッカーゲームをした。

 エルヴィスはビートルズの曲も歌い、「君たちのレコードは全部持ってるよ」と云ったのに対して、ジョンが「ぼくはあなたのレコードは1枚も持っていない」と返したので、その場の空気は凍りついてしまった。それはジョンの過激なジョークだったのだが、エルヴィスは気分を害してしまった。その後、ジョンはエルヴィスのベトナム戦争に対する姿勢や、マンネリ気味であるエルヴィスの映画を痛烈に批判したので、エルヴィスはジョンを嫌うようになり、のちに、ポールやジョージが作った曲はコンサートで頻繁に歌ったが、ジョンの歌は歌っていない。





 この記述では、ジョンの軽率な一言がすべてをぶち壊したようになっているが、実情はそうでもなかったように思われる。DVD『ザ・ビートルズ・アンソロジー』に収録された、1995年時点でのポール、ジョージ、リンゴの回想によれば、彼らはたしかに憧れのエルヴィスに会えるというので、興奮して訪問し、その姿を見て、「本物だ!」と感動していた。

 エルヴィス・プレスリーは1956年1月にリリースした「ハートブレイク・ホテル Heartbreak Hotel」 で大ブレイクしたあと、「ハウンドドッグ Hound Dog」「冷たくしないで Don't Be Cruel」 「恋にしびれて All Shook Up」「監獄ロック Jailhouse Rock 」など大ヒットを連発、その、腰をくねらせたセクシーな歌唱スタイルのために一部の大人たちの顰蹙(ひんしゅく)を買いながらも、若い世代の圧倒的な支持を得て、それは全世界に広まった。もちろんイギリスの若者たちにもその影響は届いて、ジョン・レノンらビートルズのメンバーが音楽を始める大きなきっかけとなった。

 ところが、1958年1月、エルヴィスに「徴兵」の通知が来て、兵役に就かねばならなくなった。それは1960年3月まで2年間続き、その間、空白が生まれた。

 エルヴィスはデビューまもない頃から、映画に出演していた。本人は、俳優として普通の演技をしたかったようだが、実際は、劇中でエルヴィスが数曲歌うのが目玉の「歌謡映画」となった。エルヴィスの入営までに4本製作され、大人気となり、姿が見られないエルヴィスの替わりとして、空白期を埋める働きをした。そして、これが立派にビジネスになると分かると、除隊後は、年間3本の出演を映画会社と契約し、音楽活動よりも映画出演の方が中心となり、それとともに、映画のストーリーはますますありきたりの平凡な「青春もの」となっていった。

 だから、自分たちがむかし憧れた「伝説のスター」に会えるという感激に胸をときめかせながらも、音楽活動をまったくしなくなったエルヴィスに不満を抱いていたのは、ジョンだけではなかった。『DVD版・ザ・ビートルズ・アンソロジー』では、とくにリンゴ・スターが辛辣な言葉を吐いていて、「彼が音楽活動をしていないのが許せなかった。いつも取り巻きに囲まれていた。彼らはただのおべっか使いだ。トイレにまでついて行く、妙な連中さ」 

 エルヴィスの取り巻きたちは「メンフィス・マフィア」と呼ばれていて、泊まり込みで、エルヴィスの身の回りの世話やボディーガードの役をしていたが、その存在のために、エルヴィスと親しく打ち解けることはできなかった、と他のメンバーも云っている。

 問題の故ジョン・レノンのコメントも「編集」で入っていた。「なぜ音楽をやらないのか、映画にばかり出るのか、と訊いたが、映画が好きなようだった。音楽にも未練はあるようだったが... 意外に、普通の人だと思った」

 ウィキペディアで指摘されているような「険悪」な雰囲気が実際あったのかどうかはたしかでないが、かつては憧れの的であったエルヴィスが今や「生ける伝説」のようになって、取り巻きたちの中に奉られているのにある種の幻滅を感じただろうし、エルヴィスの方も、下り坂に入った自分を追い落としていく若者たちに対して、心の奥底に反感を抱いていたと推測するのも可能であろう。

 ところで、エルヴィスのマネージャーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)は、ビートルズのブライアン・エプスタインに当たる存在で、エルヴィスを大スターに仕立て上げた功労者であるが、なかなかアクの強そうな人物で、エルヴィスは、彼の敷いたスター街道の線路の上を、云われるがままに走っていたようなところがある。

 ビートルズの面々も不満に思っていた「映画への傾斜」路線もパーカーの主導によるものだったし、エルヴィス初期の「反逆」的なキャラクターを、いつの間にか「優等生的なアメリカ青年」に変化させてしまったのもそうだった。

 パーカーには、若いときにオランダからアメリカに密入国していたという閲歴があり、それをずっと隠蔽していたが、何かの折りに蒸し返されて罪を問われるのを怖れるあまり、波風の立つようなことはできるだけ避けるようになっていた。エルヴィスが、カナダ以外の海外公演にはいっさい行かなかったのは、パーカーが、パスポートを取得するときに、自分の不法滞在状態が露見するのを怖れて、それを許さなかった為ではないかと云われている。

 エルヴィスはこのようなパーカーの「支配」に時には反抗しながらも、1977年8月に急死するまで、パーカーと縁を切ることはなかった。パーカー、および「メンフィス・マフィア」に囲まれて「スター」の生活をしていたエルヴィスがいったい何を考えていたのか。「エルヴィスは哀れだ。われわれは4人だからよかった」というジョージ・ハリスンの述懐も頷(うなづ)ける。

 一方、逆に、ビートルズのマネージャーのエプスタインは1967年8月、先に急死している。すでにビートルズはライブ公演をしなくなっていて、エプスタインの役割は低下していたが、彼がいなくなると、音楽的にはその後も大きな成果を残しながらも、マネジメントの面では混乱に陥り、ビートルズは3年後に解散となる。

 エプスタインのマネジメントは、パーカーのように厳格な型にはめたものではなかったが、それでも、「ザ・ビートルズ」としての統一体を保って、外部の仕事を受けていくという体制が維持されており、言い換えれば、ビートルズの面々は、お金のことを気にせずに、音楽に専念できたのである。そういう後ろ盾を失ったことは、一方、個々のメンバーには自由を与えたが、やはり大きな喪失だったにちがいない。難しい問題である。





 ビートルズのファースト・インプレッション(第一印象)はといえば、それは「可愛い」ということだろう。

 それ以前のロックンロールのスターたちが持つ、男臭い、荒っぽさはまったく感じられなかった。ポマードでテカテカに「アップ」したリーゼントではなく、王子さま風に「ダウン」したマッシュルーム・カットといわれた髪形がそれを象徴していた。そして、彼らの姿を一目見たときにまず目に入ってきたのは、首を振り振り愛敬いっぱいに歌うポール・マッカートニーの、あのドングリ眼(まなこ)の童顔で、小柄で垂れ目のリンゴ・スターの大きな鼻がメルヘン風なイメージとともにそれに続いた。

 不思議と「セクシー」な印象はなかった。若い女性ファンが大声で殺到し、絶叫のうちに失神者さえ出ているといわれていたが、その映像をよく見ると、ローティーンも目立つファンたちには、いわゆる「不良っぽい」崩れた雰囲気はない。「普通の女の子」ばかりである。云ってみれば、あの「可愛い」ビートルズだったからこそ、そんな普通の女の子でも安心して夢中になることができた、といえるのかもしれない。

 さて、その歌声を聴くと、これも「可愛い」ものであった。しかし、その声は、あの可愛いポールではなくて、ジョン・レノンのものだということがやがて分かった。

 私が初めてビートルズを聴いて「いいな」と思ったのは、『ガール』という曲だった。その切なく、甘い、やや鼻にかかった、センチメンタルなボーカルに魅せられたのだが、その声の持ち主は、ビジュアルな第一印象では目立たなかった、つまり「可愛さ」のなかった、ややふてぶてしい顔立ちのジョン・レノンだった。

 ちなみに、1962年にメジャーデビューして、1965年、2本目の映画『ヘルプ』が公開された頃まで、言い換えれば、彼らが「世界制覇」の坂を上り続けていた時期のヒット曲で、『プリーズ・プリーズ・ミー』『シー・ラブズ・ユー』『抱きしめたい』は、ポールとのコーラスだが、『ア・ハード・デイズ・ナイト』『アイ・フィール・ファイン』『エイト・デイズ・ア・ウィーク』『ヘルプ』『涙の乗車券』では、ジョンがメイン・ボーカルを務めている。すなわち、この頃のビートルズの「可愛い」サウンドの中核を担う音声は、まぎれもなく、ジョンのボーカルだったのだ。

 一方のポールがこの間メインボーカルをとったヒット曲は『オール・マイ・ラビング』と『キャント・バイ・ミー・ラブ』だけで、その歌声は、その甘いマスクに似合わぬ「男っぽい」太い声で、ジョンのような叙情性はなく、平板といってもよい声質である。

 しかし、そんな無個性のボーカルが、『アンド・アイ・ラブ・ハー』『イエスタデイ』というバラード調の曲にぴったり合って、その後、『ミッシェル』『エリナ・リグビー』『フォー・ノウ・ワン』『ザ・フール・オン・ザ・ヒル』『ヘイ・ジュード』『レット・イット・ビー』と、次々とヒット曲を生み出していった。また、それらの曲は他の大勢の歌手たちにカバーされて、スタンダード・ナンバーとなっていく。

 それは、ポールのフラットなボーカルを聴いて、これなら自分でも唄える、あるいは、自分ならもっとうまく唄える、と他の歌手たちに思わせるようなところがあったためかもしれない。しかし、個性の強いジョンのボーカルでは、それに拮抗するには、自分もそれ以上の個性を出さねばならず、その分、手が出しにくかったので、カバーする者も少なかったのではなかろうか。

 ところで、ビートルズの中期以降、ポールが、耳に優しい美しいメロディーの曲を大量に生みだしているので、これらはポールの得意の分野かと思われた。しかし、解散後、ポールが独自のバンドを結成して発表したたくさんの曲の中には、ビートルズ時代のような、バラードの名曲はほとんど見られない。これは不思議である。

 それに対して、ビートルズ時代には『ガール』『アクロス・ザ・ユニヴァース』ぐらいしかなかったジョンは、その後、思いつくだけでも、『ラブ』『イマジン』『ジェラス・ガイ』『#9ドリーム』『ビューティフル・ボーイ』『ウーマン』など、信じられないほど美しい曲が目白押しである。ビートルズ解散後、まるで、ジョンとポールの役割が逆転してしまったかのようである。

 気難しく、わがままで、つきあいにくそうなジョンに対して、ポールはとてもおおらかで、人当たりがよく、いかにも「性格が良い」感じだと云われている。そんな「常識人」のポールは、「天才肌」のジョンの「刺激」がなければ、あの「メロディーメーカー」の神通力を失ってしまうのであろうか。

 結局のところ、好き嫌いはあっても、ビートルズのリーダーは、音楽的にもジョン・レノンだったと云うほかないのであろう。





 アストリット・キルへヒルという女性がいる。

 ビートルズは、ブライアン・エプスタインと出会ってメジャーデビューの機会を得る前の1960年に、ドイツのハンブルグで巡業をおこなっている。

 それは、歓楽街のど真ん中にあるクラブで、セクシーなショーなども売り物にするキャバレーのようなところだったが、屋根裏部屋に寝泊まりして、3ヶ月間、1日に6時間以上ぶっ通しで演奏したという。それはとても厳しい労働環境だったが、レパートリーを増やし、また、酔客たちを相手に、いかに「ウケる」か、という技術を磨いて、のちの成功の基礎が築かれたところでもあった。

 当時のメンバーは、ジョン、ポール、ジョージの他に、このハンブルグ行き直前に誘い入れたドラマーのピート・ベスト、そして、あとひとり、ジョンが通っていた美術学校での友人のスチュアート・サトクリフがいた。

 ある時、スチュアートの描いた絵が高値で売れた。そのお金を彼は絵の方に使いたいと思ったが、ジョンとポールに強く説得されて、ベースギターを購入、ビートルズに加入する。しかし、彼は他のメンバーのように、音楽でプロになるという気はなく、ギターも上達しなかった。

 ハンブルグで徐々に人気を得はじめたビートルズを、アストリットは当時の恋人のクラウス・フォアマンに誘われて、クラブに見に来る。そこでその演奏に感銘し、彼らとの付き合いが始まった。

 写真家の卵だったアストリットは当時のビートルズの写真をたくさん撮影しているが、とくに、顔の片側からライトを当てて撮影した「ハーフシャドウ」のポートレイトは、のちのビートルズのアルバムジャケットの写真にも影響を与えている。また、ビートルズを世界的に有名にしたあの「マッシュルーム」カットの髪形も、もともとは、アストリットが、クラウスやスチュアートのために考案したもので、それがビートルズにも採用されたと云われている。

 アストリットは、ビートルズとの付き合いの中で、スチュアートと恋に落ちる。もともと音楽よりも絵の方に傾いていたスチュアートはビートルズを脱退し、アストリットと婚約、ハンブルグの美術学校の奨学生となって、ドイツに居を移すが、ビートルズが大ブレイクする直前の1962年4月10日、脳内出血で死去した。21歳だった。

 アストリットから捨てられたかたちになったクラウス・フォアマンだが、その後も、みんなと友好的な関係を保った。絵の他に音楽にも興味のあったクラウスはスチュアートからベースギターを譲り受け、その後釜にどうか、とジョンに申し出るが、すでに、ベースはポールが担当することになっていた。

 それでもクラウスはベースギターにかなりの技術を持っていたので、その後、いろんなバンドのベースを担当し、数々の大ヒット曲を出すのに貢献した。ビートルズ解散後には、ジョンの「プラスチック・オノ・バンド」やジョージのレコード・セッションにも招かれている。また、ビートルズの7枚目のアルバム「リボルバー」のジャケットは彼がデザインしている。

 こうしたハンブルグ時代のビートルズを映画化した作品に『バックビート』(1994年・イアン・ソフトリー監督)というのがある。

 この映画は、スチュアートを主人公に、彼とジョン・レノン、およびアストリット・キルへヒア、そしてクラウス・フォアマンらとの絡みがストーリーの根幹となっている。

 この映画を観て気がついたのは、ジョンとアストリットとの関係だった。もちろん、それは映画の作者がそのように描いているので、事実とどれほど近いかは不明であるが、ジョンは、自分とスチュアートとの友情の中に割り込んできたアストリットにあからさまな反感を示しつつも、彼女の、男に媚びない、自立した強さに惹かれていた。



  



 映画の中で、アストリットに「ナンバーワンになって、富と名声を得たとき、だれかに私のことを訊かれたら、どう答える?」と問われて、ジョンはこう答える。「俺が求めていた女だった。夢の女、行儀のよいブリジット・バルドー。恋人にしたかったが、親友の恋人だったので、あきらめた」

 ジョンには、この時、美術学校の同級生だったシンシア・パウエルという恋人がいて、彼女が長男のジュリアンを妊(みごも)ったとき、結婚するが、のちにジョンは小野洋子(オノ・ヨーコ)のもとに走る。

 世話女房タイプのシンシアより、ジョンが求めていたのは、アストリットのような女性で、オノ・ヨーコの中にその姿を見つけたからであろう。

 正直なところ、多くのビートルズ・ファンと同様、私にとっても、かつてヨーコという女性はおぞましい存在だった。

 ビートルズの4人、とくにジョンとポールのつながりの中に割り込むように入ってきたのがヨーコだった。ビートルズが解散したのは、ヨーコのせいだとも云われていた。映画『レット・イット・ビー』の中で、いつもジョンの横にべったりとくっついるヨーコの姿はまさに、ビートルズにとって「異物」にしか見えなかった。

 世界的な大スターのジョンの心を日本の女性が射止めたというのは、普通なら「玉の輿」として誉めそやされることだろうが、そんな声がまったくあがらなかったのは、ヨーコには「おしとやかで、控えめ」という、いわゆる「日本女性の美徳」がまったく感じられなかったからにちがいない。

 逆に、その個性は強烈で、ジョンをも凌駕するものだった。ふたりが結婚後におこなった、ベッドに入ったまま記者会見する「ベッド・イン」とか、ふたりのフル・ヌードの写真をアルバムのジャケットにするなどの「奇矯」としか思えないような行動に世間は困惑したのだが、それらはすべて「前衛芸術家」のヨーコの主導によるもので、ジョンはただヨーコに振り回されているだけではないか、とさえ思われていた。

 しかし、ドイツで知りあったアストリットのジョンにとっての再来がヨーコだったと考えると、ジョンがヨーコに強く惹かれていったのも、理解できる気がする。

 また、反戦平和運動についても、日本公演の時の記者会見の終わり頃に出た「いまや富と名声を手に入れて、次には何がほしいですか」というやや意地の悪い質問に対して、ジョンはひとこと「ピース(平和)」と答えていた。

 その意表をついた答えに、ジョークだと思って、会場には失笑めいた笑いが拡がったが、あとから考えると、ジョンの正直な本音だったかもしれない。

 すでにこの1年前、アメリカでエルヴィス・プレスリーと会った時、そのベトナム戦争支持の姿勢をジョンがきびしく批判していたらしいということは、先に述べたとおりである。

 1966年11月にヨーコと知りあって、1969年3月にふたりは結婚するのだが、英国人の妻からジョンを奪い取ったと見なされたためか、イギリスのメディアのヨーコに対する扱いはきわめて厳しいものとなった。それにいたたまれなくなって、1971年、ふたりはヨーコが長らく活動の拠点にしていたニューヨークに渡る。

 その後のふたりの道のりを、ドキュメンタリー映画『ジョン・レノン、ニューヨーク』(2010年・マイケル・エプスタイン監督)をもとに、辿(たど)ってみよう。



  



 当初、グリニッジ・ヴィレッジに居を構えたふたりは、以前から注目していたアメリカの反戦活動家たちに接触していく。

 その頃、ジョン・シンクレアという活動家が、大麻煙草を2本を持っていただけで10年の懲役刑に処せられた、ということが問題になっていた。そこでジョンとヨーコは活動家たちと「ジョン・シンクレア救済コンサート」を開いて、自作の「ジョン・シンクレア」という曲を唄ったりする。

 1971年12月10日に、ミシガン州のアン・アーパーで催されたそのコンサートは、ジョンの知名度もあって、2万人ちかくが集まり、驚いたことに、その48時間後にシンクレアが釈放された。

 誰にも予想外のこの結末に、運動は大いに盛り上がった。ジョンの力を再認識した活動家たちは、来るべき大統領選挙でニクソンの再選を阻むために、ジョンの全米コンサートツアーを企画し、その場で若者たちに「有権者登録」をさせるという計画が立てられた。

 こんな動きに、当局も黙っていなかった。ジョンの周辺にはFBIの尾行がつけられ、電話が盗聴された。それも秘密裏ではなく、これ見よがしに、相手を恫喝し、脅えさせるように行われた。そして、決め手として、ジョンの過去の薬物使用の閲歴をほじくり返して、ビザの取り消し、国外追放を画策しはじめた。

 同じような薬物閲歴を持つミュージシャンたちが大勢、自由にアメリカに出入国しているのに、これは不当だと、法廷闘争になったが、政治活動の方は大きく制約され、ジョンの出番はなくなっていった。

 そして、ニクソンは再選される。成功したと思ったコンサートやアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク』が、政治色の強さゆえ批評家たちには不評だったり、自分たちに退去命令が出たりしたことなども重なって、ジョンは自暴自棄になり、ヨーコとも破局してしまう。

 ロサンゼルスに居を移したジョンは、10年ぶりの独身生活だ、とはしゃいで、『マインド・ゲームズ』『ロックンロール』『心の壁、愛の橋』のアルバムを作成、ハリー・ニルソン、キース・ムーンらのミュージシャンたちと交遊したり、また、アメリカに滞在していたリンゴ・スターや公演旅行でアメリカにやって来たポール・マッカートニーとも旧交を温めるなど、表面的には、羽根を伸ばした、明るい生活を送っていたが、内心はヨーコのことが忘れられず、アルコールと薬物に溺れて、友人たちにも手が負えない状態になっていく。

 そんな中、ヒットチャート1位になった『真夜中を突っ走れ』で共演したエルトン・ジョンの仲立ちで、1974年11月、ジョンとヨーコは和解して、2年ぶりに、再びいっしょに暮らしはじめる。

 そして、1975年10月9日、ヨーコとのあいだに、ジョンにとっては次男に当たるショーンが誕生、奇しくもこの日はジョン自身の誕生日でもあり、またこの日、長年続けていた法廷闘争に奇跡的に勝利して、待望の永住権を手に入れることができたのであった。

 このあと、ジョンは音楽活動から身を引き、「主夫(ハウス・ハズバンド)」として、ショーンの養育や家事に専念する生活を送ったと云われている。

 先妻シンシアとのあいだの長男ジュリアンとは、ビートルズが世界ツアーに明け暮れていた時期で、また、ジョン自身、父親と暮らした経験がなかったので、父親としてどう接したらよいか判らず、あまり接触がなかった。むしろ、時折遊びに来るポールの方がジュリアンの面倒をよく見ていたとのことで、あの名曲『ヘイ・ジュード』はそんなジュリアンを慰めるためにポールがつくった歌だった。

 だから、ジョンの「主夫」としての5年間は、彼にとっても、人間的なものを取り戻す重要な機会だったに違いない。そして、それが貴重な「充電期間」となったように、1980年、音楽活動を再開すると、ヨーコといっしょに、アルバム『ダブル・ファンタジー』を製作、溢れるように豊かな名作群を発表した。


 1966年の来日公演の際には、青少年に悪影響を与えるとして、公演を観に行った生徒は退学処分にする、とさえ云われて忌避されていたビートルズも、いつの間にか、日本の音楽や英語の教科書に載るようになり、そして、21世紀に入ると、オノ・ヨーコも高校の英語の教科書に登場することとなった。それは、「ジョン・レノンの妻」としてのヨーコではなく、前衛芸術家としてのヨーコを真正面から捉えた内容だった。

 それによると、彼女が追求する「コンセプチュアル・アート(概念芸術)」とは、例えば、次のような「インストラクション(指示)」だった。


「雪が降っている音をテープに取りなさい。夜に取ったほうがいいでしょう。そのテープを聴いてはいけません。それを切って、贈り物を結ぶリボンに使いなさい。もし、お望みなら、同じように、フォノシートに録音して、それを贈り物の包み紙にしてください」


 その芸術は、できあがったものを人々に見せるのではなく、人々が、実際に体験して、考えることを求めるものだった。

 教科書の記述では、その起源は、ヨーコが12歳の頃、空襲下の日本で信州の田舎に疎開していたとき、食べるものがなく、ひもじくて泣く弟を慰めるために、「夢のメニュー」を想像させたところにあるという。


「食べたいものを思い浮かべてごらん」「アイスクリームが食べたい」「それはデザートでしょ。スープから始めなくっちゃ」


 そうしてふたりで、頭の中に、とても豪勢な食事を思い描いていくと、弟の顔がだんだんと明るくなり、とうとう、しばらく忘れていた、あの愛らしい笑顔を見せるようになった、というのである。これは、まさに、あのジョン・レノンの『イマジン』と同じではないか。

 1971年に発表された『イマジン』は、ビートルズ解散後のジョンの作品の中では最も有名なものである。

 その、「天国なんかないって、想像してごらん。やってみれば、簡単だよ。われわれの下には地獄もないよ。上には空があるだけだ。人々がみんな今日のために生きているのを想像してごらん」に始まる歌詞が、そのあと、「国というものがない、そのために殺したり殺されたりすることがない世界」「宗教というものがない世界」「人々がみんな平和に暮らしている世界」「財産というものがない世界」「強欲や飢餓がない世界」「みんなが兄弟みたいに暮らしている世界」「人々みんながすべてを分かち合っている世界」を想像するようにと発展し、最後に「そんな私を、夢みたいなことをいう、というかもしれないが、それは私だけではない。いつかあなたたちも加わってほしい。そうすれば、世界はひとつになるんだ」で締めくくられる。その歌詞が、平和に対する大きなメッセージとなって、世界中の人々の心の中に染みとおっていった。

 当時この歌はジョンが単独でつくったものと思われていたが、今こうして、ヨーコの足跡を知ってみると、まさに、これはヨーコの手法以外の何ものでもない。

 1980年12月6日に収録された『ジョン・レノン・ラスト・インタビュー』(池澤夏樹訳・中公文庫)を読み直してみると、「イマジン」について、次のような、ジョンの発言があった。


「あの歌は、歌詞もコンセプトも多くの部分がヨーコの方から出ているんだけど、あの頃はぼくはまだちょっと身勝手で、男性上位で、妻だから名前はいいやってことで、彼女に負っているところをオミットしちまったんだな。でも本当にあれは彼女の『グレープ・フルーツ』という本から出ているんで、あれを想像せよ、これを想像せよというのは全部彼女の作であることを、ここに、まことに遅ればせながら公表します」


 なお、2017年、米音楽出版社協会は、「イマジン」がジョンとヨーコの共作であることを公式に認定している。



  

  



 ビートルズはみごとに「世界制覇」し、富と名声を獲得した。それは自分たちの作品やパフォーマンスを売って手に入れたものだったが、売ったものはそれだけではなかった。「顔」と「名前」そして「私生活」も売らねばならなかった。そのため、彼らは自由にレストランや映画館や買い物に行ったりすることもできなくなった。

 ジョンとヨーコがニューヨークに住むようになったのは、ひとつには、そこでは比較的プライバシーが守られる空間があったからだった。『ラスト・インタビュー」の最後でジョンはこう語っている。


「最初、グリニッジ・ヴィレッジに越してきたとき、それまでの7年間、文字通り一度も町を歩いたことがなかったんだが、ヨーコが、ここじゃ道を歩けるわよって言うんだ。それで歩いてみたけれど、まだおっかなびっくりでね。いきなり誰かが何か言うとか、飛びかかってくるんじゃないかとか、びくびくしていて、それがなくなるのに二年かかったよ。今はもうふつうに玄関を出て、レストランにも入れる。これがどんなにすばらしいことかわかるかい? つまりね、人が来てサインをねだったり、やあって言ったりしても、決してこっちを困らせはしない。レコード気に入ったよ、なんて言う。その前はね、どうしてる? とかさ、坊やは元気? とかどなるんだ。本当に嬉しいものだよ」


 しかし、近づいてくる人間は善意の人ばかりではなかった。危害を加えようと企図する者もいる。ただ、自分も有名になりたい、というゆがんだ欲望に使嗾(しそう)されて。

 ジョンはこう語った2日後、そのような男の手によって、あっけなく天国へと旅立ってしまった。このあと、どんな素晴らしい曲をつくってくれるのかと、楽しみにしていた者にとって、この犯人は八つ裂きに切り刻んでも足りないぐらいだが、ジョンにとって、すべてがあまりにうまくいっていたので、天使たちがそれを嫉んで、彼を天国へ連れていってしまったのだろう、という、インタビューの訳者・池澤夏樹のあとがきの言葉に、納得の根拠を求めるしかないのであろうか。

(2020年7月 脱稿)


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