専門


         

          コラムの練習 《せ》 専門




 「あなたは、スペシャリスト、ゼネラリスト、どちらのタイプだと思いますか?」


 今から50年近く前、仕事口を探して、あちこちの就職試験を受けまわっていた頃のことである。ある会社の面接でそう尋ねられて、間髪を入れず、「それは、スペシャリストです」と答えた私であったが、「では、あなたの専門は何ですか?」と追い討ちをかけられると、ことばに詰まってしまった。その専門の世界からコソコソと逃げ出して、この場に来ていたのだから。


 「理科系」なら工学部、「文科系」なら法学部か経済学部、というのが男子の進学先の常識だった高校にいたにもかかわらず、文学部というところを選んだのはなぜか。

 その前は、理学部だったかもしれない。小学生の頃から、星を観るのが好きで、土星の輪が見えるような高価な望遠鏡にはとても手が届かなかったが、その代わりに、学校の図書館で「天体」に関する初級の本をたくさん読み、惑星や彗星の動きを計算して予測できたりしたら素晴らしいだろうな、などと思っていた。将来、そんな勉強ができるのは、大学の理学部だ、ぐらいは考えていただろう。

 しかし、そんな夢は、中学校に入ってまもなく挫折する。「色覚検査」というのに引っ掛かって、理科系はダメだと云われたのだ。

 今の時代なら、多少の不便はあったとしても、まったく道を閉ざされるということはないようだが、当時は完全にアウトだとみなされていた。同じように保健室に集められて、そう告げられた男子生徒の中には、がっくりと肩を落とす者もいたが、私はその時、ただ呆然としていただけだったような気がする。まだ、ことの重大さがよく分かっていなかったのだ。しかし、その「宣告」はその後、ボディーブローのように、だんだんと応(こた)えてくる。

 学校の教科では、私は国語や英語よりも、数学や理科の方が好きだった。「天体」にはそれほどこだわっていなかったが、高校に入って、大学のいろいろな学部のことを調べていくうちに、内容はよく分からないまでも、理科系にはいろんな、おもしろそうな分野がたくさんあるようなのに、それらがすべてシャットアウトされているというのは、さすがにショックだった。

 文科系の教科の中で、社会科は好きだった。とくに歴史はおもしろくて、「天体」に負けぬほど、いろんな本を読んでいた。だから、やむをえず文科系に進むとなれば、歴史が勉強できる文学部ということになる。法律や経済にはほとんど興味がなかったので、たいていの男子が志望する法学部や経済学部はあまり眼中になかった。文学部なんかに行くと就職できないぞ、とよく云われたが、あまり気にしていなかった。たとえ興味がなくとも、将来の就職のことを考えて、みんな、法学部や経済学部を目指している。そんなひたむきな「現実感覚」に気がつかないほど、世間知らずだった、ともいえるかも知れない。

 受験勉強では、数学と物理ばかりやっていた記憶があるが、もちろん、他の科目もしっかりと勉強していたはずである。試験本番では、失敗もあったが、運良く、合格できた。ギリギリに近い成績だったようだ。

 語学の選択では、英語の他にフランス語を取ることは決めていた。高校3年生の時、面白半分で観ていた「NHKテレビ・フランス語講座」の影響だったろう。

 はじめて学ぶ語学だし、常識的に、それを第二外国語にするクラスを希望したが、蓋を開けてみると、フランス語が第一外国語のクラスに入れられていた。私のように常識的に考える者がたくさんいて、定員をオーバーし、入試の成績順でそちらに廻されたようであった。

 もちろん、はじめから、フランス語を第一外国語としている者も多かった。第一外国語といっても、週1コマ(2時間)多いだけなのだが、フランスの文学などを勉強したいという、しっかりとした志望を抱いた「文学青年」といっていい同級生たちであった。

 消去法的に文学部に流れてきた、いわば「理科系くずれ」であった私は、彼らに強い劣等感を感じた。スタンダール、バルザック、フローベールら、文学全集の常連たちのほか、ボードレール、マラルメ、ランボーといった詩人、そして、当時流行の頂点にあった、実存主義のサルトル、カミュ。私がかろうじて名前だけは知っているような作家たちの名前が会話の端々に出てきて、みんなその作品を読んでいるようなのには驚いた。

 それは、フランス文学に限ったことではなく、他の国の文学や、日本の文学作品にも及んでいた。そういった名作は、高校時代、国語の教科書に断片的に取り上げられていたもののほか、宿題で強制的に読まされた『破戒』『五重塔』『たけくらべ』『草枕』『斜陽』、そして、そのころから定期購読しはじめたばかりの「世界文学全集」で読んだ『罪と罰』『赤と黒』『嵐が丘』がすべてであった私には、とてもまぶしい世界であった。


 ところで、文学部の「文学」というのは、ことばを媒材とした芸術ジャンルという意味の、狭い意味の「文学」ではなくて、「文科系の学問」という意味だということを知ったのも、大学に入ってからだった。フランス文学や英米文学、ドイツ文学、国文学などの、狭い意味の「文学」の他に、「歴史学」「哲学」を加えた三分野で、「文学部」が構成されており、いわば、このなかに、文科系のすべての学問が包摂されているということだった。

 そのうちの「哲学」というのは、文科系、理科系双方の学問の起源ともなっている大きな分野だったが、私は、自分にはまったく無縁のものと思い込んでいた。それは、非現実的な理屈を捏(こ)ねまわす、ただひたすら難解な学問で、そんなものを勉強して、いったい何になるんだ、と、ちょうど、世間一般が、文学部全体を、ろくに就職もできない、浮世離れした学部と見なしているのと同じような「偏見」を、哲学に対して抱いていた。

 残るは「歴史学」。私を文学部に導いた大きな要素だったが、大学の最初の「教養課程」で受講してみた歴史の授業はどれも地味でおもしろくなかった。私が歴史が好きになったのは、名の知れた偉人や英雄たちが活躍する「時代劇」や「歴史小説」の世界に魅せられたためであったが、大学の授業に出てくるのは、あまり聞いたこともない地方の産業や人口などの歴史的推移であったり、有名な政治的事件にしても、それに関する文献の紹介が延々と続いたりなどと、思わず眠気を催したくなるようなものばかりであった。

 後年、私が就職した高校で、同年配の日本史の教師がある時、「歴史はアマチュアにはおもしろいものかもしれないが、プロのやってる歴史は全然違うんだ」と、嘯(うそぶ)いているのを耳にしたことがある。その教師は、日頃から、知ったかぶりの発言が多くて、胡散臭い印象が強かったが、この言葉には納得がいくものがあったのか、今でもよく憶えている。

 高校時代までの歴史は、血湧き肉躍るような名調子の、おもしろおかしい授業が多かった。しかし、大学のそれは、重箱の隅をつついたような内容を、表情ひとつ変えることなく、淡々と述べていくだけの退屈なものばかりだった。まさに、アマチュアとプロの世界の違いだった。

 大学によっては、受験時に、専攻学科まで決めておかねばならないところもあるが、私の入った大学は、「教養」の2年間が済んで、「学部」に進級するときに決めればよいことになっていた。大切な進路を決めるのは「実物」に触れてから、という親心だったのだろうが、今となっては、それが必ずしもよいことばかりではなかったような気がする。

 実物に触れる前に、勝手な思い込みで「専攻」を選び、それがもう変えられない、となっていれば、絶望して、大学を受け直す事態に追い込まれるケースもあったかもしれないが、私のように、はじめから確たる信念もなく、ただやむをえず迫られて選択するものにとっては、少々、思いとは違っていても、あきらめて、その世界に順応しようと努力していくうちに、もしかして、そのおもしろさを発見する、ということがあったかもしれない。


 いずれにしても、時間の経つのは早く、1年半後、私は、茫洋たる「自由の大海」の前に立ち尽くしていた。

 「歴史」に失望し、「哲学」には興味なく、残されたのは「文学」だった。フランス語第一のクラスだったので、周りには「フランス文学科(仏文科)」志望の同級生たちがたくさんいた。「国文学」や「英米文学」もあったが、国語や英語はこれまで、それほど好きでも、得意でもなかったので、全体の流れに乗って、仏文学を選ぶのが順当のように思えた。

 しかし、私はそれまで、フランス文学の作品を、翻訳ででもほとんど読んでいなかったので、とくに好きな作家というものもなかった。フランス語の勉強も通りいっぺんのもので、夏休みに、辞書を引き引き、有名な作品の「原書」に挑戦する、といった覇気もなかった。こんなことで、仏文科に入って、やっていけるのだろうか。

 大学で勉強するものがなかなか見つからなかったにもかかわらず、私は、大学という空間と時間が大好きで、できるだけ長い間そこに居たいと願っていた。裏返していえば、就職して、いわゆる「社会人」になることに恐怖に近いものを感じていた。その後流行語となった「モラトリアム症候群」というものに陥っていたのだろう。ズルズルと留年するのは、もちろん、脛をかじられる親が黙っていないので、唯一「合法的」に大学に居残るすべは「大学院」に入ることだった。

 実社会での人材養成が目的の「法学部」や「経済学部」では、4年で大学を卒業して就職するのが当たり前であった。それに対して、いわば「真理の探究」を標榜する文学部は、その学問の「後継者」養成が目的という傾向があったので、大学卒業後も大学院で勉強を続けることが奨励されていた。

 ただ、大学院の位置づけは、専攻学科によってさまざまであった。後継者として見込みのあるものを厳選し、大学院修了後にそれなりのポストを準備できる人数しか入学させないという学科もあれば、本人にやる気さえあれば、大学院定員の許す限り入学は認める、ただし、将来は保証できない、という学科もあった。前者は、いつも学科定員を超えるほどの志望者が集まる学科に多く、仏文科はその代表的なところだった。

 同じクラスに仏文科志望を公言するものが大勢おり、フランス語が第二外国語のクラスからの志望者もかなり見込まれるなか、彼らとの競争に勝ち抜いて、大学院に進学できる自信はなかったし、何よりも、フランス文学に対して、そこまでの思い入れも感じていなかった。

 こうして、どんどんと選択肢が減っていくなか、浮上してきたのは、仏文科の陰に隠れるように存在していた「イタリア文学科(伊文科)」だった。


 当時、各学科の定員は最大で20名となっていたように思う。しかし、その定員を満たすような人気学科は、仏文科、英米文学科、社会学科、心理学科といったところしかなかった。一方、数多い学科の中には、毎年、数人しか進学者のない学科もたくさんあり、伊文科もそのひとつだった。ただ、学科の説明会や、どこからともなく伝わってくる噂では、鷹揚で自由な、のんびりとした学科らしいということで、決定の時期が近づいてくるにつれて、だんだんと気持ちがそちらの方に傾いていった。

 かといって、イタリア文学については、フランス文学よりもはるかに少ない知識しかなく、イタリア語を学んだこともなかった。イタリア語はフランス語に近いのだから、その類推で、ある程度わかるのではないか、と、フランス語に堪能でもないくせに、勝手にそう決めつけたり、これまで人があまり手をつけていない分野だから、ひょっとして、まだ宝の山がたくさん眠っているかもしれない、などと思い込もうとした。

 その頃は、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグの登場で活気づくフランス映画と並んで、イタリア映画も、ヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエトロ・ジェルミらの作品が次々と公開され、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダ、クラウディオ・カルディナーレらの女優陣に混じって、マルチェロ・マストロヤンニが活躍するなど、活況を呈していた。それらを映画館でよく観ていた私は、こんな素晴らしい映画をつくっている国だから、おもしろい文学もきっとたくさんあるにちがいない、と、無理やり、そんな希望を胸のなかに吹き込んで、その門を叩いたのであった。

 しかし、その年、その門を叩いたのは私一人だけだった。もともと人数の少ない学科だとは聞いていたが、一人というのも珍しいことだったそうである。だからといって、大手を拡げて大歓迎されたというわけでもなかった。はじめて、教授の研究室に挨拶にいった時、教授は不在で、部屋詰めの助手の先生のほか、先輩の大学院生らしき人たちが数名いたが、みんなが口を揃えて云ったのは、「あなた、ほんとに、この学科でいいのですか」という言葉だった。


 最近になって、吉田健一の『大学の文学科の文学』(「文学の楽しみ」所収)という文章を読んだ。そこに書かれていたのは、次のようなことだった。


 19世紀の後半になって、英国の大学で英国の現代文学の講座を設けるという話が出たとき、猛烈な反対があった、という。

   ギリシャやローマの文学のように、用語が死語であり、書かれた当時の制度その他がすべて今日とちがっていれば、作品を理解するためにも、書かれた言語のみならず、その時代の歴史、地理、風俗、貨幣制度までの知識が必要になり、そこに「古典学」というものが成立する。

 しかし、すでにすぐ読めるかたちになっている現代文学を学生に教えるとなると、知識の伝達よりも、教える方が優れた批評家であることが必要となってくる。つまり、その時間だけ、大学という学問の機関で、学問を離れて、批評という「文学」の一形式が口頭で行われ、学生はその味を覚えるか、覚えないか、とにかく、それに付いて行く他ないことになる。

   学者はある程度まで養成できても、批評は文学に属することなので、詰め込み勉強して身につけられるものではない。結局、そんな猛反対を押し切って、現代文学の科目が採用されるようになったが、それは、当時、英国の大学に、ロオリイとか、ゴスとか、セインツべリイといった、古典や外国の文学に通暁しているだけではなく、英国の現代文学の優れた批評家でもある人々がいたからであった。しかし、そんなに秀でた批評家がいつでもどこでもいるわけはないので、想像力というか、文学に対する理解というか、人間を文学に引き寄せるものが足りない大学の教師がそれを補う方法もないので、文学を真面目に、文字通りに取る方に傾き、その考えを書いて批評家になり、文学を何か恐ろしく鹿爪らしいものにする批評が蔓延することとなった。


 要するに、「文学」は学問ではない、というのが趣旨だった。

 そういえば、私の通っていた大学の国文科でも、明治以降の近代文学は扱わないのが原則となっていたようだが、おそらく、同じような理由によるのであろう。

 これまで連綿と伝わってきたいろんな「写本」を吟味し、その言葉を読み解き、活字にして、だれもが読めるようにする。また、現代では意味の通じない言葉を解明して、その意味を明らかにする。そのような作業が「学問」であり、そうして出来上がったテキストを読み味わい、それについて何か述べたり、書いたりするのは、「文学」の領域であって、「学問」ではない。明治以降の近代文学はすでに活字として、だれにでも読めるかたちで発表されているので、そこには「学問」の入り込む余地はない、ということになる。

 当時の私は、そのあたりを誤解していた。研究すべき「文学」とは、ここでいう「批評」のことであって、大学で、それが学べるものと思っていた。おそらく、その認識は私だけではなく、周辺の文学青年たちにも共通したものであり、いち早く、大学の現状に幻滅した彼らは、いつの間にか、キャンパスから姿を消していった。「文学」の勉強は大学でなくとも、下宿の部屋に籠もって、ひとりでも出来ると。

 ところで、外国の現代文学はもちろん現代語で書かれていて、死語ではない。しかし、それはその国での話であって、われわれ日本人にとっては、意味の分からない、死語同然のものである。また、その土地の制度、歴史、地理、風俗なども、われわれにとっては未知のものなので、ちょうど「古典」に対するのと同じような条件となり、その意味では、外国の現代文学の研究も「学問」になりうるといえばいえる。そして、その場合、学問の「武器」として、その外国語の習得が絶対的に必須なものとなってくる。

 ところが、「語学」というものを、当時の私や、周辺の文学青年たちが軽視していたのは確かであった。もちろん、語学の大切さは否定しないが、われわれが重視するのは、そこに何が書かれているのか、その中身であって、その「文学のこころ」を見出していくことである、と思っていた。そのためには、必ずしも原書で読まなくても、翻訳でも事足りる、とさえ思っていた。そんな「文学のこころ」を知らない、あるいは求めようともしない「語学自慢」に対しては、「ただの語学屋」というレッテルを貼って、軽蔑をかくさなかった。


 さて、そんな気持ちを抱いて、イタリア文学の世界に入っていった私が最初にぶつかったのは「語学の壁」であった。

 「あらかじめイタリア語を勉強してくる人は少ないです。たいていの人は、入ってから始めるのですが、みんな、なんとかやっていますよ」

 そんな、助手の先生や先輩たちのことばに励まされて始めたイタリア語だったが、やはり大変だった。文法構造はフランス語とあまり変わらないし、語彙も共通するものが多いとは聞いていても、わずか2年間勉強しただけのフランス語の土台は怪しいものだったので、とにかく、片っ端から辞書を引きまくるしかなかった。しかし、その「伊和辞典」もあまりよいものではなく、イタリア語には多いといわれる「慣用句」が載っていないことが多く、やむをえず、無理を承知で、本場の「伊々辞典」を引くしかないことも多かった。

 ただ、恵まれていたというか、大変だったというか、3回生に入ってきたのが私一人だったので、3回生対象とされていた「購読」という時間は2つとも、先生と一対一の授業となった。教えてくれたのは、30代の助手の先生と、その前に助手をしていて、他大学の助教授に転出していた、もう少し年上の先生で、二人とも、とても優しい先生だった。

 何しろ一人なので、当然、毎時間当たって、私が予習してきたところを音読して、日本語に訳すと、先生がそれを直してくれる、という授業が2時間続くのであった。ただ、非力な私が予習してくる量は知れたものなので、訳読作業はたちまちのうちに終わってしまった。その先を先生に先回りして説明してもらっても意味がないので、授業はそこで打ち切りとなり、コーヒーを入れてもらって雑談したり、早めに切り上げられたりした。授業は、一応用意されていた教室ではなく、いつも教授の研究室が使われていた。その研究室では、なぜか教授は留守勝ちで、まるで部屋詰めの助手の先生の部屋みたいで、学科や大学院の学生が気楽に出入りして談笑する、「たまり場」のようになっていた。

 学科の雰囲気は、とてもなごやかなものだった。上下関係のようなものは一切なく、どの先輩も新入りの私に親切だった。ただ、レアな世界にはレアな宝物が埋まっているのではないか、という期待はすぐに裏切られた。狭い世界にも、狭い世界なりに、探索の穴は掘り尽くされていて、めぼしい宝物はすでに発掘済みのようであった。人数が少ないという「希少価値」も、人数の少ないところには、それに見合った少ない「食い扶持」しかなく、専門家としてのポストも限られていた。「こんなところでいいんですか」という最初の「歓迎の辞」の真意は、「こんなところに来たんだから、ゆっくり、のんびりやりましょう」というところにあったようだったが、私はすぐにその水に馴染(なじ)んでしまった。

 学生は学部、大学院合わせても10人ほどで、さっそく開かれた「歓迎会」の雰囲気も温かいものであった。教授は改まったとき以外には顔を見せず、その後、「忘年会」「新年会」の他、さまざまな口実をつけての「飲み会」が、助手の先生や大学院の先輩を中心に頻繁に開かれ、夢見心地で1年が過ぎていった。

 しかし、そのような居心地のよさの裏には、シビアな現実が存在していた。一対一の授業は、どちらの先生も、完全に私のペースに合わせて、私が予習した範囲を超えることはなく、それ以上催促されることも、叱咤されることもなかった。それをよいことに、私はのんびりとした1年を過ごしてしまったのだが、今にして思えば、そんな理想的な環境に恵まれていたのならば、もっと頑張るべきであった。時間を惜しんで、もっともっと予習を積み重ね、解らないところはどんどんと質問して、ひたすら、その習得に精進するべきだった。

 4回生になってしばらく経った頃、ある先輩の下宿に遊びに行ったことがあった。その時、先輩の机の上にデスク版の大きな伊々辞典が置いてあった。ふと中を開いてみると、赤鉛筆や青鉛筆でいっぱい線が引いてある。それは、たまたま開いたそのページだけではなく、どのページも、見出し語とその説明語句の半分以上に、いろいろと線が引かれていた。パラパラと辞書のページをめくりながら、私は動揺を隠しきれなかった。こんなにも勉強しなければならないのか。大学ではそんな素振りはいっさい見せず、地味で飄々とした先輩だったが、いつも笑顔を絶やしたことのない柔和な表情の下に隠された、本当の素顔を垣間見たかのように、私は戦慄した。その時、台所からコーヒーカップを2つ持って現れた先輩に、動揺を押し隠しながら、ものすごく勉強されているのですね、と云うと、「好きだからねぇ」という答えが返ってきた。

 みんな、のんびり、ゆっくりやっているようで、アヒルの水掻きのように、家ではこんなにも頑張っているのだ。思わず背筋をピンと引き伸ばされたような気がしたが、あのようなアンダーラインは私には真似できない、とも思った。好きだから、と云った、照れ隠しのような先輩のことばの裏に秘められた、自負と確信。そのようなものがないと、この世界では生きていけないのか、そんな不安が頭の中いっぱいに拡がっていった。


 卒業の時期が近づき、卒業論文に取りかからなければならなくなった。自分の好きなテーマを選ぶ余裕も予備知識もなかったので、購読で使ったテキストの、カルロ・ゴルドーニという18世紀の喜劇作者を採り上げることにした。時間と実力の制約から、その代表作1篇をしっかり読み込んで、その内容を論じるという構想だったが、いざ取りかかってみると、なかなか思うようには進まなかった。

 年が明け、提出期限まであと1週間という時になって、にっちもさっちも行かなくなってしまい、両親に相談して、1年留年して、イチからやり直したい、と訴えた。もともと大学院進学にも反対だった母親に、4年で卒業して就職し、早く家庭を持ってほしかったのに、と愚痴られたのには参ったが、何とか認めてもらい、翌日、研究室にその旨、報告しに行った。

 例によって、教授は不在で、応対した助手の先生は、私の必死の訴えを一笑に付した。

 「留年なんて、そんなバカなことはやめなさい。1年をムダにするだけですよ。論文を出して、試験を受けたら、大学院にはかならず行けるのだから、イチからやり直すのなら、大学院に入ってからやればいいんです」

 たしかに、大学院は定員が空いていて、語学、とくにイタリア語以外に必須の、英語の試験さえ一定の水準に達していれば、入れてもらえるという噂であった。

 「でも、卒業論文がどうしても書けないんです」

 「論文なんて、何だっていいんですよ。そんなに大げさに考えずに、何でも書いてみなさい」

 たまたま研究室に来ていた、どこかの出版社の編集者の人が追い討ちをかけた。

 「規定は50枚以内、なのでしょ。だったら、短くったっていいじゃないですか。たった10数枚で、名論文を書いた人もいますからね」

 悲壮な顔をして駆け込んだのに、見事にかわされて、すごすごと引き下がるしかなく、その晩から、もう一度エンジンをかけ直して、論文に取りかかることにした。二晩ほど徹夜しただろうか、なんとか書き上げることができた。原稿用紙50枚ちかくが目標だったが、30数枚、それ以上はどうしても書けなかった。


 こうした逆転劇を経て、無事大学院にも合格し、何とか生き長らえたのであったが、そうなると、当初の意気込みの、イチからやり直す、という気はどこかに行ってしまっていた。

 記憶をたどると、やたらとアルバイトを増やしたのを思い出す。新聞の市内版の個人広報欄で求めた家庭教師が2件で週4回、近所の町医者の保険事務の仕事を週2回、それと、夏休みや冬休みには、百貨店の家具売り場の売り子もやった。その他、大学院の奨学金として、少なくない金額も支給されていたので、急に金回りがよくなった。

 下宿ではなく、自宅通学だったので、とくに生活費が必要ということもなく、そのお金で何か大きな買い物がしたいというわけでもなかったので、どうしてそんなに金稼ぎに熱中していたのか不思議だが、あとになって考えてみると、いっしょに大学に入学した高校の同級生たちがどんどん就職して社会に出て行くなか、自分だけ、大学院という体のいい「逃げ場」に閉じこもり、かといって、そこから先の未来は何も見えてこない、という後ろめたさを、せめて、彼らに引けを取らないほどのお金を稼ぐことによって、なんとか埋め合わせしようとしていたのだろうか。

 大学院に入ったら、本腰を入れて勉強するはずだったのだが、その気が失せてしまったのは、自分に限界を感じはじめていたからだろう。

 その頃、専門の研究者になるための、ひとつのコースのようなものがあり、それは、大学院在学中のどこかで、イタリアへ1~2年間留学するというものだった。当時は今ほど、海外旅行が簡単ではなく、ヨーロッパに格安で行くには、船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道でモスクワまで行って、そこからやっと飛行機に乗るというルートが一般的だといわれていた。「政府交換留学生」という制度があって、その試験に合格すると、渡航費は自己負担だが、学費と滞在費はイタリア政府が出してくれることになっていた。人文科学、社会科学、自然科学、芸術の各分野があり、うち「文学」という枠が毎年ひとつあって、それを利用して、留学する先輩たちが結構いた。

 君もどうかね、と、暗に勧められたこともあったが、私には畏れ多いことだとしか思えなかった。寄る辺なき異国の地で暮らすということに、とてつもない敷き居の高さを感じていたし、何よりもそれに耐えられる語学力が決定的に不足していることが自分にはよく分かっていた。ならば、必死で勉強すれば、となるが、正直なところ、これまで、やってもやってもなかなか上達しない、というより、それ以前に、そこまで打ち込んでイタリア語を勉強できない自分に苛立っていた。

 好きだからねぇ、と云った、あの先輩の言葉が耳に残っていた。自分も何とか好きにならねばならない。その一心で、イタリアやイタリア語に関する書物を読み漁った。たまたま本屋で見つけた、ゲーテの『イタリア紀行』という本をひも解いたこともあった。しかし、そんな無理な努力が身につくはずもない。

 撤退するしかないか、と思いはじめたのが、いつごろのことだったのか、よくは憶えていない。しかし、それもそう簡単なことではなかった。というのも、これまで、曲がりなりにも3年以上の歳月を、イタリア文学の勉強に捧げてきて、それは、とても実を結ぶほどのものではなかったとしても、それなりにかけがえのないものであった。それを捨てるというのは、その間、自分は何をしていたのだ、つまり、その間の自分というものを捨ててしまうことになる。それはそれで、とても耐えられないことであった。

 このまま進んでいっても「未来」が見えてくるわけでもないことは重々わかっていた。しかし、それ以外に、他の未来は存在しないと錯覚するほど、タコ壺のような陥穽の中に落ち込んでしまっていた。そんな葛藤から解放されるまでには、かなりの時間が必要であった。


 一般会社の就職は、新卒を4年もオーバーしてしまった年齢のハンディと、職種に対する高望みのためか、ことごとく失敗してしまったが、大学院在学の終盤、保険をかけるつもりで取得した「教員免許」が物を言って、高等学校の教職に就くことができた。

 教職のはじめのころは、まだイタリア文学に未練があったのか、いつか読もうと、イタリア書籍専門店でみつけたマキャヴェッリの選集やピランデルロの小説をどっさり買い込んだり、先輩の世話で、小さな、イタリア語初級の講習会の講師を勤めたりしていたが、本業の教職の仕事に慣れてくるにつれて、それらとも、だんだんと遠ざかっていった。

 「もう勉強しなくていいんだ」

 定職に就き、その仕事がおもしろくなり、いつの間にか、りっぱな「社会人」になっている自分に自信を持ちはじめるにつれて、そんなつぶやきが、解放感とともに、心の底から込み上げてくるのを感じた。

 たとえ、あのまま頑張って、専門の研究者になれたとして、その稼ぎに匹敵するぐらい、いやそれ以上のものは、今の仕事で十分に稼げている。ならば、それで安定した生活が送れれば、それでいいではないか。

 買い込んだ、マキャヴェッリとピランデルロは、ろくにページを開かれることもなく、本棚から、押し入れの段ボール箱の中に移り、その箱も、いつしか、庭の片隅の物置き倉庫の奥に仕舞われ、そして、何度かの引っ越しのあと、姿を消してしまった。もう何十年も使っていなかった、デスク版の「伊々辞典」も処分した。惜しいどころか、せいせいした気分だった。

 すっかり生まれ変わったつもりで、40年が過ぎた。しかし、その間、こころ穏やかでなかったところもある。それは、曲がりなりにも、自分でやろうと決めたことを中途で投げ出してしまった「挫折感」だった。大学院も含めて、都合8年間も在籍していたうちの6年間がまったくムダになってしまった、という思いだった。他人に、大学で何を勉強されていましたか、と訊かれるたびに、曖昧にことばを濁さねばならないのは、心苦しいことだった。

 手に職をつけよ。幼い頃から、親やまわりの大人たちにそう云われて育ってきた。何か技術を持っていると、一生、喰いっぱぐれがない、と。

 私の父は、家の事情で、上の学校に行くことができず、丁稚奉公からたたき上げて、「製薬」の技術を身につけ、70歳まで働いて、私を大学まで出してくれたのに、自分は何も身につけることができなかった、という後ろめたさがあった。

 そもそも、文科系には、理科系のように、何か身につける技術というものがあるのか、ということだが、それは、結局は、「語学」だというのをどこかで読んだことがある。文学部に限らず、法学部や経済学部などの社会科学系であっても、その「専門知識」以外に、いまや世界語となった英語などの外国語を習得しておけば、結局、そちらの方が、手に職という「職」にふさわしいものになるのだ、というのである。

 それならば、イタリア語は、マイナーながらも、ヨーロッパの有力言語のひとつで、それができれば希少価値となろう。イタリア人と直接話したりする機会はなくとも、本や新聞で文字に触れる機会はあるので、イタリア語がある程度読めるとなれば、それは立派な「技術」だ。

 しかし、中途半端だったとはいえ、何年かそれを勉強し、少なくとも、ある程度は身についていたはずの私のイタリア語も、数十年も手を触れずにおれば、すっかり錆びついていて、今では、基本的な文法さえ、よく憶えていない有り様となっていた。そして、もっと悪いことに、マキャヴェッリやピランデルロとともに、それ以外の原書も教科書も、疫病神のごとく、すべて処分してしまっていた。

 老年になってはじめて気がついたのだが、自分がこれまで学んできたものは、学校であれ、習い事であれ、そのテキストなどはできるだけ保存しておくべきだということである。

 例えば、私は、大学に入ってから何か楽器をやってみたいと思い、ギター部というところに入ったことがある。それはわずか1年で挫折してしまったのだが、親切な先輩から初級の手ほどきをていねいに受け、1回生の終わりには、ギター合奏の一員として、発表会の舞台に立つまでにもなっていた。

 先輩に大手楽器店についていってもらって購入した、一応「手づくり」のクラシック・ギターは何十年も弾かれることなく、いまだに、押し入れの隅に収まっている。しかし、その当時使っていた「カルカッシ」という教則本はすでに処分してしまっていたので、久しぶりに、ギターを取りだして弾いてみようとしたとき、何もなす術もないのに呆然とした。かつての教則本があれば、その中の書き込みを見たりしながら、昔を思い出して、すこしずつ、昔取った杵柄(きねづか)が甦ってきたかもしれないのに。

 イタリア語もそうであった。辞書だけは、私が辞めてから発行された新しい「伊和辞典」を購入していた。しかし、卒論のテーマとなった「ゴルドーニ」の戯曲テキスト。それは、1作ずつの薄い冊子が何冊もあったのだが、それとか、その他、授業で使っていた原書や文法の教科書など、それらをまたこつこつと読み返していけば、すこしずつ昔が甦っていったかもしれないのに、それがないので、かつて到達していた地点にまでも戻ることができなくなってしまっていた。


 かくして、いまや私は、とくに手に何の「職」も持たない、一介の市井人として、専門家たちの仕事の成果をのんびり享受する立場となっている。わざわざ原書で読まなくとも、翻訳があればそれでよし、その翻訳が下手でおもしろくなければ、読まなくてよし、と、思えば、実に優雅な身分である。

 聴くところによれば、そもそも、学者(専門家)とは、王様に仕えて、特定の分野の事柄を研究し、何かの折りに、王様のお召(め)しがあれば参上して、それまで貯えた知識を披露する、という存在だったそうである。わざわざ自分で勉強しなくとも、わからないことがあれば学者を呼んで訊けばよい。そして、それを参考にして、国を治めればよい、ということだろう。だとすれば、いまの私は、その王様みたいなもので、気まぐれに、いろんな専門家の書いた書物を本棚から取りだして、気が向いたときに読めばよい、ということになる。

 古代ローマの時代には、人格の完成を目指した、豊かな「教養人」となるための教育は、「自由民」のみが受けられたので「リベラル・アーツ」と呼ばれていて、奴隷のための教育だった「職業教育(実用教育)」とは厳然と区別されていたという。働かなくてもよい身分の特権だといってしまえば、身も蓋もないが、勉強は、何も、手に職をつけるためだけのものではないというのは、今も確かなことである。いろんなことを学んで、知識を身につけ、それを基にいろいろと考えたり、こころを豊かにすることによって、幸せな一生を送る、そんな勉強もある。

 「リベラル・アーツ」を日本に導入したものといわれる、「旧制高校」の教育、そして、それを戦後に引き継いだ、新制大学の「教養課程」、その授業が、私は大好きだった。

 興味のある事柄を、いろんな先生が新入生向きに、おもしろく、かみ砕いて説明してくれる、いわば、講演会のような概論講義を、ざわざわとした構内のあちこちの大教室を廻って受講するのが、大学に入って最初に感じた歓びだった。そんな好みはいまも変わらない。カルチャーセンターに通ったりするほどではないが、テレビやラジオの教養番組、最近では放送大学の番組を録画・録音して、観たり、聴いたりすることも多い。

 そのとき、そんな「教養」をわれわれに届けてくれるのが専門家の役目だが、そのような専門家に自分は本当になりたかったのか、といえば、今となっては疑わしい。

 確かに、受講者よりも、教える専門家の方が、「偉い人」のようにみえる。しかし、先ほどの、王様と学者の例にならえば、学者といえども、たかだか王様に仕える身であって、受講者の方が王様なのだ、ということになる。

 われわれが大学で勉強して専門的な知識を身につけるのと、大学で教える専門家になるのというのはまったくの別物である。専門家になるためには、特別な訓練と修練を経て、それなりの「知識」と「技量」を身につけなければならない。つまり、専門家という職業に就くための「職業教育」を受けなければならない。これは特殊なことといえるだろう。

 大学で勉強した者がみんなが「専門家」になるわけではない。事実、法学部や経済学部、あるいは工学部など、社会に出てすぐに役に立つ学問をするところでは、大学に残って、専門の研究者になるというのは例外的な選択のようである。しかし、文学部など、その学問が直接世の中の役に立つことは少ないと思われているところでは、研究者というのは大きな選択肢だった。とくにマイナーな伊文科のようなところではその傾向がもっと強かったかもしれない。

 私が通っていたころの大学では、前半の2年間は、いろんな分野を広く浅く勉強する「教養課程」、あとの2年間が、分野を絞って、深く研究する「専門課程」というシステムになっていた。そうすると、どうしても「教養」は「専門」の前座みたいに見られて、軽視され、時として、その不要論も囁かれていた。

 しかし、学問本来のあり方から考えると、どちらに大学の本分があるかは分からない。「専門」の学問を究めて、「専門家」になる道以外に、「教養」を深めて、大学を卒業し、それを土台にして職業人となっていく、という道もあって、むしろ、この方が圧倒的に多数であろう。そんな場合、「専門」の勉強とは、専門家になるためのものではなく、その学問が生成されてくる過程を実際に体験することによって、より知識と教養を深める「よすが」とするもの、とでもいえるだろうか。「仕事」のことは、「職場」に入ってから、身につければよいし、そうするしかない。

 教養を「供給」する立場から離れ、もっぱらそれを享受する立場になって、「ああ、もう勉強しなくてもいいんだ」と歓喜の想いが込み上げてきたことは先に述べたが、そうやって、自由気ままに、読みたい本を読み、やりたいことをやっていけば、行き着くところは、「ディレッタント」ということになるのだろうか。

 「趣味人」とか「好事家(こうずか)」とも云われるこの言葉のイメージはあまりよくない。「所詮、ディレッタントだ」「いろいろ手懸けてはいるが、一個の趣味人に過ぎない」などという風に使われて、「生かじりの」「道楽半分の」「知ったかぶりの」「しろうとの」「半可通の」といった意味の軽蔑語の扱いを受けている。何でもよく知っているみたいだが、どれも中途半端、ということだろう。

 確かに、知ったかぶりをして、偉そうにしていれば、みんなに嫌われて、軽蔑されるであろう。しかし、ひっそりと知識と教養をためこんで、自分ひとりで、それらを繰り返し、噛みしめて味わうのは別に悪いことではないし、本人にとっては至上の歓びでもある。広く浅く知見を広めることによって鍛え上げられた感覚が、実生活や職業生活をより充実したものにするということもあるだろう。

 ディレッタントが軽視されるのは、おそらく、そこに「創造性」が欠如していると見なされているからかもしれない。誰も知らないことを知っている、というのが専門家の特性だとすれば、ディレッタントの知識はみんな専門家の受け売りばかりで、自分が作り出したものなど何もない、とされていたからだろう。

 しかし、専門家といえども、本当に自分しか知らないことを見つけるのは大変なことで、他人のやっていないことを求めて、ひたすら、専門の「細分化」へとひた走ってしまうことも多い。そんなプレッシャーのないディレッタントは、手広く、好奇心の赴くまま、自分の気に入った、おもしろい「既成の知識」を心置きなく収集するだけでよい。私が生業(なりわい)を得た、高校教師という職業にはそれで十分だったし、あるいは、そんな「雑学的博学」が大きな武器となっていたかもしれない。

 学生時代を「とても贅沢な時間だった」と顧みた友人がいたが、私はそんな中で8年間もしあわせな時間を過ごしたことになる。その間、結局、これというものも身につけることはできなかったが、現在につながる、少なからぬ友人を手に入れたのが大きな収穫だったといえようか。それ以外に、かたちのあるものではないが、贅沢な時間を過ごしたという「体験」は、自分の過去の記憶に、ある豊かな色彩を与え、これまでの自分の歩みをしっかりと支えてきた。自分は大学でムダな時間を過ごしてきたのではなかったと、負け惜しみでなく、今、そう実感できる。


 辞書で引くと、ゼネラリストとは、「広範な分野の知識、技術を持ち、全体的な立場から判断できる人」とある。なかなかよい意味だ。ならば、あの時、なぜ「スペシャリストです」と即答したのだろうか?

 それは、私がスペシャリストに対して、強いあこがれを持っていたからだ、とずっと思い込んでいた。しかし、最近になって、実はあの時、ゼネラリストという言葉が私には初耳で、それがこのような意味だとはまったく知らなかったからではないか、と思い至った。それでは試験に落ちるのも当然だっただろうが、でも、この意味は、ある程度の「成熟」を経なければ本当には理解できないもののようにも思える。20代半ばで「ゼネラリストです」と答えられれば大したものだろう。私は、古希を過ぎて、やっと気がついたのだから。

(完)


【自註】

 前作『眼鏡』のアップロードが2017年9月14日だったので、実に、1年2ヶ月ぶりの「新作」ということになる。この間、何かと忙しいこともあったが、今回の作品を仕上げるのにそれだけの日時を要したということだろう。それは、このテーマが「人生の謎解き」の核心に迫るものだったからかもしれない。この「ストーリー」が出来上がるまでには、それだけの熟成期間が必要だったといえるだろう。とにかく、肩の荷を下ろした気がするが、その軽くなった身に、またまた、次のテーマが「降臨」してくることを願うばかりである。   (2018.11.30 )


        

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