小学校の恩師


コラムの練習 《し》

小学校の恩師 



 H先生は筆まめな人で、年賀状を出すと、必ず返事をくださった。なのに、昨年はどうしたことか返事がなかった。どうされたのかな、と思いながら、今年も年賀状を出し、そのひとこと欄に、ふと、昨年はじめて上梓した『わがデジタル創世記』のことを書いて、近々お送りしますのでお読みください、と書き添えた。

 今年も返事はなかった。三賀日が明けると、待ち切れなくなって、本を郵送した。

 しばらくして、1月9日、やっと返事が来た。なぜか奥さまの名前だった。よく見ると、寒中見舞いとあって、昨年12月21日に夫が永眠しました、と印刷されていた。その横に手書きで、ご本はお供えさせていただきました、主人は本が大好きだったので、喜んでいることと思います、とあった。

 ああ、こんなことなら、もっと早く送っておけばよかった、是非とも、読んでほしかったのに、と悔やんだが、あとの祭りだった。


 H先生には、小学校5年〜6年という、いわば、初等教育のハイライトの時期に担任をしていただいた。その頃私の通っていた小学校では、この先生は良い先生だ、と、何人かの先生の名前が生徒や保護者の間に秘かに流布されていて、その一人がH先生だった。そんな先生に当たったということで、みんな希望に胸ふくらませていたようである。

 たしかに、H先生は光り輝いていた。細おもての、鼻筋がとおった、映画俳優にでもなれそうな容貌にまず惹きつけられた。まだ若く、このたびその享年を知ってはじめて正確な年齢が判ったのであるが、当時27歳、教師になって4〜5年といった「若手教師」だったはずだが、私たちには、すでにその学校を背負って立つ、優秀で頼りがいのある「中心教師」のように見えた。

 何よりも、話がおもしろかった。話術が巧みだった、といってもよい。放送部の顧問をされていたが、ご自身も、アナウンサーに興味があって、そんなトレーニングを受けたこともある、とおっしゃっていたような記憶がある。

 最初に聴いた話が印象的だった。何でも、大きな海のどこかに、船が迷いこんで出てこれなくなる海域がある、という話を、具体的な例を挙げ、その場面が目の前に見えるように、真に迫った口調で語ってもらっている途中で、チャイムが鳴った。

 「時間が来たので、続きはまた今度。君たちが良い子にしていれば、してあげる」

 ものすごい「つかみ」である。今にして思えば、大西洋のカリブ海付近にあるといわれる「バミューダ・トライアングル」のことだろうが、とにかく、私たちはすっかり参ってしまって、「良い子」にならなければ、と強く決意したのであったが、その続きは、いくら催促してもなかなか話してもらえず、そのうち、こちらも忘れてしまったのか、結局、聴かずじまいであった。

 また、H先生は、スポーツも万能だった。ドッジボールも、ソフトボールもとても上手で、私たちはもちろん、他の先生方の中でも抜きん出ているようだった。足も速く、運動会の教員対抗リレーではいつもスターだったし、体育の時間の、鉄棒やマットなどの器械体操もうまかった。

 要するに、私たちにとっては「スーパースター」で、その容貌、話術、運動神経は、いずれも私には備わっていないものばかりだったので、別世界の人のようで、憧れるというよりも、敬い、畏れる存在であって、正直なところ、個人的な親しみを感じることが禁じられているような気さえしていた。

 もちろん、授業はおもしろかった。理科の先生という印象だったが、のちに訊けば、専門は社会科だったそうで、そういえば、いちど、研究授業があって、他の学校の先生が大勢やってきたことがあった。

 それはたしか、その頃、天龍川に完成した「佐久間ダム」をテーマにした授業で、暗幕の付いた特別教室に16ミリ映写機を持ち込み、佐久間ダムの記録映画を流しながら授業をするという、当時としてはかなり画期的な「視聴覚授業」であった。

 そのすこし前、学校で16ミリ映写機が購入され、その時、H先生が講習を受けに行って、その使用免許を取った、という話も聞いていた。また、その新しい映写機の「お披露目」の映写会が講堂であって、いつもなら、つまらない「教育映画」ばかりだったのに、その時はどうしたことが、東映の子ども向けの時代劇が上映されて、みんな狂喜したのを憶えている。

 H先生はまた、授業に新聞を持ってこられて、その中の記事について、よく話してくださった。今、その頃の年表を調べてみると、実にいろいろな「大事件」が起こっている。

 5年生になった1956年4月以降では、まず、5月9日に、日本の登山隊がヒマラヤのマナスルの初登頂に成功。その模様はのちに記録映画となって公開され、学校から団体観賞で、近くの映画館に観に行った。7月26日には、エジプトのナセル大統領が、スエズ運河の国有化を宣言。それが引き金となって、10月29日に「第二次中東戦争」が勃発している。10月19日に、日本とソ連の国交が正常化され、「日ソ共同宣言」が出されたが、直後の10月23日には、自由化を求めたハンガリーにソ連軍が攻め込むという「ハンガリー動乱」が起きた。かと思えば、11月22日からは、南半球のメルボルンでオリンピックが始まるなど、実に激動の年であった。

 大きなニュースとなったのは、12月18日に日本の国連加盟が認められたことである。その伏線となっていたのは、当時の鳩山一郎内閣によるソ連との国交回復の実現で、それまで拒否権を使って反対を続けていたソ連がやっと日本の加盟を認めたのであった。

 「鳩山内閣の黒幕は河野一郎です。彼が内閣を牛耳っているのです」 

 そんなコメントがH先生からあって、意外に思ったのを憶えている。その頃、日本とソ連の間で問題となっていたのは、北海道近海の「北方漁業」で、北方領土問題ともからんで、日本の漁船が拿捕されるなど緊張が続いていたが、その問題を担当していたのが農林大臣の河野一郎だった。そういうことを云っておられるのかな、とも思ったが、周知のごとく、河野一郎はその後まもなく、政界の大立て者となっていった。

 ソ連との「雪解け」を象徴する出来事もあった。その頃始まった日本の「南極観測」の「昭和基地」に物資を運ぶ砕氷船・宗谷が、氷の海に閉じこめられて身動きできなくなるということがあった。そのとき、近くを航行中のソ連の砕氷船・オビ号が救援に駆けつけて、その誘導で氷海を脱出することができた。1957年2月28日、これも5年生の時である。

 この模様は新聞でも連日報道されて、大きなニュースとなっていたが、南極を航行する砕氷船がどういう仕組みになっているのか、H先生はていねいに説明してくださった。すなわち、船底にあるタンクの水を移動させて、船を前後にローリングさせ、氷の上に乗り上げて、船の重みで氷を割るというのである。

 「砕氷船というので、強力な推進力で氷の中に突っ込んで、バリバリと砕いていくのかと思ったけど、ずいぶん原始的なやり方なんだね」とおっしゃっていた。

 4月から6年生になった1957年は「国際地球観測年」に制定されていて、南極探検とともに、人工衛星も話題になり、アメリカとソ連がその打ち上げを競い合っていたが、この年の10月4日、ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号を成功させた。また日本でも、東大の糸川英夫教授が小さいながらも初の国産ロケット、カッパー4Cを開発、さらに、茨城県東海村に日本初の原子炉が出来たのもこの年で、世の中は、さながら「科学新時代」という活況を呈しはじめていた。

 小学校の教室の黒板の上には、それぞれそのクラスの標語が墨で書かれて、額に入れられていた。たいていは「努力」とか「勤勉」とかいうのが多かったが、6年生になったとき、H先生が選んだのは「科学する心」というものだった。その時、その謂れについて、いろいろお話されていたようだが、まったく憶えていない。今調べてみると、戦時中に文部大臣をしていて、敗戦後自決した科学者の橋田邦彦というひとの言葉だったそうだが、そういう説明をされていたのだろうか。いずれにしても、何か新しいものが次々と産み出されてくる時代にふさわしい言葉に思えて、卒業するときに流行った「サイン帳」に、わざわざリクエストして、「科学する心」という文字と、人工衛星の絵を描いていただいた。家の中のどこかに残っているはずである。

 「科学新時代」を象徴するもののひとつとして「原子力の平和利用」がその頃盛んに謳われていた。放射線をあてるとガン細胞を退治できるとか、収穫した農作物が倍以上に大きくなるとか、その効用がいろいろと唱えられ、運転を開始したイギリスのコールダーホール原子力発電所や、平和利用とは云えないかもしれないが、アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が注目を浴びていた。そんなことを書いた本や雑誌を買い求めたり、図書館で借りたりして、それを材料に、社会科か何かの授業で「研究発表」をしたこともあった。

 その時、H先生によく調べたね、とお褒めの言葉をいただいた記憶があるが、のちになって、当時の「原子力平和利用」とはアメリカ政府のキャンペーンで、ビキニの水爆実験で日本の漁船員が亡くなったことに端を発して世界中に拡がりはじめた「原水爆反対」の世論の矛先を避けるためのものだった、ということを知った。また、その時に始まり、のちに全世界に拡がった「原子力発電」が現在、人類への大きな災厄の元凶となっていることを思うと、複雑な気持ちがする。

 6年生の時だったか、各クラスで男子のソフトボールのチームをつくって、放課後にクラス対抗の試合をするという催しがあった。そのチームの10数名のメンバーに私も応募したが、残念ながら選ばれなかった。試合当日、気になったので見に行ったところ、私よりは上手ではないと踏んでいたのに選ばれていた同級生が、三振や失策を繰り返すのを見て、その日の「連絡ノート」にその同級生を詰(なじ)るような書き込みをした。すると翌日、H先生から次のようなコメントが返って来た。

 「だれだって、失敗はする。でも練習を繰り返すことによってうまくなるんだ。君のくやしい気持ちはよくわかる。でもそれを他人にぶつけてはいけない。それは必ず自分に返ってきて、自分が惨めになるだけだよ」

 それを読んで、私はハッと思った。自分の顔がみるみる赤くなっていくのがわかった。

 後年、同窓会で久しぶりにH先生にお会いしたとき、君はたしか野球をやっていたよね、と云われて当惑した。野球部など、まったく縁がなかったからだが、あとになって、H先生の頭の片隅には、私についての記憶として、もしかして、この時の「連絡ノート」の書き込みが残っておられたのかもしれない、とふと思った。だとすれば... 思わず、冷や汗が流れるのを感じた。

 この同窓会は、私たちの還暦を記念したものであった。それ以前に、ずっと昔、高校時代と大学時代に1回ずつ同窓会があったが、その後、みんな就職するとバラバラになって、長い空白の期間がうまれた。還暦の数年前にもいちど案内のはがきが来たが、その頃はまだ、同窓会というものになぜか気恥ずかしいものを感じて、出席しなかった。何十年も経ってお互い変貌してしまった姿を見せあうことに、ある種の「怯み(ひるみ)」があったのだろう。

 しかし、その後、年齢を重ねるとともに、面の皮も厚くなったのであろうか、そんな繊細な羞恥心も薄まって、同窓会に対する「抵抗感」は少なくなり、思い切って出席してみた。

 すると、危惧していた、何十年ぶりに顔を合わせた瞬間の緊張感は一瞬のもので、すぐさま、半世紀前の自分たちに戻っていた。懐かしく、楽しい語らいに時を忘れるうち、散会の時間となり、世話をしてくれた何人かの幹事団の口から、1年置きにこの会を続けます、という宣言がなされた。

 私たちが1952(昭和27)年に入学した小学1年生のとき、教室が足りなかったのか、3教室を6クラスで使うという「二部学級」の形態だった。午前のクラスは、授業が終わると学校給食を食べて下校する。午後のクラスは、午前のクラスと入れ替わりに登校して、まず給食を食べてから授業があった。午前・午後は、たしか学期ごとに入れ替えがあったかと思う。その頃の授業の模様についてはまったく記憶に残っていないが、廊下にあった靴箱に、自分の他に、もうひとつのクラスの生徒の名前のシールが貼ってあり、その名前だけは今でも憶えている。

 2年生になると、「二部学級」は解消され、ここで6クラスから5クラスに再編成された。これが小学校時代唯一のクラス替えで、そのあとの5年間はずっと同じメンバーで進級していった。

 なぜクラス替えがなかったのか、その理由は判らない。子どもたちが落ち着いた学校生活を送るには、長い期間同じメンバーで親睦を深めた方がよいという判断があったのだろうか。しかし、もしそのクラスに馴染めなかったら、そこから逃れるすべはないというデメリットもあるので、2年毎ぐらいにクラス替えする学校が多いと聞くが、当時の私の小学校では、どんなポリシーがあってそういうことになったのであろうか。H先生のご生前に訊いておけばよかったかと思うが、それも後の祭りである。

 いずれにしても、5年間ずっといっしょだったということでクラス生徒の結びつきは強く、その、卒業から半世紀近く経った同窓会には、6年生の在籍48名中19名が出席していた。会場は母校の近くのレストランで、いまだにその地元に住んでいるものは男女合わせて4名しかいなかったにもかかわらずである。

 H先生は喜寿を迎えられたとのことで、さすがに往年の「美貌」の面影はなくなっていたが、うまく間を置いた巧みな話術はご健在で、水墨画をやっているとか、専門の、小学校の社会科の教科書の監修の仕事を今でもしている、などのご近況を語ってくださった。

 H先生は、その後、2年毎のクラスの同窓会には、毎回律義に出席してくださったが、前回2018年の時は、転倒して足を骨折されたとかで欠席された。だから、その前の、2016年、大阪梅田の阪急ビル内のレストランでの会がお目にかかった最後となった。

 その時のスピーチで、いま一番関心があるのは、大谷翔平選手が大リーグに行けば、一体いくらぐらい貰えるだろうかということだ、とおっしゃったのを憶えている。いつまでも、若々しい好奇心をお持ちだな、と一同感嘆したものだった。

 帰り道が途中までいっしょだったので、地下鉄御堂筋線の梅田駅まで送っていった。一応、杖は持っておられたが、それを使うことはなく、昔と変わらない細身のスーツをお召しになって、改札口を軽やかに通り抜けて行かれるお姿が見納めとなってしまった。


 ところで、担任がH先生に代わるまでの、2年生から4年生の3年間を受け持ってもらったのは、O先生という女性の先生だった。H先生より3歳年上の、大柄な、ハキハキとした口調の先生で、眼鏡をかけておられた。そのためか、私が2年生の頃から近視になりはじめたのにいち早く気づき、親に連絡して、眼鏡をつくるなどの処置をとるよう迅速にアドバイスしていただくなど、とてもお世話になった。たしか、最初は、I先生というお名前だったのだが、どういうご事情があったのか、苗字が変わり、校区内の瀟洒なお家にお子さんと住んでおられるということだった。

 このO先生も、クラスの同窓会にはH先生とごいっしょに毎回出席してくださった。その最初の会で久しぶりにお会いしたとき、先生の開口一番は、「あんたの奥さん、うちの孫の担任の先生なんやね。おなじ苗字やから、まさかと思ってたんやけど、ほんまにそうやと知って、驚いたわ」

 実は、私の妻は小学校の教師をしていて、たまたまその時、私の母校に赴任していた。その受け持ちのクラスにO先生のお孫さんがおられて、いちど、授業参観のときに、お母さんの代わりにO先生が来られたことがあった、ということは妻から聴いていた。

 O先生はそのあと2回ほど出席されたあと、来られなくなった。おからだの調子がよくないということだったが、なんどか町でお見かけしたときは、そうは見えなかった。しかし、毎年の年賀状も途切れ途切れになって、いつの間にか、その住所が介護施設に変わっていた。そして、今年の1月18日、「寒中見舞い」のはがきが届いた。お嫁さんからで、昨年8月7日に母が93歳にて永眠いたしました、とあった。

 ああ、H先生の前に、O先生も亡くなっておられたのだ。O先生に導かれるように、H先生も旅立っていかれたのだろうか。

 思えば、還暦を過ぎ、古稀を超えてもなお、小学校の恩師がご健在だったというのは、きわめて稀(まれ)なことだったのかもしれない。すでにまぎれもない高齢者である私たちも、恩師の前では、一介の洟(はな)垂れ小僧でしかなかった。その先生方を失った今、あらためて、自分の今の年齢を思い知らされるとともに、生きとし生ける、あらゆる生命に対する慈(いつく)しみの気持ちが込み上げてきた。




【自註】

 年が明けて届いた二つの訃報を手に、さまざまな思いが頭の中を駆けめぐった。小学校の時代は、私にとっては、いくらか記憶の美化作用が入っているかもしれないが、いわば、「夢のような黄金時代」だったので、いまだ微かに残っている思い出を掘り起こし、この際、文章にしておこうと思って書きはじめた。いちど、さっとスケッチのように下書きをし、しばらく時を置いて、色づけをしていくうちに、世界はいつの間にか「新型コロナウィルス」なるものに汚染されて、外出もままならなくなっていた。そんな中、ようやく脱稿、アップロードすることができた。いつもながらの、極く私的なエピソードにすぎないが、どこかで「普遍」に通じていることを願っている。 (2020.05.12)

 

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© 福島 勝彦 2018