人口問題


 コラムの練習《し》 人口問題



 「人口問題」といえば、昨今では、人口の「減少」が問題となっているが、以前はそうではなかった。私が学校で世の中のことを本格的に学びはじめた1950年代の半ば頃には、どんどんと「増加」していく人口がいつも問題となっていた。1955年の日本の人口は9007万人で、もし、1億人を超えるようなことがあれば大変だ、と云われていたように思う。ところが、それから半世紀あまり経った現在、日本の人口はいつの間にか、1億2800万人にまで達している。これはいったい、どうしたことだろうか。


 そもそも、人口の「増加」が問題となるのは、それに見合う食糧が確保できるか、という懸念があるからである。食べ物がなくては、人間は生きていけない。すなわち、食べ物がある分だけ人間は生きていけるので、人口問題は、「食糧問題」でもあった。

 専門家によれば、現在の日本の国土が産み出す農業生産物は、7600万人分が限度だそうである。なるほど、1920年から1940年にかけての日本の人口は、5596万人から7307万人で、何とかこの範囲に収まっていたが、それでも、将来を見越して、「食い扶持を減らす」ため、アメリカやブラジルなどに移民を送り出したり、「国土を拡げる」ため、朝鮮や中国を侵略していったのは、周知のごとくである。


 太平洋戦争中に激減した人口は、戦後、兵隊が復員したり、大陸などからの引き揚げ者が帰って来たりして、「ベビーブーム」が起こるとともに、急速に増加し、1950年には8411万人となって、7600万という「人口容量」を突破してしまっている。当然、食糧は不足してくるはずだが、どうしたかといえば、足りない分を外国から輸入して、その代金を、工業製品を輸出したお金で支払ったのである。

 高い工業製品を売って、安い農産物を外国から買う、という構図が出来上がり、もはや「人口容量」を気にしなくてもよくなった結果、人口は急激に増えて、1985年には、1億2000万人を突破するまでになった。


 5年ごとに行われる「国勢調査」のデータを見てみると、「第一次産業」の中核を担う「農業」人口は、戦前の1920年から1940年まで、ずっと1300万人台だったのが、戦後の1950年に1636万人にまで増えたあとは減少に転じ、以後5年ごとに、1506万、1326万、1098万、940万、669万、547万、485万、391万、346万と減っていって、2000年には285万人と、6分の1近くにまでなってしまっている。

 一方、「第二次産業」の中心の「製造業」は、戦前、446万人~686万人レベルだったのが、1955年に691万人と「復興」したあとは、以後5年ごとに、957万、1172万、1371万と鰻上りに増えていった。

 おもしろいのは、農業人口と製造業人口の和が、ほぼ2200万人台と一定になっていることで、この数字は、農業から製造業へと産業構造が転換した、いわゆる「高度成長」経済の姿をよく表している。

 もっとも、製造業人口の伸びも1371万人だった1970年あたりで頭打ちして、1990年の1462万人をピークに減少しはじめているが、その分「建設業」人口が増えているので、「第二次産業」全体の数は2000万人前後と変わっていない。


 では、戦前の7000万人台の総人口が1億2000万人台まで膨れ上がった、その分はどこに行ったのかといえば、電気、ガス、水道、運輸、通信、卸売り、小売り、飲食、金融、保険、不動産、サービス、公務などの「第三次産業」である。

 戦前は、600万人台~900万人台だったのが、戦後の1955年に1405万人になったあと、(以後5年ごとに)1680万、2096万、2451万、2752万、3091万、3344万、3642万、3964万と増える一方で、2000年には4048万人、総就業人口の、じつに64%を占めるまでになっている。

 一方、「第一次産業」の就業者比率は、1920年が54%、戦後の1955年でも41%であったのが、1960年以降は急減して、2000年には5%にまで落ちてしまっている。先に述べたように、農業人口は、1636万人から285万人に減っていて、もはや「農業国日本」の面影はまったくなくなってしまった。


 ほとんどの日本人にとって、食糧=農産物は、「つくる」ものではなくて、「買う」ものとなり、人口問題は「食糧問題」ではなくて、「経済問題」となった。すなわち、人々は、「食糧を消費する」存在というより、「ものを買う」存在となり、その数(=人口)が多いほど、経済活動が活発になる、とみなされるようになった。それが、「人口容量」を無視して、その1.5倍以上の人口の国になってしまった大きな要因であろう。


 世界最大の13億の人口を擁する中国は、人口増加に歯止めをかけるために、1979年、「一人っ子政策」を導入した。

 「夫婦2人に子ども1人」を強制し、2人目の出産には罰金を科すという強引な政策で、罰金を嫌って、出生届を出さずに「無戸籍」になる子どもが大量に発生したり、一人っ子で甘やかされて、わがままになってしまう「小皇帝」が続出するなど、問題点が多く指摘されてきたが、昨年(2015年)11月に、やっと廃止された。

 人口抑制には効果があったようで、出生数が減り、その結果、若年労働力の不足と消費購買層の先細りが問題となってきたからである。ここでも、人口問題はいつのまにか、「食糧問題」から「経済問題」に移ってきていた。


 ところが、「悪政」の典型とされていた「一人っ子政策」が廃止されて、中国国民は歓迎しているかといえば、あに図らんや、反応は鈍く、二人目の子どもを望む夫婦は少ないらしい。「物価は高い。給料は上がらない。食べ物も空気も心配だ。こんな世の中に、自分の子どもは生まれてきてほしくない」「自分の収入では家も買えない。子どもの前に、結婚できるかどうかが問題だ」とのこと。

 「改革・開放政策」が成功して、経済が大きく発展し、国民全体が豊かになっているはずなのに、子どもをそれほど望まないのは、どうしたことだろうか。


 一人の女性が一生に産む子どもの平均数を示す「合計特殊出生率」というのがある。この数字が2(出産可能年齢以下で死亡する女性もいることや、生まれてくる子どもは男性が若干多いことを勘案すると、正確には、2.07が指標となるとのこと)であれば、人口は横ばい、上回れば「自然増」、下回れば「自然減」となるのだが、中国ではこの数字が、1970年には5.80だったのが、2010年では1.77にまで下がっているという。

 これはあきらかに「一人っ子政策」が奏功したためと思われるが、しかし、「一人っ子政策」などとは無縁であった日本でも、戦後のベビーブームの1947年には4.54だったのが、3.65(1950年)、2.37(1955年)、2.00(1960年)と、どんどん下がっていき、1975年以降はコンスタントに、2を下回って、2014年には、1.42にまでなっている。これはどうしたことか。


 「貧乏人の子だくさん」という言葉がある。貧乏人の方が裕福な人よりも、かえって子どもが多い、という意味だが、貧乏で、栄養状態や医療環境がよくないと、子どもが早死にすることが多く、そのリスクを考慮して、多産になるのだそうである。

 かつての日本や中国はまだ貧しかったので、「多産多死」の状態だったのが、その後、経済が発展して、裕福になってくると「少産少死」となって、「合計特殊出生率」が下がったのであろう。

 では、収入が少ないから子どもも持てない、という現代よりも、ずっと貧しかったはずの当時、なぜ、そこまでして子どもをたくさん産んだのか?

 

 それは、家族の労働力として、子どもが是非とも必要だったからである。

 日本でも「多産多死」の名残があった1950年代末頃までは、両親と子どもの他、父方の祖父母の三世帯が同居する家族が普通だった。その後、都会を中心に、二世代までの「核家族」へと変身していくのだが、それは、戦後の民法改正によって、戦前の「家制度」が崩れたのがきっかけになったといわれている。


 しかし、いわゆる「家制度」の家とは、単に「住むための」家ではない。「家」は、同時に、生産の場であり、経済活動をおこなうひとつの単位でもあった。

 例えば、農家における「家」は、田畑を持ち、そこから毎年確実に収穫(収入)を得る、「自営事業」の組織であり、その長たる「戸主」は「経営者」、他の家族は「従業員」に当たる存在だった。だから、その成員を統率し、管理する役目を持つ戸主が、「働き手」の確保のために、家族の「婚姻」にまで口出しする権限を持ったのにも、合理的な根拠はあったといえる。


 その構造は、商業や工業においても同様であったが、「産業革命」以後は、家族単位で自営する「家内業」は成立が難しくなり、その家族の面々は、家で働いて「衣食住」を提供されるのではなく、もっと大規模な「企業体」の従業員として勤務し、そこから給料をもらう存在となっていった。


 もはや、家が「事業」の場でなくなると、戸主を中心とした「家制度」は無意味になってくる。まだ若いときは、家に住んで、衣食住を保証してもらいながら、外で働いて給料をもらい、場合によってはその一部を家に納める、というようなことをしていても、いざ結婚すれば、「狭小な」親の家を出て、自分の家庭を持つ、というのが普通となっていった。


 それまでは、家の労働力であり、自分が老いたら、養ってくれる存在だった子どもも、いずれは独立して、自分から去って行く存在であれば、あえて、たくさんつくる必要もない、と思うのは自然だろう。

 「家の血統を存続させる」ということも大事だが、でも、継承すべき「事業」や「大邸宅」でもない限り、それは「観念」でしかなくなっていて、それを守るか否かは各人次第ということになれば、いろんな負担を背負ってまで、たくさんの子どもを育てることもあるまい、あるいは、そもそも、面倒な「結婚」自体も、とくにしたいとは思わない、という者が出てきても不思議ではない。民法の改正はこうした現実を、「法的に承認」したにすぎないといえるだろう。


 「家」が経済活動の場であった「農村」から、都会に出て、「勤め人」となった瞬間から、このような生活スタイルになっていくのは、自然の流れだった。そして、都会で働く方が、農村よりもずっと大きな収入が得られるとあっては、そんな生活が、それまでの農村の不自由な「封建的」生活からの解放と映って、人々はどんどんと都市に流れ込み、ついには、農業従事者を過半数から5%にまで激減させてしまったのであろう。


 ただ、こういう流れにも限界はある。都会の人口はますます過密になり、快適な住環境を得るのはどんどん困難になっていった。

 住みよい家が手に入らないのなら、せめて、車の中だけでも豪華に、と、狭いアパートに住みながらも、自動車だけは立派なものを手に入れて、休日に、恋人や家族を乗せて、洒落たドライブを楽しむ、というようなかたちで、何とか「幸せ」を満喫しようとしたりした。しかし、そんな、ささやかな「幸福」にも限界が来る。


 工業製品を輸出したお金で、食糧を安く輸入して、「人口容量」の1.7倍もの人口を養ってきた、その肝心の工業製品がだんだんと売れなくなってきたのである。

 本場のアメリカから自国製の「電化製品」を駆逐してしまった日本の家電メーカーが、今度は、後発の、韓国や中国のメーカーに追い落とされるようになってきた。

 かつて、欧米で「お土産品」を買って、よく見ると、Made in Japanと書いてあった、というエピソードがよくあったが、今では、日本国内の日用品のほとんどに、Made in China とか Korea とか、その他のアジア諸国の銘が入っている。


 「グローバル経済」という名のもとに、全世界から安価な労働力が集められるようになってきた。

 それは、人は動かさずに、現地に工場を建てるというかたちで実施され、それにともなって、日本国内の労働力も安く買い叩かれるようになり、不安定な「非正規」の地位にまで落とされた若年労働者は、せめてもの贅沢だった自動車さえ買うことができなくなってしまった。


 総体的な賃金低下は、当然、国民の購買力を低下させる。

 1960年代以降の「高度成長」を支えてきたのは、外国への輸出の増大だけではなく、人口増加と賃金上昇によって増大してきた、国内の購買力も大きかった。つくったものが、国内でもどんどん売れたのである。それがまた、さらなる賃金上昇を招き、ついには、国民の大多数が「中産階級」を意識するまでになった。


 でも、それも、いまや「むかしばなし」である。思えば、製造業人口が、1970年頃に頭打ちし、1990年以後減少に転じたあたりに、その兆候はあらわれていたのだろうか。

 その頃、ながらく「不況」に苦しんでいたアメリカ経済がようやく、そこから脱却しかかっていて、その要因は、賃金切り下げによる「コストカット」に成功したからだ、という記事を、英字新聞で読んだことがあった。

 まだ、「バブル景気」に湧いていた頃だったので、そんなことがありうるのか、と信じ難かったのだが、バブルが崩壊したあと、いつのまにか、日本もそうなっていた。


 コストカットによって業績を回復した日本企業は、痩せ細った国内市場よりも、よりいっそう外国輸出に頼るようになった。その対象は、「消費景気」に湧くアメリカであり、経済成長著しい中国であった。

 そこでの、他国との競争に勝つために、ますますコストカットは徹底され、それを支援する労働法規の改悪によって、国内の労働条件はさらに悪くなり、企業が儲かっても、その果実は株主や内部留保に廻されて、実際に製品を製造している人々にまで届くことはなかった。

 その場限りの「非正規」労働では、安定した未来は見えてこない。そんなところで、結婚、出産なぞ考えられないのも当然だろう。


 このように、現在の日本の人口減少は構造的なものなので、いまさら、小手先の手段を弄しても、人口増加に転じさせるのは不可能である。

 今後、人口は着実に減り続け、「国立社会保障・人口問題研究所」の予測によれば、2030年には1億1522万人、2060年には8674万人まで減少するという。

 とすると、そのように人口が減っても、それに耐えられるような構造の社会につくりかえるしかない、と云えよう。


 これまでの日本経済は、「大量生産・大量消費」をものづくりの基軸としてきた。たくさん売るために、品種をしぼり、コストを下げて、「薄利多売」をめざすというやり方で、その「安さ」を競争力に、外国メーカーに打ち勝ってきたのだが、今は、その同じことを、さらに安い労働力を持つ、後発の国々の企業にやられてしまっている。

 であるならば、方向を変えて、「多品種少量生産」で、付加価値をたくさん持った「上等」な製品を開発し、それを売るというように転換してはどうだろうか。


 「上等」な製品を開発するには、「上等」な人材が必要となる。それなりの技術と識見と、そして、深い「文化」を合わせ持った従業員は、「非正規」の使い捨て雇用からは生まれない。安定した地位と待遇を与え、時間をかけて育成しなければならない。

 実際にものをつくる者が、やり甲斐を持ち、楽しみながら仕事をして、それに見合った収入を得られる、という環境が必要だ。

 「腕のよい職人」という言葉があったが、現在の新しいテクノロジーの世界で、それに当たる人材を育て持つ企業が、これからの時代に生き残って行くのではないだろうか。


 また、国内の購買力の回復も必要だ。そのためには、いまや広がる一方の「富」の格差を是正していかねばならない。


 単純な例で、考えてみよう。

 いま、従業員10名で、年間1億円の収益のある企業があるとする。この収益のうち、7000万円を経営者が取り、残りを従業員で分ければ、1人300万円となる。

 その従業員に家族もいるとすれば、その給料はかなりギリギリのレベルで、ほぼそのすべてを費消しなければ生活していけないだろう。

 一方、7000万円を手にした経営者一家は、(そういう経験はないので、単なる想像でしかないが)いかに贅沢をしようとも、コンスタントには、年間、その半分を使い切るのが精一杯ではないだろうか。とすれば、残った3500万円は消費に使われずに、貯蓄や投資に廻されることになる。


 どうせ使い切れないのであれば、経営者の取り分を4000万円に減らし、従業員に600万円ずつ分け与えてみよう。そうすると、どうなるか。

 従業員家族は、これまで買いたくても買えなかったものが買えるようになり、それらを買って、貯金も必要だからと、100万円を貯蓄に廻すとしても、各人が500万円で、合計5000万円、それに、経営者の分も加えれば、総計8500万円、以前と比べれば、2000万円も消費が増えることになる。


 ものがたくさん売れて、お金がどんどん流通すれば、景気がよくなる、というのは経済の大原則である。

 1億円の収益の分配率を変えることによって、これまで使われずに死蔵されていたお金が市場に廻り、巡り巡って、自分たちのつくったものがもっと売れるようになって、1億円以上の収益をもたらすようになるのだから、これほど好いことはことはないだろう。


 ところが現在、世の中は逆の方向に進んで、「持てる者」はますます富をかき集め、無用に巨大な収入を得ている。

 でも、その額がいくら巨大であろうとも、もし、彼らが、それをきれいに使い切るならば、経済は好調に動いていくだろう。


 むかし、江戸時代の初期、政略結婚で後水尾天皇に嫁した、二代将軍徳川秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)は、徳川幕府と対立していた夫から疎まれて、23歳で事実上の「隠居」に追い込まれ、以後、その寂しさを紛らすために、72歳で亡くなるまで、「衣装狂い」をして、それを生き甲斐としていたという話がある。

 実家の徳川家の財力を背景に、晩年に、半年間で、現在のお金に直して、1億5000万円もの大金を衣装代に費やした記録が残っているそうだが、生涯の総額は50億円に達したとも云われている。


 もちろん、その膨大な衣装を自分一人の身に着けたのではない。季節の折々に、自分の親族や、他の皇族に贈ったり、宮中に仕える人々に下賜(かし)したりしたそうである。

 その結果、それまで、「十二単(じゅうにひとえ)」しか着なかった宮中に「小袖(こそで)」を着る習慣ができ、また、和子が次々と注文するアイデアやデザインに応えるため、絹織物の技術が発達し、その流行が民間にまで波及して、日本の「呉服文化」が花開いたともいわれている。

 さらに、当初は大陸から輸入するしかなかった「生糸」が、のちには国産されるようになり、それが発展して、明治、大正、昭和の日本経済を支える大きな輸出資源になったということである。


 贅沢もそこまで行けば、経済に大いにプラスになるのだが、残念ながら、現在の「富豪」たちにはそこまでの根性もないだろう、というより、余程の「才能」のある人物でもない限り、彼らが現在手にしているような「大金」を使いきることは不可能なので、大勢の人間に手分けして「使ってもらう」しかない、ということなのである。


 また、人口が減って、「人口容量」の数字に近づいていけば、もはや、外国から「安い」農産物を無理に買う必要もなくなる。

 「大規模化」の掛け声のもと、過度の機械化をしたために、その「燃料費」の捻出に追われる、という倒錯的な事態を脱して、「農薬」や「遺伝子組み換え」の心配のない、安全で、おいしい農産物を、「多品種少量生産」で丁寧につくっていく、という小規模で、家族経営的な農家が息を吹き返し、それが、近代的な「流通システム」によって、全国的な販路も持つということになれば、農業も見直されて、農村へ戻ってくる人々が増えていくようになるかもしれない。


 要するに、2060年に8600万人台の人口になるということは、60年前の水準に戻るということだから、当時の社会のあり方を参考に、といっても、いまさら元に戻ることはできないので、現状とうまく融和したかたちで、一種の「昔がえり」の、産業構造の転換をやっていくことになる、と云えばよいのだろうか。


 それは、現在もてはやされている「グローバル化」の逆を行く方向で、「自給自足」や「小規模」というのがキーワードになりそうだが、災い転じて福となす、案外、いい世の中になるのではないか、という予感がする。

(完)



参考図書: 

       『日本人はどこまで減るか』(古田隆彦) 幻冬舎新書

   『江戸時代』(大石慎三郎) 中公新書




【自註】

 ああ、じつに、1年4ヶ月ぶりの更新となった。すこし長い「充電期間」といえば、聞こえはいいが、こころのどこかでは、自分には、もう書くことがない、もはや「鉱脈」は枯れてしまったのではないか、という気がしていた。べつに、それを職業としているわけではないので、書けなくなっても困ることはない。世の中には、おもしろい本がたくさんあって、本屋や図書館でそれらをみつけて読めば、残りの余生、十分に楽しむことができるではないか、と自分に言い聞かせつつあった。

 そんな私に、「何を云ってるんですか!」と、喝を入れてくれたのは、昨年(2015年)末の、早世した大学時代の友人の七回忌の席だった。

 その人は、亡くなった友人がかつてアルバイトでしていた学習塾の生徒で、その当時、私が友人たちといっしょにやっていた同人誌「光芒」の読者だったという。「私がはじめて文章を読む楽しみを知ったのは、あなたの文章を読んだからです」

 彼は、そんな、耳を疑うような、過分のことばを、私にくれたのだ。なまじ、お世辞とも思えなかった。その前の3回忌のときに、このホームページのアドレスを伝えてあったのだが、「もちろん、全部読みました」とのことだった。

 無名の私にも、こんな「ファン」がいたのだ、と、私は、寝ぼけたことを考えていた自分を恥じた。そして、書き出したのが、この文章である。

 実は、この題材はすでに、1年4ヶ月前に準備していたものだった。その後の「充電」期間を経ても、それを上回るものは出てこなかったということになる。あるいは、ひとつ片づけなければ、次には進めないような「性向」が自分にはあるのかもしれない。

 結局、書きたいことは、「充電」などではなくて、書きながらしか、生まれてこない、ということであろうか。とにかく、書いた文章を何度も読み返し、こつこつと手を加える作業を久しぶりに楽しめたのは確かだった。


 「コラム」というには、長すぎる、このシリーズだが、他所(よそ)にはない「切り口(視点)」がどこかに、すこしでもあるように、とは、こころがけている。それが独りよがりでなければ、幸いである。 (2016.1.21)


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