悪人正機




【コラムの練習】



《あ》 悪人正機(あくにんしょうき)





 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。


 言わずと知れた、浄土真宗の開祖、親鸞の有名なことばである。おそらくだれもがそうだろうが、最初聞いたとき、これは逆ではないかと思った。悪人でも死んで極楽浄土に行けるのなら、善人が行けるのは当然だ、の間違いではないのか。


 ただ、それでは当り前すぎておもしろくない。平凡なのである。そもそも善人なんて、平凡すぎておもしろくないではないか。

 若いときは往々にして、そう考えがちで、たちまち頭の中に、「善=平凡」「悪=非凡」という図式が出来あがった。平凡な善人が極楽往生できるのなら、非凡な悪人ができて当然。なるほど、凄いじゃないか。「美徳の不幸、悪徳の栄え」を唱えた、あのサド侯爵にも通じるのではないか。


 若者には、〈善人〉というものが信じられず、それは「偽善」に違いない、とその仮面を剥がしたがる。うわべは、善人ぶっていても、ひと皮めくれば、人間、何を考えているか分かったものじゃない。

 そして自分はそれに反発するように、殊更に「悪ぶって」みる。ときには、本当に「悪いこと」をしてみたり、あるいはそれに憧れたりする。どうせみんな、内心では悪いことをしたくてたまらないのに、それを我慢して、善人ぶっているだけではないか。自分はそんな偽善者はいやだから、素直にその本心をあらわにするのだ。だから、そんな「正直」な〈悪人〉こそ、いちばんに極楽往生できるのだと看破した親鸞とは、ほんとうに凄い思想家ではないか。

 

 それから二十年後、父親が亡くなった時に、その納骨のために大阪御堂筋にある本願寺の別院を訪れ、そこの売店で『歎異抄』を見つけた。わずか48ページの文庫本の小冊子である。買い求めて、さっそく問題の箇所を読んでみた。



歎異抄(第三條)


一。善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この條一旦そのいはれあるににたれども本願他力(たりき)の意趣にそむけり。

 そのゆへは、自力作善(じりきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀(みだ)の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足のわれらは、いづれの行(ぎやう)にても、生死(しやうじ)をはなるゝことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。



 自分が以前思い込んでいたものと、まったく違っていて、驚いた。あえて要約してみると、


 世の人は、悪人でも極楽往生できるのなら、善人ができて当然だ、と言うが、それは「他力本願」の趣旨に反している。なぜかといえば、善人はもっぱら自分で努力し、自ら悟りを開こうとするので、そのとき、他力(=阿弥陀さま)に頼るこころがおろそかになって、往生できないからである。そんな善人でも、考えを改めて、他力を頼るようになれば、極楽浄土に往生できる。

 さまざまな煩悩を抱えているわれわれは、どんなに努力しても悟りを開くことはできないので、(自力では成仏できない)そんな悪人を憐れんで、阿弥陀さまが願を掛けてくださったのだ。だから、そのように、はじめから他力を頼るしかない悪人こそが純粋に他力本願の趣旨にかなっている。ゆえに、善人でも往生できるのなら、悪人ができて当然、と言えるのだ。


 いわゆる「悪人讃美」ではなかった。

 ここでいう「悪人」とは、さまざまな煩悩を抱えて、「他力」にすがるしか往生できない、いわば、ごく普通一般の人間を指している。それに対して「善人」とは、そのような人間の「分際」を忘れて、どんなことでも自分が努力すれば何とかなる、と思っている人間で、ここではその「思い上がり」がとがめられている、といえるのである。


 「不条理」といういかめしいことばは、フランス語ではabsurde(英語ではabsurd)で「ばかげた」という意味もあり、その世界には「空想」か「忘却」しか出口がない、ということばを、かつて、アルベール・カミュの『ペスト』を論じた小林秀雄の文章で読んだことがある。この世に存在する、どんなに頑張ってもどうしようもないことに対する「対処法」として、「他力本願」とどこか似たものを感じる。


 世の中の「不正」や「不平等」に対して、「あきらめろ」とか「神仏にすがれ」と言えば、それは、「体制」の権力者の思うつぼで、まさに、「宗教は麻薬だ」といわれても致し方がないが、、そうではなく、個々の人間の抱えるもっと根源的な問題、例えば〈死〉ということについては、それが当てはまるだろう。


 〈死〉は人間にとって、永遠の謎である。なぜなら、人間は生きている限りだれも〈死〉を体験できないし、〈死〉を体験した人は、もはや〈死〉について語ることはできないからである。だれもがいつか体験するのに、それがどんなものか分からないというのは限りなく不安だから、人間は想像力でそれを克服するしかなく、そこに〈宗教〉の存立する基盤があるともいえる。

 冷静に考えれば、死ぬということは、自分がなくなるということで、それは具体的には、今、〈世界〉を見ている自分の〈感覚〉や〈意識〉が一瞬にして消えて、真っ暗になってしまうということであろう。〈世界〉とは、自分にとっては、今、自分が感覚したり、意識したりしている世界に他ならないから、それが消えてしまうということは、〈世界〉の終わりでしかない。

 しかし、自分にとって〈世界〉は終わったとしても、一方では、自分を含まない〈世界〉は厳然として存在し、着々と時間を刻んでいる、というのも、他人の死を体験したことを通して周知している事実である。


 もはや自分が存在しない〈世界〉がその後も続いて存在している。それは、例えていえば、長年勤めた会社を定年で辞めたあとでも、その会社は何ごともなかったかのように続いている、というのに似ているかもしれない。その場合、自分は前とは少し異なった次元から、その会社を眺めたり、その噂を耳にしたりしているわけだが、自分が死んだあとも、そんな「死後の世界」という異なった次元がはたしてあるのだろうか?

 そんなものはない、まったくの〈無〉に帰してしまうのだ、と「理性」が言っても、いざその場に臨んだときに、「感情」がそれを納得して受け入れることができるだろうか。

 そんなとき、嘘でもいいから、どこかで見たり聴いたりした「極楽」とか「天国」という世界をイメージして、そこに向けて一心不乱に「念仏」したり、または「お祈り」することによって、少なくとも、こころの〈安らぎ〉は得られるかもしれない。


 親鸞の「他力本願」の教えは、そんな〈安らぎ〉へと私たちを導いてくれるとともに、この世界の根本が私たちにはどうにもならない〈不条理〉なもので、「他力」にすがるしかないものだ、ということを示しているともいえるだろう。

(2013.4.24)



【自註】

 じつに1年ぶりの更新になってしまった。しばらく書くことがなくて、読むばかりになっていた。「充電」といえば体裁がよいが、わざわざ自分が書かなくても、世の中にはいっぱい面白い読み物がある、という当たり前の事実に気がついただけかもしれない。でも、そんな「受け身」だけになってしまってはいけない、と心に鞭打って、再開を期してきたが、使わぬ刀はすぐに錆びつくもので、思わぬ時間がかかってしまった。

 題材は、新シリーズとして「コラムの練習」。これまで何となく気になってきたことを、当初は「あいうえお順」のタイトルでコラム風にと考えていたが、そんなにネタがあるわけもなく、順番はランダムということでご勘弁を。また、途中で、別のシリーズが割り込むかもしれない。とにかく、今は軌道に乗せることがだいいちということです。(2013/4/24)



目次へ




© 福島 勝彦 2018