図書館

    

  コラムの練習《と》 図書館 



 「におい」は記憶を喚起する、と云われるが、その逆もまた真なのだろうか。私の場合、黴(かび)臭い、どこか蝋(ろう)を含んだような「におい」の記憶がかすかにあって、それは、むかし通っていた小学校の、図書館の「におい」であった。

 その建物は、教室などのある「校舎」から、屋根つきの渡り廊下によってつながれた、平屋建ての別棟だった。大きさは、教室の二倍程度だっただろうか、窓の内側にはすべて、薄黄色く変色したカーテンが掛けられ、扉にはいつもカギがかかっていた。

 その後、この小学校全体が別の場所に移転してしまったため、その建物は、私の記憶の他には、卒業アルバムに載った僅かな写真しか、今はない。そこでは、同級生たちが、机に本を拡げて読書するポーズをとっているが、実は、そのような機会はほとんどなかった。年にせいぜい数回、「調べ学習」のために入るぐらいで、とくに低学年の時には、その建物が何のためにあるのかよく理解できず、その独特の「におい」とともに、なにか不可思議な、不気味なところ、というイメージさえもっていた。

 のちに、毎週土曜日の放課後に開放されて、自由に本を借りることができるようになった。それは、学校の方針が変わったのか、それとも、「高学年」特有の権利だったのか、よくわからないが、毎週、それが楽しみで、給食のない土曜日の、遅い時間の昼食をひとりで食べながら、借りてきた本をむさぼり読んだのを憶えている。

 その頃、担任の先生に云われて書いていた「読書ノート」が1冊残っている。なかみは随分ずさんな記述で、学年不明のある年の12月から3月までの、読んだ本のタイトルと、感想や内容紹介が数行ずつ書かれたあと、途切れてしまっている。

 そこには、読んだ本として、「世界の地理」や「日本の歴史」に関するもの、少年少女世界文学全集の『アラビアンナイト』『ガリバー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』なども記載されていたが、それよりも圧倒的に多かったのは、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」、モーリス・ルブランの「怪盗ルパン」、エドガー・アラン・ポーの「怪奇小説」を子ども向けにリライト翻訳したもの、そして、江戸川乱歩の「怪人二十面相」シリーズなどであった。

 卒業アルバムの写真を、目を凝らしてよく見てみると、図書館の書棚に並んでいるのは、箱に入った、分厚い「百科辞典」や、地理や歴史の「図説事典」、シリーズ物の「全集」ばかりが目に付いて、小学生が好みそうな、童話や読み物の単行本は少なく、また、本棚に空きがたくさんあるのが目立っていた。だから、私の好んだ、ミステリーなどの読み物は図書館ではなく、たぶん、町の「貸本屋」、もしくは、たくさん本を持っていた同級生らから借りたものだったと思われる。


 中学校に入ると、「図書館環境」は劇的に変わった。その中学校は歴史が新しく、創立してまだ5年目であった。もっとも、戦後、焼け跡の中に、新制中学校が生まれたのがその6年前の、1947年(昭和22年)のことだから、五十歩百歩だったかもしれないが、それにしても、小学校にもあったプールはもちろん、講堂や体育館もなかった。だから、入学式や卒業式は、校庭に教室の椅子を運んで並べた、青天井の下で行われていた。雨が降ればどうするつもりだったのだろうか、と思う。

 しかし、それを補うためか、一点豪華主義的に、図書館だけは立派だった。平屋の独立した建物は普通教室の3倍以上の大きさはあっただろう。卒業アルバムの写真を見てみると、6人掛けのテーブルが整然と配置され、壁には高くまで本がぎっしりとつまっていて、その上には、明かり取りと空気抜きの回転窓が並んでいた。写真には写っていないが、南側には、たしか、藤棚のあるテラスがあって、そこにもテーブルが置いてあり、その向こうには大きな桜の木があった。

 石段を三段のぼって正面入口から入ると、左側にカウンターがあって、そこにはいつも中年の女性の司書がいた。小学校の時とは違って、図書館は朝の10時頃から、夕方の5時頃まで開いていたので、放課後には、かばんを抱えた上級生たちがやって来て、三々五々、テーブルに座って、本を読んだり、勉強をしたりしていた。

 私たち1年生の校舎は、その図書館のすぐ隣にあったので、休み時間ごとに中に入って、本棚の本を眺めることができた。生徒手帳の中に、図書の貸出しのページがあったが、そこがいっぱいになって、表紙の裏に、何枚も追加の用紙が貼られるほど、たくさんの本を借りて読んだ。

 そんなにたくさん、どんな本を借りたのか、ほとんど憶えていないが、小学校の図書館にはなかった、海外のミステリーをやさしくリライトした全集本がたくさんあって、それらを、友人たちと競うように読んでいたように思う。コナン・ドイルやルブラン以外の、エラリー・クイーン、ディクスン・カー、ヴァン・ダイン、アガサ・クリスティーといった作家を知ったのもこの時だった。

 中学校の校舎は、グランドの周りに、L字型に建てられていて、そのLの一番端のはずれに図書館があったのだが、そこから順に、1年生、2年生、3年生の各校舎が並んでいた。つまり、学年が上がるにつれて、図書館からは遠ざかる、という構造になっていた。そのせいか、あるいは、近づいてくる「高校受験」の重圧のせいか、図書館で本を借りる回数はその後どんどんと減っていき、かつて、生徒手帳に追加の用紙を何枚も貼っていたのが、嘘のようになっていった。しかし、そんな、たぶん、3年生の頃だったが、図書館で1冊の本に出会った。

 それは当時、筑摩書房から刊行されていた「世界ノンフィクション全集」のうちの1巻で、その中に、『神々が愛でし人』という、とある数学者の伝記が入っていた。その名は、エヴァリスト・ガロア。

 おそろしく、暗い、悲しい物語であった。主人公は数学の才能に恵まれていたが、それをだれにも認めてもらえず、進みたい大学の試験には二度も失敗、入学した別の大学でやっと、理解してくれる数学教師に出会う。その先生に勧められて、論文を執筆、アカデミーに送付するが、その原稿は二度も紛失の憂き目に遭う。折りしも、ナポレオン失脚後の混乱するフランス政局の中で、共和制を求める運動に参加、投獄されたりする。自暴自棄になった挙げ句、「決闘」に巻き込まれ、20歳で命を絶たれてしまった。しかし、その決闘の前日、夜を徹して書いた数学論文が、その後、数十年を経て、やっと認められ、それが、その後の数学の歴史を大きく変える大発見となった、という話だった。

 その不条理な最期とともに、わずか20歳で、世界を変えるような大発見をしたという、その天才が、私に大きな衝撃を与え、その後、図書館で、数学者の伝記を読みあさるようになった。

 ガロアの他にも、不遇のうちに27歳で亡くなった、ニールス・アーベルという数学者もいた。当時、話題になっていた、方程式の解法について、五次以上の方程式には一般的な解法はない、ということを証明したのがアーベルで、どんな場合なら解けるかを解明したのがガロアだということも知った。さらに彼らより上の世代の巨人・ガウスや、「フェルマーの定理」をめぐるエピソード、遡(さかのぼ)って、パスカル、デカルト、ニュートン、さらには、古代ギリシャの、ピタゴラス、アルキメデス、と、数学の歴史に関する本を次々と読みまくった。

 ただ、それぞれ、ユニークな特徴を持った彼らの人生や、個性的なエピソードに胸をワクワクさせながらも、彼らが大発見した数学の業績がどんなものだったのか、にまでは、関心は拡がっていかなかった。というより、いろいろ数式が出てきたりすると、当然、中学生の手には負えなくなってしまう。

 当時、図書館に、ホグベンという人が書いた『百万人の数学』という、上下二巻本が並んでいた。パラパラめくってみると、数学の歴史に沿って、それぞれの理論や公式などをていねいに説明してあったようだが、まだまだ無理だと、借りようとも思わなかった。それでも、ある日、近所の古本屋で、『歴史的にみた数学概論』(岩田至康著)という、よく似た本を見つけて、それを買った。その時、古本屋のおじさんに、こんな難しい本、読めるの? と云われたのを憶えている。「まえがき」に、新制大学初年級程度の諸君を目標とした本である、とあったので、確かにそのとおりだったが、私は、数式の部分は跳ばし、数学者たちのエピソードの箇所だけを拾い読みして、楽しんだ。この本は、なんどかの「処分」をかいくぐって、未だに本棚の片隅にあるが、数式の部分は未だにわからないままである。


 あまりにも肉体的な成長が早い時期だったためか、強い体臭の、殺風景な印象しかない中学校の思い出の中で、図書館は唯一、オアシスのような潤いを与えてくれるものであった。しかし、高校では逆であった。

 私が入学した高校の図書館は、校舎棟とは別の、鉄筋三階建ての「同窓会館」の中にあり、一階が書庫、二階が閲覧室になっていた。グランドを見渡す大きな窓の、明るい閲覧室には、大きな机が並び、放課後、大勢の生徒で賑わっていたが、本棚は少ししかなかった。そこにあるのは、辞書や事典類ばかりで、あとは、雑誌や新聞があるだけの、要するに「自習室」だった。

 肝心の本は、下の「書庫」の中にあった。その外にずらりと並んだ、長ひきだしの「図書カード」を繰って、本を探し、その書名を用紙に記入して、司書に渡すと、書庫から本を持ってきてくれるという、「閉架式」になっていた。

 中学時代のゆったりとした「開架式図書館」に慣れた者にとって、この方式は、まるで、大きな関所の前で足止めを喰らったような気がした。もともと何かに興味があって、それに関する本を探す者ばかりではあるまい。ずらりと並んだ本を手に取り、それをパラパラとめくることによって、新しい興味が湧いてくることもあるだろう。中学、高校ぐらいの年齢ではその方が多いのではないだろうか。

 タイトルに惹かれて、スタンダールの『恋愛論』という本を借りたことがあったが、書庫から出てきたのは、大判の分厚い「文学全集」の一巻で、中を開けると、三段組みの文字がぎっしりと詰まっていて、もうそれだけで読む気をなくしてしまった。


 以後、学校の図書館には足が向かなくなり、本は自分で買って読むしかないのか、と思うようになった。そんなとき、「世界の文学」という、世界文学全集が、中央公論社から刊行されはじめた。

 文学全集といえば、当時、筑摩書房の「世界文学体系」に定評があったが、この「世界の文学」は、「挿し絵」と「新訳」を売り物に、刊行前から新聞や書店などで大宣伝していた。そんな宣伝の一環だったと思われる「文芸講演会」が大阪でも催された。当時、高校2年生だった私は、応募して手に入れた入場券を手に、学校帰りの夜、大阪堂島の毎日ホールに駆けつけた。

 講師は、松本清張、伊藤整、そして、装幀をした、デザイナーの中林洋子の3人で、私のお目当ては松本清張だったが、その話はあまりおもしろくなかった。逆に、期待していなかった伊藤整がとてもおもしろく、後日、その『文学入門』や『伊藤整氏の生活と意見』を古本屋で見つけて、愛読するようになった。また、中林洋子の講演の途中で、親友だという、女優の有馬稲子が飛び入りで挨拶したのも憶えている。

 親にねだって買ってもらうことになった「世界の文学」は全54巻で、毎月1冊ずつの刊行だったが、その第1回配本はドストエフスキーの『罪と罰』、訳者は、新進の池田健太郎だった。

 本格的な世界文学を読んだのはおそらく初めてだったが、頑張って、1ヶ月で読み終えた。翌月は、スタンダールの『赤と黒』。これも読み終えた。そして、その次は、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』。衝撃的な物語だったが、大いに感動した。でも、このあたりで、私はすこし息切れがしてきた。毎月1冊というペースが崩れてきて、遅れ遅れになり、最後は全く読まなくなってしまった。

 「世界の文学」はこのあと、「新集」が46巻追加刊行されて、計100巻の、堂々たる「蔵書」になったが、最終的に、そのうちの70巻は手つかずのままに終わった。その「蔵書」もなんどかの処分を経て、現在、手元に残っているのは20数巻だが、読まずに処分してしまった巻の中には、いまだに気になって、置いておけばよかったと、悔やんでいるものも少なからずある。


 図書館で勉強、というと、そこにある本を読むのではなく、持ち込んだ参考書や問題集を使って勉強することを意味するようになった。

 高校3年になって、「大学受験」が近づいてくると、休日は、受験勉強の稼ぎどきになる。家にいると、一応自分の机はあったが、独立した部屋はなく、また、テレビを見る誘惑にもかられるので、友人たちと、外で勉強することが多くなった。

 はじめは、学校に行って、教室で勉強していた。疲れると、グランドに出て、ボール遊びをしたりすることもできて便利だった。そのうち、だれかが言い出して、校外の図書館に行ってみようということになった。

 大阪でいちばん大きな図書館は、中之島の府立図書館だった。そこには、書棚のない「自習室」があって、そこで自由に勉強できたのだが、いつも満員で、空席待ちの長い行列ができていた。そこで目をつけたのが、各分野別の開架の閲覧室がたくさんある中のひとつの「学習参考書室」という部屋だった。そこなら、待つことなく、すぐに入ることができた。ただ、そこに持ち込みできるのは、筆記用具とノートと辞書のみで、その他のものは、室外のロッカーに預けなければならなかった。ただ、書棚には、多種多様な参考書や問題集が豊富にあって、それらを使って、十分に勉強することができた。

 年が明けて、やがて、学校の授業も終わり、入試まであと1ヶ月という頃になると、学習参考書室も混んできて、すぐには入れなくなってきた。そこで、見つけてきたのが、当時、開館したばかりの、市立中央図書館だった。ここは、半開架式というのか、閲覧スペースと書架が低い柵で仕切られていて、手ぶらであれば、柵の中に入って、書物を渉猟し、借り出して、館内で読むことができた。いわば、勉強も読書も好きなようにできる、理想的な環境で、空席も多かったが、大阪市西区という立地は、私たちの住んでいるところからは、かなり遠かった。

 そこで、またまた、だれかが「穴場」を見つけてきた。市立桜宮図書館である。それは、銀橋近くの大川沿いにある、古びた石造りの建物で、その半地下のような入口から入ると、薄暗い感じの閲覧室のまわりに、ずらりと本棚が並んでいた。実際は、そこで勉強できたのだから、暗いはずはなかったのだが、記憶の中ではそうなっている。確かに空(す)いていて、いつも待たずに入ることができた。受験勉強が大いに捗ったかどうかは憶えていないが、勉強に疲れると、ここでも「半開架式」の書棚に行って、本を漁るのが楽しみだった。そして、その時、その書棚で、決定的な書物と出会った。

 その本は、アメリカを中心に、世界の「スラップスティック(ドタバタ)喜劇」の映画を、その歴史をたどりながら論じたものであった。中には、その頃、日本でもリバイバル上映され、私も友人と観に行ってきたばかりの、チャールズ・チャップリンの『黄金狂時代』、バスター・キートンの『キートン将軍』、ロナルド・ロイドの『ロイドの喜劇の世界』が紹介されていたほか、それまでテレビなどで観たことのある、アボット&コステロ、ボップ・ホープ&ビング・クロスビー、ジェリー・ルイスなど、もふんだんに出てきていた。なかでも驚いたのは、中学時代に、校庭開放の星空映画会で観た『フランキーの牛乳屋』という珍しい日本映画も採り上げられていたことである。タイトルは『喜劇の王様たち』、著者は、中原弓彦となっていた。

 この本の特長は、それぞれの映画の中のおもしろかった「ギャグ」をひとつひとつ、具体的にくわしく書き出して、それに通し番号がつけてあることだった。現在のように、ビデオで何回も見直すということができない時代のことなので、おどろくべき「努力」の賜物だっただろうが、おかげで、実際に観た映画はもちろん、観ていない作品でも、そのおもしろさが十分に伝わってきて、途中から、その図書館に、勉強に行くのか、その本を読みに行くのかわからないぐらい熱中して、1冊全部を読んでしまった。

 その後、しばらく忘れていたが、大学に入って大分経った頃、京都の古本屋でその本を偶然みつけた。「校倉書房」という聞いたこともない出版社だったが、ハロルド・ロイドを表紙にして、中にもたくさんの写真の入った、まさしくあの本で、定価は500円、そして、いまもうっすらと鉛筆書きで残っている古本価は430円となっていた。

 のちに、この本は増補改訂されて『世界の喜劇人』として再刊され、その前に出た『日本の喜劇人』と並んで、いまや、紛れもない名著となっている。また著者は、その後、ペンネームを本名の小林信彦に戻して、喜劇人論、映画論、書評、テレビ評などのほか、「オヨヨ大統領シリーズ」や『唐獅子株式会社』など、日本では珍しい「スラップスティック・コメディ小説」を書くなど、大活躍、八十路を過ぎた現在も、週刊誌のコラムで健筆を振るっておられるが、その処女作に出会ったのが、この桜宮図書館だった。

 この建物は、あとで知ったのだが、6本の石造りの円柱が並ぶ玄関部分が、明治初期に、造幣局の貨幣鋳造所の玄関として建造されたものだそうで、日本で最も古い西洋建築のひとつとして、現在、重要文化財に指定されている。


 大学にはいくつかの図書館があった。まず最初に、「教養部」の図書館。今はもう、教養部という名前はなくなったそうだが、大学の前半の2年間、語学などとともに、「専門」の基礎となるいろいろな「一般教養」科目の履修が義務づけられていた。欧米でいうところの「リベラル・アーツ」、日本では、戦前の「旧制高校」でおこなわれていたものに近いと云えようが、まさに、その「旧制高校」が戦後になって「教養部」と衣替えされていた。

 私が入学した1964年には、すでに鉄筋の校舎がいくつも建てられていたが、一部、旧制高校時代の木造の校舎も残っていた。「教養部図書館」もたぶん、そんなもののひとつで、平屋の細長い木造の建物がふたつL字型につながっていて、中に入ると、板張りの床がギシギシと音を立てていたように思う。

 もうひとつ、3回生以降の「専門課程」がある「本部構内」には、「大学附属図書館」という大きな建物があった。その全貌については知る機会を持てなかったが、私たちが気軽に利用できたのは、2階にあった広い閲覧室であった。そこでは、大きな机がいくつも並び、大学内のさまざまな学部の学生がやってきて、それぞれの勉強をしていた。場所柄、近くにあった、法学部や経済学部の学生が多かったようで、廊下に置かれた長椅子に腰を掛けて、煙草をふかしながら、官庁や大企業の就職情報を交換する姿をよく目にした。

 閲覧室の奥には、半開架式の書棚があった。「学生証」か「図書館利用証」のようなものを見せて、中に入ると、見通しをよくするためか、書棚は高さが1メートルぐらいで、本を探している学生の姿が、あちこちに散見できるようになっていた。ここにあった書籍は、「一般書」といわれるようなものばかりで、「専門書」や「貴重本」などは、閉架式のカードを繰って、カウンターに申し出るようになっていた。

 私がこの附属図書館に来た時は、なにか時間潰し的に、その書棚をブラブラすることが多かったが、そこで見つけた、エドゥアルト・フックスという人の『風俗の歴史』という本には、いっとき熱中した。

 フックスは、19世紀末から20世紀の半ばにかけて、ドイツで活躍した社会主義者で、ヨーロッパの民衆の生活を描いた風俗画や政治風刺画を大量に集め、それをもとに、中世から近代に至る、ヨーロッパの裏面史を全10巻にまとめたのが、この『風俗の歴史』であった。めずらしい、性風俗に関する絵画やカリカチュアの図版がたくさん載っていて、それらについての俗な興味とともに、歴史に対する「切り口」の新鮮さに惹かれたのだろう。なお、この本は、その後ブームになって、文庫版でも出版された。

 あと、学部に上がってからは、文学部の3分野(文学・哲学・史学)ごとに、独立した図書室(というより、書庫)があった。その部屋には「閲覧室」という表札が出ていたように思うが、中に入ると、向かい側を磨りガラスで仕切った机がいくつも置かれていて、50人ほどが座れるようになっていた。みんなそこで、それぞれの勉強をし、その部屋の書棚には、辞書類などしかなかったと思う。そして、奥まった、司書のいるカウンターで学生証を見せると、その奥の扉を開けて、「書庫」に入ることができた。

 その部屋のあった建物全体が、その後、建て替えられたようで、この「書庫」も姿を変えてしまっただろうが、当時、裸電球があちこちに灯ったその中は、まさに、書物の倉庫であった。入ったとたん、あの懐かしい、すこし蝋(ろう)が混じった、黴(かび)臭い「におい」に10数年ぶりに再会したような気がした。

 ほとんどが原書のようで、学科別に仕分けされていて、梯子みたいな細い階段を下りて、一番下にある、私の専攻する学科のコーナーに行くと、なかば埃をかぶったような、重々しい、大判の、年代物の原書がいっぱい並んでいた。そして、それらのうち、何冊でも、抱えて、出口のカウンターで手続きすれば、閲覧室や自宅で読むことができた。

 自分の専門の書物以外に、時には、国文科のコーナーにある、文芸雑誌のバックナンバーの中から、右翼テロ事件の影響で入手困難になっていた、深沢七郎の『風流夢譚』や、大江健三郎の『政治少年死す・セヴンティーン第二部』を借り出して、読んだこともあった。


 このように、「息抜き」の本を借りることもあったが、大学の図書館は、総じて、勉強の場であった。読みたい本は自分で買うようになっていた。高校の頃の私の本棚は、例の「世界の文学」シリーズぐらいしか、まともな書物はなかったが、大学に入ってからは、いろいろなところで、いろいろな影響を受け、それに伴って、いろいろな本が本棚に並ぶようになっていた。

 その本棚は、就職し、実家を出て、一人暮らしをするようになると、もはや、あらゆる制約を解かれたように、どんどんと増殖していった。そして、結婚してからも、唯一の「財産」が本だという屁理屈を、なんとか配偶者にも理解してもらっていたが、やがて、それにも限界がやって来る。

 こどもが生まれて、大きくなってくると、ボチボチとこどもの本も増えはじめた。そうなると、お父さんも、ちょっと遠慮したら、と云われて、それまでみたいに、無制限に本を買い込むことは不可能になってきた。それどころか、家の中の家具の配置替えをするたびに、「不要になった」(とは、自分では思っていない)本を、泣く泣く、処分することも増えてきた。それまで、買うことはあっても、売りにいったことはなかった古本屋では、長年大切にしていた本が、まるで紙屑のごとくに扱われることも多く、これまでの自分が全否定されたような気がして、そっと悔し涙を流した。


 図書館の本を意識しはじめたのはその頃からである。私の職場は学校だったから、そこにも、いちおう「図書室」というものはあった。しかし、それは当時、お世辞にも、「充実」とは程遠いものであった。生徒たちが勉強している閲覧室の奥まったところに別室の扉があって、その奥が、書庫となっていたが、中を見回すと、本の数も少なく、興味をそそられるようなものはほとんどなかった。

 しかし、その後、校舎が建て替えられて、以前よりも倍以上に大きくなった「図書室」が設けられた。そして、レールの上を移動する大きな書棚もたくさんあって、そこがガラガラだったので、全職員に、良い図書を推薦してほしいという校長の要望が伝えられた。

 その基準は、全然厳しいものではなかったので、各職員が、生徒というよりは、自分が読みたいと思うような本を、好きなだけ推薦することができた。私は、好きだった、歴史の「全集もの」を推薦した。その分野で定評のあった、中央公論社の「世界の歴史」と「日本の歴史」はそれまでほとんど読んでいて、また、この図書館にもすでにあったので、その頃、三省堂から発刊された「人間の世界歴史」というシリーズを推薦した。

 このシリーズは、「旧約聖書の世界」「古代中国」「ギリシャ」「ローマ」「中世のコンスタンチンノーブル」「中央アジア」「インド」「アラブとイスラム」「中国史のしたたかな軌跡」「革命とロマンの世紀」「帝政ロシア」「両大戦間のヨーロッパ」「アメリカ」「アフリカ」というように巻分けされており、世界史の、その時代に脚光を浴びた「地域」にスポットを当てて概観しているのが特徴だった。私自身、それまでよく知らなかった「東ヨーロッパ」「イスラム」「アフリカ」「インド」などの歴史が詳しく採りあげられているのに惹かれての推薦だったが、すんなりと通って、図書室に入ってきた。

 その後、中央公論社から日本史をさらに細分化して発刊された、「日本の近世」、「日本の近代」というシリーズも推薦した。さらに、2008年には、小学館から出始めた「全集・日本の歴史」というのを、中央公論社版の「日本の歴史」がすでに出版されて40年以上経ち、その後の「新発見」を基にした日本史も読んでみたい、として、注文した。

 図書室に買い入れてもらった、これらの本をすべて読んだわけではないし、どれもが、私にとって、期待通り、おもしろかったわけでもない。しかし、表紙裏に貼り付けられた「貸し出し履歴」の用紙に、ポツポツと生徒が借りた日付印が捺されているのを目にすると、満更、無駄なことをしたわけでもなかった、とホッとした。自分個人が買っていれば、読まない本は、死蔵されるだけだが、図書館で買えば、だれかが読んで、その本が無駄になることはないのである。

 2006年に定年退職して、そのあとは、非常勤講師として、授業だけの仕事になってから、図書室に通うことが頻繁になった。前記の「日本の近代」と「全集・日本の歴史」を交互に借り出したり、大分充実してきた書棚から、これといった単行本を選んで、読んだりした。清水義範の『国語入試問題必勝法』、ポール・ケネディの『大国の興亡』、水村美苗の『日本語が亡びるとき』、福田恆存の『私の國語教室』、稲生平太郎の『アムネジア』などである。

 しかし、そんな「至福」の時間も、6年後、非常勤講師の仕事が終わるとともに、終末を迎える。さて、どうしたものか、これまで家に買い溜めて、まだ読んでいない本でも読むとするか、などと考えていたとき、ふと思いついたのが、地元の公立図書館だった。


 高校生の頃、自習するために通った図書館は、どれも都心の一角にあり、当時、公立図書館は、そういうところにしかなかった。しかし、あれから半世紀経つうちに、私の住む、場末の土地にも、公立の図書館が出来ていた。

 最初、それは、私が通っていた小学校が移転した跡地にできた、公民館のような施設の中の、ささやかな「図書室」として生まれたようであったが、その後、別の場所に、大きなホールを備えた「区民センター」が建てられたとき、その1階部分に、かなり大きな「図書館」が出来ていた。

 そういう情報は、以前から、うすうすは知っていたが、勤めに出ている間は、地元のさまざまな施設や行事、いわゆる「行政サービス」というものには、まったく関心がなかった。しかし、家でゴソゴソしている姿を見た家人から、いちど図書館にでも行ってみたら、と水を向けられ、重い腰を上げることになった。図書館といっても、こんな場末の地では、たいした本も置いていないだろうし、また、本を借り出すとなると、なにかと面倒な手続きがいるのではないか、と勝手に思い込んで、億劫(おっくう)になっていたのである。

 でも、行ってみれば、案ずるより産むが易し、であった。館内は明るく、開放的で、広々とした開架式書架が並んでいた。その中央部の空間にいくつも設置された、8人掛け程度の楕円テーブルには、いろんな人々が座って、熱心に本や新聞などを読んでいた。書架には、学校の図書館とはちがって、ベストセラーのミステリーなど、いわゆる「エンターテインメント小説」もたくさんあり、私の好きな、映画や演芸関係の本も豊富であった。また、それほど多くはなかったが、CDのコーナーもあって、クラシックやポップス、落語などのCDもあった。

 貸し出しの手続きはあっけなく終わった。自分の身元を証明する「保険証」などを示すと、「図書カード」をつくってくれ、さっそく、1回に5冊まで、2週間の期限で借り出すことができた。

 また、便利なことに、「ネット検索」というのもあって、自宅のパソコンから、図書館のサイトにつなげて、あらかじめ貰っておいた、ID番号とパスワードを入れてログインすると、大阪市立のすべての図書館の所蔵図書を検索することができた。そして、そこから図書を選んで、ネットを通して、貸し出し請求すると、その本は、数日後、最寄りの地元図書館に送られてくることになっていた。

 公立図書館の、この手軽さ、この便利さは、それまでながらく大阪市民でありながら、全然知らないものであった。在職中、「住民税」という名で、毎月、かなりの額を給料から天引きされ、いつも不本意感を禁じえなかったのだが、その使い道の一部がこんなところにあったのか、と、少し腑に落ちた気がした。それにしても、一生懸命税金を払っていたときには縁がなく、あまり払わなくなってから、身近になるとは皮肉なものだが、世の中、そういうものだろう。例えば、「健康保険」の掛け金も決して安いものでないが、それを払い続けているとき、医者に通うことは少ない。これでは、出超ではないか、他人のためにお金を払っているみたいで馬鹿馬鹿しい、と思ったりするが、「医者知らず」を誇っていた者が、年取ってから、いろんな病気に見舞われ、それまでの掛け金を上回る医療費を肩代わりしてもらうことになった、というケースもよく耳にして、けっこう辻褄が合うのである。

 そういえば、地元の公立図書館に来ている人は、年配の、すでに仕事からリタイアした男性が多いようである。いつ行っても同じ顔を見ることも多かった。家でゴロゴロしていても鬱陶(うっとお)しがられるので、毎日、朝から図書館に通って、時間を潰しているのだろうか。CDを聴いたり、ビデオを観たりする装置もあって、長時間そこに座っている人々もいた。

 この図書館では、設備が少し古いのか、映像資料はビデオテープしかなかったが、ネット検索ではDVDもあって、そこから、成瀬巳喜男らの映画を借りたこともあった。もちろん、無料である。そうなると、町のレンタルショップは不要になりそうだが、あいにく、図書館の品揃えは、旧作の「名作もの」がほとんどで、人気の最新映画などはなく、そのへんで両者の棲み分けができているようだ。CDも同様である。


 本が好きなものにとって、書店のなかをブラブラと徘徊するのは、この上もない楽しみだが、最近、都心に林立する「大型書店」を歩いてみても、所詮は、新刊書ばかりである。大分前、当時、心斎橋にあった、大型の古書店を覗いてみたことがあった。通常、間口の狭い店々がひしめく「古書店街」はよくあるが、それらが、ワンフロアに集まって、古書が、整然と分類整理されている様は壮観であった。普通書店とちがい、時代掛かった書物がいくらも並んでおり、現在の「空間」の広がりだけでなく、過去から現在までの、縦の「時間軸」もカバーした、まさに「三次元」的な書物の世界に魅了され、しばし、時が経つのを忘れるほどであった。

 しかし、考えてみれば、そのような「三次元」な書物空間は「大型古書店」のほかに、図書館にもある。というより、むしろ、こちらの方が本家本元である。

 以前、ある古い書物を探していることがあって、通りすがりに古本屋を見つけるたびに、その書棚を覗いたりしていたものだが、図書館の「ネット検索」を知って、それで探すと、すぐに見つかった。それまでの古本屋巡りの数ヶ月はいったい何だったのだろうか、と思ったものだが、図書館は、その蔵書数において、大型古書店が束になっても敵(かな)わないものを持っている。むかし、アートシアター系列の映画館で、アラン・レネ監督の、『世界のすべての記憶』という短編ドキュメンタリー映画を観たことがあるが、それは、パリの国立図書館の巨大な書棚を、ただ延々と撮影したものであった。


 地元の図書館の書棚をブラブラして、おもしろそうな本を見つけ、それを借り出すのも楽しいが、それ以上に、ネット検索で、より幅広い選択の中から本を探す方が多くなった。その時、本を探す「手がかり」としたのは、もっぱら新聞の書評である。書評を見て、読んでみたくなった本を検索し、ネットから貸し出し請求をする。ちょうど、むかし、長い引き出しに入ったカードを繰って、本を探した、閉架式図書館のように。

 書評に採り上げられて「有名」になった本は、すでに何十人もの予約者が詰めかけていることも多いので、すぐに貸し出し予約をせずに、取りあえず、その書名をメモしておいて、数ヶ月後、熱(ほとぼ)りが冷めた頃に、請求するようにした。その時には、書名のメモが山のようにたまっており、なかにはどんな本だったのか、すっかり忘れてしまっている場合もあったが、それはそれで、ひとつの「淘汰」ということにした。

 こうして、最近は、図書館で借りて読むことが多くなった。本屋に立ち寄ることは滅多にない。というより、避けている、といってよい。入るとつい、本を買ってしまって、家に帰って、置き場に困るということになるからだ。

 

 ただ、図書館の本を読んでいて、物足りなさを感じることもある。

 おもしろかった本を、しばらくの時をおいて、また読み直してみる、というのは、読書の醍醐味のひとつである。そこで、新しい発見をすることは多いし、一回読んだだけでは、その本当のおもしろさが分からない本もある。

 また、本を読み直したい、という欲求は、その本に書いてあったことをもういちど確かめたい、というだけでなく、その本を読んだ時の自分に戻って、その頃、自分が何を感じていたのか、何を考えていたのか、振り返ってみたい、という場合もある。とすると、余程つまらなかった本を除いて、どんな本に対しても、読み直してみたい、という欲求は起こりうるわけで、そうなると、いつも手元にある「蔵書」というものが、意味を持ってくる。

 本がいつも手元にあれば、いつでも読み直せる、という安心感のほかに、それを読んだ「過去の記憶」が、そして、まだ読んでいない本でも、これからの「未来の記憶」が、かたちあるものとして、すぐ目の前にある、という満足感を得ることができる。

 図書館の本は、「自分の」本ではないので、読み終えれば、返さなければならない。それは当然のことだが、その時、その本を読んで得たものもいっしょに返してしまうような気がして、結局、それらも本と同様、「借り物」でしかなかったのか、とはかない気持ちになってしまう。そのためか、図書館で借りる本は、はじめから、後腐れのない、読み捨ててもいいような本に偏ってしまいがちである。

 かつて、レコードのレンタルが始まったとき、まず借りたのは、それまで、気にはなっていたが、わざわざ買ってまで聴こうとは思わなかった音楽だった。同じように、ちょっとおもしろそうだが、買ってまでも、というような本を、気軽に借りて読むというのが、図書館というものであろうか。

 ただ、こういうことも云える。

 私たちは、幼い頃に愛読した「絵本」や「漫画雑誌」に始まって、学校で使った教科書や参考書まで含めると、膨大な量の書物を読んできた。そして、その大部分は処分されたり、借り物であったりして、いまは手元にない。しかし、それらの書物には、その時々のさまざまな「思い出」が積まっており、それらが姿を消したとたん、私たちは、膨大な量の「記憶」を、忘却の沼の中に沈めてきたことになる。いま、もし、それらすべての本を保管した「巨大な書庫」があったなら、それら懐かしい本を、いつでも読み返すことができたなら、人生は、どれほど豊かなものになることだろうか、と、ときどき夢想する。

 しかし、先に述べたように、図書館とは、本来、「世界のすべての記憶」を所蔵しているところだから、私の、その「巨大な書庫」もその中に含まれているはずではないか。ならば、何らかの手がかりを頼りに、少々面倒かも知れないが、むかし読んだ、いろいろな本を探しだして、自分の懐かしい「失われた記憶」に再会することも可能かも知れない。いつか、そのような、図書館利用もしてみたいと思っている。 (完)



【自註】

 「コラム」と銘打ちながら、実体は、あるテーマを基にした「回顧談」ということに、今回もなってしまったが、これはこれで、書いていて結構おもしろいところもあった。読んでくれた人もそう思ってくれるかどうか分からないが、自分にとって、今は、このスタイルがいちばん書きやすそうので、しばらくは、この路線ということになろう。(2017.4.13)


             目次へ












 

© 福島 勝彦 2018