詩を暗誦する1




詩を暗誦する(1)



発端....中原中也『ひとつのメルヘン』

 詩を暗誦してみようと思い立ったのは2年ほど前のことである。ただ何となくそう思ったのがきっかけだと思っていたが、記憶というのはいい加減なもので、何か記録はないかと、日誌やメールなどを検索していくと、いくつかの記述が見つかった。

 それによれば、確かに2年前の、2007年8月のことであった。そのとき読んだ、中原中也についてのある文章の中に『ひとつのメルヘン』(1) という作品についての解説があり、それに触発されて久しぶりにこの作品を読み返したとき、この詩のイメージが、鳥肌が立つほど鮮明に伝わってきたのである。そんなことははじめてだった。


  1. ひとつのメルヘン


秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
そこに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで珪石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと 
かすかな音をたててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……



 その感覚の心地よさが忘れられなくて、もしこの詩が暗誦できれば、いつでもどこでも、この鳥肌が立つような感覚を再現できるのではなかろうか、と、その時ふと思ったのである。そういえば、「詩は、諳(そら)んじてのち味わうものである」というような言葉をどこかで読んだような気もした。善は急げ、とばかり、このときはいつもの私には珍しく、すばやく行動を開始していた。

 まずしたことは、この詩を紙に写すことであった。いちいち詩集を開いて覚えるのでは、持ち運びもたいへんだし、機動性にも欠ける。紙切れにこの詩だけ写してポケットに入れておけば、それこそ、いつでもどこでも、それを取り出して暗記することができるからである。

 最初は、紙に手書きしてみたが、途中で思い立って、ワープロソフトに入力することにした。手書きよりもワープロの方が圧倒的にきれいで、きれいで読み易い文字の方が覚えやすいのは当然である。それに必要なら何枚でも印刷できるので、もし失くしても大丈夫である。

 キーボードをカタカタ叩きながら少しずつ入力していくと、ただ目で追っているよりも、詩の言葉が一語一語、頭の中により染みついていくような気がして、すでにその時から、暗誦作業が始まっているのを実感した。

 さて、いよいよその紙切れを手に、本格的に暗誦をスタートしたのだが、やはりそれはそんなに生易しいものではなかった。『ひとつのメルヘン』は、わずか4連14行の短い詩であるが、それがなかなか覚えられなかった。紙を見ながら、口の中で何回か繰り返し、今度は紙を見ないで暗誦しようとすると、なかなか出てこない。

 全部をまとめて暗記するのはとても無理なので、1行ずつ何度も繰り返して朗読し、次いで、最初の連の4行をまとめて、というように、分割して繰り返し繰り返し朗読していくと、何とか、頭の中に残るようになってきた。しかし、それもしばらくするとどこかに消えてしまうので、何度も何度も繰り返して、その連が完全に「そら」で言えるようになるまで、次の連には進まないようにした。

 私は元来、暗記とか暗誦が嫌いだった。覚えることも大切なことだと分かってはいたが、それは、何らかの筋の通った流れに沿ってなされるべきで、そのような前後関係のないもの、例えば鉄道の駅名とか、円周率の数字などを「丸暗記」するというのは、無意味な、ばかげたことだとさえ思っていた。

 高校時代に、日本史の先生が、日本史の史実の流れを把握するには、天皇の名前を順番に覚えておくのが一番だ、と言って、いきなり、「神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん) ....」とやりはじめたことがあった。

 その時先生が、124名すべての天皇名を暗誦したかどうかはおぼえていないが、それは鮮やかなものであって、さっそくそれを真似て暗誦に取りかかる同級生たちが少なからずいた。親しかった友だちで124名すべての天皇名を暗記した者がいた。得意げにスラスラと早口で暗誦してみせる彼を私は、醒めた目で、なかばあきれながら、それがどうしたのだ、と秘かに冷笑していた。

 と、記憶のなかではそうなっているのだが、しかし、今こうして、一例として、初代天皇から8代目まで書き出してみた時、実はその名前は資料など何も見ないでも出てきたものである。ということは、私もその程度は覚えていた、ということで、それは、何となく覚えていたのか、あるいは、ひょっとすれば、私もその時何とか暗記しようと努力していたのかもしれない。暗記、暗誦をばかにしていたという記憶も当てにならないようである。

 さて、詩を暗記するという作業を重ねるうちに、自分なりに、そのコツらしきものがいくらかつかめてきた。坐ってするよりも、歩きながらや、電車のつり革にぶら下がりながら口の中でもぐもぐしたりするほうが効果的だった。他人の耳を気にしなくてよいので、自転車をこぎながらぶつぶつやるのは、さらによかった。そして、その日の総復習をするのが、入浴の湯船の中であった。湯船につかりながら、これまでは数を数えたりしていたが、そのかわりに、それまでに覚えた詩をゆっくりと小声で暗誦していくと、ちょうどよい時間になった。

 こうしてとにかく、『ひとつのメルヘン』を暗記することができた。2週間近くかかったと思う。ゆっくり暗誦して、あの鳥肌が立つような感覚を再現させることもできた。所期の目的は果たせたのである。

 私は、これまで、詩というものがずっと苦手であった。読まねばならないという当為意識で何冊か詩集を買い、それをひもといたこともあったが、読んでもその意味がよくわからず、その言葉の向こうに構築されているはずの「世界」に足を踏み入れることも、垣間(かいま)見ることさえも拒絶されたような気分をいつも味わっていた。

 しかし、それはおそらく、私が詩の読み方を知らなかっただけであって、こうしていったん暗記して、それを暗誦してみれば、それらの、かつては冷たく私を突き放してきた詩の言葉が、実に優しく、その世界へと導いてくれるようであった。そしてその世界は、4連14行という短い詩であっても、1冊の小説と変わらないぐらい、大きく深いものかもしれないという気がしてきた。ということは、1冊の詩集は、それを1冊の小説のように、ぱらぱらと全部読み通さなくても、 その中の1編の詩が1冊の小説に相当するのだと考えれば、その中の気に入った1つの詩だけ読めばよいということになる。こんなことを、齢(よわい)六十をすぎてはじめて知ったというのも気恥ずかしいことだが、私にとっては、目から鱗(うろこ)、であった。

 なるほど、詩というものはこのようにして読めばいいのか、と、この実感をもとに、私は、次は別の詩を暗誦しようと思った。『ひとつのメルヘン』たった1編を覚えるのにかかった膨大な時間を思えば、私の残り人生に暗誦できる詩の数はしれている。だから、とにかく自分が今一番暗誦したいものを選ぼうと思った。もちろん、今の自分が暗誦できる程度の長さのもの、という制約は伴うが。




ランボー『谷間に眠る男』とマラルメ『ためいき』

 ところで、私が詩を暗誦するそもそものきっかけとなった、中原中也に関する文章を提供してくれたのは、私の年長の知人で、あえて畏友と呼ばせてもらっている、宇佐美斉氏である。宇佐美氏とは30数年前、いっしょに同人雑誌をしていた間柄であるが、その当時からすでにフランス文学の専門家で、現在では日本でも有数のランボー研究家である。と同時に、清岡卓行、中原中也、立原道造ら日本の詩人に関する練達の研究家でもある。

 いっしょに同人雑誌をしていた頃、そんな宇佐美氏がまだ学生時代に発表したもっとも初期の「ランボー論」を読ませてもらったことがあった。その中で『谷間に眠る男』(2) というランボーの短い詩が宇佐美氏自身によって訳出されて引用されていたのだが、その時、その詩にとても感銘を受け、私にとって、自分が親しく読んだ唯一のランボー作品といえるものとなっていた。次はこれにしよう、と、私は、宇佐美斉氏の入魂のライフワークである『ちくま文庫版・ランボー全詩集』を開いた。

 30数年の歳月を経て、その訳詩は、私がはじめて読んだものとは少し違っているような気がしたが、俯瞰された、緑なす小さな谷間が、ぐんぐんとクロースアップされ、最後は眠るように斃れている一人の兵士の脇腹のふたつの銃痕のアップで終わるという、川の流れる音を背景にした視覚世界のダイナミックな展開は私を魅了した。暗誦することによって、それまで見えていなかったものがいっぱい見えてくるようにも思えた。

 この詩も、4連14行であったが、かなりの時間を費やして暗記しおわったのち、続いて、このフランス語の原詩も覚えてみようと思った。フランス語は大学時代に2年間習っただけだったが、一応、読み方と発音の基礎はマスターしていたつもりだったので、前に買っておいたまま埃を被っていたペーパーバック版の原書を取り出して、さっそく暗誦に取りかかったが、それはやはり甘かった。

 たしかに単語のつづりは何とか発音することはできるのだが、それが、金釘流みたいに、途切れ途切れになって、スラスラと流れていかないのだ。それに単語の意味もほとんど忘れているので、声を出して読んでいっても、まったく何のイメージも浮かんでこなかった。この程度のフランス語力ではたとえ暗誦できても楽しくないだろう、と、原詩の暗誦はきっぱりとあきらめた。



  1. 谷間に眠る男


ここはみどりの穴ぼこ 川の流れが歌をうたい
銀のぼろを狂おしく岸辺の草にからませる
傲然と立つ山の峰からは太陽が輝き
光によって泡立っている小さな谷間だ

若い兵士がひとり 口をあけて 帽子も被らず
青くみずみずしいクレソンにうなじを浸して
眠っている 草むらに横たわり 雲のした
光の降り注ぐみどりのベッドに 色あおざめて

グラジオラスに足を突っ込んで ひと眠りしている
病んだ子供のようにほほ笑みながら
自然よ あたたかく揺すってやれ 寒いのだから

かぐわしいにおいに鼻をふるわせることもなく
かれは眠る 光をあび 静かな胸に手をのせて
右の脇腹に赤い穴がふたつのぞいている       

              (宇佐美斉訳)


 そこで、次に選んだのは、これも宇佐美氏の訳詩で、以前、いっしょにやっていた同人誌に発表されたいくつかの訳詩のうち、一番短い、マラルメの『ためいき』(3) である。

 わずか10行の詩であるが、その中には濃密な言葉がぎっしりと詰まっていて、ただそれらが、うえへ、うえへ、青白く澄み渡った天空へと昇っていく。その下には淀んだ溜池があって、ながいながい秋の夕陽の影が伸びている、という、その静謐さの中にこめられた意味はいまだによくは分からないが、暗誦を繰り返すうちに、自分なりに得るものは何かあった。

 それにしても、この訳詩が発表された当時、同人内部で合評会などもやったはずであるが、そんな時自分がどんなトンチンカンな感想を述べたのだろうかと思うと、顔から火を吹く思いがする。宇佐美氏は、渾身の作品にまともな反応も得られず、ずいぶん歯がゆい思いをされていたことだろう。遅まきながら、これから少しずつ、罪滅ぼしができたらと思う。



(3) ためいき


雀斑(そばかす)をちらした秋が夢みるきみの額へと
静かな妹よ ぼくの魂は昇る
天使のようなきみの瞳の漂う天空へと
憂いを含む庭園の白い噴水(ふきあげ)が 素直に
蒼空にむかって吐息するように
 青白く澄みわたる十月の空はやさしくなごみ
大きな溜池に無限のわびしさを映して
鹿子色した枯葉の苦悶がつと風に走って
冷たい水脈(みお)を穿つ淀んだ水に 黄ばんだ
入日のながい光を這わせている
           

            (宇佐美斉訳)



清岡卓行

 短いものばかりだが、とにかく3編暗誦できるようになった。毎晩、湯船につかりながら、この3編を小声で暗誦するのが楽しみとなった。しかし、それも、そのうちにはあきてくる。次の作品がほしくなるのだ。すなわち、別の新しい詩を読んでみたくなるのだ。

 順番からいって、次は清岡卓行だった。これも宇佐美氏の十八番で、ランボーと並んで、宇佐美氏の詩人研究の両輪をなすものである。宇佐美氏が学生時代に書いた『清岡卓行論』は、初めて本格的に論じられた清岡論として有名で、詩人自身がそれを読んで大いに勇気づけられた、と書き残しているのはよく知られている。

 しかし、宇佐美氏を知る前から清岡卓行のことは知っていた。たぶん、詩をよく読んでいた同級生の友人あたりを通じて知ったのだろうが、その頃、『氷った焔』『日常』『四季のスケッチ』とたてつづけに詩集が刊行されていて、大学新聞や書評新聞などで大きな話題になっていたためと思う。

 しかし実をいえば、私がこの詩人にとくに親しみを感じたのは、どこかで引用されていた『ぼくにとっての詩的な極点』という詩人の小エッセイのなかの、「ぼくはとにかく自分で考えてもダメになり、そして悲しくも肥りはじめた」という一節を読んだからであった。悲しくも肥りはじめる。これは、そこに至る道筋はまったく異なるが、その当時の私自身の実体験をそのまま言い表してくれたものだった。当時、思潮社から刊行されていた『現代詩大系(3)大岡信・長谷川龍生・吉岡実・清岡卓行・長田弘』を買ったが、それは清岡卓行の詩が読みたかったからであった。

 このアンソロジー詩集は、私としてはよく読んだものなので、そこからひとつ選ぶことにした。それが、「氷った焔」にある鮮烈な恋愛詩ではなくて、「四季のスケッチ」に収められた『羊雲』(4) であったのは、その頃がちょうど秋だったため、という他に、私自身、年齢的にやや「枯れた」心境になってきたこともあるだろう。

 そういえばこのあと、この巻に収められた、吉岡実の『僧侶』という詩にかつてかなり感銘を受けたことがあったので、これを候補にしようと思って読み直してみたが、ところどころにちりばめられた血腥(なまぐさ)いようなイメージにはとてもついていけなくて、断念したことがあった。かつては、それに強く惹かれていたはずなのに。

 (4)『羊雲』(わかりやすいように通し番号を打つ)は、6行×6連、計36行の、これまでの3編よりもはるかに長い詩であった。前に読んだことはあったが、例によって「うわすべり」した読み方だったので、今回がはじめてみたいなものだった。通勤の朝、晴れ上がった高い雲を見やりながら、紙切れを手に、ブツブツと暗誦したものである。



(4) 羊雲


巨大な都会に
その微細な落葉や紙屑に
長い雨を降らせていた灰色の雲が
やっと 東の海上へ抜けた
秋の空の
午後の紺碧。

ぼくは とある街頭で
思わず 空を仰ぎ
まったく久しぶりに
眼の中まで洗う。
痛いほどしみてくる
その深く 濃い青で。

だが そこにはすでに掃かれた
白く はかなげな 羊雲。
その形は何に似ている?
青空がすけて見える
その遙かな
まだらの形は?

音楽を売る店先から
ふと もれてくる
喘ぐような ピアノのひびきが
青空に漂う その悲しみに
遠く ほのかに
(こだま)しそうだ。

そのディスクは たしか
異国の少女への愛のために亡命した
若いピアニストがいっしんに弾く
《軍馬》とかいう綽名の
起伏の多いコンチェルト。
彼が捨てた祖国の古い音楽。

ぼくは急ぎ足で
取引先へ向かう。
しかし よく晴れた秋の空の羊雲。
ぼくは亡命していないのに
祖国への
遙かな悲しみ。 




立原道造『何処へ?』

 (5)『何処へ?』は、宇佐美氏の研究テーマの大きな柱のひとつである立原道造の晩年の作品である。宇佐美氏が同人誌時代に書いた立原道造論で、ある種の「到達点」として取り上げられていたので、立原からひとつ選ぶとすればこれかな、と思ったのだが、失敗だったかもしれない。こんな憂愁深い詩を覚える前に、もっと「華やかな」恋愛詩がいくつもあったのだから。



  1. 何処へ?


深夜 もう眠れない
寝床のなかに 私は聞く
大きな鳥が 飛び立つのを
  どこへ?.....

(ほ)えるやうな 羽搏(はばた)きは
私の心のへりを 縫(ぬ)ひながら
真暗に凍つた 大気に
ジグザグな罅(ひび)をいらす

優しい夕ぐれとする対話を
鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた.....
夜は目が見えないといふのに

星すらが すでに光らない深い淵(ふち)
鳥は旅立つ.......(耳をそばだてた私の魂は
答えのない問ひだ)........どこへ? 



 5つ覚えて、少し自信もついてきたので、そろそろ「ガイド役」の宇佐美氏の手を離れて、自分のこれまでの貧しい「詩体験」の記憶の中を掘り起こしていくことにした。そこで選んだのは、エドガー・アラン・ポーである。




ポーの詩

 といっても、ポーの詩をこれまでに読んだことはない。そのいわゆる「怪奇と幻想の物語」や、推理小説の元祖としての作品などは中学生時代から大好きで、大学生のころに買った、春秋社版の『ポオ小説全集』でほとんど読んでいた。これは、文豪・谷崎潤一郎の弟の谷崎精二が全訳したもので、そのほか、いろんな人が訳した創元推理文庫版の『ポオ小説全集』も持っているが、ポーの神髄といわれている詩作品は手つかずだった。

 苦手な詩ということで敬遠してきたのだが、ボードレールやマラルメら、フランスの象徴主義の詩は、ポーの脳髄から生まれた、という言葉もどこかで聞いたことがあるので、いつまでも無視するわけにはいかない。そろそろ詩の読み方も分かってきたことだし、ここらあたりで挑戦してみよう、と思ったのである。そして、小説の翻訳は持っていたが、詩の翻訳はもっていなかったので、この際、原詩で覚えることにした。フランス語ではつまずいたが、英語なら何とかいけるかもしれない、と思ったのである。

 (6)『El Dorado(黄金郷)』を選んだのは、エキゾチックなそのタイトルに惹かれたためだったが、決め手はもちろん、6行×4連=24行で、各行すべて6語以内という「短さ」だった。英詩独特の「脚韻」がきれいに踏まれていて、ここちよく読める。もともと、詩のリズムというのは暗誦しやすいようにつけられていると言われているが、なるほど、そのとおりと思わせるものだった。ただ実際には、それほどすんなりとは覚えられなかったが.....  (つづく)



(6) Eldorado


Gaily bedight,
A gallant knight,
In sunshine and in shadow,
Had journeyed long,
Singing a song,
In search of Eldorado.

But he grew old -
This knight so bold -
And o'er his heart a shadow
Fell as he found
No spot of ground
That looked like Eldorado.

And, as his strength
Failed him at length,
He met a pilgrim shadow -
"Shadow," said he,
"Where can it be -
This land of Eldorado?"

"Over the mountains
Of the Moon,
Down the Valley of the Shadow,
Ride, boldly ride,"
The shade replied -
"If you seek for Eldorado!"





【自註】

 ストックしてあった過去の原稿を使い果たして、あっという間に、7ヶ月が過ぎてしまった。その間、いろいろと次の「出し物」を考えない日は一日たりともなかったのだが、いま、やっと新しいスタートを切ることができた。一種の「回想もの」であるが、このあと、どれだけ盛り上げていくことができるか。自分でも楽しみである。(2009.7.31)


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