デジタル創世記1


   

 わがデジタル創世記(上)



目次


第1章 パソコンと出会うまで

第2章 50歳でパソコンを始める

第3章 マルチメディアCD-ROM

第4章 インターネット ~ Mac Fan Expo

第5章 音楽のデジタル化へのあゆみ

第6章 写真と動画のデジタル化へのあゆみ

第7章 映画・テレビとの関わりの「自分史」

第8章 「テレビ番組録画」の苦難の道のり

     

           


第1章 パソコンと出会うまで




 私が高等学校で英語を教える職を得たのは1973年のことであったが、その時、「チョーク・ケース」とともに、学校から最初に支給されたのは、「ガリ版」と「鉄筆」であった。

 もはや「過去の遺物」となってしまったので、一応説明しておくと、「ガリ版」とは細かい目がほられた鑢(やすり)の鉄板である。その上に、薄い繊維に蝋(ろう)を薄く表着させた「蝋原紙」を置き、先の尖った「鉄の筆」で字を書くと、その部分だけ蝋が剥がれて、印刷インクが通過可能になる。

 その「蝋原紙」を「謄写版」のスクリーンに貼り付けて、その上にインクの付いたローラーを走らせると、鉄筆で蝋を剥がした部分だけインクが通過して、それが文字や絵として、下に敷いた紙に印刷される、というものであった。

 これは学生時代、手づくりの文集やビラを作成する時にずいぶんお世話になったものである。鉄筆で文字を書くことを「ガリを切る」といったが、かつてはそのプロも存在し、活版印刷の活字を拾う「文選工」や「植字工」と並んで、より安価な印刷技術の一翼を担っていた。

 私が就職した学校では、英語の教師でもガリ版に鉄筆で、手書きのプリントやテスト問題を作成していた。もちろん、自前の英文タイプライターを持っている教師もいたが、タイプライターの場合、それ専用の謄写版原紙があって、蝋ではなく、黒色のコーティングをした用紙であった。それをタイプにはさんで、鋼鉄製の印字を打ち込むと、そこだけコーティングが剝げて、インクが通過するようになっていた。そうして打った用紙を謄写版にかけて印刷するのだが、よっぽど平均した力でタイプしないと、濃淡がムラになって読みづらくなるので、使っている人はあまりいなかった。




電動タイプライター

 ところがある日、印刷室の隅っこの机の上に、いつもビニールカバーを被って、だれも使っていない様子の機械がひっそりと置かれているのに気がついた。

 訊いてみるとアメリカ製の「電動タイプライター」だという。何年か前に、英語科の方から買ってほしいという要求があって購入、はじめはみんな触っていたが、いまはだれも使う人がいないとのこと。「けっこう高かったんだけどねぇ」と、事務所の課長が顔をしかめた。

 英語科の先生に尋ねると、たしかにキーを叩けば常に一定の圧力で印字されるので、文字はとてもきれい、とのこと。ただ、キーを打つタイミングを間違うと、ダダダダダ、とキーが暴走して、たちまち同じ文字が10字ほど打ち出されてしまい、そうなると、それまで打ったものがすべてダメになってしまって、もう怖くてだれも使えなくなってしまった、ということであった。

 試しに使ってみることにした。すこし埃をかぶった分厚いビニールシートをめくると、頑丈な、いかにもアメリカ製といった機械があらわれた。

 キーを打つと、かなりの圧力で鋼鉄製の印字が用紙に叩きつけられた。キーの反応は悪くない。ただ、打った指をそのままのせたままにしておくと、またもう1回打ったとみなされて、ダダダダと同じ文字が打ち出されてしまった。

 つまり、このキーは単なるスイッチで、キーを打つ強さなど全く関係なしに、押せばモーターが廻って、一定の圧力で印字されるようになっている。とすると、きれいに印字できるように力加減を工夫する必要はなくなり、なまじ、強く打ったりすると、反応しすぎて、ダダダダ、となってしまう。

 要するに、それまで手動のタイプライターに慣れている者には使いづらいが、私のようにタイプライター未経験者にとっては、ただスイッチを押せばいいだけなので、苦にならないどころか、むしろ楽だった。

 ということで、この「高級電動タイプライター」はその後、私個人の専用機のようになったのである。

 英文字は、ガリ版で手書きするよりもタイプの方が断然見栄えがいいし、それに、入る文字数も多くなるので、プリントもテスト用紙もコンパクトになった。ただ、英文だけではなく日本語を挿入することも必要だったので、それは手で書くしかなかった。

 手書きの場合は、ボールペンを使ってタイプ用原紙に書き込む。すると、ペンで線を引いた部分のコーティングが剥がれてインクが通過可能になるのだが、タイプ文字のような切れ味はなく、そこだけ変にインクが濃くなったりして、せっかくの英字の見栄えが台無しになりがちであった。また、時には、強く書きすぎて、原紙が破れそうになったこともあった。

 しかし、その後、普通紙に書いた原稿をいわゆる「電送写真」的にマスター紙に転写する「ファックス」という機械が開発されて、その問題は解決する。

 タイプ用の原紙ではなく、普通紙にタイプ印字し、日本語はそこに鉛筆などで手書きすればよくなった。

 一方、タイプライターにも改良が加えられた。アーム式ではなくて、球形の鋼鉄に活字を彫り込んで、キーを押すとそれがクルクル廻って活字を選び出し、ボールごとその活字を用紙に打ち込むという、ボール活字式の電動タイプライターを開発していた日本メーカーのブラザーから、その後「電子タイプライター」というのが発売された。

 「電動」ではなく「電子」とはどういうことか、ということだが、キーボードの上に小さな液晶のディスプレイが付いていて、タイプした文字がすぐに印字されずに、いったんそこに映し出されるようになっていた。そして一文打ち終わって、定められたキーを押すと、一挙にその文章が用紙に印字されるのである。

 こうすることによって、印字する前に打った文字をディスプレイで確認できるようになり、タイプミスがなくなるというわけである。

 そして、さらに便利なことには、自動的に文字間を調節して、行末をきれいに揃えたり、英単語が途中で切れないように、ぴったりと収めたりすることもできるようになった。

 これは、素晴らしいものが出たぞと、英語科の教員は、その「電子タイプライター」を奪うように使いはじめたのだが、そのブームは長続きしなかった。ほどなくして、「ワードプロセッサー(ワープロ)」というものが登場したからである。




ワープロの登場

 ワープロというものに初めて接したのは、英語科が購入した東芝のRupoという機種だった。

 ある「新しもの好き」の先生が注文したとのことで、キーボードの上に横長の全角40文字が4行ほど表示される液晶画面があり、その上のふたを開けると、簡単なプリンターとなっていて、熱に反応して黒くなる「感熱紙」をはさむと、かなり高速で印刷できた。また、入力したデータは、3.5インチのフロッピーディスクに保存するようになっていた。


 ワープロが「電子タイプライター」よりも優れていたのは、日本語を入力することができたからである。

 それまで「和文タイプライター」というものはあった。

 英語と違って、日本語は決まった数の「ひらがな」「カタカナ」の他に、「漢字」というものが無数にある。「和文タイプ」は、その無数にある漢字をある程度限定し、その限定された活字をすべてキーボード上に用意したものであった。

 一定の法則に従って並べられた活字の中から、ひとつひとつアームで拾い出して、ガチャンと用紙に打ち込むという、まるで「力づく」のようなやり方で、おそろしく時間が掛かったが、活字で印刷することが必要な場合にはやむをえないことで、これは「プロの印刷」向けのものであった。

 ただ、その頃には、それを小型化して、電動にした機種が出ていて、これも勤務先には置いてあったが、事務所の改まった文書作成のときに使うぐらいで、授業のプリントやテスト用紙に使う教師はまずいなかった。


 だから、入力したひらがなを「変換キー」を押すことで、簡単に漢字に変換させるという「ワープロ」のアイディアは画期的なものであった。

 やがて、変換の範囲が、漢字一文字から、語句、文節へと拡がり、さらに、前に変換したものを記憶しておいて、優先的にそれに変換するという「学習機能」が付け加わり、日本語ワープロは完璧なものになっていった。

 「ひらがな」の入力だけでいけるので、アルファベットのキーボードと併用することもでき、ここに「和文タイプライター」だけではなく、「英文タイプライター」も、その命脈も断たれることになった。




ワープロの普及

 ワープロの誕生は、それまでプロだけのものだった「活字の世界」を素人にも開放するものであった。

 作品がそれなりに評価されて世に出る、ということを意味した「書いたものが活字になる」という表現もその意味を失った。プロの評価を経なくても、自分で自分の文章を自由に活字にすることができるようになったからである。

 学校でも、英語科だけでなく、他の教科の教師たちもワープロに興味を持ちはじめた。

 国語科や社会科、理科など、これまでガリ板で一生懸命プリントをつくってきた教師たち、そんな中でも、とくにそのプリント文字がきれいなのが自慢の「ガリ板名人」たちほど、ワープロ導入に熱心だった。

 シャープの「書院」、NECの「文豪」、三洋の「サンワード」、富士通の「オアシス」といった各社のワープロが教師たちの机に並びはじめた。

 ワープロの魅力は、「活字」を思い通り、自由に使える、だけではなかった。一度入力した文章を記憶(保存)して、それをあとから呼び出し、手直しして何度でも再利用できることも魅力だった。

 そのうち、その保存された文章を自分だけではなく、他人とも「共用」したいという欲求が生まれてきた。

 当初、各社バラバラであった活字の規格が、JIS規格に統一され、それを共通規格のMS-DOS方式のフロッピーにテキスト形式で保存することによって、異機種間の互換も可能になっていった。

 当時、英語科で共用されていた東芝のRupoは、いまネットで調べて見ると、JW-R50F という機種のようであるが、もはや「電子タイプライター」を卒業して、プリントやテスト用紙作成はワープロ一色になっていた私が、家でも使えるように自分のワープロを持ちたいと思うようになるのは必然のことであった。

 そこで、これと同じRupo JW-R50Fを求めて、大阪一の電器街である「日本橋」へ出かけていった。

 それらしき店に入ってみると、いろんな会社のいろんな機種がたくさん並べられていて、その中にRupoもいくつかあったが、私がめざしていたJW-R50Fのコンパクトな姿はなかった。

 キーボードがむき出しで、その上に小さい液晶画面が付いているJW-R50Fとは違い、並んでいたのは、どれもやや長方形気味で、蓋があり、それを持ち上げると下にキーボードがあらわれ、その蓋の裏に大きな液晶画面が取りつけられているというタイプのものばかりだった。

 私はひたすらJW-R50Fを捜した。他の家庭用の電化製品と同様、ワープロの新製品といっても、そう大した違いはないだろうし、それならば、使い慣れていて、おそらく旧型で値崩れしているであろう商品を購入する方が賢明だと思ったからである。

 ところが、JW-R50Fは、捜せど捜せど、どこにも売っていなかった。いつの間にか「オーディオ」からワープロとパソコンの街に変わっていた日本橋の「でんでんタウン」の、裏通りまで捜し歩いて、とある中古品専門店の店先のガラクタの山のなかに、目指すJW-R50Fが転がっているのを見つけた。私は喜び勇んで、その機械を手にした。

 しかし、それは、私がいつも学校で使い慣れているのとはどこか違っていた。

 全体のデザインは同じなのだが、よくよく見れば、側面にあるはずのフロッピーディスクの挿入口がなくて、どうも、微妙に異なる機種のようであった。データを保存するフロッピーが使えないのなら、買っても仕方がない。

 私は、JW-R50Fを捜すのをあきらめて、Rupoの新しい機種を買うことにした。

 とりあえず数種類のカタログをもらって帰り、その中から、いろいろ検討した末に購入したのが、JW-80Fという機種であった。古い日誌をたどってみると、1988年12月6日、価格は6万9000円。

 意外に安かったのは、最新機種よりも少し古い「売れ残り」商品だったからだろう。しかし、その機能は、当初捜していたJW-R50Fとは段違いに改善されていた。

 まず、蓋の裏の液晶画面が2倍以上の10行になり、裏からライトを当てる「バックライト」という装置のおかげでずいぶん明るくなっていた。

 この明るくて大きなディスプレイは、使ってみると圧倒的に便利なものだった。そして、内蔵のプリンターのスピードも速くなり、また、それまで東芝Rupo独自の書体であった「活字フォント」が、JIS規格の、他社ワープロとも互換できるものになっていた。

 それ以外にも、付属的な機能もたくさんついていて、私はワープロの世界が文字通り日進月歩で、新製品は旧製品を数倍上回る、まさに「幾何級数」的な発展を遂げるのが当然となっているのをはじめて知った。そして、あの時もし、旧型のJW-R50Fを見つけて買っていたら、ひどく後悔しただろうな、と思わず背筋が寒くなるのを感じた。





「表計算」機能の活用

 はじめて買ったワープロ、Rupo JW-80Fも大分使い込んできたある日、若い教師から、付属の「表計算」機能のことを教えられた。

 私の勤めていた学校での、学期末の最大の仕事はクラス生徒の成績の算出であった。

 各科目の担当教師がつけたその学期の成績が、100点満点の素点として、クラスの名票に書き込まれ、担任のところに集まってくる。すると担任は、縦軸に生徒名、横軸に10を超える科目名の欄を設けた「成績一覧表」に、その成績点を記入する。

 そして横の欄を合計して「各生徒の合計点」を出し、次いで、縦の欄を合計して「各科目のクラス合計点」を計算する。

 最後に、「各生徒の合計点」の合計を計算して、それが、「各科目のクラス合計点」の合計と一致すれば、記入ミスや計算ミスがなかったことになり、やっと「通知表」に記入できることになっていたが、その合計がなかなか一致しなかった。

 計算は単純な足し算ばかりだったが、とにかく、その数が多かった。

 生徒が50人いて、14科目あるとすると、横の合計が50回、縦の合計が14回、その合計の合計が2回と、少なくとも66回は計算しなければならない。

 私は幸い、小学校時代に「そろばん塾」に通っていたので、計算はそれほど苦にはならなかったが、そうでない人たちは、たいへんだったようだ。

 ポツポツと慣れない「そろばん」を弾いている人もいたが、たいていの教師が頼りにしていたのが、モーター式の卓上計算機だった。足す数字を打ち込むごとに、重いレバーを押し、最後に「演算」のレバーを押すと、轟音とともに、それまでの合計が計算されて、電気式の文字盤に表示される、という代物(しろもの)だった。

 「電卓」が登場し、大衆的になってきたのは1972年に「カシオミニ」が発売されてからであるが、さっそく購入した教師もいた。

 当時の定価が1万2800円だったが、その後、競争による価格破壊が進行し、みるみるうちに半額以下にまで下がり、当初は得意満面だったその教師をして顔色なからしめたものである。

 しかし、学期末の成績処理の風景を一変させたのは、コンピューターの導入だった。

 1980年代に入った頃だったろうか、ある「ラジオ工作マニア」の教師が、自宅で組み立てたコンピューターを学校に持ってきて、職員室の片隅の空いた机の上に設置した。

 たちまち人だかりができ、興味を感じた何人かの教師たちは、その教師といっしょに放課後遅くまで残って、何やかや、その機械をいじっていた。そして、やがて彼らがつくり出したのが「成績処理一覧表」のプログラムだった。

 ローマ字で記された生徒名の横に並んだ「点数欄」にキーボードから得点を入力して、最後にある特定のキーを押すと、即座にその合計点と平均点が出てきた。

 また別のキーを押すと、接続された「プリンター」から、大きな音を立てて、「成績一覧表」が印刷されて出てきた。

 このプログラムはその後、いろいろと改良されながら、他の教師へも広まっていって、ついには学校で正式に採用されることになり、新しい機械が何台か購入された。

 私はその頃はその方面にまったく疎(うと)かったので、その機種名や、プログラムの基になるOS(Operating System オペレーティング・システム)などについてはまったく関知していないが、各学年で選ばれた担当者が、全教科の成績をまとめてキーボードで打ち込み、担任は、その後打ち出されてくる一覧表を貰って、その成績を生徒個々の「成績通知票」に書き込むだけでよくなった。

 このように、全体の「成績一覧表」は学年ごとにコンピューターで処理されることになったが、そこに提出する自分の科目の成績の計算は、自分でしなければならなかった。

 生徒の成績は、中間、期末の定期考査だけではなく、いろんな小テストや宿題提出点、場合によってはノートチェックなど、きめ細かい評価を総合して出さなければならない。

 できるだけきめ細かく評価しているということを生徒に示すことが、生徒の学習モチベーションを高めることにもなるからである。その結果、計算は面倒になって、そろばんや電卓からはなかなか解放されないことになる。

 そこで、ワープロ付属の「表計算」機能がものをいうことになった。

 この機能を使うと、学校のコンピューターでやっているのと同じことが、小規模ながらも自分で、自分の思い通りにできた。

 すなわち、あらかじめ作っておいた「一覧表」に点数を入力するだけで、面倒な計算が瞬時にできてしまうのである。さらに、その結果を「保存」して、学期や学年が変わっても継続させていくことができるのがありがたかった。

 かくして、その後「表計算機能」は大いに活用されることになるのだが、ただ、ワープロ付属の機能なので、その容量は大したことがなかった。

 自分の科目の成績計算ぐらいなら何とかこなせたが、のちに「進路指導」の仕事を受け持つことになり、学年全体の生徒の学校成績やいろいろな模擬試験の成績などを入力しようとすると、それは無理だった。

 そこでいろいろ調べてみると、東芝のRupoシリーズの中でとくに表計算機能の充実した機種があるのを発見した。

 「ロータス1-2-3」を内蔵しているとのことである。「ロータス1-2-3」とはいったい何であるのか、私は全然知らなかった。でもカタログだけではよく解らない、とにかく実機を見てみなければと、大阪市西区にある東芝のショールームを地図で探して、行ってみることにした。




「ロータス1-2-3」

 ショールームに入って、その実機の前に座ると、係りの人が近づいてきたので、「ロータス1-2-3」ってなんですか? と尋ねた。すると、その女性は一瞬キョトンとした顔をして、「パソコンのソフトです」と繰り返すばかりで、それ以上の説明はしてくれなかった。

 そこで、仕方なく、置いてある説明書を頼りに、そのJW-98UPⅡという機種を一時間あまり、いろいろといじくりまわして、使ってみた。

 そして何とか使えそうな感触が得られたので、学校の方へ、自分がやりたいこと、そのためには是非ともこのワープロが必要だという申請書を提出した。幸い、口添えしてくれる人もいて、当時、20万円以上したその機種を買ってもらえることになった。 

 「ロータス1-2-3」は、いわゆる表計算ソフトで、注文の機種が届くまでに、職員室の数学科のコンピューターにも入っていたそのソフトの使い方を教えてもらった。そして『ロータス1-2-3 ハンドブック』という市販のかなり詳しい解説書を借りて帰って、それを読みながら、「ロータス1-2-3」のいろいろな機能をあらかじめ予習しておいた。

 ところが、1992年5月14日、そのRupoがいよいよ到着して、搭載された「ロータス1-2-3」を起動してみると、その画面は、「ハンドブック」や数学科の「ロータス1-2-3」とはまったく違うものであった。

 あとで知ったことだが、数学科の「ロータス1-2-3」のバージョンは、Rupoのそのバージョンよりもかなり前のものだったのだ。パソコンのソフトは、バージョン(版)が違えば、別物も同然だということを、私はその時はじめて知った。

 この「ロータス1-2-3」も何とか使いこなすことができるようになり、当初の目的だった、「生徒の学年成績や模擬試験の成績と大学合格の相関」を示す一覧表をつくって、「進路指導」の現場で好評を得ることができた。

 その資料は、年々そのデータを蓄積していくことによって、より正確さを増していったが、一方、Rupo JW98-UPⅡの記憶容量も限界に近づいてきた。

 そこで、カタログに付属品として、「拡張メモリ」というのがあるのを見つけ、それを買ってもらって取りつけた。正確なことは覚えていないが、1メガバイトのもので数万円もしたと思う。しかし、それによって増えた容量にも限界が見えはじめ、ことここに至って、ようやく、コンピューターというものが視野に入りはじめたのである。






第2章 50歳でパソコンをはじめる



「コンピューター」の印象

 「コンピューター」という言葉をはじめて目にしたのは、中学に入った頃に読んだ、ある科学読み物だったと思う。1950年代後半の当時は、日本語で「電子計算機」と呼ばれる方が多かった。

 そもそもは、第二次大戦中に、侵入してきた敵の飛行機を高射砲で撃ち落とす際、その飛行機の航路と高射砲の弾道とを瞬時に計算して、より正確な発射の方向を決められるようにと、アメリカで開発が始められたらしい。

 10進法のかわりに「2進法」を使えば、数字は0と1の2種類だけで済み、その2つを電流のONとOFFに割り当てて「計算回路」をつくれば、電流の速さで計算が行われる、というのがその原理であったが、真空管を1万8000本も使い、重さが30トンにもなる、巨大な第1号機が完成したのは、戦争が終わった1946年だったと云われている。

 たしかにスピードは速く、高射砲の計算には十分間に合ったようだが、真空管がすぐに切れて、補修がたいへんだったそうだ。

 また、その高速の計算力を利用して、チェスのプログラムもつくられた。それはかなり強くて、チェスの名手を苦しめるほどだったが、一方、初心者の「定石はずれ」の手にはめっぽう弱かった、というようなことも書かれていた。

 やがて、コンピューターの心臓部、CPU( =Central Processing Unit  中央処理装置)は、真空管から、トランジスターに変わり、さらに、シリコンなどの「半導体」の中に、トランジスターや抵抗やコンデンサーなどを作り込んでしまうIC( = Integrated Circuit  集積回路)へと発展、その集積度がさらに高まって、1971年、CPU全体が小さなシリコンのチップに収まった「マイクロ・プロセッサー」が誕生した。

 その結果、それまでのように、中央に巨大なコンピューターを配置し、そこにいくつもの「端末機」を接続して共同使用する「メイン・フレーム」というシステムではなく、「マイクロ・プロセッサー」を搭載して小型化されたコンピューターが、それぞれ独立して、それだけで仕事ができる「パーソナル・コンピューター(パソコン)」が現れ、コンピューターは一挙に、個人が所有できるものとなったのである。


 学校の成績処理にコンピューターが導入されたのも、そんな頃のことだったが、いかに大衆化されたといっても、その見かけはいかにも取っつきにくいものであった。

 学期末の成績処理がおこなわれているのを横から見ていると、電源を入れて、「成績一覧表」の画面が出てくるまでに、何やら暗号みたいな、英字と数字がいっぱい並んだ画面が出てきて、そのところどころにある「選択ボタン」を押したり、何やら文字を打ち込んだりという操作を、何回も繰り返さなければならなかった。

 また、職員室には、先にも述べたように、教科での研究用にと、数学科のパソコンが設置され、何人かの若い教師たちが毎日遅くまで残って、その前に座っていた。なかには、個人で購入して、家で使っているという教師も出てきた。

 ワープロ機での処理に限界を感じ、そろそろパソコンも考えなくてはいけないか、と思いはじめていた私は、そんな教師のひとりに、パソコンって、いったい、いくらぐらいするものですか? とおそるおそる訊いてみた。すると、彼は涼しい顔で、こう云った。

 「パソコン本体とディスプレー、キーボードなど機械一式は20万も出せば、まあ何とか買えますが、それだけでは《ただの箱》です。中に入れるソフトウェアも買わなければ動きません。それにはまた別にお金がかかります。あるいは、自分でプログラムを組むか、ですね」

 まるで、こんな厄介なもの、あなたたち素人さんには無理だから、手を出さない方がいいですよ、と云われた気がして、パソコンは、自分には「雲の上の存在」でしかないんだ、と思うようになってしまった。

 状況が変わったのは、それから大分経った、1995年のことである。英語科の会議で、入って3年目、いちばん「若手」教諭のF氏が、遠慮がちながらも決然と、パソコンの購入を提案したのだ。




Macとの出会い

 「若手」といっても、F氏はその学校の卒業生で、教員免許を取得するための「教育実習」に来たあと、翌年の4月から、英語の非常勤講師に採用されて、教壇に立っていた。

 非常勤講師というのは、専任教諭と違って、担任の仕事やその他、いわゆる「雑務」を除いた、教室での「授業」だけを行う教師で、私立の学校では、人件費を節約するために、かなりの人数が採用され、この学校でも、当時は全授業の3分の1ほどを非常勤講師が担当していた。

 F氏は温厚で穏やかな人柄で、専任教諭の持ち時間の隙間にできた半端な授業を、いやな顔ひとつせずに引き受けるなど、教師間の信頼も高く、また、在学中から「模型」や「アニメ」などに深い興味を持った、いわゆる「オタク」タイプの若者だったので、非常勤ながらも、そういう方面の「同好会」の世話をしたりして、生徒の評判もよかった。

 彼自身、おそらくは、そうやって、少々の無理にも耐えながら、いずれは専任教諭に昇格することを期待していたのだろうが、どういうわけか、学校の方は、彼を専任にしようとはしなかった。英語科の全員で校長に直談判して、F氏の専任昇格を要求したこともあったが、校長は頑として、首をタテに振らなかった。

 先行きの見通しが立たないまま、それでもかすかな希望を抱いてF氏は10年近く、在学中から慣れ親しんだ母校での仕事を続けてきたが、結婚して家庭を持つことになったのを機に、英語関係の専門学校に常勤の職を得て、後ろ髪引かれる思いで退職していった。

 ところが、それから2年後、それまでの校長が退任して、新しい校長が就任すると、最初に行った仕事が、F氏の専任教諭採用だった。なぜもっと早くできなかったのか、と内心思いつつも、みんなこの人事に拍手喝采した。長年の宿願をはたしたF氏も、屈託のない、満面の笑顔でそれに応えた。

 併設の中学校の新入生の担任に任命されたF氏は、満を持したように、それまで、非常勤講師のときにはできなかった担任の仕事や、クラブ顧問、学校行事の運営などに、全力投球で取り組みはじめた。そして、その年の秋の文化祭、F氏のクラスが決めた出し物は、8ミリでの映画製作だった。

 何といっても、中学1年生なので、8ミリ映画の製作など、とても無理だとみんな思ったが、F氏の、これまで溜まりに溜まったものを一挙に吐き出すかのような、獅子奮迅の大奮闘がその不安を一掃した。

 かつてあったテレビドラマ『ウルトラQ』に似た怪奇SFに、ややコミカルな味を加えたようなその作品の、脚本、監督、撮影、編集はすべてF氏が担当し、生徒はF氏に云われるまま、出演者として動きまわるだけで、まるでF氏の「個人映画」のようであった。

 しかし、その中にちょっとした「特撮」などもある撮影や編集は、まだ幼さの抜けない1年生にとっては、物珍しくも、おもしろくてたまらないものだったようで、その時のクラスの生徒たちは、その後、高校3年まで6年間、その学年を持ち上がっていったF氏を支える「親衛隊」として、彼を一貫して、信頼し、慕っていったようである。

 そんなF氏の提案だったので、英語科の面々もそれを無下に退けることはなかった。

 もちろん、慎重論も出たが、結局、例の、ワープロを導入した、あの「新しもの好き」の先生の、「こういうご時世だから、試しに1台入れてみて、みんなで使ってみたらどうかな」のひと声で、学校に申請することが決まった。

 しばらくして、職員室にやってきた英語科のパソコンは、数学科や成績処理用のそれとはすこし違ったかたちをしていた。本体とディスプレーが一体となったもので、これまで学校にあったNEC製のものではなく、アメリカのアップル社製のLC 575という機種であった。



 放課後、さっそく、F氏の主導で、お披露目の「試運転」が始められたが、それは「ただの箱」ではなく、すでにいくつかのソフトウェアが入っていた。

 「クラリス・ワークス」というのがあって、画面にある、そのソフトを示す「小さな絵(アイコンというのであった)」を、長い尻尾のついたネズミみたいな「マウス」という器具を動かして、「マウス・ポイント」という矢印で探り当て、マウスの上部のボタンを連続的に2回押す(ダブルクリックする)と、大きな画面が開き、その中の、ある選択肢をひとつ選んで、今度は1回クリックすると、見慣れた「ワープロ」の画面が出てきた。

 また、別の選択肢を選ぶと、「表計算」の画面も現れた。

 NECのパソコンにしても、Rupoのロータス1-2-3にしても、キーボードのキーを叩いてカーソルを動かしていたのだが、マウスを使うと、一マスずつではなくて、一挙に遠くのマスまで簡単に移動することができた。

 仕事が一段落して、「保存」をクリックすると、名前をつけてください、という指示があって、キーボードで名前を打ち込むと、画面にその名前がついたファイルのアイコンがつくられた。そして、それをまたダブルクリックすると、そのファイルが開いて、仕事の続きをすることができた。

 そのファイルが不要になって消去したいときには、そのアイコンにマウスポイントを持ってきて、ボタンを押したまま、右下にある「ゴミ箱」まで引っ張っていって、そこでボタンを離すと、アイコンはゴミ箱の中に吸い込まれていった。その時、ゴミ箱の蓋は開いたままになっていて、もし気が変わって「消去」をやめたいときには、もう一度ゴミ箱をクリックして、そのファイルを引っ張り出すと、元に戻すことができた。

 と、ここまでは、Rupoのワープロとはちょっと違っていておもしろいな、という程度であったが、次にF氏が、同時に購入した「スキャナー」という機器の実演をしたとき、まったく仰天してしまった。

 まず、スキャナーの蓋を開けて、F氏が英語の教科書をそこに挟んだ。そして、コピー機でコピーを取るように、そのページをスキャンしてから、パソコンの画面に開かれた「e-Typist(イー・タイピスト)」というソフトを少しいじると、画面に映った教科書の英語の文字がみるみる読み取られて、ワープロの画面の中に移っていったのである。

 その間、約10秒あまり。あらかじめチェック機能がついていて、変なスペルになっている文字は色が変わっているので、その横に映った、教科書のコピー画面と見比べながら、手で修正をして、それでも、合計数分ほどで、教科書1ページ分の英文がワープロに打ち込まれていた。

 私が教科書を見ながら手で打っていけば、優に15分はかかると思われる量である。このデモンストレーションを見て、パソコンは凄い! と、私はすっかり感心してしまった。




ついにパソコンを購入

 その後、放課後に残って、英語科のパソコンのいろんな使い方をF氏に手取り足取りで教えてもらいながら、パソコンの歴史的な知識も身につけていった。

 すなわち、このパソコンが、Macintosh(マッキントッシュ、略してMac)というシステムで動いていて、それは、数学科などのパソコンのMS-DOSというシステムとは違って、GUI(Graphical User Interface グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)と呼ばれる、マウスを使った「視覚的な」操作方法をもちいた画期的なものである、とか、そもそも、IBMなどの巨大な「メイン・フレーム」ではなく、個人でも使える「パーソナル・コンピューター(パソコン)」を世界で始めて発売したのは、アップルである、とか、その創業者の、ジョブズとウォズニアックの「ふたりのスティーヴ」の、アップル社草創の物語とか、を教えてもらったりした。

 当時、Macのパソコンを扱った雑誌は、「MacFan」「MacPower」「MacLife」「MacUser」などたくさんあったが、F氏はそのほとんどを毎月購読していて、そんな中の何冊かを借りて、家に持って帰って読んだりもした。

 当時は、毎月のようにMacの新製品が発表されていた頃で、雑誌にはそれらの紹介記事が満載されていたが、どれも相当な値段で、私にとって、まだまだ「高嶺の花」であった。

 ところが、7月に入って、期末試験も終わり、夏期一時金(ボーナス)も貰って、ようやく夏休みに入った頃のことである。用事があって、学校に行ってみると、机の上にメモが置いてあった。

 「いま、LC630が大安売り。今月中なら、2万円のキャッシュバックもあります。もし、お買いになるつもりなら、いっしょに行ってもいいですよ」

 F氏からのものだった。

 LC630というのは、前年の9月に発売された、入門者向けの、機能をやや省略した「割安」の機種だと、ちょうど借りていたMac雑誌に載っていたが、それでも、発売時には本体だけで、25万円の希望小売り価格がついていた。

 それが、F氏によると、約10ヶ月経った今では、半額以下の10万円程度に下がっていて、さらにそのあと、アップル社から2万円の払い戻しがあるのだという。また、「クラリスワークス」など、おもなソフトはすでにインストールされており、それ以外にも、いろいろなCD-ROMなども付属している(バンドルされている)とのことだった。

 まだまだ先のことだと思っていたパソコン購入が突然、現実味を帯びてきた。というより、千載一遇の機会に恵まれたような気になってきた。

 ボーナスを貰って気が大きくなっていたこともあり、さっそく家の者に相談すると、異存はないようだったので、すぐにF氏に電話して、日本橋の電器街に行く日取りを決めた。


 ワープロを見に、日本橋に行ったことはよくあったが、パソコン売り場に行ったのは初めてだった。「付き添い」を買って出てくれたF氏はさすがに手慣れたもので、数ある「パソコン専門店」の中からいくつかに絞って、案内してくれた。

 それらの店には、それぞれ特徴があるようで、例えば、「ソフマップ」という店は、Macやそれに関連する商品の品揃えのよい、オーソドックスな店であった。また、それよりもすこし小さい「T-Zone(ティー・ゾーン)」という店があって、そこは、Mac用のソフトや関連商品が充実している、とのことであった。

 しかし、どちらも値段は「普通」で、もっと安い店は他にあります、と云って連れていってくれたのは、とある小さなビルの上層階にある「阪神商会」という店だった。

 ドアを開けると、小さな部屋の天井いっぱいまで、段ボールの箱に入ったMacが山積みされていて、そこに太い字で手書きされた値札が貼ってあった。たしかに、先の2店よりは大分安くて、目指すLC630も置いてあった。

 F氏は、もう1軒、この手の店がありますが、そこも見てみますか? と云ってくれたが、これまでかなり歩いていて、すこし疲れたので、この店で買うことに決めた。

 F氏はディスプレーも見つくろってくれた。同じブラウン管でも、やや丸く湾曲したものと、真っ直ぐなものとがあるそうで、画面の文字を見るには後者でなければならないと云って、ソニー製の「トリニトロン」の15インチを選び、店員との値引き交渉もしてくれた。

 日誌によれば、購入したのは1995年7月27日、本体のLC630が9万9800円、ディスプレーが5万3000円、あとから2万円戻ってくるので、思っていたよりも安い買い物で、おりしも、私の50歳の誕生日直前のことであった。




(このあとは、本でお読みください)


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