デジタル創世記2

   

 わがデジタル創世記(下)



目次


第1章 パソコンと出会うまで

第2章 50歳でパソコンを始める

第3章 マルチメディアCD-ROM

第4章 インターネット ~ Mac Fan Expo

(以上は上巻)


第5章 音楽のデジタル化へのあゆみ

第6章 写真と動画のデジタル化へのあゆみ

第7章 「テレビ番組録画」の苦難の道のり




     

     第5章 音楽のデジタル化へのあゆみ



 バッハやベートーベンが生きていた頃、音楽を聴くことは、一般に日常的なことではなかった。人々は特別な日に、教会や劇場や公園などで、音楽が演奏されるのを聴くしかなかった。ましてや、自宅で音楽を聴くなどということは、自前の楽士たちを抱えた一部の「王侯貴族」以外には不可能なことであった。ところが現在では、生の演奏ではないにしてもそれに近い音で、音楽を、自宅や、あるいは歩きながら聴くことが、だれにでも可能になっている。そんな時代になってきた道のりを、ささやかながら「自分史」を通して、たどってみたい。




ラジオとレコードの時代

 音楽がひろく家庭に入ってきた最初は多分、ラジオを通してであろう。

 無線電波による「ラジオ放送」が世界ではじめて流されたのは、1920 年のアメリカだといわれているが、そのわずか5年後の1925年には、日本でも日本放送協会(NHK)による放送が開始されている。関東大震災の勃発によって、「緊急連絡網」の必要性が痛感させられたからであろう。

 それから四半世紀後の、私がものごごろついた戦後まもなくの頃、私の家にも、古ぼけた木製のケースに収まった大きなラジオがあったが、その感度はすこぶる悪かった。かろうじて、NHKの第一放送と第二放送が受信できた程度で、ちょうどその頃(1951年)開局された民間放送局(民放)のおもしろそうな番組がほとんど聴けないのが残念だったのを憶えている。

 やがて、戦後復興とともに、ラジオ受信機も改良されて、「5球スーパーラジオ」というものが現れ、ようやく、音楽を楽しむというレベルになってきた。

 一方、音楽を聴く道具としては、円盤型の「レコード」がすでに19世紀末に完成していたが、それをかける「蓄音機」というのは、ながらく贅沢品で、私たちにとっては雲の上の存在でしかなかった。

 ところが、1950年代の終わりになって、ラジオに接続して、そのスピーカーからレコードを聴くことができる「レコード・プレーヤー」が、4000円ほど(今とは貨幣価値は違うが、お年玉を貯めればなんとか買える価格だった)で発売されるようになって、ようやく手が届くものになってきた。




 プレーヤーを買えば、次はレコードである。私がはじめて買ったレコードは『ウエストサイド物語』であった。これは、高校1年の時(1961年)に封切られた映画のサウンドトラック版である。友だちといっしょに、大阪梅田の満員のロードショー劇場で観たその映画にえらく感動したのであろう。

 ただ、レコードは高かった。LP盤がたしか2000円位していたので、今のCDとたいして変わらない。数年後、大学に入った時、日本育英会の奨学金が月3000~5000円、週2回2時間ずつの家庭教師をして月5000円、四畳半一間の学生下宿の家賃もそれぐらいの時代だったので、そうたびたび買えるものではなかった。

 そこでレコードの「代用品」として登場したのが、ビニールシートに、レコードと同じように「音の溝」を刻み込んだ「ソノシート」であった。

 出版社などが「クラシック音楽全集」といったものを月刊で発行していることが多かった。私は、中央公論社から出ていたものを定期購読していたが、レコードというより、本が主体だったので、バロックからガーシュインまで、クラシック音楽の歴史とその作曲家について、たくさんの知識を仕入れることができた。

 こうしてソノシートの枚数は増えても、レコードはずっと『ウエストサイド物語』1枚きりだったのだが、大学に入って数年した頃、ある友人からクラシックのレコードをどっさりと貸してもらう機会があった。

 小林秀雄の愛読者だったその友人のコレクションには、小林が『モオツアルト』で取りあげていた『弦楽五重奏』などのほか、バッハの『ブランデンブルク協奏曲』や『無伴奏チェロ組曲』など、本格的な作品が満載で、それまで、ソノシートの「名曲抜粋」版しか知らなかった私のこころを震撼させるのには充分なものであった。




「ステレオ」との出会い

 身を入れて音楽を聴きはじめると、その音が気になってくる。ステレオによる「立体音響」というのが、大分前から話題になっていた。少し離れた2つのマイクで録音した音を、少し離れた2つのスピーカーから別々に流して、その左右「少し異なった」音を耳にして、立体感を感じ取るというものだが、その再生装置は、蓄音機よりもはるかに高価なものであった。

 そこで、民間放送が始まって間もない1952年頃から、「立体放送」というものがおこなわれるようになった。これは左右の「少し異なった」音を、2つの放送局から同時に放送し、それを2台のラジオで別々に受信して同時に聴く、というものである。

 NHKは第1と第2のふたつの放送局を持っていたので比較的簡単にでき、1954年から『立体音楽堂』というレギュラー番組が開始されて、それは10年ほど続いた。

 ただ、放送局をひとつしか持たない民間放送局にとっては、立体放送は面倒なもので、ときたま特別番組として、大阪の「毎日放送(元の新日本放送)」と「朝日放送」が共同で、ステレオのそれぞれの音源を放送したり、のちには、自社系列のテレビ局とラジオ局が組んで「立体放送」をしたりしたが、あまり長続きはしなかったようである。

 ステレオのレコードも1958年から発売されていたが、まだまだ「モノラル盤」の方が主流だった。例えば、あのビートルズにしても、初期の数枚のアルバムや、EP盤でも1968年の『ヘイ・ジュード』までは、オリジナルのものはモノラル盤だった。私が買った『ウエストサイド物語』も、「ステレオ盤」と「モノラル盤」の2種類があって、ステレオ再生装置を持っていない私は、少し安い「モノラル盤」の方を買っていた。

 私が高校生だった1960年代前半には、「レコード・コンサート」という催しがよく開かれていた。大阪一のコンサート会場である「中之島フェスティバル・ホール」でも、舞台に大きなステレオ・スピーカーが置かれて、司会者のていねいな解説を聞きながら、クラシックの名曲や、映画音楽などを楽しんだものである。



「ステレオ」の大衆化

 その高価だった「ステレオ再生装置」が、1960年代後半に、一挙に大衆化した。

 「立体放送」や「ステレオ盤」が普及していくにつれて、文字通り、好い音で好い音楽を楽しみたい、という人々が増えてきたこともあろう。「応接間の高級家具」的な外観よりも、中身の「音質」にこだわった、しかもより安価な「ステレオ」が求められるようになり、いわゆる「セパレート・ステレオ(モジュラー・ステレオとも云った)」というものが発売されるようになった。

 これは、プレーヤー・アンプ・チューナーが一体となった本体と、スピーカー2本とが、3点セットになったもので、それまでの大げさな「一体型」とは違って場所をとらず、また、スピーカーの位置を自由に変えて、ステレオ効果を自分好みのものに調節することもできた。

 大学の3回生ぐらいの時だっただろうか、そのころ親しくしていた友人のO君の下宿を訪れると、そのドアの向こうから何やら芳(かぐわ)しい音楽が聞こえてきた。バイトのお金がまとめて入ったので、ステレオを買った、とのことであった。

 ソノシートや借りたレコードで、かなり音楽に親しむようになっていたとはいえ、ステレオを買うなんて考えたこともなかった私は、ドイツ・ローマン派文学のファンだが、とりたてて音楽好きとも思っていなかったO君とステレオの意外な取り合わせに、驚いた。

 何でも、何かのついでに電器屋に行った時、ステレオの実物を見て、これでワーグナーを聴いたら凄いだろうなぁ、と思って、すぐに買ったとのことだった。オンキヨーというメーカーのかなりコンパクトな「モジュラー・ステレオ」で、その黒いスピーカーが2つ、部屋の柱にかけられていた。

 あらためて、同時に買ったという、ワーグナーのステレオ・レコードを聴かせてもらった。そのスピーカーは、小さいながらも、音量豊かで、左右から分離されて迫ってくるステレオ音は圧倒的だった。

 「はじめて、『ワルキューレ騎行』と『ジーグフリートの葬送行進曲』を聴いた時は、陶然として、鳥肌が立ったよ」

 そう云いながら、じっと目をつぶって、音楽の中に溶け込んでいくO君は、私たちがこれまで知っていたO君とはまるで別人で、別次元の高い回廊をふわふわと歩んでいるように見えた。

 O君がステレオを買ったというニュースはたちまちにして友人間を駆け巡った。連日のごとく、そのステレオを見に(聴きに)訪れる者が絶えなかった、とのことだった。

 みんな、それまで、いろんな音楽を、いろんなかたちで楽しんではいたが、「ステレオを買う」という発想を持ったものはだれもいなかった。そんな贅沢は学生には無理だろう、という「自己抑制」のようなものが働いていたのだろうか。その「タブー」を、温厚で寡黙なO君が打ち破ったのだ。まもなく、ステレオは私たちの間でブームとなり、下宿の小さな部屋に、いろんなメーカーの「モジュラー・ステレオ」を置く者が増えていった。



「ステレオ」を買う

 私がステレオを買ったのは、その2年後の1968年のことである。家庭教師をしたり、夏休みに百貨店のアルバイトをしたりして、充分な資金は貯まっていた。先行した友人たちの意見を聞いたり、自分でいろいろ調べたりして選んだのは、トリオ(のちのケンウッド)社製のモジュラー・ステレオだったが、この数年の間に、ステレオの性能はうなぎ登りに上がっていて、O君が買ったのと同じぐらいの値段で、ずっと高性能なものを買うことができるようになっていた。

 私が購入してまもなくの頃だったろうか、そのO君が、はるばる大阪の私の自宅まで遊びに来てくれたことがあった。私が買ったステレオを拝見、というのが来訪の一番の目的だったのだが、その音を聴くなり、思わず、好い音だねぇ、と溜め息まじりに絶句したO君の表情から、ありありと「悔しさ」のニュアンスが滲み出ていた。

 あのあと、みるみる友人間に伝播していった「ステレオ熱」によって、次々と購入されていったモジュラー・ステレオはどれも、どんどんと改良を加えられた「新製品」ばかりだったので、当初みんなを驚嘆させたO君のオンキヨー製のステレオはすっかり陳腐なものになってしまっていた。前は全然感じなかった「音の歪み」が気になってしようがない、とこぼすことも多くなった。いわば、O君は、栄光のパイオニアには付き物の「先駆者の悲哀」を味わう破目になっていたのだった。


 その後、私は学校に就職して、いっぱしの給料取りになったが、その職場にも、「オーディオ・ブーム」が押し寄せてきた。その頃は、学生時代のような安価な「モジュラー・ステレオ」ではなく、スピーカー、アンプ、プレーヤー、チューナーを別々に買って、自分好みのセットにする、という「コンポーネント・ステレオ」の時代に入っていた。

 時は、「石油ショック」後のインフレで、給料も上がり、やがて「バブルの時代」へと突入していく門口のあたりだっただろうか、ボーナスでまとまったお金が入った時、みんな、普段はそれほど音楽に興味を持っていないような人まで、競って、「コンポーネント・ステレオ」を買い求め始めていた。私も、トリオのモジュラー・ステレオを使いはじめて10年近くになり、レコードも、その後「ハマった」ビートルズを中心にかなり集っていたので、そろそろ、新しいステレオが欲しくなっていた。

 そして、いよいよ買うと決心した時、その先導役になってくれたのが、のちにMacを購入した時、どっさりと「お試し版ソフト」を貸してくれた、あの理科のN先生だった。彼は私よりも年下だったが、その学校に就職したのは同期で、すでに「コンポーネント・ステレオ」を購入し、とくに、スピーカーに凝って、2つセットで数十万円もする外国製のを買ったというのが評判になっていた。

 そのN先生の案内で、私たちは日本橋の電器街を訪れた。のちにMacを買った時、あのF氏に案内されたのと同じように、N先生も、当時、「オーディオ」一色だった日本橋の数ある中から厳選した店々に連れていってくれた。

 まず最初の店は「試聴するだけ」で、次の店で「値段の相場」を調べ、そして、買うのはいちばん安いココだ、といって行き着いたのが、「シマムセン」という店であった。

 「シマムセン」に行くまでに、私たちはいろんな機種のステレオを試聴して、ある程度、候補を絞っていた。実際にいろいろ聴き比べて、いちばん違いがはっきりするのは「スピーカー」である。同じぐらいの価格帯でも、いろんな音のスピーカーがいっぱいあったが、私がその時に気に入ったのは、日本コロンビア系列のDENON(デノン)社の「SC-104」というスピーカーだった。「密閉型」という方式のそのスピーカーの音は、他のと比べて、その「硬質」さが際立っていた。言い換えれば、とても「歯切れのよい」「クリアーな」「乾いた」音だった。





 「ちょっとこれは冒険だな」とN先生は云った。「クラシックには、キツイだろ」

 たしかにそうだった。弦楽器の伸びる音はやわらかさに欠け、低音の響きも弱いようだった。ただ、エレキギターをはじいた音や、ベースやドラムの切れ、ピアノのコロコロと転がるような響きが、布カバーを突き抜けて前に跳び出してくるような弾んだ感じが捨てがたかった。このところ、クラシックよりも、ロック系統のレコードを聴くことが多くなっていた私は、あえて我を通した。ただ、N先生や店員さんの助言を入れて、アンプはやわらかめの音を出す「山水電気」製のものにすることにした。そして、プレーヤーは「ダイレクトドライブ」に定評があったテクニクス製、チューナーも定評のトリオ製のものにして、総額は20万円を少し超えたぐらいだったかと思う。独身時代最後の大きな買い物だった。

 この「コンポーネント・ステレオ」は、その後、結婚して、何回か引っ越すたびに持ち運んで、Macを購入した1995年まで、約20年間、生活をともにした。

 ただ、大きなスピーカーを買っても、それが十分に使いこなせたかどうかは疑わしい。アンプの10段階の音量目盛が3を超えることはなかった。スピーカーの容量が大きいほど、音量を絞ってもいい音が出る、とは云われていたが、物足りない気持ちは晴れなかった。「ステレオを楽しむなら、部屋からつくり直さなければならない」という冗談が、冗談ではなくなっていた。

 「ヘッドホン」というのも買ってみた。モノラル音を聴くと、頭の真ん中から聴こえてくる違和感があったが、ステレオは素晴らしいものだった。俗世間から離れて、自分ひとりの世界の中に閉じこもることができた。ただ、これでは、大層な「コンポーネント」を持っている意味はなくなってしまう。




「テープ」に録音する 

 ステレオの音源はレコードだけではなかった。AMラジオ2波を使った「立体放送」の時代が終わり、FM放送が開局すると、1969年からFMステレオ放送が始まっていて、FMチューナーをもちいると、きれいなステレオが聴けるようになっていた。そして、それを録音するテープデッキも、カセットテープ用のコンパクトなものが開発され、それにFMステレオを録音するという楽しみ方が成立して、「エアーチェック」とも呼ばれていた。

 私も、1981年頃にDENON社のカセットデッキを購入した。テープが終わりまで行くと、自動的に復路に切り替わる「オートリバース」や、雑音を除去する「ドルビーC・システム」、それに録音した音を即座に再生して、ほぼ同時に「モニター」できる装置などが付いた最新式のものであった。「エアーチェック」向きに、FM放送の内容を詳しく伝える雑誌がいくつも出版されていて、それらを時々買っては、カセットテープの「音楽コレクション」を増やしていった。

 1980年代に入ると、「貸しレコード」の店が増えてきた。会員になったりするのが面倒そうなのでしばらくは敬遠していたが、職場からの帰り道の、ちょうど便利なところに新しい店ができた時、思い切って会員になってみた。自分が本当に聴きたいレコードは、買って自分のものにしなければ気が済まなかったが、それほどではなくて、しかし、何か気になるもの、その頃でいえば、「フォーク」から発展して流行しはじめていた、いわゆる「ニューミュージック」、今でいう「J-Pop」系のレコードなどを何回か借りてカセットテープに録音したりした。

 ところが、1982年、小さな円盤にデジタル録音したCD(Compact Disc コンパクトディスク)が発売されると、その扱いやすさや雑音がほとんどないことが歓迎されて、たちまち市場を席巻、それまでの「(アナログ)レコード」はあっという間に駆逐されてしまった。レコード店やレンタル店からだんだんとレコードの姿が消え、CD一色の様相になってくると、CDプレーヤーを持たなくては新しい音楽は聴けなくなってしまった。そこでやむなく、CDデッキを買おうと、久しぶりに日本橋の「シマムセン」に行くことになった。

 かつて「オーディオの街」だった日本橋の「でんでんタウン」はいつの間にか「パソコンの街」になっていて、オーディオの看板はどこにも見当たらず、すこし心細くなってきたが、「シマムセン」は健在だった。

 さすがに往年の賑わいはなかったが、以前とあまり変わらない品揃えを維持し、いまや数少なくなってしまった「オーディオ専門店」の店構えを保っていた。入り口に立っていた少しベテラン気味の店員に来意を告げると、意外なことに、彼は単品のCDデッキではなくて、すぐさま、いわゆる「ラジカセ」を推薦した。

 「この頃のは、音にこだわった製品もいろいろ出てきて、そこらへんのステレオには負けないものもありますよ。それに便利だし」と云いながら、彼はSANYO製のZooSCENE(ズシーン)という、やや大型のラジカセを紹介してくれた。

 購入したそのラジカセは、CDデッキの他、カセット・テープレコーダーが2つ付いた「ダブル・カセット」のもので、CDやラジオからの録音の他、テープからのダビングも簡単に、しかも高速にでき、音もけっこう好い、至れり尽くせりの製品だった。


 こうして、私の音楽コレクションは、「エアーチェック」や「ダビング」を経て、カセットテープに集約されていくことになるのだが、1979年には、ソニーから、携帯型ステレオカセットプレーヤー、いわゆる「ウォークマン」が発売された。

 「ヘッドホン」でステレオを聴くということは、立派なスピーカーがあるのに、という後ろめたさもあったが、その簡便さと意外な音質の好さから無視できないものであった。

 「ウォークマン」は、大きなヘッドホンを、小型高性能のステレオ・イヤホンにし、さらに、飛躍的に音質が改良されたカセットテープを組み合わせることによって、大げさな「コンポーネント・ステレオ」をコンパクトな「ポータブル・ステレオ」にしてしまったのである。また、ひとりで、どこででも音楽を楽しめる、という自由さも、その大ヒットの原因だったかもしれない。

 私が買ったのは、1990年代に入ってからだったと思うが、ソニー製ではなく、より廉価で、録音やラジオの機能もついた「アイワ」というメーカーのものであった。




「MP3」に魅せられる

 Macの先導者は同僚の教師だけではなかった。生徒の中にもいた。

 高校ともなれば、いろいろユニークな生徒もいる。教室では居眠りばかりしていても、放課後になるとがぜん張り切って、クラブ活動などに目の色を変える生徒は多い。私の勤めていた学校で、パソコン関連のクラブといえば、「電気物理部」と「放送部」があった。

 「電気物理部」は、いわゆる「ラジオ少年」にルーツを持つもので、ハンダゴテを使ってラジオを組み立てたりするのが好きな生徒の集まりだったが、メインの活動は「アマチュア無線(ハム)」だった。その後、パソコンの時代になると、プログラムを組んで簡単なテレビゲームや小型ロボットをつくったり、中にはパソコンを自作する者もいた。当然、OS(オペレーティング・システム)は「MS-DOS」や「Windows」ということになる。

 一方、「放送部」というのは、学校の正規の放送設備を使って「放送活動」をするクラブである。

 学校の図書館では、本の好きな生徒たちを「図書委員」に任命したり、「図書部」というクラブをつくって、図書の仕事の手伝いをさせたりすることがあるが、放送部も、信頼できる機械好きの生徒に放送設備を任せることによって、その維持管理の手間や費用が節約できるので、学校としても、多分ありがたい存在であった。

 もちろん、公式の「放送連絡」は教師が行うが、昼休みや放課後の「校内放送」で、音楽を流したり、生徒会関係の連絡をしたりするのは放送部の役割で、その他、学校行事、とくに運動会での「場内放送」は放送部の大きな仕事であった。

 それ以外は、とくに定められた活動はなく、その時々の部員たちの好みによって決まっていたようだ。一時期、「放送劇」に凝って、民放局主催のコンクールに応募して、賞をとったりしたこともあったが、パソコン時代になると、自分のパソコンを放送室に持ち込んでいろいろ「勝手な」ことをやっている生徒もいた。そんな生徒のひとりにY君というのがいて、彼がじつは、ハイレベルなMacユーザーだった。

 以前から、文化祭の時に発行される放送部のパンフレットに、専門誌顔負けの詳しいMac記事が載っていて、秘かに注目していたのだが、その筆者がY君だった。彼とは、高校3年生の時に授業を持つ機会があって、はじめて面識ができた。大柄で優に90キロは超える巨漢だったが、その指先はきわめて器用で、さまざまな組み立て作業はお手のもの、それに驚いたことに「電気工事士」の資格試験にも合格しているとのことだった。

 Y君を知ってから、Macに関する困ったことがあれば、彼に頼ることが多くなった。ある時、職員室のMacの、CD-ROMのトレイ部分が出てこなくなり、にっちもさっちもいかなくなったことがあった。そんなとき、ちょうど、何かの用事でY君が職員室にやってきた。助け船到来、とばかりに彼に窮状を訴えると、彼は涼しい顔で、Macのケースの上の部分をつかんで、何度か揺すった。すると、それまでどうしても動かなかったCD-ROMのトレイがするすると出てきたのだ。その間、わずか数秒。あたかも「神の手」のごとくに見えた。

 彼の「神の手」は、事務所の人々にも知れ渡っているようだった。

 授業の区切りのチャイムを鳴らす装置が事務所に設置されているのだが、それが時々不調になって、時計が狂ったり、鳴らなかったりすることがある。そんなとき、業者を呼ばなくても、Y君に云えば、あっという間に修理してくれる、とのことで、彼への信頼は絶大なものであった。なんでも、その「ご褒美」として、彼の注文する新しいMacが、生徒会予算ではなく、事務所の持つ予算で、学校の設備機械として、放送部に入ったという噂もあった。

 Y君が高校3年生の、最後の運動会の時、本部席のテントの一角にはいつものように放送設備が設置されていたが、そこには、普通なら「引退」しているはずのY君が例年と変わらず、その中央にその巨体を据えていた。そして、その目の前にあったのが、「青白のポリタンク」と呼ばれていた、当時最新のPower Mac G3であった。

 「これが買ってもらったやつか?」

 彼はニヤリと笑ったが、返事はなかった。それにしても、運動会の最中、この新品のMacで何をしているのか。よく見れば、運動会の放送には必須の、カセットデッキや音楽テープ類が見当たらない。Y君はじめ、後輩の放送部員たちの目は、Macのモニター画面に注がれていた。

 「MP3ですよ」

 私の質問よりも先回りして、Y君はそう云った。

 MP3(MPEG Audio Layer-3)というのは、音声ファイルの一種で、「MP3作成・再生ソフト」を使うと、CDとほとんど変わらない音質の音楽を、その10分の1の容量に圧縮してパソコンに保存し、アイコンをクリックするだけで再生することができた。もはや、カセットデッキを用意して、演目ごとに頭出ししておいたテープを取っ換え引っ換え、出し入れする必要はなかった。 

 MP3については、すでにMac雑誌を通じて、一応のことは知っていたが、はじめてその実物を見て、すっかり魅せられてしまった。便利で、使いやすく、嵩張らずに、音も悪くない。さっそく日本橋に行って、店頭に山積みされている「MP3ソフト」の中から、使いやすそうで、値段も手頃な「早録りMP3」というのを購入した。

 さっそくMacにインストール。そして、家にあったCDを片っ端からMP3に変換していった。音は悪くない、といっても、Macのスピーカーではしれているので、例の大型ラジカセに接続して、そのスピーカーから聴くようになった。


 ところでY君は、その後、自分たちの「卒業式」の記録ビデオを自主製作するという、当時、途方もないと思われた計画を立ち上げた。そして、当日、後輩の放送部員たちに何台ものビデオカメラを持たせて撮影し、さらに自分もカメラを抱えて、教師や親たちのインタビューの撮影に走り回った。そして、それを50分ほどのビデオテープに編集し、あらかじめ購入を予約していた卒業生たちに後日郵送するという事業を見事にやり終えた。

 彼は、大学入試では、自分の抱負や能力を書類と面接でプレゼンテーションする「自己推薦入試」で、すでに前年の秋、見事に筑波大学に合格していた。そして、入学後は、自分の得意分野に能力を発揮し、「起業」もするなどして活躍しているらしいという噂が耳に入った。「推薦」枠で入学した生徒が入学後に好成績を収めると、その出身高校に対する信頼度が高まる、ということがあるのかどうか知らないが、その後、放送部や電気物理部の部員たちが、同じ「自己推薦入試」で筑波大学に合格するということが何年か続いた。




「iPod」の登場

 さて、CDのMP3化は進んだが、できあがったMP3ファイルをラジカセのスピーカーから聴くというだけでは、CDと代わり映えがしない。いちいちCDの出し入れをする手間が省けるというだけである。そこで求められたのは、これをなんとか携帯できるものにならないだろうか、ということであった。

 すでに、ウォークマン・タイプの「携帯カセットプレーヤー」は利用していた。しかし、テープは長くても90分程度で、中身を変えたければ、何本ものカセットを持参しておかねばならない。その点、MP3なら、自分の好きな曲を好きなように集めて編集した「アルバム」をつくることもできる。その頃すでに、それにかなった「携帯用MP3プレーヤー」は、「Rio(リオ)」という製品をはじめ、何種類も発売されていた。ただ、その容量が、どれも64MB(メガバイト)程度で、20数曲、CD2枚分ほどしか入らない、というのが不満であった。

 そこに、2001年10月、アップル社から「iPod」が発売された。これは既存の「携帯用MP3プレーヤー」の延長線上にあるものだったが、画期的だったのは、小型のハードディスクを使っていたので、容量が5GB(ギガバイト)もあり、1500曲以上のMP3ファイルが収納できるということだった。そして、パソコンとの接続は、高速の「FireWire(ファイヤーワイヤー)」という回線を使っていたので、1500曲の転送でも30分ほどしか掛からなかった。これはいい、と思わず手が出かかったが、4万7800円という、従来機の数倍の価格が大きなブレーキとなった。ところが、それを敢然と購入した人物が身近にいたのである。

 それは同僚教師の、理科のT氏であった。T氏は、私のステレオ・コンポーネントの先導者の、あのN先生よりはひと回りほど若い生物の先生だったが、ちょうど、私よりも少し前におなじMacのLC630を買っていたこともあって、「同期の親しみ」を感じるとともに、いろいろとアドバイスもしてもらう仲だった。

 そのT氏に早速「iPod」を触らせてもらった。

 ずっしりとした機体を握ったその裏面の、鏡面加工されたステンレスの輝きが印象的だった。工夫された「ホイール」を指で回すと、液晶画面に次々と曲名が表示され、聴きたい曲をすぐに見つけることができた。イヤホンを耳に差して聴いてみると、なかなかいい音だった。




 実物を見て、ますます気に入ってしまった「iPod」ではあったが、すぐには購入しなかった。もうしばらく待てば「改良版」が出て、値段も安くなるだろう、と踏んだのである。そして、5ヶ月後の2002年3月、新しい「iPod」が発売された。しかし、それは容量を10GBに倍増しただけのもので、旧来の5GBの値段は据え置きのままだった。

 「半年も経たずに値下げされたら、怒りますよ」

 T氏がそう云うのももっともだと思い、私はあきらめて、5GBのiPodを購入した。

 「同期」のT氏ではあったが、彼は学生時代にすでに大学のMacを使っていたとのことで、その点、私よりもはるかに先輩であった。ところが、専門の研究分野のことはいざ知らず、学校で使うワープロなどのソフトには無頓着だった。あの亡くなったF氏と同じく、「マックライトⅡ」をずっと使っており、また、点数計算はエクセルではなくて、いつまでも「電卓」を使っていたのは不思議だった。

 ただ、学生時代、野球部の選手だったというT氏は、典型的な「アウトドア派のスポーツマン」だった。学校では野球部のコーチとして、土曜日曜も練習や試合に出かけ、それがない時には、オートバイや自転車でのツーリング、さらには在住する大阪市内を数十キロもジョギングするなど、家でパソコンの前にじっと座っているような時間はなかったのかもしれない。

 しかし一方、その分、パソコン関連の携帯デバイスには関心が深かったようで、デジカメの元祖ともいえる、アップル社の「QuickTake 100」という伝説的な機種を、発売直後に購入していた。そして、MP3プレーヤーについても、サイクリングやジョギング中に聴くために「Rio」などを物色していたが、やはり容量が不満で、迷っていたところ、それを解決したiPodが出たので、これだ! と思って、迷わず購入したとのことだった。




「iPod」の進化、発展

 iPodが発売された時、アップル社のCEO(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブズは「世界を変える革命的な商品になるだろう」と云ったそうだが、当時の私には、その意味が解らなかった。「MP3プレーヤーの容量を大きくしただけじゃないか。なんで?」

 アップル社は「MP3プレーヤー」としてのiPodを売るだけではなかった。iPodに音楽を転送するための専用の「MP3作成・再生ソフト」である「iTunes(アイチューンズ)」をつくって無料配布し、次に、iTunesに直結した「iTunes Music Store(のちの iTunes Store)」というネットショップを開設して、そこから音楽をダウンロード販売することを始めたのである。

 この音楽のダウンロード販売(ネット配信)は、これまでいろんな会社が手がけていたが、さまざまな障害があって、かならずしもうまくいっていなかった。とくに、CDをMP3化して、ネットで無断配布するという「海賊版」が横行したため、音楽業界はMP3を敵対視する傾向があった。しかし、アップル社は「著作権保護」の仕組みを整備し、ダウンロード販売は「海賊版」撲滅に効果的で、音楽産業の新しい収入源にもなるのだ、とアメリカのレコード会社をたくみに説得して、大部分の楽曲を1曲99セントという廉価でネット販売することに成功した。

 また、当初、Mac版だけしかなかったiPodをWindowsにも対応できるようにしたことから、その売れ行きは爆発的に増え、iPodは一挙にMP3プレーヤーだけではなく、それまで「ウォークマン」が君臨していた「携帯音楽プレーヤー」のトップの座をソニーから奪い取ってしまったのである。

 そして、その後も、アップル社による「革命」は続いた。液晶画面がカラー化されて、写真表示が可能になり、さらに動画再生も可能になって、iTunes Storeからダウンロードした映画を観ることもできるようになった。そして、それに「電話」と「カメラ」が付いて、2007年、「iPhone」が登場した。

 iPhoneは電話と云うよりも、超小型のパソコンで、「iOS」という基本ソフトの上で、さまざまなアプリケーション・ソフトが動くようになっていた。そういうタイプの携帯電話はすでに「スマートフォン」という名前で存在していたが、ゴマ粒のようなキーボードをマッチ棒で押すような使いにくさで、一部以外にはあまり普及していなかった。それをアップル社は、液晶画面を指でタッチして操作する「マルチタッチ」方式を取り入れて、使い勝手のよいものにし、携帯電話の世界を一挙に「スマートフォン(スマホ)」全盛へと導いてしまった。その後、2010年には、タブレット型の「iPad」を発表して、パソコンのあり方に大きな衝撃を与えたのは周知の通りである。

 この間の私の先導者はずっとT氏であった。初代のiPodにもそろそろ飽きてきた2005年、ハードディスクではなく、半導体に直接記憶させる「フラッシュメモリ」を使って、チューインガム大にまで小型化された「iPod shuffle」が発売された時、即座に購入して、見せてくれたのもT氏だった。

 液晶画面を付けるスペースがないのを逆手にとって、収納された曲が「シャッフル(順不同)」されて流れてくる、というのを売り物にしたものであったが、思いがけない曲が次々と流れてくるという体験は、聴き飽きた音楽にも新鮮な息吹を与え、なかなかのアイディアだと思った。約150曲入る512MBのものが1万円程度と手頃な値段だったので、私も早速、その翌月に購入した。

 iPodシリーズには、白いイヤホンが付属しているのだが、その音質がよくない、という噂があったので、8月に、オーディオ・テクニカ社の「ATH-CM7Ti」というイヤホンを購入した。チタンを使っているのが売り物だったが、価格は1万5500円、本体のiPod shuffleよりも高かった。




 「ステレオでもスピーカーによって、全然音が違うでしょう? イヤホンでも同じですよ」というT氏のことばに背中を押されたかたちであった。彼はすでに、2万円近いイヤホンを持っていた。

 そうして買った「ATH-CM7Ti」であったが、さっそくiPod shuffleにつないで聴いてみると、何だかぼんやりとした音しか出なくて愕然とした。

 買う前に店頭で何度も実際に試聴していた、あの、私好みの「乾いた、クリア」な音とは全然違っていた。どうしたことかと頭が真っ白になり、我に返ってから、ネットでいろいろと調べてみたら、「エイジング」ということばが見つかった。

 「熟成」、「慣らし運転」という意味だそうで、音響製品、とくにスピーカーやイヤホンなどが新品の時に、材料の金属などが十分に「こなれて」いないことがあるが、しばらく使っているうちに、本来の調子になってくる、とあった。実際、その通りにやっていると、まもなく、あの気に入っていた音になってきたので、ほっと胸をなで下ろした。


 翌2006年には、新発売された「iPod 5G」を購入した。3万4800円だったが、30GBもあって、CDからどんどん取り込んで増える一方の「音楽コレクション」を全部収納できたうえ、動画再生も可能だったので、iTunes Storeで買った映画や、取り込んだテレビ番組も観ることができた。

 一方のT氏は、私みたいに「貯め込む」タイプではなかったので、低容量だったが、フラッシュメモリをつかって軽量になった新製品「iPod nano」を買っていた。そして、2008年に「iPod touch(第2世代)、そして、2009年には「iPhone 3GS」へと進展していった。

 そのT氏の歩みは、iPodの初期のようにやみくもに新製品に食いついていくというのではなく、その性能が安定し、よし大丈夫、という確信が持てるようになってから購入するという、堅実なものへと変わっており、その点、私にとって、たいへん得がたい先導者であった。ただ、この頃には、私は定年を迎え、年金をもらいながら嘱託の仕事をするという身分になっていたので、T氏に全面的に追従していくのは無理な経済状態になっていた。


 ただ、この頃、T氏に勧められて、ひとつの買い物をした。それは、モトローラ社製のBluetooth(ブルートゥース)の「ヘッドセット」だった。

 ヘッドセットというのは、ヘッドホンをやや簡便にしたもので、マイクが内蔵されていて、iPhoneにつなぐと、そのまま通話することができた。Bluetoothというのは、「無線規格」の一種で、私が買ったiPod touchにもその機能が付いていたので、無線でヘッドセットと接続することができた。つまり、あの鬱陶しかったイヤホンのコードから解放されたのである。これは一度体験すると元には戻れないほど快適なもので、Bluetoothでは音質が落ちるといわれていたが、そんな欠点を補って十分に余りあるものであった。あのチタン製の、1万5500円もした「ATH-CM7Ti」のイヤホンは、まもなく、抽斗(ひきだし)の奥深くに仕舞い込まれてしまった。




 iPodを購入して、持っているすべてのCDをMP3化し、友人やレンタル店で借りたCDも変換、さらに、2017年には、「Netradiorecorder(ネットラジオレコーダー)」という、ネットで配信されているラジオ放送を録音するソフトも入手して、2018年現在、音楽以外の、落語やラジオ番組などのファイルも含めると1万曲を超えてしまった。そのストックを全部、2015年に買い替えた、容量128GBのiPod touchに入れているが、こうして手持ちの楽曲を常時持参するようになって、とにかく、音楽をよく聴くようになった。

 レコード時代から愛聴していたビートルズだが、ほぼ毎日、通勤の行き帰りに聴くというようなことは、それまでにはなかった。あたらしいレコードやCDを買っても、最初数回聴けば、その後は埋もれてしまうのが常だったが、折りに触れて、何度も繰り返して、聴くようになった。

 以前のように、自分の部屋のステレオやラジカセの前だけではなく、いつでもどこでも好きな曲が、手軽に、何の気兼ねもなく、しかもそれなりに美しい音で聴くことができるようになって、音楽がみじかな、自分個人の専有物になった。いわば、かつては王侯貴族にしか許されなかった「専属の楽隊」を、数百年後の私たちは、だれもが、いつでもポケットの中に持ち歩けるようになったのである。





第6章 写真と動画のデジタル化へのあゆみ




「8ミリ映画講習会」

 学校に就職して何年か経った頃、たぶん1970年代の中ごろだったろうか、そのとき担当していた「視聴覚教育」の同僚の先生に誘われて、「8ミリ映画講習会」なるものに出席したことがあった。

 場所は、大阪市の中心部、地下鉄長堀橋駅近くのビルにある「野木」という視聴覚機器の専門商社の会議室であった。大阪府内の公立私立の高校からやってきた50名ほどの教師を前に、「エルモ」社という8ミリ映画機器メーカーから派遣された人が、そもそも8ミリ映画とはどういうものなのか、どんな製品があるのか、8ミリ映画を撮影するときには、どんなことに注意すればいいのか、などの講義があったあと、実際に8ミリカメラを貸してもらっての「撮影実習」も用意されていた。

 8ミリ映画については、それまでテレビのコマーシャルで見た程度の知識しかなかったので、「カセット式」の8ミリフィルムには、アメリカのイーストマン・コダック社の開発した「スーパー8(エイト)」と、日本の富士フィルムが開発した「シングル8(エイト)」の2種類があることなどを、この時、はじめて知った。

 「実習」のために貸与されたエルモ社のカメラは「スーパー8」であった。そして、各人にフィルムが2本ずつ配られたが、撮影時間は1本が3分20秒、2本でも僅か6分40秒であった。それらを持って、そのあと、「天王寺動物園」まで、撮影実習に赴いたのだが、その前に受けた「撮影上の注意」とは、次のようなものであった。

 まず、初心者がいちばん犯しやすい間違いは、カメラを動かしすぎることである。1つのシーンについて、少なくとも5秒間はじっとしておかねば、上映された映画の観客にはその内容が十分に認識できない。よって、シャッターを押しながら必ず5つ数えること。どうしても、カメラを動かして、広い景色を撮りたい時は、歩いている人物にカメラを向け、その人物を追うかたちでカメラを動かすと、自然な映像になる。

 次に、普通の写真では「フレーム(画面の枠)」は、トリミングすることによって、あとで自由に調整できるが、映画の場合は、それができないので、構図は撮影時に決めなければならない。そのため、どんなカメラでも「ズームレンズ」が付いているが、それはその場に居たまま、フレームを自由に決めるためのものである。

 もちろん、ズームアップをしたりすることもできるが、アップするとボケてしまうことが多い。それは「望遠」にすると焦点深度が浅くなってピントが合いにくくなるからである。そんな時には、シャッターを押す前に、いちど「望遠」にしてピントをきちんと合わせてから、もう一度、「広角」から「望遠」へとズームアップすればよい、等々。

 平日の天王寺動物園は閉園も近い時刻になっていたので、人はまばらだった。そんな園内を小1時間ほど巡り歩き、教わったとおりに撮影を済ませて、1週間後に現像された「作品」を返却してもらうということになった。

 その日は、まず、全体的な「講評」と「注意点」の説明があって、そのあと「上映会」となった。時間の都合上、すべての作品の上映は無理なので、「比較的よく撮れている」作品を10本ほど連続で上映します、ということだった。

 さすが選ばれただけあって、どれも画面の安定した落ち着いた作品ばかりであった。だれの作品という発表はなく、似たような内容ばかりなので、撮った本人もよく憶えてなくて、自分のものだという確信はもてなかったのだが、それらの中に、どうも見覚えのある作品があった。しかも2本も。

 現像されたフィルムは赤いケースに入ったロールに巻かれていた。各自2本ずつ、紙袋に入ったのを返却してもらって、中を開けてみると、やはり、2本ともに「上映用」という小さなシールが貼ってあった。

 50人程が各自2本ずつなので約100本。選ばれたのが10本なので、10倍以上の競争率の中に2本とも入っていたとは、思いもかけない歓びだった。

 もともと映画を観るのは好きだったが、自分で撮ってみようなどとは、それまで考えたこともなかった。しかし、これをきっかけに、すっかりその気になってしまった。

 さっそく、『小型映画』というタイトルの専門雑誌を本屋でみつけて、8ミリ映画や、そのカメラなどについての知識を収集し、やがて、近くのカメラ屋で8ミリカメラを購入することになった。




8ミリカメラを買う

 事前に雑誌で少しは調べていたのだが、実際に店頭で実機に触って、店員さんの説明を聴いたりするうちに、当初の心積もりも変わってくる。結局、購入したのは、その日店頭ではじめて見た、キャノンの「オートズーム512XL」という製品だった。ズームは5倍、8ミリではストロボは使えないので、レンズは「F1.2」という明るいものを使っていて、7万円ほどしたかと思う。




 さっそく、このカメラを抱え、いろんなところに出かけて撮影した。これといって目的となる「行事」もなかったので、いわゆる「風景スナップ」の撮影ばかりだったが、その後、何年か経って、結婚することになり、新婚旅行でハワイに行った時が、このカメラのピークだったのかもしれない。

 撮った映像はきれいだった。スーパー8のフィルムは、はじめ、国産の小西六製の「サクラフィルム」を使っていたが、その後、コダック社製のに切り替えた。

 当時、フィルムの入った箱の色が、サクラフィルムは赤、富士フィルムは緑で、それぞれの会社の「自慢の発色」を示しているといわれていたが、コダックのそれは黄色だった。

 たしかにコダックの黄色は鮮やかだった。とくに夕陽に照らされた町の風景は、現実のそれよりも美しく、何か郷愁をかき立てるような味わいがあった。

 そのころ観て印象に残った映画に『赤ちょうちん』(藤田敏八監督)という作品があるが、そのラストの、引っ越しトラックが夕陽に照らされて橋を渡っていくシーンの色調がそれと同じであった。その映画のクレジットには「東洋現像所」とあり、そこはコダックの「イーストマンカラー」の専属現像所として有名だったので、ああ、同じフィルムを使っているのだな、と感無量になったのを憶えている。

 ただ、派手すぎて、日本の景色には合わない、という批判もあったようで、そのせいかどうか、しばらくして、色調がすこし穏やかなものに切り替えられてしまったのは少し残念だった。それでも、現像時に発色剤を注入する「外式」という方式の発色は抜群で、いちど使うと、少々割高だったが、もう他のフィルムは使えなかった。

 8ミリ映画には欠点があった。それは、わずか3分20秒のフィルムが1本500円以上もし、現像代もそれぐらいしたので、お金がかかることであった。先の講習会でのアドバイスに、ひとつの作品は長くとも、たとえ「世界一周旅行」であっても、15分程度に収めること、というのがあったが、それは観客を退屈させないため、という他に、そのかかる費用を考えてのこともあったのかもしれない。

 それともうひとつ、音がない「サイレント」だということだった。真っ暗な部屋に白いスクリーンを吊るし、カタカタと動く映写機から無音の映像が映し出される、というのが8ミリ映画上映の光景だった。

 当初は、その中に自分や、自分が見知った人物が動いている、というだけで「感動もの」だったかもしれないが、しかし、それが他人であれば、15分もする前に睡魔に襲われるだろう。

 私たちの「ハワイの新婚旅行」の映像も、友人たちには、ご馳走とハワイのお土産付きで、BGMのハワイアン音楽をステレオで流しながら観てもらったのだが、さながら、下手な義太夫を無理やり聴かせて奉公人や店子たちを困らせる、あの古典落語の『寝床』のような雰囲気になるのは否めなかった。

 のちに、フィルムの端っこに細い録音用の磁気の帯が塗布された、トーキーの「サウンドフィルム」が登場したが、それを使うには、カメラも映写機も買い替えなければならず、それが普及する前に、8ミリ映画自体が、急速に台頭してきた「ビデオカメラ」に取って代わられてしまった。




「ビデオカメラ」の時代に

 結婚して子どもができると、カメラは一挙に家庭の必需品となる。子どもの成長記録やちょっとした旅行などはスチール(静止画)カメラで間に合うが、幼稚園の運動会や学芸会ともなると、やはり動く映像が欲しくなる。そんな親たちの中には、私のように8ミリを回している者もいたが、「ビデオカメラ」を使っている者もいた。世の中は少しずつ「ビデオ時代」に入ってきていた。

 当時はまだ、カメラとレコーダーが別々になっていて、重いレコーダーのテープデッキを肩にかけ、もう一方の肩にビデオカメラを担いだ姿は、さすがに真似したいと思えるものではなかった。しかし、技術は日進月歩で、翌年には、VHSのカセットテープのレコーダーと一体となったビデオカメラ(カムコーダー)が現れ、いよいよサイレントの8ミリは時代遅れとなってきた。

 そこで、その翌年には、一体型のビデオカメラをレンタルして、撮影してみることにした。ビデオレコーダーがなくても、そのカメラをテレビにつなぐと撮影した映像をすぐに観ることができた。コダック・フィルムほどの鮮明さはなかったが、音が入ると臨場感が何倍にもなった。8ミリのように、時間とお金を気にせずにいくらでも撮影できるのもありがたかった。


 1980年代の中ごろ、ビデオカセットが小型化されて「8ミリビデオ」の規格が発表され、それにともなって、ビデオカメラもより小型になった。ソニーの「パスポートサイズ・ハンディカム」が大ヒットし、他社もどんどんと新製品を発表していった。1990年代に入ったそんな折り、もうそろそろいいだろうと、8ミリビデオカメラを買いに日本橋へ行った。

 とくにこれと、あらかじめ調べていったわけではなく、店頭で見て、好いのを捜そうというつもりだった。何軒か廻って、説明を聴き、だんだんと絞り込んで、最後に残ったのが、京セラの「Samurai video」という製品だった。店員さんによれば、「京セラのブランドですが、実はソニーのOEM(他社商標製品の受注生産)で、中身はソニー製品と同じです。ただし、ここだけの話、レンズは最近京セラが買収したヤシカの好いレンズを使っているから、その分、ソニーよりは上ですよ」、ということだったが、決め手となったのはやはり値引き率の大きさだった。




 このカメラは10年ほど使っただろうか。家族旅行や、小学校に入っていた子どもたちの運動会、学芸会などを撮影した。8ミリビデオのテープは1本1000円以下で、それで2時間も撮ることができた。もちろん、現像代など要らない。もはや時間の心配をすることなしに存分に撮ることができるようになったのだが、それはそれで、別の問題も生まれてきた。

 3分20秒撮るのに1000円以上もかかった8ミリ映画とちがって、お金の心配はなくなったので、つい、だらだらとカメラを回しっ放しにしてしまう。その結果、決定的瞬間を逃すということは少なくなったが、その数倍、数十倍もの「無駄な」画面が溜まっていった。

 「編集」して、それらを取り除けばいいのだが、そのうまい方法がわからない。ビデオデッキに接続して、必要な部分だけそこにコピー(ダビング)するしかないのだろうが、ダビングすれば画質はおちるし、だいいち、そんな作業が面倒に思えて、やろうという気が起こらなかった。

 8ミリ映画の時は、高価なフィルムを無駄にしたくなかったので、あらかじめ、何を、どういうふうに撮るかを、よく検討してから撮影していたので、「無駄な」シーンは少なかった。フィルムを切り貼りする「編集キット」もあったが、編集というよりは、現像されてきた何本かのフィルムを連結するためにだけ使っていた。

 というわけで、「世界旅行でも15分」といわれていたのに、1日の運動会だけで1時間以上という、いくら身内が登場するにしても、なんとも「退屈な」カセットがどんどんと増えていくことになってしまった。




そして「デジカメ」へ 

 1995年に8ミリビデオをさらにコンパクトにした「デジタルビデオカメラ」というのが発売された。そのテレビコマーシャルで、「これがこのカメラで撮影した映像です」といって流された映像は、普通のテレビニュースの映像と比べてもほとんど遜色がない、クリアなものだったのには驚いた。それは魅力的なものだったが、いま持っている8ミリビデオを買い替えてまで、とは思わなかった。

 時代は「デジタル」になってきていた。ダビングしてもまったく「劣化」しないというのがデジタルの強みで、いっとき、フィルムカメラに代わるものとして、ビデオカメラの「静止画(スチール)」の機能を特化させた「電子スチルビデオカメラ」という「アナログ製品」が発売されたことがあったが、まもなく「デジタルカメラ(デジカメ)」に取って代わられた。

 デジタルカメラは1975年に開発されていたそうだが、実用化されたのは1990年、そして、1995年に、カシオから当時破格の6万5000円で「QV-10」というカメラが発売されて、いっきょに大衆化した。ちょうど私がMacを買って、パソコンの道に入った年のことである。 さっそく飛びついたのが、例の英語科の「新しもの好き」の先生だったが、25万画素のそれは、まだまだ使いものになるような画質ではなかったようだ。以前から、一眼レフカメラを買い揃え、地元のアマチュア写真クラブにも入っているというその先生も、バスの時刻表を撮って液晶画面で見るなど、メモ替わりには重宝だけれど、まあ、おもちゃですな、と、割り切ったものだった。

 しかし、その後、毎月買っている「Mac雑誌」で「デジカメ特集」があるたびに、それらを熟読して、日に日に進歩していくデジカメの性能をチェックするようになった。その中には、時々、各社のデジカメのさまざまな性能を比較して、順位付けしている記事もあった。ブームを巻き起こしたカシオの他、富士フィルムやリコー、キャノン、ニコン、オリンパス、ミノルタ、ペンタックスなどのカメラメーカー、電器メーカーでは、ソニー、松下、日立など、錚々たる会社の製品が並んでいたが、そんな中で、常に最上位に位置していたのは、意外にも、三洋電機であった。




三洋電機のデジカメを買う

 三洋電機(サンヨー)といえば、創業者があの松下幸之助の妻の弟で、本社も松下電器(門真市)の隣の守口市にあって、松下と同じ「総合家電メーカー」であることから、何となく松下の「二番煎じ」みたいなイメージを持っていたが、実は、かなり底深い技術力を持つ、いくつかの分野では抜群の創造性を発揮しているユニークな企業でもあった。

 1950年代には、女優の木暮実千代がCMを担当していた電気洗濯機が有名だったが、その頃、ソニーによって開発された「トランジスター・ラジオ」にもいち早く参入して、国内だけではなく、アメリカなどでも広くセールスを行っていた。ちなみに、私が高校に入学した1961年、無理を云って買ってもらったトランジスターラジオがサンヨー製だった。たしか、電源が6ボルトだったが、小さなラジオの中に内蔵する特殊な6ボルトの電池がかなり高価で、しかも持ちが余りよくなかったのには、泣かされたものである。

 しかしその後、サンヨーは、「カドニカ(ニッケル・カドミウム)電池」という、充電できる乾電池を他社に先駆けて開発し、消費者の電池に対する不安を解消した。そして、以後、改良を積み重ね、のちの充電池の不朽の名作「エネループ」へと至ったほか、太陽電池の開発でも先頭を切っていた。

 また、洗濯機でも、水の代わりにオゾンを使って靴なども洗濯できる「アクア」や、初のポータブル・カーナビの「ゴリラ」、お米から直接パンが焼けるホームベーカリー「ゴパン」など、話題になった「発明品」も少なくない。製品化はされなかったようだが、録音ボタンを押すと、その数秒前に遡って、そこから録音できるという、「録音チャンスを逃さない」テープレコーダーの試作品がテレビで紹介されていたこともあった。

 その他、「ファジー理論」に基づく自動露出装置を持った「双眼鏡型」のビデオカメラや、巡回方式を採り入れて、排気を無くした掃除機など、かならずしも、ヒットしなかった商品もあったが、思い切った発想の製品が多く、おそらく、自由でおおらかな、創造性あふれる「研究風土(企業風土)」があるのだろうな、と想像された。

 ただ、松下のように強力な販売網を持っていなかったので、「小売り店」での売り上げは苦戦していたようだが、「業務用」分野では、店舗の陳列用ガラスケース冷蔵庫や、コインランドリーの洗濯機などは圧倒的なシェアを占めていたそうである。


 デジカメにおいても、そんなサンヨーの技術力がいかんなく発揮されていた。

 Mac雑誌などで評価されていたのは、シャッターボタンを押してから実際にシャッターが降りるまでの時間や、1枚写して、次の1枚が写せるまでの時間が他社製品に比べて圧倒的に短いこと、普通のカメラ(銀塩カメラ)のフィルムにあたる受光センサー(撮像素子)が大きいので、同じ画素数でも画質がよくてノイズも少ないこと、などであった。ただ、前者の評価については余りピンと来なかったが、のちに、1枚撮るごとに「画像処理」するための時間を要するデジカメがけっこう多いことを知って納得した。

 他に、動画撮影がスムーズにできるというのも特徴で、「動画デジカメ」というキャッチフレーズを用いていたが、驚いたことに、この「デジカメ」ということばはサンヨーの登録商標になっているとのことであった。また、サンヨーはOEM(他社商標製品の受注生産)として、他社の多くのデジカメの受注生産を行っており、相手先は明らかにされていないが、それらを含めると日本のデジカメの半分以上を生産しているという、驚くべき事実ものちになって知った。 

 この意外な、デジカメ業界での大物ぶりに、以後、私は、ますます、サンヨーのデジカメに注目するようになった。先に述べた1997年の大阪ドームでの「MacFanエキスポ」でも、いちばんにサンヨーのブースに行って、その新製品を体験したものであったが、その頃はまだ80万画素程度の時代で、サービス版(L版)の大きさぐらいのプリントならば、フィルムを使った「銀塩カメラ」になんとか匹敵できるというレベルだった。

 まだまだ時期は尚早ということで、様子見の期間がそのあとしばらく続き、私がついにデジカメを購入したのは2001年7月のことだった。もちろんサンヨーで、機種は「DSC-MZ1」。1/1.8インチ・200万画素の原色CCD撮像素子、光学2.8倍ズームというスペック(仕様)で、ニッケル水素電池とその充電器、パソコンとの接続ケーブル、記録メディアの「コンパクトフラッシュ64MB」などを込めて、5万4800円、以前、ステレオやラジカセを買った、日本橋のシマムセンで購入した。




 購入してまもなくの頃、近所で大きな花火大会があって、それが、このデジカメの事実上の「デビュー(使い初め)」となった。

 シャッターの反応が好いといっても、やはりデジカメ独特のタイムラグ(時間のずれ)が少しあって、花火の決定的瞬間の写真を撮るのは難しかったが、動画を使うとそれが易々とできた。しかも、音声も入って臨場感満点である。

 すっかり、「デジカメ動画」の虜(とりこ)になってしまったが、64MBのコンパクトフラッシュは僅か数分の動画でいっぱいになってしまった。デジカメ動画の仕組みが、1秒間に15枚ずつの静止画を撮り、それを「パラパラ写真」のように連続させて動きを出す方式だったので、サイズが30万画素の大きさにまで縮小されているとはいえ、膨大な容量を必要としていたのだ。

 いくら素晴らしい映像が撮れても、数分間では使いものにならない。パンフレットを見直してみると、コンパクトフラッシュの代わりに、「マイクロドライブ」というのが使えると書いてあった。これは、IBMが開発した超小型のハードディスクで、容量が1GB(ギガバイト= 1000MB)あって、これなら24分間撮ることができた。ただ価格が4万円と、デジカメ本体とほとんど変わらぬ値段である。かなりためらったが、動画が存分に撮れないのなら、このカメラを持っている意味はない、と決断、思い切って購入した。





パソコンの画面で写真を楽しむ

 デジカメにしてから、写真に対する考え方がガラリと変わった。

 最初は、いろんなサイズの専用の写真用紙に、プリンターで印刷したものを見て楽しんでいたが、どんどんと枚数が増えるにつれて、その整理が面倒になってきた。もはや現像の手間や費用が要らないので、思い立ったら片っ端から撮って、失敗したのやら気に入らないのをどんどん削除するという撮影スタイルになっていたので、枚数はうなぎ登りであった。それに、プリンターでの印刷は、思った以上にきれいだったが、カラーのインクがすぐになくなった。インクの値段はけっこう高かったので、次第に印刷することが少なくなり、かわりにパソコンの画面で楽しむようになった。

 その頃、デジカメの画素数を増やすことに各社がしのぎを削っていたが、画素が増えると写真のきめが細かくなり、それは大きく引き伸ばしたサイズでもきれいに印刷できることを意味していた。すでにA4判から、A3判の大きさにも耐えられるようなカメラが登場していたが、15インチ程度の家庭用パソコンの画面で見るには、200万画素で十分であった。

 もはや、分厚いアルバムも不要となった。写真をパソコンに保存整理するソフトがたくさん発売されていて、いくつか試して見たが、最終的に、Macに標準装備されている「iPhoto」に落ち着いた。アルバムに貼ってしまい込んでしまうと滅多に見られないような写真が、パソコンでは、思い立ったらすぐにでも見ることができる。ちょうどMP3で保存した音楽と同じように、過去に撮った写真がとても身近なものになってきた。

 このカメラは重宝していたが、2004年8月に落下事故のため損傷、愛着もあったので修理の見積もりをしてもらったが、数万円もかかると云われて断念、新しく買い替えたのが、同じサンヨーの「Xacti-DSC-J4」であった。




 400万画素、光学2.8倍ズームは他社製品と比べて平凡な数字だったが、レンズカバーをスライドさせるとスイッチが入って、すぐに撮影することができた。シャッターの反応は銀塩カメラと変わらないほど速くなり、バッテリーも、小さくて、充電が簡単な「リチウム電池」に変わっていた。記録メディアには、そのころ台頭してやがて業界標準となる「SDカード」が使われていたが、これはコンパクトフラッシュよりもはるかに小型で、うれしいことに値段が安かった。この当時、1GBでたしか1万円以上していたが、それでも、あのマイクロドライブの3分の1以下で、その後、どんどん値下がりして、いまでは軽く1000円を切っている。そのSDカードや予備のバッテリーも含めて、購入費用は5万円ほどに収まったと記憶している。

 このカメラは、やや横長で、ちょうどワイシャツのポケットに収まるぐらいコンパクトだった。それでいて、厚みもあるので持ちやすい。動画撮影もスムーズで、出来上がった映像作品がこの小型カメラで撮影されたと聞いて驚く人が多かった。購入してから10年が経って、さすがに動画機能が不調になってきたが、静止画撮影には未だに現役で使っている。




三洋電機の没落

 2004年10月、新潟県中越地震が発生、三洋電機の半導体工場が被災して、500億円もの損害をこうむった。これ以後、三洋電機の経営に暗雲が立ちこめるようになる。

 さまざまな独自技術を誇り、業務用機器にも強みを発揮していた三洋電機だったが、松下のような「総合電器メーカー」をめざして、テレビ、洗濯機、冷蔵庫から掃除機、電気かみそりまでの、あらゆる家電製品の他、電池、カーナビ、電話機、パソコン、電動アシスト自転車と、いろんな分野に進出していた。

 家電量販店に行くと、どの売り場にもサンヨー製品があったが、その品質の割りには評価はそれほど高くなく、下のほうから数えた方が早いぐらいの安値で売られていたようである。しかし、買う方としては、つねに「お買い得感」を満足させられるので、けっこう人気はあった。私の身の回りにも、前に述べたラジカセ「ZooSCENE(ズシーン)」のほか、掃除機、扇風機、電気かみそり、電気毛布、ホットプレートなど、こまごまとしたサンヨー製品に囲まれていた。

 大阪府守口市にある三洋電機の本社は、実は、私の家から歩いて10分程のところにあった。国道1号に沿った、かつては煉瓦づくりだった本社社屋はいつの間にか、10階建ての高層ビルに変わり、その裏手には、何棟もの社屋が建ち並んで、その中に、「ショールーム」も設けられていた。

 国道の裏通りの、いわば、場末の住宅街の中に忽然と存在する感のあるショールームだったが、それでも都心のそれと変わらず、派手な制服を着た女性が受付けと案内を担当していた。中の展示はかなり充実していて、台所の調理器具のコーナーでは、毎週決まった曜日に「料理教室」を催して、近所の主婦を集めたりしていた。

 しかし、社用で本社を訪れたお得意先のような一団を時々見かけたほかは、一般の来客はあまりいなかった。私は、興味のある商品が出た時に時折訪れるぐらいであったが、デジカメ以前には、ビデオカメラやテレビ、ICレコーダー、パソコンなどを、やや垂涎のまなこで、ゆっくりと手に取って楽しんだものである。

 ただ、「経営不安」の噂が出はじめたあたりからだろうか、デジカメの新製品が出たという報道があったので、実物を見たくてショールームに行ったところ、まだ置いてなく、その後しばらく経ってもそのまま、ということが多くなった。「本社ショールーム」という中枢部がこれでは、と、こちらも不安になったのを覚えている。


 サンヨーの「Xacti(ザクティー)」というブランドは、デジカメ以外に、拳銃のグリップのような形状の「デジタルムービーカメラ」を出していて、とても評判がよかった。いつかは欲しいと思っていたが、使っていたデジカメ「J4」に不満はなかったので、そのままになっていた。しかし、いよいよサンヨーの経営が傾き、2009年に、パナソニック(松下)に吸収されるということが決まって、「Xacti」の先行きも不透明となったので、いま買っておかなければ、買えなくなってしまうかもしれない、という危機感にとらわれた。

 折りしも、テレビが「地上波デジタル(地デジ)」に切り替えられることになり、それに対応した液晶テレビを買うと買価の2割ほどの金券がもらえるという「エコポイント」制度が、政府の景気浮揚政策として採られている時だったので、それで浮いたお金で「Xacti-CG100」というカメラを買った。数多くのXactiシリーズの中では、「中の下」クラスの製品だったが、本体が2万2600円、4GBのSDカードはなんと2枚で3500円。その他、予備のバッテリーやケースを買っても、エコポイントの範囲に収まった。2010年12月のことである。




 6年前の「J4」よりも半分の価格だったが、その性能は、動画が1920×1080の「ハイビジョン画質」で、640×480の「J4」の約7倍、静止画は1000万画素で2倍となっていた。ピントのオートフォーカスも速くなり、「顔認識」といって、人物の顔を認識するといち早くそこにピントが合う機能、さらに「手ブレ防止」機能というのも付いていた。

 動画は、「こんな小さなカメラでどうして?」と驚くぐらい、文句なしに鮮やかで、シャープな映像が撮れたが、二本柱のもう一方の「静止画」はイマイチだった。1000万画素ときめ細かくなっているはずだが、なぜかピントが甘くて、切れ味がない。発色もよくなかった。好天の野外ではまだしも、室内のストロボ写真はダメだった。シャッターの押し方に問題があるのかもしれないが、きれいに撮れたことは少なかった。そこで、静止画はいまでも「J4」を使うことにしている。




デジタル動画の編集について

 デジカメの動画は、シャッターを押すと撮影が始まり、もう一度押すと撮影が終わるが、その連続した「1ショット」が、ひとつの「動画ファイル」として保存される。そして、それを再生する時は1ショットごとの再生となり、例えば、30秒とか、15秒とか、1分とかのショットごとに、いちいち再生ボタンを押さねばならなくて、これでは実用にならない。だから、最低限、それぞれのショットをつないで、1本にまとめる「編集」をしなければならないのだが、デジカメ動画(デジタル動画)の場合、編集は、パソコンを使って、簡単にすることができた。

 カメラを買うと、どのメーカーでも、パソコン用の簡単な編集ソフトが付属していたが、私はMacの「QuickTime」というソフトを使った。

 Macにはじめからインストールされている「QuickTime」は、動画や音声の「再生専用ソフト」であるが、3000円ほど払って、「QuickTime Pro」というものにアップグレードすれば、動画の「コピー&ペースト」の機能が使えて、自由に「切り貼り」することができた。

 私はその頃、月1回、大阪市内の旧跡を巡る「まち歩き」の会に参加していたが、その時デジカメを持参して、1回4時間ほどの行程を撮影するのを常としていた。

 できるだけたくさん撮影できるように、1GBのSDカードを2枚と、予備のリチウム電池を2つ持って行っていたが、合計2GBでは、動画は48分しか撮影できない。静止画(スチール写真)だけなら、1800枚も撮れたので、そこで、動画と静止画をミックスして撮影することにした。

 撮影し終わると、まず最初に静止画を、Macのデジタル写真整理保存ソフトの「iPhoto」に取り込み、その機能を使って、数十枚ずつの画像を次々と音楽付きで自動的に再生する「スライドショー」のかたちにして書き出した。それを動画ファイルに変換して、それと撮影した動画ファイルを交互につないで1本の動画にすると、雰囲気のある映像作品となり、CDにコピーして進呈すると、とても好評だった。 

 Macには、「iMovie」という動画編集ソフトが以前からあったが、それは当初、「デジタルビデオ」のテープを読み込んで、編集し、またそれをテープに書き出す、というソフトだったので、デジタルビデオ・カメラを持っていない自分には無縁のものだと思っていた。

 しかし、その後、Intel(インテル)社製CPUの「Macbook Pro」に買い替えた時に、あらかじめインストールされていた「iMovie'09」を使えば、動画の編集も、静止画のスライドショー作成も、どちらもできることを知って、以後、カメラがXacti-CG100に変わってからも、ずっとiMovieを使い続けている。


 こうして、どこに行くにも、ポケットにデジカメを忍ばせるという習慣がすっかり身についてしまった。

 旅行に行っても、最後は「動画作品」にまとめたいという前提があるので、出発から帰着まで、ひと通りの場面は、動画であれ、静止画であれ、一応は撮影しておかなければならない。もし、重要な景色や場面を撮り逃すと、それだけで旅行そのものがぶち壊しになってしまった気がするからである。

 そうなると、ひとときもカメラを離すことができず、「旅行のための撮影」なのか、「撮影のための旅行」か分からなくなってしまい、家に帰って、撮影した映像を観てはじめて、旅行に行った気分がする、ということも多い。

 「本末転倒」もいいとこだなと反省しつつも、あとに残る「作品」のことも考えると、まあ仕様がないか、と思ってしまう今日この頃である。







第7章 「テレビ番組録画」の苦難の道のり




「ビデオテープレコーダー」

 ところで、「ビデオテープレコーダー」をはじめて購入したのは何時だったのか、今となってはよく憶えていないが、とにかく、結婚して何年か経った頃のことには違いない。古今東西のいろんな映画を収録したビデオテープを自由にレンタルできるなど、かつて和洋の名画を漁って、各地の名画座を巡っていた私にとっては夢みたいな話だったが、そんなことが思う存分にできるはずの「独身一人暮らし」の時代に、まったくその気配もなかったのは、不思議といえば不思議である。

 ネットでビデオの歴史を調べてみると、当初オープンリール式だったビデオテープレコーダーが発明されたのが1956年だった。とても高価だったので、放送局でしか使われず、そのテープもまた高価だったので、放送局でも「上書き録画」して使っていたそうで、今となっては貴重な宝物になったであろう当時の録画映像もほとんど残っていないという有り様だった。

 その後だいぶ経って、1971年に、のちのVHSより倍ほども大きい「Uマチック」というカセット式のテープが出た。そして、それが小型化して、VHSやベータとなって、やっと家庭に普及しはじめたのが1976年、私が結婚する直前のことであった。当時の「ビデオテープレコーダー(=ビデオデッキ)」の値段は25万円、120分の生テープが1本6000円もし、「ビデオのレンタル」もまだ始まっていなかったというのだから、いかに「独身貴族」であっても、手は出なかったのであろう。

 その後、テープデッキの値段は、1985年には10万円を切るようになり、多分、その頃に購入したのであろう。でも、そのとき買ったのは「モノラル式」で、すでにステレオ録音ができる「ハイファイ・ビデオ」も発売されていたが、かなり高くて、「家庭の許可」が出なかった。モノラルでは、洋画などの「バイリンガル放送」を体験できなかったので、口惜しい思いをしたものである。

 その後、自分の小遣いを貯めて、10年後ぐらいにやっと、「ハイファイ・ビデオ」を購入した。その頃はすでに、それが当たり前になっていて、楽しみにしていた「バイリンガル」も数回試しただけで、すぐにあきてしまった。

 私は、三菱電機製のテープデッキを購入したが、それは、その機種に「CMカット」という機能が付いていたからだった。これも今は当たり前になっているようだが、三菱電機のはその先駆けとなったものだった。その頃、テレビ番組の音声はたいていモノラルだったが、CMだけはすべてステレオ音声だった。そこで、ステレオ音声を感知する装置を付けて、ステレオになると録画が一時中止になるように設定すれば、ステレオのCM部分をカットして録画できる、という仕組みだった。

 その後、だんだんとステレオ音声のドラマなどが増えてきて、役に立たなくなってきたが、映画、とくに洋画の場合は、いつもバイリンガルになっていて、これはステレオと区別されていたから、それまでどおり、CMカットを活用することができた。

 ところで、このレコーダーを買った当初、その仕組みを、例の、私の「Mac案内人」だった、今は亡きF氏に話したことがあった。するとその時、F氏は即座に、「ぼくなら、設定を逆にしますね」と云った。

 すなわち、ステレオ音声ではなくて、モノラルやバイリンガルの時に「録画中止」になるように設定するというのである。そうすると、番組本体がカットされて、CMだけが録画されることになる。短時間に莫大な資金を投じて製作されるCMの画像に注目し、それを秘かにコレクションしていたF氏ならではの発想だった。




「衛星映画劇場」

 話は前後するが、1989年にNHKのBS(衛星)放送が始まった。地上波と比べると、「ゴースト」が皆無で、画面がとてもきれいだ、という評判だった。「衛星映画劇場」という番組があって、和洋の名画が毎日放映されていた。

 私は、垂涎(すいぜん)の思いで、新聞の番組表を眺めていた。なんとかしてそれを観ることができないものか、と歯ぎしりしたが、BS放送を見るには、専用のチューナーを買い、専用のお皿形のパラボラ・アンテナを立てる必要があって、かなりの出費を要した。テレビやビデオもそれ対応のものはかなり高く、また、自宅のそれらは、まだまだ買い替えの時期には程遠かった。

 そんなとき、ふと、ある考えが浮かんだ。

 英語科の特別教室として、生徒ひとりひとりにテープレコーダーの付いたテーブルを用意した「LL(Language Laboratory)教室」というのがあって、その準備室に、教材を録画したり、授業で放映したりするための「ビデオデッキ」が置いてあった。ところが、それがだいぶ古くなって、使いにくいという苦情が出始め、そろそろ買い替えが検討されていたのだ。

 そうだ、これだ、と思い立って、私は、買い替えるのなら、この際、最新のBS対応のものにすべきだ、と主張した。どうせなら最新機能のものがほしい、というのは人情で、英語科全員の賛同を得られることとなった。

 もちろん、このデッキは英語の教材録画や授業に使われるものであったが、その空いた時間に、例の「衛星映画劇場」の録画もできるようにしてもらった。そして、その録画用の生テープも学校で買ってもらい、録画したテープは職員室の英語科のロッカーに保管することも許可してもらった。記念すべき、録画第一作は、エリザベス・テイラー主演の『去年の夏突然に』で、モノクロ作品だったが、その画面の鮮明さには、感動した。

 ちょうどその頃、1991年のことであるが、来るべき「BSブーム」を先取りするかたちで、BS番組専門誌の『BSファン』という雑誌が共同通信社から創刊されて、これは私個人で毎月、定期購読することにした。

 そこには、NHKの、当時3つあったBS局と、民放の有料放送WOWOWの1ヶ月の番組表、そして、それらの番組の詳しい解説記事が満載であった。さらに、映画については、その放映作品すべてについて、スタッフ・キャスト・あらすじが、ちょうどVHSテープのタイトル貼付部の大きさにまとめられていたので、それを切り抜いて、そのままテープに貼り付けることができた。また、テープの背表紙に貼る「タイトルシール」も付録で付いていた。

 こうして、少しずつ、映画の録画テープが溜まっていくと、英語科だけではなく、他の教科からも映画好きの先生方がそれを借りて持って帰るようになり、いつのまにか「福島ライブラリー」という名前が付けられて、隠れた人気を得るようになっていった。

 そんな中に、警察を定年退職したのち、嘱託として事務所の仕事をしている人がいた。警察OBということで、胡散臭い目で見る人もいたが、私とは帰りの電車でいっしょになることが多く、口をきくと、案外、人懐っこい人で、世間話などをするようになった。戦前に小樽高商を出て、警察では、外事関係の仕事をしていたということで、いかつい風貌にもかかわらず、どこか垢抜けしたところがあった。外国のモノクロ時代のサスペンス映画が大好きで、今度放映される『邪魔者は殺せ(1947 キャロル・リード監督)』はかならず録画してくださいよ、などと、リクエストを貰ったこともあった。

 この警察OB氏は、事務所では、施設の営繕関係を任されているということで、ちょっとした備品購入の権限を持っているようだった。そこで、その計らいもあって、英語科ロッカーの場所塞ぎになりかかっていたビデオ・ライブラリーのための「収納ケース」を買ってもらえることになった。

 そして届いたケースは「ビデオラック」と銘打たれているだけあって、スライド式に二重になった棚にVHSテープがぴったり収まる構造で、表の引き戸は全面ガラス、という本格的なものであった。

 その後、テープが増えるにつれて、もうひとつビデオラックが買い足されて、1998年末までの約7年半で、なんと487作品ものライブラリーになった。それらはほとんどすべてが、NHK-BSの「衛星映画劇場」からの録画である。当初はLL教室のビデオデッキだけが頼りだったが、その後、私自身が購入した、例の三菱電機製のビデオデッキももちろんBS対応だったので、学校では録画しづらかった昼間の放送もどんどんと録画できるようになり、その結果、飛躍的に数が増えることとなった。

 定期的に先生方全員に配布していた「作品リスト」が残っている。

 ちなみに、監督別で一番数が多かったのがヒッチコックで26作品、次いで、黒澤明が24作品で、この二人は、ほとんどの作品がカバーされていた。さらに、寅さんシリーズを含む山田洋次が23作品、小津安二郎が11作品、フェリーニ、ビリー・ワイルダーが各8作品、チャップリン、トリュフォーが各7作品となっている。

 結局、この1998年12月19日付けの「作品リスト」を最後に、ビデオ録画熱は急速に冷めていった。さしもの2つのビデオラックが満杯に近づいてきたこともあったが、ビデオテープという媒体そのものが限界を迎えつつあった。

 アナログ録画ということで、いくら「ハイグレード」を謳う上等なテープを使っても、録画時の画質劣化は避けられなかったし、また、時間とともに、テープ素材そのものが劣化して、「巻き込み」や「切断」のリスクが高まっていった。そして何よりも、1996年に開発された「DVD」が、そのコンパクトさと扱いやすさのため急速に普及してきて、「ビデオテープレコーダー」自体が一挙に時代遅れのものになってしまったのだ。

 自前の「BS対応ビデオデッキ」を持つようになり、私は映画以外にも、いろんな番組を家で録画するようになっていた。云ってみれば、映画は「レンタルビデオ店」に行けば、たいていの作品を、借りて観ることができる。しかし、毎日毎日、泡沫のように、放送されては消えていく「テレビ番組」は、もう一度観たいと思っても観られないものがほとんどだ。そんなものこそ、録画して保存しておくべきではないだろうか。そんな風に思うようになり、「CMカット」の設定を逆にして、映画の本編よりはCMの方を録画したいという故F氏の気持ちが分かるようになっていた。それに、家のテレビは自分一人のものではないので、観たい番組がすべて観られるわけでもなく、また、勤務中の昼間や、眠っている深夜にも観たい番組はたくさんある。そのためにも、ビデオは重宝なものであった。

 こうして、いろんな、おもしろそうな番組を片っ端から録画するうちに、VHSテープはどんどんと溜まっていった。そのうちに、画質を落として、「三倍速」で録ることが多くなったが、それでも、テープは溜まっていく。VHSテープの保管には、缶ビール2ダース入りの段ボール箱がぴったりだったが、その箱が押し入れの奥に次々と積み上げられていった。




ビデオテープからDVDへ

 私がDVDを観るようになったのは、最初はパソコンである。3代目のMacへの買い替えどきになった2000年頃には、DVDドライブが付いているのが普通になっていた。私は、ノート型が欲しかったので、当時、メルヘンチックなデザインが話題になっていた「シェル(貝殻)タイプ」のiBook SE(FireWire)というのを、2000年10月に購入した。画面は13インチだったが、CD-ROMの他に、DVDも観ることができるようになっていた。


 


 そこで私はさっそく、記念すべき、映画DVD第1号を買った。以前スクリーンで観て、大のお気に入りになっていた、黒澤明の『野良犬』である。堅牢な箱に入り、立派な解説書と、「関係者のインタビューによる撮影秘話」という30数分の「特典映像」も付いた豪華版だったが、6000円もした。この際、銭金(ぜにかね)の問題ではなかったので、惜しげもなく購入した。この頃から、レンタルビデオ店でも、だんだんとDVD作品が増えていっていた。





 このiBookは、DVDに「書き込む」ことができなかったが、3年後の2003年10月に購入した4代目のMacには、「スーパードライブ」という、CDもDVDも、「読み込み」「書き込み」が両方できる装置がついていた。半円球ボディーに首振りの17インチ液晶モニターが付いたiMacである。CDの7倍近い容量のDVDには、デジカメで撮ったかなり長い動画でも楽々と書き込むことができた。ただ、問題はテレビ番組をどうDVDに記録するかであった。





 まず第一に、テレビの画像は、「ビデオ・キャプチャー」という装置を通さなければ、パソコンの画面に映すことはできない。そこで、Mac雑誌をいろいろ調べて、カノープス社の「ADVC110」というのを買った。2万円以上したと思う。「デジタル・ビデオ・コンバーター」とあり、要するに、テレビ放送の「アナログ信号」を、パソコン用の「デジタル信号」に変換するという機器であった。

 変換されたデジタル信号は、Macに標準で付属している「iMovie」という動画編集ソフトに取り込んで、CMをカットするなどの編集をし、出来上がったものをやはりMac標準の『iDVD」というソフトを使ってDVDに焼くことができた。そうすることによって、テレビ番組を、パソコンやDVDプレーヤーで再生することができるようになったのである。





 ただ問題は、それにかかる「時間」と保存できる「容量」だった。カノープスはMacと、もう一方はビデオデッキにつなぐ。そして、ビデオテープに録画されたテレビ放送をデッキで再生し、その「アナログ信号」をカノープスを通して、「デジタル信号」に変換して、Macに取り込むのだが、その時、2時間の映画番組なら、それをまるまる2時間かけて再生しなければならない。それはやむを得ないとしても、それをMacのiMovieに取り込んだ出来た「iMovieファイル」をiDVDで、DVDに書き込むには、DVD-video形式への変換などいろんな作業があって、当時の「首振りiMac」の場合、それだけで、倍の4時間かかった。これはもう昼間では付き合いきれないので、夜、寝る前にセットして、朝になったら出来上がっている、という風にするしかなかった。

 さらに、最初にiMovieに取り込んでできる「iMovieファイル」の大きさが尋常ではなかった。2時間の番組なら25GB(ギガバイト)にもなった。iMac本体のハードディスクの容量が160GBだったので、これは相当な大きさである。本体に保存するのは無理とみて、外付けのハードディスクを購入して、そこに保存することにした。

 こうして膨大な時間をかけながらも、テレビ番組のDVD録画と、学校の「ライブラリー」に貯め込んだ映画作品の中から精選したVHSテープのDVD化をコツコツと進めていった。DVDは薄いので、市販の「ポケットファイル」に収めると、コンパクトに本棚に収まった。押し入れの中の「ビール箱」とは大きな違いである。時間がかかるのは相変わらずだったが、毎晩、深夜にiMacにDVD化の仕事をしてもらって、それらが350枚ほど貯まった2008年7月、テレビに直結する「DVDレコーダー」を購入した。




DVDレコーダーの購入

 それまで頑張っていた三菱電機製の「ビデオデッキ」が不調を訴えることが多くなり、そんなとき、量販店で、DVD-VHS一体型で、ハードディスクも付いた「DVDレコーダー」の掘り出し物を見つけた。東芝の「RD-W301」、製造終了品ということで、6万5000円。当時としては破格の安値だったので、その場で購入した。

 ハードディスク・レコーディングというのは初めての経験だったが、これは便利だった。番組録画だけでいえば、これだけで十分だろう。CMカットも、どういう仕組みか解らないが、その部分だけが別チャプターに区切れていて、そこを削除すればそれで済んだ。あとはどう保存するかだが、ハードディスクには限度があるので、DVDにダビングするということになる。「高速ダビング」という装置があって、2時間ものでも、15分ぐらいで終わった。

 わざわざVHSドライブが付いたのを買ったのは、学校にある「ライブラリー」や、これまで家で録り貯めたビデオテープをDVD化したかったからである。VHSから、いったんハードディスクに取り込んでおくと、必要ならば編集もできて、あとは「高速ダビング」で完了。かくして、「DVDコレクション」は飛躍的に増大していくことになった。




テレビ放送のデジタル化への対応

 ところが、ここで難問がひとつ生まれた。それまでアナログで放送されていたテレビが「デジタル化」されることになったのである。

 デジタルになると、アナログとは違って、コピーしてもまったく劣化しないということで、「海賊版」コピーが容易にできる。それを防ぐために、「コピーワンス」という措置がとられることになった。

 ハードディスクに録画された画像は、1回DVDなどにコピーすると消えてしまう、というのである。それをまたコピーしても、「コピー元」のDVDに保存された映像は消えてしまって、要するに、2枚以上のダビングができない、ということになった。(のちに、このコピー制限は10回まで、と緩和された) そして、それにともなって、デジタル番組は、DVDレコーダーでDVDにダビングすることができなくなってしまった。(VRモードという日本独自の規格で、著作権保護機能のついたCPRM形式のDVDに録画することはできたが、Macにはその再生ソフトがなかった)

 これには困惑してしまった。デジタルになると、地上波の放送も「ハイビジョン画質」になって、それはありがたかったのだが、好きな番組をコピーできないのは寂しい。しかし、ただひとつ、解決策が見つかった。DVDレコーダーの前に使っていた、カノープスを通して、Macに取り込むという方法である。

 ハードディスクに録画されている「デジタル放送」を再生して、その信号をカノープスに送ると、再生する段階でアナログ信号に変換されているので、「デジタルの制約」をまったく受けず、従来通りに、コピーして、編集し、存分にダビングできるということがわかったのである。もちろん、画質は「ハイビジョン」ではなく、以前と同じであるが、それは別に構わなかった。


 2010年に、Macbook Proに買い替えた。7年ぶりである。この間に、MacのCPUは、アップル・モトローラ・IBM三社合作の「PowerPC」から「インテル製」に代わっていた。かつて、インテルの「ペンティアム」というCPUを、カタツムリになぞらえた揶揄的な「比較CM」を流していたアップルだったが、いつの間にか、形勢は逆転し、「更新」が思うように進まないPowerPCは、インテルよりもかなり遅れを取っていた。インテル製にするためには、ソフトウェア上の改訂作業など、大変だったようだが、そこまでして切り替えた理由が、新しいMacbook Proを買ってよく分かった。動画処理(レンダリング)の速度が断然速くなっていたのだ。

 DVDレコーダーで再生しながら、カノープスを通してMacに取り込む時間は変わらなかったが、そのあと、DVD-video形式に変換して、DVDに焼く時間が、PowerPCの時の半分以下になり、2時間の映画のDVD化の総時間が6時間から4時間以下に減ったのである。

 これで大きな障害は乗り越えたので、DVD化に再び拍車がかかったが、ここでまた問題が発生した。DVDも900枚を超えて1000枚に近づいていくと、VHSと比べて、いかに嵩(かさ)張らないとはいっても、そのボリュームは無視できなくなってきた。私の使っている正方形のポケットファイルには36枚しか収納できなかったので、それが実に25個を超えるまでになったである。本棚には収まりきれず、またぞろ、VHS時代のように、押し入れの片隅のお世話になるしかなくなってきた。




DVDから「動画ファイル」へ

 こんな調子では、近いうちに、録画は不可能になってしまう。何とかしなければ、と知恵を絞って考えついたのが、「動画ファイル」のかたちのまま、ハードディスクに保存してしまおう、ということであった。そうすれば、DVDよりもはるかにコンパクトで、しかも、いちいちディスクを出し入れする面倒からも解放される。さいわい、500GBや1TB(テラバイト=1000GB)の大容量の「外付けハードディスク」が1~2万円程度にまで安くなってきていたので、好いことずくめの名案だった。

 ただ、iMovie形式のファイルだと、2時間の映画で25GB食うので、1TBといえども40本でいっぱいになってしまう。これでは、今度はハードディスクの山ができるだけである。もっと圧縮された形式を用いなければならない。Mac雑誌を必死で調べて見つけたのが「H264」という形式だった。これにすれば、容量は10分の1以下になる。しかも、画質はそんなに落ちない、という、まさに理想的なものであった。

 しかし、私が使っていた「iMovie HD」というソフトでは、H264に書き出すことはできなかった。すでに新しい「iMovie7」が発表されていて、そのiMovieファイルなら、H264に書き出すことができた。ところが一難去って、また一難。このiMovie 7では、大幅な改変がなされていた。どうも、自分のカメラで撮影した動画を編集するためのものになっていて、テレビ画像の取り込みを想定していないものに変わっているようだった。

 具体的には、デジタル放送の画像の横縦比は16:9で、アナログ放送の4:3よりも横長になっていたが、iMovie HDでは、設定を切り替えることで、それに対応できるようになっていた。しかし、新しいiMovie 7では、切り替えボタンが無くなり、デジタル放送をカノープスで取り込んでできたファイルはすべて、4:3の縦に歪んだものになってしまっていた。これは、設定をいろいろいじくり回してみても、どうすることもできず、結局、iMovie HDでなんとかするしかなかった。

 iMovie HDでも、動画ファイルへの書き出し機能はあった。それは、拡張子に .dv と付く「DVファイル」で、画像はきれいだったが、容量はiMovieファイルとほとんど変わらなかった。そこでまたMac雑誌で見つけてきたのが「HandBrake」というフリーソフトだった。そのHandBrakeに「DVファイル」を読み込んで、どんな機種にも対応する「Universal」というタイプに変換すると、2時間の映画で25GBあったDVファイルが、みごとに2GB以下の「H264」ファイルに変換されていたのである。画質の劣化もなかった。かかった時間が20分ほど、その前のDVファイルへの変換が約50分、そして、デッキで再生しながら、iMovie HDに読み込むのが2時間で、つごう2時間の映画1本を完全に「動画ファイル」にするための所要時間は3時間余り、まあ、許容できる範囲で、やっと、落ち着いた場所にゴールインできた気持ちだった。


 ハードルを越えると、また足は速くなる。1枚に2時間分をぎっしりと詰め込んでいた「DVD」とは違って、作品ごとに、例えば、1時間弱のテレビ番組も1本として保存しているので、以前と比較はできないが、増え続けるファイルは、2018年4月現在で、7000作品を超えるに至っている。主なものはバックアップもとったりしているので、外付けのハードディスクの数は増えて、「テレビ録画関連」だけで6TBを超えてしまったが、もう少し、場所的な余裕はある。

 しかし、問題には終わりというものがない。今度のは、コレクターにとっては「究極の問題」ともいえるものであるが、その録り貯めた「ライブラリー」をはたして、いつ観るのか、ということであった。




コレクターの究極の問題

 血は争えない、というべきか、28年前に亡くなった私の父親に、やはり収集癖があった。高価な骨董品などであれば、ありがたいのだが、父が還暦近くになってから集めはじめたのは「新聞の切り抜き」であった。

 個々の記事ではなく、連載の小説やコラム、特集記事などを切り抜き、連載が完結するごとに、その大きさに合った封筒に入れて保管していた。お金のかからない趣味だが、年月が経つにつれて、どんどんと貯まっていった。その封筒の山は段ボール箱に入れて、押し入れの奥にしまってあったそうだが、何年かのちに開けてみたら、ネズミが巣をつくって、ボロボロに喰い荒らされていたという。

 それで嫌気が差したのか、いつの間にか「新聞の切り抜き」はやめて、次に始めたのが、ラジオ番組の録音だった。中年の頃から、寝る前にイヤホーンでラジオを聴くのが習慣になっていた父だが、70歳に隠居の身になってから、「ラジカセ」というものを知り、そのテープに気に入った放送を録音するようになっていた。たちまち、そんなテープが山のように貯まっていった。父のことだから、集めっ放し、ということはなく、おそらく、しっかり読み、しっかり聴いてから、それらの切り抜きやテープを保存していたものと思われるが、それは何のためだったのだろうか。自分でもう一度、読み直したり、聴き直したりするためだったのだろうか。

 もちろん、それもあっただろうが、それ以上に、誰かのために、誰かに読んでもらいたくて、聴いてもらいたくて、保存していたような気がしてならない。

 誰か、といって、まず思い当たるのは息子の私であるが、結論から云えば、私は父の収集物には、ほとんど関わらなかった。唯一憶えているのは、学生時代、昼夜逆転の自堕落な生活をしていた頃、眠れない寝床の中で、お菓子をボリボリ食べながら、父が切り抜いた、司馬遼太郎の新聞小説『妖怪』を読んだことぐらいである。

 これはとてもおもしろかったが、その他の特集記事などは、内容が陳腐化していたりすることが多く、あまり食指をそそられなかった。また、亡くなったあと、大量に残されたテープを一応点検はしてみた。「懐かしの歌謡曲」などのほか、番組で放送された「かつての名人たちの落語」などはおもしろそうだったが、いかんせん、録音状態が悪かったり、テープが劣化していたりして、もうこれ以上の保存には不適なものばかりだった。

 父のコレクションの「末路」は、現在の私の「ライブラリー」の未来と二重写しになる。コレクションはあくまでも「自分一代」のもの、まかり間違っても、後世、誰かに観てもらおう、などとは考えないことだ。

 そもそも、コレクションとは、映画やテレビ・ラジオの番組にして、書籍にしても、そのもの、というよりは、それを観たり、聴いたり、読んだりする「時間」を保存している、と云えるのではないだろうか。

 そのコレクションを保有していることで、いつでも、自分の好きなときに、それを観たり、聴いたり、読んだりすることができる。そんな「権利」を確保しておくことによって、自分の「過去の時間」、あるいは「未来の時間」をいましっかりと把握しているという充実感、そんなものがコレクター心理の根幹にあるのではないだろうか。

 だから、その権利を実際に行使する(すなわち、集めたものを、観たり、聴いたり、読んだりする)というのは、どうでもいいことなのかもしれない。


 と、そう開き直ってしまうと、最終的には観られずに終わってしまうかもしれない録画の山が、どんどん高くなっていっても、罪の意識は感じなくなる。

 そして、このあと残された、そう長くはないであろう「余生」の時間に、それらを「義務」ではなく、「気まぐれ」にひも解いてみた時、何ものにも替えがたい、真の「楽しみ」がこんこんと湧き出てくるのではないだろうか、と思って、自分を納得させている。

(完)


【自註】

 7回にわたって連載した『わがデジタル創世記・Macへの道』をひとつにまとめ、贅肉部分を削ぎ落とし、細部も見直して、「決定版」としたのがこの作品です。連載で読まれた方が、もう一度読まれて、退屈を憶えなかったとすれば、喜び、これに優るものはありません。                 (2018.11.18)



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