A氏の反論



(註)本論の「前後関係」を整えるために、A氏による『反論』文章の関係部分を以下に採録します。




 前号「Mini雑想」の福島氏の「アトランタの教訓(1)」を読んでいくつか書きたいことができたので書く.

 表も含めて9ページにわたる文章のうち初めの5ページ半は,日本がオリンピックで弱くなったということを分析したものである.自国の「窮状」を「これでもかこれでもか」というほどに書かれては,読む側としては「愛国心」などは薄い私でも少し不愉快な気持ちになった.しかし,分析の内容に関して,細かい点で異論はあるけれど(例えば,金メダル数のみの評価になっていること,旧ソ連・東欧諸国の分裂による国数の変化を考慮していないこと)適確である.なるほどと思うこともあった.

 次の約1ページ半は「日本がこれまで強かった理由」が書かれている.そしてこの部分に関しても基本的に正しい分析であると思う.しかし前段の細かい分析に比べてややあっさりと短く終わっている.そして何か恣意的なものを感じる.(註1)


(註1) 確かにオリンピックのおける金メダル数は減少している. しかしプロスポーツを中心に日本人選手が外国に進出する(メディアに登場するくらいの)ケースはむしろ増えているではないかと思う. この5年間くらいを考えてもNOMO. DATE, HAGIWARA, SHINOZUKA, MIURA, OGIWARA.....  日本スポーツ界が不振かどうかは判断しかねる.


 最後の約1ページ半は「学校のクラブ活動の功罪」についてであるが,「功」は過去のもので,現在と今後においては「罪」であると述べられている.前段がこのためにあったということに気付くわけであるが,この部分は私が日頃感じていることとはかなり差があると感じた.誤解をおそれずに言えば,これは学校クラブ活動に対してのアンチテーゼである.しかし「スポーツ」の側から見ても少し疑問を感じるし,「教育」の側からの見てどうかということが書かれていないのが残念である.

 以下,後の2段の部分を細かく検証する.


 日本がこれまで強かった理由を体操の例で次のように述べている.


 特にヨーロッパ選手と比べて体が小さかった日本選手は,あえて難しい技を用いることによってそのハンディを克服していった.

 当然,日本のこのような動きに対抗して外国勢も負けじと新しい技を繰り出し, これは「日本の方法」が国際化し,いわば「世界制覇」したことを意味する.しかし,その結果,本家本元が凋落してしまったのは皮肉であるが,それが歴史の栄枯盛衰のメカニズムなのかも知れない.



 さらにバレーボール,卓球でも同じ現象がおきていることを述べている.(註2)


(註2) 現在オリンピック種目ではないけれど,ラグビーにおいてもまさに全く同様の現象が起こっている.かつて日本代表は大西鐵之祐監督のもと,「接近,連続,展開」をスローガンに,ショートラインアウトやフルバックを使った多様なバックスのサインプレーで,オールブラックスJrを破って,世界を驚愕させた.それらの戦術は,現在,日本を含まない国際試合でさえ,1試合中に何度も見られる戦術である.「連続」と「展開」は,その後各国に広まり一つのプレースタイルとして定着し,さらにほとんどの国がその方向性で進み,ここ数年では「一戦術」から「ラグビーの常識」に昇格した.「やっと世界が大西に追いついた」と言うのは,言いすぎだろうか.しかし世界がそれを採用してしまった現在,日本ラグビーは低迷している.


 以上の氏の分析と各大会の金メダル数を示す「表1」から導き出される結論は,次のようなものとなるべきではないだろうか.

「もともと体格的筋力的にハンディを背負っている日本の金メダル数は,88年のソウル以降,そして60年のローマ以前の4個程度が妥当な数であったはずである.しかし戦術面の開発ということを世界に先んじて行った成果が,64年から84年まで20年間2桁の金メダル数獲得につながった.」

 そう結論付けるべきではないのか.言い方を変えれば,金メダルを多く取れた20年間は日本にとって『おいしい時期』だったというわけである.

 これは氏の分析から得られるべき結論であるとともに,私自身も「大雑把に言えば」であるけれどもそう考えている.しかし私が考える日本不振の理由は,他にもいくつか見つかる.このことは後述するが,やはり主因はうえの「結論」である.

 その後金メダルを守れたのが柔道であるのは象徴的である.体格的ハンディは体重別であるため関係ない.「柔よく剛を制す」の言葉がどれほど「近代柔道」でも言い得るかは疑問であるが,かなり「筋力」勝負の要素の強いレスリングでメダルがなくなったのに対し,少なくともレスリングよりは「技」の要素の強い柔道でのみ,金メダルを守れたのである.

 ところが氏はその段の最後において「技術革新が進んだから」ということで「コーチングシステム,指導者が問題」と言う.競技によって差はあろうが,日本のコーチングシステムに問題があるということは同感である.しかしそれは技術革新とそれほど相関関係があるのだろうか.氏自身は日本がかつて「技術立国」であったことを認めている.ということは,かつて日本は「コーチング先進国」であったのだろうか.


 そして 「学校クラブ活動の功罪」は次の2行で始まる.


 ところでこれまで,そして今も,日本の(アマチュア)スポーツを底辺で支えているのは学校の課外活動(クラブ活動)である.



 否定も肯定もしがたい表現である.言い直すとすれば次のようになるのではないか.

 多くのスポーツで競技人口を支え,大衆化せしめているのは学校のクラブ活動である.(例えば,日本のラグビープレーヤのほとんどは中学または高校でラグビーを始めた人である)しかし,多くの競技で(特にオリンピック種目で)金メダルを狙えるような一流選手育成を支えているのは,昔も今も学校ではない.この点は区別して考えるべきである.

 以前テレビで国内の水泳大会を観ていたとき,各選手の所属が学校名(大学が主だったと思う)で紹介される選手と,「××スイミングスクール」というような選手が同時に参加していて,予選・選考などはどうなっているのだろうと疑問を持ったことがある.だから十数年前の本校の飛び込み選手の例(本校にクラブがなかったため急遽水泳部を作ったという話)は意外だったし,国体の制度は問題だけれど,このことは逆に,一流選手の育成が,学校(中学・高校)によるものでないことの証明ではないのか.おそらく昔も最近も日本の金メダリストの多く,特に水泳や体操の選手は(学校でもやっていたかも知れないが)おもに学校外で育てられた選手ではないのか.だいたい多くのスポーツで中学からでは遅すぎるのは常識である.この点を頭に入れて以下の文を読む必要があると思われる.


 まず,学校にいる指導者であるが,(中略)どれだけのクラブに今必要とされるような指導者が存在するだろうか.

 かりに本校を例にとってみると,現在17の運動クラブがあるが,そのうち,大学でその競技に関する指導者教育を受けた体育教師,あるいは大学(高校)でその競技のクラブ活動を経験した教師が指導するクラブがいったいいくつあるだろうか.概算ではあるが,半数を少し超えるぐらいではないだろうか.そしてそのうち,そのスポーツの日々刻々進歩する技術を次々吸収し,部員の指導に活用している指導者ははたしてどれだけいるだろうか.(中略)そんなクラブでは,結局練習は,生徒まかせの放任になるか,教師も生徒といっしょに練習するか(指導ではない!),あるいは技術的な指導はできないので「精神的な指導」に専念するかが精一杯で,あらためて指導者教育を受けてコーチ学を勉強するという意欲と時間的余裕を有する教師はそう多くはないであろう.



 そして,精神的指導,根性教育の有害を指摘し非難している.

 精神的指導,根性教育の否定については同感である.しかしそれ以外の部分では,いくつか疑問を感じる.


 まずクラブ活動をトップレベルの選手の育成という視点からのみ評価してしまっていること.

 例えばガロアのような才能を持った数学の天才が本校に入学してきたとして,私は彼にその才能を開花させるような授業はできない.それはそのような目的の教育機関ではないから,そこに所属する私にその能力がないからである.仮にそれをできたとしてもしない.他のすべての生徒がついてくることができないからである.私の授業での目標は「最高の数学」を教育することではない.教室にいる生徒に興味を持たせながら,できるだけ数学を嫌いにさせずそのなかで最大効率の授業をすることである.クラブ活動でも同じではないだろうか.そのスポーツの楽しさを知ってもらうことが第一である.「底辺」だからこそ「底辺の指導」が必要である.もちろんそれは「低レベルの指導」という意味ではない.

 氏の理論でいけば,「歴史学者を育てられない史学研究部」「プロ棋士を育てられない将棋部」「プロのロックバンドを育てられない軽音」などは駄目ということになるのだろうか.


 それから「日々刻々進歩する技術」といえば少し大げさになるが,かなり多くのクラブ顧問が技術指導のための努力をしていることを氏は知っておられるだろうか.「全クラブ顧問のうち何割がその努力しているか」ではなく「全クラブのうち何割がその努力をしている顧問をもつか」で評価すべきだろう,そうすればかなり多くのクラブでそれはなされていると思う.それは「毎年のように変化する入試制度とそれに伴う出題傾向の変化を知る努力」をしている教科教師の割合よりも多いと思うくらいだ.実際に「××マガジン」とか「コーチング・クリニック」といった雑誌,あるいは各スポーツの戦術書・指導書・ビデオが職員室の机の上にあるのをよく見る.他の競技ではどうなっているのか知らないが,ラグビーでは指導者講習会というのもある.実はそれはそれほど役に立たないのだが,顧問の懇親会で技術や指導法の議論がなされ,これは本当に役に立つのである.そのようなことを知って書いているのだろうか.実際にその努力をしている顧問の先生はどのように感じただろう.

 確かに日々の仕事に追われてそのような努力が怠りがちになるということはあるだろう.確かに「クラブ活動を指導するために雇われたのではない」.だからといってクラブ活動を否定することにはならない.我々は同和教育をするために雇われたのではない.そしてそれに関する努力が怠りがちになることもある.でも同和教育は必要であると考えている.達成度で必要度を測るような書き方になっているのが残念である.必要性をまず考えてから,不要ならやめ,必要なら達成できる方法を考えるべきだろう.私は必要と考えている.その理由は後述する.


 ところで氏は最近のクラブの練習現場をどのように見ているのだろうか.私は各顧問ががんばっている結果,「底辺でも」かなり指導方法が進歩していると思うのだが,氏はいまだに昔のスポ根マンガのような練習がなされていると思っているのだろうか.

 私が就職しラグビー顧問になったときはいわゆる「根性ラグビー」の時代だった.氏の否定する「無意味に走らせ」,「しごいて」,それがラグビーの練習と疑わない,そんなチームがほとんどだった.「夏合宿と言えばランパス(ランニングパス)」と言われ,それだけを100本(筆者の感覚では10本=5km走)やらせるだけのようなチームも多かったらしい.そしてその理由を「技術よりもハート,試合で最後に勝敗を分けるのは根性」などと公言する顧問が多く,実際試合のとき,後半のちょうどばて始めた頃に「あの合宿のときのしんどさを思い出せ」と叫ぶのをよく聞いた.

 今そんなチームはない.かつて馬車馬のように(註3)生徒をしごいていた同じ先生が,今は技術の伝授に力を入れている.「科学ラグビー」にすっかり変わってしまった.そのような変化を氏は知っているだろうか.

(註3) この表現はこういうときの定番らしい.


 さて保留していたクラブ活動とその指導の必要性・有為性について書こう.すなわち教育的意味についてである.ただこれについては,文章だけでは説明しづらく,私の感じていることが正確に伝わるか心もとない.大げさな言い方になるが「クラブ活動によって救われている生徒がいかに多いか」は数値や客観的なデータによって証明することができないからである.私は生徒と関わる中で実感として感じるのだが,これを読まれている方はどのように感じておられるだろうか.自分が顧問をしているクラブもそうだが,自分の学年の生徒を見て特にそう思う.運動クラブの生徒を中心としたグループの問題行動も結構あったが,「クラブをやってるからあれですんでる」んだと思う.教師になって間もない頃,自分が顧問をしているクラブで何か問題があるとそういう意味のことを,何人かの先生が言ってくれた.慰めのための都合のいい解釈と聞こえたこともあったが,今はそれが正しいと感じる.クラブの中で,彼らの発散のエネルギーは確実に昇華されている.生徒の中には,クラブ活動中は教室と別の顔になっている者もいる.他の先生方も同様の感覚を持っていると信じたい.


 「スポーツを他のこと(註4)に利用してはいけない」玉木正之氏をはじめとする最近のスポーツジャーナリズムは,異口同音に言う.


(註4) 「他のこと」とは多くの場合,教師と生徒の間に「教師絶対」の封建的関係を作ることであったりする.


 そして私もそれに同感である.これは上に書いたことと矛盾しない.つまりスポーツを指導する中で恣意的に「他のこと」に利用するのはよくないだろう.しかしスポーツは楽しいものである.純粋にそのスポーツを楽しませること,やりがいのあることを見いださせることを目的としているのである.学校の中でそういう充実した時間を持たせることが,彼らにとってプラスであるというだけである.もしこの場合でも「他のことに利用した」というのであれば,運動クラブ以外にも,学校活動のかなりの部分を否定すべきということになるし,それを実践すれば学校は味気ないものになるだろう.「生徒と一緒に練習する」顧問もこの意味において有益であるかも知れない.もちろん全生徒にとってスポーツが楽しいものという気はない.


 氏は最後の部分で次のように述べている.


 結局,機会があればその競技を本格的にやってみたいと思ってもその機会が得られず,そのまま埋もれてしまう生徒が少なくないことは確かである.現に,本校のような学校でも,卒業後,大学のアメリカン・フットボール部に入って,甲子園ボウルやライスボウルのような大舞台で活躍できるような運動能力を持つ生徒が存在している.



 この部分で何を言いたいのかよく分からない.本校では運動能力を持つ生徒がいても埋もれさせてしまっているということだろうか.先に述べたように,仮にそうであっても仕方ないことと思う.「その競技を本格的にやってみたい」つまり金メダルとかプロをめざすなら,それなりの環境を選ぶべきであり,そのことが一般の学校でのクラブ活動の否定にはならない.しかし私が今言いたいことはそうではない.氏は例えば(甲子園ボウルなどで活躍した)B君が本校バレー部で活躍したことを知っているのだろうか.(同じく)C君が本校アメリカン・フットボール部員だった頃,大阪でベスト4になったことを知っているのだろうか.彼らはちっとも埋もれてなんかいなかった.


 氏はTVの前で日本が惨敗していく姿を見て,耐えられなくなって,その「責任転嫁」をクラブ活動に押しつけただけではないのか.普通,教育現場にいる人間なら,金メダルや一流選手育成よりも,クラブ活動の意義が別のところにあることを知っていてその意味を重く感じている.TVの前の「観戦のみスポーツファン」にとっては,TVに出ないようなB君やC君の高校時代の活躍は,銀メダルと同様に意味のないものなのかも知れない.私から見れば大快挙と思える去年12月のバドミントン部の大阪代表・近畿大会出場も,氏にとっては,大きな事ではないのだろう.(後略)



[追記]日本が素質面以外で弱い理由


 もともと文才もなくスポーツにおいても素人の私がこのような文章を書くことには蛮勇を奮わなければならなかったのだが,蛮勇奮いついでに,日本が素質面以外で弱い理由を考えてみたい.それはいくつか考えられる.もしそれらを克服することができるならば,金メダルの数は増え,おそらく2桁となるだろう.ただ現実的でない.そして私はいくつかの点については,そうなることを望まない.


(1) 福島氏が「進学は一生の問題」と言っているように,崩れてきてはいるものの他国と比べればまだまだ学歴偏重社会である.「一流」を狙える位置にいることがはっきりしていれば,スポーツ中心に進路を考える人も多いが,「学歴」に関しては,一流かどうかに関係なく輪切りにして進路が決定される.その中では才能に気づかないまま,開花させられないままの人材もかなりいるであろう.


(2) (1) の言い換えと言うことになるかもしれないが,スポーツとスポーツ選手,特にオリンピック選手に対しての経済的待遇がよくないこと.日本は国連とノーベル賞とオリンピックの価値を重く捉え過ぎなんだそうだ.しかし他国に比べ,金メダルの経済的対価は小さい.これは各選手に与える影響だけでなく,在籍チームや施設面も含めて大きな差になると思う.「スポーツ省」というようなものもなく,国家レベルでの経済的応援も少ない.しかし,国がスポーツに大きすぎる投資をして,ナショナリズムを煽ることには疑問を感じる.「アマチュアスポーツの祭典」であったはずのオリンピックは,もうその原型をとどめないくらいにプロ化している.さらに日本の経済力とのバランスも考慮に入れると,スポーツにどれだけ打ち込めるかということが他国と比べてかなり差があるであろう.


(3) これも(1) (2) からの一つの結論と言えるだろうが低年齢時の「才能の発掘」ということを全くやっていない.


(4) 筋力開発の遅れ.日本人は素質的にも筋力にハンディを持っていると思うのだが,さらには筋力トレーニング後進国でもある.その必要性を軽視しがちである.これは日本クラブ活動の弊害かも知れない.日本では「スキル(技術)の習得」ということと「体力・筋力の鍛練」を区別せず行う.「練習」という言葉で両者を一括している.外国では前者Exercise,後者をTrainingと呼んで区別しているようである.普通トレーニングは個人の自覚のもとで行われなければならない.それほど難しいものではなく,プログラム通りにやれば個人差はあれ確実に筋肉がついていく.高校で使う筋肉は中学で作り,大学で使う筋肉は高校で作るものだと,その筋の専門家が書いていた.そういう視点で見ると,中学・高校の「練習」のなかでは,「選手の育成」ということと「チームの勝利」ということが矛盾する要素となる.日本が遅れているのは,ExerciseよりTrainingであり,クラブ活動の弊害を指摘するならむしろこの点に言及して欲しかった.(註5)


(註5) 先日ラグビーの高校日本代表が,スコットランドに2戦2勝(地方代表との試合を含めると5戦5勝)で凱旋した.ナショナルチームレベルではかなり実力差があり,スコットランドは日本相手の試合をテストマッチ(国の代表として誇りをかけて戦う試合をラグビーではそう呼ぶ)とは認めたがらないくらいである.しかし日本高校代表チームはあまりにも強く,スコットランドは連敗を食い止めるために,テストマッチ(高校代表どうしでもそう呼ぶ)でなかった試合を,士気を高めるため「テストマッチにしないか」と申し出てきたほどである.そしてスコットランドチームの選手・関係者の声は一様に「なんてスキルフルなんだ」であったそうだ.


(5) ある意味で (4) と同義で, (2) とも関係することだが,日本はおそらくまだ「ドーピング後進国」である.いろいろな薬物を開発し使用する側と,取り締まる側の関係は「いたちごっこ」とすら呼べない状況である.旧東欧諸国のいくつかの国では,ナショナルチームレベルでドーピングが行われていたことは常識だし,アメリカなどでもかなり進んでいるといわれる.意外と思うかも知れないが,捕まえる側のいたち( = IOC)には本気で捕まえる意志がない.何故か.もしすべてのオリンピック選手から禁止薬物がなくなれば,オリンピックの商業価値が下がるからである.陸上競技などの記録は20年前に戻ってしまうだろうという証言もある.IOCは,掛け声だけドーピング禁止を叫んでいる.


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