バロン・70年代1


『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち 

                          The Nuclear Barons』


第4部 1970年代(前)



第20章 ブームの年


 1970年代に石油価格が急騰したことは、世界の電力業界の人たちにとっては思ってもみなかったことだった。彼らは石油は安いものだという誤った安心感にひたり切って、石油火力発電所に巨額の投資をしていた。


 1950年代と60年代中に、膨大な量の石油が、主として中東からヨーロッパ、アメリカおよび日本へと流れた。この時期、国際石油会社は燃料油を人為的に安いコストで生産し、それまで石炭にとって最大の市場だった、産業用ボイラー、とくに発電用ボイラーから石炭を駆逐してしまった。アメリカは、石油輸入制限政策によって、全面的な石油への転換をいくぶんかは免れていたが、世界中の電力会社が、石油は低コストだという一時的な幻想から石油専燃火力発電プラントを発注した。西ドイツ、イギリスなど一部の国では、炭鉱会社やとくに炭鉱労組の圧力によって、石油火力への切り替えにブレーキがかけられたが、フランスや日本などでは石油が全面的な勝利をおさめた。だから、1970年から73年までの間に石油価格が2倍になり、73年の第4次中東戦争でさらに2倍に跳ね上がったとき、彼らは新たな信仰と熱心さでもって原子力発電に注目するようになった。


 そのとき先頭に立ったのは日本だった。理由は2つあった。第1に、日本は20年間にわたって2桁の経済成長を経験していた。1950年代はじめには、日本の経済はイギリスやフランスのわずか3分の1の規模にすぎなかったが、70年代の終わりには、その両国を合わせたよりも大きくなっていた。日本の国民総生産(GNP)は1962年にイギリス、63年にフランス、そして66年には西ドイツを追い抜いた。そしてその10年後にはソ連を抜いて、日本経済は世界第2の大きさに成長した。その間、電力需要は急速に増大し、9電力会社のトップの東京電力は世界最大の民営電力会社となったが、70年代に入っての石油価格の急騰は、エネルギー全体の85%を海外に依存する日本にとって、その工業能力の安全を保障するためには、エネルギー源の早急な「多様化」をはかることが是非とも必要となってきた。


 第2の理由は、急速な工業発展が先進工業諸国でも類を見ない最悪の環境汚染をもたらしたことである。なかでも化石燃料を燃やす発電所の煙突が公害防止運動の大きな攻撃目標とされていたが、一方、原子力発電にすれば排気ガスが出ないので大気汚染はなくなる、と期待された。電力業界の人たちは、汚染を防止するのに必要な装置のコストに恐れをなして、膨大なコストがかかるにもかかわらず、原子力を万能薬だと思い込んだ。


 さらに、日本でもアメリカと同様、新しい技術を公営企業の手に握られまいとする民営電力会社の懸念も大きく作用していた。


 2人の電力会社首脳が日本の原子力発電導入に指導的な役割を果たし、両社間のライバル意識がまた原子力の成長に拍車をかけた。それは、東京電力社長の木川田一隆(93) と、関西電力社長の芦原義重(94) であった。2人とも、低姿勢と集団的な政策決定が通例となっている日本の電力業界にあっては異色の、強引でワンマンな経営者だった。それぞれ独特の社内機構をつくりあげ、中央集権的な政策決定権をその手に握っていた。2人とも社会的、政治的には、自己流の進歩的な態度の持ち主で、大企業は社会的責任を負っていると信じていた。両者に違いがあるとすれば、抜け目のない大阪商人タイプの芦原の方が、木川田に比べて哲学的な色彩が薄いことぐらいだった。


 この2人が最初に手を組んだのは、1940年代の末に公営電力の脅威を打ち破るときに力を合わせた時だった。1939年に軍国主義下の日本は単一の国営発電会社をつくりあげた。何百という雑多な配電会社が9つの地域グループに再編成され、それぞれが独占国営発電会社の電力を給配電した。戦争が終わって、占領軍当局が日本の再建に着手したとき、木川田は国営発電会社の発電所を9つの配電会社に割り当てるよう強く要請した。イギリスやフランスをモデルにした国営の独占企業を設立すべきだという人々もいたが、木川田は9配電会社の中から、芦原を含む若手の強力なグループをつくりあげ、独占企業案に反対した。


 この問題をめぐる政治的な闘いに決着がつくまでに数年を要したが、占領軍当局は、自由な企業が民主日本の柱になりうると考え、木川田らに軍配をあげた。発電と給配電を受け持つ9つの電力会社が設立されたが、きわめて多額の資本コストを必要とする発電所建設は個々の電力会社では負担し切れなかったので、電源開発部門は公営のまま残った。しかし、この電源開発グループは、公権力の拡大の潜在的な基礎として残り、50年代の終わりに、それが最初の原子力発電所を建設すると主張するに及んで、その恐れは現実化するかに見えた。これに対して、民営の9電力は共同出資して日本原子力発電(JAPCO)を設立することを提案、これを凄腕の原子力担当相の正力松太郎(54) が支持して、政府はJAPCOに原子力発電所を建設させることを決定した。1957年に最初の契約が結ばれたが、これはイギリスのガス冷却炉だった。この取引は正力がほとんど独断で決めた。その何年かのち、この炉がうまく動かないことが判明した。1963年にGEのオイスター・リークの沸騰水型原子炉(BWR)が画期的な成功を収めたころ、JAPCOは新しい動力炉の購入を検討しはじめ、1965年末にBWRの採用を決定した。


 日本の電力会社は常に特定のメーカーと結びついた発注をするという特有の伝統があった。東京電力はいつもGEのライセンス生産をしている日本の重電メーカーから発電施設を買ってきたし、一方、関西電力の方は、ウェスチングハウスの提携先から購入していた。JAPCOがGEからBWRプラントを買ったことは、東京電力をそのライバルである関西電力よりも優位に立たせた。日本最初の原子力発電所を建設するために、日本の技術者はGEのBWRの建設と運転の訓練を受けることになる。これは、ウェスチングハウスの加圧水型原子炉(PWR)を買うことにしている関西電力にとっては不利なことだった。しかし、イタリア、西ドイツ、さらにはインドと、国際入札で相次いで敗北を喫していたウェスチングハウスは自社のPWRを売り込むために、芦原に対してきわめて有利な条件を提示した。1966年に、芦原は日本最初のPWRを発注した。すかさず木川田もGEにBWRを発注した。1966年半ばにおける、この2つの性急な「威信」がらみの発注の結果、日本の電力業界は、引き返すことのできない原子力開発のコースへと踏み出すことになった。


 電力業界の熱心さに引きずられて、日本の原子力委員会は長期計画を大幅にかさ上げした。1961年には、1985年までに合計600~800万キロワットの原子力発電所を建設する計画だったのが、1967年の新しい計画では、3000~4000万キロワットに引き上げられ、1970年にはさらに6000万キロワットにかさ上げされた。政府は原子力関連投資への特別償却や減税措置を含む大幅な助成策をとって、原発建設を奨励した。2大電力会社の原子力チームは自信満々となり、原子力へと踏み出したそもそもの理由が企業間の威信争いであったことなどすっかり忘れて、発電所ができる前から、原子力の利点をいやがうえにも強調するために、時期尚早な手前味噌のコスト見通しや需要予測がとめどなく注ぎ込まれた。


 最初の段階でこそ日本の電力会社にリードを許したけれども、国有のフランス電力(EDF)ほど原子力に熱中したところは他になかった。EDFは戦後フランスの国有化計画の大きな成功例であった。電力コストを低水準に抑え、20年間にわたって大規模な投資計画を成功裏に収め、フランス産業界全体の模範であると同時に推進役になっていたEDFは、その専門知識とフランス産業界における役割に自信を持った、誇り高い組織だった。


 当初、EDFは、大規模な原子力計画を打ち出そうとするフランス原子力庁(CEA)からの圧力に抵抗していた。またフランスの国産の技術によるガス冷却炉を採用すべきだというCEAの主張にもコストを理由に反対し、アメリカの軽水炉システムの導入を勝ちとって、原子力官僚機構との闘いに勝利を収めた。しかし、1970年になってもEDFはまだ安いコストの石油の時代が続くと信じ、軽水炉も研究開発の段階にとどめていた。だから、石油のシャボン玉が破裂して、その路線を全面的に変更せざるを得なくなったとき、自慢の予測技術が破綻したことに対する狼狽もあって、原子力発電採用へのEDFの熱中は逆にいっそう高まることとなった。


 こうした変化を先導し、一般大衆に向かって最も雄弁にその新しい路線を弁護してみせたのは、EDFの支配人のマルセル・ボワトー(95) であった。保守的な理工科学校(エコール・ポリテクニーク)の「橋梁・道路組」が主流であったEDFでは異例の、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリエル)の出身だったボワトーは、EDF社長のピエール・マッセ(78) のお気に入りで、有能ぞろいのEDFのエコノミスト・グループの中にあっても抜きん出た理論家だった。彼は、将来の石油と石炭のコスト上昇見通しからして、原子力のコストを最も高く見積もっても、原子力に経済上の競争力があると証明してみせ、EDFは大規模な原子力計画に乗り出した。


 当初の1971年~73年の計画では、毎年300~400万キロワットずつ原発を増やして行くという控え目なもので、石油の供給が怪しくなったときの「保険」の色彩が濃かったが、1973年の第4次中東戦争で、この計画は放棄されて、1974年、フランス政府はできるだけ速やかに石油から原子力に転換する政策を正式に採択した。その結果、1976年には合計出力300万キロワットの小規模な10基の原子炉しかなかったフランスは、1984年までに合計3000万キロワットの30基の原発を完成させることになった。


 EDFの技術担当者は、このスケールの大きな使命を前に奮い立った。電力の配分や販売が主力を占めていた時代は終わり、発電所の建設が再びEDFの活動の中心になった。EDF内の自信に満ちた技術エリート集団である施設局は、原子力発電の熱心な信奉者であるミシェル・ユーグ(97) に率いられた「突撃隊」と呼ばれていた。施設局はすべての発電所の計画と建設を担当していて、技術面での成果の伝統に誇りを持っていた。彼らは石油火力発電所の地味で、退屈な技術に飽き飽きしており、1950年代のダム建設の時代を「英雄の時代」と懐しがっていた。あらたに登場した原子力という課題は、もっとも手の込んだ技術的な設計を必要とし、往々にして敵意に満ちた環境の中で超然と孤高を守って作業を進めてきたダム建設チームの、古い同志的結合を蘇らせた。


 ミシェル・ユーグは中流階級の出で、父親は小学校の先生だった。彼はよく、冷蔵庫も買えずに若くして世を去った自分の母のことをつらそうに話した。原子力とは、いかなる母親も電気冷蔵庫を買えるようにするものだ、と彼は信じていたが、そうした感傷的な見かけも彼の野心を覆い隠すことはできなかった。ボワトーのあとを継いで支配人になろうという彼の野心は誰の目にも明らかだった。


 施設局は伝統的に、特定の地域での発電所の企画から建設までを一貫して責任を持つ、なかば独立したいくつかのチームで構成されていたが、ユーグは本格的に原子力と取り組むためには、計画全体を立案し、全国的な規模で建設する、中央集権的な組織が必要だと確信していた。狭い地域エゴが原子力の分野まで持ち込まれるに及んで、その確信はいっそう強まった。彼は伝統的な地域別のチームを廃止し、水力発電、火力発電という区別もなくして、事実上、原子力一本に絞った体制につくりかえてしまった。1976年にもはや引き返しが不能な計画がスタートした頃には、施設局内でユーグに楯突くものはひとりもいなくなった。彼に言わせれば意見の違いは不能率のしるしであり、いったん決定が下されたからには、あれこれ議論せずに実行すべきだと信じていた。その「独裁的」ともいわれる、強引で専制的な指揮の下に、施設局がEDF全体のリーダーへと成り上がっていき、ユーグの原子力への熱中は「次の世代」の動力炉である増殖炉にまで及んだ。その経済性がまだ依然として疑問であり、これまでの原子力の歴史において登場したどのプロジェクトよりも不確かだったにもかかわらず.....



【登場人物の整理】


(94) 木川田一隆(日):東京電力社長(沸騰水型原発を導入と推進)

(95) 芦原義重(日):関西電力社長(加圧水型原発を導入と推進)

  1. マルセル・ボワトー(仏)フランス電力(EDF)支配人(軽水炉原発の導入と推進)

(97) ミシェル・ユーグ(仏):EDF施設局長(軽水炉原発の建設を推進)





第21章   「原子力のシェル」


 1970年代初めの石油価格急騰に際して、すべての工業国が石油輸出国機構(OPEC)に頼らずにすむエネルギー源を開発するため、意を決して立ち上がった。なかでもアメリカはニクソン大統領が外国へのエネルギー源の依存を終わらせる「インデペンデンス計画」を打ち出すことによって、アメリカ国民のムードを要約してみせた。他の国々も同じような独立計画を立てたが、他の国々はもうひとつの依存関係、すなわち、アメリカによる世界的な原子力産業の支配からの解放をも心に抱いていた。アメリカは軽水炉の勝利で、原子炉の部門で世界を支配しただけでなく、その燃料の濃縮ウランの供給をも独占した。このことは世界各国の核科学者や技術者の愛国的心情をいたく刺激した。イギリスやフランスは軽水炉技術の採用を断固拒否したり、強く抵抗し、インドやアルゼンチンはコスト高にもかかわらず、カナダの重水炉を購入した。過去にはアメリカの企業は石油貿易を支配していたが、今度は、1975年現在ですでに年間500億ドルに達し、そのうえなおも拡大を続ける原子力産業でも、アメリカは断然トップを走っていた。石油のときと同じようなことが、今後何百年にもわたって最大の産業のひとつになると予想される原子力の世界でも起こるのを、特に西ヨーロッパの国々はおそれていた。


 1970年にフランス原子力庁(CEA)の長官に任命されたアンドレ・ジロー(98) は、原子炉と核燃料の二正面でアメリカの独占に攻撃をかけるべきだと考えた。石油のメジャーが原油の採掘からガソリンスタンドの経営まで手がけているように、今後巨大な多国籍企業がウラン鉱石の採掘から原子炉の建設まですべての原子力に関係した事業をやるようになるだろう。「われわれは原子力のシェルになるのだ」と彼は言った。


   ジローは石油産業の出身で、ピエール・ギョーマ(48) の庇護の下でフランス官界で出世してきた人物だった。ギョーマはフランス独自の核爆弾をつくるための機関として原子力庁(CEA)を設立しただけでなく、石油メジャーに匹敵するフランス自身の石油会社をつくりあげるために何十年間も闘ってきた。ギョーマと同じく理工科大学の「鉱山部」の卒業生だったジローは、ギョーマが設立した国立石油研究所に20年間勤め、その間、のちにフランスの原子力産業を築き上げるのに役立つ技術を身につけた。


 1964年、ギョーマはジローをフランスの燃料局長に抜擢した。そこでジローは初めて権力の味を知り、それがすっかり好きになった。そして好きなだけではなく手腕も備えていた。彼は絶えず、自分の有能さを証明したいという衝動に駆られているように見えた。過去の勝利に決して満足せず、つねに新しいプロジェクトがあり、新しい戦いがあり、新しい勝利がなければ気が済まなかった。彼の指導力の下、フランスの原子力計画は、それまでの実績を評価し、それを消化し、拡張するのをやめなかった。彼の熱心さと行動力は、その教師であるギョーマとよく比較されたが、彼にはギョーマの静かな自信が欠けていた。20年間にわたる石油研究所生活を通じ、ジローの内奥には自己不信があったが、あらわな行動力がそれを覆い隠した。口数が少なかったギョーマとは逆に、ジローは多弁で、よくかんしゃくを破裂させ、自分の権勢を振るうのに声を荒げた。背が高く、銀髪で、冷たい青い目をし、きれいに刈り込んだヒゲを蓄えた痩身のジローは、見るからに権威ある人物を装っているように見えたが、確かにそれは自然に身についたものではなかった。彼はボルドーの貧しい家庭の生まれで、父親は学校の視学官、母親は郵便局の職員だった。彼は自分の知能と精力だけで出世してきたのである。


 1970年末にジローがCEAを引き継いだとき、同庁は動力炉の選択をめぐるフランス電力(EDF)との闘いに全面的に敗北したのちの沈滞した空気に覆われていた。ポンピドー大統領がCEAを首相直轄から産業相の所管に移し、さらにCEAを建て直す調査委員会を設置したことで、大きな屈辱さえ感じていた。委員会は抜本的な組織替えを勧告し、あらゆるポストが洗い直された。しかし、ジローは新しい機構に巧みに適応し、再編成の仕事を全部引き受けたため、世間はじきに調査委員会のことを口にしなくなった。そしてジローは5年以内に石油メジャーをモデルにして、原子力に関する総合的なグループをつくりあげたのである。


 ジローは、アメリカの軽水炉に匹敵するようなフランス製動力炉を生産するのは不可能だということは承知していた。そこで彼は、ウラン燃料の完全利用をはかる「核燃料サイクル」と呼ばれる核技術に全精力を集中した。


 このサイクルはウランの採掘から始まる。天然ウランはまず軽水炉用に「濃縮」工場で加工され、核分裂を起こすウラン235の比率を高められる。濃縮が終わると、原子炉に装填する「燃料棒」に加工される。それが炉内で燃焼したあと、燃えかすの「使用済み核燃料」を取り出して、「再処理」工場でその中に含まれているプルトニウムを抽出し、ウランを加えて軽水炉用のMOX燃料として「リサイクル」する。あるいは、プルトニウムを分離して、増殖炉の燃料にすることもできる。


 フランスのCEAは核兵器開発に果たしてきた役割と歴史からして、核燃料サイクルのすべての部分に関わり合いを持っていた。ウランの探鉱と採鉱にも従事してきたし、核兵器用の核物質を生産するための小規模な濃縮プラントを持ち、プルトニウムの生産や動力炉の建設、軍事用の再処理工場も稼働させていた。さらに増殖炉計画では先駆的な存在だった。


 同じように核兵器を生産し、核燃料サイクルの開発に携わっている国としては、イギリスがそうだった。イギリスは、核燃料サイクルに関連するすべての計画を、濃縮と再処理を担当しているイギリス核燃料公社(BNF)のもとに一本化した。BNFはイギリス原子力公社(AEA)と密接な関係があり、AEAはフランスのCEAと違って、ウラン鉱山は所有していなかったが、イギリスの巨大鉱山会社リオ・ティント・ジンク(RTZ)は、世界中のどの国よりも大量のウラン埋蔵量を支配しており、このRTZとBNF、AEAをつなげば、まさに核メジャーが出現する。


 西ドイツは、技術面では強力だったが、組織的には分散していた。二大電機メーカーであるジーメンスとAEGはともに、軽水炉と増殖炉の両方を生産する技術を持っていた。大化学メーカーのヘキスト社は再処理をやっており、重工業各社からなるコンソーシアムがウラン濃縮を支配していた。しかし、このようなバラバラの糸を一本により合わせるのは難しそうで、それに、西ドイツはウランの安定して供給先を持っていなかった。


 欧米以外で核メジャーとなる潜在的な能力を持っているのは日本だった。核燃料サイクルの多くの部分が、政府出資による動力炉核燃料開発事業団のもとに一本化されていた。しかし日本も、ウランの供給源を持っていなかった。


 ジローの構想が正しかったことは、アメリカの大会社が核燃料サイクルに新たな関心を示しはじめたことで証明された。いくつかの石油会社が参入してきた。ゲッティ石油は使用済み燃料棒の再処理技術に乗り出し、エクソンはウラン採掘と濃縮に、ガルフは原子炉メーカーを買収し、シェルと手を組んで核燃料サイクルの分野の足場を強化した。またGEやウェスチングハウスも濃縮や再処理に関心を示し、ウラン探鉱にも乗り出した。


 ジローは、将来の核メジャーは、エクソン、ガルフ、GE、ウェスチングハウス、それにイギリス、西ドイツから1社ずつ、そしてフランスのCEAの「7人兄弟」で形成されるだろうと考えていた。


 ジローは再処理を核燃料サイクルの最初の目標に選んだ。シェルブールの近くにあったフランスの核兵器計画一環としての再処理プラントはガス冷却・黒鉛減速型原子炉の使用済み燃料棒を処理するためのものだったが、軽水炉用に転換すれば、十分に使用可能だった。イギリスも再処理施設の拡大を計画し、西ドイツはこれから建設に取りかかるところだった。3国ともアメリカに国際市場を支配させないことが共通利益になっていたが、このまま3国が競争すると設備過剰になってしまうおそれが出てきた。予測どおり原子力発電が世界中で拡大していけば十分な需要が生まれてくるが、それまでは、石油メジャーが石油の供給と販売で協力しあってきたように、3国は手を携えなければならない。そこで、3国は、1971年、再処理技術をプールしあうための合弁会社を設立し、お互いに足許をすくい合うことがないようにした。


 ジローの第2の目標は、ウランの採掘と販売に関することだった。当時、ウランの国際価格は依然として「買い手市場」で、しかもアメリカの原子力委員会(AEC)ががっちりと押さえていた。AECはウラン濃縮プラントの独占的地位を利用して、自国が買い入れる分だけではなく、世界中の天然ウランの価格を低い水準に抑えていた。


 戦争直後のウラン需要の大部分を算出したベルギー領コンゴの豊富なウラン鉱山に加えて、カナダで新しい鉱脈が発見され、南アフリカの金山では副産物として大量のウラン鉱石が産出され、オーストラリアでもいくつかの新規開発が始まった。しかし、1960年代初めには、ウランの産出量はアメリカの核兵器計画の需要を上回るようになり、生産削減が始まった。1964年には、アメリカがウラン鉱石の輸入を全面停止すると宣言、さらに1967年、AECは濃縮ウランを一定価格で誰にでも売ると発表、このため天然ウランの価格を1950年代なかばの約半値に固定されることになった。


 世界のウラン産出国は市況が下落しつづけることにすっかり取り乱してしまった。将来のウラン需要の拡大を見越して、莫大な経費をかけて開発計画を進めてきたカナダなどは音をあげたが、AECやアメリカ政府は耳を貸そうとはしなかった。そこでフランスは1972年、アメリカ以外のウラン産出国とともに、ウランの供給を管理する「秘密クラブ」を結成した。


 フランス自身もスタートは遅かったが、主要なウラン生産国となっていた。国内と旧植民地のニジェールとガボンで独自のウラン鉱山を開発していた。また、60年代なかばに、失敗に終わったガス冷却炉用として、大量の天然ウランの備蓄をしていて、それらがいまや生産にかかったコストよりも低い価格で売らざるをえなくなっていた。


 直接その任に当たったのは、ジローの最も信頼する補佐役ピエール・タランジェ(99) だった。典型的な理工科学校卒の技術者であるタランジェは、ギョーマの石油帝国で職業人としての第一歩を踏み出し、1950年代にギョーマが核兵器用物質の生産計画に着手したとき、その責任者となった。彼はギョーマがCEAを去ったときに自分も辞任したが、1971年にジローによって呼び戻された。その任務ははっきりしていた。短期的にはウランの供給過剰を解消することだが、それを「原子力のシェル」を建設するというジローの大計画を念頭に置きながらやってのけるということだった。


 1972年2月、フランス、カナダ、南アフリカおよびイギリスのRTZ社の代表がタランジェの招待でパリのCEA本部に集まった。予備会議という触れ込みだったが、フランスは早速ひとつの計画を提示した。それによると、1977年までのウランの総需要はわずか2万6000トンであるのに対して、生産能力は10万トンを上回る。それに加えて、フランスとカナダは備蓄のウランも抱えていた。そんな状況で、今の低価格を何とか引き上げるには各生産国が生産を抑えて、割り当て量を厳重に守るしかない。


 それまで激しい競争をしていた各国は、最初のうちは合意に到達できそうにも思えなかった。しかし、オーストラリアで桁外れに豊富なウラン鉱山が発見されており、カナダのラビットレイクの新しいウラン鉱山も1975年から生産を開始する予定で、このままでいくとさらに価格が低下するのは目に見えていた。


 ところで、カナダのラビットレイク鉱山はカナダ政府ではなく、CEAにとってはライバルのガルフ石油が支配していた。タランジェは当初、クラブのメンバーを最初の4ヶ国に限定することにしていた。すると、オーストラリアもガルフも除外されることになる。最初の会合から1週間後、カナダで操業しているガルフの子会社がパリで秘密会議が開かれているのを嗅ぎつけた。ガルフの首脳部は是が非でもこのクラブに加盟する必要があると判断し、その後、何ヶ月も難交渉を重ねて、1972年5月に、ガルフもオーストラリアもメンバーになることに成功した。このクラブはメンバーの間では、フランス、オーストラリア、カナダ(ガルフの利益も含めて)、南アフリカ、イギリス(RTZ社)の「5ヶ国クラブ」と呼ばれるようになった。


 1972年7月、アメリカ以外の世界ウラン市場の推定需要が、70年代いっぱいにわたって、この5ヶ国に割り当てられた。詳細なパーセンテージが定められ、入札に際しての細かい手続きも取り決められた。また、ウラン市場で「中間業者」を介在させるのを排除するという特別規則も採択した。


 その頃、ウェスチングハウスは加圧水型原子炉の売り込みを世界的に成功させており、その手段として、ウランを長期間にわたって固定価格で供給するという「甘味料」をつけていたが、それが特別規則に触れることになった。ウェスチングハウスがライバルの原子力メジャーになることを警戒するフランスと、子会社の製造する原子炉が競合するガルフが力を合わせて、ウェスチングハウス追い落としに立ち上がった。「中間業者」を締め出すために、「中間業者」への売り渡しには高い価格をつけるという動議が採択され、ウランの大量の供給約束を抱えていたウェスチングハウスは窮地に陥った。


 ジローの第3の目標は、ウラン濃縮計画だった。ウラン濃縮は原子炉の販売よりもカネになる商売で、原子力発電が計画どおりに拡張していけば、今世紀末までに1000億ドル規模の産業になると予測されていた。増大する需要に応えるためには2000年までに12ヶ所ほどの新しい濃縮プラントの建設が必要なはずで、ジローはそのうちの少なくとも1つをフランスに建設するハラを固めた。


 フランスはすでに、原爆計画で開発した「ガス拡散」技術を採用した新しい濃縮プラントに着手していたが、それに代わる新しい技術、「遠心分離」方式が登場した。この方式は、マンハッタン計画の初期の段階で放棄されたものだったが、いくつもの利点があったので、1960年代にヨーロッパで息を吹き返した。その利点のひとつは、「ガス拡散」の場合、とてつも大きな工場になるのに対して、「遠心分離」ではスケールが控え目なものになるだけでなく、需要が増大するにつれて工場を段階的に増設できた。二つ目の利点は、「ガス拡散」では膨大な電力が必要で、1ヶ所の工場が、ニューヨーク市が消費するのとほぼ同じ電力を使っていたのだが、「遠心分離」ではその5%の電力しか消費しなかった。ただ、それまで企業採算に乗るだけのプラントを建設した例はひとつもなかった。


 「遠心分離」に先鞭をつけたのは、第2次大戦中のドイツの原爆開発計画のチームで、このメンバーは敗戦後、ソ連で「遠心分離」の研究に従事した。しかし結局、ソ連は「遠心分離」を放棄し、実績のある「ガス拡散」を採用したため、チームのひとりのゲルノート・ツィッペ(100) は、「遠心分離」の設計図を持ってドイツに帰国、デグッサというドイツ企業が開発に着手した。しかし、やがて「遠心分離」が早くて安上がりの濃縮の方法になる、すなわち、より簡単に原爆がつくられるようになるのを恐れたアメリカは、「遠心分離」に関するすべての作業を機密扱いとするように主張、デグッサ社は不承不承、研究のいっさいを政府管轄下の機関に売り渡した。アメリカはその後も、「遠心分離」を隠していたが、1968年に西ドイツ、イギリス、オランダ3ヶ国の政府が秘密裏に交渉し、3国共同の研究開発グループ「ウレンコ」を設立した。


 「ウレンコ」に、アメリカの濃縮独占に対するヨーロッパの挑戦の意気込みを読み取ったアンドレ・ジローは、1972年2月、CEAがウラン・クラブの交渉を開始した2週間後に、すべてのヨーロッパ諸国に対して、濃縮研究グループ「ユーロディフ」の結成を呼びかけた。しかし、ウレンコ3国から見れば、このジロー提案の目的が、「遠心分離」をやめさせ、フランスの「ガス拡散」計画に全ヨーロッパ諸国を協力させることにあるのは明白だったので、それに反発、結局、ウレンコとユーロディフの2つの濃縮グループが別々にヨーロッパに誕生した。ユーロディフには、フランス、スペイン、イタリア、ベルギーが参加した。


 フランスがここまで大きく踏み込んだのは、日本などから大口のウラン濃縮契約が舞い込んだからである。ユーロディフ・グループは大規模な「ガス拡散」工場をフランスに建設することにした。折りしも、アメリカは自国の濃縮工場の拡大を控えており、その間隙を縫っての契約獲得であった。ジローは、原子力発電の将来についての最も楽観的な見通しが必ず実現すると固く信じて、手直しした再処理プラント、秘密のウラン・クラブ、それにユーロディフ・グループを武器に、包括的な「核燃料サイクル」計画を推進していった。


 しかし、1974年、もはやこの計画が引き返し不能地点を過ぎたころから、雲行きが怪しくなってきた。原子炉の注文はピークを過ぎ、さらに濃縮ウランが供給過剰の気配を見せはじめてきた。ウレンコ・グループの方は、需要が出てきた場合は、それに応じてプラントを増やせばいいので、柔軟に対応できそうだったが、ユーロディフは巨大な「ガス拡散」プラントを抱えて立ち往生してしまった。さらにまずいことに、その建設コストも当初見通しの2倍になっていた。


 それでもフランスの熱中ぶりは収まらなかった。ユーロディフの他の加盟国がいずれも原子力発電計画を縮小したのに、フランスだけはさらに増大させた。自信たっぷりのフランスの原子力産業は、原子力の将来への懸念が高まっているのに対して、フランスの社会や業界に特有の頑固さで取り合おうとしなかった。原子力の大戦略は「第2のコンコルド」なのではないかという叫びが日増しに高まっているにもかかわらず、CEAはジローのもと、向こう何十年にもわたって、フランスの経済繁栄を左右するようなやり方で、同国の工業投資を支配しはじめた。



【登場人物の整理】


  1. アンドレ・ジロー(仏):フランス原子力庁(CEA)の長官(「核燃料サイクル」を確立)
  2. ピエール・タランジェ(仏):CEA技術者(ウラン生産国カルテル「5ヶ国クラブ」担当)

(100) ゲルノート・ツィッペ(独):技術者(遠心分離方式ウラン濃縮法の研究)





第22章 2つの王朝物語


 1938年にウランの核分裂を初めて発見したドイツが、発電用原子炉に関するアメリカの技術的独占を決定的に打破する国になるというのは、まことにもっともなことだった。


 世界最大の電機メーカーのひとつである西ドイツのジーメンス社のスタイルは、ライバルであるアメリカのGEやウェスチングハウスよりも堅苦しかった。アメリカ流のすばやい機動性と幹部の引き抜きといった手法はとらず、どちらかといえば日本の企業に近かった。家族的で、社内では競争を控え、ポストが脅かされることもなかった。そしてジーメンスの一番の特徴は、創始者であるウェルナー・ジーメンスが奨励した知性と技術的優秀性の伝統にあった。「ジーメンス家」(同社の社員たちは自分の会社をそう呼んでいた)は、今すぐ商業的に応用できるかはともかくとして、独創性のある研究に高い優先順位を置いていた。


 ジーメンスの原子力研究は、連合国がドイツの原子力研究を解禁する3年も前の1952年から秘かに開始されていた。ウェルナー・ハイゼンベルク(13)は、ドイツの理論物理学者ウォルフガンク・フィンケルンブルク(101) をジーメンスの原子力研究のリーダーにしてはどうかと提案した。フィンケルンブルクは1939年にナチに入党し、ナチの大学教師協会のリーダーを務めていたが、それにもかかわらず、彼はナチによって「ユダヤ人的物理学」と批判を受けていたアインシュタイン理論を支持し、そのことでドイツの核物理学者たちから広く尊敬されていた。彼は戦後、優秀なドイツ人科学者の引き抜きを図っていたアメリカに移住し、ワシントンのカトリック大学で働いているのをジーメンス社の幹部が見つけ出し、帰国させた。


 フィンケルンブルクは基礎研究重視というジーメンスの方針にぴったりだった。大学教授を何人も出した家系に生まれた彼は、いかにもドイツ流の学術的なスタイルの原子力研究所を発足させた。親分肌の学者であるフィンケルンブルクの周りには彼を尊敬する弟子たちが集まり、研究所全体が家族のようで、父親役のフィンケルンブルクは部下のひとりひとりをよく知っていた。彼は強い目的意識と共同体意識を持ったグループをつくり出し、そのグループは世界中の核科学者の野心的な発表に奮い立った。フィンケルンブルクのチームは新しい国際的な技術の最前線に躍り出す気構え十分だった。


 戦時中の同僚たちの多くが、技術者を一段低いものにみていたのに対して、フィンケルンブルクは理論物理学者と技術者の協力なくしては、研究の効率を大幅に増進できることはできないと考えていた。ジーメンスの研究部門担当取締役のハインツ・ゲッシェル(102) もこれに賛意を示し、この2人の組み合わせはとくに効果的だった。2人とも、ジーメンスを、ひいてはドイツを独立独歩の勢力に育て上げるため、他にとらわれない研究路線を追求していくことに心を決めていた。そのためには、アメリカとの結びつきを断たねばならない。それはつまり、濃縮ウランを使わない原子炉を建設することだった。


 1950~60年代を通じて、濃縮ウランに対するアメリカの支配は永続的に見え、そこでジーメンスはドイツ愛国主義と、企業としての、職業としてのプライドから、天然ウランを燃料とする重水炉の開発に着手した。同じような理由で、イギリス、フランス、カナダ、インド、アルゼンチン、そしてスペインの科学者たちも天然ウランを燃料とする原子炉の研究開発に取り組んだ。だがまもなく、西ドイツの電力会社が一致して軽水炉を好んでいることが判明し、そこでジーメンスも方向を転換し、40年来の提携関係にあったウェスチングハウスから技術を導入して、加圧水型炉を開発することにした。


 原子力以前の、初期の電力の時代から、ウェスチングハウスとGEは世界のあらゆる工業国の電機メーカーと提携関係を結んでいた。ドイツではウェスチングハウスはジーメンスと、GEはAEGとそれぞれ提携していた。第2次大戦によってもちろんこの関係は中断されたが、1950年代の初めには再開されていた。


 すでにアルゼンチンに1基輸出するほどにまでなっていたジーメンスの重水炉の技術は、軽水炉開発にも十分応用できるものだったので、同社は、日本のようにウェスチングハウスの技術上のノウハウをそっくり受け入れてそのまま真似をするのではなく、ウェスチングハウスからの技術情報を独自開発の基礎として利用する方向をとった。しかし、ウェスチングハウスも教えた技術をすぐに真似されることを警戒して、最新の情報は決して伝えようとはしなかった。


 1963年、西ドイツ原子力委員会は公式の5ヶ年計画を発表、ジーメンスとAEGの競争心に神経を使いながら、加圧水型炉と沸騰水型炉をそれぞれ1基ずつ建設する資金を提供した。この時、28万キロワットの加圧水型炉を建設するにあたって、ジーメンスとウェスチングハウスとの技術提携上の関係がこじれた。ジーメンスは企業の誇りをかけて、ウェスチングハウスと手を切り、独力で加圧水型炉の建設を進めながら、同時に技術開発に努める道を選んだ。しかし、これはフィンケルンブルクの研究チームにとっては、待ち望んでいた状況だった。ジーメンスはきわめて効率的に、しかも技術的には易々と、ネッカー河畔のオプリッヒハイムに加圧水型炉を完成させ、その過程でドイツ工業が原子力発電プラントのすべての部品を供給するのに必要な、完全に整った「すそ野」を持っていることを内外に示した。この「すそ野」はフランスには未だ不十分なものであった。そして結局、1967年、ジーメンスはウェスチングハウスと、自分たちの独立性をある程度認めさせた新しいライセンス契約を結ぶのに成功した。


 1960年代を通じて、西ドイツの2社は国内の電力会社向けの軽水炉で受注競争を演じてきた。ジーメンスは今やAEGを市場から全面的に締め出せると自信を持っていたが、1962年以来ジーメンスの重機部門を統括していたベルンハルト・プレットナー(103) はそれに反対した。和を重んじるプレットナーは、市場をめぐって真正面から対決するよりも静かな協力の方を望んだ。彼はジーメンスの系列下にあるレコード会社ドイッチェ・グラモフォンを、オランダのフィリップス・レコードと結ばせ、また、ジーメンスの家電部門をボッシェ・グループとの合弁会社にした。1969年、コストの拡大から発電機器メーカーが統合の必要に迫られたとき、プレットナーはジーメンスをライバルのAEGと握手させて、クラフトウエルケ・ウニオン(KWU)という新会社を設立した。加圧水型炉と沸騰水型炉の両方を製造している会社は世界にここしかなく、アメリカにとっても強力なライバルの出現だった。ウェスチングハウスは大急ぎでジーメンスとのライセンス契約を破棄したが、ジーメンス側はまったく動じなかった。


 西ドイツ国内では最初、AEGの沸騰水型炉が成功を収めた。その後、加圧水型炉の技術を確立したジーメンスはライン河畔のビブリスに、120万キロワットという、石炭火力発電でさえ前例のない世界最大の加圧水型炉を完成させて、一挙に形勢を逆転した。1975年には完全に優位に立ち、1976年にはAEGはクラフトウエルケウニオン(KWU)から撤退して、ジーメンスの独擅場となった。しかしそんなKWUも南アフリカへの原子炉の売り込みではフランスのフラムト厶に敗れた。フラムトムは、武器との抱き合わせ商法によって、ジーメンスを打ち負かしたのである。


 バレリー・ジスカールデスタン大統領のもとで、フラマトムはフランス第一の原子炉メーカーになった。フラマトムは3代目のアンパン男爵(104) がつくりあげた巨大な投資王国の一部をなしており、フランス実業界の大御所たちはこの人物をいささかうさん臭く見ていた。それは、アンパン男爵はフランスの家系ではなく、ベルギーの血統だったためで、1960年代初め、アンパン一族が「フランスのクルップ」と呼ばれる、国内有数の重工業でかつ兵器メーカーのシュネデル・グループ(その中にフラマトムも含まれている)を買収したときも、「アンパン帝国」が本当にフランスのものだと信じようとはしなかった。


 初代のアンパン男爵はベルギー生まれの技術者で、19世紀の終わりから20世紀初めにかけて大胆不敵な一連の投資によって金融帝国をつくりあげた。そうしたことから、彼は野心満々たるベルギー王レオポルド2世の寵愛を受けるようになった。ベルギー領コンゴの開発を助け、第1次大戦ではベルギー陸軍の補給を一手に引き受け、それらの功績により、レオポルド2世から爵位を授けられた。また彼は最初のパリの地下鉄を含む電化鉄道の建設を通じて、電機業界に強い足場を築き、ベルギー、北部フランスおよびパリをカバーする電力会社のオーナーになった。


 息子のジャンは2代目アンパン男爵になったが、実業家というよりプレイボーイだった。1935年、パーティーで知り合ったアメリカのジーグフェルド・フォリーズのスターダンサーのゴールディー・ローランドとの間に男の子が生まれると、子供のなかった先妻と離婚して、ゴールディーと結婚した。


 1960年、「フランスのクルップ」の当主だったシャルル・シュネデルが世継ぎを残さずに死んだ。未亡人で映画女優のリリアン・コンスタンチニは、シャルルの遺言状どおりに自分の権利を行使することを決め、「シュネデル帝国」を経営しようとした。これを不満としたシュネデル一族の者たちはすぐさま持ち株をベルギーのアンパン・グループに売却し、アンパンは発行株式の25%を支配するに至った。自分自身とフランスに対する侮辱に怒り狂ったコンスタンチ二未亡人は、ベルギーの侵入者を撃退してくれるよう、ドゴール大統領に直訴した。これは奏功し、ドゴールはシュネデルの取締役会にフランス政府の高官を何人か送り込んだ。ゴールディーの息子である3代目アンパン男爵がこうしたフランス人重役を追い出すには、1969年のドゴール退場まで待たねばならなかった。


 アンパン男爵はフラマトムの好業績にもまだ心を止めていなかった。60年代の終わりに、ウェスチングハウスがヨーロッパに強力な足場を築こうと必死に努力していたころ、男爵はベルギーの電機会社を喜んでウェスチングハウスに売却し、続いて、シュネデル・グループのなかの電機関連の子会社をも売却しようとした。ポンピドー大統領はこの計画に拒否権を発動し、その子会社を全額フランス資本のCEGというメーカーに売却するように圧力をかけた。CEGは軽水炉生産のため、GEとライセンス契約を結んでいた。男爵はポンピドーの圧力に抵抗し、その結果、ドゴール派のなかに敵をつくった。


 フランスの電力業界が、国産のガス冷却炉の代わりに軽水炉を選んだ段階で、アンパン男爵はフラマトムの重要性に気がついた。政府内のドゴール派はフラマトムよりもCEGに傾いていることを知り、1970年、損失を覚悟して、最初の応札をして、フランス電力(EDF)と1基契約し、その翌年さらに3基受注した。


 1974年にポンピドー大統領が死ぬと、アンパン・グループの政治的立場も変化してきた。ジスカールデスタン新大統領はドゴール派のような、ベルギー人に対する原始的偏見は持ち合わせていなかったし、何よりも、アンパン一族の友人だった。ジスカールデスタン大統領の妻はシュネデル一族で、その持ち株をアンパンに売却した反コンスタンチ二派の旗頭の家の出だった。


 フラマトムをフランスの代表的原子炉メーカーに仕立て上げようというジスカールの決意は明白だった。大統領のお墨付きを得て、アンパン・グループはフランス実業界のトップにのし上がった。男爵自身も強力なフランス経営者協会の理事会の一員となった。外国人でそのメンバーになったのは、彼が初めてだった。


 フラマトムは、アンドレ・ジローの「原子力のシェル」のギャップを埋める存在となった。軽水炉を生産するフランスの会社になるのだ。ジローもジスカールデスタン大統領とは特別のコネがあった。ジスカールは理工科大学で彼より1年上級生だった。その上、ジスカールのいとこで、ジローの少年時代からの友だちであるジャック・ジスカールデスタンはフランス原子力庁(CEA)の財務部長に任命されていた。さらに重要なことに、CEAを眠ったような研究機関から、多彩な核カルテルに変身させた成功によって、ジローはフランス行政府のエリート集団の頂点としての名声と権力を確立していた。


 1975年8月、新規まき直し策が発表された。第一に、フラマトムは国内市場を独占し、輸出のための基礎づくりをする。そのため、フランス電力(EDF)がCEGに発注していた沸騰水型炉はあっさりキャンセルされた。第二に、ウェスチングハウスが所有しているフラマトムの45%の株式をCEAが買い取る。第三に、ウェスチングハウスとのライセンス契約を、CEAとウェスチングハウスとの共同研究に発展させて、対外依存から脱却する。そして、EDFは大規模な新規投資が正しかったことを証明するために、発注を繰り上げた。それは国家の独立のための緊急計画であり、自信に溢れた計画だった。



【登場人物の整理】


  1. ウォルフガンク・フィンケルンブルク(独):ジーメンズ原子力研究所長(原子炉の研究)
  2. ハインツ・ゲッシェル(独):ジーメンスの研究部門担当取締役(原子炉の研究)
  3. ベルンハルト・プレットナー(独):ジーメンスの重機部門統括(他社との協調を重視)
  4. 3代目アンパン男爵(仏):アンパン・グループ総帥(原発メーカーの「フラマト厶」を所有)





第23章  確実な出来事


 原子力反対運動にとって、1976年は大きな転機となった。この年、何人かの核技術者が原子力業界の責任あるポストを辞め、原子力発電所(原発)は危険であり、人間の生存を脅かすものだと宣言した。


 1976年1月に最初に辞任したのは、原子力委員会(AEC)の原子力発電規制部門を引き継いで設立されたアメリカ原子力規制委員会(NRC)のエンジニアとして働いていた35才のロバート・ポラード(105) だった。ポラードはNRCでいくつかの原発の安全性点検を仕事としている48人のプロジェクト・マネジャーのひとりで、彼はその辞表の中で、ニューヨーク市の北26マイルのところにあるインディアンポイントの原子炉の不適当な設計からして、重大な事故が発生しないと考えたのは「単なる偶然」に頼っていたにすぎないと述べていた。


 ポラードに続いて、2月にはカリフォルニアにあるGEの原子力部門の先任技術者3人が辞めた。3人は会社を辞めるとすぐに、原子力反対運動に参加すると発表した。そのひとり、デール・ブライデンボウ(106) は次のように述べた。 「原発はもはや技術にとっての怪物(モンスター)になってしまい、仮にこれがコントロールできるとしても、それはいったい誰なのか、皆目見当がつかなくなってしまった」


 それから8ヶ月後の1976年10月、原子力規制委員会(NRC)のもうひとりのエンジニア、ロナルド・フルッゲ(107) が辞任した。「NRCはきわめて重大な原子力の安全性に関する問題をもみ消すか、あるいは脇に押しやってきた。われわれはすでにわかっている安全上の欠陥から大損害をともなう事故が発生しかねないにも関わらず、何十という大規模原発の、居住地域での操業を認めている」と彼は告発した。


 GEの3人の技術者は沸騰水型原子炉の欠陥を一覧表にして数え立てた。ひび割れのあるパイプ、漏れる継ぎ目、閉まらないバルブ、予想外の振動、など。GEとNRCは、問題の一部はすでに解決済みで、他の問題については目下検討中であると反論した。だが、3人が指摘したのは、単にひとつだけの欠陥ではなく、それらが積もり積もっての相乗効果だった。彼らは、議会の上下両院合同原子力委員会で証言し、次のような言葉でそれを締めくくった。 「原発の設計、建設、運転についてのすべての欠陥や欠点が相乗効果となって、原発の事故が発生するのは、私たちの意見では確実な出来事である。唯ひとつ残された問題は、いつ、どこで起きるか、だ」


 一般大衆は初めて、原子力の専門家の口から矛盾する意見を聞かされた。どの原発も絶対に安全だと保証できないのであれば、原子力業界はこれまで、原発の設計、建設、運転について、「これなら安全性は十分だろう」という当て推量を基礎に原発計画を進めてきたことになる。技術面からの批判がアメリカで増大するにつれて、原発に対する反対運動が全世界で、これまでになく統一のとれた、しかも自発的なかたちで爆発した。これまで原発に関する情報を知らされていなかった、という大衆の気持ちはたちまち、原子力業界は何か隠しているな、という疑惑に変わった。


 自分たちを特別な「技術のエリート」と見なしてきた原子力業界の傲慢さがそれに輪をかけた。あまりにも自信満々で楽観的だったので、一般大衆は事故の可能性などまったく思っても見なかった。だから例えば、1973年にアメリカのハンフォード核廃棄物貯蔵タンクから放射性廃棄物が漏れる事故があったり、またソ連のクイツシムで大惨事が起きていたことが1976年になって伝えられたりし出すと、専門家がいくら安全を保証しても、一般大衆の信頼を回復することはできなかった。原子炉に比較的小さな問題が起きても、時にはバランスを失して重大視された。そうした問題が実際にどれだけ重大か、あるいは重大でないかにはお構いなしに、ひとつはそれが原発のものであるため、もうひとつは、専門家がもはや信用できないため、どれもこれも重大に聞こえた。


 核燃料サイクルのそれぞれのポイントで、相次いで問題が起きたことも、核技術をコントロールする「専門家」の能力に対する一般大衆の圧倒的な疑惑をさらにかき立てた。提案されていた再処理計画は、ニューヨーク州バーンウェルで、そして西ドイツのカールスルーエで、技術上ならびに経済上の失敗を繰り返した。日本では東海村の再処理工場で運転開始直後に放射能漏れが発見された。フランスのシェルブールに近いキャプラアーギュ再処理工場で起きた一連の技術上の困難は、大部分秘密裏に葬り去られたが、ブルターニュ沿岸の海産物に蓄積された放射能の水準を高める結果を招いた。


 核兵器計画に関係した事故としては、1969年、コロラド州ロッキーフラッツのプルトニウム爆弾工場の火災のため、周辺地域がプルトニウムに汚染された。また、オーストラリアのラム・ジャングルのウラン鉱山や、カナダのオンタリオ州ポート・ホープのマンハッタン計画ウラン加工工場では、ウラン選鉱の貯蔵保全が十分でなかったために、近くの土地や海辺、町、さらには学校までもが汚染された。さらにはもっと昔のラジウム産業が、安全基準もほとんどないまま操業していたことも、70年代の原子力推進派を脅かした。


 これでもかと追い討ちをかけるように、放射性物質を取り扱う専門技術者の能力を疑わせる奇怪な事件が相次いだ。1978年1月、ソ連の人工衛星コスモス954号がカナダ上空で分解し、高濃縮ウランを燃料とした発電装置から放射性物質を北極の雪の上にまき散らした。同じ年、1969年にアメリカのCIAが中国をスパイしようとして、ヒマラヤ山脈に原子力発電装置をかつぎ上げ、結局放棄した事実が明るみに出た。この装置はその後壊れて、インドのガンジス川の水源地を汚染したと考えられている。


 原子力推進派は、ひとつひとつの事件がいかにうまく大事に至る前に食い止められていたか、を強調することによって応戦した。安全システムは立派に機能しているというのである。そして原子炉による死者はひとりも出ていないことを繰り返し主張した。(これは確かに、一般大衆に関するかぎりは本当だが、現場の作業員の死者は出ている)


 1976年までに、アメリカの原子力反対派は、原発問題について6つの州で住民投票を実施させた。結果はいずれも2対1の大差で、反対派の負けとなり、推進派は原発に対する恐怖が不条理なものだということが立証されたと胸を張ったが、原子力業界は一般大衆の反応がよくないのを気にしていた。何といっても放射能は特殊な毒物である。それは見えもしなければ、触ることもできず、臭いをかぐこともできなかった。たいていの人にとって放射能はまったくの謎であり、人々はそれを恐れた。原子力業界は一般大衆の中にそのような心配があるのを知るにつけて、ますますおなじみの秘密主義を強化した。情報の事実上の独占と傲慢さを示すもっとも端的な例は、原子力潜水艦スレッシャー号のケースだった。


 1963年4月10日、スレッシャー号は大西洋で潜航実験中に沈没し、乗組員129名は全員死亡した。それから24時間後、はっきりした証拠は何もないのに、ハイマン・リコーバー提督(52)は、この事故が潜水艦の原子力推進機関の作動不良によるものではないかという見方を頭から否定した。そして、「核燃料物質が溶けるのを自動的に防止するように設計された多くの保護装置と自動制御装置があるから、放射能汚染の恐れはない」と強調した。


 4月29日の海軍査問委員会に出席したリコーバーは、スレッシャー号が姿を消した付近の海底から採取したサンプルには、放射性増大のいかなる兆候も認められなかった、と報告した。しかし原因が何であれ、潜水艦が沈没したら水圧に押しつぶされて、原子炉も広い範囲に散らばるだろう。そうした破片の中には強い放射能を帯びたものもあったかもしれない。原子炉物理学について専門知識を持っているのは、委員会の出席者のうちリコーバーただひとりだった。リコーバーは原子炉の事故はありえないとだけ述べ、それに対して、原子力潜水艦の原子炉の事故はどのような状況の下で起こりうるか、という質問をした委員は誰もいなかった。リコーバーは委員会の注意を原子炉から逸らすために、原子炉とは関係のない部分の配管システムに若干の亀裂があったことを示す証拠を提出した。査問委員会は最終的に、リコーバーのパイプ破裂説を悲劇の「もっともあり得べき原因」として採択し、潜水艦の原子力推進機関は結局のところ、無罪放免となった。


 しかし、疑問は残った。とりわけ重要なのは、スレッシャー号が沈没前に、随伴していた水上艦艇に送った最後の判別可能な通信の中の「ささいな問題に直面している」というきわめて落ち着いた調子のメッセージだった。パイプの破裂による酸素の欠乏や海水の浸入が潜水艦にとって「ささいな問題」であろうか。むしろ、予想外の停電ならば、そう表現することもあり得る。また、地元のポーツマス海軍造船所の化学者が捜査水域で回収した、原子炉の放射能防護材に使用されているのと同じ種類のプラスチックの破片が「強い炎」によって焼け焦げていたと証言した。また、何かの爆発の跡を思わせる、縁がギザギザになって金属片が食い込んだプラスチックも発見されていた。これらを総合すると、停電で、原子炉の冷却水の循環が止まり、緊急の冷却システムも作動しなくて、その結果、原子炉の炉心がどんどん加熱して、ついに炉心溶融(メルトダウン)した、ということも考えられた。しかし、リコーバーは、その焼け焦げは、この艦を建造した際、ドリルで穴をあけるときに使った潤滑油によるものだと説明し、査問委員会はそれを採用して、化学者の提出した証拠は無視された。


 スレッシャー号の事故のときはまだ、炉心溶融(メルトダウン)ということはまだあまり知られていなかったが、これはあり得ることだと、徐々に一般大衆に広がっていった。理論的には、冷却水を失って溶けた燃料エレメントは、どろどろの塊になって原子炉の容器を突き破り、地殻を突き抜けて、地球の反対側にとび出すこともあり得る。アメリカの原子炉から溶け出た炉心の塊がとび出すのは中国のどこかにあたるので、この現象は「チャイナ・シンドローム」と名づけられて一挙に有名になった。


 そこで、炉心溶融(メルトダウン)を避ける対策として、緊急炉心冷却システム(Emergency Core Cooling System = ECCS)が考え出された。緊急時に大量の水を一気に炉心に注入するというものだが、果たしてそれが有効なのか、予定どおりに作動するのか、が問題となった。


 1971年7月、ボストンに本拠を置く「懸念を抱く科学者同盟」と呼ばれるグループは、AECがECCSについて小規模なテストをしたところ、何度やっても、十分な水が炉心に届かなかった、ということを暴露した。これは新聞で大きく報道され、原子力業界の信頼をひどく傷つけた。AECはECCSについての一連の公聴会を開いた。公聴会は当初、6週間で終わる予定だったが、2年近くも続き、2万2000ページの証言録と1000件にのぼる文書が提出された。公聴会がこんなに長引いたのは、ECCSをめぐって原子力業界内部でも意見が割れていたからだった。「懸念を抱く科学者同盟」には、AEC内部や、AECの資金によって運営されている主要な研究所から洪水のように情報がもたらされた。原子力産業の内部にも、ECCSに不安を持っている科学者が2ダースはいることが判明し、彼らはAECの内部でほぼ10年間にわたり秘密裏に論争が続いており、その過程で、原子炉の安全性を改善するための数多くの提案が却下され、あるいは延期され、見合わされ、また取り消されていたことを暴露した。


 この公聴会を通じて、原子力業界の内部では、原子力の安全性をめぐって自由な討論など行われていなかった、それどころか、異論を唱える科学者は片っ端からひどい仕返しを受けることさえ明るみに出た。


 原子力反対派に対するもっとも包括的な回答は、アメリカでは1974年の夏に『原子炉安全調査』の公刊というかたちで出された。これは、マサチューセッツ工科大学工学部長のノーマン・ラスムッセン教授(108) と50人のスタッフが400万ドルの資金と3年の歳月をかけて完成させたもので、資金はAECが出した。


 ラスムッセン調査は、原発は安全なのだというコンセンサスを、他の事故の起こる確率と比べても十分に低いということを示してつくり出すことを目的とし、とりわけ、大事故が起きた場合の電力会社の補償責任を制限するプライス=アンダーソン法の更新を支援するのが主な狙いだった。


 全部で12巻の及ぶ報告書全体が公刊される前に、その「要約」が報道機関に配られると、新聞各紙は、そのなかの「劇的」な結論、例えば、大災害をともなう原子炉事故が起こる確率は、隕石が都市に落下する確率とほぼ同じ、100万年に1回程度である、という箇所を一斉に強調した。このたとえは世界中の原子力推進派によって、熱狂的に受け入れられ、言い触らされた。


 しかし、膨大なその全体を詳細に読んで見ると、また違う風景が見えてきた。 「隕石」のたとえにしても、よく読めば、原子炉事故によって「即死者」が出るケースにしか触れていない。1回の原子炉事故によって10人の即死者が出る場合を、人口密集地に隕石が落下して10人が即死するのと比較するといったように。それに、10人の即死者を出す原子炉事故が起きた場合、その結果、やがてガンのため7000人が死亡し、遺伝上の欠陥が4000件生じ、甲状腺の異常が6万件発生し、約3000平方マイルの土地が放射能によって汚染されるだろう、と「本編」に書かれていることが、「要約」では無視されていた。


 いまや原子力反対派の側にも、技術者や専門家が大勢ついていたので、1975年に公表されたラスムッセン報告書の全文は、これまでになく克明なあら探しの対象となった。いろいろな面で、次々とおかしな点が指摘されて、ラスムッセン報告書はどんどんと信頼を失い、ついに1979年には、AECから原子力行政についての業務を引き継いだ原子力規制委員会(NRC)はこの報告書を正式に撤回してしまった。


 1975年2月、リースリンクとリープフラウミルヒの葡萄酒で有名な西ドイツ・ラインランドの南西部にあるウィルという小さな村の住民300人が、出力135万キロワットの原発の建設現場を占拠し、作業を中止させた。警察が来て、放水車で対抗し、座り込んだ住民を逮捕したが、ウィルの村民は挫けなかった。やがてドイツ全土から応援が駆けつけ、国境を越えて、フランスからも抗議の人たちがやってきた。


 ウィルの住民は当初、原発の冷却塔から出る蒸気でこの辺りの湿度が高くなり、それが霧や霜になって葡萄の木に害を及ぼしはしないかと心配して、反対デモに立ち上がったのであったが、それはまもなく、建設中の原発の安全性そのものへと移っていった。大規模な原子炉の中には恐ろしい放射能が大量に含まれている。それを、一部の科学者に言わせると「技術的な能力を超えた」完璧さで、プラントの内部に閉じこめることができるのか。


 全国の、そして国際的な支援と、地元の熱心な組織のおかげで、ウィルの村民は建設現場をまるまる1年間占拠し続けることができた。建設現場には、支援の人々が住むための急ごしらえの村落までできあがった。そしてついに、原発建設は中止された。このデモは、西ドイツ、フランス、そしてアメリカにおける将来の対決に重要な前例となった。


 1977年4月、およそ2000人のアメリカ人が、ニューハンプシャー州シーブルックの町の海辺にある115万キロワットの原発建設現場の駐車場を占拠した。この湿地帯はさまざまな野鳥や海洋生物の繁殖地だったが、原発の冷却システムが1日10億ガロンの海水を取り入れそれを海に戻すときの海水の温度上昇のために、地元の漁業などに致命的な被害が出ることを恐れた地元民たちが中心だった。さらに、建設用地が地質的に断層の上に位置していること、建設費用が当初見通しの2倍以上になったことが判明しても、電力会社は計画を予定通り進め、1976年にはNRCの許可も下りていた。


 地元の反対グループは、ウィルの運動に刺激されて、不服従市民運動「ハマグリ同盟」を組織した。それに続いて、「カニ同盟」とか「カキ同盟」「アワビ同盟」という組織がアメリカ各地で次々と結成された。これらの原子力反対グループはおもに若者がメンバーだったが、地元の漁民や農民など地域住民の支持を取りつけて、広範な市民運動に発展していった。


 1977年4月のシーブルックの駐車場占拠は、ニューハンプシャー州の保守的なメリドリ厶・トムソン知事が強硬方針で臨んだのが裏目に出た。電力会社の原発計画を熱心に支持していたトムソン知事は、デモ隊の大量逮捕を命じ、その結果、全米のマスメディアが事件を取材するために押しかけた。全部で1414人が逮捕され、その半数以上が保釈金を積むのを拒否したため、急遽、州兵の兵舎に2週間拘禁された。その様子は毎日ニュースとなってアメリカ全土に流れ、ついに原発建設は中止に追い込まれた。シーブルックはたちまちのうちに、原発反対運動のシンボルになった。



【登場人物の整理】


  1. ロバート・ポラード(米):原子力規制委員会(NRC)エンジニア(原発の

                危険性を告発)

(106) デール・ブライデンボウ(米):GE技術者(原発の危険性を告発)

(107) ロナルド・フルッゲ(米):NRCエンジニア(原発の危険性を告発)

  1. ノーマン・ラスムッセン教授(米):MIT工学部長(『原子炉安全調査』の

                    公刊。原発の安全性を強調)



第4部・1970年代(後)」につづく


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