バロン・50年代


『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち 

                          The Nuclear Barons』       



第2部 1950年代


第7章 運命と憤激 


 ウォール街の銀行家ルイス・ストラウス(40)が1953年夏、AEC委員長に就任したとき最初に手掛けたのは、彼の得意とする一種の秘密工作、つまり、連邦政府からの「赤狩り」というアイゼンハワーの選挙公約を実行に移す仕事であった。彼はまた、連邦捜査局(FBI)のエドガー・フーバー長官(46)に対しても、長年「フーバーの喉に引っかかった骨」となっていた一部の人たちをAECから追放することを約束していた。それらはすべて、ストラウスが1946~49年にリリエンソールの下でAECにつとめていた時に目星をつけていた「危険人物」たちで、彼らに過去の「事実」を突きつけたり、あるいは、産業界や各種財団、大学に対する自らのコネを使って、彼らに新しい職を斡旋するという便宜を与えることによって、巧妙にAECから追い出していった。ストラウスのやり方はただ一つの例外を除いてうまくいったが、その例外とは、最も重要で、おそらくフーバーが最も気にしていたオッペンハイマー(23)のケースであった。


 1947年3月、最初のAECがようやく軌道に乗り出した頃、フーバーはAECにオッペンハイマーの過去についてのメモを送った。それは、彼の親友や親族が共産党に関係していたとか、彼自身、共産党に献金していたというものであったが、AECはそれらを再点検した後、ストラウスの同意も得て、オッペンハイマーが安全な人物であることを再確認した。


 アメリカ政府はこのきわめて著名な原子力学者を、好ましからざる人物と断定するまでは、彼の時間が許すかぎり、各種の委員会、軍事研究、政府の審議などに積極的に参加させた。オッペンハイマーはどんな場合でも原子力の軍事利用を支持し、それを拡大することを主張し、最後には水爆の開発も認めた。またある時、下院非米活動委員会で追及されている科学者にとって不利な、伝聞とこじつけによる証拠を提示したことさえあった。彼は常に権力の回廊への立ち入りを楽しんでおり、個人的な苦悩はどうあれ、公的記録ではいつもタカ派であった。


 戦略空軍司令部(SAC)はすでに1949年頃からオッペンハイマーに疑念を抱いていたが、1952年秋、かねてからの「戦略爆撃」支持者ロバート・ロベット国防長官(45)が、空軍とAECとの緊張関係に憂慮を抱き、側近にその問題の調査を命じたところ、返ってきた答えがオッペンハイマーだった。「戦略爆撃」に凝り固まっていた空軍にとっては、小規模の「戦術」核兵器の開発や「領空防衛論」を唱えるオッペンハイマーはSACを壊滅させようとしている人物としか映らず、一種の偏執的な感情を抱きはじめていた。


 1952年春、アチソン(26)はオッペンハイマーを軍縮に関する特別諮問委員会の委員長に任命した。バンネバー・ブッシュ(17)やCIA長官アレン・ダレスもそのメンバーで、ハーバードの若手学者マクジョージ・バンディーが事務局長をつとめるこの委員会は、核軍縮が不可能であるという結論を出して、オッペンハイマーを原子力タカ派の中で孤立無援にした。この結論は1946年のアチソン=リリエンソール案の線に沿った核兵器廃絶の道を永遠に葬り去り、以後、核兵器規制の話は、戦略兵器制限交渉(SALT)の場合と同様、すべて「運搬手段」に集中することになるのだが、そんな時でもオッペンハイマーは、アメリカの核兵器保有数を公開せよという自分の主張を盛り込んだ。この委員会の報告は、「現在のジレンマについて率直でなければ、軍備管理はつよく機能しえない」という確信の上にたっていて、すぐに「率直な報告」とよばれることになったが、それを利敵行為とみなすストラウスを憤激させることになる。


 ストラウスは1945年夏にオッペンハイマーと初めて会った時、「その非凡な頭脳と人を惹きつけずにはおかぬドラマチックな個性、それに、直面する問題に対して詩的で想像力豊かなアプローチをする感性」に強い印象を受けていたが、この二人の経歴や背景、その育った境遇はまったく正反対のものであった。


 ともにユダヤ人であったが、ストラウスが宗教心に富んだ貧しい靴屋の息子として生まれ、後にワシントン、ニューヨークに出て成功した、叩き上げの人物であったのに対して、オッペンハイマーは金持の家に生まれ、ハーバードで物理学を学んだ後、ケンブリッジ、ゲッチンゲンに留学するという恵まれた青少年期を過ごした。ストラウスがニューヨークで財産を蓄え、上司の娘を射止めたころ、オッペンハイマーはカリフォルニアのキャンパスで左翼思想にかぶれ、1937年にスペインで死亡した「国際旅団」の一員の未亡人に求婚していた。戦争になると、オッペンハイマーはマンハッタン計画に加わり、ストラウスは海軍に入った。ともに上司には恵まれ、オッペンハイマーはグローブズに、ストラウスはウォール街で旧知であったジェームズ・フォレスタル海軍長官に出会って昇進の道を得た。


 オッペンハイマーは1943年、バークレーでフランス語の教授をしている熱心な左翼の友人ハーコン・シュバリエより、ソ連領事館との接触を打診された。彼はそれを拒否したが、グローブズには報告しなかった。そして後にそれが露見した時にも、シュバリエをかばって嘘の供述をしたが、オッペンハイマーを買っていたグローブズは不問に付した。


 リリエンソールのAECの時代に、放射性同位元素の医学用輸出をめぐって、それをマクマホン法違反とするストラウスとオッペンハイマーは激しく対立した。1949年、上下両院合同委員会の聴聞会でこの問題が取り上げられたとき、オッペンハイマーは傲慢な態度でストラウスらの主張を一蹴して、ストラウスの憎しみを一層かきたてた。


 しかし実際にオッペンハイマーを裏切り者と非難したのはストラウスではなくて、上下両院合同原子力委員会(JCAE)事務局長ウィリアム・ボーデン(41)であった。1953年11月7日、ボーデンは再度オッペンハイマーの過去を洗い出し、FBIのフーバーに書簡を送った。フーバーは直ちにオッペンハイマーに関する新しい資料を作成して、国防長官のチャールズ・ウィルソン(47)らに送った。GM元社長で短気なウィルソンはすっかり仰天して、ホワイトハウスに駆け込んだ。問題の核心は例のシュバリエ事件で、オッペンハイマーが1953年夏、フランスで休暇中にシュバリエと再会した事実をうまく利用したものであった。AECはオッペンハイマーに、辞任するか、あるいは査問委員会の査問を受けるように求めた。オッペンハイマーは辞任を拒否した。


 聴聞会にはオッペンハイマーの友人だった科学者の多くが出頭し、彼を支持する証言をした。不利な証言をしたのはごく少数だったが、その一人にエドワード・テラー(42)がいた。彼はその証言で、オッペンハイマーを非愛国者とか裏切り者とはいわずに、あまりにも「一貫性がなくて」信頼できず、アメリカの安全保障に関わるのに必要な「英知と判断力」を欠いていると攻撃した。


 1954年5月27日、査問委員会は2対1の採決で、オッペンハイマーの追放を決めた。これはアメリカで最も経験のある、最も鋭敏な原子力専門家の一人を追放しただけでなく、学界全体に恐怖を広げた。オッペンハイマーのような経歴を持つ人が安全でないとすれば、いったい、他にどんな人が自由に意見を言う勇気を持てるのだろうか。リリエンソールがトルーマン時代後期の冷戦の潮流を食い止めることが出来なかったことからその徴候を見せはじめたAECの知性の崩壊は、オッペンハイマーの「見世物裁判」と追放によって完結した。AECはこれ以後、二度と初期の虚心さを見せたことはない。この有害な遺産がやっと消滅しはじめたのは1970年代の後半になってからであるが、その間、原子力の歴史は、アメリカでも海外でも、冷戦とマッカーシズムの集団的愚行に支配された。 


 アイゼンハワーは、オッペンハイマーの没落を横目で眺めつつ、他方では、その「率直な報告」の内容を何とか生かしたいと考えていた。そして、1953年8月、ソ連が初の水爆を爆発させるに至って(アメリカの水爆実験は1952年11月)、その努力はにわかに緊急性を帯び、アイゼンハワーは、核兵器保有国が核分裂物質を「原子力プール」に預け、そこから平和目的に配給することは可能ではないかと思いついて、それを側近や、ストラウスに諮った。彼らはこのアイディアを、軍縮の手段としてではなく、冷戦下の宣伝の手段として評価した。それに、水爆では、分裂物質は起爆剤として用いられるだけで、その相対的重要性は大幅に低下していた。


 1953年10月3日、この計画はホワイトハウスで正式に策定され、アイゼンハワーは12月8日の国連総会で、「平和のための原子力」を大々的に打ち出した。前半で、核兵器の保有状況とそのおそろしさを率直に説明し、後半で「原子力プール」の創設を希望すると述べたこの演説は、10ケ国語のパンフレットとなって世界中にばらまかれ、それに関する放送テープや宣伝用フィルムなどが次々とつくられて、あらゆる分野における原子力の平和利用というバラ色の夢を全世界に振り撒いた。しかし、「原子力プール」は結局、実現せず、演説の余波として、核物質と核のノウハウが世界中に拡散しただけであった。



【登場人物の整理】


(46) エドガー・フーバー(米):FBI長官(オッペンハイマー追放を画策)

(47) チャールズ・ウィルソン(米):国防長官(元GM社長)




第8章 「X」の力 


 戦争によって研究資材もスタッフも失い、占領下のフランスで孤独な苦しい闘いに耐えていたフレデリック・ジョリオ=キュリー(4)は、シャルル・ドゴールの戦後臨時政府が、広島原爆の2ケ月後に設立したフランス原子力庁(CEA)の事実上の責任者となった。彼は、イギリスの 1/10、アメリカの 1/100という乏しい資金にもめげず、研究用原子炉の建設にとりかかった。彼は平和目的の原子力にしか関心がなかったが、まもなく原子炉がプルトニウムを生産しはじめると、国内の保守派は原爆を望むようになった。


 アメリカは、フランスの計画が共産主義者のジョリオ=キュリーの手中にあることに懸念を深め、さまざまな方法でフランスに圧力をかけてきたが、ノーベル賞受賞者であり、マリー・キュリーの女婿であり、レジスタンスの英雄でもある、この著名なフランス人を追放することは難しかった。しかし、そのうちに、ジョリオ=キュリー自身が、共産党への政治的忠誠と、フランスの戦後科学の復興とのジレンマに耐えられなくなり、1950年3月に、核兵器禁止を訴えたストックホルム・アピールに署名した後、はっきりと前者に傾くことによって、自らの解任の道を開いてしまった。


 ジョリオ=キュリーの追放後、彼の仲間の科学者たちが次々とCEAから解雇され、マンハッタン計画の場合と同様、技術系の行政官がそれにとってかわった。もともとは鉱業専門家のために組織されたフリーメーソン的な権力集団「鉱山組」がそれである。


 「鉱山組」はフランス革命後に設立され、ナポレオンによってフランス軍のための技術者を養成するように軍隊化された保守的な専門学校「理工科大学」の最優秀の卒業生たちで構成されている。


 「理工科大学」は現在でも文部省ではなく国防省の管轄下にあり、全国での厳しい入学試験を経て入学した学生たちは、パリのカルチェ・ラタンの中心にある兵舎のような建物に住み、軍隊式の規律正しい生活を強いられるが、砲身を十文字に型どったその校章から、卒業生は一般に「X」と呼ばれている。


 科学、論理学、数学を重点的に学ぶ彼らの多くはフランス人特有の、技術中心の、能率と進歩を信じる考えをとっており、それにプラグマチズムの考えが重なって、政治の「非能率」には我慢できないという体質があった。そんな彼らにとって、原子力エネルギーの分野とCEAの特権は、そうした考えを実践に移すための肥沃な土壌となったのである。


 「理工科大学」の中でも「鉱山組」は卒業生上位10人にしか開放されていない超エリートで、彼らは長年、政府の主要部門の重要ポストと民間企業のトップの座を独占してきたが、1951年、彼らが原子力委員会を合併してのち、その指導的な地位についたのはピエール・ギヨーマ(48)であった。


 彼は第一次大戦時の有名な将軍の息子だったが、家に財産がなかったため、富と権力を手にいれるため、「理工科大学」に進み、「鉱山組」の資格を得た。当初、インドシナとチュニジアで鉱山関係の勤務についたのち、フランス解放後、ドゴールに売り込んで、燃料局長の座についた。彼は正確さ、能率、スピード、根性、思慮分別を容赦なく要求する、異常なまでの行政手腕の持ち主で、その、自らの絶対的権威の下で強力な原子力産業を創設するという野望は、軍部さえもCEAに寄せつけぬほど徹底したものであった。


 1954年12月、フランスの原子力政策を明確にするように求めるCEAと軍部の原爆推進派の圧力を受けた、社会党出身のピエール・マンデスフランス首相は、ギヨーマ、フランシス・ペラン(49)(ジョリオ=キュリーの後継者でCEAの科学者グループの代表)らCEA幹部を呼んで、原子力研究の現状についての報告をもとめた。その時、彼らは、即座に原爆製造に切り替えることが可能な状態であったのに、そうとは言わず、軍事向きの研究は一切していないと答えた。そしてその後の、クリスマス・イヴの日の、長い、コンセンサスの得られない会議で、マンデスフランスは結局、CEAに対して、「原爆製造の選択を残して」ひきつづき、将来役に立つ基礎研究を続けるように指示したが、ギヨーマはそれを「核兵器の原型の準備について承認」されたものと勝手に解釈して、極秘のうちに「一般研究局」という名の原爆設計部を設置し、アルベール・ビュシャレ将軍をその長に任命した。


 1955年2月、マンデスフランス内閣が崩壊し、エドガー・フォール首相の率いる新連合政府への移行のごたごたに乗じて、ギヨーマとドゴール派の政治家は、原爆推進派の新しい国防・原子力省の責任者たちと秘密取り決めを結んで、三番目のプルトニウム生産原子炉に関し、国防省から秘密の資金移転を受けることに成功した。さらに5月20日、フォール内閣は長期的な電力生産計画の資金という名目で、CEAの予算を倍増することを承認したが、議会では、原爆はつくらないと言明した。


 1956年初め、フォールの後継者ギ・モレは、このような秘密の原爆製造計画があることを知ってそれをやめさせようとしたが、ドゴール派の支持撤回をおそれてそれもならず、そのうちスエズ動乱が起こってフランスの軍事的脆弱さが暴露されると、原爆製造への疑念も消え失せて、ギヨーマは易々と国防省との間で新しい秘密協定を結んで、原爆実験までの軍事的時間表を定めることができた。しかし、原爆製造に対する最高水準の公式命令は依然としてなかった。


 この一連のギヨーマらによる既成事実の積み重ねを正式に追認したのは第四共和制最後の首相フェリックス・ガイヤールであったが、1958年5月、ガイヤール内閣が崩壊し、1ヶ月後にドゴールが登場して、1960年2月13日にサハラ砂漠でフランスの最初の原爆が爆発した。ギヨームら「X」の力に完全に翻弄されつづけた科学者の最後の抗議として、フランシス・ペランは実験への参加を拒否した。



【登場人物の整理】


(48) ピエール・ギヨーマ(仏):官僚(仏原子力庁=CEA委員長)

(49) フランシス・ペラン(仏):物理学者(ジョリオ=キュリーの後継者)




第9章 別世界 


 1950年代半ばまでに、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、ソ連の5ヶ国で原子力の公式機関がつくられた。それらはたいてい6人の優秀な公務員、それも大半は科学的資格のない人たちから成る委員会の形をとり、軍事的な関連からみな「閉鎖社会」となって、民主主義社会の下での通常の「抑制と均衡」を避けることができた。


 イギリスでは、チャーチルの科学顧問チャーウェル卿(34)が、同国の最高級の科学者や技術者をひきつけるために、供給省からはなれた、高給を払うことのできる新しい組織をつくった。


 カナダでは、経営者から政治家に転じたクレランス・ハウ(50)が、民主主義社会で最も広範な、政府の管理になる産業帝国を築き、原子力もその一部にしようとしていた。


 ソ連では、1953年3月のスターリンの死と、それにつづく秘密警察長官ラベレンチ・ベリヤの失墜により、それまであまり知られていなかった「赤いスペシャリスト」出身の技術系行政官ブヤチェスラウ・アレクサンドロビッチ・マリシェフ(51)が原子力担当者として登場した。


 1951年に首相の座に返り咲いたとき、ウィンストン・チャーチルはそれまでの労働党政権による原子力計画の規模の大きさを知って驚いた。古い議会人の彼にとって、前任者たちが議会に相談なしで100万ポンドもの資金を原子力につぎこんだのは信じられないことであった。彼はアメリカがイギリスに、その核のカサの下に入ってもよいといってくるのを期待していたが、チャーウェル(34)は、「我々がこの不可欠の武器をアメリカ軍に依存しなければならないとすれば、イギリスは、補助部隊の供給しか許されない二流国家に転落するだろう」と主張した。


 ドイツ生まれでイギリスで育ったチャーウェルは婿養子のような愛国心を持っており、ソ連がイギリスよりも先に原爆をつくったのが我慢ならなかった。両大戦間にドイツに戻って、「黄金時代」の物理学を学んだ彼は、計算尺や黒板よりも金持たちの応接間で過ごすことの方を好んだ人物で、上流階級の人々に複雑きわまる科学を簡明に教授することを得意とし、その点でチャーチルの信任を受けるようになった。


 1951年、もっと効率的な原子力機関を設立するという目的を秘めて、チャーチルの個人的な顧問に復帰した彼は、それまでの機構で十分だとするブリッジズ卿(35)の激しい抵抗にあった。しかし、1952年10月3日、「ハリケーン」という暗号名のプルトニウム原爆がオーストラリア西岸沖の島モンテベロで見事に爆発すると、チャーウェルはそれに力を得て、精力的に裏工作に奔走し、ついに1954年、イギリス原子力公社(AEA)を誕生させることに成功した。


 1965年、供給相としてカナダ下院に出席したクレランス・ハウ(50)は、「我々は原爆をつくったこともないし、これからもつくるつもりはない」と明言した。それは確かに事実には違いなかったが、カナダはそれまで、自国の重水型実験炉で生産したプルトニウムをすべてアメリカの原爆計画に供給していたのである。


 ハウは、政界入りする前は「世界で最も有名な穀物倉庫の建設者」として知られていたが、1935年、自由党のウィリアム・マッケンジー・キングに誘われて運輸相になった後は、カナダ国鉄を再編し、カナダ放送局を設立し、カナダ航空の前身会社を創設するなど、次々と新しい組織をつくりだし、戦時中には軍需品供給相として、武器・弾薬の他、航空機、アルミ、合成ゴム、金属ウランなどの産業基盤を確立して、一大政治帝国の「皇帝中の皇帝」として君臨していた。


 1942年2月、ドイツの猛爆撃を受けて自国での原子力研究が難しくなったイギリスが、ウラン資源と、ノルウェー以外では唯一の重水生産工場をもつカナダに原子力の共同研究をもちかけてきたとき、ハウは友人の最高科学顧問チャルマーズ・マッケンジーの助言を受けて、この前途洋々たる新産業に乗り出す決意をした。1944年4月に始まったこの共同プロジェクトには、イギリスのレーダー専門家ジョン・コッククロフト(37)の他、ジョリオ=キュリーの仲間の自由フランスの科学者たちも加わり、オタワ西方約200キロのチョーク・リバ-とよばれる小村で、プルトニウムを生産する重水型天然ウラン原子炉の建設が開始され、1945年9月に臨界に達した。


 1947年7月、二番目の重水型原子炉が完成し、カナダの原子力技術は確固たるものとなったが、それには年間数百万ドルのコストを要し、カナダのもつ巨大な水力発電の潜在力からいっても、その価値はかなり疑問視されるものであった。しかし、アメリカ原子力委員会が生産されたプルトニウムをすべて買い取ることに同意したことによって、経営的な見通しがつき、ハウはその将来性を信じて、カナダ原子力公社を設立、その長には友人のマッケンジーが就任した。


 1954年、ソ連は、僅か5000kwの規模(現在の原発の1/200)ではあったが世界最初の原子力発電所を建設し、モスクワ南西100キロにあるオブニンスクの町に電気を送りはじめた。このすばらしい業績をあげた責任者が、新たに中型機械製作相に就任したマリシェフ(51)である。


 マリシェフの活動ぶりは、ソ連の秘密主義のベールに隠されて明らかではないが、ソ連の市民たちが彼の重要性を知ったのは1953年6月、彼が政治局の面々と共にモスクワ・オペラに突然姿を現わしたときである。その時、姿を見せなかったのが秘密警察長官のベリヤで、ベリヤはこの公演中に逮捕されて、のちに処刑される。こうして、ソ連の原子力計画はマリシェフの手に移った。


 マリシェフは初期の原爆計画にも参加していたが、その正確な役割ははっきりしない。ただ、その地位は、技術畑の責任者バニコフ(31)よりは下だったようだが、ザベニャギン(32)よりは上で、しばしば技術関係の会議の司会をしていたそうである。


 彼は理想家で、マルクス主義の真面目な学徒であった。1931年、彼は若い技術者として、シベリアでの水力発電の開発を熱っぽく主張した。電力はソ連の神話の中で特別な意味を持っており、レーニン自身、H・G・ウエルズに対して、共産主義を「ソビエト権力と全国土にわたる電化」と定義づけて説明していたほどであったが、マリシェフはそれを忠実に推進した人物であった。


 彼はモスクワ駅で機関車の運転手として働いていた1926年に入党し、のち選ばれて、後の首相ゲオルギ・マレンコフの監督下にあったモスクワのバウマン工科大学で、将来の政府高官たちといっしょに特別訓練を受けた。1939年には閣僚に任命され、戦時中にはソ連国防産業の最高責任者の一人として、戦車生産の責任を担った。そして、スターリングラードの攻防戦では、包囲されたスターリングラードの経済面の管理を担当した。この戦いは愛国的伝承となり、それに参加した人々は後年尊敬されるようになったが、そうした中に、グリゴリー・ジューコフニキタ・フルシチョフも入っていた。


 ベリヤとその秘密警察の監視がなくなったことにより、マリシェフの原子力計画は大幅に拡大され、原子力潜水艦の開発なども進められたが、とりわけ大きな部分を占めたのは、レーニンの言葉を実行に移す原子力発電の計画であった。原爆実験成功後、科学者のスポークスマン役であるクルチャトフ(11)はあらゆる型の原子炉の研究を推進し、最初に完成したのが、1948年の最初のプルトニウム生産原子炉の後裔にあたる、黒鉛を減速材に使用したオブニンスクの水冷式原子炉であった。以後、1958年に、発電とプルトニウム生産の両用の重水型原子炉がシベリアに完成し、まもなく、ソ連は新しい「原子力の世紀」にむけて、自国の原子力計画を再編、強化し、中型機械製作省から「原子力利用中央評議会」という新しい部門をつくった。



【登場人物の整理】


(50) クレランス・ハウ(加):実業家(カナダの原子力産業を創設)

(51) ブヤチェスラウ・A・マリシェフ(ソ):官僚(原子力担当者)




第10章 提督 


 1950年代半ば、アメリカから全世界に伝染病のように広がった原子力利用の熱病は、発電、航空機、船舶、食料保存、汚物の消毒、ガン治療など多くの分野にバラ色の幻想を振り撒き、核兵器による人類絶滅の恐怖や、核実験による放射能被害への警戒感を圧倒する勢いであったが、アメリカ海軍のハイマン・ジョージ・リコーバー大佐(52)にはそのような浮かれた幻想はひとかけらもなかった。


 アメリカ原子力産業の誕生に実際の力を振るったこの男の頭にあったのは、原子力は海軍を救うことができる、原子力はアメリカを救うことができる、の二点だけであった。即ち、第二次大戦後の空軍力優位の中で、海軍に残された可能性は、燃料補給基地に依存することなく長期間潜水したままで、、敵の攻撃にさらされることの少ない「原子力潜水艦」であり、また、アメリカも、原子力革命の中でその威信を守り、化石燃料が枯渇したときの代替エネルギーを獲得するために原子力を必要としていた。


 ドイツでウランの核分裂に成功したというニュ-スが1939年にアメリカに届いて以来、アメリカ海軍実験研究所の物理学者たちは世界最初の原子力潜水艦の建造を夢見ていた。従来の潜水艦はディーゼルエンジンを動かすための酸素を必要とする関係上、ほとんどの時間、海面上を航行しなければならず、潜水するときは電池を使い、再充電が必要となるまでのごく短い距離しか水中を航行できなかった。


 しかし、マンハッタン計画を管理しているのは陸軍で、海軍は戦後、原子炉の開発状況をみるため代表団をオークリッジに送るようにという招請を受けるまで、実質上、原子力問題から排除されていた。そしてそれ以後も、戦争が終わって減額された軍事予算では、原子力潜水艦開発に要する巨額のコストは賄いきれそうもなかった。そんな中でリコーバーだけは原子力潜水艦開発の確信を失わず、原子力に対する知識、立身出世の意欲、そして権力掌握の野心に支えられた凄まじいまでの執念で、部下を、時には恫喝しながら、叱咤激励して、原子力潜水艦の建造を推進させていった。


 また彼はウェスチングハウス社と結んで、現在では最も一般的なタイプとなっている軽水型原子炉を採用して、1954年1月21日に、ジュール・ベルヌの空想船に因んだ初の原子力潜水艦「ノーチラス号」を進水させるとともに、1957年、ペンシルバニア州シッピングポートで操業を開始したアメリカ最初の原子力発電所をつくった。


 リコーバーは1900年、ポーランドのユダヤ人家庭に生れたが、6才の時、彼の家族はニューヨークに移住してきた。彼の父は裸一貫から働きとおして小さな財を築いた人物であったが、リコーバーも高校を卒業するまでアルバイトに追われ、19才のとき、地元議員の援助を得て、やっと海軍兵学校に入ることができた。兵学校では、彼は熱意のない学生であったが、それは海軍の中に隠然と存在するユダヤ人排斥の気風のためであったのかもしれないし、海軍に入って潜水艦勤務の資格を取得し、「技術専任」将校の任命を申請したのも彼の屈折した心理の反映であったものと思われる。


 1939年6月、彼は全海軍艦艇の設計、建造、修理を担当する、ワシントンの艦船局勤務を命ぜられた。そこで彼は徹底して無駄を省く設計監理を行って、出入り企業を震え上がらせたが、これは彼が後年、原子力潜水艦建造にあたって持ち込んだ管理スタイルの芽生えであった。


 1946年、オークリッジで原子力のコースを歩みはじめ、1948年、正式に海軍原子炉の責任者に就任したリコーバーは、最初の原子力潜水艦の進水期限を自ら、1955年1月1日と設定し、それに向けて民間請負い業者に技術上の完全を徹底的に要求した。彼はまた同時に、AECの海軍原子炉部長にも就任し、この二つの地位を巧みに使い分けて、繁雑な官僚的形式主義を排し、また時にはそれを逆用することによって、原子力潜水艦建造に向けての環境を整備し、そして自分自身の権限をも強めていった。


 戦後まもなく、AECは原子炉研究を、アーサー・コンプトン(21)のシカゴ大学グループの後身であるアルゴンヌ国立研究所に集中しようとした。リコーバーは1500気圧の沸騰しない普通の水を減速材と、炉心を冷やす冷却材の両方に使用する『加圧水型原子炉(Pressurized Water Reactor=PWR)』を、その研究スタッフの力量を見込んで採用しようとしていたが、アルゴンヌ研究所の科学者たちはそれに批判的であった。またAECもリコーバーがPWRを自由に支配することに警戒的であったが、1949年のソ連原爆によってそれらは完全に吹っ飛び、リコーバーは昇進以外は、欲しいものは全て手にいれることになった。


 リコーバーはこのような重要な任務の責任者の地位にありながら、社交や、上司への全面服従をきらう、スペシャリスト的な偏屈さのために、対人関係での衝突が絶えず、そのことが彼の昇進をいつも妨げてきた。しかし、退役が迫ってきたとき、彼はそれを拒否し、議会に支持を求めた。それを助けて、彼を少将に昇進させる中心的な役割を果したのは、JCAEの最初からの委員で、下院から上院に移ったばかりのヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(44)であった。リコーバーは議会の聴聞会では、はきはきと、簡潔で率直で的を射た証言をすることによって、自信と、時には傲慢ささえ滲ませながらも、全般的には正直だという印象を与えることに成功した。彼は、監視役という議会自身のイメージにおもね、それが議会側の好感を誘ったのだが、しかし、議員たちは何にもまして、リコーバーこそ多くの将校や高官たちの中で見事にその仕事をやり遂げた人物であることを承知していた。


 リコーバーはまた、航空母艦用原子炉システムを構想し、1950年にはその技術的設計を行うチームを持っていたが、空母は現代の戦争では攻撃を受けやすいことから、アイゼンハワー政権の支出削減公約とも相俟って、1953年4月、その計画は撤回された。しかし、その原子炉にはすぐに民間用に転用する道が開けていることがリコーバーにはわかっていた。潜水艦用の原子炉を開発したウェスチングハウス社が発電用原子炉の建設にすこぶる熱心だったからだ。


 この頃、ソ連は自分たちが発電用原子炉をほぼ完成したと主張し、イギリスも1956年までに全国に電力を供給する原子炉の運転を開始しようとしていたため、アイゼンハワーの「平和のための原子力」演説を準備していたアメリカにとって、発電用原子炉を早急に建設することは国威にかかわる問題であった。


 そこでストラウス(38)に推薦されて、凱旋将軍のように登場したリコーバーは、アイダホ州の実験ステーションでウェスチングハウス社製の潜水艦用加圧水型原子炉(PWR)のモデルをデモンストレーション運転して、AECの契約をかちとることに成功した。そして1954年9月6日、オハイオ州シッピングポートにアイゼンハワーを迎えて、PWR発電用原子炉の起工式が行われ、その原子炉は1957年12月、6万kwの原子力発電を開始した。その結果、ウェスチングハウス社は新しい製品ラインにPWR型原子炉を付け加えることになったが、それはまたリコーバーのウェスチングハウス社内での新しい支配力の確立をも意味していた。


 ウェスチングハウス社はライバルのゼネラル・エレクトリック社(GE)のような才能や独創性を持っておらず、いつも、あらゆる面で「ナンバー2」に甘んじているようにみえたが、信頼性の高い「技術会社」として知られていた。そしてGEみたいに経営者を絶えず交代させることはせず、トップ経営陣は何年も同じ部署に留まっている傾向があって、原子力部門でも、チャールズ・ウィーバージョン・シンプソンジョセフ・レングルの三人が、その後30年間にわたってトップの地位を占めつづけた。この三人は船舶用原子炉の開発の時からリコーバーと深く関わっており、いわば「リコーバー・スクール」の優等生であった。


 リコーバーは彼らに対して常に絶対の従順を求め、のちにシンプソンがウィーバ-に代わって発電用原子炉担当の副社長に就任した際に、アメリカ航空宇宙局(NASA)のために原子力推進ロケットを研究する「航空原子力研究所」の設立を決定すると、激怒して、自分の息のかかった要員がNASAに移るのを拒否した。そしてシンプソンがそれにもかかわらず、計画を強行するや、リコーバーは最新型原子力潜水艦用原子炉に関わる契約を一方的に破棄し、それをGE社に与えた。しかし、ウェスチングハウス社はすでに何百人もの原子力技術者を持っていて、リコーバーの怒りにあっても十分に耐えられる、強大な原子力帝国を築き上げていた。シッピングポートの原子力発電所が従来の火力発電の10倍ものコストが掛かっていても、もっと大型のPWR原子炉を建設する認可と政府援助を、直接、AECからとりつける実力を持っていた。これまで常に「ナンバー2」に甘んじてきたウェスチングハウス社は、原子力開発のおかげでトップの座を獲得する機会を手にいれたのである。


 その間、ライバルのGE社も手をこまねいていたわけではない。戦争終了直後、GEは、同社の原子力研究所をつくる資金をAECが提供するという条件で、ハンフォードにあるプルトニウム生産原子炉の運営責任を引き受けることに同意した。そしてその新しい研究所は、ニューヨーク州北部のスケネクタディのGE本社の近くに建設された。


 当初、GEの計画は科学者たちが支配しており、彼らは、プルトニウムを燃料とし、消費するよりも多くのプルトニウムを産出する「高速増殖炉」の研究に重点を置いていた。リコーバーはそれよりも、潜水艦計画の絶対的優先を要求し、また、技術者ではなく科学者に計画を管理させるという、GEの基本姿勢にも反対だったので、両者は鋭く対立した。しかし、1950年、高速増殖炉の開発は技術的困難に直面し、GEはやむなくリコーバーとの話し合いに応じて、海軍の契約を受け入れた。そして冷却材として、水ではなくナトリウムを使う潜水艦用原子炉1基(1954年7月21日、これを搭載した原子力潜水艦第二号「シーウルフ号」が進水)をつくったが、GEは、ウェスチングハウスのように、その研究所をリコーバーのお気に入りの計画だけを行う、単一目的の機関として使われることは許さなかった。


 一方、アルゴンヌ国立研究所では、科学者たちがもう一つの軽水原子炉である「沸騰水型原子炉(Boiling Water Reactor=BWR)」の理論研究に従事していた。BWRは冷却材および減速材として普通の水(軽水)を使う点ではPWRと同じだが、PWRとは次の二点が違っている。即ち、(A) 水を加圧せずに炉心を囲む容器内で沸騰させるため、容器は高圧に耐える必要がない。(B) 炉内で発生した蒸気をそのまま発電機を動かす動力として使用するので、蒸気発生器は要らない。事実、その構造はPWRよりも単純で、建設費も安かった。


 GEはこのBWRという新しい技術を開発しようと、政府の補助をはねつけて、カリフォルニア州サンノゼの近くに新たに研究所を設立した。1903年にGEの最初の発電用蒸気タービンを注文した実績のある、シカゴのコモンウェルス・エジソン社を中心とする電力会社コンソーシアムが早速、この新型原子炉に関心を示した。GEはコンソーシアムに、最初に決めた価格で発電所の建設と初運転までの全責任を負う「固定価格契約」(後に「ターン・キー契約」と呼ばれるようになる)を提案したが、この契約方式は10年後、国内の電力会社に原子力発電所を売り込む際の重要な要素となった。


 GEの最初のBWR原子炉「ドレスデン1」は1959年10月15日、20万kwの電力供給を開始したが、それは世界で最初の大規模な、民間資金による原子力発電所であった。すでに政府出資のシッピングポートのPWR発電所は二年前に完成しており、また、BWRの開発コストをそっくり負担することはGEにとっても大きなリスクであったが、このBWRの完成によって、GEは原子力事業の分野でも「ナンバー1」の地位を取り戻したのである。



【登場人物の整理】


(52) ハイマン・ジョージ・リコーバー(米)海軍軍人(原子力潜水艦開発。加圧水型原子力発電所建設)





第11章  永遠の泉 


 1955年は、8月にジュネーブで国連主催の第1回「原子力平和利用国際会議」が開かれて、「平和な原子力」にとって画期的な年となった。


 冷戦が始まって以来はじめて東西両陣営(全世界73ヶ国)の科学者が集まったこの会議では、アメリカはパレデナシオンの敷地に小型の運転炉をつくって大々的なPR活動を行ったが、驚いたことに、そこにはソ連の科学者たちもつめかけて、気楽にお互いの研究の秘密を語り合うなど、大いに打ち解けた、解放的な雰囲気が醸し出されていた。期間中は、発電から汚物の殺菌に至る「平和な原子力」に関する記事が連日、世界中の新聞の第一面を飾り、また、それまで供給不足と考えられていたウランの新しい資源が世界中で発見されるなど、核分裂の将来は完全に保証されたように見え、放射線の危険(低レベルでも危険である)や、発電用原子炉から生れる有毒廃棄物の処理問題(後にこれは原子力を苦境に追い込む問題となる)は脇に押しやられてしまった。


 イギリスとフランスは、炭酸ガスを冷却材、黒鉛を減速材に使った原子炉を、アメリカとソ連は、最初海軍で推進力計画に利用した加圧水型原子炉を初期の民間用原子炉として選んだ。


 イギリスはジュネーブでクリストファー・ヒントン(38)が、ガス冷却原子炉の方がアメリカの軽水型よりも安全で、より信頼できると主張した。ガス冷却炉は確かにコストが掛かり、高度の技術を必要とするが、副産物のプルトニウム(原爆用のほか、将来開発されるであろう高速増殖炉に利用できる)がそのコストを相殺するというのである。イギリスはこの時、10年以内にガス冷却炉を12基建設し、1975年までに全電力の半分を原子力にするという具体的な目標を設定しており、1956年5月にはコールダーホールの1号炉が完成して、原子力による電力を全国規模で送電した最初の国となった。


 1955年10月、国連で「原子力平和利用に関する決議案」が可決されて、「国際原子力機関(IAEA)」が設置され、西ドイツ、日本(12月)、ベルギー、イタリア、スペイン、ブラジル、アルゼンチンの各国が原子力委員会を設立して、“今、原子力のバスに乗り遅れたら、永久に置き去りにされてしまう。慎重論を唱える者は非愛国的だ。”という空気が全世界を支配した。


 ジュネーブ会議後の原子力輸出市場争奪戦は最初、イギリスとアメリカで争われた。1950年代末までにウェスチングハウス社がベルギーとイタリアに軽水炉を各1基、GE社も西ドイツ、イタリア、日本に各1基を販売、イギリスのGE社は日本にガス冷却炉を1基、同じくニュークリア・パワー・プラント社はイタリアに1基を輸出した。


 こうした原発熱はたちまち世界中に広がったが、中でも最も熱心だったのは第二次大戦の二大敗戦国である西ドイツと日本で、その次がインドであった。しかし、西ドイツと日本がこの時期に原子力計画を開始することは、乏しい資源を無駄に配分するという点で明らかに時期尚早であったし、インドに至っては国家的悲劇とさえなった。


 戦時中、ドイツ屈指の巨大化学コングロマリット、I・G・ファルベンの「皇太子」といわれたカール・ウィナッカー(53)は、第一回ジュネーブ会議での技術的興奮が覚めやらぬうちに、当時彼が会長を務めていた化学会社ヘキストの指導的技術者たちに電話して、直ちにジュネーブに来て新技術を学びとるように命じた。出品されたいくつかの展示品、とくにアメリカの運転炉に深く感動したウィナッカーは、西ドイツ独自の原子力産業の誕生にかけた衰えることのない情熱により、のちに「西ドイツの原子力の法王」という称号をたてまつられるのだが、西ドイツの原子力産業はやがて、軍事計画に支援されていない国の核技術開発では最先端を行くまでに成長した。


 ジュネーブ会議で西ドイツは、1930年代に「黄金時代」を誇った同国の原子力の成果が今や失われてしまっていることを今更ながら痛感した。新聞はそれについていろいろと書き立て、それが圧力となって、アデナウアー政府は原子力産業を育成するために、国家資金を配分する「原子力問題省」、それを実際に使う「原子力委員会」、それに別の規制機関として「原子炉安全委員会」の三つの機関を創設した。


 原子力委員会にはウィナッカーの他、核分裂の発見者であるオットー・ハーン(2)、州政府の代表であるレオ・ブラントがいたが、ウィナッカーはすぐに最大の実力者にのし上がり、原子力委員会を意のままに動かして、カールスルーエに新しい原子力センターを設立し、その主要ポストに自分の友人や仲間を配置した。カールスルーエの初代所長にはヘキスト社から送り込まれた技術者出身のゲルハルト・リッターが就任し、原子炉安全委員会の運営には、同じくヘキスト社の主任技術者で、学生時代からの友人であるヨーゼフ・ウェングラーが当たった。


 プロテスタントの中でも最も偏狭で、厳格で、頑固な一派の中心地であった、北ドイツのブレーメンで生まれたウィナッカーは、ドイツ産業界の成功者の典型であった。謹厳で、超然として、規律にうるさい彼は、「プロセス・エンジニアリング(新しい化学製品を工場規模で生産する技術)」の最初の専門家の一人であったが、この分野は化学と物理学と技術の合流する境界的な分野で、その点、原子力の開発と似たところがあった。


 彼は戦時中のI・G・ファルベンとの関係から、戦後は非ナチ化の命令を受け、自宅で化学技術の論文を執筆するぐらいのことしか出来なくなったが、1952年、I・G・ファルベンの再編成計画が実施されたとき、その三つの後継会社の一つであるヘキスト社の経営委員会に復帰することを許された。彼はまもなくその委員長となり、ヘキスト社がI・G・ファルベンの遺産の大半を相続できるよう取り計らうことに成功した。これらの三社はいずれもその後、主要な多国籍企業に発展し、ヘキスト社はやがて世界最大の化学会社に成長した。


 将来の産業における原子力の重要性に早くから気付いていたウィナッカーは、すでにジュネーブ会議の前に、西ドイツの主要産業を「物理研究協会」というグループに組織化していたが、この団体こそ、原子力研究に対する産業界の支援を取り付ける第一歩となったものである。その後20年間にわたって、政府と民間投資家は200億マルク近くの資金を注ぎ込み、13種類の違った型の原子炉が調査された。その目的は、すでに確立された技術であるアメリカの軽水炉やイギリスのガス冷却炉に依存しない独自の方式を開発することであった。


 最初、重水型原子炉が西ドイツの独自性を短期間に確立する最善の方法のように思われた。この方式は天然ウランを使用するので、アメリカの濃縮工場からしか手に入らない濃縮ウランを使う必要がなかったし、また、重水については、ヘキスト社が戦時中にその技術を開発していた。しかしウィナッカーは長期的な独立のためには高速増殖炉の開発がどうしても必要だと考え、ヘキスト社の経営陣や株主に対して十分な投資価値があることを保証して、その研究に当たらせた。


 かつて化学が20世紀前半の産業制度を変えたように、20世紀後半は物理学が原子力を通じてまちがいなく産業構造を変えるとウィナッカーには思われた。彼の核技術に対する理解がそう信じさせたのだが、日本でウィナッカーに相当する正力松太郎(54)にはそのような素養はなかった。しかし彼は優れたギャンブラーで、彼には原子力こそ50年代半ばでの絶対的な賭けにみえたのである。


 正力松太郎は大変なやり手で、「日本のプロ野球の父」「日本のテレビの父」「日本の原子力の父」など多くの分野で華々しい偉業を成し遂げたが、とくに核エネルギーに対する熱意は彼のそれまでの目覚ましい経歴の頂点を成すものであった。


 彼の祖父は橋づくりを専門として、一介の庶民から下級武士にとりたてられた人物であったが、彼の父は田舎町の平凡な技師で終った。日本では、官界に進むのが、家柄や財産のない若者が社会的に出世する数少ない道であるが、正力も、官界エリートの中心的訓練場である東京帝国大学法学部を卒業して、1913年に東京警視庁に入った。そこで彼は、偽牧師による大量殺人や朝鮮王室一員の暗殺など、数多くのセンセーショナルな犯罪事件を手掛けて頭角をあらわし、また、米騒動、選挙権デモ、学生暴動を見事に鎮圧して政治指導者の注意をひき、1921年、日本国内の政治情報を握る中心ポストである警視庁警備部長に任命された。そして、1924年、当時の皇太子裕仁狙撃事件の警備責任を問われて辞職を余儀なくされたが、その時までに彼は財界や有力者の間に十分な影響力を蓄えており、経営不振の読売新聞を買い取る資金を工面することができた。


 新聞経営者としての正力は、日本独特の新聞配達制度の下での激烈な販売競争に勝ち抜くために、新聞販売店をがっちりと握ることに腐心したが、美術展の開催や火山探検など話題を呼ぶ催し物の企画にも腕を振るい、中でもスポーツ関係の興行は大成功した。1934年に正力が東京にベーブ・ルースらを呼んだとき、銀座でのパレードには100万人もの人々が見物に押しかけた。また、神宮球場で、日本のプロ野球チーム・東京ジャイアンツとの試合が行われたため、明治天皇を記念した球場を汚したとして、右翼分子に襲われて、2ヶ月の重傷を負ったこともあった。


 第二次大戦中は「大政翼賛会」の指導者の一人となり、1944年には天皇によって貴族院議員に任命された正力は、終戦後、A級戦犯に指定され、追放令を受けて、いかなる公職にも会社の役職にも就けなくなった。しかし、追放解除後、正力は国会議員となり、旧友の鳩山一郎の率いる自由党に入った。そして鳩山が政権をとって、閣僚の椅子を勧められると、彼は自ら、原子力担当相を選び、1956年1月に発足した「原子力委員会」の初代委員長となった。


 彼は自分の新聞の主催でアメリカから原子力の専門家を呼んで、新しい原子力時代について講演させたり、アメリカから融資を受けて「平和のための原子力」展を開いたりする一方、財界首脳に働きかけて、1956年3月、既存の民間原子力調査機関を結集した「原子力産業会議」を発足させた。


 正力は手っ取り早く日本の原子力開発体制を固めるため、歴代の日本の指導者と同様、外国の技術を輸入し、それを模倣する方式をとろうとしたが、原子力委員会の少数派と、日本科学界の大多数は、独自の研究を進めるように求めた。正力は自費で東京に呼んだAEA産業部長クリストファー・ヒントン(38)の助言を受けて、その年5月にコールダーホールで完成したガス冷却原子炉に傾いていた。日本の科学者たちは、炉心のまわりに溜まる黒鉛の固まりは、イギリスでは認められても地震国の日本ではとうてい受け入れられないと主張したが、正力はそれを押し切った。発足当初から原子力委員をしていたノーベル賞学者の湯川秀樹は、正力の強引さと仲間の科学者たちの反対との板ばさみに嫌気がさして、1956年4月に辞意を表明、翌年3月に原子力委員を辞任した。しかし正力によって導入されたコールダーホール型ガス冷却炉は当初見積もりよりも建設に時間がかかり、多くの費用をついやして、そのため日本は苦しい経験をしなければならなかった。


 ウィナッカーと正力が、西ドイツと日本でいかに性急に原子力開発を推し進めようとしたとしても、それは少なくとも既に工業基盤を持った国でのことであったが、インドにはそのような基盤さえなかった。ジュネーブ会議でも、イギリス代表のコッククロフト(37)が「原子力は、開発途上国にとっては必ずしも繁栄をもたらす魔法のカギではない」と警告したが、インドの原子力計画の創設者であるホミ・バーバー(55)はそれを無視した。


 ヨーロッパで原子物理学を学んだバーバーは、外国の支配と経済的後進性のために何世紀も遅れをとった祖国が、独立後、それを取り戻すには科学技術しかないと考え、姻戚関係にあるインド最大の工業帝国の所有者タタ一族の援助を受けて、原子力研究所を設立した。そして、1948年に、アメリカ、フランスにつづいて、早々とインド原子力委員会が設立されると、その委員長に就任し、1966年に死去するまでその地位にあった。


 バーバーと同じ様に貴族の家に生まれ、ケンブリッジで学んだ首相のネールは科学の進歩の信奉者であったが、インド原子力委員会はそんなネールの政治的保護の下で、民主政治の管理を受けず、政府の他の省からも何の疑問も持たれずに、1970年代末まで秘密裏に活動することができた。そして、1956年8月にはインド最初の国産原子炉が完成したが、それはアジアで自力でつくられた最初の原子炉でもあった。


 インドのエリートたちは、中国の場合と同様に、自分たちの栄光ある古代文明と近代以後の救い難い後進性とのギャップに悩んでおり、それを埋める「進歩の近道」「大躍進の魔法」としての原子力に大きな期待をかけていた。インド固有の技術による理想社会、小さいことは良いことであるというガンジーの思想は、インドの工業化を目指すネール政府によって、徐々にないがしろにされていった。


 バーバーは、エリートたちのこんな雰囲気の中で、超愛国者のイメージを作り上げることに成功したが、彼がどこまで本当に国家の独立や主権に忠誠で、科学者あるいは科学行政官としての誇りを持っていたのかは疑わしい。結局、彼の本心は、最初は創造的科学者としての、次には、インド独自の大規模な計画を精力的かつ立派にやり遂げる行政官としての名声を確立することだけが目的の個人的エゴイズムにあったのかもしれない。


 バーバーの原子力推進の基礎となったのは、主として、インドが世界最大のトリウム資源を保有しているという事実であった。トリウムは一定の条件下で原子炉の燃料として使うことができる。彼はトリウム資源をインド千年のエネルギー独立の基礎にしようと、世界中がウランに努力を集中しているときに、トリウム原子炉につながる長期的な戦略を採用した。それは、まず、天然ウランを使った原子炉でプルトニウムを生産し、このプルトニウムを、炉心のまわりにトリウムのブランケットを置いた高速増殖炉内で燃焼させれば、分裂性のU233 ができ、これがトリウム増殖炉の燃料になるというものである。


 この計画は当初はヨーロッパの識者によって称賛されて、インドの科学者と技術者は国際技術開発の最先端にいるという誇りを感じていた。しかし、1955年末に、当時の指導的なエネルギー経済の専門家のI・M・D・リトルが、その経済性に欠陥があると指摘し、1958年には、フランスのフランシス・ペラン(49)が「途上国では、伝統的な方法による工業化段階を通り過ぎるまでは、核技術を利用することはできない」と結論づけるに至った。



【登場人物の整理】


(53) カール・ウィナッカー(独):実業家(西独原子力の法王)

正力松太郎(日):政治家(讀売社主。初代原子力委員長)

(55) ホミ・バーバー(印):科学行政官(インド原子力の父)




第12章 「AECは何をしているのか」 


 1951年1月29日、湖岸の町、ニューヨーク州ロチェスターに大雪が降り、同地のイーストマン・コダック社のフィルム工場のガイガーカウンターが狂ったように鳴り始めた。コダックの幹部はすぐにそれが1500マイル以上離れたネバダ州の新しい原爆実験場からの降下物ではないかと考えた。というのは、1945年、ニューメキシコ州で最初の原爆の爆発があった時、実験場から1000マイル離れたインジアナ州ウォーバシュ川に放射能粒子が「雨と一緒に流れ込んで」、フィルムを包装するために使うボール紙を汚染し、フィルムが使いものにならなくなったことがあったからだ。コダック社は業界団体の全米写真製造業者協会に苦情を申し入れ、協会はAECに、「一体何をしているのか」と詰問する電報を打った。


 戦後まもなくの原爆実験は太平洋上のマーシャル群島(ビキニ、エニウエトク)で合計4回行われたが、朝鮮戦争中にトルーマン政権は、国家安全保障上の理由から、アメリカ大陸に実験場を確保する必要を感じ、ネバダ州の人里離れた砂漠地帯が選ばれて、1951年1月27日から2月6日までに5回の戦術核兵器の実験が行われていた。


 コダック社は最初、政府に損害賠償を求めようとしたが、そのかわりに、特権的な情報を得ることで折り合った。つまり、AECは、それまでの秘密政策から離れて、コダックに対して、新たな実験を行う際には、あらかじめ、大量の放射能が降下するおそれのある地域を示した、極秘の降下物地図を送ることになったのである。しかし、ロチェスターのコダック工場よりももっと直接的に降下物の影響を受けるネバダ州やユタ州南部の住民たちには、そのような特権は全く与えられなかった。


 1950年代、AECは、公益(即ち、世界を共産主義の進出から守るということ)のために働いているという強い感覚を持っており、兵器の実験に当たる原子科学者の一部と違って、放射能の拡散に対する道義的呵責は全然なく、国家の安全保障は公衆衛生よりも優先すると考えていた。


 むしろAECは国民に、月1回、時としては4回行われる、砂漠での大爆発を祝うように奨励した。事実、ネバダ州やユタ州の住民にとって、原爆のキノコ雲はすばらしい見世物であり、危険に賭ける「チャンスの町」ラスベガスでは、しばしば窓ガラスを壊すその爆風を歓迎しさえした。


 しかし実際には、実験の数時間後にAECの検査官がガイガーカウンターを持って測定にやってきた時、きわめて多量の、原子雲から降下した埃の粒子が、地上や車の屋根にたまっていることがあった。住民たちは室内に留まっているよう警告されたが、同時に、何の危険もないとの保証も出された。


 AEC自身、降下物についてそれなりの心配をし、ネバダを実験場とする以前の1949年春にオークリッジでもたれた研究会で、降下物質の中では、プルトニウム、ストロンチウム90、イットリウム90が最も危険であるとの推定を下していたが、その報告は全く公表されなかった。


 低レベルの放射線の影響については当時、ほとんど解明されていなかったため、AECはそれをよいことに国民に安全を保証しつづけ、ネバダの実験による降下物にさらされた人々に対して、健康診断も強制的な隔離も行わなかった。こうした状態は1963年の「部分的核実験停止条約」ですべての実験を地下で行うことが義務付けられるまでつづいたが、それまでに、アメリカは183回、ソ連は118回、イギリスは18回、フランスは4回(フランスは条約に調印しなかったので、その後もつづいた)の大気圏核実験をしていた。


 1970年代末になってやっと、ネバダ核実験の初期の降下物に関する報告が公表され、その放射能の影響の全容が明らかになり始めたが、情報が出てきたのはアメリカからだけで、ソ連、イギリス、フランスは実験に関するデータを一切公表せず、今日でも何もわかっていない。なかでもイギリスは、熱烈なイギリス贔屓で、「大英帝国」を固く信じていたロバート・メンジスが1952年から56年まで首相をしていたオーストラリアの全面的な協力を得て、西海岸沖のモンテベロ島と、後にはオーストラリア中部の砂漠で核実験を行ったにもかかわらず、それによる放射能の影響については何も発表されなかった。


 1895年、ドイツ人科学者、ウィルヘルム・コンラッド・レントゲンは光線と違って、黒い紙を通り抜けられる目に見えない線を発見した。彼はこの魔法の線が何であるかわからないので、X線と名付けた。その直後、フランスのアンリ・ベクレルが、同種の透視線がウラン化合物からも出ていることを発見した。この奇妙な現象を「放射性」と名付けたキュリー夫妻は、その後、放射性ラジウムを発見した。ところがある時、ベクレルが数日間、チョッキのポケットにラジウムの入った小さなガラス瓶を入れて持ち歩いていたところ、自分の皮膚が焼けているのに気付いた。


 レントゲンがX線を発見してから2年後の1897年3月までに、すでに69件の、X線による生物損傷が記録されていた。ドイツのある研究者は、X線を常時照射された二十日鼠が白血病になることを発見した。また、別の研究者は、X線照射を受けた人から94例のガン腫瘍を報告したが、そのうちの50例は放射線学者自身のもので、67才で死亡したマリー・キュリーの死因も白血病であった。


 初期の未熟な装置から発生するX線はエネルギーが低かったので、その影響はすぐにはあらわれず、そのため研究者たちはX線の照射を受けることをあまり気にしなかった。だから当然、一般の人々もそうであって、1920年代には、イボやニキビや不要な毛を取り除くためにX線照射をする美容院が大繁盛し、また、ラジウムも新しい魔法の薬として、関節炎、痛風、高血圧、神経痛、糖尿病などの治療に、注射や内服薬として多用された。


 放射性物質は崩壊ないしは分裂の状態にあって、それが完全に安定するまで、線や粒子を放出しつづける。その粒子にはアルファとベータの二種類があり、透過能力が最も弱く、紙一枚で止めることができるものをアルファ粒子、もっと透過能力が強く、薄いアルミ板で止めることができるものをベータ粒子と呼んでいる。その他に、X線と同じ強度を持つガンマ線があり、この透過能力はきわめて強くて、鉛のような密度の高い物質でなければ止められない。これら三つはイオン化能力を持つ放射線で、それが物質中を通過する過程で原子をイオン化し、一定の作用を起こすエネルギーを発散する。


 アルファ粒子とベータ粒子は人体を透過できない(少くとも、皮膚の奥には通らない)ので、初めは、有害なのはガンマ線だけだと考えられていた。しかし、アルファ粒子とベータ粒子を出す物質は、食べ物などを通じて体内に摂取される。これらによる人体内の損傷が初めて明らかになったのは、時計の文字盤に発光ラジウム塗料を塗っていた婦人労働者たちの悲劇からである。


 ラジウムは暗闇の中で光り輝く。1915年、アメリカの開業医で素人画家のサビン・フォン・ソコッキーは発光ラジウム塗料の製法を考案し、ニュージャージーに、ラジウム・ルミナス・マテリアル社を設立した。この工場では、腕時計の文字盤のほか、電灯用スイッチ、十字架像、第一次大戦中の航空機用計器盤などたくさんの仕事があって大いに繁盛し、250人もの婦人労働者を雇っていた。


 彼女らは細密な線を引くために、塗料を湿した筆の先をなめて整えてから線を引くように教えられていた。なかには、ラジウム塗料があまりにもきれいだったので、自分の歯に塗って、暗闇の中でも輝くようにする者もいた。その結果、彼女らは知らず知らずのうちにラジウムを飲み込んで、1924年に地元の監察医がその危険性に気が付くまでに、9人が死亡していた。ラジウムは骨の中にとどまり、破壊的な放射性アルファ粒子を放出して、徐々に骨を蝕んでいたのだ。


 彼女らは会社を訴えて、裁判を起こした。しかし、その裁判中にも次々と犠牲者が死亡して、この事件は国際的な反響を巻き起こした。パリのマリー・キュリーや、新しく発刊された「タイム誌」が彼女らを支援したが、125万ドルの賠償請求は認められず、結局、1人1万ドル、年600ドルの年金を支給することで示談が成立した。


 放射線を測る尺度として、保健物理学者たちは、最初、ガンマ線の破壊力、即ち、一定のガンマ線を一定時間照射した際、一つの原子からどれだけの電子を放出するか、を示すレントゲンという単位を用いた。イギリスの放射線専門家たちは1920年代に、X線やラジウムを扱う労働者が放射能に曝される一日の最高限度を設定しようとしていたが、1925年に「国際放射線防護委員会(ICRP)」という団体が設立され、1934年になってやっと、それを一日あたり0.2レントゲンとするという基準を発表した。


 アメリカは1936年に、この基準を0.1レントゲンに半減させたが、それはラジウム塗装女工事件の結果であった。またそのおかげで、マンハッタン計画では、遠隔操作装置、埃分散装置、排気浄化装置などの設置が認められ、何千という労働者が大きな危険から免れた。


 しかし、それとは対照的に、アラモゴルド実験の周辺住民に対しては、その70倍以上に当たる一週間50レントゲンの基準が設定され、また、降下物の通り道には1000人の牧畜農民とインディアンの一種族200人が住んでいたにもかかわらず、実験の秘密を守るため、避難措置などは一切講じられなかった。実験当日、30マイル平方の周辺区域で測定された放射線量は1時間で35レントゲンに達したが、住民たちは何も知らずに、放射能雲が通り過ぎるのを眺めていただけであった。


 戦後になると、X線、ラジウム以外に何百という人工同位元素が登場し、ヨード131、ストロンチウム90、炭素14、プルトニウム239などが放射線防護問題の中心となってきた。


 アメリカの保健物理学者たちは、マンハッタン計画での新たな経験により、たちまちICRPの有力勢力となったが、彼らを指導したのは、戦時中、プルトニウムをつくったシカゴの金属研究所にいたカール・モーガン教授(56)であった。彼はオークリッジ国立研究所に新しくできた保健物理学部の責任者となり、また、ICRPの内部放射線量に関する作業委員会の委員長にもなって、放射線の「許容基準」の設定に取り組んだ。しかし、新しい実験の結果出てきたのは、これ以下であれば無害という「敷居線量」は放射能には存在しないという結論であった。


 遺伝子に対する放射線の影響は、インヂアナ大学の動物学教授ハーマン・マラー(57)の指導で研究が行われた。ノーベル賞受賞者で、近代放射線遺伝学の父といわれる彼は、ミバエに放射線を照射すると、その遺伝子変化(変化した性質がそのまま新世代に伝わりうる化学的変化)が150倍に増加することを証明した。


 さらに、オークリッジで何万という二十日鼠を使って行われた、いわゆる「メガ・マウス」実験では、ミバエの実験データの10倍の遺伝子変化があることが明らかにされた。結局、遺伝子変化は照射された放射線量に正比例して確実に起こり、どんなに低レベルの放射線でも安全とはいえないということになる。


 遺伝子学者たちは、降下物や原子炉を通じての人工放射能の増加が人類に悲惨な影響を与えると警告した。人類の進化の過程での自然発生的な遺伝子変化は、宇宙線やウラン、トリウムなどからの自然放射線によって起こり、何万年もかかって遺伝的均衡が進んだと考えられるが、人工放射能の急増はこの均衡を破るおそれがあるというのである。


 1950年、アメリカは、ICRPの勧告を受けて、基準を再び下げて、週0.3レントゲンとし、翌年のネバダ核実験から適用されたが、これはあくまでも職業上の基準であって、一般住民のための、全国的な基準や、国際的な基準は存在しなかった。


 コダック工場に放射性降下物をもたらした1951年当時の周辺の放射能監視体制は全く間に合わせでいい加減なものであった。1953年3月の第4次の実験シリーズの時から一応の改善がなされて、地上と空中の監視チームが統合され、アメリカ公衆衛生局も加わるようになったが、この時はじめて危険信号があらわれた。つまり、ガンマ線検出量が基準値を超え、近くで飼育されていた1万8000頭の羊のうち4000頭以上が被曝のために死に、国道では予想の二倍以上の放射性物質が降下して、そのため、所々に検問所を設けて、車やトラックなどにたまった降下物を水で洗い流さなければならなかったのである。


 この時の状況はその後、実験場の一監視官によってまとめられ、5月にAECのもとに届けられた。しかし、AECはこの書類に「極秘情報」のスタンプを押し、26年後の1979年4月(スリーマイル島原発事故の直後)まで公表されなかった。


 この報告がワシントンのAEC本部に届いた一週間後の1953年5月19日、「ハリー」という暗号名の原爆実験が実施されたが、32キロトンのこの爆弾は300フィートの高さの塔の上で爆発させたこともあって、厖大な量の放射能を周囲に撒き散らして、のちに科学者たちによって「汚ない爆弾」と名付けられたほどであった。


 実験場の東方150マイルの町セントジョージでは5時間後に一時間当たり0.32レントゲンの放射線が検出され、後日、人々が受けた外部ガンマ線量は2.5~5.0レントゲンと推定された。もし、これだけの放射線量をAECの原爆製造工場で被曝していたならば、ただちに被曝者に対して精密かつ詳細な検査と、厳重な隔離処置がとられたことであろうが、周辺住民にはそのような措置は何もとられなかった。そんなことをしたら、AECが住民の安全のために最低限の予防措置もとっていなかったことが知れ渡ってしまうだろう。住民は室内にとどまってシャワーを浴び、放射能雲が通り過ぎたら、車が被った降下物を水で洗い流すよう指示されただけであった。



【登場人物の整理】


(56) カール・モーガン(米):保健物理学者(放射線に「敷居線量」は存在しない)

(57) ハーマン・マラー(米):動物学者(近代放射線遺伝学の父)





第13章 確証のない可能性 


 オーストリア生まれの物理学者ロナルド・リヒター(58)は戦時中、ドイツのユンカース航空機工場でヒトラーのために働いた後、アルゼンチンに渡り、そこで旧ナチ党員らの援助を受けて、ペロン大統領を説得し、原子力計画のための資金4700万ペソを国庫から出させることに成功した。リヒターと30人のアルゼンチン技術者は、ブエノスアイレスから1000マイル離れたチリ国境近くの湖の無人島で原子力研究所の建設を開始したが、独裁者ペロンはそれを積極的に援助した。自国の工業上の劣位(とくにアメリカと比較して)を常に意識していたペロンは、全世界が何よりも称賛する工業技術の一部門、原子力エネルギーの分野でアメリカを凌ぐことができると期待したのである。


 研究開始からわずか18ヶ月後の1951年2月、リヒターは設立されたばかりのアルゼンチン原子力委員会の委員たちを無人島に招待して、「世界初の制御された熱核反応」と称するものを見せた。


 当時、アメリカでさえ、ロスアラモスの研究所で、「無制御」の熱核反応(即ち、水爆)を実施する方法をみつけようと懸命に努力していたところで、それを制御する方法はまだ知らなかった。


 この世界に先駆けた「大成功」に有頂天になったペロンは、3月24日、この歴史的な成果を大々的に発表した。全世界、とくにワシントンとモスクワは驚いて、その事実を確認しようと駆け回った。かつてリヒターと一緒に働いたことのある、ソ連在住のマンフレッド・フォン・アルデンネ男爵は当局者に「彼の話は信用できない」と断言した。まもなく、各新聞が、その成功は不可能であるという記事を載せはじめ、AECのリリエンソール委員長(27)も、リヒターの成功を否定する談話を発表した。


 その理由は、もし、制御された熱核反応(核融合)が行われたとすれば、次の三つの奇跡が成し遂げられていなければならない。即ち、(A) 何百万度という高温の達成、(B) この高温を百万分の一秒以上持続すること、(C) このような高温に達するまでに蒸発してしまわない物質の開発、である。


この条件は今日でも未だ達成されていないものなのだが、リヒターはその質問に対して、「内容は秘密である」としか答えなかった。しかし、リヒターがペロンをぺてんにかけてたぶらかせたことは、アルゼンチン当局の仕掛けた盗聴器によって見破られ、彼は即座に研究所を追放された。


 リヒター事件は、たとえ誤りであったにせよ、大国以外でも簡単に核兵器が作られる可能性があるということで、「核拡散(核兵器の拡散をあらわす外交用語)」の危険を初めて警告したものであった。そして、アイゼンハワーの「平和のための原子力」計画がその危険性を助長した。というのは、この計画では、他国に「平和的な」原子力を供給する際、それを「戦争用」に変えないという文書による約束しか求めなかったからである。そこで、それを裏付ける「保障措置」として、各国の核施設の現地査察という方法が考えられたが、各国が査察という「主権侵害」をすんなりと受け入れるかどうか、それに、もし、査察の結果、戦争用に転換されたと判明したとき、それをやめさせるよう、その国に、政治的、外向的圧力を加える時間的余裕があるのか(濃縮ウランやプルトニウムは、その気になれば数日以内に核兵器に利用できる)、ということが問題となった。


 アメリカ国務長官のジョン・フォスター・ダレスは「保障措置」問題担当の特別補佐官として、40才の弁護士ジェラード・コード・スミス(59)を任命した。名門カンタベリー・スクールとエール大学を卒業した共和党員で、気質、外見、経歴などから堅実そのものの印象を与えるスミスは、1969年にリチャード・ニクソン大統領から軍備管理軍縮局長官、SALT首席代表に指名されるまでは一般国民にはほとんど知られていなかったが、それまで15年間、つねに二番手としてアメリカの外交政策立案過程に関わってきた人物である。


 1954年以降、ダレスはスミスが草案を書いた演説の中で、核拡散を防止するには、核物質の供給国が新しい核施設に対する「保障措置」を守らねばならないと強調したが、その一方で、彼らは1954年5月にウラン生産8ヶ国(アメリカのほか、イギリス、カナダ、南アフリカ、フランス、ベルギー、オーストラリア、ポルトガル)に働きかけて秘密のカルテルを組織していた。のちに「西側供給者グループ」という名で知られるようになったこのカルテルの加盟国は、定期的にウラン販売に関する資料を交換し、すべてのウラン大口輸出はカルテルの承認を必要とする、など、共通の「保障措置」政策を策定して、核拡散防止に一定程度の成功を収めた。


 ソ連は共産圏諸国向け核輸出において厳しい制限を実施することにうまく成功していた。1955年1月、ソ連は、共産圏諸国からの継続的なウラン供給と引き換えに、東ヨーロッパと中国に新しい平和目的核援助計画を実施すると発表したが、この時、核兵器に利用できる核分裂物質を厳しく制限し、プルトニウムを含む、原子炉の使用済み燃料棒の返還を常に要求した。しかし、クレムリンの規則にはひとつ、明らかな例外があった。それは中国である。


 中国とソ連の核協力は1950年、ソ連による中国産ウランの開発をきっかけに始まった。戦争中、ソ連が占領していた新疆省では、それまで大量のウランが発見されていたが、ソ連は1949年、中国共産党が勝利したのを機にそれを中国に返還した。そして、1950年3月27日、両国共同の「中ソ非鉄・希少金属会社」が新設され、この合弁企業ははじめから専らソ連向けの採掘・精製活動を行った。


 1953年2月、フランスで物理学を学び、新たに設立された中国科学院の北京近代物理学研究所長に任命された銭三強(60)を団長とする中国科学代表団がモスクワ入りして、原子力に関する将来の具体的な協力案を話し合い、その数年後、北京に中国原子力研究所が設立された。


 また、この訪ソを機に、関連施設と物資が中国に送られ、1954年に共産圏諸国向けに開設されたドブナの合同原子力研究所では、約1000人の中国人専門家が訓練を受けた。1957年から59年まで、ここでの指導に当たった中国側の指導者は、西側で教育を受けた王淦昌(61)である。彼は中国で最も著名な物理学者の息子として生まれ、1934年、北京の清華大学を卒業後、ベルリン大学に留学して、核分裂に関するハーン=シュトラスマン実験を理論的に解釈したリサ・メイトナーの下で研究を続けた。戦後はアメリカに渡って、カリフォルニア大学で物理学の研究助手を務めていたが、1960年代に彼が中国の原爆計画の責任者になっていることが西側専門家によって確認された。


 フルシチョフは後年、中ソ間の原子力情報の交換に関して、「我々は彼らの望むものはほとんど何でも与えていた」と述懐しているが、事実、1959年には、中国に完全な形の原爆を提供する寸前までいっていた。しかし、当時すでに、中国領土内の核兵器を自分の管理下に置きたいというソ連の要請を中国側がきっぱりと拒否するなど、両国間の将来の紛争の兆候がいくつもあらわれていた。1963年に両国の対立が表面化したとき、中国側は破綻した両国間の核関係についての具体的な個々の情報をごっそり公表した。それによれば、対立が始まった日は1959年6月20日で、その日にソ連政府は1957年10月15日に締結された国防協定を一方的に破棄し、中国に原爆の見本とその製造に関する技術データを提供することを拒否した、ということであった。


 中国の核計画に関する情報はソ連以上に断片的で、ソ連のように最近になって初期の回想録などが出てくるということも皆無である。だから、銭三強と王淦昌をその面での最重要人物とみなす西側の観測もあるいは間違っているかもしれない。しかし、確かなことは、中国が1970年代後半まで、大量の技術ノウハウや施設を発電用原子炉開発に振り向けずに、専ら軍事用に限っていたということである。顧れば、中国の核兵器目標は1956年に採択された「12ヶ年科学計画」の中に設定されていたようである。そして、科学向け支出を前年の1500万ドルから1億ドルにと大幅に増額したこの計画の実施を担当する委員会の主任に就任したのが、北京の最も有力な政治家の一人で、最上級の軍人の一人でもある聶栄臻(62)であった。


 四川省の富裕な地主の子として生まれ、中国の独立と近代化のために尽くしたいという理想に燃えていた聶は、19才のとき、中国を離れて、ヨーロッパに留学し、フランスとベルギーで科学・技術を学んでいたとき、マルクス主義に転向した。1923年に共産党に入党後、1年半にわたってモスクワで政治・軍事訓練を受け、1925年、中国に帰国した。その後10年間は共産主義を吹き込む政治オルグとして働いたが、国共内戦が進み、日本軍の侵略が本格化するにつれて、次第に軍事活動に傾いていき、北京を含む中国北東部に自分の部隊を結成した。この部隊は戦後の内戦時には、共産党の勝利のカギを握る存在となり、勝利後は、共産党中央委員の一人として、初代の北京市長を務め、また、人民解放軍の総参謀長代理として、朝鮮戦争を戦った。


 1956年の「12ヶ年科学計画」は周恩来首相によって強力に推進されたが、周恩来は聶にとってパリ時代からの親しい友人であり、1925年に帰国した直後、一緒に黄埔軍官学校で軍幹部の養成に当たった間柄であった。さらに、周恩来の後を継いで中国科学の推進者となった鄧小平ともパリ時代からの個人的親友であったばかりではなく、高校時代からの級友でもあった。


 聶はこの新しい任務に、何十年も前から抱いていた、中国の独立と近代化の使命感を持ち込み、外国の援助に頼っている限り、中国の技術はいつまで経っても自立できないとして、中国の軍・工業組織にソ連の専門家が入り込んでくるのに神経を尖らせた。


 1958年7月、北京にある、ソ連から供給された1万kwの原子炉で中国最初の連鎖反応が成功したが、次にできた研究炉はソ連の青写真を基にしているが、完全な中国製であり、その後は、青写真そのものも中国自身によってつくられた。


 ソ連の退去後、中国は最初、内モンゴルの包頭に、次いで北央部の甘粛省玉門に、プルトニウム生産原子炉を建設したが、1964年10月16日、新疆省ロプノールで最初の核爆発が行われたとき、西側の専門家は驚いた。というのは、中国の最初の原爆がイギリス、フランスのそれのように、技術的に容易なプルトニウム系列を使わず、ウラン濃縮というはるかに高度な能力を要するU235 を使っていたからである。このU235 はソ連の援助停止後、黄河上の大規模な水力発電所からの電力を使って完成した、甘粛省蘭州のガス拡散工場から供給されたものであった。かくして聶栄臻の自立政策はその成果を見、その後も長足の進歩を遂げて、水爆製造へと速やかに移行していった。しかし、聶はつねに、自分の配下の核官僚たちが発電用原子炉に注意を向けるのを許さず、中国は広範なノウハウと特別な施設を持っていたにもかかわらず、70年代末まで、原子力発電には全く関心を示さなかった。


 1964年に中国が6番目に核兵器クラブ入りした時、同クラブに入れる潜在力を持っている国が三つあった。西ドイツと日本とイスラエルである。イスラエルがフランスの原爆計画に強い関心を持っていることは、早くから西側の情報機関にはよく知られていて、少なくともワシントンは、イスラエルはいずれ原爆をつくるだろうと見ていたが、西ドイツと日本の場合は政治的に不可能だろうと考えられていた。


 西ドイツが核兵器を持つことは、明らかにソ連への先制攻撃を意味することになり、そのため、アデナウアー首相は1954年に、「状況が変わるまでは核兵器を所有しない」と一方的に宣言せざるを得なかったし、日本では、広島と長崎の経験から、核兵器反対が一つの遺産として残り、核エネルギーに関する法律は、兵器開発を否定したばかりか、一切の秘密研究をも禁じた。しかし、そんな両国にも、将来の世代のために原爆製造の選択を何とか残したいと思っている政治家がいた。その中でも特筆すべき人物は、ともに異端の政治家であるフランツ=ヨーゼフ・シュトラウス(63)と中曽根康弘(64)である。二人は常々、自国の「平和意図宣言」を全面的に信頼しないことをほのめかし、平和目的の原子炉から核兵器をつくることを防止するための最初の国際条約である「核拡散防止条約」(1967年)の批准をはっきりと批判した。


 シュトラウスは戦後の西ドイツ政界で「はぐれ象」と称されており、中曽根はその日本版であった。それぞれ1915年と17年生まれのこの二人は、戦争末期には国家に奉仕する年齢に達していたが、崩壊した両国の旧体制に深く関わり合うほどではなかった。


 二人の政治スタイルは極めて酷似している。精力的で、ワンマン的で、野心的で、しかも機敏で抜け目がなく、政界の一匹狼的な性急さと喧嘩早さを持ち、ショーマンシップの才と、激烈な雄弁術を備えていた。しかし、それにもかかわらず、二人とも十分な教育を受けた人間で、頭の回転が早く、常に情報を蓄え、新しい政治分野を巧みに、迅速に把握する能力も兼ね備えていた。そして、この能力と、あからさまな野心が二人を常に浮き上がらせ、同時代の中で最も信用の置けない、嫌われ、恐れられる政治家とした。また、二人には、本物の政治哲学が欠けていても、戦闘的な愛国心によって人々を団結させるポピュリスト的傾向があった。


 シュトラウスはかつて、自分に対する批判を封じるために「シュピーゲル」誌のオフィスを突如手入れしたかどで、中曽根は選挙献金に関する不正申告と、ロッキード贈収賄事件との関わり合いで、ともに一時期、政治浪人の憂き目に遭ったが、それ以上に、その政治歴を通じて、常に、愛国心の許容限度を確かめるような国家主義的主張を繰り返したため、定期的に自分の性急な発言を説明したり、修正したりしなければならなかった。しかし、彼らはともにその政治基盤が限られている(シュトラウスはバイエルン地方の一政党の指導者、中曽根は主流から離れた派閥の領袖)にもかかわらず、たえず潜在的な国家指導者として論じられ、二人がいずれ首相になるのではないかとの見方が両国の政治エリートの多くに不吉な予感を与え、政治的左翼にとっては二人は特別な敵意の対象となった。


 愛国心の最終的表われは国防政策であるが、二人はともに国防政策を最優先の政治課題とみなした。シュトラウスは戦後二代目の国防相となって、西ドイツ軍育成にとって最も重要な8年間に、その再建と拡充に大きな力を振るった。中曽根も防衛庁長官を一期務めたほか、国会議員としても、憲法上問題の多い自衛隊の創設に関する立法措置の草案を作成した。


 シュトラウスは1955年に初代の原子力問題担当相に任命された時、「二、三週間以内に、国民に原子力意識を持たせてみせる」と豪語したが、その行動は慎重であった。国防相に転じてからはイギリスの政治家に、「フランスが独自の原爆を保有すれば、西ドイツも同じような気持ちになるかもしれない」と語ったといわれるが、後にそれを否定している。彼はまた、熱烈なヨーロッパ主義者となり、独仏協力を軸とするヨーロッパ独自の抑止力を積極的に推進し、1957~58年にフランスのシャバンデルマス国防相と秘密の会談をもったことがあったが、ドゴールは、政権に復帰するや、直ちにこの話し合いを打ち切った。


 中曽根にはシュトラウスのヨーロッパ主義のような思想はなかった。彼は古風な盲目的愛国者であり、日本の最も極端な愛国主義につきものの孤立主義、人種的優越感、生まれつきの尊大さという傾向を持っていた。


 彼の影響力行使の手段は、正力松太郎(54)との親密な個人的関係を利用することで、原子力分野では事実上、正力の参謀格であった。原子力委員会が活動を開始すると、中曽根は官僚たちがそれをないがしろに扱うのではないかと懸念して、その対抗勢力として、テクノクラート出身の国会議員から成るグループを組織した。


 1954年、日本で誰ひとり核政策について考えはじめていなかった頃、中曽根は核エネルギー計画に3億円の支出を求める予算修正案を提出した。そのうちの原子炉建設費、2億3500万円は、U235 に語呂合わせしたという、いい加減な数字であったが、国会は当時の熱狂を反映して、それを承認した。中曽根は得意になって、「科学者がまったく動こうとしないから、彼らの顔に札束を叩きつけて目を覚まさせたのだ。」と放言し、またまた、それを弁明しなければならなかった。


 中曽根は1955年のジュネーブ会議には、国会議員団の団長として出席し、この議員団は帰国後、100億円の予算を提案した。結局、20億円しか認められなかったが、中曽根は舞台裏での個人的な接触で、資金配分に影響力を発揮した。この時、大蔵省で原子力関係の予算を担当していたのが、鳩山一郎元首相の息子で、のちに外相となった鳩山威一郎であるが、彼と中曽根は海軍時代の仲間であった。


 1959年に中曽根が初入閣して長官となった科学技術庁は、長期的な原子力計画を立案し、その中で、核兵器選択への明確な関心を示していた。日本は当時、コールダーホール型原子炉から出る使用済み核燃料の再処理について、イギリスと低価格の契約を結んでいたが、国内に小型の再処理工場を建設する案も出されていた。この時、中曽根は「平和目的」の高速増殖炉用プルトニウムを供給するため、この工場の能力を二倍にすることを決定した。


 しかし、中曽根は1970年には、日本は核兵器の選択を否定すべきであると断言している。結局、中曽根もシュトラウスも、国民の多数意見を代表してはいなかったということなのだが、選択は生き残った。いまや、平和目的の原子炉から蓄積される大量のプルトニウムは、日本や西ドイツなどの諸国が一夜にして核保有国になり得ることを意味しているが、アメリカはこの決定的な10年間にそれを放置したままであった。50年代のアメリカの政策立案者は、自分たちのプラグマチズムを過信し、新しい核保有国が出現するのはずっと先だと安心しきっており、また、自らの交渉力によって、それを阻止しうると考えていた。しかし、その交渉力も50年代半ばがピークであって、重要な問題の解決を遅らせれば遅らせるほど、長期的なコストが多くかかることに気付いていなかった。かくして、「平和のための原子力」計画の短期的なPRの勝利は、危険にして、永続的な遺産を後世に残したのである。



【登場人物の整理】


(58) ロナルド・リヒター(オーストリア→アルゼンチン):えせ科学者(ペロンを騙す)

(59) ジェラード・コード・スミス(米):弁護士(国務長官補佐官。軍縮問題のプロ)

(60) 銭三強(中):物理学者(北京近代物理学研究所所長)

(61) 王淦昌(中):物理学者(原爆計画の責任者)

(62) 聶栄臻(中):政治家・軍人(原子力最高責任者)

(63) フランツ=ヨーゼフ・シュトラウス(独):政治家(原子力担当相、国防相)

(64) 中曽根康弘(日):政治家(正力の参謀格。科学技術庁長官)




第14章 第一氷河期 


 アオバエはアメリカ南東部にあっては、畜牛群のしつこい敵であった。ところが1958年、進取の気性に富んだ一部の政府職員が、アオバエにガンマ線を照射して、生殖不能にし、それをフロリダ、アラバマ、ジョージアの各州に飛行機でばらまいた。18ヶ月後、この去勢された雄バエは生存競争に勝って、去勢されていない雄バエを9倍も上回ることになった。そして、1959年末までにアオバエはこの三州から完全に一掃された。


 この放射線によるアオバエの駆除の成功は、原子力平和利用の流れの中で高い評価を受けた。これに刺激されて、人工同位元素の新しい利用方法がいろいろな分野で試され、放射線を照射するだけで、三種類の新種の豆類、病気に抵抗力を持つ二種類のからす麦、冬をより良く過ごせる大麦、花弁は少ないけれど長持ちするカーネーションなどがつくられた。また、放射線を受けたイチゴ、ある種のオレンジ、プラム、ネクタリンなどが腐りにくくなって長持ちすることも発見された。


 これらの核利用の新しい可能性は、これからの未来は原子力なくしては語り得ないとする、科学的というより宗教的な信念に満ちた雰囲気に支えられ、次々と新しいプロジェクトを生みだし、信じられないような多額の予算を獲得していった。


 1946年に開始された原子力航空機のプロジェクトは、上下両院合同原子力委員会(JCAE)の寵児だった原子力潜水艦を引き写しにした計画であったが、空軍の戦略爆撃機派の情熱の対象となった。操縦室のカウボーイ、カーチス・ルメイ(37)に率いられた彼らは、原子力を動力とする航空機から原子爆弾を投下するという夢に酔い、原子力爆撃機を、騎士道にもとる無人ミサイルの脅威に対する回答とみなしていた。


 しかし、原子炉から出る強力な放射能からパイロットを守るためには、それを十分に遮るだけの密度があって、なおかつ離陸できるぐらい軽い素材が必要であったが、そんな物質などあり得るはずはなかった。また、放射性の核分裂生成物が排気口から絶対に漏出しないようにすること、さらにもっと根本的な問題として、原子力航空機が墜落した場合、放射能を帯びたエンジン部分はどうなるのか、という問題に対する解決策は見つかりそうもなく、結局、この計画は、空軍の執着にもかかわらず、10億ドル以上の税金を浪費した挙句、頓挫した。


 一方、ソ連も新たな原子力の奇術を産み出すことに熱意を燃やし、1959年に原子力砕氷船レーニン号を進水させたが、これは、後にさらに二隻建造されたことからみて、成功だったようである。


 同じ頃、アメリカも原子力貨物船「サバンナ」を建造し、その姉妹船として、西ドイツの「オットー・ハーン」と日本の「むつ」が建造された。しかし、これらの船舶にはあまりにもお金がかかり過ぎ(「サバンナ」は年間300万ドルの補助金を受けていた)、そのうえ、全く不必要なものであった。なぜなら、原子力潜水艦とちがって、公海上を無限に走り得る貨物船、つまり、幽霊船「さまよえるオランダ人」の再来のような貨物船が演じる役割など何もなかったからだ。


 また、アメリカでは、「プルート計画」「ローバー計画」「プードル計画」という名の、核推進ロケット開発計画が次々と立てられた。しかし、有害な放射性物質でいっぱいの排気ガスが発射場周辺に住む人々の頭上に降り注ぐのを防ぐ術を誰も見つけられず、20億ドルの金を費消したのち、中止された。(いまだに、その心配のない宇宙ステーションからの打ち上げに希望をつないでいる人々もいるが。)


 そのほか、1957年には、アメリカとソ連で、核爆弾の破壊力を利用して、山を動かし、河川の流れを変え、港湾や運河を掘るというプロジェクトが考え出されて、一連の実験が行われたが、残留放射能も含めた、より完全な原価計算が要求されるようになると、その熱も冷めていった。


 結局、これら様々な原子力利用計画の結果分かったことは、原子力の優越性は限られたものだということである。つまり、アオバエの撲滅には成功しても、ミバエや、とうもろこしの害虫アワノズイムシなどには効き目がない。放射線でオレンジは保存できても、レモンは駄目。潜水艦や砕氷船には役立つが、貨物船、航空機、ロケットは無用の長物、といった具合である。しかし、この事実を冷静に受け止める者はほとんどおらず、原子力に伴う「進歩的」イメージが、効用のないことに途轍もない資金を浪費させた。


 原子力発電においても、各国の推進者たちはその盲目的な自信から、途方もなく楽観的な計画を予告したが、そのどれ一つとして目標を達成できず、1950年代末は、後に彼らが名付けたように、原子力の「第一氷河期」となってしまった。


 1956年5月、コールダーホール動力炉の開設祝賀式典が、イギリス女王を迎えて執り行なわれた。黒鉛減速・ガス冷却方式で、電力供給よりプルトニウム供給を主目的として設計されたこの原子炉を基礎として、1955年に作成されたイギリス最初の発電計画は、今後10年間に200万kwという比較的控え目なものであった。しかし、1956年10月に勃発したスエズ動乱による石油供給の不安定化と慢性的な石炭不足に対する大胆な対策として、イギリス政府は翌57年3月、原子力発電の目標を三倍増して、600万kwするという政策を打ち出した。


 この劇的な発表に西側諸国は仰天した。しかし、その中には、日本やイタリアのように、イギリスがそう言うからには、きっと核の将来はバラ色に違いないと確信して、取り急ぎ、コールダーホール型原子炉を買い入れた国もあった。


 当時、イギリスの原子力計画の中心にいたのは、のちに「イギリス原子力の父」と呼ばれたクリストファー・ヒントン(38)である。


 田舎の校長の息子として、1901年に生まれたヒントンは、地方の名もない身分からケンブリッジ大学に進むために、16才のときに鉄道の鉄工所の見習い工になるなど苦学しなければならなかった。しかし、大学に入学後は順調に出世し、23才でイギリスの化学大企業ICI社のアルカリ部門主任技師となって、そこで同社の有名な会計・経営慣行を学んだ。戦時中は、弾薬工場の全国ネットワークをつくりあげることで、経営上の価値ある経験を積み、戦後、将来を約束された民間企業での地位を打ち捨てて、原子力の世界に飛び込み、政府のために働くことになった。


 彼は極端に自信の強い人物で、10年間にわたって、容赦ない、権威主義的なやり方で科学者、技術者、産業人、官僚らを酷使したため、多くの敵をつくったが、他方、プロであり、現実主義者であった彼は、原子力の「バラ色の未来」に惑わされない慎重な人物でもあって、1957年の三倍増の計画には反対であった。


 1957年計画に反対したこともあって、ヒントンは原子力公社(AEA)を去って、新設された国有電力企業、中央電力庁(CEGB)の長官となったが、57年計画は、ヒントンが懸念したとおり、次の三つの要因によって、行き悩み状態となった。その第一は、石炭、石油の在来燃料との大きなコスト差、第二に、プルトニウムの価値の下落、そして、第三が金利の上昇であるが、1957年10月10日、ウィンズケールのプルトニウム生産工場で世界最初の原子炉事故が起きて、「安全性の問題」が第四の要因として大きく浮上してきた。


 原子炉の炉心(ウラン燃料棒を封じ込めた部分)が火を噴いた、ウィンズケールの事故は、これ以後、似たような繰り返しをみる、典型的なパターンの嚆矢となるものであった。この場合の唯一の手段は、通常の水で炉心を鎮めることしかないが、技師たちは、その時、炉心に爆発性の水素が発生して、全体を吹っ飛ばしてしまうのではないかと懸念した。結局、注意深く水を注入することで、付随的事故を起こすことなく、すべてはうまく片付けられたが、炉心が燃えている間に、大量の放射性同位元素(とくにヨード131)が大気中に放出された。


 イギリス政府はこの事故についての完全な公式報告を一度も公表していないが、ヨード131は工場周辺500平方キロの範囲を汚染し、そのため、200万リットルの牛乳が川や海に投棄処分され、原子炉は永久に閉鎖された。


 ウィンズケール事故は、アメリカの原子力発電計画にもブレーキをかけるものとなった。 それまでにも電力各社は、技術的な不確実性、在来燃料よりもはるかに高い資本コスト、それに加えて、安全性に対する不安のために、原子力発電を推し進めることに二の足を踏んでいた。そこで、AECは、その不安を鎮めるために、1957年、原発事故を想定し、その被害を計算した「ブルックヘブン報告」を作成した。ところが、その中に、「最悪の場合(即ち、炉心が溶融した場合)」として、死者3400人、重症者4万3000人を出す放射性物質の放出と、70億ドルの資産被害が描き出されていて、この可能性は皆無に近いというAECの説明にもかかわらず、かえって電力会社を怯えさせるものとなった。

 また、議会でも、原子力推進派の議員によって、原子炉事故に対する電力会社の補償に限度額(6500万ドル)を設け、それを超える補償は5億ドルまで国家が肩代りするという「プライス=アンダーソン法」が、56年9月に成立していたが、電力各社は容易に腰を上げようとはしなかった。そして、その1ヶ月後に起きたウィンズケール事故がその駄目押しをしたのであった。


 AECは、以後、目を海外に向け、年間2000万ドルにものぼる米政府の補助金をつけて外国に原子炉を売り込むよう方針転換することになる。


 ウェスチングハウスとGEは、原子力発電に冷淡な国内電力企業への売り込みをあきらめて、電力のコスト高に直面しているヨーロッパに市場を求めた。

 ヨーロッパは当時、その政治・経済統合に情熱を燃やしていた最中で、フランス国鉄のルイ・アルマン総裁(65)のように、原子力を核としてヨーロッパを統合しようと考える人々がいた。複雑な利害関係のしがらみの中で微妙に釣り合いを取らねばならない石炭や鉄鋼に比べて、既得権益がほとんど確立されていない原子力は、はるかに容易に統一の基盤となるように思えたからである。そして、1957年1月の西ヨーロッパ6ヶ国外相会議で、共同の原子力施設をつくることが合意され、アルマンらの三人委員会が結成された。3月には、ユーラトム(欧州原子力共同体)条約が調印されて、翌年1月に正式発足の運びとなった。


 アルマンらは直ちにアメリカに渡って、各地の原子力施設を視察し、1957年5月にその最終報告「ユーラトムの一つの目標」を公表した。そこでは、アメリカの軽水炉技術の先進性が強調され、その支持を受けて、10年間に、6ヶ国の総電力の1/4に相当する1500万kwの発電能力を達成する目標が掲げられていた。


 しかし、ユーラトムがアメリカの開発計画と強く結びつくことに対しては、フランス原子力庁(CEA)から強い反発が起きた。CEA委員長のギヨーマ(48)と同じ「鉱山組」のメンバーであるアルマンは、ギヨーマの支持を期待していたが、ギヨーマはCEAのガス黒鉛技術に十分に満足しており、ヤンキーの技術上の帝国主義とは如何なる関係を持つことも好まなかった。


 また、西ドイツでも、自立した核技術を追求するウィナッカー(53)は重水炉に焦点を合わせていた。もっとも、この重水炉は、ヘキスト社が撤退したのち、ジーメンス社に受け継がれて、バイエルンに1基建設されたが、様々な困難に苦しめられてのち、1974年、3億5000マルクの巨費を費やした末、閉鎖された。


 こうして、ユーラトムの壮大な構想は宙に浮いて、2年後にはその発電目標を半減しなければならず、結局、ベルギーに2基、イタリアに1基の計3基の原子炉の建設をみただけであった。しかし、それでもアメリカの軽水炉技術はヨーロッパに大きな足掛かりを得、これ以後、フランス以外は、ガス黒鉛炉から軽水炉システムへと徐々に転換していくことになった。


 ソ連においても、1957年頃ピークに達した原子力平和利用についての楽観論の爆発のあと、スランプがやってきた。1955年のジュネーブ会議の熱情を受けて組まれた、世界でも最も野心的な核計画は、1959年までに急速に下方修正されたが、その大きな原因は、ウラル地方での悲惨な核事故と、核技術者兼行政官(即ち、「赤いスペシャリスト」)の権力の失墜であった。


 ソ連の公式文書は、原爆計画初期の放射線防護基準について、不吉な沈黙を守っている。しかし、あるドイツ人難民は、その頃、東ドイツのザクセンのウラン鉱山で実施されていた原始的な保護基準に注意を喚起しており、また、アメリカ情報機関も、初期のソ連原子力潜水艦での水兵たちの死に関する恐怖物語の未確認情報を多数集めていた。そして、1968年になってようやく当局者が、1946~48年に作業員の一部が放射性の白内障に罹っていたことを明らかにしたが、これを聞いた西側の専門家たちは愕然とした。というのは、白内障は広島、長崎で何とか生命を取り留めた被曝者たちによく見られたもので、200レントゲン以上の放射線を受けなければあらわれない症状だったからである。


 1957年2月には、核計画の最高指導者マリシェフ(51)が放射線被曝が原因の白血病のために死亡して、クレムリンを戦慄させたが、さらに悪いことがそれに続いて起った。正確な日付はわからないが、1957年12月、または翌年1月頃、西側で世界最悪の核事故と受けとめられている事故が、ウラル南部の主要都市スベルドロフスクとシベリア平原の端にあるチェリャビンスクの間で起きたのだ。


 ソ連領内で死の灰に関する重大な事故が起きたらしいという最初のニュースは、1958年4月にデンマークから伝えられたが、AECのストラウス委員長(38)は、そのような情報はない、と否定した。しかし、翌5月には、アメリカの宣伝機関「自由ヨーロッパ放送」傘下の、ミュンヘンにあるソ連研究所が、ソ連の医学雑誌や一般雑誌の関心が異常なまでに、放射能による疾病に向けられていると指摘、とくに、1月9日のモスクワ放送がそれについて大きく報じ、可能な予防措置を詳細に述べたとして、事故の時期をも示唆した。


 この事故はその後、約20年間忘れられていたが、1976年11月、ソ連の亡命生化学者ジョレス・メドベージェフ(66)が、フルシチョフによるスターリン批判20周年を特集したロンドンの科学雑誌から求められた論文の中でこの大災害に言及した。それによれば、その原因は核爆発ではなく、放射性廃棄物の化学的な爆発だった可能性が強いということだった。


 1976年当時、原子炉から出る廃棄物の処理が大きな問題になっていたため、メドベージェフのこの発言は大いに物議をかもし、イギリス、フランス、アメリカの専門家たちは競うようにして、これを否定した。しかし、貯蔵された核廃棄物が特殊な環境下で「爆発する」可能性があることは、1972年のAEC報告の中で既に触れられていた。底のない壕に捨てられたハンフォードの低レベル廃棄物が、高度に濃縮されたプルトニウムの層をつくりだしていたのが発見されたからである。これが豊富に水分を含んだ土壌にしみこむと一連の連鎖反応が起って、水蒸気となり、泥火山タイプの爆発を起こす可能性があった。


 結局、ウラルの大事故はCIAによって確認され、ソ連の技術出版物の中からも、それに関連すると思われる記事が続々と見つかった。その数は1966年~79年の間で115にのぼっている。その中でも、イレンコという学者の研究は、クイシツムの町の近くと推定されるある湖がストロンチウム90によって高濃度に汚染されていることを示唆していた。


 クイシツムはピョートル大帝時代からロシア兵器産業の中心であったが、1948年、プルトニウム生産の秘密工場を建設するため、住民は退去させられた。ソルジェニーツィンによれば、この工場を建設した囚人たちは、秘密保持のため、刑期を終えても帰宅を許されず、シベリア極北にあるコルマ川の収容所に移されたという。しかし、彼らはクイシツムに残った者と比べれば、まだ運が良かった。


 ソ連からの移住者の話によれば、事故後、何日も経ってから退去命令が出され、クイシツムに通じる道路は9ヶ月にわたって閉鎖された。その間、付近の病院は超満員になり、ホテルや保養所などが急遽、医療センターに転用された。2年後にクイシツム付近を車で通りかかったソ連のある物理学者は「その一帯は未だに死の町のままで、今後、数百年にわたって何の役にも立たず、何を生産することも出来ないだろう」と述べている。


 このウラルでの破局的事故は、その直前のスプートニク打上げ(57年10月4日)で最高度にまで高まっていたソ連科学者たちへの政治的評価を明らかに低下させ、それに「赤いスペシャリスト」と呼ばれる原子力エリートたちの失脚が重なって、原子力発電計画は大きく後退してしまった。


 スターリンの庇護のもとでソ連の階級組織の中をのし上がってきた「赤いスペシャリスト」たちは、フルシチョフによる1956年の「スターリン批判」キャンペーンには反対の立場をとった。彼らは、かつてスターリンが党組織を完全に支配していたことから、党を手続き的な権力しか持たない、立憲君主制下の官僚機構のようなものだと思い込んでいた。しかし、それは誤算であった。


 1956年末、彼らは党政治局内に、重要テクノクラートで構成される「経済内閣」を創設し、翌年6月、これら政治局多数派はフルシチョフ罷免を試みた。これに対して、フルシチョフは党の中央委員会総会に訴えるという前例のない措置をとった。そして、軍の輸送力の支援を得て、全国から中央委員を急遽モスクワに招集し、その結果、テクノクラート一派は逆に「反党グループ」として非難され、罷免された。フルシチョフのこの勝利は、西側議会制度でいえば、行政府に対する立法府の支配の再確認に相当するものであった。モスクワにあった25の強力な中央経済官庁は廃止され、数千人の経済官僚が地方に左遷された。そして、フルシチョフが権力を握っていた期間中は、原子力発電の拡大については議論さえ行われなかった。



【登場人物の整理】


(65) ルイ・アルマン(仏):国鉄総裁(ユーラトム=欧州原子力共同体創設)

(66) ジョレス・メドベージェフ(ソ):生化学者(亡命中にウラルの大事故を暴露)




第15章 放浪者たち 


 水爆製造のカギを握るのは、原爆とちがって、材料の問題ではなくて、設計の問題であった。基礎成分をつくり出すのは比較的容易で、それは水素同位元素の混合の中で巨大な爆発の引き金となる1個の原爆である。問題は、原爆が爆発したあと、200万~300万分の1秒の間に、数百万度という超高温と何千気圧という超高圧を生み出すことができるように、原爆に対して、いかに同位元素を配列するかであった。核分裂からの衝撃波が水素同位元素を高密度の小さな固まり(たぶん、1万分の1ミリ)に変える引き金となる。これが“熱核燃焼波”のミステリーを動かす核心であるが、構成部分の形態とタイミングが絶対的に完全でない場合には、融合が燃焼を起こすことはあっても、爆発には至らない。 これらの問題の解決法を、ともに50年代の初めに発見したのは、ハンガリーからアメリカに亡命してきたエドワード・テラー(42)と、22才でソ連科学アカデミーの最年少の会員となった、背の高い、金髪のモスクワっ子、アンドレイ・サハロフ(67)であった。


 テラ-は1908年、富裕なユダヤ人家庭に生まれたが、この環境は、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊に続く社会的大動乱で逆転してしまった。彼は1920年代にハンガリーを離れて、ドイツ物理学界の知的な旋風の仲間に入ったが、1933年、ナチスによってそこも追われ、デンマーク、イギリスを経て、1935年、アメリカに渡り着いた。そして、彼はジョージ・ワシントン大学に職を得、次いで、ロスアラモスのマンハッタン計画に参加する。


 テラーは自分の考えについて独り善がりの自信を抱き、それはしばしば他人の目には尊大さと映った。そのため、彼は高校時代から仲間たちの集団的軽蔑と揶揄の格好の対象とされたが、彼は少しも変らなかった。


 彼は常に、あたかも他者によって拒絶されることを期待しているかのように振る舞い、その徹底的に非協調的な態度に、ロスアラモスの理論部門の長であったドイツ人物理学者ハンス・ベーテ(68)はしばしば激昂した。仲間から排斥されたテラーは拗ねて、ロスアラモスでの時間を水爆研究に費やした。


 戦後、彼は、そのペット・アイディアである水爆が実現性のないものと見做されたことから、ロスアラモスに留まることを拒否した。水爆研究のゴー・サインが出たときでも、彼は他の誰かの下で働くことを嫌がり、短期間ロスアラモスに戻ったものの、プロジェクト完成の前にそこを離れた。彼はロスアラモスをひどく憎み、カリフォルニア大学バークレー校のアーネスト・ローレンス(19)とともにAECを説得し、カリフォルニア大学にリバーモア放射線研究所を設立させることに成功した。この研究所は最初、「テラーの研究所」として喧伝されたが、このつむじ曲がりの科学者は数年間にわたって、そこに行くことも拒否した。


 テラーの行き過ぎを知的な尊敬の故に耐えることができた、同僚のエンリコ・フェルミ(8)は、テラーを「いくつもの妄執にとりつかれた偏執狂」と評したが、中でも、ロシア、あるいは共産主義に対する病的な恐怖感と、水爆に対する執着はことのほか強かった。彼はソ連をナチス・ドイツと比べただけでなく、ジンギスカン率いるモンゴルの略奪集団と同等のものとみなした。だから、彼にとっては、米ソの対立は、文明と名のつくあらゆるものを巻き込んだ決定的なものであって、それに勝つための究極兵器が水爆であった。


 ソ連恐怖症の将軍が勝手に出した出撃命令のために偶発核戦争が起こるという、スタンリー・キューブリック監督のブラックコメディー映画『博士の異常な愛情, Dr. Strangelove』(1963)に出てくる狂気じみた科学者のイメージは、ドイツ人のロケット技術者ウェルナー・フォン・ブラウンとテラーを意図的に混ぜ合わせたものだといわれている。


 水爆製造にあたっては、ポーランド人数学者スタニスラフ・ウラム(69)が最初に設計の構想を組み立て、テラーがこれを応用して実用的な水爆をつくりあげたといわれている。だから、アメリカ政府は水爆に関する共同特許権をこの二人に与えようとしたが、すべての功績は自分にあるとするテラーは、それに異議を申し立て、ウラムを憤激させた。こうした狂的な感覚は永遠にテラーについて回ったが、彼はそれを自分の宿命だと考え、逆境を食って肥っていった。


 テラーより13才若いサハロフは、1921年、革命と内戦の混乱からまだ完全に脱していないモスクワで生まれた。彼の父はベストセラーの教科書を書いたこともある物理学者で、彼の家庭は、リベラルで、無私無欲で、正直で、原則的という、ロシアの科学インテリゲンチャの伝統を引いていた。だから、生家が没落し、ミュンヘンでの市電事故で片足を失うという不幸にあったテラーとはちがって、サハロフの不満の起源は社会的なものでも、個人的なものでもなかった。


 サハロフは1942年、モスクワ大学を卒業してから3年間、軍需工場で働いたのち、1945年から47年まで、モスクワ・レベーダー物理学研究所の技術部門の長で、ソ連量子力学の指導的専門家であるイゴール・タムの下で、大学院生として研究に従事した。そして、1948年から、彼は公的活動から姿を消し、水爆製造の秘密計画に参加する。イラン国境近くのトルクメンと推定される秘密研究所で、とびきりの特権待遇を受けながら従事したその仕事について、彼はのちに「わが国と世界の勢力均衡のために超兵器を創り出すことの重要さに関しては、何の疑念も持たなかった」と述懐している。


 サハロフもテラーも精力的で、情熱的で、熟考型で、自分自身の理想主義に強い感受性を持った、特別に感性の強い人物だった。二人とも科学の進歩の究極的価値を深く信じており、自分自身を、人類の福祉と知的自由にコミットした、直進的で開放的で、無邪気でありさえする人間とみなしていた。


 しかし、水爆が完成してからの反応はまったく正反対で、テラーがそれを改良し、その利用が拡大されることを確実にするために邁進していったのに対して、サハロフは同じように決然としていながらも、自分が創り出した憎むべき武器の廃止を追求していった。

 

 でもいずれにしても、彼らはその観点と行動のために、最初その天才を称賛した社会から投げ出され、見捨てられた存在となる。テラーは多くのアメリカ人の目には「悪の権化」と映り、大学のキャンパスでは「戦争犯罪人」の烙印を押された。そして、サハロフは、彼があれほど熱心に守ろうとしたロシア社会に対する強力な批判者となり、西側では、ソ連内反体制派の象徴となったのである。


 1963年8月、大気圏内、宇宙空間および水中における核実験を禁止する、「部分的核実験停止条約」が、米英ソ三国によって調印されたが、それに至るまでの運動は、アメリカの水爆実験がもとになって始まった。


 1952年10月31日、「マイク」という暗号名の、世界初の水爆実験が行われたが、その爆発は、幅1マイルの太平洋上の島エルジラブ島を文字通り吹き飛ばしてしまい、その威力はTNT火薬10メガトン(1000万トン)、広島原爆の約1000倍と推定された。しかし、「マイク」は、起爆に先立って水素燃料を液状に保っておくために、二階建ての建物以上の大きさの、65トンもの巨大な冷凍工場を必要としていた。 1954年3月1日、マーシャル群島のビキニ環礁で実験された水爆「ブラボー」は、「マイク」の半分の大きさなのに15メガトンの威力を発揮した。しかし、それ以上に重要なことは、「ブラボー」は水素同位元素の固体、重水素化リチウム6を用いていたため、冷凍工場が要らないということであった。すなわち、大規模すぎて軍事目的に応用するには手に負えない装置であった「マイク」とちがって、「ブラボー」は飛行機やミサイルに搭載可能な形態で、兵器として実用化できるものであった。でも、それらよりももっと重要なことは、「ブラボー」実験が世界中に放射性降下物についての意識を持たせた実験だったということである。


 「ブラボー」はビキニ環礁の数百万トンという珊瑚を粉々にして、急速に膨脹した火の玉の中に吸い上げた。高度の放射能を帯びた珊瑚の微片は、渦巻きながら膨脹する白い雲に乗せられて運ばれ、東向きに変化した風にのって太平洋上を移動して、葉巻状の7000平方マイルの水域に降下しはじめ、マーシャル群島の島民たちに最高175レントゲンの放射能を浴びせかけた。


 パニック状態の中で避難が行われ、破局的な事態となったが、AECは現場がアメリカ本国から遠く離れたところにあることから、政治的には何とかできる問題だとタカを括っていた。


 ところがAECのそんな思惑をよそに、「ブラボー」の降下物は一隻の日本漁船、「第五福竜丸」の上に大量に降り注いでいた。第五福竜丸は危険水域と宣言されていた水域をわずかにはずれた所で操業していたが、風向きの変化が死の灰を運んできた。第五福竜丸が母港の焼津に帰港したとき、乗組員23人のほとんど全員が何らかのかたちで放射性疾患に罹っており、6ヶ月後に39才の乗組員が死亡したとき、東京の病院は死因を放射能によるものだと発表した。


 一夜のうちに日本人たちは、自分たちの核犠牲者について、それまで埋もれていた関心を甦らせた。10年近くの間で初めて、広島、長崎の生存者の現状が国民的な関心事となった。


 抗議運動はたちまち国際的なものに発展し、水爆の恐ろしい潜在能力についての情報が世界中に広がった。AEC委員長のルイス・ストラウス(38)は、非難の嵐を乗り切ることにあまりにも強い自信を持っていたため、第五福竜丸を、向こう見ずにも危険水域に足を踏み入れたと非難するとともに、記者団の質問に答えて、軽はずみにも「水爆は一発で大都市ひとつを滅ぼせるぐらい大型化できる」と語った。


 ストラウスのこの発言は世界的な反響を呼んだ。水爆は、原爆とちがって、世界の運命に直結しており、人類絶滅がもはや単なるサイエンス・フィクションではなくなったようにみえた。核戦争による死の灰がいかにして地球上の人間を滅亡させるかを描いた、ネビル・シュートの小説『渚にて』がベストセラーのトップになり、映画化もされて世界中でヒットした。


 イギリスでは、今世紀最大の哲学者の一人で、数学者でもあるバートランド・ラッセルが核戦争の危機を訴える宣言を起草した。この宣言には7人のノーベル賞受賞者が署名したが、その中には、ジョリオ=キュリー(4)、ハ-マン・マラー(57)、ライナス・ポーリング(70)らがおり、また、マンハッタン計画のきっかけをつくったルーズベルトへの書簡を深く後悔していたアインシュタイン(5)も、死の二日前にこれに署名した。


 たちまち国際的な注目を集めたこの宣言は「パグウォッシュ運動」の創設につながった。1957年7月、カナダのパグウォッシュで、鉄のカーテンの双方にまたがる10ヶ国、24人の著名な科学者が集まって、核兵器の脅威と核実験による放射線障害の危険について話し合ったが、この運動は以後数年間、軍拡競争に狂奔する米ソの、科学者間の唯一の対話の場であった。


 ロンドンのセント・バーソロミュー病院の物理学教授ジョゼフ・ロットブラット(71)と、アメリカの物理学者兼作家のラルフ・ラップ(72)は、それぞれ別個に、「ブラボー」からの破片を分析して、それが単純な分裂・融合装置ではなかったことを発見した。「ブラボー」の融合燃料の周囲は、巧妙にも天然ウランの層でもう一度包まれており、そうすることによって、より多くの放射性物質がつくり出され、爆弾をより一層汚いものにしていたのである。


 ロットブラットはこの事実の重大さのために、しばらく沈黙を守っていた。しかし、1955年2月のAECによる「ブラボー」からの放射性降下物についての公式報告があまりにもいい加減なものだったので、彼は自分の発見を公表することに踏み切り、その結果、人々の不安は最高潮に達した。


 一方、ソ連は、「ブラボー」実験の7ヶ月前の1953年8月12日に、すでに熱核装置を爆発させていた。この爆弾の規模は数百キロトンと、「ブラボー」の15メガトンとは程遠いものであったが、重水素化リチウム6を用いており、この点ではアメリカより先んじたものであった。さらに1955年11月には、メガトン級の水爆を飛行機から投下する実験にも成功し、サハロフによる水爆のための特別な原子配列がソ連によって初めて実用化されたことが判明した。


 ビタミンCを大量に摂取することが風邪の予防に有効であると熱心に唱えたことで有名なアメリカの化学者ライナス・ポーリング(70)は、マリー・キュリーを除いてただ一人、ノーベル賞を2回(1954年化学賞、1963年平和賞)受賞した人物であるが、彼は1957年、核実験禁止を求める科学者の国際的な署名運動を組織した。遺伝学者ハーマン・マラー(57)ら、48ヶ国、1万1000人以上の署名の1/3は生物学の分野からのもので、物理学者が比較的少ないことが特徴であった。


 華やかで独善的であったポーリングは、確たる科学的根拠がほとんどなかったにもかかわらず、核実験を継続した場合に引き起こされる先天性欠陥、白血病、平均寿命の短縮などについて詳細な数字を挙げた。その数字は、エドワード・テラーとAEC委員ウィラード・リビー(73)の挑戦を受けた。マンハッタン計画出身の化学者リビーは、テラーと同様、「冷戦」にイデオロギー的にコミットしていたが、考古学上の研究のために放射性炭素から年代を測定する技術を開発したことでも知られていた。


 リビーとテラーは、総計の数字よりも確率を問題とする方法を選び、影響が決定的でないと思わせるために「危険度」について語った。つまり、リビーによれば、人間が放射性降下物で被害を受けるよりも、雷に撃たれる「危険度」の方が高いというのである。


 また、彼らは、放射線は「自然現象」であり、「自然の」放射線は降下物の放射線よりずっと強いから、核実験に反対するのならば、その前に、海抜1マイルの都市デンバーから市民を移住させることを考えるべきだと主張した。


 しかし、テラーとリビーがストロンチウム90の危険度を過小評価していることが明らかになったとき、彼らの説得力はいくぶんか低下した。


 核爆発から大量に放出されるストロンチウム90は成層圏に打ち上げられるが、寿命が長いことから、地上に落下してきたときも依然として危険な放射能を出している。そして、それは、核爆発の起きた場所にかかわらず、世界中のどこにでも落下し、また、ラジウムのように骨にしみこんで、人体に蓄積していくため、20年後のプルトニウムのように、50年代の核の脅威の象徴であった。


 リビーは、ストロンチウム90が地上に降りてくるまでには最高10年かかり、人間の食物連鎖に入り込むまでに、雨や土壌や雌牛によって風化されて、人間の骨に到達するのはごく微量でしかなく、人間には無害であると強調した。

 それに対して、ラルフ・ラップ(72)は、その寿命の長さから見て、実験の50年後まで骨ガンを引き起こす可能性があり、さらに、大気はすでに世界が安全に吸収しうる量の15%のストロンチウム90を含んでいると反論、まもなく、ラップの方が正しいことが明らかになった。


 一方、テラーは、実験禁止ロビイに対する回答として、「きれいな爆弾」(今日でいう“中性子爆弾”)の構想を持ち出した。1956年の大統領選で核実験停止を争点にした民主党のアドライ・スチーブンソン候補に苦戦したアイゼンハワーは、早速、それに飛びついた。


 このテラーの新しい構想に対して、ポーリングは、それが放射性の炭素14をつくり出すという問題を持ち出して対抗した。「きれいな爆弾」が爆発すると、数百万という中性子が放出され、それが空気中の窒素と結びついて炭素14をつくり出す。この炭素の同位元素は非常に長い寿命をもち、数千年単位ではストロンチウム90よりも大きな影響が出るというものであった。


 このポーリングの抗議はサハロフに深甚な影響を与えた。すでに炭素14の潜在的な危険性に警戒心を抱いていたサハロフの懸念が、ポーリングの研究というかたちで西側から裏付けを得たのである。核爆発による放射能汚染の問題に責任を感じつつあった彼は、1958年、炭素14についての研究を出版し、その中で放射能には「敷居線量」がないということを繰り返し述べた。


 遺伝学はソ連では依然として極めて政治的な学問であった。悪名高いトロフィム・ルイセンコは、スターリンの、そしてその後はフルシチョフの政治的支援を得て、「後天的に獲得された特徴も遺伝する可能性がある」という自説を強制し、それに従わない者はことごとく粛清されていった。


 しかし、「遺伝する特徴は先天的なものだけである」というメンデルの正統的な遺伝学は、原子力関係の研究所の中では生き残っていた。爆弾計画の成功により政治の世界とも良好な関係を維持していた彼らは、放射線生物学の部門を設立し、物理学の同僚に対して放射能の脅威を訴える「地下プロパガンダ」と呼ぶキャンペーンを開始した。そして、1956年には、ソ連原爆の父、クルチャトフ(11)自身が放射能の影響を強調し、正統遺伝学の再興を訴える陳情書を、数百人の科学者の署名とともにフルシチョフに提出した。


 ソ連は1955年と57年の二回にわたって、国連で核実験の全面禁止を提案したが、そこにはその裏付けとなる査察については何も触れられておらず、西側は宣伝臭が強いとしてこれを拒否した。そして、進行中だった実験計画が完了した1958年4月になって、やっと米英ソの三国は、実験の自発的停止で合意に達したが、それも三年間しか続かなかった。


 1961年8月、ソ連が、その一時的禁止措置を破棄したとき、フルシチョフは科学者たちも挙ってそれに同意するよう呼びかけた。この時、サハロフはフルシチョフに短い抗議の覚書を送ったが、それに対して、フルシチョフはある会合で、サハロフはお節介な科学者だと、公然と反論した。


 「官庁は官僚的利害に基いて、技術的観点からはすでに不必要となっていた実験をひたすら続ける指示を出していた。爆発は極めて強力なもので、予定される犠牲者の数は厖大なものとなった。この計画の犯罪的性格に気付いた私は、これを停止させるために、絶望的な努力を行った。」とサハロフはのちに回顧している。


 サハロフとクレムリンとの最初の公然たる不和は1963年に起こった。彼は科学アカデミーの臨時会議で、ルイセンコの腹心の一人の入会申請に対して声高く反対した。アカデミーは異例の措置として、会員の全員会議を開き、その会員候補の入会を圧倒的多数で否決した。ルイセンコを支持していたフルシチョフは激怒し、サハロフは初めてソ連の新聞に公然と叩かれた。


 以後数年間、サハロフは兵器に関する研究を続けたが、その間に、それまでの特権や影響力を蹴っとばし、一方、迫害されている科学者の抑圧された魂と、その活動を知った。1968年、彼は初めての政治的著作『進歩、平和共存、そして知的自由』を出版したが、1ヶ月もしないうちに、彼は兵器の仕事から追い出された。彼は次第次第に人権問題に巻き込まれていき、1973年のノーベル平和賞に行き着くことになる。サハロフが自分のつくった超爆弾へのコミットメントから頑として遠ざかっていく間に、テラーの方はそれに対するコミットメントを深めていった。


 「人類はいまや、あらゆる人命を滅ぼす力を握った」と述べた、1961年のケネディ大統領の就任演説は、核に対する国際的な警戒心を反映したものであったが、その認識は誤っているとテラーは固く信じた。彼は、世界が核戦争から生き残れるとみていた。一般大衆が核兵器について誤ったイメージを抱いているとみなしていたテラーは、二つの点で世間を熱中させることに成功した。

 

 その第一は、死の灰に対する避難壕だった。彼はほんの僅かの金で、ソ連の全面攻撃の後も、90%前後のアメリカ人が助かると主張した。そして、彼の親しい仲間のリビーが鳴りもの入りで自宅に安物のシェルターをつくったが、それは二週間もせぬうちにボヤで焼失した。いまやパグウォッシュ運動の指導者の一人となっているレオ・シラード(1)は「このことは、神が存在することだけでなく、神がユーモアのセンスを持っていることをも立証した」とリビーらをからかった。


 その第二は、「きれいな爆弾」が「平和的」であり得ると主張したことであった。この爆弾を使って、山を動かし、運河を掘り、川の向きを変え、港を建設し、貯水池をつくり、岩石から石油や鉱石を分離できる。もし地下での爆発の熱を何らかの方法で地上まで導き出すことができたなら、電力生産に利用できるし、適切な地層の中で核爆発を起こせば、ダイヤモンドを量産することだってできる。


 これらの夢を語るとき、テラーはこのうえなく雄弁になった。そして、テラーのこれらの夢は結構長持ちし、以後20年間にわたって、核の世界での議論を混乱させることになる。つまり、経済的費用や副次的影響について真剣に考慮することなしに提示されたこれら核爆発の平和利用についての展望が、包括的実験禁止協定を結ぼうという動きが起こるたびに、また、核拡散を禁止するための技術的障壁を強化しようという試みが起きるたびに、それらに反対する材料として引き合いに出されたからである。


 広島、長崎にのこされた放射能の遺産は、トルーマンが朝鮮で小型核爆弾を使うことを阻止した。また、史上最大の破壊力を持つ水素爆弾は、ソ連も同じものを持っているが故に使用は不可能になっている。これらのジレンマの中で実際に核兵器を使うとすれば、「戦略」的な大型爆弾ではなくて、「限定された」戦場で使える小型の「戦術」核爆弾で、しかもより放射能が少ないものといえば、「きれいな爆弾」しかない、とテラーは考えた。 しかし、「限定戦争」を「限定」する方法をどうやって見つけたらよいのか、いったん最初の核兵器が使用されれば、他のより大きな核兵器が自動的にそれに続くのではないのか、という問題がある。1957年、戦術核兵器擁護論を唱えた著作ではじめて全米の注目を集めたヘンリー・キッシンジャーという、ハーバードの鼻っ柱の強い学者でさえも、1961年にはその撤回論を出版せざるを得なかったほど、この問題はその後も尾を引き続けている。


 テラーは依然として、ソ連に大きな恐怖を抱いていた。彼が自分の「きれいな爆弾」を擁護するときに用いた理屈は、ソ連もそれと同じ爆弾を追求しているというものだった。また、彼のソ連に対する猜疑心は一層強くなり、1958年からの一時的禁止措置の間もソ連がいんちきを働いているに違いない、例えば、直径数千フィートという巨大な穴を地下に掘り、小さな地震としてしか探知できないような方法で核実験をしているはずだと、強く主張した。そのため、核実験禁止が緊張緩和の第一歩になるという考えを持つ科学者のグループのリーダーで、ジュネーブ核実験停止交渉のアメリカ代表団の一員でもあったハンス・ベーテ(68)は、心ならずも、交渉の席上でそのテラーのばかげた懸念をソ連側に問い質すという「いかがわしい名誉」を与えられることになったのである。


 テラーは1960年代初頭まで核実験禁止に頑固に反対し続けた。しかし、当初、小型の戦術核兵器支持に傾いていた科学者たちも、テラーほど核爆弾の技術的進歩に確信を持たなくなり、そのかわりに、実験停止の政治的、象徴的意味合いを強調するようになってきた。1962年のキューバ・ミサイル危機と生々しく結びついた、米ソの究極的対決の恐怖が、相互不信のレベルをとにかく引き下げることを何よりも優先すべきだと彼らに思わせる大きな要因となっていたのである。


 査察をめぐって行き詰まりかけていた米ソ交渉で、クレムリンに打開策を与えたのはサハロフであった。彼は、実験禁止を比較的探知が容易な大気圏内のみに絞るという「部分核停」のアイディアを出したのである。その結果、東西の緊張は大きく緩和されることになったが、この方法は、それに続く「第二の措置」が全くない、軍縮の方法としてはかなり的はずれな、一時しのぎのものでしかなかった。


 すでに1950年代の半ば頃から、米ソ両国の分裂物質の生産が飛躍的に高まって、この両超大国の所有する核爆弾は、もはや、完全に検証し、監視するのは不可能なほど大量のものになっていた。そのため、60年代には「軍縮」交渉の焦点は、核爆弾そのものではなく、その運搬手段に移っていき、また、両国の指導者たちは「相互抑止を通じての安定」という教義に依存して、自分たちの核の兵器庫が前向きの平和維持の力だと信じ込むようになった。そして、問題なのは、自分たちが核の備蓄を増やしていく「垂直的拡散」ではなく、他国が核兵器を所有するという「水平的拡散」だとされた。地下核実験はより困難で、より高価につくため、「部分的核実験停止条約」は水平的拡散を防ぐには効果的だと考えられていたが、両超大国にとっては大して状況は変らず、例えば、アメリカ自身の実験計画は地下という制約にもかかわらず、むしろ加速されたほどであった。



【登場人物の整理】


(67) アンドレイ・サハロフ(ソ):物理学者(ソ連水爆の父。反体制派の象徴)

(68) ハンス・ベーテ(独→米):物理学者(テラーの同僚。緊張緩和派)

(69) スタニスラフ・ウラム(ポーランド→米):数学者(水爆の基本設計を構想)

(70) ライナス・ポーリング(米):化学者(核実験反対。放射能の危険性に警鐘)

(71) ジョゼフ・ロットブラット(英):物理学者(ブラボー水爆の汚染性を見破る)

(72) ラルフ・ラップ(米): 物理学者・作家(ブラボー水爆の汚染性を見破る)

(73) ウィラード・リビー(米):化学者(タカ派。テラーの盟友)



「第3部・1960年代」につづく


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