1973年の運動会



コラムの練習《せ》 

  1973年の「運動会」



 私がその6年一貫の私立男子校に就職したのは、1973年のことだが、そのとき、「生徒会指導委員会」という校務分掌に配属された。各学年から1名ずつ、計6名で構成されていて、高校生徒会を担う高2の先生がその「代表」となるのが習いで、その時は、国語科のA先生が担当されていた。この先生はじつに実務能力に長けた方で、面倒な仕事のほとんどをひとりでテキパキと片づけられて、私など、ただ、横で傍観しているだけでよかった。

 ところが、2学期に入った時、A先生から呼ばれて「体育祭の方、やってくれへんか」と言われた。当時、体育祭は、「学園祭」の一環として、2日間の文化祭の前日に行われていたが、文化祭で多忙極まるうえに、さらに体育祭も、というのは、さすがのA先生でも無理だったとみえ、いちばん若手の私に白羽の矢が立てられたようだった。

 クラスから1名ずつ選ばれた体育祭委員が集まる会に出てみると、すでに、A先生によって、その体制は整えられていた。委員長は、高1のF君、副委員長が、高3のK君。このふたりの名前は今でも憶えている。委員長が高1なのは、高2は文化祭で忙しくて、めぼしい人材がすべてそちらに廻っていたためだろう。すでに始まっていた会議の中身は、今年は「運動会」形式でやりたい、というものだった。

 かつては、体育祭といえば、各クラスが、丸太でやぐらを組んで応援合戦をするのが名物の華々しいものだったそうだが、文化祭と合体したあたりから、だんだんと縮小されて、近年は校舎の周りを走る「マラソン大会」になっているという。それでは、おもしろくないので、ぜひとも「運動会」を復活したい、というのだった。

 私は、この学校ではまだ1年目の新米で、また、担当していた学年が中2だったので、高校生の委員たちがなぜか「先輩」みたいに見えて、「指導」するどころではなく、ただ、彼らの要望を聴き入れて、それらが実現できるよう、できるだけ努力するので精一杯だった。

 今年は「運動会」でいくと決まり、A先生の了承も得られたが、いざやるとなると、長年の「空白」のために、「運動会」のノウハウが何もないのに、みんな当惑した。小学校時代の記憶を掘り起こしたり、当時の同級生を伝手に、他の高校の「運動会」のプログラムを入手したりして、とにかく、わが校の「運動会プログラム」を作成してみた。徒競走、リレーの他、障害物競走、ムカデ競走、玉入れ、借り物競走、綱引き、騎馬戦、棒倒し、と、いっぱしの種目を揃えた、堂々たるプログラムが出来上がったが、さて考えてみると、必要な用具がほとんどなかった。

 カタログで調べてみると、どれも相当な値段がして、とても買えそうにない。当時は「レンタル」などもなかった。途方に暮れて、みんな黙り込んでしまった時、ふと呟いたのは、副委員長のK君だったと思う。「買われへんねんやったら、作ったらええやん」

 材木や竹竿などを買ってきて、放課後に、手作りの「運動会用具」を製作する毎日がはじまった。高3はクラブ活動や文化祭は「引退」状態になっていたのだが、K君が頑張るので、それにつられて他の高3の委員たちも居残り、高3が残っているので、下級生もサボるわけにはいかない、という好循環が生まれて、製作は順調に進んでいった。ただ、綱引きのツナだけはどうしようもなかったので、学校を通して、近所の学校から借りてもらったように思う。

 そして、いよいよ体育祭当日。もともと、文化祭の「添え物」みたいな存在だったので、「予行演習」などもなく、いきなりの「ぶっつけ本番」だった。おまけに、前日雨が降って、水はけの悪いグランドの整備にヤキモキしたような憶えがある。

 進行は、体育祭委員が中心だったが、陸上部員のほか、委員長のF君が野球部員だったので、野球部の他のメンバーが大挙して手伝ってくれた。教師は出欠を取ると、あとは観客席で見物、体育の先生だけが競技進行に手を貸してくれた。

 本部の方はF君らにまかせて、私は、入場門の近くで、「招集誘導」の仕事をすることになった。運動会の進行をスムーズにやるうえで、もっとも重要なポジションがこの仕事で、生徒の体育祭委員だけでは手に負えないことになるので、ぜひやってくれ、とA先生に言われたからだった。

 まだ古い木造校舎が残っていた狭いグランドに、中高6学年はかなり過密で、生徒の待ち時間も長かったが、競技が始まると、みんな、どんどんと熱が入っていった。障害物競走やムカデ競走などの、手作りの「用具」はすぐに壊れてしまって、係りの委員たちはその修理に追われることになったが、何とか、競技は無事に進んでいった。

 クラス対抗リレーや教職員参加のパン食い競争など、大いに盛り上がったが、なんといってもクライマックスは、高校生の棒倒しだった。この種目だけは「学年対抗」でやったのだが、日頃の鬱憤をここぞとばかりに晴らす「乱暴者」もいて、終わってから、保健室がいっぱいになる、という事態になった。しかし、それが職員会議で「問題」になるということもなかった。

 一時はどうなることかとおもわれた「運動会」は大成功に終わり、以後、この形式が定着した。日程も文化祭から独立し、さらに中高分離へと、徐々に整備、発展していった。また、先生方が背広姿なのは、いかがなものかと、学校に要望して、全員に「トレパン」と体操帽を支給してもらった。その結果、運営に参加する先生方が増えていったのはありがたかったが、その分、何かと教師の「指導」が入るようになり、第1回の時のような、生徒が思う存分やりたいことができた「奔放なおおらかさ」が薄れてしまったのは、今にして思えば、残念な気もする。

(完)


【自註】

 この文章は、数年前、元勤務先の学校の同窓会関係の小冊子に寄稿したものである。短いものだが、それなりにまとまっていて、ある時期の、ある学校の雰囲気をよく表している、これなら、非関係者の方々にも読んでもらえるのではないかと思って、敢えて再録した。          (2018.11.18)



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