疎開先の徳島から終戦後まもなく帰阪したあと、しぱらくは城東区鶴見町というところにあった父の勤務先の社宅に住み、ちょうど私が小学校に入る直前に旭(あさひ)区森小路(もりしょうじ)に引っ越してきた。以後約二十年間そこで暮したのであるが、鶴見町が幼年期の原体験の故郷(ふるさと)とすれば、森小路および千林(せんばやし)という大阪市の場末の商業地帯は私の少年期、そして青年期の渾沌とした時代そのものであったといえるかもしれない。
 現在も両親はそこに住んでいて、私も月に一回位は帰るのであるが、そのたびに町のどこかが変貌しているのに気づく。以前は商店街などを歩いていてもそこに見る人々の半数以上は見知った顔のような気がしていた。しかし今歩いてみるとまるで他所(よそ)の町に来たかのようで、といって以前はよく知った町なのでかえって妙にくつろげず、やたら自意識が働いて、緊張に歪んだ自分の顔が見えるような気がする。かつて目になじんだ古い建物がいつの間にか取り壊され、いかにも当世風といった店舗やモルタル造りの狭苦しい文化住宅に建てかえられているのを見た時に起こる苛々とした感情はいわゆる故郷破壊に対する嫌悪感ばかりではない。これまでも町は日々変貌を重ねてきたのであるが、少なくともそれらは私の「了解内」にあったといえる。つまり、いわば私の「許可」を得て変貌していたのが、今や全く私に「無断で」変貌しているという苛立たしさ、そしてもはや私自身そうした変化(=歴史)に立ち会う権利を喪失しているという一種の寂しさである。要するにそこはいまや明らかに「私の町」ではなくなっているのだ。
 これはおそらく、私が現在その地を離れて「他所者」になっているという空間的な理由だけでは説明不足で、そこに時間的なものも設定してみなければなるまい。町を歩いているとやたら派手な服装の若者たちが目につくのである。そしてしばらくして、目ざわりなのはその服装の派手さなどというものではなく、その数の多さであり、より仔細に見れば、自分の周囲を歩いている人間のおそらく半数以上が明らかに私よりも年少の人間だと気づいて愕然とし、明るく屈託のない年少の人間たちに取り囲まれ、今や「年長者」の立場に置かれてしまっていることに「不覚」をさえ感じてしまう。いいかえれば、これまで自分が費してきた時間に対する空しさ、或いは「青春」という言葉に対するある種の無念さがこみあげてくるのだ。
 「町」とは本来、子供(=若者)のものであり、まわりに自分の年少者が増えていくにつれ、「わが町」という思いは薄れていくものなのだ。明るいアーケードの下の色とりどりの服装の波の中を早足で歩き抜けながら、私はいつしかそのような言葉を自分に言い聞かせていた。

 旭区といえば大阪市の東北端にあたり、北に淀川、東には守口(もりぐち)市と接している、いわば場末の地である。よく映画やテレビの舞台になる船場、丼池、北浜などのようないわゆる「大阪」的でもなく、キタ、ミナミみたいな盛り場的スマートさもなく、十三(じゅうそう)のような新興地としての規模の大きさもない。もともと北河内にあたり、私の子供の頃近所に住んでいたおばあさんなど、女だてらに自分のことを「わし」と言ったりする、柄の悪い河内言葉を喋っていたが、同じ河内でも八尾のようにローカル的にクローズアップされたこともない。しかしどの都市でも名の通った土地というのは氷山の一角で、大部分は無名の海の下に沈んでいるものなのだ。そして海面上でその特色の光彩をいっぱいに放っている有名地のその特色を人知れずしっかりと支えているのはこうしたありふれた無名の地なのである。
 もともと京街道の大阪の入り口にあたり、現在も京阪電車、国道一号線が通って交通は便利である。また、ある人によれば、大阪城から見て方位学上の「鬼門」にあたるので、「守口」という地名や、やたら小さなお寺が多いのはそのためだという。しかし方角が悪かったにもかかわらず、幸いこのあたりは戦災を免れた。そして市内中心地などで戦災にあった人々が終戦後どっとこの場末の商業地に雪崩れ込み、それが今日の千林、森小路の商店街の飛躍的発展の礎えになったものと思われる。
 千林は豊中の庄内、東住吉の駒川と並んで近頃では、大阪の三大商店街のひとつといわれ、古くからの商店と新興のスーパーが共存的に発展している安売りの名所で、寝屋川、枚方といった京阪沿線の住宅地からも多数の買い物客が毎日電車にのってやってくるが、そのスーパーの日本一「ダイエー」も実はといえば二十年前に京阪干林駅前に開いたささやかな薬・日用雑貨品店がその発祥である。また、最近ではキタやミナミのファッショナブルな地下街にも千林の商店がかなり進出しているらしく、こうしてみるとこのあたりの経済力も馬鹿に出来ないものがある。
 作家の野坂昭如氏も神戸で戦災に遭ったあと戦後の一時期このあたり(といってももう少し東寄りのようだが)に住んでいたらしく、例えぱ『焼跡魂』という小文に織田作之助の本を求めて、干林、森小路あたりの焼け残った古本屋をさまよったなどの記述があるが、氏の処女作『エロ事師たち』の舞台は実にこのあたりなのである。
 主人公の「スブやん」が住んでいるのは「千林から旧京阪で駅一つ先きの滝井」で、そもそも三流金銭登録機のセールスマンであったスブやんがエロ事師になったきっかけは「森小路の商店街にあるけちな文房具屋」で思いがけずエロ写真を所望されたことであった。
 そして物語はスブやんと伴的の二人が「いらわすちゅうので有名」な千林駅裏のトルコ風呂に入るところからはじまり、「まず女が買物にでかけるねん.....(中略).....この女、えらい欲求不満やねんな、それやから店屋でみるこう長細いもんな、それみてすぐに連想しよるわけや」というブルーフィルムの導入部を千林の雑踏で撮影したり、或いは「通勤ラッシュで、若い女と女のサンドイッチなってみたいいう」会社重役を連れて痴漢指南のため守口駅から京阪の各駅停車に乗せるがなかなかうまくいかず、仕方なくスブやん、重役の腕をとって自分の横にいる女のヒップに誘導しようと努力するうち、「森小路あたりで電車急ブレーキをかけ、乗客どどっと前にのめり、スブやんと重役の間に別の男が入りこんで、どうもこうもならん.....(中略).....スブやんあきらめかけると、そのヒップのあたりにもぞもぞうごめく掌があり、首をまわしてみるとこれは重役らしく至極御満悦の表情」
 確かに森小路駅はどうしたわけか複々線の真ん中にホームがあるため、線路がカーブしており、おまけにこのあたりは駅間距離がとくに短かいので、下手な運転士は停車の際にいつも急ブレーキをかけるのである。その他、「どや、かえってすきやきでもしようか、千林やったらまだ店あいてるやろ、肉買うていこ」というような場面は随所にある。
 もともと活字になることなど殆んどない地名がこのようにふんだんに出てくるのはこの本だけで、しかもそれらが的をはずしていないのが嬉しく、普通とば逆に、内側から食い破るような読み方をしたが、のちに今村昌平によって『人類学入門』という題で映画化された時はただ一ヶ所、それも夜タクシーで真っ暗な中を通る時、「森小路」というスーパーが出ただけで、舞台を何となくもっと西の、港に近い場所のような設定に変えてあったのは不満であった。
 しかし、この原作の舞台も私がいたところよりもう少し東の感じで、千林ほどの伝統もない、闇市あがり的な守口近辺のようである。スブやんの住んでいる滝井というところは正確には大阪市ではなく、守口市であり、この両市が接している千林駅裏界隈はいわばこのあたりのちょっとした暗黒街であった。
 「いらわすちゅうので有名」かどうかは知らぬが、かなり前から一軒くすんだようなトルコ風呂があり、狭い路地の飲み屋街のあちこちでは今でも夜の女が出没し、大小とりまぜてかなり多数の連れ込み宿などもありそうである。そのうえ、私の小学生時分には暴力団同士の抗争事件がよくあり、一般市民が間違って射殺される事件が起こるなど、とにかく評判のよくないところであった。
 しかしその辺も昼間歩いてみれば薄汚れた「特飲街」のすぐ横にはごくつつましやかな民家の鉢植えが並べられていたりして、子供の頃よく聞かされていたような「恐い所」とも思えない。また、一見して極道風の男が縁台に坐って子供をあやしていたり、昼間パチンコ屋の隣りの席で、髪を染め爪を塗った水商売風の女が玉を弾いていたりすると逆に親しみさえ感じ、歓楽街も立派な商業として町の中の必須の構成員だという気がする。
 ヤクザといっても映画で見るようにドスを振りまわして派手な出入りをしているばかりではなく、平素はそれなりに商売をしていて、ただその商売が一般とは趣きを異にしていたり、法律に反していたりするだけではないか。とくに千林のような古くからの商業地ではそれが完全に根付いてしまって表面にあらわれず、私の幻想ではいつもにこやかな商店のおやじの着物の下には鮮やかな彫り物が見えるのである。
 しかし実を言えば、私はこのあたりのことはよくは知らないのだ。「禁断地帯」という幼い頃植えつけられたイメージのためではなく、通っていた小学校と校区が違っていたためである。
 子供にとって世の中とは狭いもので自分の家の近所や学校の同級生たちが住んでいる地域はまるで自分の庭のように知悉しているにもかかわらず、校区という境界線の向こうは全くの未知の世界なのだ。そのコントラストの鮮やかさは時によっては大きな恐怖の源泉となり、向こうの地に住む自分と同年配の子供たち、或いは自分とは違った制服、制帽に、まるで夷狄(いてき)に対するのと同じような不気味さを感じたりするのである。
 例えば淀川の堤防を歩いていて他校の生徒にからまれ小金をまきあげられた、という事件があると、そのニュースはたちまちにして校内に拡がり、中には訳知り顔であることないこと大仰に言う者がいたりして噂に尾ヒレがつき、その結果その他校に対して、とんでもない暴力学校という烙印を押してしまったりするのだが、よく見れば自分の学校にも油でテカテカの帽子を被ったマンボズボンが闊歩(かっぽ)し、また、自分のポケットに手を突っ込んででみれば、玩具がわりの飛び出しナイフが入っていたりしかねない。
 小学校から中学、高校と進むにつれてそういう他校の生徒と合流し、彼らと親しくなってみてはじめてそれまで抱いていた恐怖心の大部分が空想の産物でしかなかったのに気がつくのだが、例えば、入学式前の事務的な登校日に、他校の制服と同じ運動場に並んだ時など、緊張と好奇心で激しく胸がときめいたりするのである。

 ちょうど小学校入学前に引っ越してきたために幼稚園には行けず、そのまま慣れない土地で学校という集団社会に入ったため、最初はかなりどぎまぎしたように思う。この地で生まれ育った同級生などは入学式の時から近所の友達や幼稚園仲間とはしゃぎまわったりして、それを横目で見ているのは羨(うらや)ましく、また心細いものであった。しかし、そのうち友達も増え、結局は学校を通じての友人関係が唯一最大のものとなるのだが、その過程で私の世界から消えていった友人関係のことも述べておかねばなるまい。
 私が住んでいた家の前の通りは商店街から脇に少し入ったところで、現在では商品を搬入する車などの往来が激しく、うかうか歩いておれぬほどだが、私の幼いころはまだのんびりしていて、道路は子供の遊び場であり、夏など縁台を持ち出して大人も子供もゆっくりと夕涼みをしたものである。
 私の家の裏手の長屋には年下の男の子がおり、私の向いには2~4才年上の兄弟、そしてその弟の同級生である洋裁店の息子、商店街の時計屋の息子、私の家の並びにはかなりの酒乱の人がいて酒が入るといつも窓から身をのり出して通りがかりの人に罵声を浴びせるので有名だったが、その息子の二人兄弟など、日が暮れると街灯の下のいくつかの縁台に集ってきた。
 それぞれ年令もいろいろなので昼間はそう一緒には遊ばないのだが、夜、街灯の下で将棋やトランプをしたりすると、不思議とそういう隔たりはとけて、日頃あまり口を聞いたこともない大人たちまで一緒になって軽口をとばすほど和気あいあいとなる。人数が少ないと「本将棋」、多ければ「回り将棋」や「かえる跳び」、将棋の駒の「山崩し」というのもあった。
 トランプでは「七並べ」「ババ抜き」「ダウト」などをやって、勝負がつくと手を順番に台の上に重ね、一番勝った者がそれを上から叩くという「罰ゲーム」をよくした。
 また、近所にからだを壊して療養中の人がいて、いつも子供にまじって本気になってゲームに興じ、機嫌がよいとアイスクリームをみんなに買ってくれたりした。
 まだテレビなどない時で、外で遊ぶのだけが楽しみの時代だったから、昼間でも、年上の連中はキャッチボール、私たちはコマ回しやラムネ(ビー玉)などをして遊んだ。こういう子供の遊びの世界には必ず器用な名人がいるもので、酒飲みのオヤジさんの下の息子のSちゃんというのなど、私よりも年下であったが何をやらしても達者で、いつもそのコツを教えてもらったものである。
 結局こういった遊びは学校で教わるスポーツ的なものにとってかわられるのであるが、憶えているだけでも、その他「釘さし」「陣地とり」「べったん」などが、それぞれ様々なバリエーションをもち多彩であった。「ラムネ」「べったん」など賭博性のものは学校で禁止されていたにもかかわらず、家に帰るとかなりおおっぴらにやっていたが、一世を風靡したといわれるバイ(べーゴマ)は既に完全に弾圧されたあとで、私たちは一度もしたことがない。
 こういう遊びの道具などを売っている駄菓子屋(私たちは「一文菓子屋」といっていた)が町内には必ずあり、私たちのは、顔が長くてヒゲの濃い、当時プロ野球で活躍中の小鶴誠に似たおっさんの店で「おっさんとこ」と呼んでいたが、五円、十円を貰った子供たちの集まる社交場のようなところであった。
 「おっさんとこ」は子供にとっては玩具の宝庫のようなもので、取り澄ました表通りの玩具屋よりもよく繁盛していたようだ。軒下を借りたような狭い店の中には、普通の菓子屋にはないお菓子がいっぱい並べられていた。
 口の広いガラス瓶の中には飴玉類やスルメのフライ、四枚五円の薄い醤油を塗った丸いせんべい、そして氷を放り込んだ水桶の中にはラムネ、蜜柑(みかん)水、林檎(りんご)水、ガラス管に入ったゼリー、瓢箪(ひょうたん)形のゴム風船の中に色の付いた甘い氷の入ったのがあって、その先をハサミで切って吸っていると長持ちするので私は大好きだったが、不衛生だとよく母や姉に叱られたものである。遊び道具では、べったん、ラムネ、コマ、ゴムまり、水鉄砲、大根鉄砲、ゴム鉄砲、それに金魚すくいもあり、さながら夜店のおもしろいものを全て集めたようなものであった。
 その他種々の「当てもの(=くじ)」があった。四角い二枚合わせの紙を揉んで中を開くのや、束になった薄い紙をちぎって舌でペロリと舐めるのや、何が入っているかわからぬのが楽しみの「宝袋」などもあった。景品はお菓子、おもちゃなどで、今から思うと実に他愛ないものが多かったが、子供の夢を満足させるものばかりであった。
 映画のブロマイドくじも人気があった。当時大流行の東映時代劇の中村錦之助、東千代之介、大友柳太郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門などが主流であったが、束になった新聞紙製の袋をひくのである。その中には名刺大のブロマイドが入っていて、当たりなら裏に一等、二等などとゴム印が押してあり、壁の台紙に貼ってある大小いろいろなブロマイドが景品となっていた。一等はB4版大の大きな写真でひとつのくじに二枚ほどしかなく、めったに当らないので、当ったあとの空所には商店街のくじ引きのように当選者の名前が書いてあった。
 おっさんの自宅はどこか遠いところにあり、毎朝自転車にブリキ箱を積み、その中にいろいろ子供の喜びそうなものを仕入れてやってくる。そして日が暮れるとその自転車に乗ってどこへともなく帰っていき、その間、せいぜい小学生位までの小さな子供を相手に細かい商いをするのだが、子供好き、という言葉を聞くとこのおっさんのことを思い出す。自身子供のようにはしゃぎまわったりする嫌味もなく、いつも物静かに笑みをたたえ、店にくる子供の名前は殆んど憶えていて、また、小さすぎたり、おとなしすぎて碌(ろく)に買い物も出来ぬ子供にはとくに親切で、まるで子供が好きで好きでしようがなくこの商売をはじめたという感じの、今から思えば、神様か仏様のような人物であった。
 当時からもう既に20年以上、その間、私の姉の子供たちも遊びにきた折り、よく「おっさんとこ」へ小遣いをもって走っていたが、彼らももう大きくなって「おっさんとこ」を卒業してしまった現在もおっさんは健在で、相変らずの商売をしている。前を通りがかった時ちょっとのぞいてみると、以前ほどの商品の多彩さはなく、食べ物も大メーカーのものが増え、それだけ客もまばらであったが、おっさんは少し老けただけでそれほど変ってはおらず、小遣いをもった幼児を相手に商売していた。
 一時、日光写真というのも流行った。木や紙で作った額縁のような写真機に名刺大の印画紙とフィルムを重ね、直射日光に半日ほどあてると印画紙にフィルムの絵が写る。乾式と湿式があったが、水につけるとくっきり青みがかった色で写る湿式の方が人気があった。「おっさんとこ」では日光写真のコンクールをやっていて、出来のよい作品には賞品を出していた。フィルムは透かし紙に映画スターや漫画の絵を陰画で印刷したもので、白黒のコントラストをつけるため同じフィルムを何枚もポマードで重ねたり、水につけたあとの仕上げをするのに、わざわざそのためにのみ薬局で消毒用のオキシドールを買ってきたりした。
 前の晩にていねいに写真機をセットして、学校へ行く前に、庭の日あたりのよいところへ置いておく。学校から帰ると急いではずして水につけ、オキシドールを塗る。ちょうど青焼きコピーと同じ原理なのだが、黄色っぽい印画紙を水につけ、オキシドールを塗ると青くなって、くっきりとした絵が浮き出てくる様は胸がわくわくする思いであった。こうして多数の作品から良いものを選んで「おっさんとこ」へもっていくのだが、上には上があるもので、「おっさんとこ」の大きな額ぶちの中に優秀作品として飾られることは並大抵なことではなく、その中に知った名前を発見したりすると羨ましくてならなかった。
 しかし、こうした近所の友達とも年がいくにつれてだんだん疎遠になり、学校の友達とのつきあいが中心になっていく。割りと多かった年長の友は中学に入ると、学校から帰るのも遅く、帰ってもあまり外に出てこなくなり、夏の夕涼みもだんだん寂しいものになっていった。中学に入って制服を着るようになるともはや子供ではないという雰囲気があって、急にみんな大人びて、別の友人を求めたりするのである。結局、「成績」という影が子供の世界の中に射し込んできて、そういう面での序列づけのかげりが表面に出はじめ、何となくつきあいにくくなってしまうのかもしれない。受験制の高校、大学と進学していくたびにいろいろな種類の友人が階層として切り離されて、例えば私などは上昇の歴史を歩んできたといえるかもしれない。そして最後に得た終生の友人のかげには消えていった多数の友人がいることにふと思い至ることが時々ある。
 私が中学に入った時、向いの兄弟の弟の方はちょうど三年生で、もう殆んどつきあいがなくなっていたが、学校でばったり出くわした時、油でテカテカの帽子を被り、細いズボンを穿き、きょとんとしている私を見て、何か照れ臭そうな微笑を浮かべた。私には少々ショックであったが、その驚きの結果、ますます疎遠にならずに、自分も秘かに帽子に油でも塗っておれば、私のその後の人生も現在とは違った模様を描いていたかもしれないが、それはどうしようもないことである。
 その頃世の中はようやく好況期に入り、「太陽族」「暴力教室」「ロカビリー」などがいろいろ物議をかもし、リーゼントスタイルにマンボズボン、アロハシャツの若者が町を閥歩していた時代であった。そういう雰囲気は私たちにもビンビンと伝わり、恐怖と憧憬の入り混った複雑な影響を与えていたが、テカテカ帽子に細いズボンというのはそういう影響の象徴であった。中学校全体も何かピリピリした暴力的な雰囲気が漂い、教師もカッとしてやたらビンタを振るうことが多く、また、学校の行き帰りなど上級生と視線が合うと「面切った」と因縁をつけられ、殴られたり、小金を取られたりする話をよく聞いた。私も一度、帰りに上級生から「面切った」をやられそうになったことがあったが、その時、まあまあと取りなしてくれたのは例の向いの弟であった。彼は卒業後、就職したらしいが、その後、どこかへ引っ越してしまったため、消息は全然わからない。
 ところで一年がたって、その学年が卒業してしまうと、急にそうした風潮は下火になってしまったように思えた。そして私らが最上級生になった時には、何だか二年前とは打って変わって、すっかり大人しい雰囲気になってしまったように思えたのだ。これは一体どうしたことだろうか?
 確かに世間一般が生活も豊かになりだんだんと落ち着いてきたということの反映もあろうが、とどまるところ主観的な錯覚だったのだと思う。つまり、それまで思い込んでいた「暴力的雰囲気」というのがまるで架空のものにすぎなかったか、或いは、自分が上級生となってその真っ只中に身を置いているため、自分たちが発散する「暴力的雰囲気」に気がつかないのか、いずれにしても客観的には彼らも私らも同程度だったのではないだろうか。
 よく似たことがまた、別にあり、例えば自分が小学生の時に見た年上の中学生の印象、中学の時の高校生の、高校の時の大学生の.....といった常に自分より少し年上の人間たちに対して抱いていたイメージが、実際に自分がその立場になった時、常に裏切られ、まるで一歩先に歩みはじめた亀にどうしても追いつけないというあの「アキレスと亀のパラドックス」のように、何か自分たちが劣っているのではないか、不足しているのではないかという感じにとらわれることがあった。いつか自分もああいう風になるんだな、とかすかな憧憬をもって眺めていた年令にいざ自分がなってみれば、一向にそんな感じがせす、何か物足りないという卑小感を抱くのである。
 世代的な覇気のなさ、或いは劣等感ではないのかと、ひそかに思い込んでいたのだが、そうは考えたくない気もした。要するに私たちは彼らを兄や姉と思い、彼らはまた私たちを弟、妹と思う、そういう関係の落差によるもので、私たちも年下の者に同じような印象をもたれているかもしれない、と一応の理屈はつけてはみたが、今でもなかなか拭いきれない感情である。

 商業地の小学校であったため、クラスには商店の子弟もたくさんいた。その一人、Mというかなり大きな婦人服店の息子の家にはそのころよく遊びに行った。
 千林商店街の中心部に大きな店を構えており、その両隣数軒がまたその親戚ということで、店舗の裏つづきの居宅はかなり大きく、また、商店特有の増改築を重ねた複雑な構造でおまけに隣数軒の親戚宅ともつながっていたりして、建物の中はまるで迷路のようであった。
 今ではその裏手にスーパーが出来たり、店舗を大きくしたりで大分変わり、Mも居宅を他所に移してしまったが、当時は、商店街脇の幅2メートルほどの細い路地を入ったところに冠木門があり、そこから入っていくのだが、実はそこもMの親戚の家か何かで、その庭先を通り抜けた囲いの向こうにMの家の庭と縁側があった。庭には石燈篭があり、縁側にかなり長い廊下があり、商品などがあちこち山と積まれたその上の座敷をぐるりと一周まわっていたと思う。そしてその廊下の薄暗い奥に急な階段があり、それを登りつめて木戸を開けるとパッと明るくなって、コンクリート床の広い物干し場に出る。その物干し場の向こうにベランダがあり、低い柵をこえて大きなガラス戸の中へ入るとそこは隣りの親戚の店の二階にあたり、とくに人が住んでいる様子もなく、誰もいない部屋に応接セットが置いてあった。
 と、このように他人の家の内部を詳しく書くのもどうかと思うが、そういった構造がいまだにぼんやりと頭の中に残っているぐらい、その頃は殆んど毎日のようにやはり同級生のTというのと一緒に遊びにいき、また、その商家独特の迷路のような建築構造がとても珍しく、まるで江戸川乱歩の少年小説に出てくるからくり屋敷のような雰囲気が私には印象深かったのだ。
 Mの弟も含めた私たち四人は殆んど自由にその中を走りまわることが出来た。Mは普通の家ではなかなか買ってもらえない鉄砲や刀などのおもちゃを箱にいっぱいもっており、それらを使って、私たちはその迷路のような構造の中を走りまわって、チャンバラや探偵ごっこをした。そしてそれに疲れると、回り廊下の一角の三畳ほどの薄暗い部屋に入りそこの押し入れの中に山のように積んである漫画や少年雑誌を読み耽った。
 四年生の終り頃仲間のTが他所に引っ越したのをきっかけにチャンバラ遊びも面白くなくなり、私も通いはじめた珠算塾の方が忙しくなって、その後Mの家から足は遠のいていったが、その時むさぼり読んだ漫画や少年雑誌の味は忘れられなかった。
 小学校に入った頃は毎月、小学館の「小学○年生」という雑誌を買ってもらっていたが半ば学習雑誌的であまり面白くなかったのでいつ頃からか「おもしろブック」という集英杜発行の少年雑誌に切りかえていた。当時は月刊少年雑誌の全盛期で、光文社、講談社、秋田書店などの出版社から、「少年」「少年クラブ」「冒険王」「漫画王」「少年画報」「野球少年」他たくさんの月刊誌が刊行され、少年ファンを魅了していた。中でも「鉄腕アトム」や江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを連載していた「少年」が同級生仲間でいちばん人気があったようだが、私は行きがかり上、ややマイナーとされていた「おもしろブック」を買いつづけ、他の雑誌は友人や貸本屋で借りたりして読んだ。
 大学に入った時、自己紹介のアンケートがなされたことがある。その中に愛読書という欄があって、各人、「罪と罰」とか夏目漱石とか書いている中で、一人、少年時代に読んだ「おもしろブック」と書いている者があり、あの時読んだいろいろな漫画や物語の強烈な印象を上まわるものは今後ないであろうというコメントがつけられていた。それを見た時やや奇異な感じを受けたが、よく考えれば私にも思いあたり、今やそれら少年時代の愛読書は読み直そうにもどこにもないだけに余計郷愁をそそられる。何年間か買い貯めた「おもしろブック」はドラム缶一杯に収めてあったが、両親があまりうるさくいうので泣く泣く屑屋に処分した。付録の単行本のうち気に入ったもの数冊はその後しばらく保存していたが、それもいつの間にかどこかへ行ってしまった。今思うと残念でならない。
 「おもしろブック」は他の雑誌のようにこれといった目玉商品的な連載はなかったが全体として粒揃いの作品が多かったように思う。今やまったく手許に資料らしきものがないのでうろ憶えの記憶だけだが、漫画では杉浦茂の忍術もの、馬場のぼる、山根一二三の剣術もの、絵と文が半々の絵物語では小松崎茂の冒険もの、山川惣治の密林もの(少年王者)などがあった。現在の「劇画」と呼ばれるものほど構図は大胆ではなく、オリジナリティーも薄く、原作の焼き直しものが多かったが、山根一二三の丸いタッチの「塚原卜伝」「柳生十兵衛」などもう一度読み直してみたいものである。
 また、杉浦茂のナンセンス忍術漫画は今から考えても荒唐無稽極まるもので、そのグニャグニャした線、「○○してちゃぶだい」という言葉の駄洒落、そして「コロッケ五円のすけ」「シューマイ小僧」「風船ガム助」「串カツ十円の丞」「丸井がんもの丞」「野菜サラダの助」「うどん粉プップの助」といったユニーク極まるネーミング、その他、「おれ、いまカツ丼食べちゃったんだから」といいながら大暴れする男など、やたら食べものの名前が頻出し、中でもシューマイ、カツ丼など当時の私はまだ食べたことがなく、どんなものだろうと、いつかそれを食べられる時がくるのが楽しみであった。最近、「猿飛佐助」「モヒカン族の最後」などが復刻されたので読んでみたが、(作者が気恥ずかしくなったのか)かなり書き直してあり、イラスト風の細密画が増え、そのかわりに本来の奔放な味が薄れて昔読んだあの印象には及ばず、少々がっかりした。
 細密画といえば小松崎茂の戦争画も凄かったが、絵物語ではひとつ妙に記憶に残っているものがある。「おもしろブック」ではなかったかもしれないが、確か別冊付録で題名も忘れたが、オズボーン船長というのが主人公の冒険絵物語であった。
 パンを買いにやらされた帰り、中身の柔かい部分をこっそりくり抜いて食べたというオズボーンの少年時代からはじまり、海洋生活、ジャングル探険、そして最後は某国のスパイとなり、敵の石油タンクを爆破したり大活躍の末、最後、ついに見つけられ、海上で敵艦に追いかけられて、オズボーン船長の運命はいかに、というところで途切れていた。あとは雑誌次号の本文につづくわけだが、それが何故か読めなくて、ずっと心残りのまま現在に尾をひいている。細い線の細密画で、画面全体が何となく暗く、出てくる土人の足がとても長くて、何かエキゾチックなムードがあった。その絵の何枚かは今もおぼろげに頭に残っている。
 その他、少年の愛読書としてはハードカバーの漫画単行本、偕成社、ポプラ社などから出ていた少年小説などがあった。しかし少年雑誌で百円以上、その他はもっと高く、当時の私たちの小遣いでは月に雑誌1冊が精一杯で、そのためMのような存在は貴重であったが、一般的には貸本屋というのが繁盛していた。今でも何軒か残っているがその頃はもっとたくさんあって、面白い本が集っているところや値段の安い所を捜しまわったものである。
 身分証明書代わりの「米穀通帳」をもっていくと会員にしてくれ、漫画単行本や雑誌で一日10円、小説で20円位で一日超過すると五割増し、表紙裏にそれを表わす「10ー5」というゴム印が押してあった。たいてい二十才位の女性が店番をしていて借りたい本を持っていくと、ノートの私の欄に分類番号を記入し、そのたびに、「本が好きねえ」などといわれて赤面した。
 雑誌類は台の上に横に並べられ、単行本は棚に立てられ、それぞれ痛まないようにカバーをしたり、綴じ目の上に更にドリルで穴をあけ、太いタコ糸で補強してあった。棚はだいたい順序が決っており、下から漫画、少年少女小説、大人用小説となっていた。大人用は時代小説などが多かったようだが、試しに中を開いてみると小さな字がいっぱい詰っていて、これを一日で読むとなると朝から晩まで休まずに読まねばならないなあ、といらぬ心配をしたりしたが、結局、中段の少年小説どまりでついに上段まではいかずじまいであった。
 よく借りた本としては雑誌では「野球少年」「ベースボール」「野球界」など野球ものが多かったと思う。「野球少年」ではもはや有名な誌上実況中継はなく、漫画による月刊プロ野球時評、少年草野球漫画「背番号0(ゼロ)」が楽しみであった。大人用野球雑誌も現在は「週刊べースボールマガジン」一冊だが、当時の月刊二誌は今よりももっとしっかりした読みごたえのあるものだったような気がする。なお雑誌は店にせいぜい二部ずつほどしかなく、発行日にはみんな新しいのを読もうと殺到し、ちょうどかち合って喧嘩になったこともあった。
 それ以外でよく借りたのは、自分ではなかなか買えない漫画単行本で、探偵ものが多く、乱歩の少年探偵団シリーズの漫画版や、後期に出てきた大人向の推理漫画誌「影」などであった。少年小説で最も読んだのはコナン・ドイルのホームズ・シリーズで、原作本では1冊も読んでいなかったが、少年向にリトールドされたもので殆んど全作品を読んでいた。その他、乱歩、香山滋、高木彬光、海野十三などの冒険推理、怪奇ものなどを好んで読んでいたと思う。それらはたいてい東京山の手の昼でも人通りの少ない屋敷町や人里離れた森の中の城のような邸宅などが舞台で、気味の悪い挿絵が入っていた。
 私は「恐がりの恐いもの好き」てすぐに、夜真っ暗な便所へひとりで行けなくなるくせに恐い本を読むのが好きであった。冬などそういう本を寝床で読んでから、布団を頭から被って眠ると不思議な夢をよくみた。もともと夢自体、荒唐無稽で不思議なものであるから、いつしか、夢に興味を持ちはじめ、どういう夢を見たか、出来る限り記録しようと努力した。こういう事は腐るぐらい時間がある時でないと思いつきもしないものである。
 私は大学に四年、大学院に四年、計八年も籍を置いていたが、それはいくつかの時期に分けられる。最初の教養部の二年間は、高校での受験勉強から解放され、その解放感で何にでも興味を持ち、何をやっても面白い時期であった。大阪から京都まで片道一時間半もの通学時間はあこがれの京阪特急のロマンスシートに乗って毎日が旅行のようであったし、全国から集ってくるさまざまな言葉の訛り、新しい友人たち、講演のような授業、はじめて習うフランス語、酒、煙草、週一回の学生デモでの警官隊との押し合い、その時指揮者が逮捕されて数日聞拘留され、しかも平気な顔で帰ってくる、そんな雰囲気がまた、今までとは違う途方もない自由の天地のような実感を与えた。そして二年間すったもんだの末、行き詰って逃げるように学部へ。すると、ここは今までの教養部のザワザワ賑やかと打って変って静かな白亜の殿堂で、夏でも冷んやり人通りのない廊下をうつろに靴音だけが響く。みんなが黙々と図書館で勉強している姿を見て、ハッと慌てて本を開いたが、そこに立ちはだかるのは語学の壁、基礎勉強の不足、苦痛のうちに二年が経ち、まだ社会へ出るには未練がありすぎ、何とかごまかしで大学院へ残る。大学院へ入った一時的な解放感で心は躍るが、それは現実を隠蔽した空回りにすぎず、プラスされた自由の期間がいつしか刑の執行を待つ猶予期間のようにさえ思われ、勉強は手につかず、ちょうどその時「紛争」がおこり一年ほど授業は空白となり、これ幸わいと自宅でゴロ寝。授業再開になっても大学批判を口実に、身についた退嬰的生活は直らず、在籍期限の四年目になって、こりゃあいかん、と卒業するための勉強をし、しばらくして職にありついた時は、本当に救われた思いがした。
 大学院の真ん中二年間は、はじめは文学部など家にいても勉強できるさ、という意気込みであったが、そのうちに時間をもてあますようになり、自宅住まいだから、衣食住には困らなかったが、毎日毎日をどう充実してつぶしていくかに苦労した。先に述べた野球ゲームもその手段のひとつだったが、その他、パチンコ、映画、散歩など、一人で出来ることは殆んどしたといってよい。ただこうした無目的に近い生活を送っている時に陥りがちなのは、夜、本を読んでいたりするうちにだんだん就寝時間が遅くなり、それにつれて起床時間もずれてくることであった。
 ひどい時は、一応夜の12時頃には床につくのだが、それから床の中で本を読んだり、物を書いたりして、そのうち夜が白んできて家の者が起き出す頃に慌てて眠りに入る毎日であった。すると目がさめれば正午過ぎで、もう太場は中天にあり、考えてみればもう6時間もすれば日が落ちてまた夜である。まるで半日損したような気分で元気が出ず、夜が更けた頃になって頭が冴えはじめ、眠ろうにも眠れない。仕方なく床の中でゴソゴソするうちに夜が白んできて、もう悪循環である。最初のうちは家の者も朝早く起きるよううるさく言ったが、起きてもこれといってすることがないので、ごはんを食べるとすぐに眠くなり、昼寝をするとまた、夜眠れない。
 起きている時間と眠っている時間の比率は変らないのだが、常人とズレているので、どうしても一人でいる時が多く、一人で何やかやいらぬことを考えているうちに、常人の生活リズムと比べて自分がいかにも不健康に思え、同じ年配の者が朝早く起きて働いているのにいい年令(とし)をして毎日ブラブラしていることに対する後ろめたさが募ってくる。そのうち夜間の頭の冴えがひどくなってとうとう眠れなくなってしまった。というより眠らなくなってしまった。
 いつも自分の睡眠のことをくよくよ考えていたのが、急に、眠れないなら眠らなくてよいのだ、と居直ってみると、ある意味では気分爽快になる。といって眠らなければ死んでしまうので、いつの間にか眠っているのだが、眠る必要がないと思うだけで気分がすっとして心も軽くなった。戦後一時期、覚醒剤が氾濫し、まるでビタミン剤のように使われていた時代があったらしいが、それを打つと頭がすっきりし、例えば、どんなにつまらぬ芝居を見ても、面白くてしようがないようになった、という。それと同じようなことだろうか、感受性が研ぎ澄まされ、何かちょっとした刺激にも過剰反応し、やたら感動しやすくなるのだ。主観の風向きが少し変わると、人生何もかもバラ色に見え、何をやってもうまくいくような気がしてくるが、実は、それはあくまでそういう気がするだけで、客観的には何も変っていないのだった。
 話が大分先走ったが、自分の夢に対して強い関心を持つようになったのはこのように時間があってあってしようがなかった時分のことである。夢について理論めいたことを述べるつもりもないので、ほくの夢のあるひとつの傾向のことについてだけ述べたい。
 それは夢の世界の地理構造で、あるいくつかの実在する場所が不思議な迷路によってみごとに短絡しているのであった。例えば家を出て、ごちゃごちゃ細い路地を通って埃っぽい広い通りに出ると向こうにみえるのは阪急百貨店で、ダラダラ坂をローラースケートにのって下っていくと、その入り口の前につく。いやに時代がかった石造りに人影はあまり見えず、閉店したのか中は薄暗く、デパートなら品物がたくさんありそうなのに何もなく、石の階段を登っていくと、何だか学校の校舎みたいな気もするのだ。と、突然細長いところに出て、両側にズラリと扉が並んでいる。開けてみると、中には妙な色をした便器があり、次々と扉を開けていくが、どれもこれも汚れていて使いものにならない。追いたてられるように階段を登り、薄暗い、くねくね曲った迷路のような廊下を走り抜けるといつしか明るいところに出て、廊下には赤い絨毯がひいてあり、つきあたりの革張りの扉を開けると真っ黒なタイルに白い便器がつややかに輝いている。用を足してもう一枚の扉から出ると屋上に出て、どうもMの家のあの物干し場らしいのだ。ちょうど移転したはずのTが来ていて、一緒に細かい格子窓の家の並ぶ街道筋のような通りを抜けて、細い川を舟で下ると、いつしか田圃(たんぼ)に出て、その中を漕いでいるうちにいつの間にか細い下水溝のようなところに舟は入っており、よく見れば幼い頃住んでいた鶴見町の工場の横のドブ川ではないか.....
 と、こんな風に、時間の順序、空間の配列を全く無視した構造の世界の中を、私はどんどん歩きまわる。人間は殆んど出てこず、だからドラマチックな展開もなく、言葉も音もない中で、次々と建物や風景が視界を横切っていく。そして憶えのある景色に出るたびに、ああ、あそこか、と一瞬、郷愁の香りのようなものがツーンと鼻から頭に突き抜けるのであった。

 「眠らない」生活は気が昂ぶって、からだも軽く、充実感に充ちているのだが、やはり疲れがたまり、やむを得ず、催眠剤や安定剤を服用すると、確かに肉体的な疲れはとれるかもしれぬが、目がさめたあとも、これまでのようなスッキリした感じはなく、何となく朦朧(もうろう)として、気力が減退してくる。すると今までの元気の反動が猛烈にやってきて、やたら反省的になった精神は、それまでの充実感の虚妄を容赦なく発(あば)いていくのだった。自分で自分を打ちのめす毎日に耐えられず、アルコールの力を借りようとしてもどうしても酔えず、憂さ晴らしに、誰かに胸の内の苦しさを訴えたく、いよいよ喋ろうとすると、頭と口の回路に何か大きな抵抗が挟まっているようでなかなか言葉が出てこなく、ますます惨めになるばかりであった。
 といって相変らずこれというあてのない無目的な生活は続いており、時間は腐るほどある。寝床から出るのがいやでたまらず、目がさめても、また、無理に目をつぶり、しばらくウトウトすると夢を見る。眠れぬ時は目をつぶり、浮遊した状態の頭脳に次々と浮んでくる観念連想をじっと眺める。まるで連歌か尻取りのようにとめどなく流れる連想をしばらくして断ち切り、今度はそれまでの連想を逆にたどって元に帰れるかやってみる。
 しかし食欲は普通で、というよりも食べることが大きな楽しみとなっている状態ではいつもより旺盛で、仕方なく起きてごはんを食べ、腹ごなしに外へ出る。パチンコに入ってもそんなに熱中できず、とにかくじっとしているのは耐えられないので、運動と称して、やたら歩いた。
 はじめは商店街やその裏通りを、無暗に歩きまわるばかりであったが、毎日のことなのでそれにも厭き、もっと体系だった散歩をするようになった。最初、小学校時代の同級生の家の近くのかつてよく遊んだところを次々とまわり、歩きつくすと中学校と範囲を拡げた。また、小学校時分に耐寒行進というのがあって、冬など行列を組んで、新森小路から寺方(てらかた)、別所という、大阪市のはずれの田園地帯を歩いたことがあった。その時、田んぼの真ん中の細い小川の横にやや堤のような道があり、近くに高圧線の鉄塔が並んでいたが、その場所の印象が妙に強く、夢の中にもよく出てくるので、いちど行ってみようとしたことがある。
 昔の記憶を頼りに、旭東(きょくとう)中学校の横を抜けていくのだが、前はすぐ田んぼだったのに、今は家が建ったり、公園が出来たりして、行けども行けども田んぼは現れない。そのうちアスファルトから泥道に変ってようやく、昔風の古い建物が目につき出したが、その道をもうもうと砂埃をあげてトラックがひっきりなしに走るので、のんびりとも歩いておれず、しだいに興ざめしてきてそのまま引きかえしてしまった。
 また、転校したTの家が以前、寺方にあり、夢にも出てくる、昔風の格子の入った庄屋風の屋敷やお寺の横を抜け、下水がわりの小川のほとりのイメージを頼りに歩いたが、これも家が増え、また、一度つれていってもらっただけで記憶も薄く、このあたり独特の安っぽい新興住宅が密集した地域を歩きに歩いただけであった。
 このように夢に見るような場所は、実際行ってみるとたいてい大きく変貌してそのイメージが見つからない。何度もしつこく歩きまわるうちに、十数年もの時間の重ね塗りを空間的に錯覚してきて、新しく建ったであろう文化住宅やアパートなどのごちゃごちゃと密集したのを、薄皮をめくるように引っぺがすとその奥にあのイメージが現れてくるような気がしてくる。しかし何度もそうした幻滅をくりかえすうちに、現実の時間の経過と自分の抱いているイメージとの距離関係が体得できてくる気がした。
 歩きながら「目で見る」のではなく、「頭で見れば」よいのである。つまり何かイメージを喚起させるようなもの、例えば、一本の電柱の微妙な傾きとか、窓の形とか、街路の歪み具合などをカギとして、歩きながら頭の中にイメージをふくらませればよいのだ。とすると、かえって昼の明るさは邪魔になり、夜歩くのが、一番よいことになる。

 現在でも、精神の自家中毒が起りかけた時など、夜プイと外に出て近所を歩いたりすることがあるが、夜道の散歩の効用に気がついたのは正月のことであった。
 前夜までの晦日の慌ただしい賑わいが一夜明けると一転、どの商店も閉めきったシャッターに「賀正」と書いたポスターを貼り、道行く人は誰もが着物姿の正月風景となる。日頃忙しい人も三箇日はのんびりと家に居る。町全体がそんな雰囲気になると、いつもがそんな雰囲気である私にはどうも耐えられぬ気分で、かといって盛り場や初詣での雑踏まで出掛ける気力もなく、家の中でテレビを見ながら、酒、おせち料理の繰り返しとなり、新年番組にも厭きて、腹ごなしにと夜外に出たのがきっかけだった。
 いつも明るい商店街もこの日ばかりは暗くて人通りも少なく、何も目にとまるものがないので足はどんどん進んで裏通りの住宅街に出る。どの家からも団欒の明かりがもれるが人通りは殆んどなく、そんな時に一人で歩いている自分の惨めさがこの時ばかりは妙に心地よいのだ。昼歩く時気になる他人の視線もなく、あっても暗闇では気にならず、街灯の明かりを頼りに歩いていると、歩く足の動きにつれて想像力の働きにも加速度がつくようであった。次々と過去の記憶、そしてあの夢の中のイメージも溢れ出て、眼前の人一人いない夜の風景と融合する。融け合って出来た新しい風景はまたイメージの中へと逆流し、街角を曲って新らたに現れた次の風景と絡まりあう。
 もともと歩き慣れた場所なので自然と方向感覚が身についていて、まるで自分の庭を歩いているようであったが、それも物足りなく感じ出し、暗闇に勇気づけられてわざと迷ってやろうと知らぬ道へ知らぬ道へと逸れていくのだが、ぐるぐる廻っていつしか知った道に戻る。これがまた自分を満足させた。いいかげん歩き疲れて家に帰ると、家の者は相変らず正月番組のテレビを見ており、そこに入ってストーブに手をかざす私の顔のほてりは単に寒風のせいばかりではなかった。
 そんな訳で、昼は運動のため、夜は気晴しのためと決めて歩いた。昼はとにかく距離を歩かねばならぬので運動靴をはき、早足で、主に淀川堤防あたりを歩いた。時にはふと思いついて電車やバスに乗り、任意の駅で降りてそこら一帯を歩きまわり、喫茶店やパチンコ屋で休憩してからまた乗り物に乗って帰ってきたこともあった。夜は殆んど近辺で、そういつもいつもという訳ではなかったが時おりぶらりと足の向く方向を歩いた。
 昔、漫画でみたのに、花火を買ってくれとせがむ子供に困った父親が苦肉の策で、花火屋の前で待ち、花火を買って帰るある親子連れのあとを二人でつけて、とうとうその家のそばまで行き、家の前で花火しているのを遠くから子供に見せてやる、というのがあった。探偵ものに凝っていた子供の頃、この応用で、だれでもよい通りがかりの人一人を選らび、そのあとをどこまでも尾行していけばおもしろいだろうな、と考えたことがあり、このことも一工夫として思い出したが、もはや子供ではなく、単なる探偵趣味とも割り切れず、何か後ろめたい気がして結局やらなかった。
 エドガー・ポオの短編に『群衆の人』というのがある。そこではある暇人が街の中で非常に印象の強い一人の老人に注意を惹かれ、そのあとを何処までもついていくと、彼は一晩中雑踏の中を歩きまわり、ついに主人公に「彼は群衆の人だ」と思わず言わせるのだが、誰一人知った者がいない雑踏も孤独な魂とよく融和する。
 それは都会育ちの人間にとっては、自然の海や山と同じものとなりうるのだが、しかし、そうあるためにはすれ違う人々は全て人間であってはいけない。全くの無名の群れの中の自分一人、そういう自負によってその中を歩く自分の孤独が癒されるのであって、ひとたびその中に一人でも人間を見出したならば、たちまちにして自分の孤独そのものによって孤独の矜持は打ち破られてしまうのだ。
 昼歩くのは知らない町がよい。そして時々立ち止まり、ふりかえって、風景と化した人々、そして建物、街路のうねりを見るのだ。大体の方向だけ頭に入れて、あとは盲滅法歩きまわればその町のことはわかった気になる。結局、都会であれば何処へ行っても細部は同じということで、全く初めての土地にもいくつか見慣れた風景がみつかるであろう。
 自分が住んでいる町は夜歩くのだ。出来るだけ道をはずし、迷うように迷うようにと足を運ぶと、夜の明かりの下では同じ風景も違ったものに見え、とてつもない所まで来てしまった、と後悔が出はじめるとき、突如、明るい店並らびに出て、暗闇の中に急にこんな世界が、と何故か夢幻的にさえ思うが、よく見ればいつも歩いているところで、ただいつもとは方向を逆に来ただけであったという、あの萩原朔太郎の「猫町」的体験も時には味わえるかもしれない。


(初出誌: 「樹海」第3号 1975年9月)

夜歩く(下)