従兄のKが死んではや二年、突然の死によって引き起された一時的な波紋ももうすっかりおさまったようである。この世界でポッカリ空席となった彼の座も今やすっかり整理されて跡形もなくなり、このあと、時間の事務的な作用によって彼の存在はますます人々の記憶の彼方へと押し流されていくに違いない。


 大阪へ出て来て何年か経ったあと不意に幼ない頃患った喘息が再発し、じわじわとこじらせ、悪化する一方で、死ぬ前の数年は入退院を繰り返す生活であった。激しい発作とそれを抑える強い鎮静剤とのいたちごっこに彼の華著な肉体はすっかり痛めつけられ、薬の副作用として糖尿病さえ併発する有様で、早晩こういう結果になるのは予測できないでもなかったが、それにしてもまさか死ぬとは夢にも思っていなかった。


 発作が起ると息が詰ってくるらしく、壁に手をつき、頭を垂れてじっとそれに耐える姿は、側(はた)の者にはどうしようもできないだけに痛ましく、又、苛立たしく感じられたが、その持続的な苦しみを全く裏切るかのように、その最期はあまりにもあっけないものであった。

 退院中に又もや激しい発作が起って早速入院したのだが、何故かこれまで行きつけの病院を嫌がって全然別の初めての病院に入ったのが悪かった。応急処置で打った強い注射がからだに合わず、その衝撃(ショック)によって一挙にその命脈を断たれたというのがどうも真相らしい。入院して二日もせぬうちに白い布を被せられて退院してきた彼は、突然のことでその死を看取る者さえなく、一人寂しくこの世を去ったのである。


 生前何回か病院に彼を見舞いに行ったが、腕に点滴の管をつないだ痩せ細った痛々しい姿でありながら、不思議に闘病者の暗さを感じさせなかった。幼い頃から病気がちであったせいか、病院にいる彼は普段よりも活き活きとしているように見え、その持ち前の徳島弁の饒舌で語る自分の病気の話や好きな競馬の話を聞いていると、慰めの言葉を言うのが気恥しく思われる程であった。病院生活の退屈からか競馬研究にも一層熱が入り、短波放送の入るラジオとともに、新聞の切り抜きを貼ったノートを何冊も枕許に積み、家族や親類縁者の顰蹙(ひんしゅく)も構わず、病院内の同好の士と情報を交換しあい、又、小規模なノミ屋のようなことをしているのではないかという噂さえのちに聞かされた。


 喘息の発作のない時は常人と変わらないので、そんな時は各病室をあちこちと訪問し、時には外出して場外馬券売場へも通っていたようだ。何事にも長々と講釈をつけるのが好きで、普通の病人のつもりで見舞いに行った者はたいてい、そんな彼のある種の元気さに呆れ果てるのであった。


 というのも、彼の妻は二人の子供を抱えながら、入院中の彼の仕事の代わりをして働いており、そういう事情をよく知る者にとっては彼の態度が許し難いものと映るのはやむをえないことであった。確かにそれは彼のわがままには違いなかったが、そんなわがままや、又、あの奇妙な明るさは、今にして思えば、彼の持って生まれた「寿命の無さ」の象徴であったのかもしれない。


 Kの家系では、男は不思議と影の薄い存在であった。葬儀の日の控え室で、徳島から駈けつけた彼の母(私の父の妹にあたる)が私に「これでうちの家の男はみんな死んでしもたなあ」と、実にのんびりと、何の感慨もない風に言うのを聞いてハタとそう思ったのだ。


 その数ヶ月前にKの父は脳軟化症で死に、その一年ほど前にはKの父方の従兄が三十才にもならぬうちに、突然、いわゆるポックリ病という心臓発作で死んでいた。この叔母の言葉はそういうことをさしているようであったが、私にはそれだけではないような気がした。


 どういう理由があったのかよくわからないが、Kの父は、私が物ごころついた時から私の家に寝泊りしていた。なかなか優秀な鋳物職人だったそうだが、徳島の自分の家に家族を残したまま、何十年も私の家に寄宿して大阪の工場へ勤めに出ていた。徳島へは盆暮れには帰っていたが、あとは毎月の仕送りをするだけでほとんど私の家の家族同様であった。


 のちに私の母方の従兄が徳島の高校を卒業してこちらへ就職して、やはりしばらく私の家に寄宿していたので、今では全く信じられないことだが、あの狭い家に、両親、祖父母、姉と私、そしてこの二人と、実に八人も暮していたことになる。


 確か、私の小学校卒業直前、祖父が死んだ頃であったが、Kの父は長年の大阪暮しをやめて徳島に帰り、又、母方の従兄もアパートに移り、そのうえ、姉の結婚と、いちどきに人が少なくなり、急に寂しくなり、涙がボロボロ流れてとまらなかったことがあった。


 その後、中学二年の時、夏休みにひとりで徳島へ遊びに行ったことがあったが、その時Kの家で叔父に再会した。私の家にいた時はシャキッとして話し上手の面白い人であったのだが、その時見たのは、叔母や三人の娘に何やかや言われながら一人で酒を飲んで管を巻き、何もわからぬ私に盛んに愚痴をこぼす叔父の姿で、それは単なる老いとは見えず、何かどうしようもない居心地悪さのようなものが感じられた。


 やはり徳島に帰ってからは精彩がなかったようで、いろいろな仕事を転々とし、しまいには映画館の自転車番みたいなこともしていたらしいが、あれほど頑丈であったからだもみるみる弱り、頭も惚(ぼ)けて、そんな年令(とし)でもないのに火が消えるように死んでしまった。


 Kは四人兄妹の一番上で下に妹が三人いたが、この家で見る時は何となく元気がなく、厄介者のようにさえ思えた気がする。もっとも彼は高校卒業後も職につかず家でブラブラしていたのであるが、その理由もよくわからない。


 丁度、昭和三十年頃の不景気な時代の就職難にぶつかったためかもしれぬが、彼の家は子供相手の駄菓子屋をしており、又、彼はからだが丈夫でもなかったので、まわりもそんなに就職のことをうるさくいわなかったのかもしれない。ただ彼は「鉄道」に勤めたかったらしく、知り合いの伝手(つて)をあてにしながらアルバイトで駅の掃除に行ったりしていたが結局は駄目であった。


 何年間かよく知らないが、地方都市独特ののんびりとした雰囲気の中で毎日、店番をしたり、映画に行ったり、流行歌に凝って、のど自慢の予選に出てみたり、まんざら鬱屈の日々を過していたのでもなさそうだ。こんな彼は私にとって格好の遊び相手で、時おり彼が大阪へ遊びに来たり、或いは夏休みなど、両親に連れられて徳島の彼の家へ遊びに行くのが私にとって大きな楽しみであった。


 私の両親は戦前から大阪に住んでいたが、もともと二人とも徳島の出身で、親戚もほとんど徳島にいたので、祝い事や侮み事などの用があるたびに船に乗ってよく徳島へ行った。そんな時いっしょについていったり、又、帰省の叔父に連れていってもらったりしたのだが、中学二年の夏休み、はじめてひとりで船に乗った。結局その後一度も徳島へは行っていないのでその時の記憶は今でも鮮明である。


 今でこそ和歌山から南海汽船に乗ると僅か数時間の船旅であるが、当時は、今はもう使われていない天保山桟橋から関西汽船に乗り、神戸まわりで徳島の小松島港まで八時間以上かかった。


 学校の事務室ではじめて学割というものを貰い、夕刻、見送りの父と一緒に市電に乗り、一時間ほどかかって天保山までいくのだが、この路線を夜ゴトゴト行くのはいつも物寂しい思いがしたものである。


 市内の東北部から乗って中心地を通り、だんだんと西にある大阪湾に近づいていく風景を窓から眺めていると、ゆっくりと夏の日が落ちる頃幕があき、華やかなネオン街をクライマックスとして、そのあと「朝潮橋」などという聞きなれぬ停留所が増えてくる頃から海辺の埋立地特有のだだっ広く真っ暗でカサカサとした荒涼極まりない景色へ移っていく、物悲しいパノラマ図を見ているようであった。


 天保山の待合所の前には明々(あかあか)とした食堂がずらりと並んで、その一軒に入ってうどんを食べながら乗船時刻を待ち、やがて父と別れて一人で桟橋を渡り、いよいよ轟く出港のドラの音と「蛍の光」はロマンチックで又、心細いものでもあった。


 陸(おか)の灯りがキラキラ映る暗い海にスクリューの白い飛沫(しぶき)が跳ね、ゆっくりと岸壁を離れる時、船は真横に進んでいるかのように見える。階段を降りて三等船室に入り、靴を脱いで鞄を枕に横になり、ふと丸い窓から外を見ると、すぐ下に海面があり、時々水飛沫が窓にかかってくるようであった。


 さすがになかなか眠れず何度も甲板に出て潮風に当ったりしたが、いつの間にかウトウトし、朝方ザワザワとしたまわりの声で目がさめた。見ると人がぞろぞろ甲板へのぼっていくので慌てて後を追ったが、外はまだ暗くみんな船首の方を向いて爽やかな海の風にひたっている。咋夜は気づかなかったがべっとりと塩分の香りを含んだ風だ。そのうちに夜が白みはじめ、その遥か前方に港らしい灯りが見えた。と同時に誰からともなぐ低い歓声が起り、それまでみんな黙りこくっていたのが急に目がさめたように能弁に喋りはじめた。


 小松島港に降りたってもまだ薄暗く、改礼の外ではバスのエンジンの音がいくつか、プルブルとあたりの冷んやりした空気を振るわせていた。聞いていたとおり徳島駅前行を捜して乗り込むと、バスは猛スピードで薄暗い田舎道を突っ走り、駅前に着いた時にはすっかり夜が明けていた。


 ここからKの家まで歩いて10分位で、それまで何度も来て、よく知っていたつもりだったのが、いざひとりになると駅前の大通りから見慣れたKの家の静かな通りに出る道がどうしてもわからない。確か踏み切りを渡るはずだがそれが見つからず、大きな鞄をもって10分ほどウロウロした挙句、とうとう思い切って通りがかりの人に訊いた。


 まだ朝が早くて、ほとんど人通りもなく、やっと目印の赤いポストの前のKの家に着くと、カーテンをおろしたガラス戸の店が何故か思ったより貧弱なものに見えた。ドンドンと叩くとしばらくして寝巻姿の従姉が出てきて、「あら、カッちゃん、えらい早かったんやなあ。向かえに行こ思てたのに」と目をこすりながら言うのを聞いて、何か拍子抜けがする思いだった。しかし、しばらく店の中に腰を掛けてみんなが起きるのを待ち、一緒に朝ごはんを食べて、あの徳島独特の番茶の香りを嗅いではじめて、やっと徳島へ来たんだなあという実感がこみ上げてきた。


 この時は確か10日間ほど徳島に滞在したであろうか。その間、徳島市郊外の日開(ひがい)というところにある母方の親戚宅へも立ち寄った。


 お盆前の暑い盛りで駅前でバスを待っていると、チリンチリンと豆腐屋みたいな鐘を鳴らしながら自転車でアイスキャンディーを売りに来た。かんかん照りであまりにも暑いので買ってみると、それは割り箸に円筒形の細長い白い氷がついただけもので、ミルクの味がしたがとても堅くてなかなか噛めず、何となくローカル色を感じたのを憶えている。


 田舎道をもうもうと砂埃を立てながらパスで20分位走るとこれまて何度か来た見慣れた風景であった。前に細い小川があり、道路を隔てた向い側の高い盛り土をしたところに果物、野菜、魚などいっぱいに並べた店がある。親戚宅は農業のかたわら(といってもこの時にはもう商売が専業のようであったが)田舎独特の「よろず屋」をしていたのである。


 ところで、実はこの家は私の生家である。母方の祖母の実家で、母の妹の一家が同居していたが、戦時中私の家族はここに疎開していた。ここにも三人従兄妹がおり、一番上の従兄は私より五つ位年上であったが、まだ赤ん坊の私を背負ったりしてよく世話をしてくれたそうだ。


 彼も二年間ほど大阪の漬物屋へ住み込みで奉公に来ていたが、この頃は家に帰り、調理師の免許も取って店の手伝いをしていた。前からよく肥えていたが、食べ物の仕事をするようになって更に肥え、絶えず水をガブガブ飲んでは汗をタラタラと流していた。その下の従弟は小学生、その妹は小学校に入ったばかりだったと思う。上の従兄は仕事が忙しかったので二番目と一緒に自転車に乗って魚釣りにいったり、近くの小学校の校庭でキャッチボールをしたりした。


 今ではすっかり改築して近代的になったと聞くが、その頃は藁葺きの農家を一部改造して店を作っただけで、部屋も少なく、そこにはいつも山のように商品が積んであったりしてとても暑苦しかった。台所は昔ながらの土間にかまどで、ススが天井や梁にこびりついて黒光りしており、水道がなく、井戸からつるべで水を汲むのだがその水がいつも濁っていてあまり気持よくなかった。


 でも商売柄食べるものは豊富で、店の奥には大きな冷蔵庫があり、のどが渇くとジュースや牛乳など飲み放題であった。又、わざわざ忙しい時間を割いて寿司を作ってくれ、堪能するまで食べたのだが、それでもまた皿に山盛りに盛ってくれ、「もうお腹いっぱいや」と言っても承知せず、しまいには「なんで食べてくれへんのや」と叔父に泣くように哀願されて往生した。農家風の歓待というものだそうだが、胃袋にも限度があり困り果ててしまった。帰ってから父にこの話をすると、「ワシもいつも往生するんや」とのことであった。


 丁度旧盆の阿波踊りの時期で、夕方になると小学校の校庭でその練習が行われた。阿波踊りのグループを「連(れん)」というのだが、この界隈でも「○○○連」というのを作って、当日は早じまいしバスをしたてて市内に乗り込むという。さすがに私は見物するだけであったが、従兄妹たちはそろいの浴衣を着て懸命に練習しており、その姿は実に溌刺としていた。


 当時小学生の二番目の従弟はその後東京へ出て、働きながら明治大学の二部に通っていたが、何度目かの帰省の折り、例によってバスに乗って市内に踊りに行き、その最中急に気分が悪くなり、急いで病院に担ぎこまれたがそのままそこで息を引き取った。


 死因は心臓麻痺ということであったが、そういう病いのことは全然聞いたことがなかったので実に意外であった。この当時会った時は黒く日焼けしたやんちゃ坊主で、いつも兄貴と喧嘩ばかりしていたが、東京へ入学試験を受けに行った帰りに大阪に寄った時は、相変らず色は黒かったが眼鏡をかけたりして全然落ち着いた風に変っていたので驚いたものである。


 電話で急を知らされた両親が慌てて徳島へ駈けつけたその留守番の時、大阪の新聞にも小さく載ったその記事を横目に、アルバムをひっぱり出し、その時うちで写した写真を見直してみると、その学生服の姿は心なしか元気がないように思えた。テレビをつけると、おりしも猛暑の中、太田投手の三沢高校と井上投手の松山商業が甲子園の決勝戦で引き分け再試合となる激闘をしていたのを憶えている。


 日開(ひがい)を出て、もう一軒やはり母方の親戚がある今切(いまぎれ)というところに立ち寄り、市内出来島(できじま)町のKの家に帰った頃にはもう阿波踊りは始っていた。


 阿波踊りはそれまでにも何回か見物していた。昔は各町内で「連」を作り、町内から踊りながら出発し市内中心部へなだれ込むという、まさに市全体、県全体が《踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃな損々……》というお囃子にのって三日間は踊り狂うというものだったらしいが、この頃にはぼつぼつそういう風習も崩れはじめていたようだ。


 町内グループの「連」は減り、そのかわりに職場、学校などを中心とした「連」が増え、市内目抜き通り何ヶ所かに桟敷のある競演場が設けられ、そこへ膨大な踊り子が結集するのだが、踊るのはそこでだけ、という風になりつつあった。


 Kと私の二人は暑い中、連日一緒に見物に行ったのだがそれにはある目的があった。というのは、毎年阿波踊りの観光用ポスターになる「蜂須賀(はちすか)連」というのがあり、そのリーダーの眼鏡をかけた太鼓腹のオッサンの踊りが絶品だと聞かされたからである。


 ひょっとこかぶりに尻からげ、腰を落して出来うる限りのおどけた表情をつくって激しく踊るというのが「男踊り」の特徴で、「のんき連」その他の有名グループにはその名手がたくさんいるのだが、蜂須賀のオッサンの踊りは、からだ全体の動きをぎりぎりまで抑え、それを手と爪先(つまさき)に集中させ、その動きだけで軽妙酒脱さを浮き彫りにするという破格なもので、それでいて阿波踊りの本来の味をしっかり把んだ、まさに優雅そのものだというのである。


 Kの家の者全てが蜂須賀のオッサンの踊りを絶讃し、そして見ていないのが私ひとりだというのがまた口惜しく、そこで、阿波踊りなどもう見飽きたという顔のKを無理矢理ひっぱり出して、連日昼夜と市内を歩きまわったのである。ところが歩けど歩けど目指す「蜂須賀連」は見当らず、くたくたに疲れた最終日の夕刻、もうあきらめて帰る途中、ふとポスターで見慣れたあの濃紺の浴衣を見つけたのだ。


 しかし、それは競演場で今ひと踊りした帰りという風のグッタリした「蜂須賀連」で、みんなそこここに立ったり坐ったりしてひと息入れているところであった。それでもお目当てのオッサンを一目見たいと捜してみると、オッサンはなんとゴミ箱に腰かけて汗を拭きながら一服くゆらしているではないか。


 しばらくは、ファンが憧れの大スターを見るようなうっとりとした熱っぽい目でオッサンを見ていたが、「蜂須賀連」はいくら待っても一向に動く気配はなく、「ぼつぼつメシでも食おか?」という声が聞こえてくるとこちらも急に腹の虫が鳴り出し、結局オッサンの踊りは見ないまま大阪に帰ったのである。


 その後観光としての阿波踊りは年々盛んになる一方で、いつか夏、東京の国電の中で思いがけず「杉並阿波踊り大会」なるポスターを見て驚いたことがあったが、私がこの時に見て以来、もうすでに十五年にもなれば、本来盆踊りの一種であった阿波踊りもある意味では衰退し、地元ではなく県外者の娯楽になり果てているのではないかとさえ思われる。


 だからこの時は踊りを見物したというより、その舞台裏の街路を汗だくになって歩きまわったという印象しかない。それ以前に何回か見ていたので、私にも今更、という気があり、ただ蜂須賀のオッサンの存在ゆえに三日間も暑い中を歩きまわったのだ。


 でもそのおかげで徳島市が大阪に比べていかに小さい都会であるか、丁度、当時私が住んでいた旭区ひとつと同じ位の規模しかないのを知った。その頃、大阪の私の家の近くには邦画五館、洋画三館の計八館もの映画館がすべて歩いて五分以内のところにあったが、徳島市内の映画館もこんなものではなかったかと思う。その中の日活封切り館へKと一緒に行った思い出の方が踊り見物よりも強烈である。


 ある時、Kは自分の机のひき出しから一冊の手帳をとり出して私に見せてくれた。開いてみると、中には鉛筆でていねいに書かれた字がいっぱい積まっている。よく見るとそれらは全て映画のタイトルであった。高校時代から映画好きであったというKは卒業後家でブラブラしている時にもまめに映画館に足を運んでいたらしいが、その手帳はそれら彼が見た映画の全リストであった。


 日付のあとに、題名、主演者、監督、そして劇場名も記されている。パラパラめくってみると週に二回ほどの割で行っていて、邦画が断然多かったが、その中には以前彼が大阪へ来た時、私と一緒に見に行った記録も書き込まれていた。


 Kが日活の小林旭の熱烈なファンであることを知ったのはこの時である。丁度売り出しの時期で、Kは旭の映画は脇役のも含めて全て見ていると豪語した。そしてその中には大阪の私の家の近くで見たものも含まれているではないか! 当時私は東映のチャンバラ映画とインディアンの出てくる西部劇専門で、旭の映画は全然記憶になかったのだが、聞いてみると、どうも私が学校へ行っている昼の時間に一人で見に行ったらしい。


 Kはその手帳片手にそれぞれの映画について詳しく説明してくれた。中に私が見た映画もあり、私がうろ憶えの記憶でそのストーリーを話すと、その記憶違いをひとつひとつ訂正し、さらに細かいところまで話してくれたのには全く驚かされたものである。


 そして話が大いに弾んで、結局いっしょに旭の映画を見に行こうということになった。当時大ヒットしていたペギー葉山の「南国土佐をあとにして」が旭主演で映画化され、ちょうど封切中であったので、その明くる日、早速市内の繁華街《東新町》の日活封切館へ行ったのである。


 小林旭は確かギャンブラーでダイスの名手であったと思う。そしてその恋人役が浅丘ルリ子、旭に岡惚れしているマダム役が中原早苗だった。タクシーの中で中原早苗が酔った勢いで旭を口説きにかかり、無理矢理抱きつこうとして旭に厳しくはねつけられるシーンなど、私にとって妙になまめかしい記憶として残っている。


 又、ラストが鮮やかで、ダイス合戦になるのだが、敵が抜群の目を出して旭、万事休すと思った途端、さっと開いた旭のツボのダイスは全て「一」で、そのうえ、なんと、それらが一直線に高く積み上げられているではないか!


 冷房された館内を出ると外はまだ夕方前で暑く、いちどきに汗が吹き出てきたが、前日のあの饒舌なKは帰るまでひとことも喋らなかった。ひとりで楽しさを噛みしめていたのだろうが、今から思えば、惚れた女を友達に紹介した時のような照臭さがあったのかもしれない。そのあとしばらく映画の話はしなかった。


 Kとの話題はその他にプロ野球と大相撲があった。彼はこれらについてもやたら物知りで、私の家族にはそういう者は一人もいなかったので、結局、私は彼によって野球や相撲の観戦の面白さを教わったようなものである。


 「赤バットの川上」が当時のKの大のひいきで、つられて何もわからずに川上、川上と口走っている私に子供用の小さな赤バットをくれたりした。私が当初しばらく巨人ファンであったのはKの影響以外の何物でもない。といっても、川上哲治の他、千葉茂、別所毅彦などが大活躍したいわゆる第二期黄金時代は殆んど知らず、かろうじて記憶に残っているプロ野球は魔球王杉下茂の中日が初優勝したあたりからである。そして私が巨人ファンとして最も熱が入っていたのは、不幸にも昭和31年(1956年)から昭和33年(1958年)まで西鉄ライオンズに日本シリーズで惨めな三タテを食らわされた時であった。


 ちょうどテレビが出廻りはじめた頃で、テレビを置いた喫茶店が大繁盛し、京阪電車の特急にテレビカーというのが登場した時代である。もちろん小学生の私は喫茶店など入れず、街頭に置いてあるテレビだけが楽しみで、夕食後よく近くの商店街に出てテレビが映っているところを捜したものである。


 すぐ近くの洗濯屋と果物屋にテレビが置いてあった。といっても、角の洗濯屋には、商店街から入った店の奥つづきの仕事場にテレビがあり、格子窓の外の道から背伸びしてかろうじて見えるというものであった。又、果物屋は店頭に置いてあったが、客寄せに使っていて、見物が子供ばかりになると非情にもプチンとスイッチを切ったりして口惜しい思いをしなければならなかった。


 電器店も見せ惜しみをし、仕方なく、ある晩、商店街をフラフラと歩いていると、商店街の中央辺りにある染物屋の店先きに人だかりがしていた。昔風の造りで土間と上がり座敷があり、土間のガラス戸のそばに、丁度通りと平行するかたちにテレビが置いてあり、店の者は座敷から、見物人は戸口に首を突っ込んで野球中継を見ていたのである。


 その後ここには何回も通ったが、どうも大旦那風の老人が野球好きらしく、ナイター中継のある時には、見ず知らずの人が首を突っ込んでるのも、商売の邪魔になるのも一切構わず、いつもニコニコと鷹揚に微笑みながらテレビを見ていた。


 見物人の多い時などは土間を開放し、外から首を伸ばしていると、「にいちゃん、こっちおいで」と前のよく見えるところへ坐らせてくれたりした。阪神・巨人戦で巨人満塁のピンチでカウント、ノースリーになった時、引退寸前のロートル投手中尾碩志(ひろし)が出てきて、阪神の強打者田宮謙次郎を三振に仕留めたという、歴史的なワンポイント・リリーフ場面を見たのはこの店である。


 歩いて十分位のところにある「新森(しんもり)公園」には街頭テレビが置いてあったが時間が決まっていたのであまり見ていない。


 それよりはるか遠い30分もかかる「城北(しろきた)公園」のそばの電器店へ行ったことは数回ある。日曜日に公園へ遊びに行った帰りに、偶然見つけたのだが、はっきり見物人に見せるべく表に向けてテレビが置いてあり、意地の悪いおやじもいなかった。ここではよく夕方相撲中継を見、栃錦、若ノ花、朝潮、大内山らの活躍を憶えている。


 又、同級生の家のそばの風呂屋の二階にもテレビがあり、連続活劇「日真名(ひまな)氏飛び出す」というのを見るために毎週土曜日、その友達を誘ってその風呂屋へ行き、からだを洗うのもそこそこに急いで二階へ上がり、同じようにテレビを見に来る子供達といっしょにいつも2時間ほどそこで時間をつぶした。その後、その友達の家がテレビを買い、もともと遊び友達でしょっちゅう路上でゴムまり野球をしていたのだが、テレビを見せてもらうためにのみ遊びにいったこともしばしばある。


 こうしてテレビを見るために精力的にあちこちへ出掛けていたのだが、この頃の私の念願はゆっくり寝転ろび、くつろいで存分テレビを見てみたいということであった。


 ところで当時の西鉄ライオンズは中西太、豊田泰光、大下弘などの強打者をそろえた空前の黄金時代を誇っていた。昭和29年の日本シリーズではフォークボールの杉下の力投に屈し影が薄かったが、31年再び日本シリーズに登場し、新人投手稲尾和久の活躍もあって古豪巨人を4勝2敗で破って一躍脚光を浴びた。


 私がテレビで見たのはその翌年の日本シリーズであったが、とにかくどうしようもない格の違いを感じた。稲尾が大きく成長して35勝もあげる大エースになり、中西、豊田は全盛期、大下も健在、それにいいところで五番関口清治が快打を放った。


 ところが一方巨人はというと、南海の挑戦を四たび一蹴した黄金時代のメンバーはもはやなく、川上は衰え、与那嶺要、宮本敏雄が中心打者で、投手陣はというと堀内庄、義原武敏、新人の藤田元司あたりが、テレビで見ると実に頼りなげに投げていた。


 この頃「野球少年」という雑誌があり、毎月、貸し本屋で借りて読んでいたのだが、その中にプロ野球月間報告のようなのが漫画であり、「藤田投手のバナナ暴投」という文字があった。カリプソの「バナナボート」にひっかけた洒落だが、新人藤田はスタミナがなく、好投しながら8回頃になると急に打たれ、暴投がやたら多かった。「藤田、○回に崩れる」という見出しを新聞で何度見たことか。


 この年は4敗1分と巨人は全然歯が立たなかった。当時はオールスター戦でもパシフィックが圧倒的に強く、西鉄勢の他に、山内和弘、野村克也、榎本喜八ら強打者がゴロゴロいたのに対して、セントラルのバッターは新旧交替期でスケールが小さく、稲尾らの快速球やスライダーに手もなく捻られ実に哀れであった。「人気のセ、実力のパ」というキャッチフレーズは日本シリーズでもオールスターでも勝てないセントラルにとっては屈辱的なものだったのである。


 翌33年、巨人は東京六大学のスター長嶋茂雄を入団させ、宇野光雄退団以来、「穴」といわれた三塁が埋って意気揚々と日本シリーズにのぞんだ。日本シリーズはデーゲームのため土曜、日曜しかテレビ中継を見られないが、学校が終るやあわてて家に帰り、例の同級生の家へ終りだけでも見たいと走ったものである。


 憶えているのは第1戦開始前、解説者が「巨人の先頭打者の広岡達朗が稲尾からどんな当たりを打つかがこのシリーズのカギである」と述べると、その広岡がアウトにはなったが外野に大飛球を打って、「これでこのシリーズも面白くなる」とその解説者に言わせたことである。


 事実戦況はその通りで、意外にも巨入が緒戦から3連勝して、たちまち王者西鉄をカド番に追い込んだ。その第3戦は稲尾・藤田の投手戦で、決勝の三塁打を放ったのは広岡だった。同級生の家へ走って慌ててテレビのスイッチを入れてもらうと丁度その直後で大きな歓声をバックに広岡が三塁ベース上で「参ったか」と言わんばかりに仁王立ちし、マウンドではあの稲尾がガックリと肩を落して苦笑いをしていた。一瞬、何が起っているのかわからなかったが、しばらくして事情がわかり、よし、これでいける、と思わずニンマリしたものである。


 そのあとはよく憶えていない。雨で一日流れて連投可能となった稲尾がサヨナラホームランを打った第4戦のあとはアレヨアレヨという間に4連敗、ラジオを聴く気も起らなかった。最終戦の終り頃だけ、学校から帰って家でラジオを聴いたが、もう既に勝敗は決しており、なにくそ、といわんばかりに新人長嶋が走りに走ってランニングホームランした場面があったように思う。そして翌日の新聞には川上の現役引退の記事が出ていた。


 このあと巨人に対する愛情は急速に冷めていった。川上の現役引退ということもあったが、長嶋がますます人気を高め、高校球界のスター王貞治が入団したりして巨人が華やかに脚光を浴びだすと急にいやになってきたのである。堀内庄、義原、藤尾茂、宮本、土屋正孝、安原達佳(たつよし)、岩本堯(たかし)ら無器用で冴えなかったが一時の巨人を支えた選手たちが簡単に忘れられていくのが不満であったのかもしれない。そして国鉄のエースで巨人キラーでならした金田正一を入団させるに至って、いよいよはっきりと巨人を憎むようになった。


 土地柄ゆえ、私の近所には阪神タイガースのファンが多く、例のテレビの同級生は父親が毎日新聞社に勤めていたためか、毎日オリオンズ、そして3人でいつもゴムまり野球をやっていたもう一人は西鉄ライオンズで、巨人ファンはまわりにあまり見当らなかった。


 西鉄にコテンコテンにやっつけられて肩身の狭い思いをしながらも心秘かに応援していたが、その巨人がいつの間にかマスコミの中心となり、金田入団などなりふり構わぬ「オレがオレが」という自己中心主義、プロ野球の指導者面をして、厚かましくも「巨人軍は勝つことが宿命」などと言い出すと、そこに何か胡散臭いものを感じ、素直なファン気質を傷つけられた気がした。


 その後このような巨人をコテンパにやっつけてくれるかつての西鉄のようにチームを求めて「アンチ巨人」ファンをウロウロし、江夏豊入団頃から阪神タイガースに腰を落ちつけたが、その間、いろいろな本を読んでプロ野球の歴史など様々な知識を身につけた。


 私が子供の頃、川上、川上と言っていた時には川上および巨人というのはプロ野球のアイドルというだけではなく、人生の教育者のような存在であった。決して「片手捕り」しないとか、バッターボックスを絶対はずさないとかの川上神話が、野球一点張りの感があった当時の少年の世界では大きな影響力を持ち、プロ野球とは娯楽ではなく、少年にとってはいわば教育の手段なのだ、といった考えがプロ野球関係者にもあったような気がする。


 この考えは9連覇時代から現在にかけても巨人を中心に渦巻き、「健全娯楽」的イメージで少年ファンをかき集めているのだが、プロ野球の本当の面白さはもちろんそんなものではなく、野球だけしか出来ないといういわば野球馬鹿のような人間たちが寄り集って球場という大舞台で一回性のドラマを演じているというところにある、ということを知った。


 三原脩によれば、「人の好いやつはいざという時には役に立たず、何万という観衆に囲まれた中、たったひとりで勝敗をひっくり返すような人間とは往々にして実に人間的にはイヤなやつで、そんなやつに頼らねばならぬ監督というのは因果な商売だ」ということだそうだが、そういう、良く言えば個性的な、悪く言えばヤクザな人間たちがからだを張ってドラマをつくっていく、というところにプロとしての野球の何ともいえぬ味があるのだ。


 こういう視点から見ると、「職業野球」という蔑称で呼ばれ、数少ない観衆を相手に地方巡業的にゲームをしていた戦前のプロ野球や、万年最下位でやってもやっても勝てなかったかつての大洋ホエールズ、近鉄パールズ、消滅した高橋ユニオンズ、さらには先頃の黒い霧事件で永久追放になった小川健太郎、森安敏明、池永正明、田中勉、永易将之らの存在が妙に懐しく感じられる。

 さて、Kとは話しだけでなく、野球や相撲を模したゲームもよくした。紙相撲というのがあり、画用紙を暗記カード状に切り、それを折り曲げて立たし、紙箱の上に二つ向い合わせて箱をとんとんと叩き、その震動によってひっくりかえったり、押し出したりして勝負をつけるというものである。少々騒々しいが、実際の力士の名前を書いた紙の力士をいくつも作り、それらを対戦させて取り組み表を作ると、それぞれの紙力士にそれなりの特徴が出て結構面白かった。


 野球の方はKとは実際にはキャッチボールひとつしたことはなかったが、大阪へ来た時はピンポン球を買ってきてそれで室内野球をしたりした。祖父が中風で奥の部屋で寝ているのも構わず、ピッチャー誰それ、バッター誰それと言い合って、そのフォームを真似て投げたり打ったりして遊んだが、ピンポン球だとおもしろいように変化球がかかってとても楽しかった。


 でも何しろ狭い家の中でやるものだからよく母に叱られ、野球ゲームをするようになった。これもKの考案によるもので、やはり画用紙を暗記カード状に切って、そこに「本塁打」「遊ゴロ」「三振」などと書いたのを裏返して、トランプのように切ってめくり出てくるカードによってゲームを進行させるものである。


 市販のサイコロを使った野球ゲームと同じような原理であるが、ただKの着想の非凡なところは、それを単に二人の間だけのゲームとはせず、それぞれ現実のひいきチームを持って、思い通りに打順を組んでその記録を簡易のスコアブックにつけていくというものであった。


 そうするとまるで現実のゲームの監督をしているような気がし、又「バッター中西、あっ、打ちました。3ランホームラン、逆テ~ン!」などと実況口調で喋り合ったりすると現実の実況放送以上に興奮し、おもしろいものであった。


 Kが西鉄ライオンズのファンになっていると聞いて驚いたのはこの頃である。彼は盛んに監督の三原脩をほめたたえた。その時巨人ファンをやめた理由について多くは語らなかったが、今考えてみると、彼が川上、川上と言っていたのは私の記憶もあやしいかなり昔のことである。ひょっとして三原が巨人の監督をしていた時だったかもしれない。とすると彼は三原が戦後苦労して再建した巨人が好きで、その知謀と闘志あふれる野球に惚れ込んでいたのだろう。そしてその三原が巨入を追われて九州に落ちのび、田舎チームの西鉄を育て、ついに日本一の強力チームに築きあげた時点ではっきりと巨人を見限り、西鉄に移る決心がついたのではなかったか、と現在私は推測する。


 その後、彼は三原のあとを追って、大洋、近鉄、ヤクルトとひいきを変えていった。そういえば大相撲でも渋好みで、信夫山、成山、鶴ケ嶺といった小型の技巧派力士が好きではなかったか。


 とにかく私はこの野球ゲームに熱中した。当時寄宿していた例の母方の従兄が夜になって仕事から帰ってくると彼も誘って三人で興じたこともある。母方の従兄は中日ファンで、四国松山商業から入団した空谷泰投手がひいきだった。そしてKは西鉄、私は巨人を持ち、例によって丹念に記録をつけながら遊んだ。


 だから当時、この3チームのメンパーはよく憶えており、宙でスラスラと言えたほどであった。しかし、今思えば二十歳位のいい年令(とし)をした男が二人も小学生相手にこんな遊びに打ち興じているのは奇怪な光景で、多分二人とも私が余りにうるさく誘うものだから仕方なくいやいやつきあっていたのだろうが、そんなことは全然わからぬ私にとっては最高に楽しい時聞であった。


 ところで、このように徳島でブラプラ気ままな生活を送っていたKも、むこうでの就職が最終的に駄目とわかると、ついに意を決して大阪に出てくることになった。丁度父の勤めている工場に人が要るということでそこに住み込むかたちで就職した。私が高校へ入った頃である。


 来た当座は私も日曜日などよく遊びに行ったが、Kは工場のボイラーの横の六畳くらいの、ベッドが入った狭苦しい部屋で寝起きしていた。もともとのんびりした性格でもあり、別に苦にもしていなかったようだが、父は家に帰ってからよく、仕事がグズい、とぼやいていた。でもある時、その部屋で泊った翌朝、Kが朝食のパンを買いにいっている時、ふとベッドの下を見ると、そこには風俗雑誌が山のように積まれており、Kの私には見せぬ一面を垣間見た感じで、見てはいけないものを見てしまったような複雑な思いがした。


 Kも時々私の家に来て夕食をいっしょに食べたりしたが、そのうちに仕事に慣れ、こちらでの生活にも慣れるにつれてあまり来なくなった。私も足が遠のき、皮肉なことだが現実の距離が近くなってかえって二人の関係は疎遠になったようである。


 私もいつまでも子供ではなかったし、彼もそんな私を扱いにくくなっていたのだろう。二本の線路があって、ある時期たまたま並んで走っていた二本の列車が時が経つとともに当然のように違った方向へ逸れていったのだ。近くに住んでいるだけにかえって遠去かっていく同士顔をあわすのが心苦しく、そのうち殆んど会わなくなったが、自然の成り行きであったのかもしれない。その後、Kは結婚し、私は大学へ入った。そしてKが喘息で入院したと聞くまで、私とKとは全くの他人であった。


 Kと疎遠になってからも、彼に教わった野球ゲームだけは残った。時期的にははっきりしないが、断続的に、勉強の合い間の深夜など机の上にノートを出して手慰みを何年も続けていたと思う。そしてその後、大学時代の末期、勉強もいやになり、殆んど授業にも出なくなって毎日時間をもてあましていた時、それまでの途切れ途切れの熱中が一挙に昂じてその極に達したのであった。


 先日、本箱を整理していて当時の記録を見つけたが、その量たるや自分でも唖然とするほどであった。現在のプロ野球12球団中、8チームを選りだして総当りのリーグ戦をやっていたのだ。1シーズン終えて優勝チームが決まるまで延べ28試合消化しなければならないが、それを実に9シーズン、総計252試合もしたことになる。1ゲームするのに少なくとも20分はかかり、そのあと各シーズン毎に個人記録を整理して、打率、防御率なども算出しているから、実に膨大な時間と労力の浪費で、今思うと全く笑止の至りである。


 夜遅く机の上で、或いは寝床の中で、家の者に知れぬようにこっそりとカードを切り、それをめくり、そしておそらく何やらブツブツ小声で独り言を言いながら鉛筆を走らせている様は想像するだけでも異様である。でもその異様さは本人自身が一番よく知っており、その姿は誰にも見られてはならないものであり、そうした秘密めいた孤独のゲームの中に想像力は果てしなく膨脹していったのである。


 今、それらの記録を見直してみるとその緻密さに改めて驚かされる。各シーズン毎に打撃10傑、投手10傑の他、各部門の第1位など、現実のプロ野球に敗けぬほどの精巧さで、更に驚くべきことに各シーズン後にはその総評まで書き加えてあるのだ。


 こういう作業を際限もなく9シーズンもやり続けた原動力はおそらく記録マニア的な執着心であったのだろう。つまり、一度出来た最高記録が再び破られて更新されるそのささやかな快感が忘れられなくて、多少は意地にもなってやり続けていたに違いない。それは総評の中の次のような文章によく表わされている。


 「第1回リーグ戦ではルールにかなり不適切な面もあり、そのためケタハズレの記録が生れたので、以後ルールを一部修正した。その結果、未だに破れず、又今後も不可能と思われる記録がいくつかある。それは王貞治(巨)のシーズン17安打、興津達雄(広)のシーズン43打数、鈴木啓示(近)のゲーム18奪三振であるが、又、一方、若生智男(神)の防御率0.82、鈴木(近)のシーズン奪三振43、王(巨)のゲーム5安打などが破られ、或いは追いつかれたということは連盟として喜こばしいことである」


 「前シーズンの打者の三冠王(阪急・森本潔)に続いて今シーズンは投手の三冠王が出現した。高橋一三(巨)である。彼の抜群の安定性は4完投36イニングで僅か3点しか許さず、うち完封1回、他は全て1点に押えているという驚異的なもので、0.75という防御率は多イニングとしては群を抜いており、おそらく極限までいった記録のようである」


 「記録面では近鉄選手の一人舞台であった。前シーズンあたりから力をつけはじめた相川進、永淵洋三が首位打者、本塁打王をとり、又、土井正博も最終戦で永淵を抜いて打点王となった。投手でも鈴木が1.70と好成績を残した。相川は走塁の面でも大活躍でゲーム4盗塁を含む7盗塁という不滅の記録を残した。ついで阪神がめざましく、村山実が48奪三振と久しぶりに鈴木(近)の43という旧記録を塗りかえ、又、たくましくなってきた田淵幸一の4ホーマーをはじめ合計17本のホームラン攻勢が目立った」


 もちろんゲームはカードを切って完全な偶然性の上に展開されるので各選手の実績というのも全く偶然のものでしかありえないのだけれど、何回もこの偶然を積み重ねていくと何人かの優秀選手という必然性が生まれ、不思議なことに現実のスタープレーヤーと一致することも多かった。中にはもちろん現実には全く冴えない選手が私のリーグの中でスタープレーヤーになることがある。引用文にあった相川(近鉄)とか岩下光一(東映)などがそうであるが、まるで自分の手で育てあげたような愛着があった。


 こうして何回となく回数を重ねていくと、ここにひとつの立派な世界が出来あがる。カードと鉛筆とノートという小道具によって現実のプロ野球に匹敵しうる架空のプロ野球が生まれ、その中で私は一人で、コミッショナーや監督や新聞記者も兼ねているのである。その気にさえなれば、現実のプロ野球と同じように2リーグ各チーム26回総当り年間130試合ずつを消化する同じ規模のペナントレースを挙行し、秋になって現実のプロ野球で各優秀選手が表彰される頃、私のリーグでも同じような表彰を私一人の立ち会いの下ですることさえ出来るのだ。当然そこまで昂じることはなかったが、当時の欝屈した日々の慰みとしては最高で、これさえあれば現世的な幸福など一切いらないときえ思っていたほどであった。

 Kが喘息になったあと、私も一時からだを壊し、その時比較的具合のよかったKが見舞いに来てくれた。その時、これらの記録を、恥かしながら、と見せたのだが、Kは、へぇーと言ったまま何も言わず、そのあと二人で何年ぶりかでオールスター戦をやった。喘息の薬の副作用とかでKの手はやや震え気味で、昔のような独特のていねいな字は書けなかったが、それでも快くつきあってくれた。そのKも今やこの世にはいない。


(初出誌: 「樹海」第3号 1975年9月)


自註

「樹海」第3号に一括して発表した『夜歩く(下)』では、舞台は、大阪・千林になります。

 

夜歩く(上)