わがデジタル創世記 

    ~ Macへの道 ~ (6)




映画館の黄金時代

 現在私が住んでいる大阪市旭区の千林界隈は、幸いにして「空襲」を免れたこともあって、戦後、大阪市内の各地からたくさんの人が移り住み、戦前からあった「商店街」は大いに賑わっていた。私の家族が引っ越してきたのも、私の小学校入学直前の1951年のことで、当初、はじめて見る人々の賑わいに子どもながらも心弾ませ、母親にくっついて、買い物客の中をうろうろする毎日だった。

 そんなある時、商店街の中心にあって、いつも混雑している「公設市場」の人混みの中に迷いこんでしまったことがあった。必死に母親のあとを追って、狭い通路を押し合いへし合い、なんとか、裏口の明かりにたどり着いた時、そこで、青空を背景に大きく聳(そび)え渡る「映画館の看板」をはじめて目にした。

 それは時代劇で、ざんばら髪の上半身裸の男が、風呂場で槍を突きつけた侍と対峙している場面であった。「風呂場と槍」という異様なその情景は長い間、私の瞼に焼きついて離れなかったが、その映画が『大江戸五人男』という作品であることが判明したのは、それから30年余りのちの、京都で催された「阪妻映画祭」の時だった。ざんばら髪の男は、阪東妻三郎演ずる「幡随院長兵衛」で、相手は市川右太右衛門の「水野十郎左衛門」、松竹30周年記念映画と銘打ったオールスター映画であった。

 市場裏のその映画館は「松竹映画封切り館」であったが、私の町にはその頃、それ以外に、「東宝」「大映」「東映」「日活」の邦画五社の「封切り館」のほか、洋画では、少し前にロードショーされた作品を二本立てで観せる「二番館」と、さらに古い洋画が三本立て50円で観られる「三番館」など、あわせて3館があった。

 まだ映画以外にあまり娯楽のなかった時代で、映画館は、日曜祭日はもちろん、平日の夜もたいてい満員で、クーラーもなかった真夏でも、天井にぶら下がったヘリコプターのような扇風機の風を頼りに、汗をいっぱいかきながら、必死でスクリーンに見入っていたものである。映画のメニューは毎週変わることになっていて、各映画館のポスターが、銭湯や街角、駅のホームなど、至るところに貼られていた。

 市場裏の松竹封切り館には、母親らに連れられて、何度か入ったことがあったが、松竹はいわゆる「女性映画」が多く、私にはあまりおもしろくなかった。当時、私たち男子が熱狂していたのは「東映映画」だった。

 映画以外の娯楽に「ラジオ」があった。

 当時、『君の名は』というラジオドラマが国民的な人気を得て、それが放送される木曜日の夜8時半には、銭湯の女湯が空っぽになる、と云われたほどだったが、子ども向きの人気番組には、『新諸国物語』というのがあった。

 これは毎日夕方、15分ずつNHKで放送される「連続時代劇冒険活劇」ドラマだったが、1952年に『白鳥の騎士』、1953年『笛吹童子』、1954年『紅孔雀』と、1年ごとに話が変わる大長編で、ほとんどの子どもたちはその時間、ラジオにかじりついていた。

 この人気に目をつけたのが、戦後に設立された東映で、歌舞伎や日本舞踊の世界から転身してきた中村錦之助(萬屋錦之介)、東千代之介を主役に映画化、子どもたちの間に爆発的な人気を博した。

 『笛吹童子』は三部作、『紅孔雀』は五部作だったが、それぞれ1時間足らずの中編映画で、毎週新しい続編が上映された。『紅孔雀』は、私が小学4年生の時であったが、年末正月の封切りで、地元の東映上映館の前には長蛇の列ができ、やっと中に入っても超満員で、一番前の舞台の端っこに腰掛けて観たのを憶えている。

 「チャンバラの時代劇」と「インディアンの出てくる西部劇」がその頃の私のお気に入りだった。父や、10歳年上の姉、そして、たまたま田舎から遊びに来た、姉と同年配の従兄らにせがんで、そんな映画をよく観に連れていってもらったが、近所の映画館には事欠かなかったので、その点は便利だった。しかし、こんな娯楽の構図も、テレビの出現で一変する。



テレビの出現

 日本でテレビ放送が始まったのは1953年のことだったが、当初はテレビ受像機が20~30万円、今で云えば数百万円もしたので、一般家庭で持っているところはまずなかった。そこで普及のため、人の集まりそうなところに「街頭テレビ」が設置されて、人々はそれに群がって、当時大人気の「プロレス」中継などに観入ったものである。

 そのうち、客寄せのためにテレビを店内に置く喫茶店や食堂などが出てきて、やがて、大阪・京都を結ぶ「京阪電車」の特急には「テレビカー」という車両が設けられたりするようになった。

 私の近所では、歩いて30分ぐらいのところにある「新森公園」という少し大きな公園に「街頭テレビ」があったが、さすがに遠く、わざわざ行っても、収納庫の蓋が閉まっていて観られなかったことが多かったので、あまり行かなかった。

 家のすぐ近くに、大きな洗濯屋があり、アイロンを当てたりする作業場にテレビが置いてあって、夏など、開け放しになった窓からそのテレビを見ることができた。音はよく聴こえなかったが、それでも野球中継などはよく分かって、通りすがりの大人たちもよく観ていた。

 商店街の角にあったある果物屋は、その横道を利用してなかば「オープンテラス」風のテーブルを置いて、果物のジュースなどを飲ませていたが、その客向けにテレビが置いてあった。そのテレビを観るにはジュースを飲まなければならなかったのだが、客の少ない時間帯には店主の気まぐれで、集まってくる子どもたちには見て見ぬふりで観せてくれることもあった。

 商店街の中ほどに染め物屋があって、昔風の畳敷きの店構えだったが、その土間を入ったところに、多分、上がり框(がまち)に腰掛けたお客さんに観せるためのテレビが置いてあった。だから、外からはよく見えないのだが、その音につられて、人が集まってくることがあり、そんなとき、優しげなご隠居さんが、子どもたちを中に入れて、土間に座らせてくれることがあった。たいていは、プロ野球中継で、たしか1956年の巨人・阪神戦で、満塁の大ピンチに阪神四番の田宮謙次郎に打順が回ってきた時、巨人の水原監督がベテラン左腕の中尾碩志(ひろし)をマウンドに送って、見事に三振に切ってとった、「日本初のワンポイントリリーフ」の場面を目撃したり、同じ年のオフに来日した「ブルックリン・ドジャース」の、あの黒人大リーガー第1号選手ジャッキー・ロビンソンを観たのも、この店だったと思う。

 その他、街頭テレビのあった新森公園よりももっと大きくて、もっと遠くにあった「城北公園」の近くにあった電器屋は、いつもテレビを外に向けて放映しているというのをある友人から聞いて、大相撲の千秋楽の時など、歩いて40分以上もかかるその電器屋までわざわざ出かけて行ったこともある。ちょうど、栃錦、若ノ花が頂点を極めていた頃であった。

 さらに、同級生の友人宅の近くの銭湯にもテレビがあるというので、そこへはその友人たちといっしょに、毎週土曜日夜9時10分から始まる『日真名氏飛び出す』という、連続サスペンス活劇ドラマを観に行った。そこは、脱衣場ではなく、その二階の、おそらく居宅の居間に当たるところにテレビが置いてあって、そこを特定の時間だけ、主に子どものお客に開放していた。先に急いでお風呂に入って、その部屋に入ると、すでに部屋いっぱいに、10数人の子どもたちが一心不乱にテレビを観ていた。

 このように、まるで、オアシスのある場所を渡り歩く遊牧民のように、テレビのあるところを巡り歩いていたのであったが、やがて、ある友人宅にテレビが入ると、そこに子どもたちが集まるようになった。それほどまでもテレビを求めていたのは、映画館でしか観ることができなかった「動く映像」を、身近に、「無料で」観ることができたからであった。

 テレビはだんだんと普及してきて、受像機の値段も大分下がっていた。といっても、それはサラリーマンの月給の数倍もしたのであるが、そんな無理を承知で、多くの人々がテレビを購入するきっかけとなったのは、1959年4月10日の「皇太子ご成婚パレード」であった。私の家にようやくテレビが入ったのも、例にもれず、その時であったが、当日は、まだテレビを持っていない近所の人々もやってきて、いっしょに「世紀のイベント」を観覧したものである。

 でも、このパレードを観たいというのも、実は口実みたいなものであった。わが家でも、年末の大晦日には、ひと足早くテレビを購入した近所のおうちに、それこそ家族総出で「紅白歌合戦」を観せてもらいに行ったりしていて、そんな気兼ねなしに、わが家でゆっくりと観たいという思いが募っていたのであろう。



テレビでの「映画放映」

 テレビ視聴者が大幅に増えるとともに、放送局も急増した。

 それまで、大阪には、NHKと「大阪テレビ(ラジオ東京と日本テレビをクロスネットしたもの)」の2局しかなかったのが、1958年から1959年にかけて、日本テレビ系列の「読売テレビ」、日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日)系列の「毎日放送」、フジテレビ系列の「関西テレビ」が開局、 これまであった大阪テレビはラジオ東京(現在のTBS)系列として「朝日放送」となり、さらに、「NHK教育テレビ」も開局して、ほぼ現在と同じ陣容となった。

 テレビを使った「コマーシャル」が商品の売り上げに効果的と分かって、スポンサーが激増したこともあっただろうが、急に増えたテレビ局には、「番組制作」が追いつかなかった。

 そこで登場したのが、アメリカ製の「テレビ映画」である。『ララミー牧場』や『ローハイド』といった西部劇、『パパは何でも知っている』『奥様は魔女』などのホームコメディ、サスペンス・ミステリーでは『ヒッチコック劇場』『逃亡者』『サンセット77』『ペリー・メイスン』、そして、『スーパーマン』や『スタートレック』のようなSF活劇がお茶の間を賑わせた。「洋画」なのに「字幕スーパー」ではなく、「日本語吹き替え」になっているのが、目新しくもあり、また便利でもあった。

 さらに、外国の映画、とくにフランス映画の放映も多かった。憶えているのは、開局したばかりの関西テレビが平日の午後3時頃から放送していた「奥様名画劇場」で、この番組がユニークだったのは、同じ映画を一週間ずっと放映し続けていたことだった。

 多分、放送材料に事欠いた結果の苦肉の策だったのだろうが、上映される作品が文芸の香り高い、やや「小難しい」映画だったので、前日観落としたところをもう一回観てみたい、という需要をかなえてくれて、結構好評だった。

 とくに、初期に放映された、ジャン・コクトーの『オルフェ』は、その内容が謎めいていて、しかも、日本語吹き替えのセリフが「詩的」でロマンチックであったため、意味はよく解らないまでも、女性には人気があったようで、当時中学3年の同級生の女の子たちが、盛んにその口まねをしているのを耳に挟んで、私も、はじめて、この番組を知ったのであった。

 他に、人気絶頂の中、36歳で急死したジェラール・フィリップ主演の『愛人ジュリエット』という切ない作品や、ルイ・サルーが、夢想癖のある中学教師チルローのはかない片思いとその挫折を演じた『バラ色の人生』などが印象的で、今もよく憶えている。

 そんな影響で、少しずつ、新聞やラジオの「映画批評」にも興味を持つようになり、高校2年だった1962年には、世界中の良質な芸術映画の上映をめざして設立された「日本アートシアターギルド」の会員になった。年会費を納めると「会報」が送られてきて、大阪の上映館だった梅田の北野シネマという、地下にある小さな劇場に割引料金で入ることができた。

 上映は月替わりだったが、2ヶ月に1回位のペースで通って、『オルフェの遺言(ジャン・コクトー)』『ウンベルトD(ヴィットリオ・デ・シーカ)』『野いちご(イングマル・ベルイマン)』『アレクサンドル・ネフスキー(セルゲイ・エイゼンシュテイン)』『ピアニストを撃て(フランソワ・トリュフォー)』『彼女と彼(羽仁進)』『イワン雷帝(エイゼンシュテイン)』などの「名画」を高校時代に観た。当初は、同じ映画好きの友人を誘ったこともあったが、趣味が合わなかったようで、だんだんとひとりで通うようになった。しかし、私のこの傾向はどんどん深まり、高校3年生の時には、フランス語に憧れて、テレビのフランス語講座のテキストを買って、しばらく視聴していたこともあった。


 話をテレビでの映画放映に戻すと、フランスやイタリアの映画の他に、大きな供給源となったのは「新東宝」だった。

 戦後まもなくの「東宝争議」の最中、東宝労組から脱退して生まれた新東宝だったが、その後、争議が収まった東宝が映画製作を再開するにつれて、その存在意義を失い、14年後の1961年に倒産した。そのとき、新東宝の膨大な作品の放映権が一挙に各テレビ局に売却されたのである。

 新東宝映画といえば、後期の大蔵貢社長時代の「エログロ」路線の印象が強いが、設立された頃は、製作がままならぬ東宝に代わる意気込みの「文芸映画」が多かった。テレビ放映初期に放送された、溝口健二監督の『西鶴一代女』は、高校生の私には衝撃的だったし、成瀬巳喜男監督の佳作『石中先生行状記』には、三船敏郎が脇役で出ているのに驚いたりした。

 やがて、作品が尽きてくるにつれて、いわゆる「エログロ」路線の「お色気映画」も、深夜の映画劇場で放送されるようになった。昔、扇情的なポスターに秘かに胸を躍らせた作品も放映されたが、肝心のところはカットされていたのか、「期待」していたほどの映画ではなかったような気がした。

 しかし、この新東宝作品の大量放映の結果、それまで、陽の当たらぬところにいた「新東宝の若手俳優」たちが脚光を浴びるようになった。宇津井健、天知茂、丹波哲郎、池内淳子、三ツ矢歌子らは、テレビを敵視する邦画五社(松竹、東宝、大映、東映、日活)が自社スターのテレビ出演を一切認めなかったのを尻目に、 次々とテレビドラマの主役の座を獲得して、「お茶の間のスター」へとのし上がっていき、松竹や東映に移った、菅原文太、若山富三郎、吉田輝雄、三原葉子、万里昌代らは、それぞれ、会社の新しいスターや名脇役の地位を手にすることになった。



「名画」や「話題作」を求めて

 さて、高校時代からアートシアターの劇場に通い、そのたびに、パンフレット替わりに機関誌「アートシアター」を買うと、そこには、その月の作品の「完全シナリオ」と、その作品についての、いろんな「映画評論家」による、さまざまな角度からの詳しい解説がいっぱい載せられていた。それらを熟読し、さらに、岩波新書の映画に関する本を買い漁って読んだりするうちに、大学に入った頃にはすっかり、いっぱしの「映画青年」になっていた。

 しかし、大学では広い世界が待っていた。学内の書店には、それまで見たこともなかった映画関係の書籍が並び、校門の横の新聞スタンドに置かれた「大学新聞」には、若き映画青年たちの批評が数多く掲載されていた。難解な表現が連続するそれらの文章は、単に映画作品を批評するだけではなく、その背後にある「社会」や「政治」を激しく論じるような内容であった。

 前回登場した、私たちの間にはじめて「ステレオ」を導入したO君も映画好きで、彼と仲良くなったのは、そもそも映画を通じてであったのだが、その彼に教えてもらった「小川徹」の映画批評にすっかり夢中になったものである。

 小川徹の映画批評の特徴は「裏目読み」といって、その映画のストーリーや映像の裏に隠された「政治的な意味」などを解明する、というものであった。それはそもそもは、1950年代、ソ連との「冷戦」が始ったころ、映画の都ハリウッドでも、「共産主義者」やその同調者(シンパ)が職場から追われるという「赤狩り」旋風が吹き荒れたが、その時追放された脚本家のダルトン・トランボが、のちに匿名で書いた『ローマの休日』や『スパルタカス』にどんな想いを込めていたか、また、逆に、仲間を「売って」生き残った、『エデンの東』で有名なエリア・カザン監督の作品には、彼の複雑な気持ちがどのように現れているか、などを細かく分析したもので、さらには、その手法を日本人の作品にも当てはめて、発展させていったものであった。

 私は古本屋で『大きな肉体と小さな精神』という小川徹の評論集を見つけ、O君の持っていた『亡国の理想・肉体的映画文明論』や『現代日本映画作家論』と貸し借りしたり、当時、小川徹が編集していた『映画芸術』という雑誌を時々購読したりした。

 さて、こんな本や雑誌をいろいろ読むと、当然、いろんな映画についての知識が豊富になってくる。しかし、そこで取りあげられている作品を実際に観る機会はほとんどなかった。せいぜい本の中に掲載された「スチール写真」を観て、熱っぽく批評されている作品の「香り」を想像するしかなかった。

 「アートシアター」で上映されるラインアップはある程度、それにかなったものだったが、それ以外に、古い名画や話題作を見せてくれたのが、大学の「西部講堂」だった。

 そこでは毎週のように、映画部と生協組織部主催の映画会が午後に催されていた。もう50年近く前だが、たしか入場料は50円だったと思う。そこで、大島渚の『日本の夜と霧』、トニー・リチャードソンの『マドモアゼル』、深作欣二『狼と豚と人間』、ヒッチコック『鳥』、ゴダール『軽蔑』、トリュフォー『突然炎のごとく』、フェリーニ『甘い生活』などをはじめて観たのを憶えている。

 洋画の「名画座」のような映画館はいくつかあった。京都では、四条石段下の「祇園会館」、大阪では、桜橋の「大毎地下」、戎橋の「戎橋劇場」などにもよく通った。ジョン・シュレジンジャーの『真夜中のカーボーイ』、ビートルズの『ヘルプ』、オリビア・ハッセー主演のホラー『暗闇でベルが』、アメリカン・ニューシネマといわれた『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『アメリカン・グラフィティ』などを観たのもこれらの劇場である。

 1970年代の後半になると、大阪堂島の「毎日ホール」で定期的におこなわれる「名画上映会」にもよく通った。これは、コンサートなどの入っていない「ホールの空き日」を利用して、和洋の名画が廉価で上映されるという企画で、私は、購読していた毎日新聞が毎月集金に来る時にもらった招待券で見に行った。多分観客のほとんどはその招待券利用のようで、いわば、新聞の「販売促進」のための行事だったのかもしれない。

 ここで観た作品では、日本映画が印象的であった。藤田敏八監督の『赤ちょうちん』『妹』『18才、海へ』などは、当時の若者の苦い青春を描いて鮮烈であったし、山口百恵主演の『ふりむけば愛』、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、木下恵介監督の『父よ母よ』、現代の自衛隊が戦国時代にタイムスリップして、甲斐の武田軍団と闘う破目になるという『戦国自衛隊』など、その頃の「話題作」「問題作」も観た。

『東京物語』『彼岸花』『小早川家の秋』『秋刀魚の味』などの小津安二郎作品を観たのもこの時が最初であった。登場人物が、低いアングルのカメラに真っ直ぐ向かって、淡々とセリフをしゃべるという「小津スタイル」に最初、度肝を抜かれたが、慣れてくるとその静謐な日常世界の描写にだんだんと惹かれていった。

 黒澤明の映画は、『椿三十郎』や『赤ひげ』を封切り時に観ていたが、戦後まもなくから1950年代あたりの作品、『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『どん底』『悪い奴ほどよく眠る』などを観たのは毎日ホールがはじめてだった。そして、そんな中で、私が大きな衝撃を受けた作品は、1949年製作の『野良犬』だった。

 デビュー間もない三船敏郎扮する新米刑事が、バスの中でコルト拳銃を掏摸(すり)にスラれたことに端を発したストーリーが次々と展開、発展していく心地よいテンポに加えて、その背景に、戦後まもなくの東京の闇市や住宅地の光景、それに、一リーグ時代のプロ野球の黄金カードだった「巨人・南海戦」の実写フィルムが挿入されるなど、もちろん、その当時のことは憶えているはずもない私にも、たまらない郷愁の念を呼び起こすとともに、映画というものが、「時代風景・時代風俗」の貴重な記録でもあることを知って、狂喜したのであった。

 この映画は私にとって忘れられない記憶となり、その後、なんとかもう一度観てみたいという欲求に囚われたものであったが、それがのちに容易に実現できることになった。つまり、このあと詳しく述べる「ビデオテープレコーダー」をはじめて購入した時、一番に、「レンタルビデオ店」から借り出したのが、この『野良犬』だった。

(つづく)



【自註】

 あと1回で全部書いてしまうつもりでしたが、導入部の話がどんどん肥大していったので、全体のバランス上、2回に分けることにしました。本題は次回になるのですが、ほぼ出来上がっているので、ほどなくアップロードします。   (2014.8.21)


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