わがデジタル創世記 

             ~ Macへの道 ~ (5)




「8ミリ映画講習会」

 学校に就職して何年か経った頃、たぶん1970年代の中ごろだっただろうか、そのとき担当していた「視聴覚教育」の同僚の先生から誘われて、「8ミリ映画講習会」なるものに出席したことがあった。

 場所は、大阪市の中心部、地下鉄長堀橋駅近くのビルの中にある「野木」という視聴覚機器の専門商社の会議室であった。大阪府内の公立私立の高校からやってきた50名ほどの教師を前に、「エルモ」社という、8ミリ映画機器メーカーから派遣された人が、そもそも8ミリ映画とはどういうものなのか、どんな製品があるのか、8ミリ映画を撮影するときの注意点は何か、などの講義があったあと、実際に8ミリカメラを貸してもらっての「撮影実習」も用意されていた。

 8ミリ映画については、それまでテレビのコマーシャルで見た程度の知識しかなかったので、「カセット式」の8ミリフィルムには、アメリカのイーストマン・コダック社の開発した「スーパー8(エイト)」と、日本の富士フィルムが開発した「シングル8(エイト)」の2種類があることなどを、この時、はじめて知った。

 「実習」のために貸与されたエルモ社のカメラは「スーパー8」であった。そして、各人にフィルムが2本ずつ配られたが、撮影時間は1本が3分20秒、2本でも僅か6分40秒であった。それらを持って、そのあと、「天王寺動物園」まで、撮影実習に赴いたのだが、その前に受けた「撮影上の注意」とは、次のようなものであった。

 まず、初心者がいちばん犯しやすい間違いは、カメラを動かしすぎることである。1つのシーンについて、少なくとも5秒間はじっとしておかねば、上映された映画の観客にはその内容が十分に認識できない。よって、シャッターを押しながら必ず5つ数えること。どうしても、カメラを動かして、広い景色を撮りたい場合には、歩いている人物にカメラを向け、その動きを追うかたちでカメラを動かすと、自然な映像になる。

 次に、普通の写真では「フレーム(画面の枠)」は、トリミングすることによって、あとで自由に調整できるが、映画の場合は、それができないので、構図は撮影時に決めなければならない。そのため、どんなカメラでも「ズームレンズ」が付いているが、それはその場に居たまま、フレームを自由に決めるためのものである。

 もちろん、ズームアップをしたりすることもできるが、アップするとボケてしまうことが多い。それは「望遠」にすると焦点深度が浅くなってピントが合いにくくなるからである。そんな時には、シャッターを押す前に、いちど「望遠」にしてピントをきちんと合わせてから、もう一度、「広角」から「望遠」へとズームアップすればよい、等々。

 平日の天王寺動物園は閉園も近い時刻になっていたので、人はまばらだった。そんな園内を小1時間ほど巡り歩き、教わったとおりに撮影を済ませて、1週間後に現像された「作品」を返却してもらうということになった。

 翌週は、まず、全体的な「講評」と「注意点」の説明があって、そのあと「上映会」となった。時間の都合上、すべての作品の上映は無理なので、「比較的よく撮れている」作品が10本ほど連続で上映されることになった。

 さすが選ばれただけあって、どれも画面の安定した落ち着いた作品ばかりであった。だれの作品という発表はなく、似たような内容ばかりなので、撮った本人もよく憶えてなくて、自分のものだという確信はもてなかったのだが、それらの中に、どうも見覚えのある作品があった。しかも2本も。

 現像されたフィルムは赤いケースに入ったロールに巻かれていた。各自2本ずつ、紙袋に入ったのを返却してもらって、中を開けてみると、やはり、2本ともに「上映用」という小さなシールが貼ってあった。

 50人程が各自2本ずつなので約100本。選ばれたのが10本なので、10倍以上の競争率の中に2本とも入っていたとは、思いもかけない歓びだった。

 もともと映画を観るのは好きだったが、自分で撮ってみようなどとは、それまで考えたこともなかった。しかし、これをきっかけに、すっかりその気になってしまった。さっそく、『小型映画』というタイトルの専門雑誌を本屋でみつけて、8ミリ映画や、そのカメラなどについての知識を収集し、やがて、近くのカメラ屋で8ミリカメラを購入することになった。



8ミリカメラを買う

 事前に雑誌で少しは調べていたのだが、実際に店頭で実機に触って、店員さんの説明を聴いたりするうちに、当初の心積もりも変わってくる。結局、購入したのは、その日店頭ではじめて見た、キャノンの「オートズーム512XL」という製品だった。ズームは5倍、8ミリではストロボは使えないので、レンズは「F1.2」という明るいものを使っていて、7万円ほどしたかと思う。












 さっそく、このカメラを抱えて、いろんなところに出かけて撮影した。これといって目的となる「行事」もなかったので、いわゆる「風景スナップ」の撮影ばかりだったが、その後、何年か経って、結婚することになり、新婚旅行でハワイに行った時が、このカメラのピークだったかもしれない。

 撮った映像はきれいだった。スーパー8のフィルムは、はじめ、国産の小西六製の「サクラフィルム」を使っていたが、その後、コダック社製のに切り替えた。

 当時、フィルムの入った箱の色が、サクラフィルムは赤、富士フィルムは緑で、それぞれの会社の「自慢の発色」を示しているといわれていたが、コダックのそれは黄色だった。

 たしかにコダックの黄色は鮮やかだった。とくに夕陽に照らされた町の風景は、現実のそれよりも美しく、何か郷愁をかき立てるような味わいがあった。

 そのころ観て印象に残った映画に『赤ちょうちん』(藤田敏八監督)という作品があるが、そのラストの、引っ越しトラックが夕陽に照らされて橋を渡っていくシーンの色調がそれと同じであった。その映画のクレジットには「東洋現像所」とあり、そこはコダックの「イーストマンカラー」の専属現像所として有名だったので、ああ、同じフィルムを使っているのだな、と感無量になったのを憶えている。

 ただ、派手すぎて、日本の景色には合わない、という批判もあったようで、そのせいかどうか、しばらくして、色調がすこし穏やかなものに切り替えられてしまったのは少し残念だった。それでも、現像時に発色剤を注入する「外式」という方式の発色は抜群で、いちど使うと、少々割高だったが、もう他のフィルムは使えなかった。 

 ただ、8ミリ映画の欠点は、わずか3分20秒のフィルムが1本500円以上もし、現像代もそれぐらいしたので、お金がかかることであった。先の講習会でのアドバイスに、ひとつの作品は長くとも、たとえ「世界一周旅行」であっても、15分程度に収めること、というのがあったが、それは観客を退屈させないため、という他に、そのかかる費用を考えてのこともあったのかもしれない。

 それともうひとつ、音がない「サイレント」だということだった。真っ暗な部屋に白いスクリーンを吊るし、カタカタと鳴る映写機から無音の映像が映し出される、というのが8ミリ上映の光景だった。当初は、その中に自分や自分が見知った人物が動いている、というだけで「感動もの」だったかもしれないが、しかし、それが他人であれば、15分もする前に睡魔に襲われるだろう。

 私たちの「ハワイの新婚旅行」の映像も、友人たちには、ご馳走とハワイのお土産付きで、BGMのハワイアン音楽をステレオで流しながら観てもらったのだが、さながら、下手な義太夫を無理やり聴かせて奉公人や店子たちを困らせる、あの古典落語の『寝床』のような雰囲気になるのは否めなかった。

 のちに、フィルムの端っこに細い録音用の磁気の帯が塗布された、トーキーの「サウンドフィルム」が登場したが、それを使うには、カメラも映写機も買い替えなければならず、それが普及する前に、8ミリ映画自体が、急速に台頭してきた「ビデオカメラ」に取って代わられてしまった。




「ビデオカメラ」の時代に

 結婚して子どもができると、カメラは一挙に家庭の必需品となる。子どもの成長記録やちょっとした旅行などはスチール(静止画)カメラで間に合うが、幼稚園の運動会や学芸会ともなると、やはり動く映像が欲しくなる。そんな親たちの中には、私のように8ミリを回している者もいたが、「ビデオカメラ」を使っている者もいた。世の中は少しずつ「ビデオ時代」に入ってきていた。

 当時はまだ、カメラとレコーダーが別々になっていて、重いレコーダーのテープデッキを肩にかけ、もう一方の肩にビデオカメラを担いだ姿は、さすがに真似したいと思えるものではなかった。しかし、技術は日進月歩で、翌年には、VHSのカセットテープのレコーダーと一体となったビデオカメラ(カムコーダー)が現れ、いよいよサイレントの8ミリは時代遅れとなってきた。

 そこで、その翌年には、一体型のビデオカメラをレンタルして、撮影してみることにした。ビデオレコーダーがなくても、そのカメラをテレビにつなぐと撮影した映像をすぐに観ることができた。コダック・フィルムほどの鮮明さはなかったが、音が入ると臨場感が何倍にもなった。8ミリのように、時間とお金を気にせずにいくらでも撮影できるのもありがたかった。


 1980年代の中ごろ、ビデオカセットが小型化されて「8ミリビデオ」の規格が発表され、それにともなって、ビデオカメラもより小型になった。ソニーの「パスポートサイズ・ハンディカム」が大ヒットし、他社もどんどんと新製品を発表していった。1990年代に入ったそんな折り、もうそろそろいいだろうと、8ミリビデオカメラを買いに日本橋へ行った。

 とくにこれと、あらかじめ調べていったわけではなく、店頭で見て、好いのを捜そうというつもりだった。何軒か廻って、説明を聴き、だんだんと絞り込んで、最後に残ったのが、京セラの「Samurai video」という製品だった。店員さんによれば、「京セラのブランドですが、実はソニーのOEM(他社商標製品の受注生産)で、中身はソニー製品と同じです。ただし、ここだけの話、レンズは最近京セラが買収したヤシカの好いレンズを使っているから、その分、ソニーよりは上ですよ」、ということだったが、決め手となったのはやはり値引き率の大きさだった。














 このカメラは10年ほど使っただろうか。家族旅行や、小学校に入っていた子どもたちの運動会、学芸会の撮影であった。8ミリビデオのテープは1本1000円以下で、それで2時間も撮ることができた。もちろん、現像代など要らない。もはや時間の心配をすることなしに存分に撮ることができるようになったのだが、それはそれで、別の問題も生まれてきた。

 3分20秒撮るのに1000円以上もかかった8ミリ映画とちがって、お金の心配はなくなったので、つい、だらだらとカメラを回しっ放しにしてしまう。その結果、決定的瞬間を逃すということは少なくなったが、その数倍、数十倍もの「無駄な」画面が溜まっていった。

 「編集」して、それらを取り除けばいいのだが、そのうまい方法がわからない。ビデオデッキに接続して、必要な部分だけそこにコピー(ダビング)するしかないのだろうが、ダビングすれば画質はおちるし、だいいち、そんな作業が面倒に思えて、やろうという気が起こらなかった。

 8ミリ映画の時は、高価なフィルムを無駄にしたくなかったので、あらかじめ、何を、どういうふうに撮るかを、よく検討してから撮影していたので、「無駄な」シーンは少なかった。フィルムを切り貼りする「編集キット」もあったが、編集というよりは、現像されてきた何本かのフィルムを連結するためにだけ使っていた。

 というわけで、「世界旅行でも15分」といわれていたのに、1日の運動会だけで1時間以上という、いくら身内が登場するにしても、なんとも「退屈な」カセットがどんどんと増えていくことになってしまった。




そして「デジカメ」へ 

 1995年に8ミリビデオをさらにコンパクトにした「デジタルビデオカメラ」というのが発売された。そのテレビコマーシャルで、「これがこのカメラで撮影した映像です」といって流された映像は、普通のテレビニュースの映像と比べてもほとんど遜色がない、クリアなものだったのには驚いた。それは魅力的なものだったが、いま持っている8ミリビデオを買い替えてまで、とは思わなかった。

 時代は「デジタル」になってきていた。ダビングしてもまったく「劣化」しないというのがデジタルの強みで、いっとき、フィルムカメラに代わるものとして、ビデオカメラの「静止画(スチール)」の機能を特化させた「電子スチルビデオカメラ」という「アナログ製品」が発売されたことがあったが、まもなく「デジタルカメラ(デジカメ)」に取って代わられた。

 デジタルカメラは1975年に開発されていたそうだが、実用化されたのは1990年、そして、1995年に、カシオから当時破格の6万5000円で「QV-10」というカメラが発売されて、いっきょに大衆化した。ちょうど私がMacを買って、パソコンの道に入った年のことである。 


 ところで、私が幼い頃、「写真」というものは貴重なものだった。何か特別な機会に、町の写真館へ行って撮ってもらうというのが一般的だったが、終戦直後の私の幼年時代ではそれどころではなかったのか、幼時の写真といえば、たまたまカメラを持っていた父の会社の人に撮ってもらった、小さなスナップ写真が数枚あるだけである。

 カメラも珍しいものだった。まず一般の家庭にはなかった。お金持ちの家か、特別にその趣味を持った人しか持っていなかった。ただ、私の小学校高学年の、1950年代後半あたりから、だんだんと普及してきて、子ども向きの「フジペット」というカメラが一時大流行し、遠足の時に持ってきている同級生もいたが、私には高嶺の花だった。わが家にカメラが入ったのは、中学生になってしばらく経った頃だったと思う。

 それは、父が知人から安く譲ってもらったという「オリンパスSIX」という中古のカメラだった。その頃よくあったスタイルで、ボタンを押すと蓋が開いて、蛇腹の先についたレンズが飛び出す仕組みになっており、「120フィルム」というロールフィルムを装填すると、6cm×6cm(シックス版といった)の写真を12枚撮ることができた。「絞り(露出)」と「シャッタースピード」はもちろん手動、ピントも手動で、距離計がついていなかったので、目測で合わすしかなかった。















 かなり重いカメラだったので、外に持って行くことはあまりなくて、家で、珍しい来客があった時などに使っていたと思う。12枚しか撮れないフィルム代の他、現像代やプリント代もかかるので、そう簡単に撮影することができなかったのかもしれない。

 1960年代になると、カラーフィルムが普及してきて、「シックス版」にもカラーがありますよ、と写真屋に勧められて撮ってみたことがあった。しかし、カラーとなると露出の条件が厳しくなり、目分量では鮮やかな色にはなかなか撮れず、そのうちに、露出計が内蔵されて、自動で適正な絞りになる「AE(Automatic Exposure)カメラ」(別名「EE(Electric Eye)カメラ」)を購入することになった。たしか、「コニカ」のカメラだったと思うが、正確な機種は憶えていない。

 その後、就職してから自分用として、ストロボが内蔵された「ピッカリコニカ」というのを買って、愛用していたが、ある時、ある友人から、カメラはやはり「一眼レフ」だ、髪の毛が一本一本までくっきり写るんだから、といわれて、「アサヒペンタックス」の一眼レフカメラを購入した。1980年代はじめのころだった。

 「本格的」なカメラを買ったということで、カメラ雑誌を買って読んだりするようになり、徐々に、ストロボ、28ミリの広角レンズ、135ミリの望遠レンズ、偏光フィルターなどを買い足して、近場の公園などを「撮影旅行」と洒落込んだりもした。「写真はネガが命」とも聞いて、それまで写真屋の袋に入ったまま、引き出しの奥に眠っていたネガを、「ネガ専用アルバム」を買ってきて、それに保存するようにしたりした。

 しかし、それほど素晴らしい写真が撮れるわけでもなく、フィルム代、現像代、プリント代ばかり嵩んできて、しばらくするうちに、「飽きて」しまった。

 それに追い討ちをかけたのが、その直後に来た「オートフォーカス」ブームで、コンパクトカメラから一眼レフまで、自動でピントが合う「オートフォーカス」が当たり前になってきた。その直前に買った、「手動ピント」の、私のペンタックスは、ただ不便なだけの、すっかり陳腐なものになってしまって、それもまた「やる気」を失わせる大きな原因となった。


 さて、デジカメの登場は、そんな私にもう一度「写真熱」を甦らせるきっかけとなるものであった。ただ、噂の「QV-10」は、例の英語科の「新しもの好き」の先生が買ったのを見せてもらったが、25万画素のそれは、まだまだ使いものになるような画質ではなかった。以前から、一眼レフカメラを買い揃え、地元のアマチュア写真クラブにも入っているというその先生も、バスの時刻表を撮って液晶画面で見るなど、メモ替わりには重宝だけれど、まあ、おもちゃですな、と、割り切ったものだった。

 しかし、その後、毎月買っていた「Mac雑誌」で「デジカメ特集」があるたびに、それらを熟読して、日に日に進歩していくデジカメの性能をチェックするようになっていった。その中には、時々、各社のデジカメのさまざまな性能を比較して、順位付けしている記事もあった。ブームを巻き起こしたカシオの他、富士フィルムやリコー、キャノン、ニコン、オリンパス、ミノルタ、ペンタックスなどのカメラメーカー、電器メーカーでは、ソニー、松下、日立など、錚々たる会社の製品が並んでいたが、そんな中で、常に最上位に位置していたのは、意外にも、三洋電機であった。




三洋電機のデジカメを買う

 三洋電機(サンヨー)といえば、創業者があの松下幸之助の妻の弟で、本社も松下電器(門真市)の隣の守口市にあって、松下と同じ「総合家電メーカー」であることから、何となく松下の「二番煎じ」みたいなイメージを持っていたが、実は、かなり底深い技術力を持ち、いくつかの分野では抜群の創造性を発揮しているユニークな企業であった。

 1950年代には、女優の木暮実千代がCMを担当していた電気洗濯機が有名だったが、その頃、ソニーによって開発された「トランジスター・ラジオ」にもいち早く参入して、国内だけではなく、アメリカなどでも広くセールスを行っていた。ちなみに、私が高校に入った1961年頃、無理を云って買ってもらったトランジスターラジオがサンヨー製だった。たしか、電源が6ボルトだったが、小さなラジオの中に内蔵する特殊な6ボルトの電池がかなり高価で、しかも持ちが余りよくなかったのには、泣かされたものである。

 しかしその後、サンヨーは、「カドニカ(ニッケル・カドミウム)電池」という、充電できる乾電池を他社に先駆けて開発して、消費者の電池に対する不安を解消し、以後、改良を積み重ねて、のちの不朽の名作「エネループ」へと至ったほか、太陽電池の開発でも先頭を切っていた。

 また、洗濯機でも、水の代わりにオゾンを使って靴なども洗濯できる「アクア」や、初のポータブル・カーナビの「ゴリラ」、お米から直接パンが焼けるホームベーカリー「ゴパン」など、話題になった「発明品」も少なくない。製品化はされなかったようだが、録音ボタンを押すと、その数秒前に遡って、そこから録音できるという、「録音チャンスを逃さない」テープレコーダーの試作品がテレビで紹介されていたこともあった。

 その他、「ファジー理論」に基づいた自動露出装置を持つ「双眼鏡型」のビデオカメラや、巡回方式を採り入れて、排気を無くした掃除機など、かならずしも、ヒットしなかった商品もあったが、思い切った発想の製品が多く、おそらく、自由でおおらかな、創造性あふれる「研究風土(企業風土)」があるのだろうな、と想像された。

 ただ、松下のように強力な販売網を持っていなかったので、「小売り店」での売り上げは苦戦していたようだが、「業務用」分野では、店舗の陳列用のガラスケース冷蔵庫や、コインランドリーの洗濯機などは圧倒的なシェアを占めていたそうである。


 デジカメにおいても、そんなサンヨーの技術力がいかんなく発揮されていた。

 Mac雑誌などで評価されていたのは、シャッターボタンを押してから実際にシャッターが降りるまでの時間や、1枚写して、次の1枚が写せるまでの時間が他社製品に比べて圧倒的に短いこと、普通のカメラ(銀塩カメラ)のフィルムにあたる受光センサー(撮像素子)が大きいので、同じ画素数でも画質がよくてノイズも少ないこと、などであった。ただ、前者の評価については余りピンと来なかったが、のちに、1枚撮るごとに「画像処理」するための時間を要するデジカメがけっこう多いことを知って納得した。

 他に、動画撮影がスムーズにできるというのも特徴で、「動画デジカメ」というキャッチフレーズを用いていたが、驚いたことに、この「デジカメ」ということばはサンヨーの登録商標になっているとのことであった。また、サンヨーはOEM(他社商標製品の受注生産)として、他社の多くのデジカメの受注生産を行っており、相手先は明らかにされていないが、それらを含めると日本のデジカメの半分以上を生産しているという、驚くべき事実ものちになって知った。 

 この意外な、デジカメ業界での大物ぶりに、以後、私は、ますます、サンヨーのデジカメに注目するようになった。先に述べた1997年の大阪ドームでの「MacFanエキスポ」でも、いちばんにサンヨーのブースに行って、その新製品を体験したものであったが、その頃はまだ80万画素程度の時代で、サービス版(L版)の大きさぐらいのプリントならば、フィルムを使った「銀塩カメラ」になんとか匹敵できるというレベルだった。

 まだまだ時期は尚早ということで、様子見の期間がそのあとしばらく続き、私がついにデジカメを購入したのは2001年7月のことだった。もちろんサンヨーで、機種は「DSC-MZ1」。1/1.8インチ・200万画素の原色CCD撮像素子、光学2.8倍ズームというスペック(仕様)で、ニッケル水素電池とその充電器、パソコンとの接続ケーブル、記録メディアの「コンパクトフラッシュ64MB」などを込めて、5万4800円、以前、ステレオやラジカセを買った、日本橋のシマムセンで購入した。












 購入してまもなく、近所で水都祭の花火大会があって、それが、このデジカメの事実上の「デビュー(使い初め)」となった。

 シャッターの反応が好いといっても、やはりデジカメ独特のタイムラグ(時間のずれ)が少しあって、花火の決定的瞬間の写真を撮るのは難しかったが、動画を使うとそれが易々とできた。しかも、音声も入って臨場感満点である。

 すっかり、「デジカメ動画」の虜(とりこ)になってしまったが、64MBのコンパクトフラッシュは僅か数分の動画でいっぱいになってしまった。デジカメ動画の仕組みが、1秒間に15枚ずつの静止画を撮り、それを「パラパラ写真」のように連続させて動きを出す方式だったので、サイズが30万画素の大きさにまで縮小されているとはいえ、膨大な容量を必要としていたのだ。

 いくら素晴らしい映像が撮れても、数分間では使いものにならない。パンフレットを見直してみると、コンパクトフラッシュの代わりに、「マイクロドライブ」というのが使えると書いてあった。これは、IBMが開発した超小型のハードディスクで、容量が1GB(ギガバイト= 1000MB)あって、これなら24分撮ることができた。ただ価格が4万円と、デジカメ本体とほとんど変わらぬ値段である。かなりためらったが、動画が存分に撮れないなら、このカメラを持っている意味はない、と決断、思い切って購入した。


 デジカメにしてから、写真に対する考え方がガラリと変わった。

 最初は、いろんなサイズの専用の写真用紙に、プリンターで印刷したものを見て楽しんでいたが、どんどんと枚数が増えるにつれて、その整理が面倒になってきた。もはや現像の手間や費用が要らないので、思い立ったら片っ端から撮って、失敗したのやら気に入らないのをどんどん削除するという撮影スタイルになっていたので、枚数はうなぎ登りであった。それに、プリンターでの印刷は、思った以上にきれいだったが、カラーのインクがすぐになくなった。インクの値段はけっこう高かったので、次第に印刷することが少なくなり、かわりにパソコンの画面で楽しむようになった。

 その頃、デジカメの画素数を増やすことに各社がしのぎを削っていたが、画素が増えると写真のきめが細かくなり、それは大きく引き伸ばしたサイズでもきれいに印刷できることを意味していた。すでにA4判から、A3判の大きさにも耐えられるようなカメラが登場していたが、15インチ程度の家庭用パソコンの画面で見るには、200万画素で十分であった。

 もはや、分厚いアルバムが不要となった。写真をパソコンに保存整理するソフトがいくつも発売されていて、いくつか試して見たが、最終的に、Macに標準装備されている「iPhoto」に落ち着いた。アルバムに貼ってしまい込んでしまうと滅多に見られないような写真が、パソコンでは、思い立ったらすぐにでも見ることができる。ちょうどMP3で保存した音楽と同じように、過去に撮った写真がとても身近なものになってきた。

 このカメラは重宝していたが、2004年8月に落下事故のため損傷、愛着もあったので修理の見積もりをしてもらったが、数万円もかかると云われて断念、新しく買い替えたのが、同じサンヨーの「Xacti-DSC-J4」であった。












 400万画素、光学2.8倍ズームは他社製品と比べて平凡な数字だったが、レンズカバーをスライドさせるとスイッチが入って、すぐに撮影することができた。シャッターの反応は銀塩カメラと変わらないほど速くなり、バッテリーも小さくて、充電が簡単な「リチウム電池」に変わっていた。記録メディアには、そのころ台頭してやがて業界標準となる「SDカード」が使われていたが、これはコンパクトフラッシュよりもはるかに小型で、うれしいことに値段が安かった。この当時、1GBでたしか1万円以上していたが、それでも、あのマイクロドライブの3分の1以下で、その後、どんどん値下がりして、いまでは軽く1000円を切っている。そのSDカードや予備のバッテリーも含めて、5万円ほどに収まったと記憶している。

 このカメラは、やや横長で、ちょうどワイシャツのポケットに収まるぐらいコンパクトだった。それでいて、厚みもあるので持ちやすい。動画撮影もスムーズで、出来上がった映像作品がこの小型カメラで撮影されたと聞いて驚く人が多かった。購入してから10年が経って、さすがに動画機能が不調になってきたが、静止画撮影には未だに現役で使っている。




三洋電機の没落

 2004年10月、新潟県中越地震が発生、三洋電機の半導体工場が被災して、500億円もの損害をこうむった。これ以後、三洋電機の経営に暗雲が立ちこめるようになる。

 さまざまな独自技術を誇り、業務用機器にも強みを発揮していた三洋電機だったが、松下のような「総合電器メーカー」をめざして、テレビ、洗濯機、冷蔵庫から掃除機、電気かみそりまでの、あらゆる家電製品の他、電池、カーナビ、電話機、パソコン、電動アシスト自転車と、いろんな分野に進出していた。

 家電量販店に行くと、どの売り場にもサンヨー製品があったが、その品質の割りには評価はそれほど高くなく、下のほうから数えた方が早いぐらいの安値で売られていたようである。しかし、買う方としては、つねに「お買い得感」を満足させられるので、けっこう人気はあった。私の身の回りも、前回述べたラジカセ「ZooSCENE(ズシーン)」のほか、掃除機、扇風機、電気かみそり、電気毛布、ホットプレートなど、こまごましたサンヨー製品に囲まれていたものである。

 大阪府守口市にある三洋電機の本社は、実は、私の家から歩いて10分程のところにあった。国道1号に沿った、かつては煉瓦づくりだった本社社屋はいつの間にか、10階建ての高層ビルに変わり、その裏手には、何棟もの社屋が建ち並んで、その中に、「ショールーム」も設けられていた。

 国道の裏通りの、いわば、場末の住宅街の中に忽然と存在する感のあるショールームだったが、それでも都心のそれと変わらず、派手な制服を着た女性が受付けと案内を担当していた。中の展示はかなり充実していて、台所の調理器具のコーナーでは、毎週決まった曜日に「料理教室」を催して、近所の主婦を集めたりしていた。

 しかし、社用で本社を訪れたお得意先のような一団を時々見かけたほかは、一般の来客はあまりいなかった。私は、興味のある商品が出た時に時折訪れるぐらいであったが、デジカメ以前には、ビデオカメラやテレビ、ICレコーダー、パソコンなどを、やや垂涎のまなこで、ゆっくりと手に取って楽しんだものである。

 ただ、「経営不安」の噂が出はじめたあたりからだろうか、デジカメの新製品が出たという報道があったので、実物を見たくてショールームに行ったところ、まだ置いてなく、その後しばらく経ってもそのまま、ということが多くなった。「本社ショールーム」という中枢部がこれでは、と、こちらも不安になったのを覚えている。


 サンヨーの「Xacti(ザクティー)」というブランドは、デジカメ以外に、拳銃のグリップのような形状の「デジタルムービーカメラ」を出していて、とても評判がよかった。いつかは欲しいと思っていたが、使っていたデジカメ「J4」に不満はなかったので、そのままになっていた。しかし、いよいよサンヨーの経営が傾き、2009年に、パナソニック(松下)に吸収されるということが決まって、「Xacti」の先行きも不透明となったので、いま買っておかなければ、買えなくなってしまうかもしれない、という危機感にとらわれた。

 折りしも、テレビが「地上波デジタル(地デジ)」に切り替えられることになり、それに対応した液晶テレビを買うと買価の2割ほどの金券がもらえるという「エコポイント」制度が、政府の景気浮揚政策として採られている時だったので、それで浮いたお金で「Xacti-CG100」というカメラを買った。数多くのXactiシリーズの中では、「中の下」クラスの製品だったが、本体が2万2600円、4GBのSDカードはなんと2枚で3500円。その他、予備のバッテリーやケースを買っても、エコポイントの範囲に収まった。2010年12月のことである。
















 6年前の「J4」よりも半分の価格だったが、その性能は、動画が1920×1080の「ハイビジョン画質」で、640×480の「J4」の約7倍、静止画は1000万画素で2倍となっていた。ピントのオートフォーカスも速くなり、「顔認識」といって、人物の顔を認識するといち早くそこにピントが合う機能、さらに「手ブレ防止」機能というのも付いていた。

 動画は、「こんな小さなカメラでどうして?」と驚くぐらい、文句なしに鮮やかで、シャープな映像が撮れたが、二本柱のもう一方の「静止画」はイマイチだった。1000万画素ときめ細かくなっているはずだが、なぜかピントが甘くて、切れ味がない。発色もよくなかった。好天の野外ではまだしも、室内のストロボ写真はダメだった。シャッターの押し方に問題があるのかもしれないが、きれいに撮れたことは少なかった。そこで、静止画はいまでも「J4」を使うことにしている。




デジタル動画の編集について

 デジカメの動画は、シャッターを押すと撮影が始まり、もう一度押すと撮影が終わるが、その連続した「1ショット」が、ひとつの「動画ファイル」として保存される。そして、それを再生する時は1ショットごとの再生となり、例えば、30秒とか、15秒とか、1分とかのショットごとに、いちいち再生ボタンを押さねばならなくて、これでは実用にならない。だから、最低限、それぞれのショットをつないで、1本にまとめる「編集」をしなければならないのだが、デジカメ動画(デジタル動画)の場合、編集は、パソコンを使って、簡単にすることができた。

 カメラを買うと、どのメーカーでも、パソコン用の簡単な編集ソフトが付属していたが、私はMacの「QuickTime」というソフトを使った。

 Macにはじめからインストールされている「QuickTime」は、動画や音声の「再生専用ソフト」であるが、3000円ほど払って、「QuickTime Pro」というものにアップグレードすれば、動画の「コピー&ペースト」の機能が使えて、自由に「切り貼り」することができた。

 私はその頃、月1回、大阪市内の旧跡を巡る「まち歩き」の会に参加していたが、その時デジカメを持参して、1回4時間ほどの行程を撮影するのを常としていた。

 できるだけたくさん撮影できるように、1GBのSDカードを2枚と、予備のリチウム電池を2つ持って行っていたが、合計2GBでは、動画は48分しか撮影できない。静止画(スチール写真)だけなら、1800枚も撮れたので、そこで、動画と静止画をミックスして撮影することにした。

 撮影し終わると、まず最初に静止画を、Macのデジタル写真整理保存ソフトの「iPhoto」に取り込み、その機能を使って、数十枚ずつの画像を次々と音楽付きで自動的に再生する「スライドショー」のかたちにして書き出した。それを動画ファイルに変換して、それと撮影した動画ファイルを交互につないで1本の動画にすると、雰囲気のある映像作品となり、CDにコピーして進呈すると、とても好評だった。 

 Macには、「iMovie」という動画編集ソフトが以前からあったが、それは当初、「デジタルビデオ」のテープを読み込んで、編集し、またそれをテープに書き出す、というソフトだったので、デジタルビデオ・カメラを持っていない自分には無縁のものだと思っていた。

 しかし、その後、Intel(インテル)社製CPUの「Macbook Pro」に買い替えた時に、あらかじめインストールされていた「iMovie'09」を使えば、動画の編集も、静止画のスライドショー作成も、どちらもできることを知って、以後、カメラがXacti-CG100に変わってからも、ずっとiMovieを使い続けている。


 こうして、どこに行くにも、ポケットにデジカメを忍ばせるという習慣がすっかり身についてしまったが、おかげで、溜まった静止画は2014年6月現在で5万3000枚を超えている。しかし、「iPhoto」を使うと、うまい具合に分類もできるので、それを基に、ときおり、「スライドショー」にしたりして、パソコンの画面で楽しんでいる。

 動画に関しては、総時間数がどのぐらいか、面倒だから、とくに計算もしていないが、かなりの量になっている。これと思ったものは、動画とスライドショーが混淆(こんこう)した「動画作品」に仕上げてあるが、とりあえずiMovieに取り込んだまま放置してある動画も多い。

 旅行などに行くと、最後は「動画作品」にまとめたいという前提があるので、出発から帰着まで、ひと通りの場面は、動画であれ、静止画であれ、一応は撮影しておかなければならない。もし、重要な景色や場面を撮り逃すと、それだけで旅行そのものがぶち壊しになってしまう気がするからである。

 そうなると、ひとときもカメラを離すことができず、「旅行のための撮影」なのか、「撮影のための旅行」か分からなくなってしまい、家に帰って、撮影した映像を観てはじめて、旅行に行った気分がする、ということも多い。

 「本末転倒」もいいとこだなと反省しつつも、あとに残る「作品」のことも考えると、まあ仕様がないか、と思ってしまう今日この頃である。

(つづく)




【自註】

 前回予告したように、今回で完結のつもりでしたが、予定の「映像編」のあと半分を残したまま、かなりの紙数を費やしてしまいました。無理に収めるために、途中を端折るのは本意ではありませんので、回を改めて、残った話をじっくりと書き込むことにします。 

                  (2014.6.4)


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