わがデジタル創世記

          ~ Macへの道 ~ (4)




 バッハやベートーベンが生きていた頃、音楽を聴くことは、一般に日常的なことではなかった。人々は特別な日に、教会や劇場や公園などで、音楽が演奏されるのを聴くしかなかった。ましてや、自宅で音楽を聴くなどということは、自前の楽士たちを抱えた一部の「王侯貴族」以外には不可能なことであった。ところが現在では、生の演奏ではないにしてもそれに近い音で、音楽を、自宅や、あるいは歩きながら聴くことが、だれにでも可能になっている。そんな時代になってきた道のりを、ささやかながら「自分史」を通して、たどってみたい。




ラジオとレコードの時代

 音楽がひろく家庭に入ってきた最初は多分、ラジオを通してであろう。

 無線電波による「ラジオ放送」が世界ではじめて流されたのは、1920 年のアメリカだといわれているが、そのわずか5年後の1925年には、日本でも日本放送協会(NHK)による放送が開始されている。関東大震災の勃発によって、「緊急連絡網」の必要性が痛感させられたからであろう。

 それから四半世紀後の、私がものごごろついた戦後まもなくの頃、私の家にも、古ぼけた木製のケースに収まった大きなラジオがあったが、その感度はすこぶる悪かった。かろうじて、NHKの第1放送と第2放送が受信できた程度で、ちょうどその頃(1951年)開局された民間放送局(民放)のおもしろそうな番組が聴けなかったのが残念だったのを憶えている。

 やがて、戦後復興とともに、ラジオ受信機も改良されて、「5球スーパーラジオ」というものが現れ、ようやく、音楽を楽しむというレベルになってきた。

 一方、音楽を聴く道具としては、円盤型の「レコード」がすでに19世紀末に完成していたが、それをかける「蓄音機」というのは、ながらく贅沢品で、私たちにとっては雲の上の存在でしかなかった。

 ところが、1950年代の終わりになって、ラジオに接続して、そのスピーカーからレコードを聴くことができる「プレーヤー」が、4000円ほど(今とは貨幣価値は違うが、お年玉を貯めればなんとか買える価格だった)で発売されるようになって、ようやく手が届くものになってきた。











 プレーヤーを買えば、次はレコードである。私がはじめて買ったレコードは『ウエストサイド物語』であった。これは、高校1年の時(1961年)に封切られた映画のサウンドトラック版である。友だちといっしょに、大阪梅田の満員のロードショー劇場で観たその映画にえらく感動したのであろう。

 ただ、レコードは高かった。LP盤がたしか2000円位していたので、今のCD盤とたいして変わらない。数年後、大学に入った時、日本育英会の奨学金が月3000~5000円、週2回2時間ずつの家庭教師をして月5000円、四畳半一間の学生下宿の家賃もそれぐらいの時代の値段だったので、そうたびたび買えるものではなかった。

 そこでレコードの「代用品」として登場したのが、ビニールシートに、レコードと同じように「音の溝」を刻み込んだ「ソノシート」であった。

 出版社などが「クラシック音楽全集」といったものを月刊で発行していることが多かった。私は、中央公論社から出ていたものを定期購読していたが、レコードというより、本が主体だったので、バロックからガーシュインまで、クラシック音楽の歴史とその作曲家について、たくさんの知識を仕入れることができた。

 ソノシートの冊子は増えても、レコードはずっと『ウエストサイド物語』1枚きりだったのだが、大学に入って数年した頃、ある友人からクラシックのレコードをどっさりと貸してもらう機会があった。小林秀雄の愛読者だったその友人のコレクションには、小林が『モオツアルト』で取りあげていた『弦楽五重奏』などのほか、バッハの『ブランデンブルク協奏曲』や『無伴奏チェロ組曲』など、本格的な作品が満載で、それまで、ソノシートの「名曲抜粋」版しか知らなかった私のこころを震撼させるのには充分なものであった。




「ステレオ」との出会い

 身を入れて音楽を聴きはじめると、その音が気になってくる。ステレオによる「立体音響」というのが、大分前から話題になっていた。少し離れた2つのマイクで録音した音を、少し離れた2つのスピーカーから別々に流して、その左右「少し異なった」音を耳にして、立体感を感じ取るというものだが、その再生装置は、蓄音機よりもはるかに高価なものであった。

  そこで、民間放送が始まって間もない1952年頃から、「立体放送」というのがおこなわれるようになった。これは左右の「少し異なった」音を、2つの放送局から同時に放送し、それを2台のラジオで別々に受信して同時に聴く、というものである。

 NHKは第1と第2のふたつの放送局を持っていたので比較的簡単にでき、1954年から『立体音楽堂』というレギュラー番組が開始されて、それは10年ほど続いていた。

 ただ、放送局をひとつしか持たない民間放送局にとっては、立体放送は面倒なもので、ときたま特別番組として、大阪の「毎日放送(元の新日本放送)」と「朝日放送」が共同で、ステレオのそれぞれの音源を放送したり、のちには、自社系列のテレビ局とラジオ局が組んで「立体放送」をしたりしたが、あまり長続きはしなかったようだ。

 とにかく、ラジオは「一家に1台のみ」が普通の時代で、それを2台用意するというのはかなりハードルの高いことであった。ただ、早くも発売されていた「ステレオの電気蓄音機(電蓄)」には、「立体放送」受信用として、ラジオ・チューナーが2つ付いていたようである。しかし、その「再生装置(ステレオ電蓄)」はとても高価なものだったので、ステレオのレコードは1958年から発売されていたが、まだまだ「モノラル盤」の方が主流で、例えば、あのビートルズにしても、初期の数枚のアルバムや、EP盤でも1968年の『ヘイ・ジュード』までは、オリジナルのものはモノラル盤だった。私が買った『ウエストサイド物語』も、「ステレオ盤」と「モノラル盤」の2種類があって、ステレオ再生装置を持っていない私は、少し安い「モノラル盤」の方を買っていた。(当時、私は、モノラル用のプレーヤーでは、ステレオ盤は再生できないと思い込んでいた)

 私が高校生だった1960年代前半には、「レコード・コンサート」という催しがよく開かれていた。大阪一のコンサート会場である「中之島フェスティバル・ホール」でも、舞台に大きなステレオ・スピーカーが置かれて、司会者のていねいな解説を聞きながら、クラシックの名曲や、映画音楽などを楽しんだものである。


 その高価だった「ステレオ再生装置」が、1960年代後半に、一挙に大衆化した。

 「立体放送」や「ステレオ盤」が普及していくにつれて、文字通り、好い音で好い音楽を楽しみたい、という人々が増えてきたこともあろう。「応接間の高級家具」的な外観よりも、中身の「音質」にこだわった、しかもより安価な「ステレオ」が求められるようになり、いわゆる「セパレート・ステレオ(モジュラー・ステレオとも云った)」というものが発売されるようになった。

 これは、プレーヤー・アンプ・チューナーが一体となった本体と、スピーカー2本とが、3点セットになったもので、それまでの大げさな「一体型」とは違って場所をとらず、また、スピーカーの位置を自由に変えて、ステレオ効果を自分好みのものに調節することもできた。

 大学の3回生ぐらいの時だっただろうか、そのころ親しくしていた友人のO君の下宿を訪れると、そのドアの向こうから何やら芳しい音楽が聞こえてきた。バイトのお金がまとめて入ったので、ステレオを買った、とのことであった。

 ソノシートや借りたレコードで、かなり音楽に親しむようになっていたとはいえ、ステレオを買うなんて考えたこともなかった私は、ドイツ・ローマン派文学のファンだが、とりたてて音楽好きとも思っていなかったO君とステレオの意外な取り合わせに、驚いた。

 何でも、何かのついでに電器屋に行った時、ステレオの実物を見て、これでワーグナーを聴いたら凄いだろうなぁ、と思って、すぐに買ったとのことだった。オンキヨーというメーカーのかなりコンパクトな「モジュラー・ステレオ」で、その黒いスピーカーが2つ、部屋の柱にかけられていた。

 あらためて、同時に買ったという、ワーグナーのステレオ・レコードを聴かせてもらった。そのスピーカーは、小さいながらも、音量豊かで、左右から分離されて迫ってくるステレオ音は圧倒的だった。

 「はじめて、『ワルキューレ騎行』と『ジーグフリートの葬送行進曲』を聴いた時は、陶然として、鳥肌が立ったよ」

 そう云いながら、じっと目をつぶって、音楽の中に溶け込んでいくかのようなO君は、私たちがこれまで知っていたO君よりも別次元の高みを歩んでいるように見えた。

 O君がステレオを買ったというニュースはたちまちにして友人間を駆け巡った。連日のごとく、そのステレオを見に(聴きに)訪れる者が絶えなかった、とのことだった。

 みんな、それまで、いろんな音楽を、いろんなかたちで楽しんではいたが、「ステレオを買う」という発想を持ったものはだれもいなかった。そんな贅沢は学生には無理だろう、という「自己抑制」のようなものが働いていたのだろうか。その「タブー」を、温厚で寡黙なO君が打ち破ったのだ。まもなく、ステレオは私たちの間でブームになり、下宿の小さな部屋に、いろんなメーカーの「モジュラー・ステレオ」を置く者が増えていった。




「ステレオ」を買う

 私がステレオを買ったのは、その2年後の1968年のことである。家庭教師をしたり、夏休みに百貨店のアルバイトをしたりして、充分な資金は貯まっていた。先行した友人たちの意見を聞いたり、自分でいろいろ調べたりして選んだのは、トリオ(のちのケンウッド)社製のモジュラー・ステレオだった。この数年の間に、ステレオの性能はうなぎ登りに上がっていて、O君が買ったのと同じぐらいの値段で、ずっと高性能なものを買うことができた。

 私が購入してまもなくの頃だったろうか、そのO君が、はるばると大阪の私の自宅まで遊びに来てくれたことがあった。私が買ったステレオを拝見、というのが来訪の一番の目的だったのだが、その音を聴くなり、思わず、好い音だねぇ、と溜め息まじりに絶句したO君の表情から、「悔しさ」のニュアンスを隠し切ることができなかった。

 あのあと、みるみる友人間に伝播していった「ステレオ熱」によって、次々と購入されていったモジュラー・ステレオはどれも、どんどんと改良を加えられた「新製品」ばかりだったので、当初みんなを驚嘆させたO君のオンキヨー製のステレオはすっかり陳腐なものになってしまっていた。前は全然感じなかった「音の歪み」が気になってしようがない、とこぼすことも多くなった。いわば、O君は、栄光のパイオニアには付き物の「先駆者の悲哀」に直面していたのだ。


 その後、私は学校に就職して、いっぱしの給料取りになったが、その職場にも、「オーディオ・ブーム」が押し寄せてきた。その頃は、学生時代のような安価な「モジュラー・ステレオ」ではなく、スピーカー、アンプ、プレーヤー、チューナーを別々に買って、自分好みのセットにする、という「コンポーネント・ステレオ」の時代に入っていた。

 時は、「石油ショック」後のインフレで、給料も上がり、やがて「バブルの時代」へと突入していく門口のあたりだっただろうか、ボーナスでまとまったお金が入った時、みんな、普段はそれほど音楽に興味を持っていないような人まで、競って、「コンポーネント・ステレオ」を買い求め始めていた。私も、トリオのモジュラー・ステレオを使いはじめて10年近くになり、レコードも、その後「ハマった」ビートルズを中心にかなり集っていたので、そろそろ、新しいステレオが欲しくなっていた。

 そして、いよいよ買うと決心した時、その先導役になってくれたのが、のちにMacを購入した時、どっさりと「お試し版ソフト」を貸してくれた、あの理科のN先生だった。彼は私よりも年下だったが、その学校に就職したのは同期で、すでに「コンポーネント・ステレオ」を購入し、とくに、スピーカーに凝って、2つセットで数十万円もする外国製のを買ったというので、話題になっていた。

 そのN先生の案内で、私たちは日本橋の電器街を訪れた。のちにMacを買った時、あのF氏に案内されたのと同じように、N先生も、当時、「オーディオ」一色だった日本橋の数ある中から厳選した店々に連れていってくれた。

 まず最初の店は「試聴するだけ」で、次の店で「値段の相場」を調べ、そして、買うのはいちばん安いここだ、といって行き着いたのが、「シマムセン」という店であった。

 「シマムセン」に行くまでに、私たちはいろんな機種のステレオを試聴して、ある程度、候補を絞っていた。実際にいろいろ聴き比べて、いちばん違いがはっきりするのは「スピーカー」である。同じぐらいの価格帯でも、いろんな音のスピーカーがいっぱいあったが、私がその時に気に入ったのは、日本コロンビア系列のDENON(デノン)社の「SC-104」というスピーカーだった。「密閉型」という方式のそのスピーカーの音は、他のと比べて、その「硬質」さが際立っていた。言い換えれば、とても「歯切れのよい」「クリアーな」「乾いた」音だった。

















 「ちょっとこれは冒険やな」とN先生は云った。「クラシックには、キツイやろ」

 たしかにそうだった。弦楽器の伸びる音はやわらかさに欠け、低音の響きも弱いようだった。ただ、エレキギターをはじいた音や、ベースやドラムの切れ、ピアノのコロコロと転がるような響きが、布カバーを突き抜けて前に跳び出してくるような感じが捨てがたかった。このところ、クラシックよりも、ロック系統のレコードを聴くことが多くなっていた私は、あえて我を通した。ただ、N先生や店員さんの助言を入れて、アンプはやわらかめの音を出す「山水電気」製のものにすることにした。そして、プレーヤーは「ダイレクトドライブ」に定評があったテクニクス製、チューナーも定評のトリオ製のものにして、総額は20万円を少し超えたぐらいだったかと思う。独身時代最後の大きな買い物だった。

 この「コンポーネント・ステレオ」は、その後、結婚して、何回か引っ越すたびに持ち運んで、Macを購入した1995年まで、約20年間、生活をともにした。

 ただ、大きなスピーカーを買っても、それが十分に使いこなせたかどうかは疑わしい。アンプの10段階の音量目盛が3を超えることはなかった。スピーカーの容量が大きいほど、音量を絞ってもいい音が出る、とは云われていたが、物足りない気持ちは晴れなかった。「ステレオを楽しむなら、部屋からつくり直さなければならない」という冗談が、冗談ではなくなっていた。

 「ヘッドホン」というのも買ってみた。モノラル音を聴くと、頭の真ん中から聴こえてくる違和感があったが、ステレオは素晴らしいものだった。俗世間から離れて、自分ひとりの世界の中に閉じこもることができた。ただ、これでは、大層な「コンポーネント」を持っている意味はなくなってしまう。




「テープ」へ録音する 

 ステレオの音源はレコードだけではなかった。AMラジオ2波を使った「立体放送」の時代が終わり、FM放送が開局すると、1969年からFMステレオ放送が始まっていて、FMチューナーをもちいると、きれいなステレオが聴けるようになっていた。そして、それを録音するテープデッキも、カセットテープ用のコンパクトなものが開発され、それにFMステレオを録音するという楽しみ方が成立して、「エアーチェック」とも呼ばれていた。

 私も、1981年頃にDENON社のカセットデッキを購入した。テープが終わりまで行くと、自動的に復路に切り替わる「オートリバース」や、雑音を除去する「ドルビーC・システム」、それに録音した音を即座に再生して、ほぼ同時に「モニター」できる装置などが付いた最新式のものであった。「エアーチェック」向きに、FM放送の内容を詳しく伝える雑誌がいくつも出版されていて、それらを時々買っては、カセットテープの「音楽コレクション」を増やしていった。

 1980年代に入ると、「貸しレコード」の店が増えてきた。会員になったりするのが面倒そうなのでしばらくは敬遠していたが、職場からの帰り道の、ちょうど便利なところに新しい店ができた時、思い切って会員になってみた。自分が本当に聴きたいレコードは、買って自分のものにしなければ気が済まなかったが、それほどではなくて、しかし、何か気になるもの、その頃でいえば、「フォーク」から発展して流行しはじめていた、いわゆる「J-Pop」系のレコードなどを何回か借りてカセットテープに録音したりした。

 ところが、1982年、小さな円盤にデジタル録音したCD(Compact Disc コンパクトディスク)が発売されると、その扱いやすさや雑音がほとんどないことが歓迎されて、たちまち市場を席巻、それまでの「(アナログ)レコード」はあっという間に駆逐されてしまった。レコード店やレンタル店からだんだんとレコードの姿が消え、CD一色の様相になってくると、CDプレーヤーを持たなくては新しい音楽は聴けなくなってしまった。そこでやむなく、CDデッキを買おうと、久しぶりに日本橋の「シマムセン」に行くことになった。

 かつて「オーディオの街」だった日本橋のでんでんタウンはいつの間にか「パソコンの街」になっていて、オーディオの看板はどこにも見当たらず、すこし心細くなってきたが、「シマムセン」は健在だった。さすがに往年の賑わいはなかったが、以前とあまり変わらない品揃えを維持し、いまや数少なくなってしまった「オーディオ専門店」の店構えを保っていた。入り口に立っていた少しベテラン気味の店員に来意を告げると、意外なことに、彼は単品のCDデッキではなくて、すぐさま、いわゆる「ラジカセ」を推薦した。

 「この頃のは、音にこだわった製品もいろいろ出てきて、そこらへんのステレオには負けないものもありますよ、それに便利だし」と云いながら、彼はSANYO製のZooSCENE(ズシーン)という、やや大型のラジカセを紹介してくれた。

 購入したそのラジカセは、CDデッキの他、カセット・テープレコーダーが2つ付いた「ダブル・カセット」のもので、CDやラジオからの録音の他、テープからのダビングも簡単に、しかも高速にでき、音もけっこう好い、至れり尽くせりのものだった。


 こうして、私の音楽コレクションは、「エアーチェック」や「ダビング」を経て、カセットテープに集約されていくことになるのだが、1979年には、ソニーから、携帯型ステレオカセットプレーヤー、いわゆる「ウォークマン」が発売されていた。

 「ヘッドホン」でステレオを聴くということは、立派なスピーカーがあるのに、という後ろめたさもあったが、その簡便さと意外な音質の好さから無視できないものであった。「ウォークマン」は、大きなヘッドホンを、小型高性能のステレオ・イヤホンにし、さらに、飛躍的に音質が改良されたカセットテープを組み合わせることによって、大げさな「コンポーネント・ステレオ」をコンパクトな「ポータブル・ステレオ」にしてしまったのである。また、ひとりで、どこででも音楽を楽しめる、という自由さも、その大ヒットの原因だったかもしれない。

 私が買ったのは、1990年代に入ってからだったと思うが、ソニー製ではなく、より廉価で、録音やラジオの機能もついた「アイワ」というメーカーのものであった。




「MP3」に魅せられる

 Macの先導者は同僚の教師だけではなかった。生徒もいた。

 高校ともなれば、いろいろとユニークな生徒もいる。教室では居眠りばかりしていても、放課後になるとがぜん張り切って、クラブ活動に目の色を変える生徒は多い。私の勤めていた学校で、パソコン関連のクラブといえば、「電気物理部」と「放送部」があった。

 「電気物理部」は、いわゆる「ラジオ少年」にルーツを持つもので、ハンダゴテを使ってラジオを組み立てたりするのが好きな生徒の集まりだったが、メインの活動は「アマチュア無線(ハム)」で、その後、パソコン時代になると、プログラムを組んで簡単なテレビゲームや小型ロボットをつくったり、中にはパソコンを自作する者もいた。当然、OS(オペレーティング・システム)は「MS-DOS」や「Windows」ということになる。

 一方、「放送部」というのは、学校の正規の放送設備を使って「放送活動」をするというものである。

 学校の図書館で、本の好きな生徒を集めて「図書委員」に任命したり、「図書部」というクラブをつくって、図書事務の仕事の手伝いをさせたりすることが多いが、放送部も、信頼できる機械好きの生徒に放送設備を任せることによって、その維持管理の手間や費用が節約できるので、学校としても、多分ありがたい存在であった。

 もちろん、公式の「放送連絡」は教師が行うが、昼休みや放課後の「校内放送」で、音楽を流したり、生徒会関係の連絡をしたりするのが日常活動で、その他、学校行事、とくに運動会での「場内放送」は放送部の大きな仕事であった。

 それ以外は、とくに定められた活動はなく、その時々の部員たちの好みによって決まっていたようだ。一時期、「放送劇」に凝って、民放局主催のコンクールに応募して、賞をとったこともあったが、パソコン時代になって、自分のパソコンを放送室に持ち込んでいろいろ「勝手な」ことをやっている生徒もいた。そんな生徒のひとりにY君というのがいて、彼がハイレベルなMacユーザーだった。

 以前から、文化祭の時に発行される放送部のパンフレットに、専門誌顔負けの詳しいMac記事が載っているのを秘かに注目していたのだが、その筆者がY君だった。彼とは、高校3年生の時に授業を持つ機会があって面識ができたのだが、大柄で優に80キロは超える巨漢だった。しかし、その指先はきわめて器用で、さまざまな組み立て作業はお手の物、それに驚いたことに「電気工事士」の資格試験にも合格しているとのことであった。

 Y君を知ってから、Macに関する困ったことがあれば、彼に頼ることが多くなった。ある時、職員室のMacの、CD-ROMのトレイ部分が出てこなくなり、にっちもさっちもいかなくなったことがあった。そんなとき、ちょうど、何かの用事でY君が職員室にやってきた。助け船到来、とばかりに彼に窮状を訴えると、彼は涼しい顔で、Macのケースの上の部分をつかんで、何度か揺すった。すると、それまでどうしても動かなかったCD-ROMのトレイがするすると出てきたのだ。その間、わずか数秒。あたかも「神の手」のごとくに見えた。

 彼の「神の手」は、事務所の人々にも知れ渡っているようだった。

 授業の区切りのチャイムを鳴らす装置が事務所に設置されているのだが、それが時々不調になって、時計が狂ったり、鳴らなかったりすることがある。そんなとき、業者を呼ばなくても、Y君に云うと、あっという間に修理してくれる、とのことで、彼への信頼は絶大なものであった。なんでも、その「ご褒美」として、彼の注文する新しいMacが、生徒会予算ではなく、事務所の持つ予算で、学校の設備機械として、放送部に入ったという噂もあった。

 Y君が高校3年生の、最後の運動会の時、本部席の一角にはいつものように放送設備が設置されていたが、そこには、普通なら「引退」しているはずのY君が例年と変わらず、その中央にその巨体を据えていた。そして、その目の前にあったのが、「青白のポリタンク」と呼ばれていた、当時最新のPower Mac G3であった。

 「これが買ってもらったやつか?」

 彼はにやりと笑ったが、返事はなかった。それにしても、運動会の最中、この新品のMacで何をしているのか。よく見れば、運動会の放送には必須の、カセットデッキや音楽テープ類が見当たらない。Y君はじめ、後輩の放送部員たちの目は、Macのモニター画面に注がれていた。

 「MP3ですよ」

 私の質問よりも先回りして、Y君はそう云った。

 MP3(MPEG Audio Layer-3)というのは、音声ファイルの一種で、「MP3作成・再生ソフト」を使うと、CDとほとんど変わらない音質の音楽を、その10分の1の容量に圧縮してパソコンに保存し、クリックするだけで再生することができた。もはや、カセットデッキを用意して、演目ごとに頭出ししておいたテープを取っ換え引っ換え、出し入れする必要はなかった。 

 MP3については、すでにMac雑誌を通じて、一応のことは知っていたが、はじめてその実物を見て、すっかり魅せられてしまった。便利で、使いやすく、嵩張らずに、音も悪くない。さっそく日本橋に行って、店頭に山積みされている「MP3ソフト」の中から、使いやすそうで、値段も手頃な「早録りMP3」というのを購入した。

 さっそくMacにインストール。そして、家にあったCDを片っ端からMP3に変換していった。音は悪くない、といっても、Macのスピーカーではしれているので、例の大型ラジカセに接続して、そのスピーカーから聴くようになった。


 ところでY君は、その後、自分たちの「卒業式」の記録ビデオを自主製作するという、当時、途方もないと思われた計画を立ち上げた。そして、当日、後輩の放送部員たちに何台ものビデオカメラを持たせて撮影し、さらに自分もカメラを抱えて、教師や親たちのインタビューの撮影に走り回った。そして、それを50分ほどのビデオテープに編集し、あらかじめ購入を予約していた卒業生らに後日郵送するという事業を見事にやり終えた。

 そして、大学入試では、自分の抱負や能力を書類と面接でプレゼンテーションする「自己推薦入試」で、見事、筑波大学に入学した。入学後は、自分の得意分野に能力を発揮し、起業もするなどして活躍しているという噂が耳に入った。それに、学校としてありがたかったのは、「推薦」枠で入学した生徒が入学後、好成績を収めると、出身高校に対する信頼度が高まるのか、その後、放送部や電気物理部の部員たちが毎年、同じ「自己推薦入試」で筑波大学に合格するということが続いた。その中には、Windows系だが、小学生のころからパソコンに馴染み、高校在学中にネット関係のソフトを開発したり、学校の運動会を、当時流行りはじめていた「インターネット中継(ユーストリーム)」で放送して、保護者が家に居ながらにして見物できるようにした「傑物」もいた。




「iPod」の登場

 さて、CDのMP3化は進んだが、できあがったMP3ファイルをラジカセのスピーカーから聴くというだけでは、CDと代わり映えがしない。いちいちCDの出し入れをする手間が省けるというぐらいである。そこで求められたのは、これをなんとか携帯できるものにできないだろうか、ということであった。

 すでに、ウォークマン・タイプの「携帯カセットプレーヤー」は利用していた。しかし、テープは長くても90分程度で、種類を変えたければ、何本ものカセットを持参しておかねばならない。その点、MP3なら、自分の好きな曲を好きなように集めて編集した「アルバム」をつくることができる。その頃すでに、それにかなった「携帯用MP3プレーヤー」は、「Rio(リオ)」という製品をはじめ、何種類も発売されていた。ただ、その容量が、どれも64MB(メガバイト)程度で、20数曲、CD2枚分ほどしか入らない、というのが不満であった。

 そこに、2001年10月、アップル社から「iPod」が発売された。これは既存の「携帯用MP3プレーヤー」の延長線上にあるものだったが、画期的だったのは、小型のハードディスクを使っていたので、容量が5GB(ギガバイト)もあり、1500曲以上のMP3ファイルを収納できるということだった。そして、パソコンとの接続は、高速の「FireWire(ファイヤーワイヤー)」という回線を使っていたので、1500曲の転送でも30分ほどしか掛からなかった。これはいい、と思わず手が出かかったが、4万7800円という、従来機の数倍の価格が大きなブレーキとなった。ところが、それを敢然と購入した人物が身近にいたのである。

 それは同僚教師の、理科のT氏であった。T氏は、私のステレオ・コンポーネントの先導者の、あのN先生よりはひと回りほど若い生物の先生だったが、ちょうど、私よりも少し前におなじMacのLC630を買っていたこともあって、「同期の親しみ」を感じるとともに、いろいろとアドバイスもしてもらう仲だった。

 そのT氏に早速「iPod」を触らせてもらった。

 ずっしりとした機体を握ったその裏面の、鏡面加工されたステンレスの輝きが印象的だった。工夫された「ホイール」を指で回すと、液晶画面に次々と曲名が表示され、聴きたい曲をすぐに見つけることができた。イヤホンを耳に差して聴いてみると、なかなかいい音だった。













 実物を見て、ますます気に入ってしまった「iPod」ではあるが、すぐには購入しなかった。もうしばらく待てば「改良版」が出て、値段も安くなるだろう、と踏んだのである。そして、5ヶ月後の2002年3月、新しい「iPod」が発売された。しかし、それは容量を10GBに倍増しただけのもので、旧来の5GBの値段は据え置きのままだった。

 「半年も経たずに値下げされたら、怒りますよ」

 T氏がそう云うのももっともだと思い、私はあきらめて、5GBのiPodを購入した。

 「同期」のT氏ではあったが、彼は学生時代にすでに大学のMacを使っていたとのことで、その点、私よりも大分先輩であった。ところが、専門の研究分野のことはいざ知らず、学校で使うワープロなどのソフトには無頓着だった。あの亡くなったF氏と同じく、「マックライトⅡ」をずっと使っており、また、点数計算はエクセルではなくて、いつまでも「電卓」を使っていたのは不思議だった。

 ただ、学生時代、野球部の選手だったというT氏は、典型的な「アウトドア派のスポーツマン」だった。学校では野球部のコーチとして、土曜日曜も練習や試合に出かけ、それがない時には、オートバイや自転車でのツーリング、さらには在住する大阪市内を数十キロもジョギングするなど、家でパソコンの前にじっと座っているような時間はなかったのかもしれない。

 しかし一方、その分、パソコン関連の携帯デバイスには関心が深かったようで、デジカメの元祖ともいえる、アップル社の「QuickTake 100」という伝説的な機種を、発売直後に購入していた。そして、MP3プレーヤーについても、サイクリングやジョギング中に聴くために「Rio」などを物色していたが、やはり容量が不満で、迷っていたところ、それを解決したiPodが出たので、これだ! と思って、迷わず購入したとのことだった。




「iPod」の進化、発展

 iPodが発売された時、アップル社のCEO(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブズは「世の中を変える革命的な商品になるだろう」と云ったそうだが、当時の私には、その意味が解らなかった。「MP3プレーヤーの容量を大きくしただけじゃないか。なんで?」

 アップル社は「MP3プレーヤー」としてのiPodを売るだけではなかった。iPodに音楽を転送するための専用の「MP3作成・再生ソフト」である「iTunes(アイチューンズ)」をつくって無料配布し、次に、iTunesに直結した「iTunes Music Store(のちの iTunes Store)」というネットショップを開設して、そこから音楽をダウンロード販売することを始めたのである。

 この音楽のダウンロード販売(ネット配信)は、これまでいろんな会社が手がけていたが、さまざまな障害があって、かならずしもうまくいっていなかった。とくに、CDをMP3化して、ネットで無断配布するという「海賊版」が横行したため、音楽業界はMP3を敵対視する傾向があった。しかし、アップル社は「著作権保護」の仕組みを整備し、ダウンロード販売は「海賊版」撲滅に効果的で、音楽産業の新しい収入源にもなるのだ、とアメリカのレコード会社をたくみに説得して、大部分の作品を1曲99セントという廉価でネット販売することに成功した。

 また、当初、Mac版だけしかなかったiPodをWindowsにも対応できるようにしたことから、その売れ行きは爆発的に増え、iPodは一挙にMP3プレーヤーだけではなく、それまで「ウォークマン」が君臨していた「携帯音楽プレーヤー」のトップの座をソニーから奪い取ってしまったのである。

 そして、その後も、アップル社による「革命」は続いた。液晶画面がカラー化されて、写真表示が可能になり、さらに動画も可能になって、iTunes Storeからダウンロードした映画を観ることもできるようになった。そして、それに「電話」と「カメラ」が付いて、2007年、「iPhone」が登場した。

 iPhoneは電話と云うよりも、超小型のパソコンで、「iOS」という基本ソフトの上で、さまざまなアプリケーション・ソフトが動くようになっていた。そういうタイプの携帯電話はすでに「スマートフォン」という名前で存在していたが、ゴマ粒のようなキーボードをマッチ棒で押すような使いにくさで、一部以外にはあまり普及していなかった。それをアップル社は、液晶画面を指でタッチして操作する「マルチタッチ」方式を取り入れて、使い勝手のよいものにして、携帯電話の世界を一挙に「スマートフォン(スマホ)」全盛へと導いてしまった。その後、2010年には、タブレット型の「iPad」を発表して、パソコンのあり方に大きな衝撃を与えたのは周知の通りである。

 この間の私の先導者はずっとT氏であった。初代のiPodにもそろそろ飽きてきた2005年、ハードディスクではなく、半導体に直接記憶させる「フラッシュメモリ」を使って、チューインガム大にまで小型化された「iPod shuffle」が発売された時、即座に購入して、見せてくれたのもT氏だった。

 液晶画面を付けるスペースがないのを逆手にとって、収納された曲が「シャッフル(順不同)」されて流れてくる、というのを売り物にしたものであったが、思いがけない曲が次々と流れてくるという体験は、聴き飽きた音楽にも新鮮な息吹を与え、なかなかのアイディアだと思った。約150曲入る512MBのものが1万円程度と手頃な値段だったので、私も早速、その翌月に購入した。

 iPodシリーズには、白いイヤホンが付属しているのだが、その音質がよくない、という噂があったので、8月に、オーディオ・テクニカ社の「ATH-CM7Ti」というイヤホンを購入した。チタンを使っているのが売り物だったが、価格は1万5500円、本体のiPod shuffleよりも高かった。















 「ステレオでもスピーカーによって、全然音が違うでしょう? イヤホンでも同じですよ」というT氏のことばに背中を押されたかたちであった。彼はすでに、2万円近いイヤホンを持っていた。

 そうして買った「ATH-CM7Ti」であったが、さっそくiPod shuffleにつないで聴いてみたが、何だかぼんやりとした音しか出なくて愕然とした。買う前に店頭で何度も実際に試聴していた、あの、私好みの「乾いた、クリア」な音とは全然違っていた。どうしたことかと頭が真っ白になり、我に返ってから、ネットでいろいろと調べてみたら、「エイジング」ということばが見つかった。「慣らし運転」という意味だそうで、音響製品、とくにスピーカーやイヤホンなどが新品の時に、材料の金属などが十分に「こなれて」いないことがあるが、しばらく使っているうちに、本来の調子になってくる、とあった。実際、その通りにやっていると、まもなく、あの気に入っていた音になってきたので、ほっと胸をなで下ろした。


 翌2006年には、新発売された「iPod 5G」を購入した。3万4800円だったが、30GBもあって、CDからどんどん取り込んで増える一方の「音楽コレクション」を全部収納できたうえ、動画再生も可能だったので、iTunes Storeで買った映画や、取り込んだテレビ番組を観ることができた。

 一方のT氏は、私みたいに「貯め込む」タイプではなかったので、低容量だったが、フラッシュメモリをつかって軽量の新製品「iPod nano」を買っていた。そして、2008年に「iPod touch(第2世代)、そして、2009年には「iPhone 3GS」へと進展していった。

 そのT氏の歩みは、iPodの初期のようにやみくもに新製品に食いついていくというのではなく、その性能が安定し、よし大丈夫、という確信が持てるようになってから購入するという、堅実なものへと変わっており、その点、私にとって、たいへん得がたい先導者であった。ただ、この頃には、私は定年を迎え、年金をもらいながら嘱託の仕事をするという身分になっていたので、T氏に全面的に追従していくのは無理だった。

 2006年に普通の携帯電話を持つようになった私は、月5000円超のネット接続料金を節約するため、iPhoneに切り替えることなく、2009年10月に「iPod touch(第3世代)」の64GB版を3万9800円で購入した。以後、iPod touchは2回更新されて、2014年現在、カメラが付き、画面も精細になった「第5世代」になっているが、私は「第3世代」のままである。

 ただ、この間にT氏に勧められて、ひとつの買い物をした。それは、モトローラ社製のBluetooth(ブルートゥース)の「ヘッドセット」だった。

 ヘッドセットというのは、ヘッドホンをやや簡便にしたもので、マイクが内蔵されていて、iPhoneにつなぐと、そのまま通話することができた。Bluetoothというのは、一種の「無線規格」で、私が買ったiPod touchにもその機能が付いていたので、無線でヘッドセットと接続することができた。つまり、あの鬱陶しかったイヤホンのコードから解放されたのである。これは一度体験すると元には戻れないほど快適なもので、Bluetoothではどうしても音質が落ちるといわれていたが、そんな欠点を補って十分に余りあるものであった。















 iPodを購入して、持っているすべてのCDをMP3化し、さらに、友人やレンタル店で借りたCDも変換して、2014年現在、落語や英語のファイルも含めると8000曲以上となっている。そのストックを全部iPod touchに入れ、常時持参するようになって、とにかく、音楽をよく聴くようになった。

 レコード時代からよく聴いていたビートルズだが、ほぼ毎日、通勤の行き帰りに聴くというようなことは、それまでにはなかった。あたらしいCDを買っても、最初数回聴けば、その後は埋もれてしまっていたのが、折りに触れて、何度も繰り返し聴くようになった。

 以前のように、自分の部屋のステレオやラジカセの前だけではなく、いつでもどこでも好きな曲が、手軽に、何の気兼ねもなく、しかもそれなりに美しい音で聴くことができるようになって、音楽がみじかな、自分個人の専有物になったのである。いわば、かつて、王侯貴族にしか許されなかった「専属の楽隊」を、数百年後の私たちは、だれもが、いつでもポケットの中に持ち歩けるようになった、といえるのかもしれない。

(つづく)


【自註】

 話はいよいよ佳境に入ってきて、少し長くなってしまいました。当時を思い起こしながら、記憶だけでは足りぬところはネットで検索したり、私自身にとっては、けっこう至福の時間ですが、「知る人ぞ知る」という内容の話だけに、Macやパソコンに無関心な人々にはどこまで届いているでしょうか。そんな方々にも気持ちよく読んでもらえるように、ある意味、くどいぐらいの記述の箇所もありますが、いかがでしょうか。さて、心積もりでは、次回で完結の予定です。画像、映像の話になります。お楽しみに。   (2014.4.15)


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