わがデジタル創世記

            ~ Macへの道 ~ (3)




「データベース」ソフト

 私がはじめてMacのパソコンを買った時、フロッピーディスクに入った「お試し版」ソフトをたくさん貸してもらったことは前に述べたが、その中の「ファイルメーカー・プロ 2.1」に注目したのは、それが「データベース」ソフトだったからである。

 それまで、ワープロの「Rupo」や、そこに搭載された「ロータス1-2-3」を使っているうちに、私は、コンピューターの本領は、「計算」ではなくて、「記憶(=保存)」ではないかと思いはじめていた。だから、まさにそれを真正面から取り上げた「データベース」ソフトとはどんなものなのか、興味があったのである。

 まだコンピューターのなかった頃のデータ処理の道具といえば、それは「カード」であった。

 ある事柄(または人物)について、1枚のカードを用意して、そこにいろいろなデータを書き込み、そのデータによって、同種のカードを集めたり、順番に並べたりして、情報を整理するというものである。

 「プロ野球選手」を例に取ってみよう。ある選手のデータといえば、例えば、次のような項目が考えられる。

 「1. 氏名」「2. 生年月日」「3. 出身地」「4. 利き腕(右投右打など)」「5. 身長」「6. 体重」「野球歴(7. 高校・8. 大学・9. 社会人・10.プロ球団)」「11. プロ入団年」「12. ドラフト順位」「13.現所属球団」「14. 現在の年俸」「通算打撃成績(15. 打率・16. 安打数・17. 本塁打数・18. 盗塁数)」「通算投手成績(19. 防御率・20. 勝利数・21. 敗戦数・22. セーブ数・23. 奪三振数)」「24. 表彰歴」。


 これに「写真」と「コメント」を付け加えれば、市販されている『選手名鑑』や『プロ野球カード』と同じようなものになるのだが、そんな『選手名鑑』の最新版(2014年版)をもとに、データベースを作成してみよう。

 「ファイルメーカー」では、選手それぞれのカードのことを「レコード」と呼び、その中のデータ、すなわち、いま挙げた「生年月日」などの項目は「フィールド」と呼んでいる。

 まず「レイアウト・モード」にして、上記の24の「フィールド」を設けた「メイン・カード」のひな型をつくる。そして、そこにデータを入力すると、次のようなものができあがる。



* ASは、オールスター出場のこと


 ここには、この選手に関するすべてのデータが収められているのだが、その中から、注目する項目を抽出して、特徴あるカードをレイアウトすることができる。

 例えば、「氏名」「生年月日」「高校」「大学」「社会人」「プロ」「プロ入団年」「現球団」「年俸」のフィールドに絞ったカードをつくり、「検索」機能と「並べ替え」機能を使って整理すると、ある「高校」出身のプロ野球選手が「生年月日」順に並んだ、次のような「一覧表」ができあがる。




 これを見ると、その高校から、現在、これだけの選手がプロに入っている、ということのほか、思いがけない選手同士が、同級生だったり、同時期に野球部の先輩・後輩だったり、ということが一目でわかる。

 また、各選手の、現在までの「通算成績」の個人票をつくることもできる。




 さらに、データがありさえすれば、もっと「フィールド」項目を増やして、より充実したデータベースができるし、膨大な時間と労力がかかるが、全選手のデータを入力すれば、それは完璧なものになるだろう。

 もちろん、同じようなことはエクセルなどの「表計算」ソフトでもすることができた。

 「レコード」にあたる「選手氏名」を縦の「列」に並べ、その横に「フィールド」に当たる「生年月日」「出身高校」「打率」「安打」「本塁打」などの枠をつくっていけばよいのだが、その場合、そのデータは「行」に沿って、右横に長く長く伸びていくことになり、項目が多くなれば、きわめて見にくいものになってしまう。 

 学校の仕事でいえば、学期末に、かつては担任がつくり、のちにコンピューターがつくるようになった生徒の「成績一覧表」がそうである。

 「生徒氏名」を縦の列にとり、その横に並んだ枠の中に各科目の「得点」を記入するようになっている。それは、教師が全生徒の成績を「一覧」するのには都合がよかったが、個々の生徒に見せる時には、その生徒の行を横に細長く切り取った「短冊」状にするしかなくて、あまり具合はよくなかった。

 しかし、ファイルメーカーを使って、先の、野球選手の「通算成績個人票」のように、生徒ごとのカードの中に、必要な項目をレイアウトしていけば、各生徒に配布するのに都合のいいものができる。

 これはまさに使いごたえのあるソフトだということで、さっそく学校に申請して、最新のバージョンのを購入してもらい、進路関係の「模擬試験成績個人票」というのを作成することになった。



ファイルメーカーで学校の成績を管理する

 「模擬試験」というのは、高校3年生が受験する「大学入試」のための「事前練習」のような試験で、その結果によって、志望する大学に合格できそうかどうかを「判定」するものである。

 その「判定」の精度を高めるためには、たくさんのデータが必要なので、民間の専門業者が何万人とか、何十万人とかを対象に同一の試験を実施していて、大学受験をめざす多くの高校がそれに参加していた。

 その業者も、出版社系、予備校系など何種類もあって競争となっているので、どういう高校が参加しているか、出題問題の質はどうか、などを判断して、受験する「業者模試」を選び、また学校が独自に作成した「校内模擬試験」というのもあって、それらが年に何回もあった。

 そして、それらの試験結果は、様式もさまざまの、各社別々の用紙に記入されて戻ってくるので、教師間で各生徒の成績を検討したり、生徒や親と、進路に関する面談をしたりするときには、何種類もの成績票をちらちらと参照しなければならず、とても面倒なことになっていた。

 そこで、それらのデータをファイルメーカーを使って、1枚のカードにまとめようということになった。

 業者から送られてくる「エクセル」のデータは、「SYLK」というフォーマット(形式)に変換すれば、すぐにファイルメーカーに取り込むことができた(のちに、エクセルから直接取りこめるようになった)ので、それはたいして面倒なことではなかった。

 ただ、つくっていくうちに欲が出てきて、大学入試に近い高校3年時の成績だけではなく、高校2年、高校1年、さらに併設の中学時代の成績も何かの参考になるかもしれないと、どんどんデータの項目が増えていき、最終的には、「得点」「平均点」「偏差値」「志望大学」「志望学部」「志望学科」「合格可能性」などの入力項目(フィールド)の合計数が500を超える大きなデータベースになってしまった。

 そして、その中から、それぞれの時期に必要な、直前4回分ほどの試験結果を抜粋したカードのひな型をつくっておくと、中学1年から高校3年まで、各学期毎に生徒に配布する「個人票」をすぐに打ち出すことができた。

 このファイルメーカーによる「模試成績管理システム」は、私がその仕事の第一線を退いたあとも、いろいろと手直ししながら、後継者たちに受け継がれているようだ。それまで、Macの機器やソフトについて、学校に対しては随分と無理をきいてもらったが、それなりの貢献はできたものと自負している。



ファイルメーカーによる「デジタル日誌」

 ファイルメーカーは私事においても活用することができた。それは「日記帳」である。

 日記というものをつけはじめたのは中学生のころだっただろうか。学校でなかば強制されてつけはじめたのではないかと思うが、とにかく、文章を書く習慣が身についたのはたしかであった。

 ただ、思春期のいろんな「思いのたけ」のはけ口のようなものだったので、大学ノートに、あるときは大量に書きつけることもあれば、そのあと、長い期間中断してしまうこともしばしばで、日記を習慣にすることは難しいことだった。

 そんな私が一念発起して、きっちりと日記をつけはじめようと思ったのは、上の子どもが産まれることになった1980年のことだった。

 長い文章を書くのでは長続きしないし、「道具が大事」とも云うので、この際書店で思い切って、既製の「日記帳」を買ってみた。『博文館5年連用日記』である。

 1ページを5段に区切って、「1980年」から「1984年」まで、同じページに同じ日が5年分並んでいる。各年、日付と天気の欄がある行の他、内容はわずか5行で、たいした感想などは書けないかもしれないが、その日にしたこと、あったことを記す「日誌」としては十分であった。おそらく5分もあれば記入できそうなので、忙しい時でも負担にならないのではないか、と思った。

 発行元の「博文館新社」は、日記帳出版100年の歴史を誇り、様式、紙質、製本などに長年のノウハウを注いでいると謳うだけあって、すべすべと万年筆のインクの乗りもよく、とても書きやすかった。

 また、そこらの単行本顔負けの立派な函に入り、日記の中でも最高価格の2500円という値段も、それを無駄にしてはいけない、というモチベーションを呼び起こして、1日たりとも空白をつくってはいけないと決意させるのに充分なものであった。

 そして、なんとか1年間、無事に書き通すことができた。次の年から2段目に入ると、すぐ上に、昨年の出来事が記入されていて、それを読み返したりしていると、ますます書きやすくなった。

 そして一年一年、それが積み重なって、どんどんと書きやすくなり、たちまち5年が経って、また新しい「5年連用日記」を購入するということが3回続いて、本棚には、1999年12月31日までの20年分、4冊の『博文館5年連用日記』が鎮座していた。

 ファイルメーカーを使って、パソコンで「デジタル日誌」をつくることができないだろうか、と思い立ったのはその頃である。さっそく「レイアウト」づくりに入った。

 日誌の必須項目は、「日付」「曜日」「天気」と「本文」であるが、それだけではおもしろくないと、「起床時刻」「就寝時刻」「昼食メニューとその値段」などを別欄にした。さらに使っていくうちに、いつの間にかなくなってしまう自分の小遣いの使い道を把握したくて、日々の「支出項目」「支出金額」の欄をつくり、体重計や万歩計を買えば、そのデータの欄が付け加わった。

 その後、「旧暦」の合理性をどこかで読んで興味を持ち、新聞の片隅に小さく載っている「こよみ」のデータを入力する欄をつくったり、夏にベランダで胡瓜を栽培するようになると、その収穫本数も、と次々、フィールド項目を増やしていって、2014年現在では、次のようなものになっている。




 2000年元旦から始まった「デジタル日誌」も15年目に入った。

 その何よりの利点は、読み易いことである。

 今回、この稿を書くに当たり、いろんな事実を確認するために、本箱の奥に眠っていた「5年連用日記」を読み返してみることが多かったが、その時つくづくと思ったのは、手書き文字の読み難(にく)さだった。時によっては、かなりの「走り書き」で、自分の字であるにもかかわらず、ついに判読できなかった言葉も少なくない。

 また、捜している事柄がどこに書かれているのか、を見つけるのもひと苦労だったが、ファイルメーカーでつくった「デジタル日誌」の場合には、「検索」という武器がある。

 「検索モード」の画面に切り替えて、その空白の「本文」欄に、例えば、「ワープロ」という文字を打ち込み、「検索ボタン」をクリックすると、一瞬のうちに、本文に「ワープロ」という文字が入った日付のカードがすべて抽出されてくる。これは非常に便利な機能であった。

 「日誌」の活用法として、以前こんな場合、どうしたのか、を調べる、ということがあるが、「手書き日誌」の時は、あとから読み返すことは、よっぽどの場合を除いて、ほとんどなかった。「検索」がたいへんだったからである。

 また、項目の中に「計算式」を設定することもできた。「支出金額」の、その日の「小計」や、「検索機能」で絞った、ある一定期間の「累計」を表示する欄をつくることもできた。これは、「模擬試験成績個人票」で、「合計点」「平均点」「偏差値」などを計算するときに使った機能である。


 ファイルメーカーでつくった「データベース」をもう一例挙げておこう。

 私がこれまで溜め込んできた「テレビ放送の録画DVD」を整理した 『DVDコレクション』で、その「入力画面」は次のようなものである。




 これらのカードを、検索をかけずに入力順に一覧表にすればこのようになる。


 * Fullsize とは、ハードディスクに保存した映像ファイルの意。


 この、「テレビ放送録画」については、章をあらためて詳しく述べるつもりである。



インターネットの導入

 私が最初のMacを購入した頃、巷では「インターネット」がボツボツと話題になりはじめていた。もともとはアメリカの研究機関をつなげるネットワークから始まったと言われるインターネットであるが、1980年代後半に、一般の商業用にも開放され、日本でも、1990年代に入って、その存在が注目されはじめていた。

 学校でも、Macユーザーの理科教師の中に、家でインターネットに接続しているものも出てきて、そんな人々が中心となって、英語科のMacをインターネットにつなげようという話が持ち上がった。専用のデジタル回線ISDN(Integrated Services Digital Network)が普及してきた1997年初めのことである。

 すでにさまざまなホームページ(ウェブサイト Website)が存在し、いろいろとおもしろい記事もいっぱいあって、それらを次々と巡る「ネットサーフィン」という言葉も生まれていた。

 インターネットにつながった英語科のMacで、放課後などに「ネットサーフィン」を体験するうちに、どうしても家で自由にやってみたくなり、私の家でも、翌1998年9月にISDN回線を引いて、いよいよインターネットを開始した。

 インターネット接続中は電話代が課金されるのだが、午後11時から翌朝8時までの深夜時間帯には「テレホーダイ」というサービスがあって、一定料金を払っていれば、その間は使い放題だった。その後、その時間帯が取っ払われて、いつでも使い放題の「常時接続」となるのだが、私が家でインターネットを始めた時にはまだ「テレホーダイ」だったのか、今となっては記憶がない。

 回線の方も、2001年になって、ADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line:非対称デジタル加入者線)という、従来のアナログ回線を使って高速通信できる方式が人気になり、さらに現在では、「光ケーブル」による、より高速な接続が一般的になってきている。わが家でもそれに合わせるように、2003年11月にADSL、2010年3月に光ケーブルを導入した。



インターネットの活用

 それにしても、「インターネット」の登場は、パソコンの普及にとって決定的なことであった。

 普通、一般家庭で、子どもの勉強の為に、などといわれてパソコンを買ったとしても、すぐに、使い道のない無用の長物になってしまうだろう。かつての、応接間のインテリアであった「ブリタニカ百科事典」のように。

 しかし、少なくとも、インターネットに接続さえしておけば、それだけで、まるで、テレビを買ったかのように、パソコンはだれにでも楽しめる機器となった。

 一日に1回はパソコンを開かなければ気が済まない、という人は多いが、インターネットがなければ、ありえないことであろう。それは、その後に登場する「スマートフォン」や「タブレット」の場合も同様であった。

 その頃よく(インター)ネットで見ていたページに、『MacWEEK Online Japan』というのがあった。

 Macのパソコンに関する最新ニュースを載せたものだったが、毎日更新され、しかも内容もかなり詳しいので、月刊の「Mac誌」にはない魅力があって、放課後に、英語科のMacで開いたページを印刷して、職員室内のMacユーザーの人たちに配布したものである。

 ネットを見るためには「ウェブブラウザ」というソフトが必要で、当時、「Netscape Navigator ネットスケープ・ナビゲーター」というのを、みんな買って使っていたが、その後、後発のマイクロソフトが巻き返しを図って、「Internet Explorer インターネット・イクスプローラー」というソフトを(OSに標準添付の)無料で配布し始め、激烈な競争となっていた。

 私は「Internet Explorer」の方を愛用していた。それは「無料」だったから、ということもあるが、見ているネットのページを保存したい時、写真や広告も含めて保存する「アーカイブ保存」の他に、文字だけを保存する「テキスト保存」という機能がついていて、これがネットでの「Macニュース」を印刷するのに都合がよかったからである。

 この私の印刷した「Macニュース」のもっとも熱心な読者は、私をMacに導いてくれた、あのF氏であった。

 Macの道において、私よりも何十歩も先を歩いているF氏であったが、反面、妙なこだわりがあって、インターネットの便利さは十分に理解はしていても、それを積極的に導入する気はないようで、家でもやっていないようであった。

 何しろ、私がワープロに、当時最新の「Word ワード」を使っていたのと対照的に、彼はふた時代も前の「マックライトⅡ」というソフトをいまだに使っていて、机の上には10インチの小型画面を擁した「Color Classic Ⅱ」が置かれていた。

 相変わらずいくつもの「Mac誌」を定期購読していたF氏は、次々と発売される新製品や関連商品について抜かりなく情報収集をしていたが、彼自身がそれらをどんどん買って使っていくということはなかった。経済的な理由でもなさそうだった。

 ある時、F氏がふと、また映画をつくりたいと思っている、今度はMacを使って、デジタルで編集してみたい、その機器やソフトなど、いろいろ出てはいるようだが、まだまだ機能は不十分だし、一応満足できるプロ仕様のものはべらぼうな値段でとても買えない、この世界の進歩は日進月歩なので、そのうちにもっと安くて好いものが出るはずだから、その日のために今はお金を貯めているのだ、ということを、呟くように私に言った。多分、それが本心だったのだろう。



「MacFan Expo in Kansai '97」

 1997年冬、JR大正駅の前にその春誕生した「大阪ドーム」で、「MacFan Expo in Kansai '97」というイベントが催された。

 ちょうど開局40周年を迎えた「読売テレビ」をスポンサーに、Mac誌の雄「MacFan」が後ろ盾となって、Mac関係の業者(vendor ベンダー)やユーザーグループが集まった「一大Macイベント」である。

 その頃、サンフランシスコや、日本でも、幕張メッセなどで毎年行われていた「Macworld Expo マックワールド・エキスポ」の関西版とでもいうべきもので、その規模といい、会場といい、画期的なものであった。

 なぜ、この時期に、大阪で、というのは、よくわからなかった。ながらく不振にあえいで、何度も「身売り」を噂されていたアップル社が、この頃、創業者のスティーブ・ジョブズが12年ぶりに復帰したのを機に、業績が上向いてきたこともあろう。だが、それ以上に、Macを愛し、それを支え、育てつづけてきた熱心なファンやユーザーの存在が、この関西でもいかに大きいかということが、実際に行ってみてわかった。

 私が行ったのは、12月12日から3日間の日程の、その初日であったが、開場前から長蛇の列ができていた。中に入ると、野球場の人工芝を剥いでピータイルむき出しになったグラウンドに、所狭しと、さまざまなブースが設けられ、どこも人だかりでいっぱいだった。





 ソフトメーカーの製品プレゼンテーションや小売り店の大安売りの他、さまざまなユーザーグループが趣向を凝らした出展を行っていた。

 そんな中で、近く日本でも発売されるという「PowerPC G3(第3世代)」という高速チップを搭載した最新のMacの、サクサクとした動きを体験したり、アドビ社が開発したPDF(Portable Document Format)ファイルや、建築図面を描くCadソフトに感心したり、そのころ興味のあった三洋電機の「デジカメ」のブースへ立ち寄って、「記念撮影」をしてもらったりしたのを憶えている。

 別会場でおこなわれている「アップル・ジャパン」原田社長のスピーチ&インタビューのビデオ中継もあったし、読売テレビのアナウンサーらによるステージもあったりと、夕方までたっぷりと楽しみ、帰りに、記念グッズのCD-ROMケースなどを買ったりした。




 翌日、私は喜び勇んで、このMacFan Expoの報告をF氏にした。興奮気味にしゃべる私の話を穏やかな笑顔で聴いていたF氏も、最終日に行ったようだが、私ほどは浮き立っていないようだった。

 大阪ドームで出展されていたものは、情報通のF氏にとってはほとんどが既知のことであったか、あるいは関心の薄いことだったのかもしれないし、彼の関心は、ジョブズの復帰したアップル社の今後の方に向いていたのかもしれない。



アップル社再興の年に.....

 翌1998年8月に、ボンダイブルーの「iMac(あいまっく)」が発表されたが、この時のF氏の喜びようは並大抵のものではなかった。

 おにぎり型のそのデザインを「可愛い」と絶賛し、低価格なのに、最新の高速「G3」チップが使われていることにも感心していた。しかし、F氏がiMacを買うことはなかった。というのは、彼はその1年前に「PowerBook 3400」というノートパソコンを買っていたからだ。

 1997年2月に発表されたこの機種は、それまでのMacのノートパソコンを集大成したもので、「名機」の誉れ高く、「Macノートの最高峰」とさえ云われていた。だが、この「PowerBook 3400」の天下は短かった。9ヶ月後の11月に、先にも述べた、高速の「PowerPC G3」というチップを載せた「PowerBook G3」が発表されて、「PowerBook 3400」は一挙に色褪せたものとなってしまったからである。その直後に開催された「MacFan Expo in Kansai '97」だったので、F氏の心中は穏やかざるものだったに違いない。

 新製品が発表されると、それまでの製品が一挙に時代遅れになってしまう、というのはパソコン、とくにMacの世界ではよくあることであった。だから、それを見極めて、最上のタイミングで、最新のものを購入できるよう、毎月何種類もの「Mac誌」を購読して、周到に情報収集をしていたはずのF氏だったから、「PowerPC G3」チップの噂や、すでにジョブズの「復帰」が現実味を帯びはじめていたアップル社の今後の新展開の可能性など、を見逃すことはありえないことであった。

 だから、この30万円以上もする、高級機の「PowerBook 3400」の購入は、私にはやや唐突で、意外なことのように思えた。今にして思えば、F氏に、他人には推し量れない「焦り」のようなものがあったのかもしれない。というのは、F氏は、1999年6月、放課後残って、職員室の自分の机で作業中、体調不良をきたして、急遽、病院に運ばれたからである。

 彼は、そのまま入院し、その後、長期欠勤となった。検査が続いている、とか、手術したとか、いろんな声が聞こえてきたが、詳しいことはだれも知らなかった。そして、夏が過ぎ、秋も深まりはじめた時、私は、彼が入院している、大阪森ノ宮の成人病センターへお見舞いに行った。

 薄暗い個室のベッドにひとり寝ていたF氏は、すぐに起き上がって、備え付けのソファにゆったりと腰を下ろした。すこし痩せていたようだったが、顔色は悪くなかった。

 「ガンなんですよ」 

 彼はさらっと、そう言った。衝撃的な内容にもかかわらず、表情は明るかった。

 「手術をして、全部取り除いて、その跡に放射線治療も施したので、多分大丈夫だろうと、医者は云っていました」

 私がときどき自宅に郵送していた「Macニュース」は毎回楽しみに読んでいたそうで、あらためてお礼を云われた。つい最近発売された、カラフルなノートパソコン「iBook(あいぶっく)」のことや、ジョブズが、ヒットアニメで話題の「ピクサー社」のオーナーでもあることから、「Steve's two Jobs(スティーブのふたつの仕事)」というタイトルで特集を組んだアメリカの雑誌がある、など、話題は弾んだ。




 F氏は翌2000年1月から、教壇に復帰した。家族や親族が退院祝いに、映像処理ができる最新のiMacを買ってくれた、とうれしそうに語っていたが、それを存分に触る元気はまだ回復していないようだった。

 そして、3学期の授業も無事に終え、その年度の最後を締めくくった3月22日、F氏は、再度入院した。新学期が始まっても、欠勤が続き、5月10日、訃報が届いた。

 その時はじめて知ったのだが、ガンの転移が発見され、それはもはや手の施しようのない状態だったので、退院して、自宅に帰り、家族や親族といっしょに最後の日々を過ごしたとのことであった。

 現職の教師だけに、お通夜や告別式には教え子をはじめ、大勢が駆けつけ、その葬儀場始まって以来の数だったそうであるが、それと反比例するように、本人や遺族の無念の気持ちは深かっただろう。

 F氏がながらく待望し、その戸口だけしか垣間見ることができなかった「アップルの再生劇」は、その後、怒濤のごとく進行した。

 2001年、新OSの「MacOS X(マック・オーエス・テン)」シリーズの登場。同年の「iPod(アイ・ポッド)」の発売。2003年、「iTunes Store(アイ・チューンズ・ストア)」による、音楽の「ダウンロード販売」の開始。2007年の携帯電話「iPhone」、2010年のタブレット端末「iPad」の登場、などなど。

 これらの「新製品」や「新機軸」が次々と現れてくるたびにいつも、F氏なら、これを見てどう思うだろうか、と思った。どれもこれも、F氏の大好きそうなものばかりだったからだ。

 もう少し長生きしていれば、こんなにも好い目をいっぱい見ることができたのに。そう思うと、いまも残念でならない。

(つづく)

       

【自註】

 今回は、データベース・ソフトの使い方の説明があったので、思い切って、たくさん「画像」を使ってみました。知っている方は、くどい、と思われたかもしれませんが、知らない方々が退屈せずに、少しでも興味を持っていただけたら、との願いをこめました。いかがだったでしょうか。内容上、これからもこういう話が多くなるでしょうが、なんとか、だれが読んでも、わかりやすくて、楽しい文章になるように心がけます。(2014.3.10)

目次へ

「デジタル創世記(4)」へ