わがデジタル創世記

                 ~ Macへの道 ~(2)


「コンピューター」の印象

 「コンピューター」という言葉をはじめて目にしたのは、中学に入った頃に読んだ、ある科学読み物だったと思うが、1950年代後半の当時は、日本語で「電子計算機」と呼ばれる方が多かったかもしれない。

 そもそもは、第二次大戦中に、侵入してきた敵の飛行機を高射砲で撃ち落とす時に、その飛行機の航路と高射砲の弾道を瞬時に計算して、より正確に射程の方向を決めることができるようにと、開発が始められたらしい。

 10進法のかわりに「2進法」を使えば、数字は0と1の2種類だけで済み、その2つを電流のONとOFFに割り当てて「計算回路」をつくれば、電流の速さで計算が行われる、というのが原理であったが、真空管を1万8000本も使い、重さが30トンにもなる、巨大な第1号機が完成したのは、戦争が終わった1946年だったと言われている。

 たしかにスピードは速く、高射砲の計算には十分間に合ったそうだが、真空管がすぐに切れて、補修がたいへんだったようだ。

 また、その高速の計算力を利用して、チェスのプログラムもつくられた。それはかなり強くて、チェスの名手を苦しめるほどだったが、一方、初心者の「定石はずれ」の手にはめっぽう弱かった、というようなことも書かれていた。

 やがて、コンピューターの心臓部、CPU( =Central Processing Unit  中央処理装置)は、真空管から、トランジスターに変わり、さらに、シリコンなどの「半導体」の中に、トランジスターや抵抗やコンデンサーなどを作り込んでしまうIC( = Integrated Circuit  集積回路)へと発展し、その集積度がさらに高まって、1971年、CPU全体が小さなシリコンのチップに収まった「マイクロ・プロセッサー」が誕生した。

 その結果、それまでのように、中央に巨大なコンピューターを配置して、そこにいくつもの「端末機」を接続して共同使用する「メイン・フレーム」というコンピューター・システムではなく、「マイクロ・プロセッサー」を搭載して小型化されたコンピューターが、それぞれ独立して、それだけで仕事ができる「パーソナル・コンピューター(パソコン)」が登場して、コンピューターは一挙に、個人が所有できるものとなったのである。


 学校の成績処理にコンピューターが導入されたのも、そんな頃のことだったが、いかに大衆化されたといっても、その見かけはいかにも取っつきにくいものであった。

 学期末の成績処理がおこなわれているのを横から見ていると、電源を入れて、「成績一覧表」の画面が出てくるまでに、何やら暗号みたいな、英字と数字がいっぱい並んだ画面が出てきて、そのところどころにある「選択ボタン」を押したり、何やら文字を打ち込んだりという操作を、何回も繰り返さなければならなかった。

 また、職員室にも、教科での研究用にと、数学科のパソコンが設置され、何人かの若い教師たちが毎日遅くまで残って、その前に座っていた。なかには、個人で購入して、家で使っているという教師も出てきた。

 ワープロ機での処理に限界を感じ、そろそろパソコンも考えなくてはいけないか、と思いはじめていた私は、そんな教師のひとりに、パソコンって、いくらぐらいするものですか? とおそるおそる訊いてみたことがあった。すると、彼は涼しい顔で、こう云った。

 「パソコン本体とディスプレー、キーボードなど機械一式は20万も出せば、まあ何とか買えますが、それだけでは《ただの箱》です。中に入れるソフトウェアも買わなければ動きません。それにはまた別にお金がかかります。あるいは、自分でプログラムを組むか、ですね」

 まるで、こんな厄介なもの、あなたたち素人さんには無理だから、手を出さない方がいいですよ、と言われたような気がして、パソコンは、自分には「雲の上の存在」でしかない、と思うようになってしまった。


 状況が変わったのは、それから大分経った、1995年のことであった。英語科の会議で、入って3年目、いちばんの「若手」教諭のF氏が、遠慮がちながらも決然と、パソコンの購入を提案したのである。



Macとの出会い

 「若手」といっても、F氏はその学校の卒業生で、教員免許を取得するための「教育実習」に来たあと、翌年の4月から、英語の非常勤講師に採用されて、教壇に立っていた。

 非常勤講師というのは、専任教諭と違って、担任の仕事やその他、いわゆる「雑務」を除いた、教室での「授業」だけを行う教師で、私立の学校では、人件費を節約するために、かなりの人数が採用され、この学校でも、当時は全授業の3分の1ほどを非常勤講師が担当していた。

 F氏は温厚で穏やかな人柄で、専任教諭の持ち時間の隙間にできた半端な授業を、いやな顔ひとつせずに引き受けるなど、教師間の信頼も高く、また、在学中から「模型」や「アニメ」などに深い興味を持った、いわゆる「オタク」タイプの若者だったので、非常勤ながらも、そういう方面の「同好会」の世話をしたりして、生徒の評判もとてもよかった。

 彼自身、おそらくは、そうやって、少々の無理にも耐えながら、いずれは専任教諭に昇格することを期待していたのだろうが、どういうわけか、学校の方は、彼を専任にしようとはしなかった。英語科の全員で校長に直談判して、F氏の専任昇格を要求したこともあったが、校長は頑として、首をタテに振らなかった。

 先行きの見通しが立たないまま、それでもかすかな希望を抱いてF氏は10年近く、在学中から慣れ親しんだ母校での仕事を続けてきたが、結婚して家庭を持つことになったのを機に、英語関係の専門学校に常勤の職を得て、後ろ髪引かれる思いで退職していった。

 ところが、それから2年後、それまでの校長が退任して、新しい校長が就任すると、最初に行った仕事が、F氏の専任教諭採用だった。なぜもっと早くできなかったのか、と内心思いつつも、みんなこの人事に拍手喝采した。長年の宿願をはたしたF氏も、屈託のない、満面の笑顔でそれに応えた。

 併設の中学校の新入生の担任に任命されたF氏は、満を持したように、それまで、非常勤講師のときにはできなかった担任の仕事や、クラブ顧問、学校行事の運営などに、全力投球で取り組みはじめた。そして、その年の秋の文化祭で、F氏のクラスが決めた出し物は、8ミリでの映画製作だった。

 何といっても、中学1年生なので、8ミリ映画の製作など、とても無理だとみんな思ったが、F氏の、これまで溜まりに溜まっていたものを一挙に吐き出すかのような、獅子奮迅の大奮闘がその不安を一掃した。

 かつてあったテレビドラマ『ウルトラQ』に似た怪奇SFに、ややコミカルな味を加えたようなその作品の、脚本、監督、撮影、編集はすべてF氏が担当し、生徒はF氏に言われるままに、出演者として動きまわるだけで、まるでF氏の「個人映画」のようであった。

 しかし、その中にちょっとした「特撮」などもある撮影や編集は、まだ幼さの抜けない1年生にとっては、物珍しくも、おもしろくてたまらないものだったようで、その時のクラスの生徒たちは、その後、高校3年まで6年間その学年を持ち上がっていったF氏を支える「親衛隊」として、彼を一貫して、信頼し、慕っていたようである。

 そんなF氏の提案だったので、英語科の面々もそれを無下に退けることはなかった。

 もちろん、慎重論も出たが、結局、例の、ワープロを導入した、あの「新しもの好き」の先生の、「こういうご時世なのだから、試しに1台入れてみて、みんなで使ってみたらどうかな」のひと声で、学校に申請することが決まった。

 しばらくして、職員室にやってきた英語科のパソコンは、数学科や成績処理用のそれとはすこし違ったかたちをしていた。本体とディスプレーが一体となったもので、これまで学校にあったNEC製のものではなく、アメリカのアップル社製のPerforma 525という機種だった。



 放課後、さっそく、F氏の主導で、お披露目の「試運転」が始められたが、それは「ただの箱」ではなく、すでにいくつかのソフトウェアが入っていた。

 「クラリス・ワークス」というのがあって、画面にある、そのソフトを示す「小さな絵(アイコンというのであった)」を、長い尻尾のついたネズミみたいな「マウス」という器具を動かして、「マウス・ポイント」という矢印で探り当て、マウスの上部のボタンを連続的に2回押す(ダブルクリックする)と、大きな画面が開き、その中にある選択肢をひとつ選んで、今度は1回クリックすると、見慣れた「ワープロ」の画面が出てきた。

 また、別の選択肢を選ぶと、「表計算」の画面も現れた。

 NECのパソコンにしても、Rupoのロータス1-2-3にしても、キーボードのキーを叩いてカーソルを動かしていたのだが、マウスを使うと、一マスずつではなくて、一挙に遠くのマスまで簡単に移動することができた。

 仕事が一段落して、「保存」をクリックすると、名前をつけてください、という指示があって、そのとおりにすると、画面にその名前がついたファイルのアイコンがつくられた。そして、それをまたダブルクリックすると、そのファイルが開いて、仕事の続きをすることができた。

 そのファイルが不要になって消去したいときは、そのアイコンにマウスポイントを持ってきて、ボタンを押したまま、右下にある「ゴミ箱」まで引っ張っていって、そこでボタンを離すと、ゴミ箱の中に吸い込まれていった。その時、ゴミ箱の蓋は開いたままになっていて、もし気が変わって「消去」をやめたいときには、もう一度ゴミ箱をクリックして、そのファイルを引っ張り出すと、元に戻すことができた。

 と、ここまでは、Rupoのワープロとはちょっと違っていておもしろいな、という程度であったが、次にF氏が、同時に購入した「スキャナー」という機器の実演をしたとき、まったく仰天してしまった。

 まず、スキャナーの蓋を開けて、F氏が英語の教科書をそこに挟んだ。そして、コピー機でコピーを取るように、そのページをスキャンしてから、パソコンの画面に開かれた「e-Typist(イー・タイピスト)」というソフトを少しいじると、画面に映った教科書の英語の文字がみるみる読み取られて、ワープロの画面の中に移っていった。

 その間、約10秒あまり。あらかじめチェック機能がついていて、変なスペルになっている文字は色が変わっているので、その横に映った、教科書のコピー画面と見比べながら、手で修正をして、それでも、合計数分ほどで、教科書1ページ分の英文がワープロに打ち込まれていた。

 私が教科書を見ながら手で打っていけば、優に15分はかかると思われる量である。このデモンストレーションを見て、パソコンは凄い! と、私はすっかり感心してしまった。



ついにパソコンを購入

 その後、英語科のパソコンのいろんな使い方をF氏に手取り足取りで教えてもらいながら、このパソコンが、Macintosh(マッキントッシュ、略してMac)というシステムで動いていて、それは、数学科などのパソコンのMS-DOSというシステムとは違って、GUI(Graphical User Interface グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)と呼ばれる、マウスを使った「視覚的な」操作方法をもちいた画期的なものである、とか、そもそも、IBMなどの巨大な「メイン・フレーム」ではない、個人でも使える「パーソナル・コンピューター(パソコン)」を世界で始めて発売したのは、アップルである、とか、その創業者の、ジョブズとウォズニアックの「ふたりのスティーヴ」の物語とか、を教えてもらったりした。

 当時、Macのパソコンを扱った雑誌は、「MacFan」「MacPower」「MacLife」「MacUser」などたくさんあったが、F氏はそのほとんどを毎月購読していて、そんな中の何冊かを借りて帰って家で読んだりもした。

 当時は、毎月のようにMacの新製品が発表されていた頃で、雑誌にはそれらの紹介記事が満載されていたが、どれも相当な値段で、私にとって、まだまだ「高嶺の花」であった。


 ところが、7月に入って、期末試験も終わり、夏期一時金(ボーナス)も貰って、ようやく夏休みになった頃のことである。用事があって、学校に行ってみると、机の上にメモが置いてあった。

 「いま、LC630が大安売り。今月中なら、2万円のキャッシュバックもあります。もし、お買いになるつもりなら、いっしょに行ってもいいですよ」

 F氏からのものだった。

 LC630というのは、前年の9月に出荷された、入門者向けの、機能をやや省略した「割安」の機種だと、ちょうど借りていた雑誌に載っていたが、それでも、発売時には本体だけで、25万円の希望小売り価格がついていた。

 それが、F氏によると、約10ヶ月経った今では、半額以下の10万円程度に下がっていて、さらにそのあと、アップル社から2万円の払い戻しがあるのだという。また、「クラリスワークス」など、おもなソフトはすでにインストールされており、それ以外にも、いろいろなCD-ROMなども付属している(バンドルされている)とのことだった。


 まだまだ先のことだと思っていたパソコン購入が突然、現実味を帯びてきた。というより、千載一遇の機会に恵まれたような気になってきた。

 ボーナスを貰って気が大きくなっていたこともあり、さっそく家の者に相談すると、異存はないようだったので、すぐにF氏に電話して、日本橋の電器街に行く日取りを決めた。


 ワープロを見に、日本橋に行ったことはよくあったが、パソコン売り場に行ったのは初めてだった。「付き添い」を買って出てくれたF氏はさすがに手慣れたもので、数ある「パソコン専門店」の中からいくつかに絞って、案内してくれた。

 それらの店には、それぞれ特徴があるようで、例えば、「ソフマップ」という店は、Macやそれに関連する商品の品揃えがよいオーソドックスな店であった。また、それよりもすこし小さい「T-Zone(ティー・ゾーン)」という店があって、そこは、Mac用のソフトや関連商品が充実している、とのことであった。

 しかし、どちらも値段は「普通」で、もっと安い店は他にあります、と云って連れていってくれたのは、とある小さなビルの上層階にある「阪神商会」という店だった。

 ドアを開けると、小さな部屋の天井いっぱいまで、段ボールの箱に入ったMacが山積みされていて、そこに太い字で手書きされた値札が貼ってあった。たしかに、先の2店よりは大分安くて、目指すLC630も置いてあった。

 F氏は、もう1軒、この手の店がありますが、そこも見てみますか? と云ってくれたが、それまでかなり歩いていて、すこし疲れていたので、この店で買うことに決めた。

 F氏はディスプレーも見つくろってくれた。同じブラウン管でも、やや丸く湾曲したものと、真っ直ぐなものとがあるそうで、画面の文字を見るには後者でなければならないと云って、ソニー製の「トリニトロン」の15インチを選び、店員との値引き交渉もしてもらった。

 日誌によれば、1995年7月27日のことで、本体のLC630が9万9800円、ディスプレーが5万3000円、あとから2万円戻ってくるので、思っていたよりもかなり安い買い物であった。


 私がMacを購入したと聞いて、理科の何人かの先生が「歓迎」のコールを送ってきた。彼らはいわゆる「飲み友達」で、仕事帰りによく一緒に酒杯を傾けながら議論しあっていた仲間であったが、それまでパソコンの話をしたことはなかった。それは、私があまりにも無関心だったので、その話題が自然と避けられていた為だったのだが、私もその仲間に入ったとあって、その後は、がぜん、パソコンの話題が沸騰することとなった。

 9月に入ったある日、そんな中のひとりの先生が、私の机の上にどさりとフロッピーディスクの入ったケースを置いた。何かと訊くと、ここにMacのいろんなソフトがあるから、インストールしてみぃ、とのことだった。中を見ると、「Excel(エクセル)」など、幾種類かのソフトが、何枚ものフロッピーに分割してコピーされていた。

 「ほんまは、勝手にコピーしたらあかんのやけど、古いバージョンのやから、まあ、ええやろ。試しに使ってみて、気に入ったら、買(こ)うたらええねん」


 ExcelはMac向けにつくられた表計算ソフトだけあって、マウスを使って自由自在に、計算枠(セル)を扱うことができ、いちいち、キーボードの矢印キーで移動させなければならないロータス1-2-3よりも格段使い勝手がよかったので、まもなく、「進路データ作成」の仕事用という名目で、学校から最新版を買ってもらった。

 その先生から借りたフロッピーには他にもいろんなソフトが入っていたが、その中に、「ファイルメーカープロ」というデータベース・ソフトがあった。それについては、あとで詳しく述べることにする。



CD-ROMにハマる

 MacのLC630を購入した時、バンドルされていたCD-ROMの中に、英和辞典と国語辞典を兼ねた辞書があった。それは、直径12cmの普通のCD盤よりも小さい、「Electronic Book(電子ブック)」という方式の直径8cmのCD-ROMで、ソニーなどの家電メーカーから出ているそれ専用の小型「EBプレーヤー」で閲覧するようになっていたが、Macには、それが閲覧できるソフトがインストールされていた。

 その辞書自体は、内容が簡易版で、あまり使いものにはならなかったが、この「電子ブック」方式の小型CD-ROMには、他にもいろいろなものが発売されているのを知った。

 そんな中のひとつ、『現代用語の基礎知識』という「電子ブック」を、ソフトのフロッピーを貸してくれた理科の先生が持っていたので、それを貸してもらった。

 すると、これがなかなかの「すぐれもの」で、本にすれば、薄めの電話帳ほどもある『現代用語の基礎知識』が、8cmの小さな円盤にすべて収められ、自由自在に検索することができた。これは凄い、と、私はさっそく、それとは同工異曲の、朝日新聞社から出ていた『知恵蔵』の「電子ブック」を購入した。

 『知恵蔵』は、しばらくの間、私のMacの主人公であったが、さすがに、やや飽きてきて、別の「電子ブック」を物色、『ぴあCINEMA CLUB』というのを見つけた。


 これは、『ぴあシネマクラブ』というタイトルで、邦画、洋画の2冊本として毎年出版されている本を小さなCD-ROMに収めたものである。

 「タイトル」「監督」「主演俳優」など、いろいろな項目から映画作品を検索することができ、出てきた資料は、文字ばっかりだったが、「スタッフ」「キャスト」「解説とあらすじ」の他、五つ星マークで、作品の評価が載っていたのがおもしろかった。

 私はまず、自分がそれまで見た映画を片っ端から検索し、その「解説」と「評価」を見て、自分の過去の印象と引き比べて楽しんだ。

 また私はそのころ、町山智浩編集の、いわゆるB級C級作品を取り上げたマニアックなムック本の「映画秘宝」シリーズ(洋泉社刊)を愛読していたが、そのなかに紹介されているいろんな「珍品」作品を検索してみても、きっちりと載っており、意外に高い評価がついていたりして、感心したものである。

 この手の、「映画作品総覧」としては、双葉十三郎の『ぼくの採点表』が有名である。

 これも大判の分厚い本として何冊か出版されていたのを書店で見かけたことがあるが、いわゆる「名画」だけではなく、かなり怪しいB級、C級の作品もたくさん取り上げられていた。そういう本はとても貴重なので、「電子ブック」かCD-ROMにでもなれば、少々高くても絶対に買おうと心に決めていたが、結局、「電子化」されることはなかった。

 のちに、その抜粋版の新書本が出たことがあったので、さっそく買って読んでみたが、すぐに失望した。抜粋されている作品が、有名なものばかりだったからだ。そんな作品の解説書なら、世の中にごまんとある。

 この『ぼくの採点表』が貴重なのは、むかし場末の三本立の映画館で見たとか、テレビの深夜放送で見たとかの、だれも知らないような作品でもちゃんと載っていて、しかもしっかりと解説され、採点されている、ということだったのに、そんな作品は皆無だった。もっとも、そんな「無名の」作品ばかり集めても、マイナーな本になってしまって、新書には向かなかったかもしれないが。

 私が購入した電子ブック版の『ぴあCINEMA CLUB』は、1993年版で、もう3年も前のものであった。だから、その後の作品も収録した「最新版」がいつ出るのか、首を長くして待っていたが、いつまで経ってもその気配はなかった。どうも「電子ブック」CD-ROMのブームも下火になっていたようだった。


 待ちに待った、新しい『ぴあシネマクラブ』が、今度は12cmのCD-ROMとなってようやく発売されたのは、1998年のことだった。

 「マルチメディア」という装いで、写真やちょっとしたBGM音楽が入っていたりしたが、すでに持っていた(後述の)アメリカ製の映画データベースCD-ROMとは比べ物にならなかった。

 体裁よくつくられた枠の中に閉じこめられた「解説とあらすじ」は、「電子ブック版」と内容は同じだったかもしれないが、なぜか貧弱でアピール力を失った感じがし、何よりも、五つ星マークの「評価」がなくなっていたのにはがっかりした。



アメリカ製のCD-ROM

 日本で小型の「電子ブック」がもてはやされていたとき、アメリカではすでに、12cmの各種マルチメディアCD-ROMがたくさん出ていた。

 それについては、その頃、毎月買い始めていた「Mac雑誌」のコラム記事などを通じていくらか情報を得ていたが、ある日、書店で、『CD-ROMガイドUSAセレクション’96』(スチュアート・J・リービ著)という、大判の本を見つけた。

 出版社は中央公論社で、この種の書籍では珍しかった。すでに処分してしまったので、詳しいことは憶えていないが、100種以上のCD-ROMタイトルが、内容別に分類され、そのラベル写真や、中身の説明、アメリカでの値段などが詳しく記された「CD-ROMカタログ」であった。

 私はこの本をどれだけ熟読したことであろうか。

 気になったCD-ROMタイトルに印をつけ、そのページに細く切った紙を栞(しおり)がわりに挟んでいったが、その栞でいっぱいになって、本がほっこりと膨らんでいた。

 ただ、そこに掲載されているCD-ROMがどうしたら手に入るか、まだ解らなかった。Mac専門店には、いろんなソフトといっしょにCD-ROMも並んでいたが、その数は少なく、おもに日本製の、動植物や風景写真などが次々と代わっていく「スクリーンセーバー」的なものが多く、輸入物が並んでいることはごく稀れであった。


 そんなとき、購読していたMac雑誌の広告の中で、私が捜しているアメリカ製CD-ROMを売っている店を見つけた。東京の「ハイパークラフト」という店である。

 喜び勇んで、さっそく、注文して買ったのが、映画データベースの『Microsoft CINEMANIA 96』と、『BLOCKBUSTER VIDEO GUIDE to MOVIES & VIDEOS』であった。


 ともに、文字通りの「マルチメディア」CD-ROMであった。

 1000本以上の作品が掲載されていて、そのスタッフ、キャスト、あらすじと解説、の他に、「Dialogue」というボタンを押せば、作品の一場面の音声が、「Still」では、その写真が、そして「Film Clip」を押すと、その動画が30~60秒ほど見ることができた。

 もちろん、動画は一部の作品に限られていたが、スチール写真は80%ほどの作品についており、また「Music」というボタンで、その映画音楽のさわりが流れてくる作品も半分ほどあった。

 「BLOCKBUSTER(ブロックバスター)」というのは、ビデオレンタルの会社で、そのCD-ROMはまさに、レンタルするビデオを物色する人向けの簡明な体裁だったが、もうひとつの『Microsoft CINEMANIA』はかなり本格的なものであった。

 作品のスタッフ、キャストはほぼ完璧に掲載され、そのかなりの名前が「リンク」を示す青色文字になっていて、そこにマウス・カーソルを近づけると、手のマークに変わって、それをクリックすると、その監督や俳優のページにジャンプすることができた。

 そしてそのページには、詳しい経歴と必ず「Filmography(フィルモグラフィー・作品リスト)」が付いており、その作品タイトルも青字のリンクが張られていて、そこから作品ページへと移ることができた。

 また、作品ページも充実していて、「Film Clip」や「Dialogue」「Music」も多く、また「解説」は異なる批評家のものが何種類も用意されていて、いろいろいじっていると、時が経つのを忘れるほどであった。


 映画データベース以外に、百科事典も買ってみた。『1996 GROLIER MULTIMEDIA ENCYCLOPEDIA(略してGME96)』である。

 これも文字情報以外に、Pictures(写真)、Movies(動画)、Sounds(音楽や鳥・動物の鳴き声)、Maps(地図)、Tables(一覧表)などが準備されていて、小さい画面ながらも、目で見、耳で聴いても、知識を獲得できるようになっていた。

 『Microsoft Bookshelf』というのもあった。これは、「Dictionary(辞書)」「Atlas(地図帳)」「Thesaurus シソーラス:類義語辞典」「Chronology 年代記」「Quotations 名言集」「Almanac 年鑑」「Encyclopedia 百科事典」をひとつにまとめたもので、それぞれの辞典はそんなに詳しいものではなかったが、写真や動画、音楽などのマルチメディアも備えた「ミニ百科事典」のようなものになっていた。

 この頃、MicrosoftはCD-ROMの製作に意欲的で、本格的なマルチメディア百科事典として『Microsoft Encarta Multimedia Encyclopedia』というのも出していて、例の「CD-ROMカタログ」での評価も高かった。

 その実物を、たしか一度、日本橋の「T-Zone」あたりで見た憶えがあるのだが、なぜかその時は買わなかった。結構いい値段だったのでお金の持ち合わせがなかったのかもしれない。あとになって、買うつもりで何度も足を運んだが、すでに売れてしまっていて、それ以後、入荷することはなかった。

 それから大分経って、このCD-ROMの日本語版というのが『マイクロソフト・エンカルタ総合大百科』というタイトルで発売されたが、それはWindows(ウィンドウズ)版しかなかったので買うことができなかった。

 この「Mac版」「Windows版」というのも、頭痛の種だった。中に入っている「文字情報」や「マルチメディア情報」は同じ方式のものだろうが、それを見るソフトウェアがOS(Operating System 基本ソフト)によって違っていた。

 もともと「マルチメディア」を推進してきたのはMacのアップル社だったが、1995年秋に発売された「Windows95」が大ブレークしたのちは、家庭用のパソコンも主流はWindowsになっていて、CD-ROMもWindows版が多くなり、Mac版は片隅に追いやられつつあった。

 「CD-ROMカタログ」の中でも、好いなと思ったCD-ROMがWindows版しかないと知って、口惜しい思いをしたこともしばしばだった。

 ただアメリカのマイクロソフト社は、Windowsの本家であるにもかかわらず、ちゃんと「Mac版」のCD-ROMも発売していた。なのに、なぜ日本のマイクロソフトは、かくまで狭量なのか。私は歯ぎしりした。


 もうひとつ悩みがあった。

 私の買ったMacのLC630というのは、コストを下げるために一部の機能が省略されていたが、それがFPU(Floating Point Unit 浮動小数点数演算装置)という音や映像の処理に関係する機能だったため、LC630では見ることができないCD-ROMが出てくるようになった。

 そこでやむなく、1年半後の1996年12月に、PowerMac 6300という機種を11万8000円で、あの阪神商会から買うことになってしまった。



日本製のCD-ROMも出始める

 アメリカ製のCD-ROMをいろいろと買いつづけてきたが、いくら英語教師といっても、英語ばかりを読み聴きするのは、さすがにまどろっこしかった。そんな、日本語がぼつぼつ恋しくなったときに出てきたのが、先に述べた『ぴあシネマクラブ』であったが、百科事典でも、小学館から『スーパーニッポニカ』というマルチメディア辞典が、CD-ROMの約7倍の大容量のDVD-ROMで発売された。

 これは、小学館から刊行されていた全25巻の『日本大百科全書』と1巻本の『国語大辞典』をベースに、動画80点、アニメ90点、音声320点、写真・図解9700点などのマルチメディアデータ、それに地図や年表も加えた、アメリカ製に負けない、本格的な「国産」マルチメディア百科事典であった。


 だから、それだけに、簡単には手が出せないような、かなり高価なものだったが、例の「新しもの好き」の英語の先生が敢然とそれを購入した。

 そして、1年後に、そのアップデートとして「文字情報のみ」のCD-ROM版が発売されたとき、それを譲ってもらって、自分のものにしたのだが、やはり物足りなくて、翌年、私も、2002年版のDVD-ROMを購入した。値段はいくらだったか憶えていない。


 その他の気に入ったCD-ROMとしては「地図ソフト」があった。

 大判の地図帳を繰ったりせずに、パソコンの画面で好きな場所を自由自在に見て廻れたら楽しいだろうな、と思って購入したのが『MapFan』である。

 パイオニアの子会社で、カーナビソフトを開発している「インクリメント社」が発売元だったが、「首都圏版」「近畿版」「東日本版」「西日本版」と少しずつ規模を大きくしてしていって、「全国版」ができるまでに何年も掛かり、その間、何枚ものCD-ROMを買わされる破目になった。

 その後、それよりも「進化」したものとして、地図の製作・販売会社のアルプス社から『プロアトラス』というソフトがDVD-ROM版として発売された。これは『スーパーニッポニカ』もそうであったが、パソコンのハードディスクにデータごとインストールすることができたので、いちいちDVD-ROMを挿入する手間なしに、日本全国の各地を、1万分の1(都会部は5000分の1)まで堪能することができた。



CD-ROM時代の終わり

 ところで、私がアメリカ製CD-ROMを買う手づるにしていた「ハイパークラフト」が1996年12月に倒産した。

 MacのソフトやCD-ROMの販売が事業の中心だったそうだが、MacもCD-ROMも売れ行きに翳りが見えてきて、その結果のようであった。

 その後、Macは持ち直したが、CD-ROMは衰退の道をたどった。思えば、愛読していた「CD-ROMカタログ」の『CD-ROMガイドUSAセレクション’96』のあとがきで、著者のスチュアート・J・リービが次のように書いていた。

 「現在、マルチメディアCD-ROMは隆盛を極めているが、これはあくまでも過渡的なものである。やがてインターネット環境が整備され、高速な回線を通して、写真や動画などが簡単にダウンロードできるようになれば、マルチメディアの舞台はインターネットの世界に移って行くであろう」


 その時は気にも留めていなかったその予言は、予想以上に早く現実化した。

 私が心待ちにしていた『CINEMANIA』や『GME』の最新版はその後、発売されることはなかった。せっかく手に入れた『スーパーニッポニカ』を開くことも少なくなった。

 インターネットには、無料・自由参加型の『Wikipedia ウィキペディア』というネット辞書が登場し、新しいできごとや、現存する人物事典などをどんどん更新して、便利なものになっていった。

 そこには、画像や映像はなかったが、ネットを検索すれば、「YouTube ユーチューブ」などいくらもそのようなサービスがあって、断片的な映像だけでなく、映画1本をまるまる見ることも可能になった。

 また2004年には「Google Earth グーグルアース」という地図サービスがネットに現れ、日本だけではなく、世界のあらゆる場所を瞬時に、地図と航空写真で見ることができるようになった。

 日本でも、アルプス社が2006年に「ALPS LAB」というウェブ地図サービスを立ち上げた。

 グーグルの地図よりも画像が鮮明だったので、私は印刷して持参するのに重宝していたが、そのアルプス社も経営が傾いて、2008年にはヤフーに吸収合併されてしまった。

 私が当時購入したCD-ROM類はたいてい1枚1万円以上していたので、今から思えばずいぶんと贅沢な散財をしていたことになる。

 しかし、そういう顧客がいたからこそ、マルチメディアの事業が成り立っていたともいえるのだが、インターネット時代に入ると、そのサービスは「無料」が原則となり、収入は別の「広告」などから得なければならなくなった。そこにうまく「ビジネスモデル」を見出すことができなかった企業は、たちまち立ち行かなくなってしまうより他はなかった。


 CD-ROMはMacの中でも終わりを迎えていた。

 私が最初、LC630を買ったときのOSのバージョンは7.5であった。その後、何度もバージョンアップを繰り返して、MacOS 9.2.2を最後に、2001年からは、学術用のOSとして大学などで使われていたUNIX(ユニックス)を土台に置いた新しい「MacOSX(マック・オーエス・テン)」に切り替えられた。

 当然、それまでの「MacOS 9」用のソフトは使えなくなったが、過渡的に「クラシック環境」という互換機能が設けられ、新しい「MacOSX」のなかで動く一つのソフトとして、MacOS 9が起動して、そこで古いMacOS 9用のソフトが動くということになった。

 CD-ROMソフトの大部分は、MacOS 9対応のものだったが、引き続き、「クラシック環境」を通して、見ることができた。

 ところが、その「クラシック環境」も、2007年10月にリリースされたMacOSXのバージョン10.5(Leopard レパード)から打ち切られてしまい、2000年以前に買ったCD-ROMはいっさい見ることができなくなってしまった。

 さらに、2009年8月のバージョン10.6(Snow Leopard スノーレパード)からは、CPU(中央処理装置)がそれまでの、アップル・IBM・モトローラの3社が共同開発した「PowerPC」というチップから、「インテル」社製のチップに切り替わって、ソフトのつくり方ががらっと変わってしまった。

 しかし、この時も「Rosetta ロゼッタ」と名づけられた互換機能によって、PowerPC用につくられたソフトも動く環境が保証されたが、その「ロゼッタ」も、2010年10月のバージョン10.7(Lion ライオン)では廃止されてしまった。その結果、『スーパーニッポニカ』と『プロアトラス』も使えなくなってしまったのである。

(つづく)

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【自註】

 内容が内容だけに、今回から、はじめて「写真」を載せてみました。やはり、「百聞は一見に如かず」ということもあるでしょうから。

 過去の記憶を確認するために、ネットを検索したり、古い日誌を読み返したり、久しぶりにCD-ROMを見直してみたり、そんな作業がけっこう楽しくて、かなり書き進めることができました。話はまだまだこれから、というところですので、この調子で、がんばっていきたいと思います。

(2014.2.14)

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