わがデジタル創世記      

           ~ Macへの道 ~(1




初体験の「デジタル」

 ことのはじめは、デジタル腕時計だった。1970年代のなかば頃だっただろうか、行きつけの時計屋で、こんなのどうです? と勧められたのが、リコーのデジタル腕時計だった。

 時・分・秒を表示する3つの二桁の数字の下では、10個の小さな四角い枠の中を10分の1秒をあらわす黒点が忙しく走っていた。ゼンマイを巻く竜頭(りゅうず)みたいなボタンを押すとモードが変わって、時刻以外に、タイマーやストップウォッチになった。

 何分後、何時間後と数字を入れてセットすると、その数字が刻々と減っていき、ゼロになると、かわいい音でブザーが鳴る。逆に、ゼロからスタートして、もう一度ボタンを押すと計時が止まって、その間の時間が10分の1秒まで計られた。昔、50メートル走のタイムを計る体育教師が持っていた、あの重々しいズッシリとした機器と同じ働きを、この軽い小さな腕時計がやってのけるのだ。

 しかも、これには人間の走力の測定以外の使い道がいろいろあった。例えば、自宅から職場までのドア・ツー・ドアの正確な通勤時間や、その間の電車に乗っている時間、あるいは今やっている仕事を終えるのにどれだけかかったかなど、いろいろな「所要時間」を実に手軽に計ることができた。しかも10分の1秒まで正確に。

 その時、私は、機械は「裏切らない」、というのはこういうことか、とふと思った。自分の命じるとおりに忠実に働く召使いを、いま確かにこの手にした、というしっかりとした感触を得た気がしたのである。




次は、タイプライター

 私が高等学校で英語を教える仕事を得たのは1972年のことであるが、その時、学校から最初に支給されたのが、「ガリ版」と「鉄筆」であった。

 もはや「過去の遺物」となってしまったので、一応説明しておくと、「ガリ版」とは細かい目がほられた鑢(やすり)の鉄板で、薄い繊維に薄く蝋を表着させた「蝋原紙」をその上に置いて、先の尖った「鉄の筆」で字を書くと、その部分だけ蝋が剥がれて、印刷インクが通過可能になる。

 その「蝋原紙」を「謄写版」のスクリーンに貼り付けて、その上にインクの付いたローラーを走らせると、鉄筆で蝋を剥がした部分だけインクが通過して、それが文字や絵として、下に敷いた紙に印刷される、というものであった。

 これは学生時代に、文集やビラを作成する時にずいぶんお世話になったもので、かつては鉄筆で文字を書くことを「ガリを切る」といったが、そのプロも存在し、活版印刷の活字を拾う「文選工」や「植字工」と並んで、より安価な印刷技術の一翼を担っていた。

 1960年代頃までは、学校でつくられる文集などはたいていガリ版印刷で、細身で右肩上がりの「ガリ版文字」が躍っていたものである。その独特の書体はたぶん定番のもので何らかの方法で習得されたものであろうが、大学時代、毎日のように校門や教室で配られていた「学生運動」のビラなどには、また別の固有の書体があって、それはたぶんその世界で独自に発達したものだと思われる。

 当時、大学のフランス文学科やドイツ文学科など、大学に入ってから原語を習いはじめる学科の場合は、負担が大きすぎるとみなされてか、「卒業論文」は日本語で書いてもよいことになっていたが、英米文学科の学生は「卒業論文」を英語で書き、それをタイプライターで打って提出することを義務づけられていた。そんな英米文学科の友人が卒論作成の時期になって、慌てて中古屋で「英文タイプライター」を買い求め、論文作成よりも、その機器の習得に四苦八苦していたのを憶えている。

 英文タイプの独特のキーの配置を憶えることもたいへんだったが、そのキーを打つ「力加減」も難しかった。鋼鉄製の凸版の英字をインクリボン(テープ状のものに液体インクを染みこませたもの)に打ち下ろして、その下の紙に印字させるのだが、弱ければ文字が薄く、強ければ濃くなって、その力が一定でないと、文字にムラができて、読みにくくなった。

 昔読んだエラリー・クィーンの小説で、探偵が、ある女性の爪が少し割れているのを見て、その職業がタイピストだと見破る場面があったが、それほど力と技術のいるものであった。

 私が就職した学校では、英語の教師でもガリ版に鉄筆で、手書きのプリントやテスト問題を作成していた。もちろん、自分のタイプライターを持っている教師もいたが、タイプライターの場合、それ専用の謄写版原紙があって、蝋ではなく、黒色のコーティングをした用紙であった。

 タイプの鋼鉄製の印字を打ち込むとそこだけコーティングが剝げて、インクが通過するようになっていたが、よっぽど平均した力でタイプしないと、インクリボンの時以上にムラになって読みづらくなるので、使っている人はあまりいなかった。




電動タイプライター

 ところがある日、印刷室の隅っこの机の上に、いつもビニールカバーを被って、だれも使っていない様子の機械がひっそりと置かれているのに気がついた。

 訊いてみるとアメリカ製の「電動タイプライター」だという。何年か前に、英語科の方から買ってほしいという要求があって購入、はじめはみんな触っていたが、いまはだれも使う人がいないとのこと。「けっこう高かったんやけどねぇ」と、事務所の課長が顔をしかめた。

 英語科の先生に尋ねると、たしかにキーを叩けば常に一定の圧力で印字されるので、文字はとてもきれい、とのこと。ただ、キーを打つタイミングを間違うと、ダダダダダ、とキーが暴走して、たちまち同じ文字が10字ほど打ち出されてしまい、そうなると、それまで打ったものがすべてダメになってしまって、もう怖くてだれも使えなくなった、ということであった。

 試しに使ってみることにした。

 すこし埃をかぶった分厚いビニールシートをめくると、頑丈な、いかにもアメリカ製といった機械があらわれた。キーを打つと、かなりの力で鋼鉄製の印字が用紙に叩きつけられた。キーの反応は悪くない。ただ、打った指をそのままのせたままにしておくと、またもう1回打ったとみなされて、ダダダダと同じ文字が打ち出されてしまった。

 つまり、このキーは単なるスイッチで、打つ強さなど全く関係なしに、押せばモーターが廻って、一定の圧力で印字されるようになっている。とすると、きれいに印字できるように力加減を工夫する必要はなくなり、なまじ、強く打ったりすると、反応しすぎて、ダダダダ、となってしまう。

 要するに、それまで手動のタイプライターに慣れている者には使いづらいが、私のようにタイプライター未経験者にとっては、ただスイッチを押せばいいだけなので、苦にならないどころか、むしろ楽だった。

 ということで、この「高級電動タイプライター」はその後、私個人の専用機のようになったのである。

 英文字は、ガリ版で手書きするよりもタイプの方が断然見栄えがいいし、それに、入る文字数も多くなるので、プリントもテスト用紙もコンパクトになった。ただ、英文だけではなく日本語を挿入することも必要だったので、それは手で書くしかなかった。

 タイプ用の原紙にボールペンで書き込むと、コーティングが剥がれてインクが通過可能になるのだが、そこだけ変にインクが濃くなったりして、せっかくの英字の見栄えが台無しになりがちで、強く書きすぎて、原紙が破れそうになったこともあった。

 しかし、その後、普通紙に書いた原稿をいわゆる「電送写真」的にマスター紙に転写する「ファックス」という機械が開発されて、その問題は解決する。

 タイプ用の原紙ではなく、普通紙に印字し、日本語はそこに鉛筆などで書けばよくなった。

 一方、タイプライターにも改良が加えられた。アーム式ではなくて、球形の鋼鉄に活字を彫り込んで、キーを押すとそれがクルクル廻って活字を選び出し、ボールごとその活字を用紙に打ち込むという、ボール活字式の電動タイプライターを開発していた日本メーカーのブラザーから、その後「電子タイプライター」というのが発売された。

 「電動」ではなく「電子」とはどういうことか、ということだが、キーボードの上に小さな液晶のディスプレイが付いていて、タイプした文字はすぐに印字されずに、いったんそこに映されるようになっていた。そして一文打ち終わって、定められたキーを押すと、一挙にその文章が用紙に印字されるのである。

 こうすることによって、印字する前に打った文字をディスプレイで確認できるので、タイプミスがなくなるというわけである。

 そして、さらに便利なことに、自動的に文字間を調節して、行末をきれいに揃えたり、英単語が途中で終わりそうなときには、ぴったりと収まるように調整することもできた。

 これは、素晴らしいものが出たぞと、英語科の教員は、その「電子タイプライター」を奪うように使いはじめたが、そのブームは長続きしなかった。ほどなくして、「ワードプロセッサー(ワープロ)」というものが登場したからである。




ワープロの登場

 ワープロというものに初めて接したのは、英語科が購入した東芝のRupoという機種だった。

 ある「新しもの好き」の先生が注文したとのことで、キーボードの上に横長の全角40文字が4行ほど表示される液晶画面があり、その上のふたを開けると、簡単なプリンターとなっていて、熱に反応して黒くなる「感熱紙」をはさむと、かなり高速で印刷できた。また、入力したデータは、3.5インチのフロッピーディスクに保存するようになっていた。

 ワープロが「電子タイプライター」よりも優れていたのは、日本語を入力することができたからである。

 それまで「和文タイプライター」というものはあった。

 英語と違って、日本語は決まった数の「ひらがな」「カタカナ」の他に、「漢字」というものが無数にある。「和文タイプ」は、その無数にある漢字をある程度限定し、その限定された活字をすべてキーボードに用意したものであった。

 一定の法則に従って並べられた活字の中から、ひとつひとつアームで拾い出して、ガチャンと用紙に打ち込むという、まるで「腕ずく」のようなやり方で、おそろしく時間が掛かったが、活字で印刷することが必要な場合にはやむをえないことで、これは「プロの印刷」向けのものであった。

 ただ、その頃には、それを小型化して、電動にした機種が出ていて、これも勤務先には置いてあったが、事務所の改まった文書作成のときに使うぐらいで、授業のプリントやテスト用紙に使う教師はまずいなかった。

 だから、入力したひらがなを「変換キー」を押すことによって、漢字に変換させるというアイディアは画期的なものであった。

 やがて、漢字一文字から、熟語、文節と変換の範囲が拡がり、さらに、前に変換したものを記憶しておいて、まずそれに変換するという「学習機能」が付け加わって、日本語ワープロは完璧なものになっていった。

 ひらがなだけの入力でいいので、アルファベットのキーボードと併用することもでき、ここに「和文タイプ」だけではなく、「英文タイプライター」の命脈も断たれたのである。




ワープロの普及

 ワープロの誕生は、それまでプロだけのものだった「活字の世界」を素人にも開放するものであった。

 それなりに評価されて世に出る、ということを意味した「書いたものが活字になる」という表現もその意味を失った。プロの評価を経なくても、自分で自分の文章を自由に活字にすることができるようになったからだ。

 学校でも、英語科だけでなく、他の教科の教師たちもワープロに興味を持ちはじめた。

 国語科や社会科、理科など、これまでガリ板で一生懸命プリントをつくってきた教師たち、そんな中でも、とくにそのプリント文字がきれいなのが自慢の「ガリ板名人」たちほど、ワープロ導入に熱心だった。

 シャープの「書院」、NECの「文豪」、三洋の「サンワード」、富士通の「オアシス」といった各社のワープロが教師たちの机に並びはじめた。

 ワープロの魅力は、「活字」を思い通り、自由に使える、だけではなかった。一度入力した文章を記憶(保存)して、それをあとから呼び出し、手直しして何度も再利用できることも魅力だった。

 そのうち、その保存された文章を自分だけではなく、他人とも「共用」したいという要求が生まれてきた。

 当初、各社バラバラであった活字の規格などが、JIS規格に統一され、それをMS-DOS形式のフロッピーにテキスト形式で保存することによって、異機種間の互換も可能になっていった。

 当時、英語科で共用されていた東芝のRupoは、いまネットで調べて見ると、JW-R50F という機種のようであるが、もはや「電子タイプライター」を卒業して、プリントやテスト用紙作成はワープロ一色になっていた私が、家でも使えるように自分のワープロを持ちたいと思うのは必然のことであった。

 そこで、これと同じRupo JW-R50Fを求めて、大阪一の電器街である「日本橋」へ出かけていった。

 それらしき店に入ってみると、いろんな会社のいろんな機種がたくさん並べられていて、その中にRupoもいくつかあったが、私がめざしていたJW-R50Fのコンパクトな姿はなかった。

 キーボードがむき出しで、その上に小さくて暗い液晶画面が付いているJW-R50Fとは違い、並んでいたのは、どれもやや長方形気味で、蓋があり、それを持ち上げると下にキーボードがあらわれ、その蓋の裏に大きな液晶画面が取りつけられているというタイプのものばかりだった。

 私はひたすらJW-R50Fを捜した。他の家庭用の電化製品と同様、ワープロの新製品といっても、そう大した違いはないだろうし、それならば、使い慣れていて、おそらく旧型で値崩れしているであろう商品を購入する方が賢明だと思ったからである。

 ところが、JW-R50Fは、捜せど捜せど、どこにも売っていなかった。いつの間にか「オーディオ」からワープロとパソコンの街に変わっていた日本橋の「でんでんタウン」の、裏通りまで捜し歩いて、とある中古品専門店の店先のガラクタの山のなかに、目指すJW-R50Fが転がっているのを見つけた。私は喜び勇んで、その機械を手にした。

 しかし、それは、私がいつも学校で使い慣れているのとはどこか違っていた。

 全体のデザインは同じなのだが、よくよく見れば、側面にあるはずのフロッピーディスクの挿入口がなくて、どうも、微妙に異なる機種のようであった。データを保存するフロッピーが使えないのであれば買っても仕方がない。

 私は、JW-R50Fを捜すのをあきらめて、Rupoの新しい機種を買うことにした。

 とりあえず数種類のカタログをもらって帰り、その中から、いろいろ検討した末に購入したのが、JW-80Fという機種であった。古い日誌をたどってみると、1988年12月6日、価格は6万9000円。

 意外に安かったのは、最新機種よりも少し古い「売れ残り」商品だったからだろう。しかし、その機能は、当初捜していたJW-R50Fとは段違いに改善されていた。

 まず、蓋の裏の液晶画面が2倍以上の10行になり、裏からライトを当てる「バックライト」という装置のおかげでずいぶん明るくなっている。

 この明るくて大きなディスプレイは、使ってみると圧倒的に便利なものだった。そして、内蔵のプリンターのスピードも速くなり、また、それまで東芝Rupo独自の書体であった「活字フォント」が、JIS規格の、他社ワープロとも互換できるものになっていた。

 それ以外にも、付属的な機能もたくさんついていて、私はワープロの世界が文字通り日進月歩で、新製品は旧製品を数倍上回る、まさに「幾何級数」的な発展を遂げるのが当然となっているのをはじめて知り、あの時もし、旧型のJW-R50Fを見つけて買っていたら、ひどく後悔しただろうな、と思わず背筋が寒くなるのを感じた。




「表計算」機能の活用

 はじめて買ったワープロ、Rupo JW-80Fも大分使い込んできたある時、若い教師から、付属の「表計算」機能のことを教えられた。

 私の勤めていた学校での、学期末の最大の仕事はクラスの生徒の成績の算出であった。

 各科目の担当教師がつけたその学期の成績が、100点満点の素点として、クラスの名票に書き込まれて、担任のところに集まってくる。すると担任は、縦軸に生徒名、横軸に10を超える科目の欄をとった「成績一覧表」に、その成績点を記入する。

 そして横の欄を合計して「各生徒の合計点」を出し、次いで、縦の欄を合計して「各科目のクラス合計点」を計算する。

 最後に、「各生徒の合計点」の合計を計算して、それが、「各科目のクラス合計点」の合計と一致すれば、計算ミスや記入ミスがなかったことになり、やっと「通知表」に記入できることになっていたが、その合計がなかなか一致しなかった。

 計算は単純な足し算ばかりだったが、とにかく、その数が多かった。

 生徒が50人いて、14科目あるとすると、横の合計が50回、縦の合計が14回、その合計の合計が2回と、少なくとも66回は計算しなければならない。

 私は幸い、小学校時代に「そろばん塾」に通っていたので、計算はそれほど苦にはならなかったが、そうでない人たちは、たいへんだったようだ。

 ポツポツと慣れない「そろばん」を弾いている人もいたが、たいていの教師が頼りにしていたのが、モーター式の卓上計算機で、足す数字を打ち込むごとに、重いレバーを押し、最後に「演算」のレバーを押すと、轟音とともに、それまでの合計が計算されて、電気式の文字盤に表示される、という代物(しろもの)だった。

 「電卓」が登場し、大衆的になってきたのは1972年に「カシオミニ」が発売されてからであるが、さっそく購入した教師もいた。

 当時の定価が1万2800円だったが、その後、競争による価格破壊が進行し、みるみるうちに半額以下にまで下がり、当初は得意満面だったその教師をして顔色なからしめたものである。

 しかし、学期末の成績処理の風景を一変させたのは、コンピューターの導入だった。

 1980年代に入った頃だったろうか、ある「ラジオ工作マニア」の教師が自宅で組み立てたコンピューターを学校に持ってきて、職員室の片隅の空いた机の上に設置した。

 たちまち人だかりができ、興味を感じた何人かの教師たちは、その教師といっしょに放課後遅くまで残って、何やかや、その機械をいじっていた。そして、やがて彼らがつくり出したのが「成績処理一覧表」のプログラムだった。

 ローマ字で記された生徒名の横に並んだ「点数欄」にキーボードから得点を入力して、最後にある特定のキーを押すと、即座にその合計点と平均点が出てきた。

 また別のキーを押すと、接続された「プリンター」から、大きな音を立てて、「成績一覧表」が印刷されて出てきた。

 このプログラムはその後、いろいろと改良されながら、他の教師へも広まっていって、ついには学校で正式採用されることになり、新しい機械が何台か購入された。

 私はその頃はその方面にまったく疎(うと)かったので、その機種名や、プログラムの基になるOS(Operation System オペレーション・システム)などについてはまったく関知していないが、学年で決められた担当者が、全教科の成績をまとめてキーボードで打ち込み、担任は、その後打ち出されてくる一覧表を貰って、その成績を生徒個々の「成績通知票」に書き込むだけでよくなった。

 全体の「成績一覧表」は学年ごとにコンピューターで処理されることになったが、そこに提出する自分の科目の成績の計算が残っていた。

 生徒の成績は、中間、期末の定期考査だけではなく、いろんな小テストや宿題提出点、場合によってはノートチェックなど、きめ細かい評価を総合して出さなければならない。

 できるだけきめ細かく評価しているということを生徒に示すことが、生徒の学習モチベーションを高めることにもなるからである。その結果、計算は面倒になって、そろばんや電卓からはなかなか解放されないことになった。

 そこで、ワープロ付属の「表計算」機能がものをいうことになる。

 この機能を使うと、学校のコンピューターでやっているのと同じことが小規模ながらも自分で、自分の思い通りにできた。

 すなわち、あらかじめ作っておいた「一覧表」の中に、点数を入力するだけで面倒な計算が瞬時にできてしまうのである。さらに、その結果が記録として「保存」されて、学期や学年が変わっても継続されていくのがありがたかった。

 かくして、その後「表計算機能」は大いに活用されることになるのだが、ただ、付属の機能なので、その容量は大したことはなかった。

 自分の科目の成績計算ぐらいならなんとかこなせたが、のちに「進路指導」の仕事を受け持つことになり、学年全体の生徒の学校成績やいろいろな模擬試験の成績などを入力しようとすると、それは無理だった。

 そこでいろいろ調べてみると、東芝のRupoシリーズの中でとくに表計算機能の充実した機種があるのを発見した。

 「ロータス1-2-3」を内蔵しているとのことである。「ロータス1-2-3」とはいったい何であるのか、私は全然知らなかった。でもカタログだけではよく解らない、とにかく実機を見てみなければと、大阪市西区にある東芝のショールームを地図で探して、行ってみることにした。




「ロータス1-2-3」

 ショールームに入って、その実機の前に座ると、係りの人が近づいてきたので、「ロータス1-2-3」ってなんですか? と尋ねると、その女性は一瞬キョトンとした顔をして、「パソコンのソフトです」と繰り返すばかりで、それ以上の説明はしてくれなかった。

 そこで、仕方なく、置いてある説明書を頼りに、そのJW-98UPⅡという機種を一時間あまり、いろいろと使ってみた。

 そして何とか使えそうな感触が得られたので、学校の方へ、自分がやりたいこと、そのためには是非ともこのワープロが必要だという申請書を提出した。幸い、口添えしてくれる人もいて、当時、20万円以上したその機種を買ってもらえることになった。 

 注文の機種が届くまでに、職員室にあった数学科のコンピューターに入っている「ロータス1-2-3」の使い方を教えてもらった。そして『ロータス1-2-3 ハンドブック』という市販のかなり詳しい解説書を借りて帰って、それを読みながら、「ロータス1-2-3」のいろいろな機能をあらかじめ予習しておいた。

 ところが、1992年5月14日、そのRupoがいよいよ到着して、搭載された「ロータス1-2-3」を起動してみると、その画面は、「ハンドブック」や数学科の「ロータス1-2-3」とはまったく違うものであった。

 あとで知ったことだが、数学科の「ロータス1-2-3」のバージョンは、Rupoのそのバージョンよりもかなり前のものだったのだ。パソコンのソフトはバージョン(版)が違えば、別物も同然だということを、私はその時はじめて知った。

 この「ロータス1-2-3」も何とか使いこなすことができるようになり、当初の目的だった、「生徒の学年成績や模擬試験の成績と大学合格の相関」を示す一覧表をつくって、「進路指導」の現場で好評を得ることができた。

 その資料は、年々そのデータを蓄積していくことによって、より正確さを増していったが、一方、Rupo JW98-UPⅡの記憶容量も限界に近づいてきた。

 そこで、カタログに付属品として、「拡張メモリ」というのがあるのを見つけ、それを買ってもらって取りつけた。正確なことは覚えていないが、1メガバイトのもので数万円もしたと思う。しかし、それによって増えた容量にも限界が見えはじめ、ことここに至って、ようやく、コンピューターというものが視野に入りはじめたのである。

(つづく)




【自註】

 これまで自分が歩んできた道を、自分なりに確かめてみたいという気持ちから、以前から書いてみたかったことにやっと着手できた、というのが正直な実感です。

 些細な私事でしかないテーマですが、今後、どこまで普遍性を獲得できるか、自分でも楽しみです。ただそのためには、できるだけ具体的な記述が必要で、登場するさまざまな機器の記号や番号なども正確に記したいのですが、遠い過去に廃棄してしまったものは憶えておらず、ネットで捜しても見つからないことも多いです。できれば写真などもあれば、読者のみなさんには親切なのでしょうが、それもありません。この作品も「文芸」のひとつだとして、ご容赦願います。

(2014.1.27)


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