私学の時代?


                                                                         「崩壊」のはじまり 

 大学受験競争の世界において、現在のように私立高校(とくに六年一貫制の)の占める位置が高くなるきっかけをつくったのは、今から四半世紀前(註:1967年)に東京都で導入された都立高校の『学校群』制度である。

 単独の高校ではなく、複数の高校を単位として受験生に出願させ、合格者をそれらの高校に機械的に振り分けていくというこの制度は、当時、大きな社会問題となっていた「受験地獄」を解消させる切り札的な対策として大いに期待されたものであった。そしてその結果、数年後には「東京大学合格者ランキング」の上位からそれまでその常連であった都立名門高校が次々と姿を消しはじめた。これは高校間の格差是正を狙ったこの制度の趣旨からいって当然のことであったが、それにかわって、この制度の枠外にあった六年一貫制の私立高校や国立大学付属高校がその上位を占めるようになり、以後、小学生を持つ親たちは今度は子供の「中学選び」に頭を悩ますこととなった。

 六年一貫の私立校の受験競争上の利点は、

  1. (1) 居住区域による入学制限がないこと(即ち『学区制』に縛られずに広い地域から成績の良い生徒を集められること)

  2. (2) カリキュラムの規制が公立校と比較してゆるいこと(そのため英語・数学・国語など、大学入試の中心となる科目の時間数を増やして、六年一貫のはじめの5年間でその履修を終了し、高3では大学入試対策に直結した授業をすることも可能である)


の二点に要約できるであろう。

 これに対して「公立進学校」では、かつては、 (1) については、「越境入学の黙認」によって『学区制』は骨抜きになっており、また (2) についても、高校への進学率が50~60%の時代には、中学教育そのものが完結したものである必要から、その教科内容は現在よりも充実したものだった。(例えば、中学校の英語の週時間数は5時間であって、私立進学校との差は大したものではなかった。)

 このようにして、旧制中学の名門校が新制になってもそのまま「公立名門進学校」として存続してきたのである。そんな中にあって私立校はそれぞれの伝統と特色を主張しつつ、その独自のシェアを守っていたが、公立校と比べるとかなり高かった授業料のせいもあって、進んで私学に行こうとする層の拡大には一定の限界があったようである。

 ところが高校や大学への進学率が年々上昇するにつれて、受験競争は激しさを増してきた。公立名門校に入るために少しでも有利な道を選ぼうとするあまり、例えば東京の「番町小学校・麹町中学校・日比谷高等学校」のような「エリート進学コース」が全国各地に生まれ、人口の少ない都心の学校に郊外の住宅地から大量の「越境」生徒が集まるという奇妙な現象が生まれ、やがてそのような「受験過熱」は大きな社会問題となってきた。(註)

  1. (註: はじめは、都心のその学区に在住する親戚や知人の家にその生徒の住民票を移すだけでその学校に入学できたが、のちに規制が厳しくなると、母親と本人がその学区内のマンションなどに引っ越す、という方法がとられるようになった)


 また、1960年には57.7%だった高校進学率は、1965年には70%を超え、折からの「第一次ベビーブーム」も重なって、高校生数は500万人を突破し、1960年の1.5倍以上になっていた。そのため公立高校の新設が急ピッチでおこなわれたが、その結果、高校間格差はますます開いて、その是正(即ち公立高校のレベルの平準化)は急務の課題となってきた。

 これらの対策として行政側から出されたのが、『学校群』などの“高校総合選抜制”と、『学区制』の厳守化(即ち、「越境」生徒の締め出し)であった。しかし、これを全面実施した東京や兵庫ではこの新制度に縛られない私学などに成績の良い生徒が大量に流れることとなったため、結局、真の意味の「平準化」は失敗に終わったといえよう。大阪の場合は、後者の『学区制』の厳守化のみを採用したため、公立名門校は生き残った。しかし、それらの高校も別の面から段々と追い詰められていくことになる。



決定的な「崩壊」へ

 学校教育の指針として文部省が定めている『学習指導要領』は、ほぼ10年毎に教育課程審議会に諮問されて改訂される。1962年から中学で実施された『改訂・学習指導要領』は、1960年から始まった「高度経済成長政策」にともなって急激に必要度を増した理工科教育の充実を狙って、数学、理科のレベルを大幅にアップしたものであった。例えば、それまで高校でも教えていた“ユークリッド幾何学”は中学段階で終えてしまい、その分、高校数学には「集合」などの、さらに高度な内容が付け加わえられた。この頃、日本の産業の重工業化が積極的に推進され、その人材を補給するために大学では工学部の新学科が次々と増設されて空前の「理工科ブーム」を迎えていたのである。

 しかし、その反面、急激に高度化した授業内容についていけない生徒が増え、中学校が荒れはじめるようにもなってくる。そこで、この「詰め込み教育」の弊害を緩和するために、1972年の『再改訂・学習指導要領』では、中学校に「特別活動(必修クラブ)」の時間が設けられ、また1981年の『再々改訂・学習指導要領』では、さらに「ゆとり」の時間なるものがつくられた。(この間、高校進学率は着実に上昇を続け、1972年は87.2%、そして1981年には、94.3%のピークに達する。)

 ところがこれらの「特活」や「ゆとり」の時間は、『学習指導要領』では選択科目になっている「外国語」の時間を削減することによって捻出されたため、中学校の英語の時間は従来の週5時間から、4時間、3時間と減っていくことになり、私立中学校との英語の時間数の比率はついに、3:6となってしまった。これについてはさすがに公立中学校の現場から強い批判が出て、なかには「ゆとり」の時間を事実上英語の時間に転用しようとする動きも出たが、それは教育委員会の強力な指導によって封殺され、英語の週3時間体制は厳重に実施されることとなった。

 また、数学においても、中学校の内容が削減されて、いくらかやさしくなったが、その分、それは高校にしわ寄せられ、高校のカリキュラムはそれまで以上の「詰め込み」となっていった。

 この結果、『学習指導要領』に対して比較的柔軟であり得る(即ち、それを事実上無視できる)六年一貫の私立校のカリキュラム上の優位は決定的なものとなり、また一方では、公立学校の不利をカバーするものとして、予備校や塾などの「学校外教育機関」の比重が急速に高まってきた。 

 また公立高校の「入試改革」の基本理念は、学校間の格差をなくすことによって受験競争を緩和するというものであったので、いろいろなかたちで「平準化」が図られた。例えば、中学校の内申書を重視することによって、中学校間に存在すると言われてきた格差を意識的に無視することや(註1)、教員の移動を定期的に義務づけることで学校間の人事的な公平を図ることなどがそうである。(註2)


  1. (註1: それまでは、ほぼ入学試験の成績だけで合否が決定されていたのが、内申書の成績を点数化したものと、入学試験の点数を1:1で合計した点数で合否を決めるようになった)


  2. (註2: 公立名門校には在職20~30年の「名物教師」が多数存在していたが、在職7年で強制的に転任させられるようになった)


 しかし前者は高校入試の「試験官」の役割の一部を中学教師が担うこととなって、中学教師の権威主義化をもたらし、その分、生徒の「怨念」を引き受けなければならなくなったことも意味した。それまで、生徒と教師が手を携えて「受験」に立ち向かっていたのが、その「相棒」であるはずの教師がなかば「敵側」にまわってしまったからである。

 また後者によって人事の澱みがなくなり、各学校の教師集団の均質化がある程度達成されたが、その反面、教師が赴任校に十分な愛着を得る時間的余裕がなくなるということにもなった。そしてこれらが、1980年頃からひどくなった「校内暴力」に公立中学が十分に対応できなかった原因のひとつともなって、「公立離れ」をさらに加速させる結果となった。

 1967年の、東京都の『学校群』制度の導入によって、開成、麻布、灘、ラサールなどの存在がクローズアップされた時を「第一次私学ブーム」とすれば、1972年、1981年の『再改訂』『再々改訂』以後は「第二次私学ブーム」といえるだろう。

 関西方面でも、成績の良い生徒の「公立離れ」によって有名大学合格者数に占める私学のシェアが大幅に増大し、それらを吸収することによって、東大寺学園、洛南、星光などが急速に進学名門校として台頭してきた。さらに、1985年以後、毎年猫の目のように大学入試制度が変わるという混乱期を経た現在(註:1991年)は、「生徒減」を見越し、先を争って「進学校」に衣替えしようとする既成私学の続出もあって、「第三次私学ブーム」といえるかもしれない。

 こうしてみると、現在の「私学ブーム」とは、私学のそれまでの教育が評価されてきたからというより、公立進学校の地位の自滅的な低下という僥倖によってもたらされたものだといえよう。



「崩壊」したものは何か

 そもそも、かつて公立進学校が全盛の時代には、灘高などがやっていた受験本位の教育というのは、そういう「卑しい」ことはするべきでないとして、「日陰者」の扱いをされていた。つまり、高校には高校で本来やるべき勉強があり、それをきちんとやっておればその当然の結果として志望の大学に合格できるのだ、というのが公立進学校のモットーであった。そこでは受験というのはあくまでもプライベートなことであり、そのための勉強というのは各人が自分ひとりでやるものであって、それを学校にやってもらうなどというのは恥ずべきことだとされていた。だから、かつては「ガリ勉」とか「点取り虫」とかいわれるのは最大の屈辱であったのだが、近年ではそれらの言葉も死語となってしまったようである。

 『エリート』という言葉もずいぶん手垢がついてしまって、今ではあまり良い意味には使われないようだ。つまり、厳しい競争に勝ち抜いてきた勝者、というところばかりが強調されて、そういう人間はたいてい傲慢で鼻持ちならない人物だということになっている。しかし、横文字には Noblesse oblige. (ノブレス・オブリージュ) という言葉があって、これはもともとはフランスの諺で「位高ければ徳高きを要す」「貴族階級には一般の人々のために尽力すべき義務がある」という意味だそうだが、これが本来のエリートというものであろう。

 現代風にいえば、高い地位に就いて権力を得た者やたくさんの富を所有する者は、その力や財産を自分のためではなく、他人、それも弱い立場にある者のために使わなければならない、つまり私心を無くして公に尽くさなければならない、ということになろう。だから受験という私的なことを最優先するような教育は本来のエリート教育の風上にも置けないものである、というのが(戦前の旧制東京府立一中の後身である日比谷高校を頂点とする)全国各地の公立進学校の論理であった。

 そのような公立進学校の受験競争における後退は、戦前からずっと続いてきた日本のエリート教育の伝統の崩壊を意味することになる。そして、その引き金となったのは、先に述べた『学校群』とか『学習指導要領』の改訂など、行政側による教育政策であったことは明らかだが、はたしてそれが政治的な意図を持ったものであったかというとそれは疑わしい。たしかにこのまま行けば、日本の学校制度は「エリート」のための私立校と、「大衆」のための公立校という、ちょうどアメリカのそれに似たものになっていくといえるかもしれないが、25年前からそうなるように仕組まれていたといえば、おそらく為政者というものを過大評価することになるだろう。というのは行政側がこれまで採ってきた政策は「総合選抜制」にしろ「理科系重視」にしろ、その時々の「時代の要請」によって強いられたものであり、だからその当初はいずれも大方の歓迎を受けたものばかりだったからである。そして、その「時代」の基本的なトーンを決めたのが、1960年からはじまった「高度(経済)成長政策」であったといえるだろう。



「崩壊」の底流

 「高度成長」政策は、国論を二分した「60年安保」で岸首相が退陣した後を引き継いだ池田内閣が、その後の政治的混乱を収拾するために打ち出したものと一般的には見なされ、当時は選挙公約的な表現で「所得倍増論」と呼ばれていた。しかしいま考えると、それはそんな思いつきの人気取り政策ではなく、現在の「経済大国」日本を築く第一歩となったもので、それはおそらく日本人の生活に明治維新によるよりも大きな変革を与えたものだったと断言できる。即ち、この政策の目的は何よりも、日本の産業構造を大きく変えることで、それを達成すれば所得は自然に増えていくというものだったのだ。当時の新聞を読み直してみると、そこにははっきりと、10年間で農村人口を「3分の1」に減らすと書かれているが、事実、10年経ってその通りになったのだから、凄いものである。

 その結果、60年代は地方から東京や大阪などの大都会にどんどんと人が流れ込んでくる時代となった。そして忘れてはならないのは、減った「3分の2」はそれまでの農業という「自営業」から離れて「給与生活者(サラリーマン)」になったということである。さらに、産業の規模が大きくなることも大企業に勤めるサラリーマンを増やすことになって、この都市のサラリーマン層の急増が高校・大学の進学率を高める最大原因となった。サラリーマンとして成功するには学歴が不可欠だからである。かくして、受験競争は飛躍的に厳しくなったのである。

 まず起こったのは、折しも「第一次ベビーブーム」も重なって、生徒数、学生数が大幅に増えたことによって生じた、高校、大学の「大衆化」であった。増え続ける入学志願者を収容するためになされた高校や大学の新増設は、結果的にその質を低下させただけではなく、その性格をも決定的に変えてしまった。 Noblesse oblige. (ノブレス・オブリージュ) の余地がなくなってきたのである。

 たとえ「学校群」以前の日比谷高校で、いくら伸び伸びした理想的なエリート教育をしているとはいっても、そこに至るまでにはドロドロとした私利私欲の世界を通り抜けてこなければならず、その標榜する「人間性の完成」をめざす教育は「建て前」だけのものになりがちであった。表向きは受験勉強をバカにしていながら、陰では必死になって受験勉強をするという「公立的偽善」と比べれば、私立進学校のなりふり構わない「受験教育」の方が正直で良いではないかということにもなってくる。こうして、それまで長い間つづいてきたものの崩壊がはじまったのであった。

 それはたぶん、旧制高校などの伝統であり、また日本のそれまでの学校教育の根本理念でもあった「教養主義」の崩壊であったといえよう。



日本的「教養主義」の崩壊

 古代ギリシャ・ローマにおいて最も理想とされたのは『教養人』(教養すなわち高級な学芸の仕込みによって洗練された人間)だったといわれている。それはまた、一般の動物のうちにあって、ひとり人間、それも自由な人間にのみ許されたことであったので、教養は「自由人の学芸 (liberal arts)」、そのための教育は liberal education と呼ばれ、奴隷のための教育であった「職業教育(=実用教育)」とは厳然と区別されていた。つまり、学問の目的は人格の完成であり、そのために例えばヨ-ロッパではギリシャ・ラテンの古典を学ぶことが重視され、中国の官吏登用試験の『科挙』でも詩作がその中心に置かれて、実用的、技術的な教育は卑しいものとされてきた。

 日本の旧制時代以来の学校教育の底に流れている「教養主義」の源流もここにある。だから、入学試験の合格に役立つためという点で典型的な「実用教育」であるともいえる私立進学校型の教育がながらく「日陰の存在」であったのも当然といえよう。

 しかし、時代は変わってしまった。いまだ健在の公立進学校はたしかにいくつもあるが、その中身は以前とはすっかり変わってしまったようである。いまや塾・予備校の手を借りなくては私立進学校に太刀打ちできなくなってしまい、かつての教養主義的な「人格教育」も、進学成績が振るわなければ意気上らず、すっかり影が薄くなっているにちがいない。

 このことは当然、大学にも反映して、大学から学問の香りが消えて久しくなる。旧制高校の教養主義のなごりであった大学の「教養課程」が、学生だけではなく教官にもそっぽを向かれるようになり、近くそれが廃止されるという話も聞く。要するに、もはや大学生は伝統的な意味におけるエリートではなくなったということで、それは週刊誌に合格者の名前が載る大学においても例外ではない。

 その兆しは、1960年代に入って、それこそ「実用教育」の徒である工学部学生が「高度成長」の波に乗って総合大学の半数近くを占め、「大学の大衆化」が言われるようになった頃からすでに顕われはじめていたともいえる。学生の政治に対する関心が薄らぎはじめてきたのもこの頃からであった。エリート独特の「天下国家を論じる」という気風がなくなってきたためであろう。学生運動の最後のクライマックスとなった「学園紛争」も、見方を変えれば、学生大衆が政治課題ではなく、身近な大学の問題でしか動けなくなったことを示す証左だったともいえる。大学生は日本の社会を支える重要な柱ではなくなったのだ。



「経済合理主義」の台頭

 しかし、だから昔は良かったということにはならない。世の中が変わるというのはそれ相応の理由があってのことで、それは客観的には善し悪しの問題を超えている。つまり、大学生が大きな政治勢力であるのは、いまだ発展途上の国家の特徴だといえるし、「実用」を廃した「教養主義」では現代の高度なハイテク社会をつくり上げることはできなかったであろう。教養主義的な「人格教育」といっても、その底に渦巻くドロドロとした欲望をカモフラージュする「建て前」だけのもので、夏目漱石の『それから』の主人公に「国家社会のために尽くしてお金がそれだけ儲けられるのなら、自分も尽くしてもよい」と皮肉られるような人間を生み出しただけかもしれない。

 「高度成長」後の「エリートの大衆化」の時代には、かつてのエリート教育は全くの欺瞞にしか見えなくなり、「建て前」よりも「本音」、抽象的な「理念」よりも具体的な「利益」が重視されるようになってくる。そしてこれは1980年代以降の「経済の時代」と軌を一にするものであって、「経済原則」によってあらゆるものが例外なく厳しい見直しを迫られるようになってきたのだといえるかもしれない。

 一例をあげると、先頃、中央教育審議会の中間答申で、国立有名大学の入学者が一部の高校(とくに私立進学校)に偏っているのは問題だとして、同一高校の同一大学への入学者数を制限する案が提案された。しかし、もしこの案が実施されたとしても、それが狙った目的を達成することはできないだろう。それは世間で言われているように、対象となる高校が名目的な分校をいくつもつくって受験生を分散させればそれで終わりだからではない。むしろ、おそらくそんな小細工はなされず、その結果、いわゆる「大学のランキング」の大変動が起こり、日本の大学全体の「再編」が必至となってくると考えられるからである。

 つまり、例えば、「制限」にひっかかって不合格となった者は仕方なく私立大学に進む。すると当然のことながらその私立大学の「偏差値」は急上昇し、そうなるとその大学の「価値」が高まってきて、受験生に人気が出てくる。そしてそのうちにもとの国立大学よりもその私立大学の方が学生のレベルが高くなって、結果的にはその二つの地位が逆転してしまうということになる。

 こうなると、それはまさに有名公立高校の没落の再現であるが、そんなことはありえないとするのは、週刊誌に合格者の名前が載る国立大学(註)の地位の絶対性を盲信しているだけにすぎないだろう。それはかつてのエリートのための大学という意識を捨てきれていないからであって、現在の大学はもはやそうではないことを看過している。「本音」と「経済原則」が最優先される現代の受験生にとって、大学の「価値」とはその中身ではなくて、その世間に対するイメージ、すなわち「ブランド」であるということが以前と比べてはるかに徹底していると思われるからである。


  1. (註:2000年頃から、「個人情報の尊重」ということから、合格発表を氏名でおこなう大学はなくなり、そのため、長年のノウハウを誇る一部週刊誌でも合格者氏名の割り出しが不可能となったため、以後、週刊誌には合格者名は掲載できず、合格者数でさえも、当該高校に問い合わせて、その申告された数字を掲載するようになっている)


 それにここ20年間の国立大学の授業料の急激な上昇も無視できない。私立大学との差が、かつては1:10ぐらいだったのが、現在は1: 1.5~2.5程度にまで縮まり、下宿して国立大学に通うより、私立大学へ自宅通学する方がはるかに安上がりになるとなれば、国立大学の魅力も薄れるであろう。 

 さらに言えば、成熟した高度工業化社会となった現在、国家も一部の分野を除いて、人材養成のしごとを大学に全面的に求めることはなくなってきたようにみえる。大学には人間のランクづけと、基本的な教育さえやってもらえば十分で、その後の人材教育は企業にまかせればよく、ただ企業では手に負えない「先端技術」などに関してのみ国家が受け持つという考えなのかもしれない。そして「再編」後には、現在の有名国立大学の本当に内容のある部分のみが「大学院大学」として生き残り、その他の部分は東大・京大であってもかつてのブランド・イメージを失って、只の、有名私立大学に入れなかった者が集まる大学となってしまうのかもしれない。

 こうなると、いよいよもって「私学の時代」ということになってくるのだが、ではその時代はいったいどういう時代となるのであろうか。

 「本音」と「経済原則」の時代ということになるのだろうが、しかし「本音」というのは言ってみれば人間各人の欲望のことでしかないので、それだけでは世の中は成り立たない。お互いにぶつかり合う「本音」をうまく調整するためになんらかの〈モラル〉が必要となってくるであろう。かつては「教養主義的人格教育」というのが〈モラル〉のバックボーンとなって、それが「学校文化」あるいは「学問世界」というものを形成していた。そして「教養主義」をただの建て前として利用する「似而非エリート」だけではなく、真にエリートの名に値する人物をも、有名、無名を問わず数多く輩出してきたことも事実である。 だから今もし、かつての「教養主義的人格教育」がただの「建て前」に堕してしまったのだとすれば、それに代わるものはいったいどのような〈モラル〉なのか、「私学の時代」における「学校文化」「大学世界」とはどのようなものになるのだろうか。その答えはいまの「経済の時代」が我々をどこに連れていくのかもわかっていない現在、まだ混沌の淵の中にあると言うしかないであろう。


(初出誌:「雑想」第3号 1991年10月)


付録『各論篇: 高槻中学・高等学校の場合』もあります