社会主義の世紀の終わり


(この文章は1990年に書かれたものである)

                              


 二十世紀もあと十年を残すところにいたって突如勃発した東ヨーロッパの政変、それを陰で促進したソ連のペレストロイカ、そしてそれに先立つ中国の「天安門事件」と、またたく間にこれらの「社会主義」国を席巻した政治的激動は、その展開の速さと予想を超えるその根の深さによって、僅か一年足らずの間に、これまで世界の人口の約三分の一を政治的に支配し、その他の人々にも大きな影響を与えてきた「社会主義」を一挙に崩壊の淵へと追いやってしまった。


 東ヨーロッパでは、それまでの政権政党が「社会主義」の看板を急遽塗りかえて新しい装いのもとに再出発しようとしたがそれも空しく、自由選挙で大敗してあっという間に少数政党に没落するという現象がドミノ的に起って、各国に次々と非「社会主義」政権が誕生している。


 またゴルバチョフのペレストロイカによって急速に国家の指導体制を改革してきたソ連は、スターリンやブレジネフ、およびその遺産だとされる官僚主義を批判するときに「レーニンに戻れ」と訴えることによってかろうじて「社会主義」の看板を維持しているが、これまでの「社会主義」イデオロギーによる抑圧を解かれて各地にうごめきだしたナショナリズムの高揚によって「ソビエト連邦」の体裁を守ることさえ困難となりつつあり、いまやゴルバチョフの政治力とその国際的人気によって何とか現状を保っているにすぎない状態である。


 そして一年前、天安門広場に集った学生たちの生気あふれる伸び伸びとした表情によって、鄧小平による「改革」の成功ぶりとそのソ連などとは一味違う「おおらかさ」を全世界に強く印象づけた中国の「社会主義」は、数日後のあの戦車と銃弾による大虐殺によって一度に暗転し、もはや紛れもない超警察国家ぶりを露呈して、毛沢東以来築いてきた国際的信用を一瞬にして失ってしまった。


 その他、「改革」の波はモンゴルやベトナム、さらにはアフリカの非「社会主義」独裁国家にもおよび、そんな中で依然として「社会主義」を固守している北朝鮮やキューバなどはその独裁者の個人崇拝ぶりをソ連のマスコミからも手厳しく批判される有様である。そして日本でも「革新」を標榜する諸政党が先を競ってその綱領から「社会主義」という言葉を削ろうとしている。


 このような突然の「社会主義」の失墜を目の当たりにして、我々は明らかにひとつの時代が終りを告げようとしているのを実感せざるをえない。言ってみれば二十世紀とはある意味では、1917年のロシア革命による「社会主義」政権の登場とともに幕を開け、いまやその崩壊によって幕を閉じようとしている100年間だったといえるかもしれない。もちろん二十世紀を「社会主義」の世紀だと決めつけるのは早計であるが、十九世紀に生まれた社会主義の思想が今世紀に入って「社会主義」国家として具体化したことが世界に与えた影響は我々が考える以上に大きいもののように思われる。そこで、この二十世紀の「社会主義」とはいったい何であったのかということを通して、二十世紀という時代を考えてみようと思う。


 社会主義の考えが、十八世紀のイギリスに始まる産業革命によって引き起こされた深刻な社会問題をいかに解決するかというところから出てきたのは周知の通りである。蒸気機関という新しい動力源が発見され、それを利用した新しい機械が発明されて生産力が飛躍的に増大した結果、産業はそれまでの〈家内工業〉的なものから〈工場〉的なものにとって代られることとなった。そして〈工場〉の大設備を所有する者が、それによって駆逐された〈家内工業〉や〈農業〉などの従事者たちを労働力として使用するという事態が生まれた。


 都市に建てられたたくさんの工場の煙突はもうもうと煙を吐き、その下では農村などから出てきた工場労働者たちがスラムの中で生活していたが、中には住む家もなく、公園などで寝泊まりし、翌朝そこから工場に通うものも多かったという。そして工場で彼らを待っていたのは、人間を人間として扱わない奴隷に近い労働であった。


 機械の使用によってそれまでの熟練技術は必要でなくなり、そのため安価さと従順さを買われて子供が重宝されるようになった。そして、教会で保護されていた孤児たちが徒弟として利用されるなど、児童労働者を劣悪な条件で使用する傾向が一般化し、これがようやく問題化して、イギリスで九才以下の児童の就業が禁止されるようになったのは1833年の「工場法」によってであった。また婦人および青年労働者の一日の労働時間が12時間に制限されたのは1844年のことである。


 産業革命が進行中の段階では産業資本の蓄積はまだ十分でなく、それを是が非でも充実させるためには生産コストを徹底して切り詰めるしか方法はなく、そのしわよせが過酷な労働条件を生み出したのだといえよう。そしておそらく、資本主義が興隆しつつあったこの時期にはそれらは何の疑問も何の罪の意識もなく、無我夢中の中で行われてきたのであろう。だから、このような初期資本主義の猛威に反発して、社会主義の考えが生まれてきたのはまったく当然のことであったといえる。


 つまり社会主義はその動機的な部分に虐げられた者の救済という〈人道性〉をもっており、それが人々、とくに知識階級の人々に強く訴えるもとともなったのである。また、虐げられている「労働者階級」は現実に圧倒的多数を占めていて、「最大多数の最大幸福」の原理からいってもそれらの人々が力を持つのは当然だし、その中に自分も入っていることに「目覚め」さえすれば社会主義を支持しない方がおかしいということになり、そこから社会主義の〈正当性〉も生まれた。


 さらに、例えば「貧乏人」という言葉についていえば、この言葉は、国民の大多数が「中流」だと思っている現在の日本にあってはただ単に「お金のない人」という意味でしかないが、かつては「自分は貧乏人だ」といくらかの誇りをもって使われた言葉であった。つまりその時の誇りとは、自分は成功して「ブルジョワジー」となった人々みたいに「あくどい」ことはしていないという道徳的なものであって、この〈道徳性〉というのも「貧乏人」の味方であることを自負する社会主義には必須の属性であったといえよう。


 それでは具体的に社会主義とはどういう方法かといえば、生産手段(土地、資源、機械、工場など)を社会化(国有化もしくは協同組合的所有)し、計画的に経済を運営するシステムだと要約することができるだろう。


 要するに、それまで個人や家族や村落などの小さな共同体などに属していた生産手段が少数の人間に独占され、そのためにそれを奪われた人々が労働力しか売るものを持たない「プロレタリア階級」に突き落とされているのだから、その独占を禁止して、それをみんなで共有すれば問題はなくなるというのである。また、生産や生産物の分配を自由競争のもとに放任しておけば富の不公平が生じたり、恐慌のために倒産や失業が起こったりするのが避けられないので、自由競争をやめて経済をうまく計画的に運営すればそのような弊害がなくなり、競争による無駄もなくなって効率的だということになる。


 理屈はたしかにそのとおりであるが、問題は生産手段を共有するとき、それは具体的にはどういう形態をとるのか、そして経済を計画的に運営するとしても、いったい誰がそれをするのか、つまり、その制度をつかさどる人間自身の問題が浮かび上がってくる。


 はたして人間にそれが可能であるのかということであるが、社会主義の考えでは、その点は楽観的で、当然高い〈道徳性〉を持った人間がそれをつかさどるはずだということを暗黙の前提としていたようである。あるいは、資本主義下での「資本家」が悪辣であるのに対応して、社会主義の下では人間は善良であるはずだ、つまり、「下部構造」が「上部構造」を規定するのだという考えがその底にあったのかもしれないが、この問題は二十世紀になって、実際に「社会主義」国家が実現して急速に具体的なものとなってくる。


 まず生産手段の社会化ということをとりあげれば、それは例えば国有化、つまり政府の所有ということになる。その場合、その政府が本当に国民に共有されているものであれば、即ち、民意が完全に反映し、国民がそれを自分のものだと思えるほどのものであれば問題はないが、それは実際にはなかなか困難なことである。社会主義の理論によれば、「搾取」がなくなり、「階級」が消滅した時点でそれが可能になる。それは確かにそうだと思われるが、現実にはそれよりも「社会主義」政権の成立が先行している。


 これは、「革命」によって出来た「社会主義」国家は、「階級」のない「共産主義」国家にいたる過渡的なものであるという「マルクス・レーニン主義」の考えからいって当然の結果なのだろうが、そのため、将来は必ずそうなるという口約束みたいな「保証」とひきかえに、私有から国有に移した生産手段は、結局は政府の実権を握る「前衛党」やその指導者のものとなってしまう。


 もちろん名目上は国家の所有であって、その実権者個人の私有物ではないが、彼らはその公共物を自分でまったく自由に使用できるということで、実質的に彼らの私有と何ら変わらないものとなる。このからくりは、先に判明したルーマニアの独裁者チャウシェスク夫妻の残した莫大な「財産」を見ればあきらかである。これは倒壊した東ヨーロッパの「社会主義」政権下の特権官僚においても同様で、彼らは国家財産の豪華な建物に住み、国家の所有する自動車を乗り回し、国家公務員の召使を使うなど、何ひとつ自分名義の私有物はなくても、「資本主義」国の大富豪か、それ以上の生活をすることも可能だったのである。


 また計画経済ということでいえば、経済というのはそもそも「人間の欲望を数量化したもの」ともいえるもので、「生きもの」という形容がよく使われるように、ちょうど台風とか地震などの自然現象に近い性質を持つものに他ならず、人間がそれを完全に制御するのが可能かどうか疑わしい代物である。だから、それを可能だとして敢えてコントロールしようとすれば、結局は個々人の欲望が去勢されてしまって、経済のおそるべき停滞を招いてしまうことは、国家としてのアイデンティティを賭けてまでもペレストロイカに踏み切らざるを得なかったソ連の現状を見ればよくわかるであろう。


 この、経済を人間の計画下に置こうとする試みはちょうど、自然を人間の支配下に置こうとすることと一致しているところがあって、ここで二十世紀を特徴づけたもうひとつの大きなキーワードである〈科学〉という問題が登場してくる。


 古代ギリシャに端を発して、ルネッサンスを通じてヨーロッパに受け継がれた〈科学〉が、自然哲学から離れて〈科学技術〉というかたちで人間の生活に大きく関わりはじめたのもやはり産業革命の時代であり、それは新しい機械の発明を通して産業革命の大きな原動力ともなった。そして十九世紀になって次々と新しい発明や発見がなされ、それらが実生活にも応用されてどんどんと生活が便利になっていくにつれて、〈科学〉に対する信頼は絶対的なものとなっていった。


 〈科学〉においては、観察された現象を説明するために仮説が立てられ、それが実験によって確かめられると、それは誰にとっても正しい「真理」となる。つまり、正しいのは一つだけであって、それは実証可能であるというのが〈科学〉の論理であり、物質の世界では確かにその通りである。


 いったん実証されれば、それは絶対に正しいという明快さが〈科学〉に対する信頼の根本にあり、それはヨーロッパを長い間支配してきたキリスト教の世界観さえも打ち破る力を持つものであった。しかしそれはあくまで人間が客観視できる物質世界のものごとのみに限られることであって、人間の主観が関与することがらや人間そのものには適用できないものである。ところが〈科学技術〉のめざましい成果に眩惑されたためであろうか、〈科学〉の論理がその通用する範囲を逸脱して用いられるようになり、物質以外のあらゆる分野に侵入することとなった。物質世界の現象を解明するメスが、人間や人間世界の解明にも向けられてきたのである。


 もちろん〈科学〉の持つ明快な論理性が人間に関する問題の解明に大いに役立ったことは否定できない。〈科学〉のおかげで我々はこれまで数多くの迷妄から解放されてきたのも事実である。しかし〈科学〉の論理の限界が見失われ、それが何にでも通じる万能の武器だと錯覚されると、いつも正解は一つというその性格がひとり歩きをして、おそろしい独善に陥ってしまうことになる。即ち、本来実証不可能なものまでがいかにも実証されたかのようにみなされて、それが「真理」だとして人間を縛りはじめるようになる。


 その典型的な例として、十九世紀に盛んになった「進化論」をあげることができるだろう。


 「進化」という考え方はたしかに自然科学の領域の中ではある程度実証もされ、ほぼ真理に近いものとみなされている。しかし、それがそれ以外にも拡張されて「社会進化論」といったものになると、それは結局は実証不可能な、単にひとつのおもしろい考え方といえるにすぎないものなのに、自然科学上の「進化論」と関連させて〈科学〉の装いをまとっているために、絶対の「真理」であるかのごとくに世の中に横行しはじめる。


 その結果、「弱肉強食」「優勝劣敗」などの観念が絶対の真理のようにみなされ、資本家の搾取や植民地支配の収奪などを正当化する論理に用いられたり、また、生物が「進化」するように、人間や人間の社会、人間の文明もまた「進化」し、発展していくという、いわゆる「進歩」の思想も生まれてきた。そしてそれを支えたのが〈科学技術〉の飛躍的な発展であって、蒸気船、鉄道、気球、電信、電灯といった発明が僅か一世紀の間に次々となされ、それまでの生活が一変してしまうという体験をした人々にとっては、「進歩」の思想を疑う余地はなかったにちがいない。


 だからカール・マルクスたちが、資本主義社会を分析し、それがいずれは行き詰まって社会主義社会へと「発展」するのだと結論づけたことも、この十九世紀の「進歩」の思想を抜きにしては考えられない。また彼らがそれ以前の社会主義思想の「空想」性を克服して、「科学的」社会主義と自称したことは、彼らといえどもその時代の制約を免れることができなかったことを示しているだけでなく、社会主義のその後にとって大きな意味をもつこととなった。つまり「科学的」という言葉がひとり歩きをはじめ、「科学的」だから絶対正しいのだということになって、ここに〈科学性〉というものが社会主義にひとつの権威を与える属性として付け加わることとなったのである。


 以上で、社会主義についてのイメージはひととおり出尽くしたようである。それをまとめてみると〈人道性〉〈正当性〉〈道徳性〉〈科学性〉といったことであって、これらが世界中の多くの人々を惹きつけ、社会主義を人類の「夢と理想」のシンボルに仕立て上げる要因となったといえる。そして二十世紀に入って、ついにその「夢と理想」が実現したのであるが、それがいったいどういうものであったのかということは七十年後の「社会主義」の崩壊の事実が示すとおりだという他はない。


 もともと社会主義というのは、先に述べたように人為的な性質を強くもったシステムであり、それがうまく機能するためには、まずそれを運営する人間がそれに相応しい者でなければならないということがある。言い換えると、人間が集まって集団となったときに不可欠な〈政治〉というものが十分に成熟したものでなければならない。


 この場合の〈政治〉とは、権力闘争といったことばかりを指すのではなく、人間の集団が何かをしようとする時の、みんなで意見を出し合い、それらを調整してひとつの方向にまとめ、それを滞りなく実行するという一連の過程を円滑に進めるための技術、あるいは集団的な叡智ともいうべきもののことであって、それは「生産手段の社会化」とか「計画経済」など、個人よりも全体を重視する社会主義社会が成り立つためには絶対に必要な条件である。


 ところが実際に「社会主義」革命が成功したのは、ヨーロッパの中でも最も〈政治〉が遅れていたロシアであった。だから、生まれたばかりの革命政権は、経済の改革と同時に国民の〈政治〉教育も行わなければならなかったのであるが、現実には、その前に彼らは〈革命〉を潰そうとする内外の敵と戦わなければならず、それに有効に対処するために「戦時体制」が敷かれることになって、結局、〈政治〉はその犠牲となってしまった。


 この間、トロツキーとスターリンの「世界革命」か「一国社会主義」かという論争もあった。原理的にいえば、世界全体が社会主義にならなければ、社会主義社会は成立しえないという方が正しいのだが、実際には「ロシア革命」を守るだけで精一杯で、他の国に革命が波及するには至らなかった。そこで取り敢えず、まずロシア一国だけでもということになったのだろうが、その時点でもはやそれは社会主義とはいえないものになってしまっていたといえる。


 権力を握ったスターリンは「革命防衛」のための戦時体制を最大限に利用して権力を集中し、〈政治〉を圧殺して、いわゆる「スターリン主義」を築いていった。その体制下で「生産手段の社会化」が着々と実行されていったが、それを支えるべき〈政治〉は、集団をうまく機能させる技術あるいは知恵としてのそれではなく、「社会主義」に対する忠誠を強制する「道徳規範」へと変質してしまっており、それに従わない者は容赦なく「粛清」されていったのである。


 集団の中に〈政治〉がなくなり、そのかわりに一方的な忠誠が要求されるという構造は、その忠誠の対象を「社会主義」ではなく「ゲルマンの血」や「天皇」に置き換えれば、それはそのまま「ナチズム」や「天皇制ファシズム」にもなりうるものである。だから、ほぼ同じ時期にヨーロッパおよび極東に生まれた「スターリン主義」と「ファシズム」は、一見正反対にみえて、実はその根はつながっている「シャム双生児」だったといえるだろう。


 これらの国々に共通していたのは、いずれも先進国に追いつかなければならない宿命を背負った二番手国家だということで、急速な工業の近代化や軍備増強のためには、手間ひまのかかる〈政治〉を廃して独裁者の強力な指導力に頼るというやり方は確かに効果的であったかもしれない。第二次大戦後に植民地支配から独立し、急速な「近代国家」建設を迫られた第三世界の国々でこのような独裁体制をとる国が多かったのもそのためである。しかしそれは国家がその後進性を克服するためのひとつの有効な方策ではあっても、社会主義とはまったく無縁のものである。


 ある学者によれば、スターリン時代のソ連で、一千万人を超える「粛清」をしてまでも強行された農業の「集団化」や経済の「計画化」の実態とは、国家が農村から安い値段で農産物を買い上げ、それを都市住民に高く売りつけて、その利ザヤを国家資本として蓄積することであったという。


 それは「革命」後、外国資本が全く入ってこなくなったために採ったやむをえない措置であったともいえるが、とにかくこうして国内から調達した資本によって工業の近代化が進められ、第二次大戦を勝ち抜いた後、ソ連はアメリカと並ぶ軍事超大国となった。これは確かに一国の指導者としてのスターリンの大きな功績だったといえるだろう。しかし、それを「社会主義」の功績だとして、「社会主義」の方が資本主義よりも効率的で優れているのだと宣伝しはじめてからおかしくなってきたのである。


 よく「資本主義 vs 社会主義」などと並列されて論じられるこの二つの概念は本来、異なる範疇に属するものである。つまり、資本主義というのが理念ではなく経済のある現実の状態を示す言葉であるのに対して、社会主義とは、かくあるべしという理念ではあっても、現に存在する状態を指すものではない。ところがいつの間にかこの二つが同じ次元で用いられるようになって、社会主義とはもはや単なる理念ではなく、実際にソ連において存在するれっきとした現実だということになってしまった。その結果、社会主義はソ連の専売特許となり、「労働者国家」のソ連を悪くいうのは「労働者の敵」だということになって、世界中の労働者はソ連を批判することができなくなってしまった。


 またソ連などの「社会主義」国の内部においても、「労働者階級」が支配する国では資本家の搾取はないのだから労働問題も存在しないとされて、労働組合は政府の御用機関でしかなくなった。だから、労働組合本来の活動をするためにあらためて結成されたポーランドの自主管理労組『連帯』が正式に認知されるためには「社会主義」の崩壊を待たなければならなかったのである。


 生産手段を社会化した「社会主義」国だから労働者を搾取する者がいなくなったわけではなくて、国家(または一党独裁の党)の特権官僚がそれまでの資本家に取って代わっただけであることは先に述べた。ただ彼らは資本家とちがって生産手段を「私有」していないというだけである。


 こうなると、これまで何となく信じられてきた「私有」イコール「悪」という公式は根本的に見直されなければならなくなる。


 非「社会主義」国では生産手段はもちろん「私有」されているのだが、だからといってそれが持ち主である資本家の自由自在になるものでもなく、現代ではいろいろな「社会的責任」を求められて「私有」はなにかと制限される方向にある。それに株式を公開することによって生産手段の持ち主も細分化されて、もはや古典的な資本家像を思い浮かべることさえ困難となっている。


 これは現代の資本主義がマルクスの生きていた頃のそれとはかなり違ったものになってきていることを示している。その間に「世界恐慌」の苦い経験があったり、労働者の要求が高まってきたりなどのいろんなことがあって、それに対応して変質してきたのは、もともと経済の現状をあらわす言葉にすぎない資本主義にとっては当然のことである。だからそれをわざわざ「修正資本主義」などというのは、資本主義を社会主義のような理念と混同した、誤った命名というべきであろう。そして大事なことは、そのいろいろあった中に、社会主義というものも含まれていたということで、むしろこれが資本主義の変質の最大の原因であったのかもしれない。


 例えば、第二次大戦後、経済的にもっとも成功したといわれる日本の現在に大きく寄与したのは、アメリカ占領軍の主導下で実施された戦後の種々の改革だったともいえるが、それを推進したのは〈ニューディール〉を経験した「ピンキー」と呼ばれる社会主義シンパのアメリカ人であった。彼らは本国では実現できそうにない社会主義的な政策を占領国日本で実験しようとしたのであったが、例えば、その時に生まれた税制はその累進率の高さや相続税の税率の高さによって、いわゆる「金持ち」階級を激減させる効果があった。もちろんこれには「財閥解体」と同様、日本の支配階層を叩くことによって日本の国力を弱めようという意図もあり、たぶんその方が大きかったのであろうが、結果的には日本人の中に平等感がひろがって勤労意欲を高め、国民の購買力を高めて、国内に大きな市場が形成されるようになり、それが今日の繁栄の基礎となっているのである。


 要するに、非「社会主義」国でも社会主義の考えを生かそうという努力は続けられてきたということで、「私有」についてもそれをなんとか制限しようとしている段階でしかないが、まず最初に「私有」を廃した「社会主義」国で、それが建て前だけに終っているのと比べると、どちらがより社会主義的か知れたものではない。むしろ、「共有」のものを実質的に「私有」するときに生ずる〈無責任〉、つまり、自分のものではないから粗末にあつかうという道徳的な荒廃を考慮すれば、非「社会主義」国の社会主義のほうが上であるともいえよう。


 このように、現在世界中で崩壊しつつある「社会主義」とは本来の社会主義とは全く似て非なるものだったわけだが、現実にはそれが社会主義としてながらく通用し、そのため世界中の社会主義を信奉する人々は苦しい思いを強いられてきた。彼らは、「社会主義」国の現実に対する批判を耳にするたびに、自分の耳を疑い、批判する人を疑い、それを首肯しそうになる自分を疑って、なんとか自分の中の社会主義を守ろうと腐心しなければならなかったのだが、今や、その批判のほとんどが事実であったことが「社会主義」国自身によって明らかにされている。


 ことここに至るまで人々が「社会主義」に呪縛されてきたのは、それが社会主義から簒奪した〈人道性〉〈正当性〉〈道徳性〉〈科学性〉というイメージのためであったといえるが、なぜそういったものにこんなにも永く囚われてきたのかを解明するためには、二十世紀までの歴史の流れを振り返ってみなければならない。



 二十世紀を動かした主役であるアメリカ、ソ連、ドイツ、イギリス、フランスなどは全てヨーロッパ文明に属しているが、そのヨーロッパを遡っていっても、それが古代ギリシャやローマに直接つながるわけではない。ヨーロッパ人のほんとうの祖先は西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマンなどの北方諸「蛮族」だというべきであって、彼らが現在の土地に住みついた時には、それまでそこにあったギリシャやローマの古代文明は東ローマ帝国などの東方諸国へ流出したあとであった。


 あとに残ったのはキリスト教である。キリスト教にとっては、公認されたとはいえ文明的に相入れぬものがあったローマ市民よりも、野蛮ではあるが純粋素朴な「蛮族」たちに布教する方がやりがいのあることだったであろう。また、暗い森の中から明るい地中海の文明世界に躍り出て戸惑っていた「蛮族」たちの方も、文明の香りがし、その方向に導いてくれるキリスト教に好感をもったにちがいない。


 かくして様々な人種と言語をもつ諸「蛮族」にキリスト教という共通項ができて、ここに〈ヨーロッパ〉という概念が誕生したのである。


 だからヨーロッパの歴史は〈中世〉から始まり、その一見、無知と迷妄に満ちた時代はキリスト教によって圧迫された「暗黒時代」ではなく、キリスト教によって文明人たる教育を受けている最中の、いわばヨーロッパの「幼少年期」にあたる時代であった。彼らはその間、自分たちがいま住んでいる土地にかつて偉大な文明があったことさえ知らなかったといわれている。


 彼らがそれに気がついたのは「成人」に達して、自分の周囲を見回す余裕ができた頃であった。その少し前まで、彼らは血気盛んなツッパリ少年たちが隣り町の学校に殴り込みに行くのに似た「十字軍の遠征」を何回か行い、その時はじめて、自分たちよりもはるかに進んだイスラムやビザンチンの文明に直接触れたのだが、そんな彼らにかつてのギリシャ・ローマの文献などを与えたのはそれら異教徒の学者たちであり、それを研究することから始まったのが〈ルネッサンス〉、即ち「文芸復興」であった。


 ギリシャ・ローマ、それにイスラムという、キリスト教以外の先進文明と接触したことによって、ヨーロッパ人はそれまで自己の内部にこもったままで、はっきりした形に現し出すことができなかった自分自身を表現するすべを与えられ、ここに初めてヨーロッパ独自の思想が誕生することとなった。そして十八世紀になってヨーロッパはついに〈文明〉の状態に達し、人間がもっとも人間らしい、バランスのとれた、自由と寛容の時代を迎える。


 この場合の〈寛容〉とは特に「宗教的な寛容」ということも意味していて、このときヨーロッパははじめて、それまで政治とは不可分であった宗教を政治から切り離し、人間の精神世界に限定することに成功した。このとき彼らに、宗教がなくてもうまくやっていけるというモデルを提供したのは、実は当時の中国の社会であって、中国に布教にいった宣教師たちが持ち帰ったやや美化された中国観が、皮肉にも当時の無神論者や革命思想家たちに勢いを与えることとなったといわれている。


 こういう流れが、キリスト教の権威を支えとしていたそれまでのヨーロッパの政治体制と根本的に衝突するのは当然で、それがフランス革命となった。


 フランス革命がヨーロッパに与えた影響についてはここではとくに触れないが、この革命を機に、ヨーロッパの十八世紀が終り、十九世紀が始まった。これはただ単に年代が変わったというだけではなく、ひとつの時代が終って、新しい時代が始まったことを意味する。つまり、〈観念〉が人間を支配する時代が始まったのである。


 例えば、フランス革命のときに唱えられた「自由・平等」というのは、当初は市民階級(ブルジョワジー)の政治的な自由・平等という具体的なものを指していたが、革命が進むにつれて、自由のための自由、平等のための平等、即ち、「自由・平等の観念」へと変質していった。そしてその時、その自由あるいは平等がいったい何を意味するのかが明らかでなくても、とにかくそれは徹底的に追求されるべきものであるとされ、その結果、人々はそれに駆り立てられて、自由・平等の名の下に多くの血が流された。


 この「徹底的に……すべきだ」というのが十八世紀にはなかった発想で、十八世紀の人々は人間の限界というものを熟知しており、それが人々を「過激」に走ることを自然に防いでいた。


 例えば、旧体制下のフランスではあらゆる出版物は国王の許可を必要とし、そのため発禁処分にあう書物も少なくはなかった。しかし、だからといって、それらの書物が人々の目に触れずにこの世から抹殺されたというわけでもなく、発禁となってかえって人気が出てよく読まれるということもかなりあったそうである。これは、人間の考えることを規制したり、抹殺したりすることはそもそも不可能であるということを、取り締まる側も含めた、この時代のすべての人々が十分に承知していたため、いろいろな抜け道も存在し、また執筆者に対する処罰も一応のものでしかなかったからで、人々のこのような柔軟さが当時すでに時代遅れになっていた旧体制下の制度の欠陥を補っていたのである。


 ところが「徹底的に……すべきだ」ということになると、こういうのは手ぬるいとされ、そんな甘いことをしていたから革命が起こったのだと言われたりもする。そしてあらゆる発禁出版物にそれこそ徹底的な弾圧が加えられるのだが、それでもなお、人間の思想を取り締まることが究極的に不可能であることには変わりはない。だからこの場合、不可能ではないはずだと考えることによって、その分だけ、人間の限界が見失われているのであって、それにもかかわらず、その可能性を追求しつづければいったいどういうことになるであろうか。結局、現実には不可能なことは現実を離れた〈観念〉の世界で可能にするしかなく、「人間には不可能はない」と豪語するその人間自体が、実体のない〈観念〉となってしまって、ここに、〈観念〉と現実が二本立てとなった世界が生まれる。


 十八世紀には人間が生きていくうえでの知恵であった〈道徳〉は、十九世紀には「道徳の観念」となって、いろいろな徳目が遵守可能かどうかということを無視して、必ず守るべきものとして設定されるようになった。その結果、例えば、昼間サロンで「純潔」の大切さを熱弁していた紳士が、その夜、若い召使の部屋に忍んでいっても平気な顔をしているということも起こった。


 おそらくその紳士にとっては「純潔」を説くことも、召使を相手に自分の欲望を満たすこともともに真実で、まったく矛盾しないことであったにちがいない。要するに、その時々の彼は全然別の人間だったということで、ここに〈観念〉と現実に引き裂かれた人間の実例を見ることができるが、これは言い換えれば、「建て前」と「本音」を使い分けるということで、今日、頻繁に見られることでもある。


 また別の例をあげれば、「帝国主義」というのは元来は、それなりにそれを提唱する者もあれば支持する者もあるひとつの政治論であったのが、十九世紀の終わり頃には、今日使われているように、とにかく悪いことだということになって、それがなぜ悪いのかということをまじめに考えることもなくなってしまった。そして第二次大戦後には国名に「帝国」とつく国は一つもなくなり、表向きは地球上から「帝国主義」はなくなったものとされたが、それに当たる行動がいまだに跡を断たないのは周知のとおりである。


 「帝国主義」以外にも、「大国主義」「覇権主義」「官僚主義」などといったことばが同じ様に悪い意味だけに使われて、その客観的な意味がかえりみられることはない。その反対に、「平和主義」「民主主義」「人道主義」などは、とにかく良いことだとされている。


 このように言葉が実体を離れて〈観念〉と化すと、それはある定まった価値を付与された「イデオロギー言語」となり、そこではあらゆる言葉が善玉、悪玉に区分されていく。そうなるともはや、人間は言葉を自由に使ってものを考えることはできなくなり、ただその言葉を特定の「イデオロギー」にしたがっていろいろに組み合わせることが「思想」だと錯覚されるようになる。


 こうして十八世紀に宗教の支配からのがれて、いったん〈文明〉の高みに立ったヨーロッパは十九世紀に入って再び、宗教にかわる〈観念〉あるいは「イデオロギー」に支配されることとなったのである。ただすべてを出来合いの〈観念〉にまかせてしまうと人間はものを考えなくてもよくなって、それはある種の効率性を非常に高めることにもなり、それが軍事的な面では効果的であって、「十九世紀ヨーロッパ」はほぼ全世界をその支配下に置くこととなった。


 しかし、その「十九世紀ヨーロッパ」も世紀末となって、内部的に行き詰まり状態となる。そして、その結果起こった二度にわたる世界大戦によって壊滅的な打撃を受け、次第に衰退の道をたどりはじめるのだが、そんな中を縫うようにして、十九世紀的な〈観念〉優先主義をもっとも典型的なかたちで二十世紀に持ち込み、我々を呪縛しつづけてきたのがロシア革命後に成立した「社会主義」だったといえるのではないだろうか。



 我々は歴史の中に生きているが、いま現在生きている時代がどういう時代かということはなかなか我々には見えてこない。それは我々自身がその時代の一部として、その中にしっかりと組み込まれているからである。しかし時には、我々がその時代の制約から解き放たれ、自分たちの時代を少し距離を置いて見ることができるときがある。いわゆる〈転換期〉とよばれる時期がそれにあたるが、その時、それまでその時代を支配していたものが急速に時の流れに耐えられなくなり、見る見る〈過去〉の遠景の中に取り残され、逆に、それに隠されていて、それまで氷山の一角しか見えなかったものがその全貌をあらわにし始めるからである。


 1990年代、「社会主義」もそのようにして、時代の表舞台から去り、静かに〈歴史〉の陳列台の中にその場所を移していくことになるだろう。「社会主義」の破産もようやくこのように現実のものとなれば、まったく当然の結果としか思えないが、そうなるまでは、「社会主義」の欠陥を同じようにいくら説明されても、我々にはなかなか十分に納得できなかったものである。しかし今や、かつて「反共の闘士」が口にしたような言葉が「社会主義」国の指導者層から出る時代となって、我々は長い間我々を縛っていたものから解放された壮快感を感じる。その我々を縛ってきたものは何かといえば、それは〈観念〉即ち「イデオロギー」だったといえるだろう。


 「社会主義」の崩壊は、資本主義に対する社会主義の敗北を意味するのではなく、世の中を「資本主義陣営」と「社会主義陣営」の二つに分けて、そのそれぞれに別個の価値体系があるとする「イデオロギー的世界観」の崩壊を意味しているといったほうが正解であろう。


 ベルリンの壁が取り払われ、両ドイツの統一が秒読み段階に入ったヨーロッパでは、新しく誕生する「統一ドイツ」をどう扱うかということで、米英仏とソ連がまったく同じ利害を共有するという局面が生まれ、もはや、「NATO対ワルシャワ条約機構」という対立図式が無意味になりはじめている。これは西ヨーロッパ随一の国力を持つことになる「統一ドイツ」が、「ナチス・ドイツ」あるいは十九世紀の「ドイツ帝国」を思い出させるからで、そのドイツをヨーロッパの他の大国が包囲するという戦前の国際関係に逆戻りした感さえし、その構図が二度もの世界大戦を引き起こしたことで不吉な未来を予測する向きもなくはない。


 しかし、戦後の国際関係を決定づけてきた「米ソ対立」の構図は、最近のヨーロッパの東西関係の変化を見てもわかるとおり、結局はひとつの〈戦略〉でしかなかったのである。つまり、戦後においても世界は、「資本主義陣営」対「社会主義陣営」というよりは、各国のナショナリズムを基礎とした各「国民国家」間の利害によって動いてきたということがはっきりとしたわけで、その実態を「イデオロギー」で隠していたこれまでよりも、国際関係としてはずっと明快で健全なものになったのだといえよう。


 米ソ対立という、いわゆる「冷戦構造」が崩れることによって、両国間で軍備縮小の動きが高まってきた。これはアメリカでGNPの6.7%、ソ連では15.5%を占めるといわれる厖大な軍事支出が国内経済を圧迫しているのを是正したいと思っている米ソ両国にとっては好ましい国際環境だといえるだろう。というより、そこのところをもう少しひねって考えてみれば、両国の経済があやしくなってきたからこそ両国は「冷戦構造」を変えるように動いたのであって、逆にいえば、これまで両国は「冷戦構造」を最大限に利用してきたのだとも考えられるのである。


 それは、ここまで肥大化した軍事費はいったいどこに流れていくのかを考えてみればある程度わかることで、アメリカであれば、軍事物資を生産する民間企業にそれは流れていく。そしてそれらの企業は一方では軍事以外の民生用の物資も生産しており、それらを生産するときに軍事生産で身につけた技術が大いに役立ってくるのである。


 戦争があれば科学技術は飛躍的に進歩するといわれるが、それは国運を賭けた戦争という名目があれば、採算を度外視した巨額の費用や、国内から選りすぐったとびきり優秀な人材を技術開発に惜し気もなくかけることができるからであって、そしてこの時に開発された技術の果実は結局は開発を担当した民間の企業が最終的に手にすることになる。


 この典型的な例が第二次大戦中の原子爆弾の開発であった。アメリカ陸軍の主導のもとに推進された「マンハッタン計画」では、ナチス・ドイツとの開発競争を名目に、全米から桁はずれの量の必要物資と工業技術のノウハウが集められ、ヨーロッパからの亡命科学者を中心とする多数の世界的な物理学者が動員されて、厖大な開発資金が費消された。

 

 例えば何種類かの方法で同時に試みられていた濃縮ウラン製造工程のうちの一つを担当するある工場では、そこだけでアメリカ全土の電力の十分の一を消費したといわれている。この結果、ほとんど核分裂の原理だけしかわからなかった状態から僅か3年で、3個の原子爆弾を作り上げるのに成功した。そして、こうして厖大な国家資金、資源、人材、そして広島、長崎の多くの犠牲者のうえに確立した原子力兵器の技術はのちに原子力発電の技術に転用されて、それによって発電用原子炉を生産し全世界に売り込んだゼネラル・エレクトリックとウェスティングハウスの両社は莫大な利益をあげることができた。


 アメリカでは戦後も同じやり方で「アポロ計画」を実施し、コンピューター技術などに飛躍的な発展をもたらしたが、結局、アメリカ企業が現在も日本や西ドイツなどの技術後発国の激しい追い上げにも耐えて、世界をリードしているのは、航空機産業も含めたこれら軍事がらみの巨大技術のみであり、そのときいつも仮想敵国としてきたのはソ連であった。


 軍需産業というのは、戦争が起こっていない時は〈需要・供給〉という経済原則とは無関係に、将来の「有事」に備えて計画的に兵器を生産し、その技術革新をしていけばよい。だから、考えてみればこれほど「計画経済」にぴったりなものはなく、それに兵器というのはもともと国家の専有物だから、まさに社会主義の原理を実行するのにはもってこいのものだといえる。


 このような国家による軍需産業を中心に据えたソ連などの「社会主義」国というのは本質的に「戦時体制」であって、だからこそ生活が少々貧しくても国民に我慢を強いることができたし、また「民主集中制」という名の上意下達体制の上に一党独裁の党官僚が君臨することもできたのだが、その根本にあるのは自国が常に他国の侵略の危機にさらされているという「被害者意識」であって、そのためには、自国の安全を脅かす「強大な資本主義大国」アメリカの存在は絶対に必要なものであったといえよう。


 結局は、内政の不満を外交によって逸らすという為政者の昔からの常套手段が「イデオロギー」の美名のもとに覆い隠されていただけである。だから、脱「冷戦構造」の今後の世界は、一見ひと昔前に逆戻りするかのように見えるかもしれないが、それは国際政治の本来のあるべき姿に戻っただけなのである。


 「社会主義」の崩壊によって、我々は政治・経済の世界における〈観念〉すなわち「イデオロギー」からすでに解放されようとしているが、ここにもう一つまだ我々を縛っている強大な〈観念〉がある。それは先にすこし触れたが、十九世紀に「人間に不可能はない」という幻想をふりまく大きな元凶であった〈科学〉、とくにそこから哲学性が脱落した〈科学技術〉である。


 〈科学技術〉が兵器の発達に大きく貢献し、人類の悲惨を桁はずれに巨大化したことはすでに誰もが批判することであるが、その平和利用についてはそれに異を唱える者はなかった。だから核兵器には反対しても、その平和利用である原子力発電は人類の未来を拓くものとしてこれまで大いに歓迎されてきたのである。


 ところが少し前から、環境問題の視点から原子力発電に対する批判が世界的に強まってきた。それを決定的にしたのが、アメリカ・スリーマイル島とソ連・チェルノブイリの大事故である。それをきっかけに我々は原子力発電に関する多くの書物や報道記事を目にするようになったのだが、それらを読んで驚いたことは、原子力発電の技術がいかに未熟なものであるかということ以上に、これだけ我々の日常生活の奥深くまで入り込んでいる原子力発電のことについて、我々はこれまでその基本的な原理さえ十分に知っていなかったということであった。


 「科学の時代」ともてはやされ、その時代に生きる我々は、自動車もなく電灯もなかった時代の人々を、〈科学〉を知らなかったというだけであわれみ、軽蔑しがちであるが、その我々にしてもただ〈科学技術〉の恩恵に浴しているだけで、〈科学〉に対して無知だという点では昔の人々とほとんど変わらないのである。太陽ではなくて、地球が太陽の周りをまわっているんだということも、我々は知識として教えられたからそうだと確信しているにすぎない。むしろ、そのような「科学的真理」に安住して、我々は天体の運行について「地動説」を知らなかった人々ほどの関心も、知識もないのではなかろうか。


 そして原子力発電についてさらに驚くべきことは、その事故の可能性ということよりも、そこから必然的に排出される「放射性廃棄物」の最終的な処理方法がいまだに開発されておらず、我々は今、いわゆる「トイレなきマンション」に暮らしているのも同然だということである。


 どうして、こんな信じられないようなことが平気で行われていたのかということだが、おそらくそこには、いずれ近いうちにきっと何らかの処理方法が開発されるはずだという、〈科学技術〉に対する盲目的といってもよい信仰があったにちがいない。さらにまた、それ以前に、これまでの他の廃棄物のように、自然の浄化力にまかせればよいという考えもあったのであろう。しかし厄介なことに、原子力発電から出る廃棄物はこれまでのものと違って、自然の浄化力の限界を超えたものである。


 その他、二酸化炭素による「温室効果」、フロンガスによる「オゾン層の破壊」など、自然といえども人間の仕業に対して無限に寛容ではないということを示す事実が次々と我々の前に突きつけられていて、いまや地球上の生物全体が〈科学技術〉の発達のツケを払わせられようとしているのである。


 かつて中国でも〈科学技術〉が盛んになった時期があり、十二世紀にすでにその鉄の生産量は産業革命初期のイギリスを大きく上回っていたという。その工業力を背景に明の鄭和による「南海遠征」がおこなわれ、その大艦隊はポルトガル人がインドにやってくる100年も前にアフリカの東海岸にまで達していた。ところがその後、明王朝は「鎖国体制」を強化し、大型船舶の製造を禁止して、その強大な海軍を大幅に縮小してしまったので、中国の〈科学技術〉は一挙に衰えてしまうことになった。その結果、中国は十九世紀になって〈科学技術〉を誇るヨーロッパの侵略に苦しむことになったので、この時の儒教的な「反動主義」による政策転換は歴史的な失政だったということになっている。


 しかし、産業革命以後に人類が排出した二酸化炭素がそれまでの総量をはるかに上回っていて、それまで一定であった地球の大気中の二酸化炭素濃度を今日までに25%も上昇させているという事実を知れば、当時の中国人の判断があながち間違っていたとは言い切れないのではないか。


 ただ、だからといって、〈科学技術〉に支えられた現在の文明をすぐに廃棄するというわけにはいかないのが〈歴史〉の難しいところである。過ぎ去った時間は決して戻ってこないように、〈歴史〉に逆行は不可能である。いったん手にした現在の「便利な生活」をそう簡単に手放すことはできないというのが我々の現実でもある。その現実を無視して、あえてそれを強行しようとすれば、〈観念〉の陥穽がそこに待ち受けていることだろう。「〈観念〉に支配されてはならない」という言葉さえも、下手をすればそれが〈観念〉となって我々を縛りはじめるというのが〈観念〉のおそろしいところだからである。


 「ソフトウエア」という言葉がある。もともとはコンピューターのプログラム技術などを指す言葉だが、広い意味では「ものを使いこなす技術」という意味となる。


 考えてみれば、産業革命以降の〈科学技術〉の発達の過程においては、つねに「ハードウエア(機器類)」の発達が先行し、人間はそれがなぜ必要かを考える暇もなく、それが供給する便利さに眩惑されたまま今日にまで至っているといえる。そしてその底には、それを批判する者は「反時代的」であるという強迫観念がひそんでいて、我々の自由な思考を妨げてきたようである。そういうことから考えると、500年前の中国人が〈科学技術〉の可能性をあえて切り捨てたということを、ひとつの「ソフトウエア」として再検討してみることも今日の我々にとって意義のあることになるかもしれない。


 〈科学技術〉だけでなく、政治でも経済でも「ソフトウエア」の発達が急務である。つまり、なぜそうなのか、なぜそうするのか、それがほんとうに必要なことなのか、ということを、つねに原点に立ち返って、ひとりひとりが自分の力で考えるということが大切になる。そうすることがおそらく〈観念〉の支配を克服するための唯一の手がかりとなるのではないだろうか。


 結局、我々がいま最も求められているのは、「人間の生きる道」という意味の〈倫理〉ということになるだろう。そしてその〈倫理〉の基礎となるのは、先人の哲学者も述べているように、人間の〈自由意志〉にほかならない。つまり、あれやこれやいろいろな規制があって「まちがったこと」ができないのではなくて、「正しいこと」も「まちがったこと」もどちらでも自由に選べるなかで「正しいこと」を選ぶのが〈倫理〉的に価値あることなのである。


 その意味で、いまや十九世紀以来とりつかれてきた各種の〈観念〉から解放されて我々が自由になろうとしていることは、我々が〈倫理〉を求めていくうえで非常に喜ばしいことだといえる。言い換えると、人間もこの二世紀間のさまざまな混乱と試行錯誤を経て、やっと〈観念〉の助けを借りなくてもやっていけるようになってきたということで、したがって、来るべき二十一世紀はいよいよ人間のほんとうの〈叡智〉が試される時代となるように思われる。   (完)



(自註)

 この文章は、二十世紀も終わりに近づいた1990年、ある新聞で、「二十世紀はどんな時代だったか」というようなテーマでの懸賞論文募集の公示があり、それに応募してみようと書きはじめたものである。

 書き進むにつれ、だんだんと募集の趣旨を逸れていくような気がし、期限にも間に合わなかったので、結局、応募はしなかったが、一応最後まで書き切った。

 冒頭にあるように、東ヨーロッパの「社会主義」国が次々に崩壊し、ベルリンの壁が取り払われて、東西ドイツが統一される直前という、まさに滅多にない「激動の時代」に巡り合わせて、筆も大いに奮い立ったのであろう。

 いわゆる「冷戦」が終結して、これからは平和な時代が来る、という明るい希望も芽生えていた当時であるが、その後20年の歴史はそれをまったく裏切るものであったことは、周知のとおりである。「社会主義」国の破綻により、それまでその存在によって無言のチェックを受けていた「資本主義」がその戒めを解かれて、かつてのように「奔放」な猛威を振るうということも想定外であった。

 ただ、この20年前に書かれた文章をそんな荒波を挟んだいま読み直してみて、まだ何とか読むに耐えるところがあるのではないかと、やや自画自賛気味ながらも自認できるのと、今後いつか、このつづきを書くことによって、「社会主義」崩壊後の20年について、自分なりにじっくり考えてみたいと思うので、今回敢えて復刻、発表することにした。    

(2012.2.2)


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