コラムの練習 《な》 



 8月生まれだから、夏には強いはずだ。そう自分に云い聴かせて、真夏の暑さを凌(しの)いできたことがあったが、近年、それが口実ではなく、現実になりつつあるのを感じている。

 たしかに、35℃を超えるような「猛暑」はこたえるが、その度合いが以前ほどではなくなった。これは齢(よわい)古稀を過ぎた「老化現象」のためだろうが、冬の寒さに耐えられなくなってきたのと軌を一にしているようだ。いつごろからか、冬の夜、ふとんに入っても、そのまま、からだが温まってくるということがなくなった。仕方がないから、「電気毛布」というものを使うことにしている。むかしはそんなものとは無縁だったのだが、最近は、それがなければ、寒くて、寝つくことができないのでやむを得ない。

 で、その分、夏の夜が凌ぎやすくなったかといえば、それほどでもなくて、朝方、ぐっしょりと汗をかいていることも多い。シーツはもとより、敷きぶとんまで湿ってしまうと面倒なので、「寝茣蓙(ねござ)」というものを使うようになった。ホームセンターで、1畳ほどの大きさの、「寝茣蓙」用の、肌触りのよい「茣蓙(ござ)」を買ってきて、敷きぶとんの下に敷くスポンジマットの上にじかに敷くのである。すると、畳の上に寝ているような、さらっとした肌触りで、しかも、下はスポンジだから、柔らかい。寝ているうちに汗をかいても、それを吸った「茣蓙」を物干し竿にかけておけば、天気がよい日なら、1時間ほどできれいに乾く。

 若い時、夏の日の午後、畳の上にあおむけに寝そべって、扇風機に当たりながら、推理小説を読むのが楽しみだった。しかし、この頃、マットの上の寝茣蓙で同じことをすると、数分もしないうちに眠ってしまうことが多い。やっと見つけた時間にそうした寛(くつろ)いだ読書を楽しんでいたかつてと比べ、今は、いつ何時(なんどき)でも、そうしたいと思えばすることができる、ありがたい境遇にありながら、いざそうなると、かえって何もできないものである。緊張感のない生活には、気力も、集中力も失われてしまっているからだろう。夏に強くなった、と思ったのも、ただの錯覚で、冬に弱くなったので、その分、夏が恋しくなったにすぎないのかもしれない。

 

 8月も末になるといつも感じる、「夏の終わり」のうら悲しさは、明らかに、「夏休みの終わり」という子ども時代の感覚の名残りであろうが、その後、学校に勤めることになった私は、その感覚をつい最近までずっと「現役」で所有してきたことになる。夏休みが、まるまる休みではなく、けっこう慌ただしいのは、生徒も教師も同じであるが、いつもの「ルーティーン・ワーク」から解放された日々は、一種「非日常」のきらめきがあって、はじめは無限とも思えた、その自由な時間があっけなく終わって、再び、退屈な「日常」に戻らねばならないのは、あのシンデレラのメルヘンの終わりのように悲しいものであった。 小学校の高学年の頃だっただろうか、校庭の樹木に水をやる当番というような役割があって、そのとき登校したのが、もう数日後には新学期が始まるという日の、夕方前の頃であった。

 まだ、強い陽射しは残っていたが、樹木や木造校舎の影が意外に長く伸び、それが夏の終わりをあらわしていて、その影の中に入ると、身が引き締まるような涼しい風が吹いていた。水道水ではなく、校庭の片隅にあるプールの水をバケツで汲み上げて、それを如雨露(じょうろ)に移し、校舎に沿って設(しつら)えられた花壇の樹木や草花に水をやることになっていたのだが、それらはけっこう広い面積にわたっていて、10人あまりの児童たちにはかなりの重労働だった。その仕事が全部終わって、最後に、各人が、バケツの水を、だれもいない運動場に思いっきりぶちまける、というのがささやかな楽しみだった。

 その夏には、すでに1回、この当番に当たっていた。そのときはまだ暑くて、その水をいたずらで、みんなでかけ合ったり、中には、水を汲み上げる時に、わざとプールに落ち込んだりする者もいて、監督の先生にこっぴどく叱られたりしたものだが、今は、もうそんなことをする気も起こらないぐらい、空気は冷たく、夏は遠ざかりつつあった。それはまた、いつまでも続いて欲しかったメルヘンの時間の終わりを示していて、私たちはただ、黙々と水撒きの作業をするだけだった。


 私の親がそういうタイプではなかったのか、夏休みに家族で海や山に行く、ということはなかった。そういう家庭は他にも多かったようで、そんな家の子どもたちのためだろうか、夏休みのある日、「地域遠足」というのが、学校ではなく、地域の人々によって企画されていた。

 近場のハイキング場まで電車で行き、みんなでお弁当を食べて、林の中を歩いたり、谷川で水遊びをしたりするもので、母親に勧められ、近所の、幼友だちの上級生にも誘われたが、私はなぜか行かなかった。学年やクラスのちがう者たちといっしょに行くことに不安を感じていたのかもしれなかったが、なんか、この暑いさなかにわざわざそんなところまで繰り出していくのが面倒に思えて、そんなことをするぐらいなら、家で本でも読んでいた方がよい、と思うような、要するに、典型的な「インドア・タイプ」だったのだろう。ただ、誘ってくれた上級生には、ちょうどこの日、親戚の家に行く予定がある、と嘘をついて断っていた。だから、当日の朝、家の前を、ぞろぞろと歩いていく彼ら数十人の行列を窓の隙間から覗き見したあとは、一歩も家を出なかった。

 ゴロゴロ寝転がって、漫画本などを読んでいる私に、そんなことしてるのなら、行けばよかったのに、と云う母の嫌みが鬱陶(うっとお)しくて、すこし頭が痛い、と仮病を使ってしまった。なら、寝なくっちゃ、と、当てつけみたいに敷かれたふとんに横になっているうちに、いつの間にか眠ってしまった。眠っている間、次々といろんな夢を見た。昼ごはん、どうするの? という母の声が、夢なのか、現(うつつ)なのか、確かめるのも面倒で、そのまま、無理やり、眠りの深みの中に潜り込んでいった。

 かなりの時間が経ったであろうか、遠くから、ザワザワと子どもたちがしゃべりあう声が聴こえてきた。ある種の高揚感と疲労感が混じったようなその行列が近づいてきて、何やらしゃべっていることばが断片的に耳に入ってきて、やがて、遠ざかっていった。その時私が見ていた夢はすぐに忘れてしまったが、その行列は、確かに、その夢の中の一場面だった。と、思った途端に目が覚めて、それが「地域遠足」の行列だと、すぐにわかった。その時、ほっと、何かから解放された気がするとともに、その、長閑(のどか)なざわめきは、私のこころの片隅に残っていた「改悟の念」をちくちくと刺激した。その、安堵と痛みがない交ぜとなった感傷は、その後、私の記憶の中にながく残り続けた。


 こうして、振り返ってみると、夏休みの印象的な思い出はなぜか、小学校時代に限られている。中学に入ってからは、クラブ活動やら、受験勉強やらで、それまでみたいに、安閑とした時間を過ごせなくなってしまったからであろう。

 私はべつにハードな運動部に入っていたわけではなかったが、それでも所属する「工業クラブ」という、学校の特別教室に設置された工具や木工機械を使って、ちょっとした家具を試作するクラブでも、夏休みのほとんどの日々の登校を強いられた。そんな中、田舎に行くために1週間ほど休んだことがあったが、その後、しばらくの間、先輩や顧問の先生の冷たい視線を浴びるという、つらい思いをしなければならなかった。

 「小人閑居して不善をなす」という人間観が底にあって、生徒たちに暇な時間を与えるとロクなことはない、とでも思っているのだろうか。確かに、それは、私自身、思い当たるところもあるが、だからといって、ロクでもないことをさせないために、自由な時間を奪ってしまう、というのは、いかがなものだろうか。

 むかし、大学の一般教養で習って、今でも頭に残っている数少ない事柄のひとつに、「道徳の自由意志」というのがあった。たしか、カントのことばだったと思うが、道徳の根底には「自由意志」があって、自分が、自分の意志で選んだ行動のみが道徳的に評価される、というのである。つまり、「善」も「不善」もどちらもなすことができる中で、あえて「善」を選ぶことに価値があるのである。

 思春期の不安定な時期に、スポーツ活動か何かを与えて、それで空いた時間を埋めつくしておけば、一時的な「治安対策」にはなるかもしれないが、その個人の「道徳意識」を高めることにはならない。したくても、する間がなかったから「不善」をなさなかったにすぎないからである。


 9月に学校が始まると、しばらくは「短縮授業」という、特別な時間割りになり、大抵は、午前中だけの授業となった。暑い中で、長々と授業をしても効果はない、という「暑さ対策」のためだったのだろう。だから、9月に入って10日か、2週間して、十分涼しくなったころには終わって、普通の時間割りに戻った。その間に、夏休みに狎(な)れた「からだとこころ」も、通常の「勉強モード」に戻っており、「短縮授業」が手頃なウォーミングアップ期間となっていたのもたしかである。

 私が教師として勤めていた学校では、「午前中授業」ではなく、そのままの時間割りで、授業時間を10分短縮するという方法をとっていた。1日で1時間程度の短縮でしかないが、それでも楽だった。ただでさえ暑い時に、40人以上の育ち盛りの生徒たちが入った教室はさらにむせ返り、窓から風も入ってこない時には、汗がだらだらと流れて、手にした教科書がすっかり濡れてしまうこともあった。やむなく、首にタオルを巻き、扇子をバタバタさせて、大声を振り絞ることになったが、その姿は、生徒たちの描く似顔絵漫画の恰好の標的となった。

 私の勤めていた学校は「中学高校6年一貫」の男子校で、かつて「質実剛健」を売り物にしていた名残りからか、教室には冬でもストーブが入っていなかった。南向きの窓から入ってくる陽光が唯一の暖房源だったが、そんな学校に、ある時、校舎改築をきっかけに冷暖房共用の空調設備が入ることになった。

 それは多くの家庭で冷房機の設置が当たり前になってから大分経ってのことであったが、それまで、職場のうだるような暑さに悩まされていた身にはありがたかった。ただ、学校の冷房化は一挙に実現したわけではない。最初に入ったのは、職員室だった。

 生徒が暑い教室でがまんしている時に、教師だけが涼しい思いをするのは、内心うしろめたいところもあった。だから、休み時間に、何の用事もないのに、明らかに、涼みに来るのが目的の生徒たちが職員室に入ってくるのを、邪険に追い出すのは、気が引けた。

 やがて、最上学年の教室に冷房が導入された。黒板の横の隅っこに置かれた大きな空調機には金網の柵が設けてあった。生徒が勝手にいじらないように、とのことのようで、スイッチなどの操作盤のところには小窓があって、南京錠がつけられており、カギを持った用務員さんがやってきて、スイッチを入れることになっていた。

 冷房が導入されたのはいいが、それをいつ運転させるかが、問題となった。暑くなればスイッチを入れればいい、とは、簡単には行かず、電気代を考えて、無駄のないようにということか、使用は、7月1日以降、と、お役所みたいな杓子定規なルールが校長によって一方的に決められた。

 しかし、自然はそんなに几帳面なものではない。7月を過ぎても涼しい日もあれば、それまででも、暑くてたまらない日もある。とくに、梅雨時の高温多湿の日は、こんな時こそ冷房の出番だと思うのに、柵の中の空調機は止まったままである。そしてついに、生徒たちと学校との「攻防戦」が始まった。

 器用な生徒がいて、金網の隙間から、細いボールペンを差し込んで、操作盤の蓋をこじ開け、中のスイッチを入れることに成功したのだ。最初は、教師に知られないように、休み時間だけに限られていた。しかし、チャイムが鳴って教室に行くと、かすかに冷気が残っていて、どうしてだ? と尋ねても、だれも応えない。薄々事情は察知できたが、自分たちは職員室で快適に過ごしている手前、それ以上の追及もはばかられ、そのうちに、授業が始まっても冷房が入ったまま、というようになった。教師たちも、気付かぬ振りをして黙認した。涼しい中で授業したいのは、教師も同じだったからだ。

 そんな珍騒動を繰り返しながら、何年もかかって、すべての教室に冷房が行き渡ることになった。初期の空調機は入れ替えられ、天井に吹き出し口がある方式になり、その操作は学校の事務室の中央制御盤で一括して行われることになった。あの杓子定規な校長は代替わりで去り、後任校長は、暑くなったらいつでも冷房を入れる、という、ごく当たり前の方針を出して、余計な対立はなくなった。

 さて、こうして、校舎全体が、夏でも涼しく快適になると、「短縮授業」はもはや不必要ということで廃止された。暑さしのぎというだけでなく、「夏休み」から「学校生活」への切り替えのウォームアップ期間としての意味もあったはずだが、そんな思いは一顧だにされなかった。そのうち、夏休み自体の不要論も出てくるかもしれない。涼しい教室があれば、8月だって十分に授業ができるではないか、と。

 1年のうちには、学校とは無縁な期間も必要なのだ、そういう「中休み」があってこそ、その後の「飛躍」が生まれるのだ、という視点は、そこではまったく無視されてしまう。何も強制されず、したいことが自由にできる時間、といっても、実際は、その裏に、しなければならないことをいっぱい抱えていて、それを放ったらかしにした「後ろめたさ」に脅かされながらの「自由時間」なのだが、そんな日々を空しく過ごしてしまった、という苦い「後悔」と「反省」の中からこそ、沸々(ふつふつ)と秋の充実した時間が生まれるのではないか、と、私は、自分自身をかえりみて、そう思うのだが.....


 ところで、私の子ども時代には、冷房はおろか、家には、扇風機もなかった。何しろ、電気の契約が「定額制」というもので、今のように、メーターで使った電気量を計って、その分のお金を支払うという「従量制」ではなかったからだ。

 定まった範囲内なら、一定の電気料金で「使い放題」というもので、具体的にいうと、わが家では、100ワットがその定量になっていて、60ワットと40ワットの電球に分けて、6畳と4畳半の座敷を照らしていた。使い放題なので、その2つの部屋は昼日中も電灯はつけっ放しだったが、その他の玄関の間や炊事場、便所は夜も明かりがなかった。もちろん、そういう家庭では「電化製品」など全く無縁のものであったが、その家に引っ越す前に住んでいた家でもそうだったので、大阪市内の「借家」では、当時、一般的なことだったのだろう。

 子どもである私は気にならなかったが、その頃、大人たちはどうやって暑さを凌いでいたのだろうか。せいぜい「団扇(うちわ)」を使うことぐらいしかなかったのだろうが、外に縁台を出して、夕涼みをしたり、水で絞ったタオルでからだを拭いたりして、涼をとっていたのだろう。そのころの風物詩で「蚊帳(かや)」というものがあったが、実際に吊ってみると暑苦しくて、ほとんど使用されなかった。子どもごころには、あの薄ぼんやりとした空間がなんとも魅力的だったのだが。

 道路は「国道」以外はほとんど舗装されていなかった。おかげで「アスファルトの照り返し」はなかったが、砂ぼこりがひどかった。それを抑えるために、大きなタンクに水を積んだトラックが走りながら水を撒くという「散水車」というのが、時々走っていた。それが通ったあとは、「打ち水」効果で、こころなしか、涼しい風が吹いていたような気がする。しかし、舗装していない道は、雨が降るとぬかるんだ泥道になり、長靴が欠かせなかった。だから、のちに家の前の道が、最初はコールタールの上にバラスを敷いただけの「簡易舗装」であったが、とにかく、舗装されることになって、とてもうれしかったのを憶えている。

 世の中が豊かになって、雲の上の存在だった電化製品が少しずつ身近なものになってきたころ、やっと「定額制」から解放されて、わが家でも自由にそれらが使えるようになった。当時、電化製品の「三種の神器」と呼ばれていたのが、テレビ(白黒)・電気洗濯機・電気冷蔵庫であったが、そこに到達するまでに、電気スタンド、電気アイロン、トースターといった「小物」電化製品が購入されていたように思う。扇風機がいつだったかは憶えていない。冷房となると、ずっとのちの、カー(自動車)・クーラー・カラーテレビの「3C」が「新・三種の神器」と呼ばれるようになった時代で、わが家で実現したのは、結婚後の1980年代であった。

 当初、デパートや喫茶店、特急電車の車両などに、「客寄せ」目的で設置されるほど、物珍しくて、貴重なものだった冷房も、その頃には各家庭に普及し、必需品になりつつあった。ただ、とても暑い日には効かなかったり、時には効きすぎて寒かったり、と、まだまだ扱いにくい製品でもあった。さらに、「熱交換器」を通して、屋内の暑い空気を外に出す仕組みなので、冷房機を設置する家庭が増えれば増えるほど、それだけ熱気が屋外に排出されることになり、それが、アスファルト舗装の「照り返し」とともに、いわゆる都市部の「ヒートアイランド」現象の原因となってしまった。そうなると、その暑さを免れるために、よりいっそう冷房を導入せざるを得なくなり、それがさらに都市部の気温を上げる、という悪循環に陥ってしまっている。

 冷房の部屋に入ると、汗が引き、思わずホッとするが、しばらくすると、今度は寒くなってくる。夏の薄着では耐えられず、冷房用のカーディガンなどを用意しなければならない時もある。少なくとも、そこは「夏」ではなくなっているのだ。それが、団扇や扇風機とは決定的に違うところであろう。代表的な夏の味覚の「かき氷」は、冷房の入った店ではとても食べられない。


 「夏」を描いた映画というと、古い作品だが、黒澤明の『野良犬』があげられる。

 7月のおそろしく暑い日、射撃練習場の帰りの、うだるような満員のバスの中で、徹夜明けの新米刑事・三船敏郎がピストルを掏摸(すり)とられる。すぐに気がついて、追いかけるが、かんかん照りの道路を走っても走っても、追いつかず、ついには足がもつれて転んでしまい、取り逃がしてしまう。舗装されていない道にはもうもうと土煙が立っていた。

 手がかりを求めて、復員兵に扮した三船は、人々でごった返す「闇市」を歩き回るが、どこもむせ返るような暑さ、そんな中、人々はいたるところに群れ集い、精力的に動きまわっている。時は戦後まもない1949年。7月から9月にかけて、実際の闇市などをロケして撮影されたそうだが、当時、もちろん冷房なんてどこにもない。せいぜい、鋼鉄製の扇風機が廻っている程度で、人々は、団扇や扇子であおいだり、西瓜やアイスキャンデーを齧ったりして、暑さをしのぎ、何とか、ひと雨来るのを心待ちにしている。

 とくに、トタン屋根の交番の、夜になっても気温が下がらない取り調べ室や、満員のレビュー小屋で汗みどろになって、ラインダンスをしている踊り子たち、そして、それが終わって楽屋に戻るや、みんなバッタリ横になって、ハアハアと熱い息を吐いている姿、など、みんな大変だなあ、と思うが、実は、私自身の子ども時代は、どこもかしこも、こんな有り様だったのだ。

 でも、こんなにも暑いからこそ、時折、吹いてくる「涼風」は心地よい。ベテラン刑事の志村喬に、この建物で一番涼しいところは? と問われて、いっしょに上がった、拘置所の屋上を吹き抜ける風や、電車の窓からじかに顔に当たる風はいかにも涼しげだし、きわめつけは、三船が夕暮れに、町はずれにある志村喬の自宅に誘われるくだりである。畦道(あぜみち)を抜けていくと、広々とした原っぱを背景に裏木戸があって、開けっ放しの縁側がある。そこに面した部屋で、ふたりが外を眺めながら「配給」のビールを飲む場面は、むかし、どこかで見たような、たまらなく懐かしい風景であった。

 そして、クライマックスの、土砂降りの雨と、雨上がりの草むらでの、泥だらけの格闘。それまでが、汗だらだらに暑かっただけに、志村や三船や、犯人の木村功のずぶぬれの姿が却って涼しく、爽やかに見えた。

 この映画は、見るたびにいつも、幼い頃を思い出させる、何ともいえぬ郷愁を呼び起こしてくれるのだが、それは、「夏」が舞台だからではなかろうか、と近ごろ思うようになった。もし、冬だと、こんなにも、直接的な「季節感」は感じなかったであろう。出演者みんなが、たらたら汗を流しながら、動き、しゃべる画面には、俳優である以前のナマの人間の姿がそのまま映っているように見える。冬ならば、コートを着たり、手袋をはめたりして、それらと素肌のはざまに「演技」の工夫をこめることもできようが、夏の暑さを前にしては、そのまま、自分のほんとうの素肌をさらけだすしかなく、それが「ドキュメンタリー」な効果を生んで、実際にあった「過去」そのものの映像に見えてしまうからであろうか。そんなふうに、人間を開けっ広げにさせずにはおかないところも、夏のおおきな魅力だと云えよう。


 さて、このように、暑くなければ夏ではない、などと勇ましいことを云ってられるのも、考えてみれば、いまの私が、仕事から引退して、働かなくてもよい存在になったからであろう。もし、まだ働いていたならば、職場に冷房がなければ耐えられないだろうし、汗だくだくで駆け込んだ電車の中が涼しくなければたちまち不機嫌になるだろう。働く人間にとっては、夏の風物詩などどうでもよくて、ただ、できるだけ仕事がしやすい環境のみが必要なのだ。

 そういった世界から解放されたいまは、子どものころ夢見た、何も強制されず、したいことが自由にできる(そして、したくなければ、何もしなくてもよい)理想の「夏休み」をやっと手に入れることができた、といえるのかもしれない。しかも、1年中、「毎日が夏休み」という状態で。これは、長年働いてきた、あるいは、長年生きてきた「ご褒美」として、人生の最後に与えられたものであろう。いつまで享受できるかわからないが、ありがたく拝受したいと思う。

(完)



【自註】

 前作の『人口問題』の次に、と考えていた「腹案」があって、それをボツボツと書き綴っていたのだが、半ばを過ぎたあたりから、筆が鈍ってきて、行き詰まってしまった。そんなとき、ふと、思い立ったのが、今回の『夏』である。季節に合わせて、文字通り、筆に随(したが)った「随筆」だが、書いているうちに、それなりに、かたちになってきたように思う。独自の「切り口」は何もないが、これまで、こころの奥であたためていた「記憶」を、もういちど洗い出すことができて、自分としてはすっきりとし、止まっていた「腹案」に再度取りかかる気力が湧いてきた気がする。 (2016.10.5)



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