コラムの練習 《め》 眼鏡(めがね)



 いつごろから目が悪くなったのか、まったく記憶がない。

 あるとき、母親が学校に呼び出され、担任の先生から「大変なことになっている」と云われ、慌てて、紹介された梅田の阪急百貨店の眼鏡売り場に連れて行かれた。

 それまで、両親と祖父母、姉の、家族6人で、眼鏡をかけているものは誰もいなかったので、家中、ちょっとしたパニックになったようだ。その時、私はまだ小学2年生。その頃のわが家の家計からみて、相当の出費となった「私の眼鏡」を見て、みんな、その原因を訝(いぶか)った。

 まずは「遺伝」。しかし、家族の中に誰も近視の者はいなかったし、両親の祖先をたどっていっても、心当たりの人物は見当たらなかった。

 とすると、原因は私しかない。勉強のしすぎ、という手頃な理由が当てはまる年齢ではまだないので、きっと、暗いところで漫画ばっかり読んでいたからだ、ということになった。たしかに、家の中の照明は不十分なものだったし、漫画は大好きで、よく読んでいた。また、その頃の「読み物」には、かならず、漢字にルビが振ってあったので、平仮名さえ覚えていれば、かなりの本が読めたし、当然、ルビの文字は小さかった。そんな小さな文字ばかり読んでいたので、目が悪くなったのだ、ということだろう。

 でも、本が好きだといえば、父も、姉もそうで、暇があれば、いつも本を読んでいた。照明は同じように明るくなかったのに、父も姉も、その後、老眼になるまで、いっさい眼鏡とは無縁だった。なのに私だけ、どうして? しかも、こんな早くから。


 私が生まれたのは昭和20年、終戦の年で、その幼年期は、極端な食料難の時代に当たる。だから、たぶん、なんらかの栄養不足のために、こんなに簡単に近視になってしまったのだろう。私は、のちに、そういう理屈をこしらえて、自分を納得させていた。

 しかし、この論理には大きな不合理があった。終戦後の食料難が原因だとすれば、同年代には、他にもたくさん近視の子どもがいるはずだが、このとき、眼鏡を持っていたのは、クラスでは私ひとりだけだった。5クラスあった、学年全体を見渡しても、眼鏡をかけた同級生は見当たらなかった。

 はじめて作ってもらった眼鏡は、透明のプラスチックのフレームに、まん丸なレンズが付いた、あまりカッコよくないものだった。だから、私は、授業中に黒板を見るときなど、限られた時にしか掛けなかった。でも、たしかに、その効力はすごいもので、それまでぼんやりしていた黒板の文字がよく見えた。

 今でも憶えているのは、定期的に講堂で行われていた「映画会」で、眼鏡をかけると、スクリーンに映った、ミッキーマウスのアニメーションが実にくっきりと鮮やかに動いているのに驚いたことだった。「映画」というのが、こんなにきれいなものかと、はじめて思ったときだった。

 そんな風にして、半年ほど経つと、眼鏡を掛けても、そんなによく見えなくなってきた。そこで、また、母親に連れられて、阪急百貨店の眼鏡売り場に行くと、検査士の人に、「度が進んでいる」と云われた。なんでも、前回の倍ほど悪くなっているとのことだった。

 どんな使い方をしていたのか、と問われて、掛けたり、はずしたりしていました、と答えると、どうして、ずっと掛けていなかったのだ、目が見えなくなってしまうぞ、と、ひどく叱られた。帰り道、レンズの交換のため予定外の出費を強いられたと、母親からこぼされ、もうこれからは、ずっと掛けていよう、と決意せざるをえなかった。こうして、私の「眼鏡を掛けた人生」が始まった。


 クラスでひとり、学年でもおそらくひとりしかいなかった「眼鏡の子」はさすがに目立った。自分の目以外に、レンズの目が二つ、合計四つの目があるということで「よつ目、よつ目」とからかわれたり、掛けてる眼鏡をはぎ取られるという狼藉(ろうぜき)を受けたり、もう、よくは憶えていないが、いろんな迫害を受けたようである。

 ただ、それらは単なる物珍しさから来た、そんなに悪意のないものだったようで、そのうちに収まっていった。嫌なことをする同級生もいれば、仲良くしてくれる同級生もいて、だんだんそんな友だち関係が深まっていくにつれて、嫌なことも減っていったのであろう。

 しかし、子どもだから、喧嘩とまではいかなくても、取っ組み合いをすることもある。そんなとき、眼鏡が邪魔になった。相手の手が顔に当たって、眼鏡が跳んだりすると、そこで、取っ組み合いは中断、慌てて、眼鏡を拾いに行くことになる。ときには、相手から、眼鏡を「弱点」とみなされて、意識的にそれを狙われると、どうしようもない。そんなとき、普通以上に怒り狂うことによって、相手の度肝を抜き、なんとか切り抜けたこともあった。ただ、眼鏡のフレームが折れたり、レンズにひびが入ったりして、母親を嘆かせたことは何度もあった。

 そんなことで、いつのまにか、相手と身体的接触をする場面を避けるようになっていったのは否めない。同級生たちがワイワイと「ほたえ」あっているとき、そんな、少年期の男の子特有の世界から切り離され、すこし離れたところで傍観している自分がいた。


 いやだったのは、毎年、学年はじめの春に行われる身体測定での、「視力検査」であった。

 みんな難なく読んでいく検査表の文字や記号が私をおびえさせた。眼鏡をはずすと、いちばん大きな文字さえ、ぼんやりとしていた。担当の教師が棒で指すたびに、「見えません」と繰り返し、冷や汗が流れた。なかには、「なんでこんなものが読めないのか」と、非難めいた態度を露骨に示す、無神経な教師もいた。「見えないから、眼鏡をかけてるんじゃないか。そんなこともわからないのか」と、いまなら、毒づくこともできるが、当時はもちろん、そんな度胸もなかった。

 いちばん上の大きな文字が見えないときは、それが見えるところまで、検査表に近づかなければならなかった。それは、屈辱以外の何ものでもなかったので、それを避けるために、眼鏡をかけているときに、その文字だけは憶えたものである。


 中学や高校になると、体育の時間にサッカーやラグビーが入ってきたが、そんなときは、眼鏡をはずさなければならなかった。すると、ボールやまわりの様子がよく見えないので、細かいプレーが解らず、ただ無闇に走り回っているばかりであまりおもしろくなかった。

 ラグビーのときは、フォワードの一員として、スクラムを押すだけだったので、まだマシだった。ボールと関係なく、力任せに押したり、相手にタックルしたりすること自体は、エネルギーを発散させる爽快さがあって、けっこう好きだったのだが、目がよく見えないと、タックルする対象が分からなかったりして、思うようには動けない。結局、この手のスポーツとは縁遠くなってしまった。

 水泳でも眼鏡をはずさねばならなかった。すると、ただコースを黙々と泳いでいくだけで、ただでさえ禁欲的なスポーツなのに、よりいっそう孤独を感じた。

 海に行ったときなど、眼鏡をはずすと、自分ひとりの世界になってしまい、海の楽しさを味わうことができなかった。眼鏡を掛けて、みんなといっしょの世界に入れば、今度は存分に泳ぐことができない。

 そんなジレンマから脱することができたのは、ずいぶん大人になってから、「度つきレンズ」のゴーグルを手に入れたときであった。

 それをつけて、海に潜り、海底の砂地を歩む蟹や、そのそばを泳ぐ、小さな魚たちを眺めたとき、また、遠浅の浜のかなり沖まで、子どもから借りた浮き輪に身をまかせて、ぷかりぷかりしながら陸の方を眺めた景色。パラソルが林立し、水着姿が蠢(うごめ)く、遠い遠い海岸風景。そして、そのずっとずっと向こうにある、遥かなる山と紺碧(こんぺき)の空。ああ、夏の海とは、こんなにも美しいものだったのか、と、思わず、時間を忘れて見とれてしまったが、残念ながら、その後、海に来る機会はあまり持てなかった。


 小学校の学年が進むにつれて、クラスでもすこしずつ「眼鏡の子」が現れはじめ、その分、私の孤立感は薄らいでいったのだが、私を怯えさせることがまた現れた。それは近視の「度が進む」ということだった。

 すでに、最初の半年、中途半端な使い方をしていたために、一挙に度が進んでしまったのだが、その後、ずっと眼鏡を常用するようになってからも、着実に目は悪くなり続けていった。小さい字はあまり読まないように、と云われても、ちょうど、「勉強」に励まねばならない年齢に差しかかっていたし、それに、何よりも、自然に強まる「好奇心」がいろいろな本を求めさせた。

 ならば、ときおり目を休めるべきだと、外に出て、遠くの景色を眺めたり、夜の星に目を凝らしたりもしたが、そんな努力をあざ笑うように、年に1回程度、レンズの交換を強いられた。そうなると、百貨店の高いレンズは手に負えなくなり、地元の眼鏡店で、できるだけ安いレンズを、いうことになる。

 その後、交換のペースはすこしずつ伸びて、たしか、大学を卒業する頃にやっと止まったのだが、その頃、眼鏡屋さんから、フレーム大に削りだす前のレンズの「原板」を見せられた。中心部が薄くなった「凸レンズ」の縁の部分の厚さが1センチ近くにまでなっていて、思わずぞっとしたのを憶えている。

 その厚い部分はうまくカットされて、フレームに収まるときには、そんなに目立たなくなっていたが、それでも、その重さは相当なもので、いつも、鼻のところがその重量に圧迫されていた。

 それから大分経って、50歳近くになった頃だろうか、眼鏡はからだの一部なのだから、いいものを使わなければならない、とだれかに云われて、その頃定評のあった、大阪心斎橋のそごう百貨店の眼鏡売り場に行った。そこで、実際にはあまり使用しない周縁部の度を少し弱くしたレンズを使えば、いくらか軽くなりますよ、と、やや品のある売り場主任に勧められた眼鏡を使うようになって、その苦痛はいくぶんか和らげられた。

 その頃、すでに「プラスチック・レンズ」はあったと思うが、それにしようとも思わなかったのは、まだその性能に信頼が置けなかったのか、あるいは、おどろくほど高価だったのか、よくは憶えていない。

 やっと、プラスチック・レンズにしたのは、それから10数年後、現在の「遠近両用」の眼鏡にした時だった。かつて噂された、曇りやすい、傷つきやすい、といったこともなく、快適に、その「軽さ」を満喫している。


 少し先走ってしまったので、話を戻そう。

 私が、最初、小学2年生のときに掛けはじめた眼鏡のレンズは「円形」のものだった。なぜ、そのかたちになったのか、他にも選択肢があったのか、まったく分からないが、とにかく、その眼鏡をかけると、顔つきがいっぺんに「滑稽」になってしまうのが嫌(いや)だった。当時、横山エンタツや、古川ロッパなどの喜劇人が、円縁の眼鏡をかけていたからだろうか。

 その後、レンズのかたちは、よくある「逆台形」形になり、フレームも透明色から茶色と透明の「ツートンカラー」のものにかわって、滑稽度は激減したが、度の強い眼鏡をかけると、外目には、眼球がかなり小さく見えたりして、結局、眼鏡は、私の「容貌に関する野心」を早い時期から打ち砕くことになった。

 円い眼鏡についての「偏見」が解けたのは、1966年頃、ビートルズのジョン・レノンが円いメタルフレームの眼鏡をかけて、公衆の面前に現れたときであった。

 それは、それまでの「アイドル」から脱皮したい、という彼の意図をみごとにかなえた、大きな「イメージチェンジ」で、ファンには賛否両論があったようだが、私は、どんな姿をしようとも、ジョン・レノンなら、常に「かっこいい」と思っていたので、今更、その真似をしようとも思わなかったが、丸眼鏡が、前向きのひとつの選択肢として、市民権を得られたような気がして、うれしかった。


 私にとって、眼鏡は視力矯正の器具でしかなかったので、それが「おしゃれ」の道具にもなるとは考えたこともなかった。定期的に度が進んで、そのたびに買い替えなければならない、その安くない費用を親から出してもらっていた身には当然のことだったろう。だから、職に就いて、自分でお金を稼ぐようになって、ようやく、眼鏡にも凝ってみようかな、と思うようになった。

 といって、とくに奇抜なものにしたわけでもない。また、いくつかの眼鏡を持って、それらを適宜使い分ける、というのは、常時使用している者にとって、眼鏡ごとに見え方が僅かでも異なるのは具合が悪かったので、できなかった。

 私がいちばんにやってみたかったのは、メタルのフレームにすることだった。それまで、長年使ってきた、プラスチックのフレームは、掛け具合を調整する時、火であぶって慎重に曲げねばならず、また、何かが当たって、眼鏡が飛んだ時、ポキンと折れることもよくあった。メタルであれば、手で簡単に曲げられるし、弾力性もあるので、折れることも少ない。また、プラスチック製よりも軽いという利点もあった。

 ただ、メタルにもいろいろ種類があり、最初に使ったフレームは、サングラスに使ったりする安物だったせいか、汗をかくと、金属イオンが溶けてくるのか、そのアレルギーで、顔のその部分が爛(ただ)れるというのに悩まされた。

 その後、買い替えたのは、「テンプル」と呼ばれる横の部分全体をプラスチックでコーティングしたもので、金属アレルギーは防げたが、年月が経つと、こめかみにいつも当たっている部分のコーティングがだんだん剝げてきて、やはり、それなりのアレルギー反応が出てきた。そこでやむなく、少し恰好は悪いが、目立たぬ「肌色絆創膏」を貼って凌いでいたこともあった。

 現在の眼鏡は、チタン製のフレームで、全くこめかみに当たることがないように調整されているので、やっと長年の悩みから開放されている。


 メタルフレーム以外にやってみたいことがあった。それは「サングラス」である。

 「黒眼鏡」といえば、むかしは、目が悪い人か、あるいは、顔をあまり知られたくない「悪人」専用のものと思われていたが、いつしか、海や山でのレジャーには必須のアイテムとなり、やがて、平素の室内でも「おしゃれ」で掛ける人も出てきた。野坂昭如・野末陳平が、「黒メガネ・コンビ」として、テレビのバラエティー番組に登場し、やがて、タモリや井上陽水など、サングラスをある種、売り物にするタレントや歌手も増えてきた。

 そんなふうに、間口が広くなったこともあって、是非いちど、掛けてみたいと思うようになったのだが、普通売っているサングラスは度が入っていないものばかりで、近視でない人が掛けるものであった。

 近視用には、「度つきサングラス」という、矯正用のレンズに色が着いたものが売られていたが、特殊なためか高価で、また、種類も少なく、一般用のサングラスにあるような「かっこいい」ものはあまりなかった。苦肉の策として、プラスチック製の色の着いたガラスを矯正用眼鏡の上に被せるように引っかける、というのもあったが、何かの必要に迫られての装着ならともかく、「おしゃれ」用には程遠いものだった。

 サングラスが身近なものになってきたのは、光によって色が変わる「調光レンズ」が現れてからである。当時、たしか「フォトグレイ」という商品名で、いつもは透明のレンズが、太陽の光にしばらく当たると薄い灰色に変わるというものがあって、眼鏡屋さんにおもしろいものがありますよ、と勧められた時、迷わず、購入した。

 屋内では普通の眼鏡で、外に出た時のみ、サングラスに、それも、真っ黒ではなくて、その奥にある眼球も十分に透けて見える程度の色だったので、まわりに与える違和感も少なかった。それを、出回りはじめた、メタル・フレームに収め、やっと念願かなえりとばかり、意気揚々と掛けはじめたのである。

 しかし、このサングラスは私の意気込みにもかかわらず、まわりには不評だったようである。「かっこいい」というのは私の一方的な思い込みに過ぎず、年を経るとともに調光機能が衰えて、室内でも透明に戻らず、常に薄いグレイのままなのは、単に「不気味」な印象を相手に与えるだけで、結局、結婚してまもなく、もとの、透明の眼鏡に戻さざるをえなかった。


 幼い頃から、長い間、眼鏡を使っていたにもかかわらず、その扱いはかなりぞんざいだったようである。

 眠る時はもちろん眼鏡をはずすのだが、はずした眼鏡は、枕元の、足で踏まれたりしないような場所に、折り畳んで置いていた。問題はその向きで、レンズの表面を下にしていたのである。

 それはいけない、と誰かから指摘されたのは、大学に入った頃だっただろうか。レンズを直(じか)に何かに触れさせたまま置いておくと、それがどんなに柔らかいものであれ、レンズに瑕(きず)をつけてしまう、というのである。

 よく見てみると、なるほど、レンズの上に細かい瑕が無数についていた。とても微(かす)かなものなので、見えにくくなるというほどではなかったが、やはり気になるので、「どうすれば?」とその人に訊くと、「逆にして、レンズのおもてを上に向けて置けばよい。ただ、上に向けていて、埃が溜まったり、何かものが落ちてきたりするのが、心配なら、眼鏡を畳まずに、レンズが垂直になるように、横置きにすればいい」と教えられて、以後、そのとおりにしている。おかげで、無用の瑕がつくことはなくなった。


 公衆浴場に入るときはいつも眼鏡をはずしていたが、大人になってからは、少し図々しくなって、眼鏡をかけたまま入るようになった。すると、それまでぼんやりとしか見えていなかった浴場の中の様子がよく見えて、新しい世界を発見したように思えた。そのとき、からだを洗ったついでに、眼鏡をはずして、石鹸を泡立てて、指でゴシゴシあらうと、すっかりきれいになって、いちだんと明瞭に見えるような気がした。

 そんなあるとき、眼鏡屋さんで新しいフレームを新調しようとしたところ、「レンズが少し曇っていますね」と云われた。たしかに、かすかに霞(かすみ)がかったようになっている。

 「いつも、風呂場で、きれいに洗ってるんですがね」「へぇー。もしかして、石鹸で?」「もちろんです」

 眼鏡屋さんは溜め息をついた。

 「それがダメなんです。アルカリはレンズやフレームを傷めます。洗うときは、台所で使う中性洗剤にしてください。それに、お湯もいけません。レンズには、保護するために、ごく薄いコーティングがなされていて、お湯を使うと、それが溶けて剥がれてしまうのです」

 目から鱗だった。薄く曇っているのは、汚れがついているものとばかり思っていたのだが、そうではなくて、コーティングが剝げていたのである。それを一生懸命、お湯と石鹸で洗っていたのだから、まったく逆のことをしていたことになる。

 その後、プラスチック・レンズにしたとき、その手入れ法をしっかりと訊いておいた。その眼鏡屋さんの云うには、真冬でも、冷水でさっと汚れを流し、あと、ティッシュペーパーで拭けばよい、とのこと。たまには、中性洗剤を使うこともあるが、ほとんど、水だけでいけている。


 ところで、眼鏡がいつごろ発明されたのか調べてみると、ルネッサンスの13世紀イタリアだそうである。日本に伝えたのは、あの、フランシスコ・ザビエルで、周防の大名・大内義隆に献上したという記録があるが、現物は残っていないとのこと。現存する最古の眼鏡は、12代将軍足利義晴が持っていたといわれるもので、また、徳川家康が使っていたという眼鏡も残っているそうである。その後、17世紀の終わり頃には、京、大阪、江戸に、眼鏡を売る店が現れはじめたとのこと。

 それにしても、それ以前の眼鏡のない時代、目の悪い人はどうしていたのだろうか、と気になるが、たぶん、書物を読んだりする人は少なく、また、その書物も、近代の活字本とはちがって、もっと大きな字で書かれたものだったので、そもそも近視になる人はあまりいなかったのではないかと推測される。


 このように数百年の歴史を持つ眼鏡の世界に大きな変化が起きたのは、「コンタクトレンズ」の発明であろう。実用化が進んだのは20世紀後半に入ってからだが、直接、角膜にレンズを装着するため、容姿の変更がなされない、という利点のため、急速に普及し、現在では、近視者の半数を超える人々が利用しているようである。

 しかし、当初は、装着時の違和感や、何かの拍子に外れたりすることが多いなど、まだまだ問題点が多かった。

 私の乏しい記憶によれば、ある大学の先輩から、コンタクトレンズを装着して、走っていたら、突然、見えなくなり、しまった、落とした、と思ったが、ちょうど、走るときに振っていた手の甲のところに、コンタクトレンズがくっついていて事なきを得た、という、嘘みたいなエピソードを聴いたのを覚えている。

 こんな「脱落」事故は当時よくあったようで、プロ野球の試合中、選手が装着していたコンタクトレンズが外れ、それを探すため、試合を一時中断して、両軍選手がみんな這いつくばって捜索する、と云うようなこともあった。

 その後、外れにくい「ソフト・コンタクトレンズ」が開発されたが、今度は、洗浄や消毒に手間がかかったりするなど、別のデメリットが生まれ、今世紀に入って、その必要もない「使い捨て」型が登場して、一気に普及が進んだようである。

 私自身、眼鏡をかけはじめた1950年代後半の頃から、うすうす、コンタクトレンズの噂は耳にしていた。ただ、その頃は、まだまだ実験段階で、こんなものもあります、という程度だったように思う。

 身近に、装着していた人については、先の大学の先輩以外に、高校の同級生で、私に負けないぐらい度の強い眼鏡を掛けていた友人が、大学に入ってしばらくしてから、眼鏡を掛けなくなった。コンタクトレンズにしたとのこと。「長年煩わしかった眼鏡から解放されてホッとしたよ」と云う、その明るい声は、無口でどことなく暗い感じが抜けなかった、かつての彼とは別人のようで、とても驚いたものである。

 しかし、私がそれを見て、うらやましく思ったか、といえば、そうでもなかった。

 たしかに、顔の上から眼鏡がなくなればすっきりするだろうな、とは思ったが、その煩わしさが今度は眼の中に移るだけで、それはそれで面倒な気がしたし、それ以上に、直接、眼の中に指を入れて、レンズを装着するということに、生理的な恐怖感を感じて、どうしても、やってみようという気は起こらなかった。

 最近では、もっと直接的に、レーザー光線で角膜を削って屈折率を変更する「レーシック」という手術があって、スポーツ選手などに重宝されているそうだが、想像するだけで身がすくんできて、煩わしいかも知れないが、このまま眼鏡を掛けているのが一番だと思っている。


 長年、眼鏡という「ハンディ」を背負わされ、このままでは癪(しゃく)なので、何か「メリット」のようなものはないか、と探して、「近視の人は老眼になりにくい」という説に行き着いた。

 そういえば、近視でない「正視眼」の職場の同僚で、40代の終わり頃から「老眼鏡」を用いているものがいた。それに対して、私の場合、仕事柄、よく引く「英和辞典」の小さな文字が見えにくくなってきたのは、50代の終わり頃だっただろうか。そんな時でも、眼鏡をずらして裸眼を近づけると、十分に見えるので、しばらくはそれで凌(しの)いできたが、あまり恰好もよくないので、いわゆる「遠近両用」の眼鏡にしたのが、63歳の時であった。

 元来、物持ちがよい、というのか、吝嗇(けち)というのか、ひとつのものを長い期間使う傾向のある私が、ガラスではなく、プラスチック・レンズの眼鏡にしたのもこの時だった。だから、老眼対策とともに、眼鏡の軽さという、ふたつの快適さを手に入れて、一挙に幸福感いっぱいになり、どうしてもっと早くこうしなかったのだろうか、と悔やんだものである。

 ただ、「遠近両用」眼鏡では、新聞や単行本の活字は楽々読めるが、ひと昔前の文庫本や辞書の小さな字は、やはり読みづらい。でも、そんな時は、裸眼にして、眼を近づければ、楽に読める。この方法を使えば、もっともっと小さい字でも、ほぼ無制限に読める気さえする。正視眼から老眼になった人は、老眼鏡の度をどんどん強くするしか方法はないそうだから、この点は大きな「メリット」だろうと、ひとり悦に入(い)っている。


 最近、散歩に出て、広々とした景色のところに来たときなど、わざと、眼鏡をはずしてみることがある。

 裸眼だと、当然、世界はピンボケで、ぼやっとしていて、細部は見えない。しかし、眼鏡のフレームの枠から開放された視野は一気に拡がり、細部が見えないことでかえって他の感覚が敏感になるのか、流れる空気が直接肌にしみ込んでくる気がして、そのぼんやりとした世界が、まるで印象派の絵画のように、妙に実在感を持って迫ってくる。

 これこそ、私にとって、本当の世界なのだ、いつも見ている、眼鏡越しの世界は、つくりものの、仮の世界に過ぎないんだ、と、ふと、思ってみたりする。

 こういう感覚を、二カ国語可能という意味の「バイリンガル  bi-lingual」をもじって、「バイビジュアル bi-visual」と秘かに名づけてみた。

 眼鏡をはずせば、一瞬にして、「もうひとつ」の世界を見ることができる、ということで、眼鏡をかけない正視眼の人にはわからないだろうな、と、無理やり優越感にひたったりするのだが、ただ、ぼんやりとした世界からは、ぼんやりとした情報しか入ってこないので、どうしても視線は内向きになる。内省的というか、思弁的というか、眼から入ってくるこの世界のことよりも、自分自身の方に思いが向かって、頭の中でいろんな想念が次々と生まれては消え、生まれては消えして、いつしか眼を閉じているのと同じ状態になり、ついには睡魔に襲われる、ということにもなりかねない。

 「バイビジュアル」の境地は、まだまだ開発途上で、もっと時間をかけて少しずつ会得すべきもののようである。

(完)


【自註】

 今回も、思いっきり「個人的」な内容のものになってしまった。書けることを、書けるうちに書く、というのが、このところのモットーなので、こうなってしまうのもやむを得ない。おかげで、更新のインターバルがすこし短縮できた、といえば、自己弁護になろうか。

 開き直って、「個人的」なものも、突き詰めれば、「普遍的」なものに通じる、と信じて、このまま突き進んでいこう、というわけだが、はたして、どこまで突き詰められているか、それは覚束ないことである。 (2017.9.14)


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