校舎



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 清は幼ない頃から建物の構造に強い興味を示す少年だった。子供の頃、両親はおもちゃがわりに落書き用の反古紙を彼に与えていたのだが、彼がそこにかく絵はたくさんのからくりが仕掛けられた迷路のような建物の断面図や平面図ばかりであった。彼は毎日、あきもせずそういう奇妙な建物の図をかき捨てていたのである。

 彼のかくものには二つの傾向があった。ひとつは、馬鹿でかい、というよりあるひとつのイメージが成長するに従って次々と増殖していく感じの、無限に増築を繰り返したような複雑なからくり屋敷であり、平面図にした場合はどこまでも周囲に広く拡がっていく、江戸時代の大名屋敷風のものになり、又、断面図をかく時は鉄梯子を駆使した、地上高く、地下深く伸びる、西洋風の尖塔のようなものになるのが常であった。

 それに対してもうひとつの傾向というのは定められた枠の中に種々のものを積めこんでいくもので、それは往々にして建物ではなく、自動車や船、とくに潜水艦であった。前者のからくり屋敷の場合がまるで冒険小説の舞台のように生活感というものが全く感じられぬのに対して、この場合は寝室、居室はもちろんのこと、台所、便所に至るまで細かく配慮された完壁な生活空間で、まさに「動く住居」というにふさわしいものであった。

 いずれにせよ、もともとは少年雑誌などからヒントを得たものにすぎなかったが、彼は雑誌の中に一部表現されたものを全体像として自分の紙面に復元する努力を続けていたのである。例えば、ある他愛のない漫画の中で彼は不思議な潜水艦を見た。外面図で見るとそれほど大きいとは思えないのに、その内面図では、中央に一本の長い廊下が通っており、それが遠近法で無限の彼方に収斂しているが如くに描かれているのだ。その中で子供っぽい登場人物が追いかけっこをしているのだが、彼はこの矛盾の馬鹿馬鹿しさに気づく前に、その不可思議さに惹かれ、その奇妙な潜水艦の全体的な設計図に取り組んだが、結局これは果せなかった。


 自分の頭の中で想像しているものを紙の上に実際に具体化するということには、もともと何らかの幻滅がついてまわるものなのかもしれない。年令(とし)をとるにつれてこの空しさを少しずつ悟りはじめてから、清は頭の中の空想という紙にそれをかくことを覚えるようになった。空想の中では少々細部に矛盾があってもそれがために全体が破綻することはないし、それに何よりも、かき捨てた図面を思いがけなく両親に見つけられるというおそれがなかった。別に見つかって叱られたりする訳ではなかったが、さすがにいつまでもこんな子供じみたことをしているのを知られるのが恥しかったのだ。

 こうして毎晩布団に潜りこんでからが清の最も楽しい時間となったが、空想の中にかく、ということをするようになってから彼の作業は少しずつ変化してきた。これまでの迷路の幼稚な設計者から、その経験者、探険者になってきたのである。つまり入眠時の朦朧とした中や、夢の中で見た風景や歩いた道を出来る限り記憶しておいて、目覚めてからそれらを再構成し、その構図を次の夜の入眠時にぼんやりと思い浮かべながら眠りに入る、ということを繰り返したのである。又、寝る前に枕元に小さなノートを置いておき、朝、目覚めた時に、今見ていた夢を記録するいわゆる「夢日記」をつけようと努力したこともあった。

 このような習慣がいつの間にか身につき、夢の世界が清を慰める最も親しい友人となったのだが、そんな彼が中学校を卒業した春のある夜、彼は奇妙に印象の強烈な夢を見たのである。
 それは青空の下にそびえ立つ木造校舎を下から見上げた、まるで一枚の風景写真のような夢にすぎなかったが、伺故か目覚めてからも強烈な印象が抜けず、目を閉じてその風景を思い浮かべるたびに、その夢のなんともいえぬ不気味で心地よい香りのようなものが彼の脳髄の深奥を痒れさせるという状態がしぱらく続いたのである。

 そしてその痺れの中でその自らの脳髄の奥を見据えてみると、風化しかけたその一枚の夢の写真の中から二つのものが鮮やかに浮き出てきた。ひとつは空の色の青で、完全に澄んだ青なのだが、あまりに澄みすぎてかえって暗くなったような感じで、どこか日蝕時の青空のような感じもし、もうひとつは、それにつれてまるで写真のネガのように浮かび上ってくる校舎の白壁が、夕陽があたったように真っ赤に染っているのである。

 この校舎が清の6年間通った小学校の校舎であることはすぐにわかったが、それをこういう角度でみた経験はあまり思い出せなかった。それにしても3年の歳月を経て突如よみがえった小学校は彼を懐しい気持にさせた。狭い運動場をコの字形に取り囲む校舎や、6年間いろいろと移り変わった教室。講堂の二階の薄暗い教室、6年生の時の広くて明るくて床がいつもつるつるに光っていた教室、大きな食器洗い機が据えつけられ、いつも湯気がぼうぼうと立っていた給食準備室 … と次々と思い出していき、最後に図書館が浮んだ時、清はふとある奇妙な出来事を思い出した。

 図書館は校舎のはずれにあり、雨よけの渡り廊下によって結ばれている独立した平屋建ての低い建物であったが、清は小学校に入学して4年間は全くその中に入ったことがなかった。正式の司書がいなかったため、ほとんどその扉は大きな南京錠で閉じられ、週一回あった開館日も低学年の清たちには入館が許されていなかった。だから清にとっては、その建物は何となく近寄りがたい雰囲気をたたえていつも静まりかえっている感じであり、時おり、おそるおそる近付いてガラス窓から本がいっぱい並んでいる薄暗い空聞を覗くことに何かうしろめたいときめきを感じてさえいた。

 5年生になってはじめて入館を許されたのは週一回の開館日、土曜日の放課後であった。この日だけは何十人もの生徒が入れかわり立ちかわり出入りして、普段とは一転した活気をみせていたのだが、清がはじめて館内に一歩踏み入れた時、最初に感じたのは湿ったような黴臭い本のにおいであり、書架に窓を塞がれて薄暗くなった室内を照している裸電球であった。競い合って書架を漁る他の生徒たちをよそに、その時、清はそのまましばらく入口に立ちすくみ、その「神秘」の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 もともと本好きであった清は毎週土曜日の開館日を待ちかねるようにしていろいろな本を借り出して、読み耽った。彼の乏しい小遣いでは少年雑誌を買うのが精一杯で本屋の書棚に並んでいる堅い表紙の単行本などをいつも憧れの眼差しで眺めていたのであるが、そんな本がこの室内にはいっぱいあって自由に借り出して読めるのである。読書の楽しみというよりもまるで宝のいっぱい積まった庫(くら)をみつけたような気分であった。

 最初、彼は分厚い良質の紙にゆったりとした活字で組まれた、挿絵も豊富な欧米ものの児童文学書に熱中した。タイトルや著者などはどうでもよく、その中の夢物語のような幻想的な世界に陶然としていた。赤毛や金髪の主人公が魔法使いに案内されて様々な不思議な冒険をするという物語の本がこの図書館には一番適しいように清には思われたのだ。

 そんな風にはじまった彼の読書は『アラビアンナイト物語』という本の発見で頂点に達した。「アリババと四十人の盗賊」や「アラジンの魔法のランプ」の話はそれまでに何かで読んだことはあったが、それらが実はある一人の王宮の侍女が千一夜かけて語った物語の一部にすぎない、という雄大なスケールにまず驚かされた。そしてその他「シンドバッドの冒険」をはじめ長短いろいろの不可思議な冒険物語は彼を有頂天にさせた。はじめてこの少年少女文学全集の一巻を読み終えた時、清は尽きぬ泉を見つけたような幸福感に酔ったのである。

 土曜日に借り出して翌週の月曜日に返すというのが平常時の図書館のルールであったが、夏休みなどにはその期間は一週間ほどの余裕をもっていた。6年生になった最後の夏休み、彼はこの『アラビアンナイト物語』を借り出した。これまで何回も借りていたのだが、かなり大部の本であるため週末の休日だけでは読み切れず、続きを読むためには又一週間待たねばならなかった。そんな歯がゆい思いをせずに一気に読み通したかったのだ。物憂い真夏の日々、彼は自宅の窓際に寝ころんでこの本をゆっくりと味わうように読んで過した。そして休み中の開館日に指定された日にその本を返しに行ったのである。

 8月の中旬に入って暑さも厳しく、連日35度近い猛暑が続いたある昼下り、清はその本をかかえて学校へと向かった。学校は自宅から歩いて5分もかからないところにあったが、行く道は熱い太陽に照らされて砂漠のように乾燥しきっており、時折り走り過ぎる自動車がものすごい砂埃りを立てた。そのもうもうとした車輪の跡の横手に葦簀(よしず)を張った小さな店があり、「氷」と書いた水色の旗が立っているのが見える。清はポケットをさぐって十円玉を確かめるとその店に入って「みぞれ」を頼んだ。小さな床几(しょうぎ)に腰かけると葦簀(よしず)の内側は外とうってかわって涼しく、すぐ横で店のおばさんが回す手回しの氷掻き機の音が爽やかに聞こえる。小さなガラス鉢に盛られた「みぞれ」は蜜のかかった部分だけ形が崩れ、そこにスプーンを突っ込んで口の中へ入れると歯にしみるような冷たさと共に甘い砂糖の味が口いっぱいに拡がってきた。食べ終ってお金を払うと清はゆっくりとおもてに出た。午後の日射しは先程よりさらに強さを増しているようであったが、氷を食べて汗の引いた身体にはそのジリジリした暑さがかえって気持よく感じられ、いつもは早足で通う道をこうして道草しながらのんびりと歩くのを彼は楽しんでいた。

 校門を入るとまず激しいアブラゼミの鳴き声が彼の耳をつんざいた。横に大きな銀杏(いちょう)や楠の木があるが、その辺からやかましく聞こえている。運動場を見わたしても人の姿はだれも見えず、そのしんとした無人の静けさをセミの鳴き声が一層強調しているようであった。休み中のだれもいない学校は清には新鮮だった。彼は自分一人だけの庭を歩くようにゆっくりと運動場を横切っていった。

 図書館の方へ行くと急に木蔭が増え、爽やかな風がそよそよと吹いてくる。裏手の方からまわっていくと桜の木のすぐ手の届きそうなところで一匹の大きなセミが鳴いていた。手を近づけても逃げようともせず、手でつまんでも鳴きやまなかった。ふと下を見ると壁を伝って小さなヤモリがさっと床下の通風口へ走り込むのが見えた。図書館の窓から中を見ようとすると厚いカーテンがおりていて中からは物音ひとつしない。この時になって清は自分が何のためにここにやってきたのかを思い出した。あわてて表へまわってみると扉は閉っていた。開館時間はもう既に終っていたのだ。でも清は何故かがっかりもせず、例の大きな南京錠を当然のように見つめていた。

 清は自分が手にしている『アラビアンナイト物語』が邪魔になってきた。そこで彼は図書館の入口の横の板壁に破れ目を見つけ、そこに何気なくその本を入れてみた。すると本はすっぽりとその中に隠れて、しかもそれほど埃りっぽくなく、廂(ひさし)が深いので雨があたる心配もなさそうだった。このままにしておこう、と清は思った。その本が自分のものではなくて図書館のものである、ということよりも彼は自分のこの素晴しい隠し場所の発見に夢中になっていたのだ。

 清の記憶はこのあたりからおぼろげになってくる。あの本はその後いったいどうなったのだったか。確かにあの日はあのままにしておき、そう、夏休み中ずっとあのまま放っておいたはずだ。それにあの場所からあの本を取り出した記憶は全くなかった。でもあのまま返さずにおけば、必ずバレて注意を受けたはずだが、そんな憶えもなかった。多分、図書の事務がずさんでそのままうやむやになったのだろう。でもそんなことがありうるのか。自分で返したのを忘れているのではないのだろうか。

 大変なことを思い出したぞ。そう思いながらも、なにぶん3年も前の〈時効〉にかかったことだけに、清はなかば楽しみながらいろいろな推側をこらしてみた。



 この春休みは久しぶりにのんびりした休みであった。高校入試も終り、何とか志望の学校に合格した安心感もあり、はじめのうちは友人たちと連れだって、ハイキングヘ行ったり、野球をしたり、映画を見たりしてこれまでの抑圧された生活の憂さをはらすのに夢中だったが、いつかそれにも飽き、この頃は一人で過ごすことが多くなった。高校の新学期までにはまだ1週間ほどあり、もちろん勉強などするつもりもなく、手当り次第に推理小説を読むことと気晴しに近くを散歩することがこの頃の彼の日課だった。

 一人で散歩するというのは清には初めての経験であったが、これが意外におもしろかった。別に運動ということでもなく、自宅の近辺をぶらぶら歩いていると、何度も歩いて歩き飽きたような道にもこれまで気付かなかったものを発見する。以前と同じはずである家の門構えや道端の古ぼけた道標などに新鮮なものを感じたりするのだ。それに近辺を散歩することは自分の過去の思い出を具体的にたどっていく作業でもあることに清は気付いた。

 幼い頃に一度行ったことがあり、かすかに胸の中にその情景が残っている場所を苦心して探すのは彼の散歩の大きな楽しみであった。年月の経過によって大きく変化していたり、又、うまく見つけた場合でも、自分のイメージと現実に大きな落差があり、現実の場所の卑小さにがっかりすることが殆んどであったが、それなりに得心もした。父の自転車が空いている時にはそれに乗ってかなり遠出をしたこともある。小学校に入るまでの幼児期を過した場所を再訪した時がそうであった。

 地図で調べるとその地まで自転車で一時間位の距離であった。サイクリングの楽しみもあったが、彼は自分の思い出の土地がどうであったか、この目で確認することに胸を躍らせた。町はずれの田んぼの中にいくつかの工場と木造の公営住宅、それにちょっとした商店があるその土地は彼の夢の世界の源泉でもあった。清は自転車のペダルを踏みながら、幼年時の自分の町の地図を頭の中に拡げていた。

 東西方向に国道があり、T町のバス停のあたりは両側畑になっていて、そこを南に入っていく道を行くと小さな川があって工場の煙突がみえてくる。それは父が勤めていた工場で、清の家はそのすぐ横にあり、その工場を過ぎるとその裏手には木造の公営住宅がズラリと立ち並んでいて、やや登りかげんになった道は大川に通じている。又、国道をT町バス停からさらに東へ行くと車庫前バス停があり、そこで終点になっていた。そこから向こうはもはや道路は狭く、舗装もされずに田園地帯に入っており、その遥かむこうには生駒の連山が見える。幼い頃の清にはこのバス停がまるでこの世界の果てのように思えたものであった。

 このあたりは何故か工場が多く、車庫前バス停のところにも大きな化学工場があり、そのコンクリート塀の横のどぶ川沿いにダラダラと南西方向へ曲がって行く道がある。そこを歩くといつしか神社に出て、その前の細い道には何軒かの店があり、更に行くとT町のバス停南の清の住んでいたあたりに出てくる。これらが幼い清の生活範囲であった。

 ところがさて自転車で今、その町に近付いてみると、全く様子が違うのである。第一に国道を行く車の数が圧倒的で、それらがかつてこの世界の果てであったところに向けてどんどん走り去っていくのだ。T町のバス停を清はあやうく知らずに通り過ぎるところだった。畑があった場所にはぎっしりと家が建ち、ガソリンスタンド、飲食店などが立ち並らぶありきたりの国道筋になっているのだ。あわててハンドルを切って南の方へ行ってみると、意外に道が狭く、立て込んでいるのである。道だけでなく、かつて川原の石でよく〈水切り〉をして遊んだあの小川でさえ、ごく細い澱んだ小さな川にすぎないのだ。父の勤めていた工場も思っていたほど大きなものではなかった。見憶えのある事務所はそのまま残っていた。そして清が幼い頃住んでいた家も残っていたが、そのどちらもなかば朽果てかけた板張りのバラックのような建物ではないか。

 清はそのままゆるやかな坂を登って大川の方へ出てみた。しかし、大川といっても実は運河のようなもので川沿いのたくさんの工場から流される廃水によって水はドス黒く濁り、鼻を刺すような悪臭さえ放っているのである。

 清は車庫前バス停のあたりへ出てみた。もうそこはこの世界の果てではなく、新らたなる世界の入り口のようになっていた。かつての田園地帯にはぎっしりと住宅が建ち、きれいな舗装道路が生駒の山のふもとに向って伸びている。化学工場の塀の横のどぶ川はあった。そしてそこをたどっていくと神杜があった。でもまるで小さな神社で、よくこんなところで本当にお祭りがあったのかしらと思わせるほどで、その前の、思っていたよりもさらに細い道に沿って、誰も住んでいないような民家が密集して辺りは静まりかえっていた。

 あれからもう10年も経つのだからこのあたりの様子が変わるのは当たり前である。しかし変っていないところまでも清には変ってみえた。まるで小人国に迷いこんだガリバーみたいに何もかも小さく狭く見えたのである。この卑小な感じは彼の成長と反比例しておこったものに違いなかった。そしてこの全く当然のことに10年間の空白が加わって何かしら不快な感じがしたのであろう。10年ぶりにかつての思い出の土地を訪れ、清は大きな幻滅とささやかな得心を感じて帰ったのであった。

 この他、清は日が暮れてから散歩に出ることも多かった。昼間の散歩がまわりの景物に目を向けさせるものであるのに対して、夜の散歩は自分自身の心の中を眺めさせてくれる。暗く、人通りも殆んどない道を歩いていると自然に足は早くなり、まるで洞窟の中の迷路を駈け抜けているような気になる。暗い中ではまわりの景色に変化はなく、同じところをぐるぐると巡っているような錯覚に陥り、わざと道に迷ってやろうと足の向くままに曲り角をまがったりする勝手気ままな歩行が、何故か頭の中に快い思考の帯を生じさせるのだ。何も考えない頭の中を一本の思考の帯が速やかに滞りなく連想のイメージを残しつつ流れていく。そしていつの間にかその連想の帯はひとつの意志となり、例えばそれがふらふらと小学校の方へと向かわせたりするのだ。



 清はあれ以来、図書館の板壁の破れ目に隠した本のことがずっと気になっていたのだ。いろいろと推測をこらしたり、消えた記憶をよみがえらせようと努めたが駄目であった。今となってはどうなっていようと構わないのであるが、不可解なままにしておくのは何となく気持ち悪い気がした。そして或る日母から小学校の移転が決まり、近々取り壊されて別の建物が建つ、という噂を聞かされた時、清はひとつ自分の目であのことを確かめてみよう、とふと思ったのだ。

 はじめ、この考えは冗談半分のものでしかなかった。何しろ小学校には卒業以来3年間まるで足を踏み入れていないのだ。友人たちが嬉々として高校入学の報告を旧師に知らせに行く中で清一人は小学校に背を向けていた。反抗していたのではなく、今更、照れ臭いような感じがしたのだ。そんな自分がのこのこその校舎の中に入って図書館のまわりをうろうろ出来るものか。彼はそう思うと最初の思いつきに対して思わず苦笑した。しかしこのような自分を苦笑しながらも散歩の道すがら何度か小学校の辺りをぶらついたりもしたのだ。校門から出てくるかつての恩師とあやうく顔をあわしそうになっておもわず路地に逃げこんだこともあった。

 夜の散歩では暗闇が彼を勇気づけた。夜の通りは人も少なく、時折みえる人家の灯と規則正しく並んだ街頭だけの道を一人ぼっちで歩いていると、いつの間にか小学校の所まで来ていた。

 この晩は月が出ておらず、空いっぱいに無数の星が散らばり、それらが歩いている清をどんどん追ってくる。校舎の建物は夜は殆んど無人となるので異様なほど大きく不気味に感じるが、彼はそのまわりを何気ない風を装いながらゆっくりと歩いた。正門は閉じられ、大きな門灯が灯っていたがそれ以外は殆んど真っ暗に近かった。ぶらぶら歩いて裏門の方へ向った時、ふとこの辺に同級生の家があったのを思い出した。確かMという名前であったが一度だけその家に行ったことがある。何か病気のため学校を休んでいたのを、クラス有志として見舞いに行ったのだった。でも中学に入ってからはよそに引っ越したということを聞いていた。古い記憶をたどりながらやっと見憶えのある玄関口に着いた。やはり表礼の名前は変わり、あちこち改造されて以前よりずっと小ぎれいな門構えになったみたいだった。そんなことを考えながらそこを立ち去ろうとふと校舎の方を見て、彼は思わず息を飲んだ。あの夢で見た校舎と全く同じものがそこにあったからだ。

 裏門のそばには講堂があり、その二階にある教室の窓は他よりも一段高く見える。あの夢の中のそびえ立つ感じはこの角度からみた校舎だったのだ。暗い夜であったので、黒い影のような建物のガラス窓だけが何かを反射してキラキラと輝いていた。あの夢で見た校舎が今、自分の目の前にこのとおりそびえ立っている。そう思うと彼はホッと安堵するとともに急に胸のわだかまりがおりて全身が一気に軽くなった感じがした。

 その軽い足取りのまま彼は何度か校舎のまわりをぐるぐるとまわった。そして何度まわっても誰一人行き交うものもいないので彼はだんだんと大胆になってきた。裏門の横手にプールがあるがそこだけコンクリートの塀が切れて生け垣になっている。そしてよく見ると1ヶ所大きな穴があいていて、そこを潜り込むとプールサイドに出られたのである。

 防火用のためかプールには水が一杯入っており、それが風をうけてさらさらと波立っていた。清は足もとにあった小石を拾うと何気なくそれを水の中に投げ込んでみた。ボチャンという音が静けさの中で意外に大きく響いて彼はおもわず物蔭に身をかくした。しかし誰も出てくる気配はない。運動場を横切った反対側の宿直室のあたりだけ灯りがついていたが、誰も気がついていないようであった。そこで彼はプールサイドを降りて講堂の横へ出てくると今度はやや大きめの石を拾って思い切って教室の窓ガラスめがけて投げつけた。ガシャンと闇をつんざくような大きな音がして、それが静けさの中でこだまするように響いた。その音にどこかの人家の窓がガラリと開けられたような気がしたが、どうもそれは空耳らしかった。宿直室はさきほどと変らず全く人の動きはなかった。それらを冷静に確かめると清は再びプールサイドにのぼり、生け垣の穴から外へ出た。さすがにやや足が震え、生け垣のところで足をすべらせて少し手をすりむいてしまった。彼はわざとチェッと舌打ちして満足気に苦笑いしようとしたが顔が少しひきつっただけだった。

 翌朝目覚めた時、清はふっと昨夜のことを思い出し胸さわぎを感じた。とんでもないことをしてしまった、という自責の念に一瞬おそわれたのである。しかし家族のいつもと変わらぬおだやかな顔を見ていると、いつしかそんな思いはだんだんと消えていった。午前中は読みかけの推理小説を読み、午後ははじめて高校の教科書のぺージを開けてちらちらと眺めたあと、テレビで劇映画(ボッブ・ホープとビング・クロスピーの「珍道中もの」をやっていた)を見た。でもやはり心の底ではいずれにも熱中できなかった。昨夜の興奮が忘れられず、夜が待ち遠しかったのだ。彼は夕食を食べ終るといつものように、腹ごなしに散歩してくる、と告げて、外へ出ていった。

 真直ぐ小学校の方へは行かず、とりあえず清は逆の方向へゆっくりと歩き出した。そしてしばらく歩いて少し疲れたので丁度通りかかった公園のベンチにあおむけに横になった。今夜も空はきれいに晴れ上がり、数え切れぬほどの星が美しかった。目を閉じると心地よい風が頬を撫でる。そして目を開けると満天の星があり、おもわず心が広くおおらかになった気がして、彼はそのまま手足を伸ばして大きく息を吸った。すると、左手に何か触ったのである。何だろうと思って手にとってみると封を切った煙草の箱とマッチが置いてあった。多分だれかの忘れものだろう、中をみるとまだ4、5本残っていた。清はそれらをポケットにしまうと大きく息を吐いて小学校の方へ歩いていった。

 相変らず小学校のまわりには人一人いなかった。昨夜の生け垣をくぐってプールサイドに出て、そして講堂の方へ降りると、昨夜石を投げつけた教室の方へ歩みよってみた。廊下の窓ガラスが一枚割れたままになっていた。今夜も宿直室の方は灯りがついているがこちらに気付いている様子はない。テレビに夢中になっているのだろうかと思いながらおそるおそる近付いてみると、ドアごしにテレビの大きな音が聞こえてきて清はおもわずニッコリとして、今夜の自分が冷静であるのに安堵した。運動靴で足音がしないのを幸いにそのまま廊下を歩いて教室の方へ向った。真っ暗な教室は夜見ると薄気味悪い感じがするが、そのまま奥へ奥へと入っていった。憶えのある部屋もいくつかあったが何しろ暗いので、彼は先程拾ったマッチを時々擦らなければならなかった。

 階段をのぼって講堂の二階へ行った。ここの教室で彼は1年間過したことがあるのだが、窓が小さいため日当りが悪く、昼でも薄暗い部屋であった。又、その廊下の奥まったところにある階段は講堂の舞台の裏に通じていた。彼は学芸会の時、その階段の途中に行列して、自分たちの合唱の出番を長い間待たされたことを思い出した。そういうとき以外はほとんど使われない階段なので、当時から何かしら神秘的な印象を抱いていたものであった。だからそこへ今もう一度行ってみたいと思ったのだが、暗くて一歩先も見えない。さすがに恐くなり、彼はしかたなくそのままもとの廊下を引きかえした。

 廊下の丁度プールを見おろすところに来て彼は腰をおろし、ポケットから公園で拾った煙草を取り出して、それに火をつけてみた。煙草を吸うのはもちろん初めてだった。どうしたらよいかわからず、口に入った煙をそのまま思い切り吸い込んでみると、咽喉の奥がむせて咳が出て、涙がボロボロ流れてきた。その咳の音を気にしながら何とか一本目を吸い終り、二本目になると大分うまく吸えるようになった。頭が少しフラフラするのが気持よかった。窓の真下には水をいっぱいたたえたプールがある。吸いがらをこのまま始末せずに放っておくと火事になり、その時あのプールの水を消防車のポンプがくみ上げて火を消すんだな。彼はぼんやりそんなことを考えながら、試しにと火のついた煙草を板張りの廊下に投げ捨ててしばらく見つめていた。暗闇の中にポツリと一点ともった煙草の火はそのまましばらく燃えつづけ、やがてすっと消えて、あたりは再び真っ暗になった。木というものはなかなか燃えにくいものだな、と考えながらも実験にかこつけた自分のそんなふるまいの恐しさに気づき彼は慄然としたが、でも何か物足りない思いも禁じえなかった。

 手さぐりで階段をおりる時、彼はその階段の裏側に体育倉庫があったのを思い出した。そういえば小学生のとき奇妙な考えにとりつかれていたのだ。校舎の中のどこかに隠された秘密の部屋がある、というのである。その部屋の床には赤や黄色の分厚い絨毯が敷かれ、天井に吊るされた豪華なシャンデリアに照らされた壁際のガラスケースにはいろいろな美しい宝石類が飾ってあるのである。彼はこの部屋の光景を何度も夢でみたことがあった。そしてその入口が一体どこにあるかということにいろいろ思いをめぐらせた末、校長室かこの体育倉庫だということになったのだ。校長室の方は6年生の一学期、掃除当番にあたり、その時いろいろと観察してみたが何の変哲もない普通の校長室にすぎなかった。又、この体育倉庫も一度、休み時間に鍵があいていたので中に忍びこんで板壁や床を調べてみたのだが別段何も変ったところはなかった。今から思えば実に馬鹿馬鹿しいことだが、清にはそれが少し懐しく思われた。

 そういえば図書館も秘密の部屋の入り口に適しいな、と思いながら彼はいよいよ図書館の方に向かった。相変らずその辺りは木が繁っていてザワザワと風に吹かれる音がしている。塀の向こうの道路には街灯があり、その灯りで図書館の入り口あたりは少し明るくなっていたので彼はすぐに例の破れ目を見つけることが出来た。以前から朽ちかけた壁だったのでひょっとすれば新しく張り替えられているかもしれないと案じてさえいたので、あっさり見つかったのは意外であった。おそるおそる手を突っ込んでみるとたまった埃に手がざらざらし、そして何か堅いものに触った。それはなかなか抜けなかったが、最後は板のはしをバリッと破ってやっと取り出してみると、やはりそれはあの『アラビアンナイト物語』に他ならなかった。





 何か作り話みたいだな。家に帰って布団に潜り込んだ今も清はそんな気がしていた。まるで今、夢から醒めたばかりのような感じがしたが、枕もとには表紙がボロボロになった本が一冊おいてある。清はあのあと家に帰るまでのことをもう一度思い出した。

 本を取りだしたあと、彼はしばらく茫然としていたが、すぐ煙草を吸うことを思い出したのだ。もう三本目なので咽喉は何ともなかった。自分の吐き出した煙がそのまま頭上の木の繁みの中へ消えていくのを眺める余裕さえあった。何も考えずにたて続けに残りの二本も吸い、最後の一本が短かくなった時に彼は思ったのだ。この吸いがらをこのままあの破れ目に放り込んでおいてやろうと。そして彼はもう一口深く吸い込んだあとそれをポイと中に放り込んだのだ。破れ目の口からもやもやと白い煙が立ちのぼるのが見え、彼はすぐにその場をあとにしたのだ。そして帰りはあのプールの横の生け垣を通らずにどういう訳か正門を通って出てきたのだ。全くの偶然か正門には錠がおりておらず、かんぬきは音もせずに開いた。校門から人通りの多い道に出るまで彼は誰にも会わなかった。そしていつもの通り、明るい声で「ただいま」といって帰宅したのだ。そして家族と一緒に何食わぬ顔でテレビを見て、そして時間になったので今こうして布団に潜り込んでいる。その間、彼は全く平静であった。そして今も自分では不思議なくらい動揺はないのだ。

 あれからもう二時間近く経つが、消防車のサイレンの音も聞かなかったので、多分あの煙草の火は廊下の時と同じようにあの中で他に燃え移らずにそのまま燃えつきてしまったのだろう。彼は軽くそう考えながら、枕元のスタンドをつけて『アラピアナイト物語』を開いてみた。思ったよりも大きな活字で組まれており、少し読んでみてがっかりした。文章がとても幼稚な感じで読むに耐えないのだ。どうして自分がこんな本に夢中になっていたか不思議なぐらいだった。

 しばらく目がさえて眠れそうにないので彼は枕元にノートと鉛筆をもってきて何か絵をかきはじめた。それは久しぶりに建物の平面図で、今行ってきたばかりの小学校の図であった。いつとはなしにこんな図をかきはじめた自分に、彼はやはりあの煙草の火が気になっているのだなと自覚した。じっと耳をすましていたがやはりサイレンの音は聞こえない。出来上った平面図の図書館の入り口のところに赤鉛筆で丸をかき、その火元からどのように延焼していくかを予測しつつ彼は赤く校舎全体を塗りつぶしていった。そしてやっと全部真っ赤に塗り終えた時、彼はやっぱりあの煙草の火は図書館の壁に燃え移ったのだ、と確信しはじめた。意外に時間がかかってやっと今頃ブスブスと煙を立てはじめたばかりでまだ誰も気付いていないんだ。そのうち、そろそろ赤い炎がみえ出し、渡り廊下を伝って校舎を延焼しはじめた時、みんな気が付いて大騒ぎをはじめるのだろう。その騒ぎはこの辺にも伝わって、みんな寝間着姿のまま小走りで見物に行く。その時自分も放火犯人らしくその中に混じってゆっくり、校舎が燃えおちるのを楽しんでやろう。

 そんなことを考えながらも清には少しもせっぱつまった感じはなく、布団の中のぬくもりも彼の心を和らげて彼をまどろみの世界へと導いて行った。そんな気持よさをわざと自分で断ち切って彼は閉じかけた目を開いて時計を見た。時刻ははや1時を過ぎ、あれからもう4時間たっていた。耳をすましても犬の遠吠えと自動車の音が時折り聞こえるばかりで、「もう大丈夫」と小さな声でつぶやくと清は目を閉じた。うとうとしながら、あの夢の中の校舎のイメージを思いうかべ、その夕陽に染まった真っ赤な壁が炎を吹いてガラガラと崩れおちるさまを無理に空想しながら、ああ、これでやっと春休みも終っていよいよ高校生だ、と自分に言い聞かせつつ眠りに入っていった。


(初出誌:「樹海」第2号 1974年9月)


【自註】

 長年、頭の中で、想念として存在しつづけてきたイメージを何とか文字化、物語化した作品といえる。

 これを書いたことによって、繰り返し〈夢〉の中に現れていた〈主題〉のひとつが消滅してしまったかもしれない。

 なお、同人誌「樹海」については、『幻想の世界制覇』巻末の「自註」を参照されたし。