「上品」ということ

 

 真面目に、強く、上品に、というのはいま私が勤務している学校の校訓であるが、この学校に職を得て、はじめてこの言葉を聞いた時、なんとも変な気持がした。「真面目に」とか「強く」は、すこし平凡すぎるきらいはあっても、校訓としては妥当な言葉といえるが、「上品」というのはちょっと場ちがいな感じがしたのである。

 私立学校というものをそれまであまり知らなかったので、おそらく、私立、お金持、お坊っちゃん、上品、ということかと連想をはたらかせ、それにしても、それをはっきりと校訓に謳うとはいかにも露骨で、一瞬、この職場での自分の前途に危惧さえ感じた。しかしそれは杞憂に終わり、それから十五年、馴れてしまったということもあろうが、いまでは校訓の「上品」も気にならなくなった。むしろ、この頃ではこの言葉のもつ意味を一度じっくり考えてみたいとさえ思っている。

 私が当初、「上品」という言葉に感じたものは、例えば、笑うときに口許に手をやってオホホとやるという類いの、変に格式張っていて、そのくせよく見れば、そのおさえた手の隙間から金歯がのぞいているというような、成金の付け焼き刃的な胡散臭さであったが、そういうのは、実は「上品」とはいわずに、「お上品」というべきであって、そうではない、本当の「上品」というのがあるのではないか、ということである。では、その本当の「上品」とは一体どんなものであろうか。

 辞書を引いてみても的確な説明が見つからないので、「上品」を校訓にとりいれたこの学校の初代の校長の遺稿集をひもといてみた。すると、創立時の訓話のいくつかに、この学校の方針は、真面目で、上品な人柄をつくることだ、とか、頼りになる真面目な日本人を上品に無理なく育て上げるのが目的である、とかいう言葉は出てくるが、「上品」とは何かということにはとくに触れていない。ただ一ヶ所、この学校がきらうのは「女々しい、さもしい、はしたない」ということだ、というのがあった。

 「女々しい」はともかく、「さもしい」を辞書で調べてみると、自分だけは得をしようという気持が見え透いているさま、とある。「はしたない」は、慎みがなくて、下品で、不作法である、とのこと。まとめてみると、「自分だけ」という利己主義が、「見え透く」即ち、露骨に顕われていて、「慎みがない」からそれを抑制できない、というのが「下品」で、その反対が「上品」だということになる。そしてそのアクセントは「利己主義ではない」にはなくて、それが「露出するのを抑える」という点にあるようで、いってみれば、これは〈方法論〉なのである。

 そういえば、「上品」という言葉はいつも、「上品な」とか「上品に」という具合に、修飾語としてのみ用いられていて、何らかの内容を表わすことはないようである。つまり、こういう行為が「上品」で、ああいう行為は「下品」だ、ということはなくて、おなじ行為にも「上品」と「下品」があるということなのだ。例えば、「上品な立ち小便」というのもありうるわけで、現に、太宰治の『斜陽』の中で「最後の貴婦人」とされている「お母さま」は庭の植え込みのかげで実に「上品」に立ち小便をする。ちなみに、『斜陽』を読んだ三島由紀夫は、自分がこれまで見聞してきた戦前の旧華族とはあまりにもかけはなれているとして不快感を表明しているが、文学的にはシャム双生児ともいえるこの二人の「上品」観の違いをあらわしていておもしろい。

 太宰治によれば「上品」とは、つまるところ〈無心〉な態度ということになろうが、学習院で自ら、いわゆる旧華族階級となれ親しんできた三島由紀夫には具体的な「上品」のイメージが出来上がっていて、それとの齟齬が感覚的に耐えられなかったのであろう。しかし、「上品」が名詞ではなく修飾語であるということからいえば、この場合は太宰治に分があるといえそうで、「上品」をある具体的な言葉遣いや振る舞いとみなすことによって、それは、それとは正反対の「お上品」になってしまうようである。

 また、「上品」ということの方法論的な面を強調しすぎると、どんなに〈えげつない〉ことでも、やり方が「上品」でさえあればそれでよいということになって、これも「上品」という言葉のイメージを貶める一因となってきた。そこで、それを救抜するために、自分の思い入れもいくらか込めて、「上品」とは、「決して裏切らないこと」だと定義する人もいる。

 「下品」というのはすぐにわかるが、「上品」はどうもわかりにくい。それは、「上品」とは、結果として、どことなく感じられるものだからなのだが、では、それを目標に掲げるというのは一体どういうことになるのであろうか。おそらく、「上品」な言動のパターン化されたモデルがつくられて、それを忠実になぞっていくということにでもなるのだろうが、それでは、まったくの「お上品」でしかなくなる。そこで、「上品」になるための、また別の方法が考え出された。それは、どこから見ても、だれが見ても、「上品」このうえないと思われる人物と親密になり、その「上品」のおこぼれを頂くというやり方であって、その「上品」このうえない人物の頂点に位置するのが、実は、〈天皇〉だというのである。 

 落語の『目黒のさんま』の枕に、殿様の養育係みたいな老臣が、家来にとって殿様とは絶対的なものであって、どんなことがあってもそれに逆らうことはことはできない、だから、例えば殿様が、この料理はまずいなどと一言でもいえば、それだけでその料理人の首が飛んでしまって、あとあと面倒なことにもなるので、綸言、汗のごとし、と心得て、お家安泰のためには、臣下のいうことには滅多に逆らってはいけませぬぞ、と一種の帝王学を説いて聞かせるところがある。そのため殿様はいつも、毒味のあとのすっかり冷めてしまった料理をまずいともいえずに食べなければならず、それが目黒で食べた焼きたてのさんまに感動する伏線となっているのだが、確かにこういう育ち方をすれば、殿様は臣下にとって、「決して裏切らない」存在となる。そして、その点に関しては、〈天皇〉には千数百年の伝統があるのだ。

 これは、〈天皇〉にかぎらず、君主一般にいえることだが、「上品」とはもともと〈天皇〉(=君主)の属性であって、〈天皇〉は「上品」を擬人化したものだという考えもあるようだ。つまり、〈天皇〉のなすこと、やることをすべて「上品」と定義するといういささか乱暴な論法だが、おかげで、その周辺に群がる者はすべてその「上品」のおこぼれにあずかることになる。勲章とか恩賜のなんとかなどがそうであるが、大体において、競ってそれらを求める者は、本来の「上品」とは程遠い者たちであって、こういうやり方がまかり通りはじめたのは、地方の下級武士たちが成り上がって、自ら「華族」などと称するようになった明治維新以降のことであろう。

 〈天皇〉が「上品」の家元であるという感覚は、〈天皇〉は「最高のブランド」だというようにかたちをかえて、株や不動産によるにわか成金が急増した昨今、ますます強くなっているようで、先頃の(註:昭和天皇の病気の際の)、「自粛」やら「記帳」やらの騒動も、そういう観点から説明できそうである。 

 ところで私事になるが、八年ほど前、「高松宮杯中学生英語弁論大会」なるものの付き添いで東京まで出かけたことがあった。期間中の二泊三日は、付き添いの教師たちも、各都道府県代表の中学生たちと同じ、神田駿河台あたりの修学旅行宿に鮨詰めに放り込まれて閉口したが、おかげで日本各地のいろんな先生と親しくなったのは収穫だった。そして最終日、大会のすべての行事が終わったあとに、「レセプション」というのが催された。同室の、この大会では常連校のある先生に、あれはすごいです、あれだけは出席する値打ちはありますよ、といわれてネクタイを締め直していそいそと出かけたのだが、確かにそのとおりであった。

 場所は帝国ホテルの何とかの間という、ちょっとした体育館よりもはるかに大きい部屋に、主催の新聞社の社長はもちろん、駐日アメリカ大使、弁論会場にも姿をみせた高松宮夫妻ら、錚々たるお歴々が列席し、主賓は常陸宮夫妻であった。かの常連氏は私に、皇太子ご夫妻(註:現天皇と旧正田美智子さん)と一年交替なんですよ、と少し気の毒そうな顔をしてみせたが、大会の表彰式や、大学生のオーケストラの演奏などが盛り込まれた会は、至る所に赤絨毯を敷きつめたみたいな、圧倒されるような晴れがましさであった。

 やがて会も一段落して、常陸宮夫妻らが退席することになり、一同、拍手で送り出したのだが、その時突然、出口付近の席にいた付き添いの母親たちがどっと駆け寄って、常陸宮夫人(註:旧津軽華子さん)に握手を求めはじめたのである。それはまさに、文字通り、「上品」のおこぼれに群がる、あさましい光景以外の何ものでもなかったのだが、その時は、何故かいやな感じはほとんどしなかった。

 それどころか、私自身、その夜、久しぶりに再会した東京在住の友人といっしょに行った新宿あたりの居酒屋で、当時、歌が大ヒットしてスターになりかかっていたある俳優(補註)が「お忍び」みたいな格好で仲間たちと飲んでいるのをみつけた時、いつになく積極的になって、サインを求め、握手をし、さらには大きな声で、レコード大賞取れますよ、などと激励までしたのは、あながちアルコールの勢いばかりではなかった。

 おそらく、先ほどの会の興奮がまだ残っていて、自分はついさっきまで、もっと有名な、もっとすごい人たちと同席していたのだぞ、と、こころのどこかで叫んでいたにちがいない。だとすれば、はしなくも、自分がまだまだ「上品」とは程遠いところにいることを露呈したことになるのだが、正直なところ、いまだに自己嫌悪も感じず、むしろ貴重な体験としてその時の記憶を大事そうに温存している自分に気がつく。

 「下品」な者ほど「上品」という衣装を身につけたがる、というのはまちがいなく真理であるが、これはまた、人間心理にとって、ひとつの大きな陥穽でもあって、それを克服しないかぎり、〈天皇〉という幻想からは解放されないのではないだろうか。だから、そこまでふまえて「上品」という言葉を校訓に取り入れたのだとすれば、この学校の創立者の深慮も相当なものだというべきであろう。



(補注)「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしていた西田敏行。


(初出誌:「雑想」1989年創刊号)


【自註】

 「雑想(That's so ... )」は、高槻中学・高等学校教職員組合の機関誌で、1989年6月に創刊され、1991年10月の第3号まで刊行された。それぞれ65ページ、102ページ、88ページの、いわゆる「労働組合機関誌」の域を超えた、総合誌ともいうべきもので、毎号、教職員有志がいろんなジャンルで、自分の書きたいものを発表していた。


目次へ

 

TExt