廃工場




 もう秋に近くなった或る午後、杉彦は不思議なものを見た。

 その日の昼食後、彼は、隣の恵介に連れられて、この瓦礫の地にやってきた。杉彦はじっとしゃがんで一心に地面を堀っていたが、ふと恵介の方を見ると、彼は堀り出した宝物をそのままにして立ち上り、じっとある一点を見つめているのである。杉彦がつられてそちらに目をやると、今しも見られていることに気付いた一人の男が必死になって簡単な板の塀を乗り越えようとしているところであった。男の服装は汗と垢にまみれたつぎはぎだらけのもので、彼が恐る恐る振り返った一瞬、杉彦はその顔をチラリと見た。その表情にはその行為に似合わぬ恥じらいが覆えなかった。男があとにした畑地は足跡に荒され、折角堀った大根や芋など男はほとんど持って逃げなかった様子だった。そのやせこけた頬の中のどうしても捨てきれぬ自尊心が、一時は男に最大の勇気を与え、畑に侵入させながら、その後、男にとっては全く問題にならぬような子供の視線をまるで監視兵の銃口と混同する程の臆病な人間に変えたのであろうか。しかしそこまで杉彦は洞察できなかった。それは彼が幼なすぎた為もあろうが、それ以上に、彼が僅か数年前に終った戦争について何も知らず、又、男の、平和になる以前の姿を想像だに出来なかった為である。杉彦の目はその男の宿す全ての過去の影に対してはまったく盲目であり、男は非常に臆病な滑稽な畑泥棒でしかなかった。

 恵介は杉彦の最初の友達で、当分の間はたった一人の友達であった。というのは彼らが住んでいるのは塀に囲まれた工場の中であり、そこでは爆撃を受けた地域をとりかたづけたあとに、様々の畑や田圃がつくられ、食物は完全な自給体制にあり、又、その広い敷地は戦争が残したおびただしい破壊と混乱の為、いたるところ杉彦たちの遊び場としては充分に興味深いものであって、彼らの果てしない好奇心をはるかに上まわっていたのである。謂わば彼らの遊び場もまた完全な自給体制に入っており、塀から外に出る必要は全くなかったのである。

 工場の社員たちは戦争終結後、ほとんどがこの工場敷地に集まり、そこに出来合いの様々な家を建てて住んでいた。そして住居と食物の代償の為もあろうか、彼らはたちまち焼け残った機械を動かし、倉庫を開き、操業を開始しはじめたのである。鼻をつくような化学薬品の強い酸性の臭いが辺りにたちこめ、煙突からは真黒な煙が空に向って挑戦するように吹き上がった。

 戦後の砂糖不足で人工甘味料のサッカリンやズルチンが大いに重宝がられ、ほんの片手間に生産したそれらが大いに当って、工場の再建は異常な速さで進んでいった。焼夷弾のために自分の家を焼き払われ、仕方なく工場に住んでいた人達は続々と自分の土地に帰り、簡素な家を建てはじめた。簡素といっても応急の公営住宅やバラックの多い中では、それらの家はひときわ目立ち、近所の人々の羨望の的となった。工場の中の整備も着々と進み、まともに爆撃を受けた旧倉庫の跡には新しい機械をすえつけた新屋が建てられ、鉄筋コンクリートの事務所もつくられた。社員やその家族が日々の糧につくっていた田畑の面積は、社員たちが自分のもとの家に復帰していくなかで次々と減り、手入れされぬ畑が次々と増えていった。

 しかし生産が上ったといっても、とてもその広大な敷地にはかなわない。というのは実は敷地面積は戦前よりもはるかに増大していたのだ。時代に敏感な社長が敗戦で抜けがらのようになった付近の工場経営者の心の空虚に目をつけ、またたく間に安い値段でこの焼け跡を買い切ったのてある。そして新しい土地を含めて周囲を塀で囲い、空いた土地を次々と田畑にしてきたのである。敗戦の虚心が生きる為の混乱へと移ってきた時、付近の旧経営者たちは目を覚した。〈切れ者〉の化学工場の社長から土地と引き替えに握らされた札束は日々、その価値を下落させ、もはやパン一切れも買えなくなってしまったのだ。彼らは不意に水をぶっかけられたように、甘酸っぱい眠りから目を覚し、驚きに目をまるくした。段々と昔の経営意欲がよみ返ってきたが、もうその基盤はなかった。工場の社長にもかけあったが、社長は黙って金庫から小さな紙切れの証書を出し、それを彼らの目の前につきつけて簡単に追っ払った。ある者は一家心中をした。ある者は巷にさまよい出た。そして彼らの家族の一人が空腹に耐えかねて工場の畑へ忍びこんだのを杉彦と恵介が見たのである。

 そのうちに杉彦の一家と恵介の一家の外は全て工場内の仮住まいから去り、立派な家へと移っていった。バラックは壊され、工場の片隅に二戸の住宅が建てられ、残った者はそこへ移った。

 しかし、この二つの家族が居残った理由は全く正反対だった。杉彦の父はこの工場に十数年勤める高級社員で、謂わば不寝(ねず)の管理者として工場内に残ったのであるが、恵介の父は軍隊帰りで何処も行くところがなかったのを拾われて守衛となり、そのまま居座ったのである。彼はひどいアル中だったが何故か社長は彼を解雇しようとはしなかった。『あの社長のことだから、多分、どさくさまぎれに働いた悪事のことで、あの男に何か弱みを握られてでもいるのだろう』 付近の人々は陰にまわってこう言いふらし、又、自分たちでも堅くそう信じていた。




 自然、杉彦と恵介は友達になった。三つ年上の恵介は杉彦にとっては全てにわたる先達ちであり、三年の差はまるで十年以上のように思えた。

 もう一人前に一人歩き出来るようになった杉彦を恵介は工場の畑地へと連れていった。畑の方は柵が設けてあって、そこへ入ると社員の者にこっぴどく叱られるので、そこへは入らず、その横の瓦礫いっぱいの未整地で遊んだ。もともとはコンクリートの建物があったのだろう、無数のコンクリートのかけらが山のようになっており、直撃弾を受けた跡がゴボッとえぐりとられ、雨水が溜って小さな池になっている。建物の礎石の辺りには雑草がおい茂り、ヨモギやススキがあたり一面を覆っていた。

 恵介は杉彦に、そこを掘って様々な金属片やガラス片を見つけ出すことを教えた。釘やボルトや、ガラス瓶、正体不明の金具の一部などを掘り出すのはおもしろかった。恵介はそれを〈宝さがし〉と名付けていた。掘り出した〈宝物〉は水できれいに洗われ、細かい砂を敷いたボール箱にていねいに収められた。

 恵介は宝さがしの天才だった。ある時、一見何の変哲もない地面を、瓦のかけらを磨いてつくったシャベルを使って掘り進み、見事その奥に隠れる完全な形の薬瓶を掘りあてた。今まで一緒に目ぼしいものを見つけて、それを掘り出していたのに、初めて恵介のその離れ業を見せられた時、杉彦は驚きに目を見張り、恍惚感にさえ襲われた。それは杉彦にとっては初めての経験だった。

 それを見てしまってからは、杉彦はもう今までやってきたことが急につまらなく思えてきた。『一体、宝物をただきれいに磨いて箱にしまっておいて何になるんだ…』

 翌日、杉彦はバラック跡から手ごろの瓦を見つけてきて、それをザラザラしたコンクリートの面でていねいに磨いて、恵介のもっているのと同じようなシャベルをつくつた。

 早速、それを手にしてあちこちにしゃがみこみ、盲滅法に掘りはじめた。はじめは何も出ないで空しくそこを去ることもあったし、つまらない石ころや瓦くずぐらいしか出てこないことがほとんどだった。

 「杉ちゃん、駄目だよ、もっとよく見なくちゃあ。ただ掘っていても駄目なんだ。まず宝の在り場所を捜すのさ。その場所はね、地面をよおく見ればわかるんだ。そこは他所(よそ)とは絶対に何処か違っているんだ」

 恵介は真面目な顔で夢見るように言った。そして、瓦礫に汚されていない粘土層のすこし翳ったような一点を見つめ、静かにそこを掘りはじめた。少しずつ掘り出された粘土の山が積まれてゆき、しばらくして小さなガラス片にぶつかった。恵介はそれを取り出し、指先きでその粘土を拭うとツルッとしたガラスの素肌があらわれ、それが初秋の午前の爽やかな陽の光を受けてキラリと輝くと、恵介はニッコリとひとり微笑んだ。何でもない瓶のかけらだったが、澄み切った薄緑色の〈宝物〉に杉彦は軽い嫉妬を感じた。

 恵介がまるでひとりごとのように呟いたあの言葉は、あの時受けた感動と共にいつまでも杉彦の胸を去らなかった。『まず宝の在り場所を捜すのさ。その場所はね、地面をよおく見ればわかるんだ』

 杉彦は何度もその言葉を心の中に繰り返した。杉彦は瓦藻の地に来ても絶対にしゃがまなくなり、立ったままじっと地面を見つめた。恵介の姿は見えなかった。杉彦は冷たく感じる秋の朝の風を頬に感じながらゆっくりと辺りの地面を見まわした。朝露に湿った畑の土と実り始めた小さな田圃が視野の片隅にうつり、ススキが風に揺れていた。杉彦の視線は石ころや煉瓦が埋づまっているところには向けられず、恵介がやったように、柔らかな、指で押すとすぐへこむような粘土質の地面や、湿り気を含んだ砂気の多い地面を選んだ。あの時のうっすらとした地面の翳りを杉彦は捜していた。しかし杉彦はそれを見つけることは出来なかった。

 古い工場跡の瓦礫や田畑の地と新しい操業中の工場の地との間に真赤に塗られた小さな鳥居があり、簡単な石畳を経た奥に、白い瀬戸物のつるつるした狐の像に護られた御稲荷様がある。それは全く偶然に戦火から免れたもので付近の樹々も残っており、いわば小さな森をなしていた。

 杉彦はそこに目をつけた。そこは前々から森特有の深遠な神秘的雰囲気を感じさせていたが、杉彦はそこに恵介のあの言葉と共通なものを見出したのだ。以前誰かに面白半分にあの狐の像にまつわる恐しい話を聞かされたことがあった。それ以後杉彦はその場所を避けて通ったが、その恐しさと共にまた未知の魅力が加わり、益々強く魅いられていった。そして今、杉彦の感じていた神社の森の魔力のような魅惑に強い一本の芯が通り、今までにない行動力を奮い起たせた。暗い森の中から吹いてくる風は爽やかだった。杉彦は瓦のシャベルを右手にしっかりと握り、静かに鳥居の中へ入っていった。

「杉ちゃん!」

 杉彦の背後で鋭い声がした。杉彦は夢遊状態から覚めたようにハッとして後を振り向いた。恵介が立っていた。その目は杉彦のシャベルとそれを握る手にこめられた意志に注がれていた。

「そこはいけない!」

 恵介はポツリと言った。その顔は恐しいほど険しかった。




 それ以来、杉彦は恵介と一緒に遊んでいても常にスキをうかがっていた。一方恵介の方も以前のように杉彦から目を離して自分一人で楽しむということをせずに朝から晩まで杉彦を注意していた。杉彦が一人でこっそりと家を出て、瓦礫の地に向かおうとすると、まるで物陰からじっと見張っていたかのように恵介が現われた。二人はいつも一緒にいたが二人の間には容易に跳びこえ難い懸崖が横たわっていて、ほとんど口を聞かなかった。杉彦は恵介を欺こうと、宝掘りに熱中するふりをしていたが、その心は神社の森を動かなかった。この前、恵介は何故あのように自分を叱りつけたのだろうか。それは杉彦にはわからなかったが、彼の顔の真剣な険しさは、あそこに必ず素晴しい〈宝物〉がある、という杉彦の気持にほとんど完全なまでの確信をもたせた。そして杉彦は土を掘り返しながらも森の中に人知れず隠されている〈宝物〉のことを考えて、激しい輿奮にかられ、それを何度も心の中で反芻した。

 そして、ついに待ちに待った時がきた。或る日のこと、二人がいつものように遊んでいる時、恵介の母親がやってきて、お父さんの酒を買ってきてくれ、と言った。恵介はそれに対して露骨にいやな顔をして、ちょっと杉彦の方を振り向いて睨むような目つきをした。恵介は母親に向かっていろいろとその使いを拒む言葉を吐きつけたが、それが恵介の父親を非難するような口調になってくると母親は突然、この親不幸め、といってパシッと平手打ちをくらわせた。恵介は打たれた頬を押えながら涙ぐんだ目をじっと母親に向けていたが、そのままがっくりと首をたれ、母親に手をひかれて立ち去った。

 杉彦はこの母子の間のいざこざに全く驚いてしまっていたが、恵介の姿が見えなくなったのを見届けると思わず顔をほころばせて鳥居の中へ駈けこんでいった。

 そろそろと日は西に傾き、暗い森を一層暗くしていた。そこに入ると涼しさが急に体に浸み、杉彦の興奮をさまそうとするかのようだった。二匹の狐の像は無表情に杉彦の方を見ていたが、その無表情はまるで事務的な感じで杉彦をいささかも恐怖させなかった。雨風にさらされる永い年月を経た社(やしろ)は周りの樹々と完全に一体となって風景をつくっており、その存在の優越性は失われていた。杉彦はそこにほとんど立ち止まらずに、そのまま社の裏へまわった。数本の大木を隔てた十米ほど先にかすかに塀が見えていた。杉彦はその薄く苔むした地面をじっと見つめていたが、意外なほど冷静にそこにしゃがみこみ、社(やしろ)の真うしろにあたる一点を掘りはじめた。

 その地面は粗い湿った砂の膚をして何かまわりとそぐわないものだった。研(とぎ)澄まされた瓦のシャベルは容易にそれを切り砕いていった。それまで杉彦が掘っていたところは厳しい太陽のために硬く乾燥しており、また掘っていくうちに石ころや煉瓦くずにぶつかるのだが、ここは不思議に何の抵抗もなくシャベルの刃先を受け入れていくのである。

 しばらく掘ったが何も出てこなかった。しかし、何も、石ころひとつ出てこないことが逆に杉彦の確信を高めた。杉彦の目は掘っている穴に集中し、そこから迸(ほとばし)り出る後光のようなものに周りの全ての景色は掻き消されるように見えた。

 シャベルの先がかすかに何かぶつかったようである。その異和感はシャベルの先から手へ、腕を通って一気に杉彦の中に入り、その興奮に火をつけた。

『あったのだ。やっぱりあったのだ。』

 杉彦の手は慎重にシャベルを動かした。益々湿り気を増した土を指先きで取りのけると、そこに何やらくすんだ黄色っぽいものが見えはじめた。いつもとは違う。杉彦は自然に体が引き締ってくるのを感じた。もうシャベルを放り出し、足を伸して体を横たえ、左手をついて体を支えながら右手で土をかきわけていった。右手の指先きは驚くほど器用に動き、体中の全神経がそこに集中し、その物体を探ろうとしていた。杉彦が一部姿を現わしたその物体を触ってみると、それは丸みを帯びていた。そして、あまり強く押えると指がめりこんでしまいそうに思えた。

 半分も掘り出すと、手探りでその物体が何であるか杉彦にもわかりはじめてきた。杉彦は意外に平静な顔付きをしていた。汗ひとつかいていなかった。その物体はもう明らさまに人間の頭蓋であることを示していた。杉彦の手は一瞬の躊躇もなく動き、黄色く変色した頭蓋の食いしばった露わな歯にぎっしりとつまった土をていねいに剥ぎ取っていった。ついで手は再び頭部に伸び、仰むいた頭蓋の額のあたりを撫ではじめた。と、その時、杉彦の手は一瞬ためらい、彼の幼い顔に硬張りが走った。そして待ちかねたように体中から汗がいちどきに噴き出してきた。土はもはや粘着力を失い、じっとりと濡れながらもバラバラに分解していた。杉彦の手は再び動き出した。その手は明らかに震えていた。杉彦はじっと目をつぶり、額の上へ手をすべらし、そこの土の中に手をめりこませ、そこをまさぐった。手は何かをかき集めるように動き、そしてそれをぐっと握りしめるや、杉彦は思い切りそれを引っ張った。鈍い音がして、執念のようにくいついた髪の毛が頭蓋の一部をぶらきげて空中に舞い上った。

 大きな叫び声がして、うしろの社(やしろ)のかげに恵介が立っていた。その絶句した唇はわなわなと震え、動こうとしていたがどうしても声にならないようだった。恵介の目は色褪せた髪の毛をじっと握っている杉彦を見つめ、何か怒りとも悲しみともつかぬ一種の虚しい表情を見せていた。杉彦は恵介に対する恐れも指に巻きついてくる頭蓋の髪の毛の異様な温もりも一切受けつけぬほど極度な無表情に陥っていた。それは幼い子供が時折り示す、あの冷酷な無感動の様子を禁じえなかった。

 既に西日は落ち、暗闇が忍びよっていた。冷やかな風も凪状態に入って止まり、二人はまるで取りまく世界の時間が止まってしまったように、そのままじっと立ちつくしていた。





 その後数日雨が続き、杉彦はずっと家の中に籠もり、父から買ってもらった絵本や漫画の本を見て過した。

 台風が接近しているというニュースがラジオから聞こえ、窓に板を打ちつけたり、戸を釘付けにする音がして段々と暗くなってくる部屋の中で杉彦は寝ころんでじっと絵本を見つづけていた。『日本の自然』という題の絵本には二頁見開きの大きな色彩絵に日本各地の夜昼、春夏秋冬の模様が描かれ、隈っこに童謡のような文句で説明がのせてあった。

『雨がふります。みよちゃんは五月の節句に、たけしちゃんの家へあそびにいきました。雨がふります。ざあざあざあ。庭のあじさい咲いてます。』

 絵の中では小さな番傘をさした着物姿の少女が庭の切り戸を開けて中へ入ろうとしている。庭に向って開けられた縁側の部屋に五月人形が並べられ、数人の男の子や女の子がその前に坐ってお菓子を食べながら何やら打ち興じており、庭の中央には青いあじさいが大きく描かれていた。

 次の頁をめくると、満月に照り映える空の下にくっきりと浮かび上った藁葺きの農家の絵があり、それは杉彦に、去年の夏に行った田舎の親戚の家での一夜を思い起こさせた。

 と思うと、その次の頁には今日と同じような台風前夜の漁港の町があり、傘をしぼめて吹き降りの街路を急いで家路に向かう人々の上を黒いちぎれ雲が走り、灰色の空の所々の異様な明るさが嵐の前の不安をより高めていた。

 杉彦は雨の日はいつもこのように本を読んでいた。本の数は3、4冊しかなく、それを何度も何度も繰り返して読むのでボロボロになっていた。とりわけ、この『日本の自然』はそうで、杉彦は母から教えられたばかりのひらがなをひとつひとつ丹念に声を出して読みながら、今まで自分の見たことのない世界がこの本の中にあるのに子供っぽい感動を感じていた。

 文字を読み取るのはまだ拙かったが、絵の印象は充分にそれを補った。一枚一枚の絵の中に繰り拡げられる静かな日本の風景と鷹揚な子供たち、それらが杉彦の周囲と違っていれば違っている程、杉彦はそれを身近に感じ、あたかも現在の工場の中と、絵本の中の二つの幼年時代

を同時に生きているような錯覚を起こさせた。その杉彦の頭の中に刻み込まれ、整理された絵本の世界は表紙を一度ひらけると同時に杉彦の前にひらかれ、工場の無機質の世界に噎(む)せた杉彦の心を優しくほぐすのだった。そして雨は杉彦の絵本の中の彷徨の前ぶれであり、いつしか杉彦は雨を待ち遠しく思うようになった。

 この前、社(やしろ)の裏で恵介と対峙した時以来ずっと雨続きだった。あの時、杉彦がポトリと足許に投げ捨てた頭蓋のかけらを恵介が急いで走り寄って拾い上げ、それをもとの穴におさめて、きれいに土をかけ、さらにその上を何度も何度も足で踏み固めている姿を杉彦は何も考えず、まるで当り前のことをしているように眺めていた。そして、その時むしろ恵介の方が、その名も知れぬ墓を掘り出したのを見つけられたように慌てていた。それを見た杉彦は、恵介のあの颯爽とした〈宝さがし〉の姿に対する嫉妬も劣等感も消えてしまったのを感じた。恵介はむしろ自分を恐れていたに違いない、と杉彦は思った。

 台風を伴った数日来の雨はいろいろな意味で杉彦を平静にした。杉彦はあの時自分が行ったこと、そして恵介に対して感じたことが段々とはっきりと自分に見えてくるに従って、それらがとてつもなく恐るべき事であることを身にしみて感じ出したし、又、一方、平静になるにつれてそれらが結局は許されねば仕様がない事だ、とも感じたのである。平静は鎮静剤でもあり、又麻痺剤でもあって、悲観と楽観の両方を描き出し、最後には楽観の方を選ぶのだった。

 だから雨は幸運だった。絵本の安らかな架空の世界は益々杉彦を和らげ、勇気を与えたし、恵介にもしばらくは会わなくてすんだ。又、一人でいると全てが自分中心に動いているという錯覚に陥り、心配なことは全て切り捨て、安心させることはいかに些細なことでも確実に増殖を続け、杉彦を無限に勇気づけた。そして杉彦はついにこう決心した。

『雨が止んだら、ぽくの方から恵ちゃんに会いに行こう』

 そして杉彦は再ぴ、静かに『日本の自然』の頁をめくった。





 翌日は快晴、雲ひとつなかった。台風の進路は逸れ、昨夜僅かに暴風が吹いたにとどまった。

 空は真青で、その青さが地上の全ての湿気を吸ったように爽やかだった。しかし、何もないただ青一面の空に秋の太陽のやわらいだ光が満ちているのをじっと眺めていると、杉彦から段々と昨日の勇気が薄らいでいく様だった。朝一番に恵介のところへ行こうと、こうして外に飛び出したのだが、まるで遮蔽物のない陽光は突然杉彦の心の奥を底深くまで照らし出し、その複雑な心理構造を全て暴き出してしまったかのようであった。ピシャリと閉っている恵介の家の硝子戸は一層杉彦を挫けさせた。

 杉彦は昼まで待った。別に何の目論見もない、ただの時間かせぎだった。

 昼食後も杉彦は動かなかった。中天の太陽は真上から杉彦を見張っていた。太陽がこんなに恐しく見えたことはなかった。

 ようやく三時過ぎ、太陽が明らかに傾き始めた時、遙か高層に幾筋かの巻雲が現れた。この時を逃してはもうない、と杉彦は感じ、巻雲の崩した緊張の裂け目から一目散に太陽の支配を脱け出した。全身から夢の要素を出来るだけ集め、無理矢理に夢の中へ自分を閉じこめるようにして、杉彦は恵介の家の硝子戸を開けた。

 恵介の家へ入ったのは初めてだったが、その中を見て杉彦は驚いた。ひどい荒れ様である。まだ新築して二年余りにしかならないのに、畳はところどころ磨り減り、目の至るところに細かいゴミや灰などがつまっていて藺草の新鮮な青さはもはや完全に失われていた。

 世帯道具らしきものは何もなく、部屋の隈っこの数個の石炭箱がそれを代用しているらしかった。玄関と台所をつなぐドアは蝶番が片方はずれて開けたままになり、その奥の土間にポツンと、七輪と釜とが置かれていた。杉彦の家とは一棟になっており、造りも全く同じはずなのだが、その荒れ方の為、全然そんな風には思えなかった。それに部屋全体が異様に広々として、それが余計に混乱を収拾不能にしているように思えた。

 その時、部屋の中央の、綿が至るところはみ出た布団がムクムクと動き、恵介の父親が起き上った。油ぎった赤い顔をして目は充血していた。彼は枕もとの四合瓶を手にとり、口でその栓をはずしペッと横に吐き捨てると、そのまま残りの焼酎を飲み干し、布団の上へ空になった瓶を乱暴に転がすと、じっと杉彦の方を睨みつけた。

「何だ ! 何か用か !」

 その声は耐え難い悪意を含んでいた。これまで会社の中で何回も会った素面(しらふ)のこの人は杉彦のことを坊ちゃん、坊ちゃんと言って、優しい顔で時々飴玉などをくれたのである。

「恵ちゃん居る?」

 杉彦は恐る恐る尋ねた。

「恵介? 恵介はいねえよ」

 彼は杉彦に何の遠慮もなく、不機嫌な顔で言った。それは以後の会話を拒否するような調子で放たれた。しかし杉彦はこのまま逃げ出したくなるのをじっと堪えた。もう一つ問いを発しなければならない。今を逃してはもう機会はない。

「おじさん。恵ちゃんは何処へ行ったの?」

 沈黙が続いた。

 恵介の父親はしばらく杉彦を睨みつけていたが、ふと視線を落し、そのまま考えこむようにうなだれた。酒精がしだいに彼から去っていくように思えた。

「〈外〉へ行ったんだろ」

 彼はポツリとこう言うと、バッタリと仰むけになり、顔をそむけてそのまま目を閉じた。その目はもう開きそうにはなかった。

 杉彦は急に部屋の中の悪臭に嫌悪を感じ、飛び出すようにして恵介の家を出た。空を見上げると、巻雲はその数を増していた。杉彦の足はそのままフワフワと何ものかに手を引かれるように工場の門へ向っていた。

 工場の門を一人で出るのは初めてだった。〈外〉は色づいた田圃と公営住宅だけで、人は杉彦の他はひとりも通っていなかった。杉彦は公営住宅の方へ歩いていった。薄いコールタールが塗られた木造板張りの住宅、その周りのささやかな庭と垣根。同じ造りの家がズラッと並んで建っていた。無気味に静まりかえった住宅街の中へ入った時、杉彦は遠くの方で大勢の人の声を聞いた。杉彦がそちらの方へ歩いていくと、ずっとむこうに瓦礫に埋もれた空地が見えた。

 空地では、十人余りの付近の小学生らしい子供たちが「缶蹴り」をして遊んでいた。多分学校の帰り道にそこに集まったのだろう、空地の隈の大きなコンクリートの礎石の上にいくつものズックの鞄が置いてあった。ここにも以前は工場があったらしく、無秩序に生え繁った雑草の間にやはりコンクリートや石、鉄くずなどが無数に散らばっていたが、それらはこの空地の主役とはなりえず、その上に悠然と聳える建物の残骸に圧倒されていた。セメントで固められた柱からは太い針金の芯が所々はみ出ており、壁の表面の漆喰は剥げ落ちて、中の規則正しい煉瓦模様が露わになっていた。

 杉彦は空地の周りに応急的に作られた低い針金の柵のそばに立って、彼らのやっている遊びをじっと眺めていた。空地の中央の比較的片付いた平らかな所に円が描かれ、その中に缶詰の空缶が伏せて置かれている。それをめぐって彼らは互いに駈け引きを凝らしていた。空缶に常に注意を配りながら、〈鬼〉は敏捷に動きまわり、巧みにかくれている者を見つけると、素早く空缶の所に駈け戻り、それに軽く足でタッチする。彼のまわりには厳しい緊張が漲(みなぎ)っていた。それを乱そうとするかのように、既に見つけられてしまった者たちは口に手をあてて、時には声色を使いながら、かくれている仲間たちに注意を促し、又〈鬼〉を激しく牽制する。かくれている者の中には、犬の鳴き真似をしたり、鼻をつまんで出したような声を作って、それに応える者もいる。空地の中いっぱいにこれらの声が響きわたって、その中で〈鬼〉だけは全くの無言でそれに耐えながら緊張を持続しているのが、そのおそろしく真剣な表情の中にあらわれていた。ところが誰かがその隙(すき)をついて、スルスルと缶に近づき、それを走りざま蹴とばすと、ワァーという解き放たれた歓声と、缶の転がる金属性の音がして、それまで緊張しきっていた空気が一挙に乱れ、パタパタという足音と凄しい砂埃がしてみんな駈け出し、そして、〈鬼〉が空缶を拾って、もとの場所に戻った時には、あたりは物音ひとつなく、まるでみんな空地の外の何処か遠い所へ逃げ去ってしまったような静けさがやってきて、又、しぱらくすると、徐々に、以前のような緊張が高まっていく。これらの鮮かな場面の転換に、杉彦はただうっとりとしてそれに見とれていた。

 その時、崩れ落ちた煉瓦壁の陰から必死な顔で空缶に向かって走り出してきた恵介の姿を杉彦は見た。咄嗟にそれを見つけた〈鬼〉は恵介の名を叫びながら正反対の方向から空缶に向かった。そして丁度、空缶の真上あたりで二人は正面衝突して、そのままもつれあって倒れたが、円の中の空缶はもとの位置を動いていなかった。

 起き上って、服とズボンについた土を払っていた恵介がふと視線を上げた時、杉彦と目が合った。恵介は一瞬顔色を変え、とまどいを見せた。しかし杉彦は、やや安心したような、柔かい表情をしていた。恵介は無理に笑顔を作り、杉彦の方に右手をちょっと上げて応えると、そのまま遊びの列へと戻っていった。





 杉彦の気持は急速に変貌しつつあった。「缶蹴り」を見る目も単なる好奇心の上に親近感が加っていた。初めて一人で〈外〉に出てきたことに対して無意識に自分の心の周りに築いていた防壁は、ひとつひとつ取りはずされていった。自分が今、こうして恵介の動いている姿を何の咎めもなしに見ることが出来るということで、杉彦は、今までの恵介とのわだかまりが徐々に解消されつつあると感じていた。又、こうして外で遊んでいる恵介が、ここでは、単に大勢の中の一人でしかなく、あの工場の中での精彩が全くといってよいほど見られないことも杉彦の気持を強くしていた。

 何回か遊びが繰り返されて、皆が疲れ、適当にその辺に坐って休んでいる時、杉彦は、一人離れて大きな石の上に腰かけている恵介のところへ走り寄った。

「ねえ、もう終るの?」

 杉彦は、自分が何故か浮き浮きしているのを感じていた。

「いや、まだ終らないさ」

 うつむいて足許の地面を見つめながら恵介は静かに答えた。

「ねえ、おもしろい?」

「おもしろいさ」

「〈宝さがし〉よりも?」

 一瞬、恵介はギクリとしたようだった。そして、ゆっくりと顔を上げて杉彦の方を見た。杉彦は身じろぎさえしたかった。恵介は又視線をそらし、吐きつけるように言った。

「もちろんさ」

 恵介は、杉彦が続いて何か言おうとするのを暗黙に制するように、足許の錆びた釘を拾うと、地面を足でならして、その釘で絵を描きはじめた。何気なく動いているようなその釘の先端は煙突らしきものを描いていた。

「それなあに?」

 覗き込むようにして杉彦が尋ねたのを、恵介はうるさそうに無視して、鋸型の屋根をそれに描き加えた。杉彦がなおも覗き込んでいると、恵介は出来上りかけたその絵を足で乱暴に消してしまい、杉彦が離れるのを強要するように釘を置いた。そして杉彦が自分でも釘を見つけて絵を描きはじめると、恵介は何か考えこんでいるような虚ろな眼差で、又釘先を走らせはじめた。

 既に太陽は西に傾き、そのやや赤みを帯びた光は地上の全てのものを不吉な色に染めはじめていた。

 杉彦はいつも絵本で見ている進駐軍のジープの絵を描いていた。頑丈な車体を描き、車輪を描き、乗っているMPを描こうとした時、隣でサッサッと地面を擦る音がして、不意にこちらに向き直った恵介が意外にはっきりとした語調で言った。

「どうだ、杉ちゃんも入らないか?」

 ジープを描いている釘先の動きが急に痙撃したように止り、杉彦は唖然とした顔で恵介の方を見た。突然放たれた、この反撃するような言葉は、平穏な水面に投げこまれた小石のように、杉彦の心に大きな動揺をもたらしていた。この空地での一時間ほどの間に、静かに杉彦の胸の中に蓄積されていたこの遊びに対するウズウズするような好奇心は、この恵介の一言で急に明るみに出され、明確な形を取りはじめた。杉彦は、自分の心の中で、秘かな夢が思いがけなく実現された嬉しさと、逆に、実現されてしまったために背負わねばならなくなったものに対する不安とが同時に生まれ、それらが拮抗しあって互いに上昇し、ついに、誰かがふと触れればたちまちそちらに傾くような極度に尖った、鋭い均衡状態に追いつめられてしまったのを感じていた。そして畳みかけるような恵介の第二の言葉は強引に杉彦を「缶蹴り」の方へ引っぱっていこうとした。

「あれだけ見ていたら大体は憶えただろ?」

「うん ..... 」

「それじゃあ、もう出来るよ。おもしろいぜ、とっても」

「うん。でも ..... もし〈鬼〉になったら、ぼく、できるかなあ?」

「〈鬼〉? 〈鬼〉なんてね、やってみれば案外簡単なんだよ。それにね、杉ちゃんは小さいから、皆、きっと手加減してくれるよ」

 優し気な恵介の言葉は段々と杉彦を追いつめていき、杉彦はもはや自分が、断わるにも断われない深みに陥ってしまったのに気付いていた。恵介の異様に鋭さを増した目は、無言のうちに杉彦の受諾を強要していた。時の経過はこの時は少しも杉彦の助けとはならず、逆に決断を迫っているようだった。しばらくの沈黙ののち、杉彦は疲れはてたようにうなずいた。

「よし、それで決った」

 恵介はニヤッと笑うと、腰かけていた石から立ち上り、そのままリーダーらしき体格の大きい小学生のところへ行ってそのことを告げた。その小学生はそれを聞いてうなづき、あちこちで雑談に耽っていた者たちに何か言うと、みんなは新しい好奇心を呼び起されたように立ち上った。杉彦はそれらを何かひとごとのような空々しい気持で眺めていた。

 遊びが始められたが、その興奮は杉彦の全く外で渦巻いているようだった。そして何回目かに杉彦は〈鬼〉になってしまった。

 リーダーの小学生が円の中央に置かれた缶を思い切り蹴り上げると、缶は空中に弧を描いて舞い上り、瓦礫の山のむこうの雑草の中に落ちた。杉彦がそれを取りに行っている間にみんなは隠れ、杉彦は空地の中で一人ぼっちになった。一人でいるという安心感が、周りからたえず見られているという事実に裏切られて、急に淋しさがこみ上げてくるようだった。この遊びに対する好奇心は今はもう全く消えうせていた。

 杉彦が空缶のそばで呆然としていると、どこからか声がした。

「〈鬼〉さんこちら、〈鬼〉さんこちら」

 杉彦がそちらの方へ歩きかけると、そばの柱の陰から誰かが跳び出してきて、円の中の空缶を蹴り、そのまま走り去った。缶はコンクリートの屑がいっぱい散らばっている所に転げ、缶の転げる音だけが激しく響いた。

 そんなことが二回三回と繰り返されると、みんなは「〈鬼〉さん、〈鬼〉さん」とふざけるような声で言いながら、あちこちからチョイチョイと首を出したり、今かくれている場所から他の場所へ走り移ったりしはじめた。杉彦はそれらの一人の名前を呼んで足許の缶にタッチした。手加減というのはこのことかと杉彦はぼんやりと考えた。しかし、その考えはたちまち裏切られた。見つけられた者の顔は険しかった。

「おまえ、もっと缶から離れなきゃあ駄目じゃないか。じっとしてたらちっともおもしろくねえや」

 彼は詰(なじ)るようにそう言うと、大声で、

「おーい、この〈鬼〉はちっとも動かねえからな、みんなじっとしていろよ」と叫んだ。

 杉彦はこの露骨な強制に、せき立てられるように、みんながかくれていそうな煉瓦壁のところまで走っていった。すると、そこに二、三人がかたまってかくれていたので、杉彦はその名前を呼びながら缶の方へ走った。しかし、うしろからその三人が追いかけてきて、空缶の寸前で、杉彦を追い抜き、缶を蹴り飛ばした。そして中の一人が走りながら杉彦に足をかけたので、杉彦はその場にもんどりうって倒れた。みんなが軽蔑したような大声で笑うのが聞えた。さっき杉彦を詰(なじ)った者などは手をたたいて大はしゃぎしながら逃げ去った。杉彦の膝は擦り剥けて血が滲んでいた。杉彦は足を引き摺り引き摺り、空缶を拾いにむかった。

 三十分は経ったろうか。杉彦は恵介がこの遊びを使って自分を〈制裁〉しているに違いないと思いはじめた。はじめは、恵介が何か手助けしてくれるのを秘かに待っていたが、恵介は逆に、杉彦の隙(すき)をねらって何度も何度も缶を蹴った。杉彦が見ていた時のような、明るいなごやかな雰囲気はなく、目に見えない悪意の矢が杉彦に集中しているようだった。

 杉彦はついに耐えきれなくなって、みんなが一番かくれていそうな、崩れ落ちたコンクリートの建物の方へ歩いていった。うしろで誰かが缶を蹴った音がしたが、杉彦はかまわず歩いていった。その建物の中に恵介がいた。恵介を見ると、杉彦はじっと唇を噛みしめて歩みより、恵介の胸といわず、顔といわず、思い切り拳しを固めて殴りつけた。杉彦の目は真赤に充血し、涙が顔一面を覆った。恵介は杉彦が殴るにまかせて、そのままじっと立ちつくしていた。

 みんながこの騒ぎに驚き、一斉に集ってきた。

「おい、何をするんだ。おまえは〈鬼〉じゃないか。早く缶を拾いに行け!」

 そう言いざま、リーダーの小学生がうしろから杉彦をひき離し、そのまま反対側に突き飛ばした。その行為に杉彦は激昂し、「畜生!」と言いながらその小学生に突進していった。

「やるのか?」

 小学生はこの杉彦の思いがけない反撃に、不敵に笑って、そのまま杉彦を足場のいいところまで押していき、その胸倉を取ると、思い切り杉彦を投げ飛ばした。

 もはや太陽は西に沈みかけ、あたりは赤一色になっていた。杉彦の小さな体は大柄の小学生によって、軽々と、二回、三回と宙に舞った。夕陽が逆光となって二人にあたり、二人の姿はまるで真赤な画面にうつされた影絵のように動いていた。

「ちえっ、なんてやつだ」

 リーダーの小学生は吐きすてるようにそう呟くと、周りに群がっている仲間たちを促した。倒れ伏している杉彦を残して、みんなぞろぞろと立ち去っていった。恵介の姿もなかった。

 杉彦はしばらく一人でそこにじっと泣き伏していた。あたりには冷たい風が吹きはじめていた。杉彦はそのまま立ち上ると、泥も血もそのままで、とぼとぼと工場の方へ歩き出した。

 もう空は真暗になり、西の方に一番星が輝いていた。田圃を隔てたずっと遠くに人家の灯りが幾つか見え、どこからか汽笛の音が聞こえてくるようだった。


(初出誌:「光芒」第3号 1967年11月)



【自註】 

 同人誌「光芒」は、1965年11月、当時、京都大学文学部2回生4組(L4:エル・フォーと呼ばれていた)の有志を中心に創刊され、1968年9月の、第4号まで刊行された。ちなみに、1945年生まれの筆者(福島)は創刊当時は20才であった。