文体について ---太宰治覚え書き---


 「日記」というものが、私にとって、自分の文章を書きはじめた最初ではなかったかと思う。
 振り返ってみれば、小学校の宿題としての絵日記から、現在の、時々思い出したように心の鬱屈を書き殴るノートまで、その量は厖大なものであろう。その殆んどは散逸したり、或いは押入れの奥に埋れているが、いわば精神の排泄物であるこれら文章の堆積を、いまいちど埃を払って読み返そうという気は起らない。その中に書かれていることは、たとえ何十年経っても殆んど頭の中に入っているような気もするが、実際は、全く忘れ去っているのかもしれない。書いている時は、いずれ何年かのちに読み返すこともあろうか、という記録者的な律義さもいくらかあったが、いざその時になれば、懐しいよりも、当時の気負いや感情の幼なさがやたら気恥しく、とても丹念にぺージを繰る気などしなくなってしまうのである。
 中学生の頃、担任の先生に時々日記帳を提出して読んでもらっていたことがある。返してもらうと、余白に先生の感想が書きそえてあった。当初は小学生みたいな無邪気な気持で提出していたのであろうが、回を重ねるにつれて、段々気持もほぐれ、又、その年頃なりの精神的な成長もあって、心に思っていることなどをいろいろと書き記すようになった。教室などで面と向かっては、打ち解けられず、むしろよそよそしいふりをしていた位であったが、週に一度提出するノートには何でも書けるような気がし、他人には言えない悩み事などを思い切って書いたりしたこともあった。
 しかし、それによって何か具体的な助言を得たいというのではなく、ただ読んでもらい、そして時々ちよっとした褒めことばでも書いてもらうだけで、大きな励ましとなったのである。当時、積極的に自己を表現するすべを知らなかった私にとって、それは貴重な、精神の捌け口であり、魂の解放感を味わうとともに、知らず知らずのうちに、書くことのおもしろさをおぼえていったのかもしれない。
 高校に入ると、「青春」の悩ましい思いを日記帳に書き綴ることが多くなり、そのためノートの量も飛躍的に増大していった。
 入学式の日、同じ新入生の中に、信じられぬ位黒く輝く瞳をもった少女をみつけた。思わずじっと見つめていると、その熱い視線に気付いたのか、少女はふとこちらを振りむき、その時、私に向かってかすかな微笑みを返したように思った。そしてそれ以来、その少女が私のノートの中に頻繁に現れるようになった。
 学校でちらちら見かける横顔、時折り耳に入ってくるその名前、これらほんの僅かな事柄を素材に、少女の姿は私のノートの中で大きなイメージヘと育っていった。そしてその冬、年賀状を書いていて、ふと少女にも一枚出してみようと思いたった。
 全く普通の年賀状に過ぎなかったが、私にとっては一大決心であり、まるで恋文を書くみたいに胸が震えた。というのは、ノートの中でこそ何度も私を切ない思いにさせた恋しいひとではあったが、実際はそれまで口をきいたこともなかったのである。
 私の投じた小石が果してどんな波紋を描いたのかはっきりせぬままに、次の年の秋になり、体育祭がやってきた。その昼休み、グランドで行われたフォークダンスの、順々に交代していくペアの相手の中に少女の姿をみとめた時、私の胸は、驚きとも喜こびとも畏れともつかぬ、張り裂けんばかりの動揺にみまわれた。
 いよいよ少女とペアを組む番になり、私と真正面に向き合った時、彼女は一瞬にこりとはにかんだような微笑みを浮べた。ペアとなったのはほんの十秒あまりであったが、その間、熱い興奮が、つーんと私の頭のてっぺんを突き抜けた感じであった。そっと抱いた肩はガラス細工のように壊れそうで、軽く握った手は柔かく、不思議な位すべすべしていた。
 今思えば、この時が頂点であったのだ。私の中につくられたイメージと、その現実の柔かい肉体とが瞬間交差し、激しく火花を散らしたのであった。その後、三年生になって偶然同じクラスとなり、お互い口をきくようにもなった。例の年賀状のことを彼女はよく覚えており、それが架け橋となって親密感も芽ばえ、私に対する好意のようなものさえ感じられるようになったが、それと反比例するかのように、彼女に対する私の熱はさめていったのである。肉体をもつ現実の女性と、イメージの中の物言わぬ微笑みとが食い違ったのであろうか。いつしか私は、現実よりも観念の中の世界を選んでしまっており、その時の依怙地なまでの頑なさは、のちになって忌々しいほどの悔いを残したのであった。
 「日記」を書く原動力となるのは、心の中のどうしようもない衝動のようなものだと思うが、そのうち、そういうものをただ書き殴るだけではすまなくなり、そのような本来突発的ででたらめなものの羅列に、整合性を与えるようになってくる。
 知らず知らずのうちに、ノートの中では、今日の自分は昨日の自分とは矛盾したものであってはならず、もしそんな時には、そこに何らかの弁解めいた分析を書きつけておかねば気がすまなくなってくる。別にあえてそうしようと意図した訳でもないのに、いつの間にか、過去、現在、未来と一本につながった自分を設定してしまっており、そのうち、それが現実の自分とは肝心な点で異なっているということを見過ごして、ノートの中に書きつけられた自分を、現実の自分だと錯覚してしまうのである。
 日常の自分の行動は、意識された以前のものである。こうせねば、と行動することや、行動したあとで、このように行動したのだ、などと、ことばという回路を通して追認できることは行動のうちの一部でしかない。自分で自分を見つめる、という自意識の作用をとびこえたところで、既に行動してしまっているのである。
 実際の行動とは瞬間瞬間に燃え尽きてしまうものだが、時として、その一瞬のイメージがまるで一枚の写真のように心の中に焼きついていることがある。それがことばを通して肉付けされ、「過去」として「記憶」に残る。この過程は無意識のものなので、「過去」はそっくりそのまま頭の中に蓄積されているようにみえるが、本当は「現在」の主観に色付けられたものだ、というのが真実であろう。
 だから「記憶」の記録でもある「日記」には、事実として記されていることにも相対的な主観が含まれており、ましてや感想などの場合、実際その時の感想というより、「日記」を書いている時の感想、といった方がより妥当かもしれない。
 又、ことばの呪縛ということがある。いや、あるように思う。少なくとも、影かもしれぬが、その影に対する怯えだけはある。
 例えば、「日記」の中の「私」の整合性が、現実の私を脅かしているのではないか、信じられぬ位黒く輝く瞳をもった少女への私の恋情は、「日記」の中の「私」によって絞殺されたのではないか、ということである。
 ノートの中でこうときめつけた少女のイメージに対して反応しているイメージとしての「私」、そういう「私」の願望が、現実の私を金縛りにし、〈当為〉としての行動を強いたのではないか。いいかえれば、少女に対する「恋情」も、実は、現実の少女とは別箇のところでつくりあげられたものではないか。そしてつくりあげられた「恋情」を現実に対して忠実に適用しなければならぬ、という義務感のようなものが苦しくて、結局、少女から遠ざかったのではないだろうか。
 文章を書くということ、とくに自分のことを書く時には、常にそういうものが付きまとうような気がする。自分に関する過去、或いは現在をそのまま文章として書いたとしても、そしてそれがいかに自分の実生活に忠実で率直な記録、又は告白であったとしても、それは、書くという過程を通すことによって、必然的に現実の自分とは離れた、いわば、「私」という一人称を使った小説になってしまうのではないだろうか。
 自分のことを書く時、いわゆる世間的な体面とか、自分に直接つながった小社会の中での羞恥心を乗りこえる努力が必要なことがある。破れかぶれ、というと変だが、自分はこういう人間である、という居直った心境、いいかえれば、現在の自分に強い自信がもてる心境にならねばならない。その時、はじめて自分の文章が書けるようになったといえるのであろうが、それと同時に、もうひとつのことが必要だと思う。即ち、その文章の中の「私」を創造することである。
 現実の自分とはとうてい文章にはならぬ支離滅裂なもので、少なくとも作品にはなりえない。作品として読むに耐えるものにするには、文章の中の「私」に、ある性格設定をしなければならない。現実の自分を基にし、それを整理し、一定の性格をもつ、主人公の「私」を創造しなければならない。その時、「私」と現実の自分との間の僅かな落差に、自己告白の充実感と創造のよろこびが生れてくるのである。
 と、ここまで言わずもがなのことを書き綴ってきたが、実は、私は太宰治のことを書きたいのである。といっても、いざ書こうとして一体どこから書きはじめてよいのかわからないのだ。
 これまで、約15年位かけてぼつぼつと思い出したようにその作品を読み続けてきた。何度も読み返したものもあるし、又、はじめて読んだ太宰作品である『斜陽』のようにそれ以後ぺージを開いていないものもある。そしてこれまで折りにふれて買い集めてきた全集(その装幀も3種類にわたっている)を前にすると、未だ一度も読んでいない作品もかなりありそうなのだ。一度この機会に、とわざわざノートまで用意してその初期作品から読みはじめてみたのであるが、一作読むごとにノートをとっていくという作業は私にはどうも味気なく、提出を強要された研究論文の準備をしているみたいで、結局ノートはやめてしまった。
 これを材料に何か書いてやろう、という思惑から離れると、私にとって、小説としてこれに優るおもしろいものはなく、つい先日はじめて読んだ『正義と微笑』など、途中でやめられないでとうとう徹夜してしまった位である。そんな作品にかぎって、それをネタに何か書こうなどという邪心を全く封じてしまうもので、その見事さの前に沈黙してしまう感じなのだ。
 太宰については、今回まとめきってしまうのは無理であるし、私もそうしたいとは思わない。何かあるものについて書くという時には、多かれ少なかれ、それまでそれに熱中してきた自分を整理しなければならない。自分がこれまでその作家から浴びた「毒」を清算し、その作家を自分の中の或る場所に封じ込めてしまわなければならない。私としてはそういうかたちで太宰と縁を切りたくないし、これからも気が向けばその作品を紐解く、ということを続けたいと思っている。だからこのあとは、太宰についての私の感想などを未整理なままに書き記しておきたいと思う。

 まず、太宰治に於ける、「作家」の成立ということである。全集第1巻の冒頭には短篇集『晩年』が置かれており、その第1ぺージを開けると次のような有名な書き出しではじまる『葉』という作品がある。

 死なうと思つてゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらつた。お年玉としてである。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられてゐた。これは夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思つた。

 私が『晩年』をはじめて読んだのは高校三年の時である。その前に、国語の課題図書の一冊として『斜陽』を読んでいた。その時買った本に一緒に入っていた『ヴィヨンの妻』も読んだ。しかし感想文を書かねばならないという窮屈さのためか、それほどおもしろいとは思わなかったようである。奇妙な味わいの作品だな、と思った位で、まだ未熟であった私には、その内容がよく理解できなかったのであろう。そのちょっと前、高校生向きの或る雑誌の投稿欄で、太宰治という名前をはじめて見た。確か、『葉』の冒頭の部分を読んでハッとしました、私の求めていたのはこれだと思いました、私は太宰のデカダンなところが好きです、といった内容の一女子高生の投書であった。デカダンということばを聞いたのもその時がはじめてであったと思う。
 『晩年』は或る友人に借りたのであった。全く文学臭などない同級生であったが、どういう訳か全集の第1巻を学校へ持ってきていた。兄の本棚にあったのだ、という。ちょっと開いてみると仲々おもしろそうで、そのまま彼から借りて、折りからの夏休み、家で寝転びながらぺージを開いた。
 そして『葉』の文章が目に入ったのである。例の雑誌の投稿を思い出し、ああ、これか、と思った。あらためて原文に触れて、新鮮なショックを感じた。これまで「死」ということなど全く考えたことのないのん気な高校生であった私には、「死なう」という、はっきりと一人称の意志を示す文章は全く驚きであり、これは軽々しくは読めないな、という緊張感を与えるには充分であった。しかし読み進んでいって、これは他人事ではないぞ、と、ぐっと膝を乗り出し、何度も読み返したのは『思ひ出』の次のような文章であった。

 私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は當惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。

 自分で自分の姿を見る、という自意識の作用をこれほどはっきりと書いた文章を読んだのははじめてだった。又、この箇所の少し前の、裏の墓地に百米の直線コオスを作り、ひとりでまじめに走った、という件りを読んで自分とよく似ているな、とも思った。
 自分のことを言い当てられた、というより、人間誰しも、このようなことがあるのであろう。ただ他人には言わず、例えば日記などに秘かに記しておくだけで、ちょうどそういう日記か私信を垣間見たような、或いは、他人から思わぬ秘密を打ち明けられたような感じがしたのである。太宰の名を他人の前で出す時に感じるあの気恥ずかしさのようなものは、彼の文章のこういうところに拠るのではないかとも思う。『晩年』執筆の頃の事情は、『東京八景』に次のように書かれている。

 けれども私は、少しづつ、どうやら阿呆から眼ざめてゐた。遺書を綴つた。「思ひ出」百枚である。今では、この「思ひ出」が私の処女作といふ事になつてゐる。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思つたのである。二十四歳の秋の事である。草蓬々の広い廃園を眺めながら、私は離れの一室に坐つて、めつきり笑を失つてゐた。私は、再び死ねつもりでゐた。きざと言へば、きざである。いい気なものであつた。私は、やはり、人生をドラマと見倣してゐた。いや、ドラマを人生と見倣してゐた。(中略)
 けれども人生は、ドラマでなかつた。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割を以て登場しながら、最後まで退場しない男もゐる。小さい遺書のつもりで、こんな穢い子供もゐましたといふ幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴つたのであるが、その遣書が、逆に猛烈に気がかりになつて、私の虚無に幽かな燭燈(ともし)がともつた。死に切れなかつた。その「思ひ出」一篇だけでは、なんとしても、不満になつて来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を、書いて置きたい。けふ迄の生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まづ、鎌倉の事件を書いて、駄目。どこかに手落ちが在る。さらに又、一作書いて、やはり不満である。溜息ついて、また次の一作にとりかかる。ピリオドを打ち得ず、小さいコンマの連続だけである。永遠においでおいでの、あの悪魔(デモン)に、私はそろそろ食はれかけてゐた。蟷螂の斧である。
(中略)私は毎夜、眠られなかつた。安い酒を飲んだ。痰が、やたらに出た。病気かも知れぬと思ふのだが、私は、それどころでは無かつた。早く、あの、紙袋の中の作品集を纏めあげたかつた。身勝手な、いい気な考へであらうが、私はそれを、皆へのお詫びとして残したかつた。私に出来る精一ぱいの事であつた。そのとしの晩秋に、私は、どうやら書き上げた。二十数篇の中、十四篇だけを選び出し、あとの作品は、書き損じの原稿と共に焼き捨てた。行李一杯ぶんは充分にあつた。庭に持ち出して、きれいに燃やした。


 年譜などによれば、太宰は青森中学、弘前高校時代に、友人や兄弟たちといくつかの同人雑誌を出し、そこに多数の作品を発表している。昭和5年4月、東京帝国大学入学のため上京、そしてこの頃から非合法運動に関係す、とある。その後、愛人小山初代の家出上京、鎌倉での女給との心中未遂、翌年、初代と正式に世帯をもち、その間も積極的に非合法運動を続けている。昭和7年7月、青森警察署に出頭、取り調べを受け、運動を離脱、そのあと、『思ひ出』を書きはじめるのである。つまり、上京後しばらくしてから、『思ひ出』まで約2年間の文学的空白がある。この頃は、中学時代に抱いた、作家になるという志も殆んど放棄していたのかもしれない。
 『晩年』以前の作品は、全集では初期作品集として別巻になっている。先日それを買い求めてざっと目を通してみた。勝手な感想をいえば、さすが文章はうまく、既に後年の特徴があらわれている感じであるが、未だ何を書くか方向がはっきりしていないような気がした。
 年齢からいっても当然のことかもしれないが、ただ、『角力』『犠牲』など少年を主人公にした物語には、自分と他人との思惑、或いは善意の食い違いという、のちの『黄金風景』などにつながるテーマが扱われているような気がした。いくつか短篇を続けたのち、『無間奈落』『地主一代』『学生群』という長篇小説が試みられている。ここでははっきりと、自分のこと、自分の家のことを書きたいという意欲があらわれているが、いずれも未完のままに終っている。
 未だ自分の文体を発見しえていない、或いは、書きたいと思っている自分をどう扱ったらよいのか、把えきれていないという感じがした。小説としては本格で、プロット、人物描写など苦心が払われており、読んでいておもしろいのだが、結果論的にみるからだろうか、書きたい「自分」に着せた衣が重すぎて、本領の軽快なテンポに欠けているのである。その結果、出来はそう悪くないとしても、最後まで書き切ることができなかったのだ。
 文体とは、最後まで書き切る力だと私は思っている。いかに美しく、含蓄深い文章であっても、それで自分の書きたいことを最後まで書き切ることができなければ、それは自分の文体とはいえないのである。個人が書ける文章は、多種多様の選り取り見取りなのではなく、その顔がひとつであるように、たったひとつしかないものである。そのたったひとつのものを発見する努力がいわゆる「文才」であって、その発見の目安が、とにかく最後まで書き切れるか、ということだと私は思っている。
 結局、太宰の場合、この時点ではまだ吹っ切れぬものがあったのだ。彼が、例えば、立派なものを書きたい、みんなをあっといわせたい、という傑作意識などを振り切るには、ありふれた言い方になるが、上京後2年間の様々な苦労が必要だったのだと思う。
 もうこれ以上は堕ちられぬどん底の居直りが、遺書という意識で、様々な邪念を振り払ってしまった、或いは、書きながらそういう心境が出来上っていったのであろう。もちろん、死ということをそれほど具体的に考えていた訳ではなく、万事行き詰まりの中での最後の防波堤として、遺書を書く、という意識があったのではないかと思う。
 ところで、その2年間に太宰に起った事件の深刻さについて最近少し思ったことがある。ある雑誌の太宰治特集を本屋で立読みしていて、そのグラビアページに次のような写真を見つけたのである。
 それは例の鎌倉の心中未遂事件を報じた東奥日報の4段組み位の大きな記事で、顔写真が入り、見出しは次のようなものであった。

「津島県議の令弟修治氏 鎌倉で心中を図る 女は遂に絶命 修治氏も目下重態 津島家から急行」

 私はアッと思った。思っていた以上に事が重大だったのにはじめて気がついたのだ。正直なところ、私はこれまで、太宰の作品に於いて、自分は罪深い人間である、この世に生きていく資格のない余計な人間である、という意識があまりにも過剰ではないか、とその点少々厭わしく思っていたのである。しかしこれでは、今日の世の中でもたいへんな醜聞ではないか。たとえ、実家が青森県の名門で、兄が政治家であるためこのような大きな記事になったのだとしても、50年も前の、しかも封建的な片田舎のことである。私はその薄ぼんやりかすれた写真をもう一度まじまじと見つめながら、これを一例として、太宰の書いていることは決して誇張でも、変なポーズでもないのだ、と納得した。
 私は、最後ああいう死に方をした太宰を結果論的にみて、年譜の「江の島で銀座の女給と心中、女は死ぬ。このため自殺幇助罪に問われ起訴猶予となる」という記述や、非合法運動に関わっていたということなどを軽く見すぎていたのかもしれない。
 心中に失敗し、自分だけが生き残る、という言ってみれば無様な、そしてそれ以上に、一人の人間を死に至らしめたという罪深いことをしでかしてしまったと気づいた時、果してどのような気持がしたか、私には想像に余りある気がする。この時期に、太宰は、一生かかっても償えぬ、取り返しのつかないことをやってしまったのだ。その殺してしまった女性のために、以後、死に至るまで、深い罪の意識を背負いつづけていた、と考えてもおかしくはないと思う。
 戦後になって、太宰は一躍流行作家となり多数の支持者をもつようになったが、戦前は奇矯なスキャンダラスな作家とみられていたらしい。事実、パビナール中毒時代に具体的に迷惑をかけられた人々が文壇周辺にたくさんいたようだし、それまでに起した事件のこともあって、一般に、不道徳漢といった汚名を浴びつづけていたようだ。そういう点で太宰にとって世間とは終始住みづらいものであり、ただ戦争に入って世の中全体が異常になった時、はじめてそういったものから解放された気分を味わったのではないかと思う。
 又、この期間の非合法運動との関わりについて、太宰自身次のように書いている。

 私は昭和五年に弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかつたけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかつた。辰野隆先生を、ぼんやり畏敬してゐた。私は、兄の家から三丁ほど離れた新築の下宿屋の、奥の一室を借りて住んだ。たとひ親身の兄弟でも、同じ屋根の下に住んで居れば、気まづい事も起るものだ、と二人とも口に出しては言はないが、そんなお互ひの遠慮が無言の裡に首肯せられて、私たちは同じ町内ではあつたが、三丁だけ離れて住む事にしたのである。それから三箇月経つて、この兄は病死した。二十七歳であつた。兄の死後も、私は、その戸塚の下宿にゐた。二学期からは、学校へは、ほとんど出なかつた。世人の最も恐怖してゐたあの日蔭の仕事に、平気で手助けしてゐた。その仕事の一翼と自称する大袈裟な身振りの文学には、軽蔑を以て接してゐた。私は、その一期間、純粋な政治家であつた。
(中略)朝早くから、夜おそく迄、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事は無かつた。自分の其の方面に於ける能力の限度が、少しづつ見えて来た。私は、二重に絶望した。銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだつて一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘つて一緒に鎌倉の海へはひつた。破れた時は、死ぬ時だと思つてゐたのである。れいの反神的な仕事にも破れかけた。肉体的にさへ、とても不可能なほどの仕事を、私は卑怯と言はれたくないばかりに、引き受けてしまつてゐたのである。
(中略)例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言ひつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪も無かつた。それが皆の為に善いならば、さうしませう、といふ無気力きはまる態度であった。(中略)
 そのとしの晩春に、私は、またまた移転しなければならなくなつた。またもや警察に呼ばれさうになつて、私は、逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であつた。田舎の長兄に、出鱈目な事を言つてやつて、二箇月分の生活費を一度に送ってもらひ、それを持つて柏木を引揚げた。家財道具を、あちこちの友人に少しづつ分けて預かつてもらひ、身のまはりの物だけを持つて、日本橋・八丁堀の材木屋の二階、八畳間に移つた。私は北海道生まれ、落合一雄といふ男になつた。流石に心細かつた。
(『東京八景』)

 上京後、太宰は三兄圭治の住んでいた近くに下宿し、新入生らしく勉学の意気に燃え、又、青森の同人雑誌「座標」に『学生群』を送ったりしていた。そんな彼がどういうきっかけで非合法運動に関係するようになったのか、最近たまたまそれについての工藤永蔵という人の文章を目にした。
 それによると、四・一六弾圧によって壊滅的な打撃を受けた共産党は、検挙を免れた田中清玄を中心に再建を計っていたが、その方針のひとつとして、党周辺の支持者を増やそうということになった。弘前高校で太宰の先輩にあたり、田中清玄とも同級であった工藤氏がその任につき、弘高出身で東京に出てきている者をリストアップした。それに太宰も入っていたというのである。
 太宰は弘高時代、新聞雑誌部の委員をしており、校友会誌に作品を発表したりしていたが、新聞雑誌部は当時校内左翼細胞の拠点であり、在学中に起った校長排斥のストライキの中心的役割を果していた。その一員であったことからシンパとして誘いがあったのであろうが、太宰自身は文学青年で、弘高時代は政治には深入りしていなかったようである。
 上京後、工藤氏の誘いを受けてからは、アジトを提供したり、資金カンパに応じたり積極的であったようだ。でもこの時期の太宰については資料もなく、謎の部分が多い。党員だったという説もあるし、同郷の先輩に対する義理を断われなかったに過ぎないという人もある。しかし私は、やはり、一時期本気で非合法政治家になろうと努力したことがあったのではないかと思う。
 「政治」にはそれ独自の範疇がある。たとえ話でいえば、喧嘩上手な者は常に醒めたこころを持っている。相手の力量を測り、それによって威嚇的になったり、こそこそと尻尾を巻いたりもする。又、相手を殴ってもとことんまでは殴らない。自分の威厳が保てればそこでやめる。そして勝ち負けのいかんにかかわらず、相手に対する憎しみは意外に薄いのだ。だから執念深く相手をつけまわすということは殆んどない。
 逆に喧嘩に慣れぬ者は、喧嘩という枠組みがよくわからず、だからやむを得ず喧嘩になった場合はその暗黙のルールを踏み越えてしまい、我れを忘れて輿奮し、全身全霊で相手を憎悪し、その振う暴力はとてつもない凶暴さを帯びて、その結果、仲間からも敬遠されたりするのである。
 コミュニズムに対する興味が、すぐさま、自分の出身階級に対する負い目というかたちであらわれる反応の仕方、又、家長の長兄が当時青森県保守政界の若手ホープであったことからの圧迫もあって、生家に対する感情は極度に屈折していくが、それらを振り切れなかったのは、太宰の思想的未熟というより、「政治」という枠組みにどうしてもなじめなかったからではないだろうか。
 政治家には、特にそれが非合法の場合、自分のために周囲にかかる迷惑など全く関知しない、という図太い、無神経さが必要である。そういうことを簡単に合理化してしまう精神構造があり、それが思想の強靱さということにもなるのである。過剰な自意識などは不必要、というより有害な世界なのである。
 工藤氏の文章によれば、太宰の活動は誠実そのものであったそうだ。窮迫した党から求められた無理難題をてきぱきと律義に果していたらしい。又、運動離脱後も入獄中の工藤氏に月々一定のお金を差し入れたりもしている。
 当時の太宰には、心に秘めた志があったに違いない。上京直後の解放された気分も手伝って、非合法の活動にロマンチックな夢を託していたのではないか。それに、文学的にも行き詰まっていたようでもあるし、思い切って運動にとびこむことによって自分に活路を開きたい、という切羽つまった気持もあったように思う。
 しかし政治に対するこういうかたちの関わり方には本来無理なものがある。情熱と実際活動のバランスが崩れそうになると、自分の動機の中に何か不純なものを見たりするようにもなる。必然的な挫折ではあったが、その時の脱落意識は本人には深刻なものであったに違いない。コミュニズムに対する「裏切り」というよりも、自分のその方面での能力が思っていた程にはなかったという絶望感、そして日常自分と一緒に活動していた人々の期待を裏切ってしまった、ということに苦しんだのではないかと思う。
 上京後まもなく、弘高時代の愛人、芸者紅子(小山初代)が家出して太宰のもとに身を寄せ、結局、分家除籍と月百二十円の仕送りを条件にして二人の仲が認められる。しかしその真相は、左翼運動に関係している弟を、長兄が、自分の政治生命と津島家の安泰のために厄介払いしたのだという説もある。鎌倉の心中未遂事件の第一の原因は、それを不可解な義絶と受け取った太宰の怒りと絶望感だというのであるが、それについては私は何もいえない。
 いずれにしても、上京後のこの二年間、これまで片田舎の文学青年にすぎなかった太宰を根底から覆えすような大事件が次々と起ったのである。これまでの友人とは関係を絶ち、故郷へも帰れず、しかも心中未遂という汚名もかぶせられた、いわば四面楚歌の状態の中で、再びペンを取り、背水の陣の思いで書きはじめられたのが『思ひ出』であった。これまでのように物語の中の人物に仮託した自分ではなく、一切の虚飾を捨て、率直に、遺書のつもりで自分を書きはじめたのである。
 しかし書いていて、どうしても書ききれぬものがある。真実がわかっていてもそれを文章にできない場合、又、その真実すら自分にもわからぬ位、無意識のうちに隠蔽、合理化してしまっているものもある。そういったものを書きながら、彼ははじめて、自分を書く「方法」を会得したのではないか。
 それは本名津島修治から太宰治になったということである。則ち、以後彼の作品に登場する「私」は太宰治であって、津島修治とはほんの少しずれた人物になっている。その少しずれたところが彼を安心させ、自分を他人のように見つめ、そこに適度のフィクションを加えることによって、自意識的なペンの運びを滑らかにしたのである。
 その時、彼が太宰治に味付けした性格がいわゆる「道化」であって、これは『思ひ出』以後を書きあげるにはどうしても必要な仮面であった。彼は自分の最も苦しかったこと、いやなことを書こうとした。そんな時、人はどういう書き方をするか。深刻なことを深刻に書くのでは、そこにはどうしても自己陶酔が入ってくる。或いは苦しくて、全く書けなくなる。とすると残る方法はひとつしかない。太宰が『正義と微笑』の中で引用した聖書のことばを用いると、
「なんぢら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな。彼らは断食することを人に顕さんとて、その顔色を害(そこな)ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報(むくい)を得たり。なんぢら断食するとき、頭(かしら)に油をぬり、顔を洗へ。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在(いま)す汝の父にあらはれん為なり。さらば隠れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。」
ということである。
 作品の中の「私」をやや滑稽化すること、戯画化することによって、そこに間隙をつくる。即ち、「批評」という要素が入るのである。ここにはじめて彼の文体は確立されたといえる。太宰治とは彼にとって、単なるペンネームだけでなく、津島修治のパロディとして新しく創造された人物、これからの自分を託していく人物であったと私は思う。
 さて、太宰に加えられた現実の試錬はこの二年間では終らなかった。三年後、大学卒業を迫られながら、未だ作家としても一本立ちできず、その苦悩の中で三度目の自殺を図るが失敗する。間もなく、急性の盲腸炎を起し、腹膜炎を併発して一時は重態に。とにかく全治して退院するが、その入院中に用いた鎮痛剤パビナールの中毒に苦しむことになる。薬を求めてあちこちに借金を重ねる荒れた生活が一年あまり続き、病院に入院して根治したが、その入院中に妻初代が親戚の青年と過ちを犯していた。翌年三月、初代と水上温泉で心中を図るが失敗、そして離婚する。一年半ばかり独り暮しを続け、昭和十三年十一月、井伏鱒二の世話で石原美知子と婚約、やっと平穏な生活に入るのである。三十才であった。
 思えば、東京に出てきてから九年間、殆んど自らが招いたものであろうが、苦難の連続であった。何度も絶望のどん底に落ち、死線をさまよったことも再三である。しかしこの間、一人の人間として、ぎりぎりの極限まで行ったことは確かである。このことは、以後の作品の底に流れる、安らかな優しさと、力強い倫理性をもたらしているように思われる。

「安心して行つて来給へ。」私は大きい声で言つた。T君の厳父は、ふと振り返つて私の顔を見た。ばかに出しやばる、こいつは何者といふ不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかつた。人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と、言ひ切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮する事は無い。東京名所は、更に大きい声で、
「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、萬一むづかしい場合が惹起したところで、私は世間体などに構はぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になつてやれると思つた。
(『東京八景』)

「自分ひとり作家づらをして生きてゐる事は、悪い事だと思ひませんか。作家になりたくつても、がまんして他の仕事に埋れて行く人もあると思ひますが。」
「それは逆だ。他に何をしても駄目だつたから、作家になつたとも言へる。」
「ぢや僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。」
「君は、今まで何も失敗してやしないぢやないか。駄目だかどうだか、自分で実際やつてみて転倒して傷ついて、それからでなければ言へない言葉だ。何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまふのは、それあ怠惰だ。」
 晩ごはんが済んで、私は生徒たちと、おわかれしました。
「大学へはひつて、くるしい事が起つたら相談に来給へ。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだらうが、有りがたいところもあるものだよ。勉強し給へ。おわかれに當つて言ひたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給へ、だ。」
 生徒たちと、わかれてから、私は、ほんの少し酒を飲みに、或る家へはひりました。そこの女のひとが私の姿を見て、
「あなた、剣道の先生でせう?」と無心に言ひました。
(『みみづく通信』)

 こういう箇所だけを取り出せば、単にキザったらしく力みかえっているに過ぎない、とみえるかもしれないが、いろいろな作品を読んでいくにつれて、そういう感想は消えていく。
 もちろん、先に述べた実生活上の苦難を念頭に置いてのことではない。何も知らなくても作品を読むだけで伝わってくる。そしてそれが深い人間洞察に裏打ちされたものであることが段々にわかってくるのだ。
 一見何でもないような短篇、思いつく題名だけをあげると、『風の便り』『律子と貞子』『水仙』などといった作品には、単に、よく出来た短篇、という評価を超えた何ものかが含まれているような気がする。その作品のもっている、実質の重さ、という点では太宰に比肩する作家は見当らぬ、とさえ思えるのである。
 実生活演技説というのがある。はじめて読んだのは確か高校の教科書の、伊藤整の文章だったと思うが、私小説作家には、調和型と破滅型の二通りがある、というのである。
 調和型とは、実生活での危機について、それを小説に書くことによってその危機を救い、調和に向かい、より高い境地に達するというタイプ。それに対して、実生活の危機感を創作の唯一のモチーフとし、そのため、小説に変化を与えるには、わざと実生活に危機を設定し、そういう実生活を演技することが必要で、ついには生そのものを破滅に追いやってしまうタイプを破滅型という。そして、島崎藤村、志賀直哉らが調和型で、破滅型発想の作家の代表例が太幸治である、となっていた。
 国語の教科書の文章など殆んど憶えていないのに、これだけはなぜか気になった。破滅型発想というのが異様に印象に残り、小説作法としてはこの方により真実味があったが、いったいこんなことができるのか、又、こんなにまでしなければならぬものか、とも思った。それに、破滅型という名称自体、否定的な響きがあるし、最後には自殺に追い込まれるということで、何か陰惨なイメージがつきまとっていた。その結果、しばらく、太宰治にも陰惨で不健康なイメージを抱いていたのである。といっても、その頃読んだ作品といえば『斜陽』『ヴイヨンの妻』『晩年』『虚構の彷裡』『人間失格』という、そういう傾向の作品ばかりだったから、一面的な先入観ともいえるものだったが。
 太宰についてのそういう先入観が崩れ、別な見方があるのを知ったのは大学の時であった。その頃読みはじめた吉本隆明の評論集の中にさり気なく、太宰の名前が挿入されているのを読んだのもひとつのきっかけである。吉本のふと記す遠い回想の中の太宰治には、鋭い批評眼をもち、強い倫理性に支えられた第一級の作家の姿があった。

 わたしが、学生生活の最後の年をおくったのは、敗戦直後であった。その時「春の枯葉」という戯曲を上演することになり、許可をもらうため太宰治をたずねたことがある。自殺の一年ばかり前だったとおもうが、そのとき、こんな問答をやったのをおぼえている。
 「学校はおもしろいかね。」
 「ちっともおもしろくありません。」
 「そうだろう、文学だってちっともおもしろくねえからな。だいいち、誰も苦しんじゃいねえじゃねえか。そんなことは作品を、二、三行よめばわかるんだ。おれが君達だったら闇屋をやるな。ほかに打ちこんでやることないものな。」
 「太宰さんにも重かった時期がありましたか? どうすれば軽くなれますか?」
 「いまでも重いよ。きみ、男性の本質は何んだかわかるかね。」
 「わかりません。」
 「マザーシップだよ。優しさだよ。きみ、その無精ヒゲを剃れよ。」
 わたしは、いま、学生に無精ヒゲを剃れといいきるだけの度胸はない。その当時は、敗戦の混乱で社会はたぎり立ち、わたしのこころは暗かった。いまは、社会は息ぐるしいほどの秩序をもち、わたしのこころはおなじように暗い。当時の闇屋に相当する商売は、いまの社会にはないのである。わたしは、太宰治にならって、精神の闇屋になれ、それ以外に打ちこんでやるものはない、とでもいうべきだろうか。
(「現代学生論---精神の闇屋の特権を」、『擬制の終焉』所収)

 わたしは、その時も、いまも、新約書を理解した日本の文学作品としては、太宰治の『駈込み訴へ』が最上のものではないかとかんがえている。芥川龍之介の『西方の人』は、太宰の『駈込み訴へ』一篇に及ばないのである。やがて、わたしなりの新約理解をたどって、『マチウ書試論』という評論をかき、このときの新約書からうけた恩恵に、いささか、むくいることができた。
(「読書について」、『模写と鏡』所収〕

 ここで太宰治の「みみづく通信」という作品にたいする志賀直哉の評言と、それにたいする太宰治の反撥をおもいだした。志賀はこの作品を名ざしてはいないが、あきらかにこの作品と判断できる太宰の作品を、まだ三十何歳といった弱輩のかくものとして、思い上がっているというように評した。(中略)わたしにはその当時太宰治のいうことがよくわかるような気がした。とくに〈きみはまだ何もやったことなどないじゃないか〉と学生にいうところが。なぜならば、この言葉は、いま冷やかに水をたたえているだけだから、きみはわたしが火を吹いた山のあととは知らないだろう、という太宰の過ぎこしにたいする自負につながっているからである。
(「倒錯の論理」、『情況』所収)

 戦争期にぼくを源実朝という詩人に近づけた契機をつくった文章のひとつは、『右大臣実朝』という、太宰治の中期の代表的なすぐれた作品でした。(中略)
 日本の作家が、この種の作品を、歴史的事実に即して描こうとしますと、大抵は、ルカーチの歴史小説という概念におあつらえ向きのような、おもしろくもない全体小説みたいなものになるか、それでなければ、大衆作家というふうにいわれている人たちが描くもの、たとえば山岡荘八の『徳川家康』とか、吉川英治の『宮本武蔵』とかいった、通俗的な意味でおもしろおかしい作品になるか、どちらかであるといえましょう。太宰治の『右大臣実朝』は、このいずれにも該当しないとおもわれます。しかもまさに歴史的な人物像に、まるで近代の私小説を読むように、よく入ってくるような動きが与えられています。
 このことは、日本の歴史小説の当時の水準-----現在でも大して変りがないと思いますが-----のなかで、読んで衝撃を与えられるようなものだったのです。当時読みえた日本の歴史小説からかんがえて、ちょっと予想もしなかったかたちで、古典がよみがえっていたということができます。古典というのは、こういうふうに読みかえられるのかという意味あいで、衝撃的な作品だったと記億しております。(中略)戦争中ですから、日々いろんな出来ごとがあり、かんがえるべきこともたくさんあり、じぶんのなかに混乱もあるという生活のなかで、古典は迂遠な、とっつきにくいものだったのですが、太宰治の『右大臣実朝』は、古典とは過去につくられて、いまは読むにもおぞましい、ほこりに埋もれてしまった遺物だという偏見を醒ましてくれました。
(「実朝論」、『敗北の構造』所収)

 太宰の名前は、いずれも戦争期を回想する時にあらわれ、その当時の吉本にとって太宰の作品が何らかの大きな支えとなっていたことを示している。又、その時受けた影響を総括するかたちで、吉本のいくつかの優れた著作が生れており、太宰の作品は現在に至るまでの彼の倫理的基盤のひとつになっていたとも思える。
 太宰を倫理的というイメージは、吉本の太宰観の影響で、私が吉本の著作を読んで受ける、倫理的というイメージを二重写しにしているのかもしれないが、私は、逆に、吉本の倫理性は太宰の倫理性の影響ではないかとさえ思う。
 私はその頃、三島由紀夫と太宰の、(三島が絣の着物に袴という恰好で太宰に会い、面と向かって、「あなたの文学はきらいなんです」と言った。すると太宰は虚をつかれた表情で、誰へ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」といったという)出会いのエピソードを三島の『私の遍歴時代』で読んで、吉本、太宰、三島という三角関係(トライアングル)を設定して楽しんでいた。吉本、三島という、同世代で、しかも同じ東京育ちの二人の、太宰に対する印象が対照的なのがおもしろかった。また、この二人がお互い相手のことを論じている文章が殆んどなく、しかし、それぞれ相手について気にはなっている気配があって、それだけに軽々には論じられぬという存在の重さを相手に感じているに違いない、と勝手な空想に耽ったりもした。
 最近になって、吉本のはじめての本格的な太宰論、『太宰治試論----太宰治の問いかけるもの』(「国文学」1976年5月号掲載)が出た。
 一読した印象だけをいえば、かなり吉本自身にひきつけた書き方をしているように思った。というのは、この論が「他者との関係づけの失敗」ということを中心テーマに据えており、すぐさま、吉本が『心的現象論』第6章「5・夢の解釈」で自分自身のよく見る夢について分析している箇所を思い出したからである。吉本といえども、太宰を論じると、自分との同質性を意識してしまうということであろうか。しかし、この本格的な太宰論よりも、先に引用した雑文の中の断片的な太宰についての記述の方がおもしろかった、というのが私の正直な感想である。
 その他、その頃たまたま古本屋で買った奥野健男の評論集『文学は可能か』の中の「無頼派と戦後派の断絶」なども私の太宰理解の手助けとなった。《政治と文学》論争時の文章のひとつで、第一次戦後派の文学を批判する拠り所として太宰治らを論じたものである。その中の、太宰らのいわゆる無頼派文学こそが戦前からの流れを正統に受けついでいるのであって、第一次戦後派は大戦後の徒花である、というところや、太宰と伝統的私小説との関係などについて、鋭い示唆を受けた。しかし、その後、同じ著者の『無頼と異端』という評論集を読んだ時には、奥野健男内部の太宰の風化が著しいような気がして失望したことがある。
 いずれにしてもこの頃は、私自身、最も感受性がとぎすまされていた時なのだろう。太宰治に対する熱中が一時かなり昂進していたこともあった。ちょうど私が大学に於ける勉強に行き詰まり、といって社会人になってしまうのもおそろしくて大学を出ることもできず、全くの八方塞がりの中で、漠然と、作家になりたいという夢想にしがみついていた頃で、そんな時、太宰の次のような文章は、まるで、将来に対する不安におののく私一人のために書かれたかのように思われたのである。

 自分の作品のよしあしは自分が最もよく知つてゐる。千に一つでもおのれによしと許した作品があつたならば、さいはひこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞き給へ。
(「おのれの作品のよしあしをひとにたづねることに就いて」)


 ひややかにみづをたたへて
 かくあればひとはしらじな
 ひをふきしやまのあととも

 右は、生田長江のうたである。「衰運」読者諸兄へのよき暗示ともなれば幸甚である。
 君、あとひとつき寝れば、二十五歳、深く自愛し、そろそろと路なき路にすすむがよい。さうして、不抜の高き塔を打ちたて、その塔をして旅人にむかひ百年のちまで、『ここに男ありて、-----』と必ず必ず物語らせるがよい。私の今宵のこの言葉を、君、このまま素直に受けたまへ。
(『「衰運」におくる一言葉』)

 気がかりといふことに、黒白の二種、たしかにあることを知る。なにはぶしの語句、「あした待たるる宝船。」とプウシキンの詩句、「あたしはあした殺される。」とは、心のときめきに於いては同じやうに思はれるだらうが、熟慮半日、確然と、黒白の如く分離し在るを知れり。
(『気がかりといふことに就いて』)

 じぶんで、したことは、そのやうに、はつきり言はなければ、かくめいも何も、おこなはれません。じぶんで、さうしても、他のおこなひをしたく思つて、にんげんは、かうしなければならぬ、などとおつしやつてゐるうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
(『かくめい』)

 当時、私は全集第10巻の「随想集」をいつも手許に置き、金科玉条のように、これらアフォリズム風の短かい文章を読んでいた。迷ったことがあると、目次を開き、それにあたる文章を捜し出して、人生の指針、運命の鑑定書のごとくそれを読んだ。深夜、布団の中で、『風の便り』を読み返していて、そのあまりの優しさに、おもわず涙があふれ、しばらくやまなかったこともあった。太宰の、読む者に直接語りかけるような文章、それは、苦難の道を孤独に耐え、ひとり歩いていった尊い先達の啓示であって、私を確実に導いてくれるものだと強く信じていたのである。
 もちろん、今の私にはそんな思い詰めた気持はない。それは過ぎ去った「青春」時代のひとつの「悪夢」かもしれない。しかし、太宰のこれらの文章は今読み返しても、当時の瑞々しさを失わず、回想のよすがとしてではなく、なおも私の心を打つのである。
 この時代と前後して、私は太宰のいわゆる中期の作品を読みはじめた。そのきっかけは偶然本屋で立ち読みした『駈込み訴へ』と、FM放送の朗読の時間に聴いた『裸川』であった。驚くほど滑らかでここちよい語り口のこれらの作品は私を狂喜させ、『新ハムレット』『右大臣実朝』『新釈諸国噺』『津軽』『惜別』『お伽草紙』と、この時期に書かれた長篇小説をたてつづけに読んでいった。
 通例、太宰といえぱ『斜陽』『人聞失格』もしくは『晩年』といった、戦後の、或いは初期の作品が代表作とされ、それによってひとつの太宰像がつくられているが、中期のこれらの作品を読めば、太宰に対する考え方も違ってくる。
 この壮観ともいうべき作品群を読んでまず感じるのは、太宰の小説形式に対する柔軟さである。戦後、小説の崩壊が叫ばれ、西洋の新しい前衛小説もいろいろ紹介された。しかし、太宰のこれらの作品のように従来の形式にとらわれず、自由奔放に自分の世界を展開しえたものがあったであろうか。この点に於いて私は、太宰、織田作之助、坂口安吾以後、日本の小説の発展は中断されてしまった、という奥野健男の考えに賛同する。
 太宰文学の底には、強い批評意識がある。それは、もちろん、他人の作品を批評したり、評論を書いたりするものではないが、見方をかえれば、彼の作品の殆んどは小説というより、自分もしくは人生に対する批評なのである。例えば『葉』の中に次のような文章がある。

 そんなら自分は、一生涯こんな憂欝と戦ひ、さうして死んで行くといふことになるんだな、と思へばおのが身がいぢらしくもあつた。青い稲田が一時にぽつと霞んた。泣いたのだ。彼は狼狽(うろた)へだした。こんな安価な殉情的な事柄に涕を流したのが少し恥かしかつたのだ。

 ぐうっと激していった感情がその頂点にまで達した時、ふっとその感動がさめてテレくさくなる。こういう調子は一貫して彼の文章の特徴で、一般に「含羞」の文体とよばれているが、いい方をかえれば、「批評」の文体ともよべるものなのである。ある感動に全身を浸しきれなくていつもどこかに醒めた部分がある。そのバランスをいつも保持しながら書き進められるのが「散文」であり、そこにはつねに批評が同居しているのである。
 太宰治は終始一貫、自分のことばかりを書き続けた作家である、ともいえるが、それが可能なためには、いつまでも瑞々しさを失わぬ感受性とともに、強靭な自己批評が必要であった。これは先に述べた、自己戯画化、いわゆる「道化」の文体と不可分なものである。
 太宰には、『猿面冠者』『玩具』『春の盗賊』『女の決闘』などといった系列の作品がある。そこではごく普通の小説の合間に作者(太宰)が登場して、創作の舞台裏などを語りかけるかたちになっている。大上段に構えたものでなく、自分の小説作法を注釈しながら、しかもその注釈自体が立派な作品となっている。或る小説を書いている小説家を主人公とした小説、このこみいった構造の中に、評論文のかたちをとらぬ小説論が展開されているのである。又、『女の決闘』は鴎外訳のドイツの無名の短篇を太宰風に注釈したものであって、のちの『新釈諸国噺』『お伽草紙』につながるものである。
 いってみれば、中期の『新ハムレット』『右大臣実朝』『新釈諸国噺』『お伽草紙』など、希有な形式をもつ作品は、一方では『思ひ出』『東京八景』に於いて自分自身に向けられた強い批評意識を、シェークスピア、実朝、西鶴、おとぎばなし等に向けた、その産物に他ならない。
 奥野健男によれば、真に今日的な、太宰治文学の核心を衝いた研究や論は未だあらわれていない、ということだが、考えてみればそのはずである。太宰治の批評意識は鋭く、強く、持続的で、その残した作品全ては、現在の我々よりも遙か先のところまで行きついている。彼が切り拓いた道をあとからこつこつとよじ登っていく我々が、どうしてその文学に定まった評価を与え、文学史に位置づけるなどということができようか。
 積年の名酒のごとく、太宰治の作品を時々とり出して、ちびりちびりとそのこく深い味を味わいながら、私はふと、そう思うのである。

(初出誌: 「樹海」第5号 1977年9月)
 
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