テキスト

 

『核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち 

                          The Nuclear Barons』


第4部 1970年代(後)


第24章  仏陀は微笑む


 1974年5月18日、タール砂漠のポカランから「仏陀は微笑む」という暗号メッセージがニューデリーの中央政府庁舎に飛んだ。それは「原爆の爆発実験に成功した」という意味だった。インドが、核兵器クラブの6番目、まだ実験されていないイスラエルの原爆を含めれば7番目のメンバーになったのだ。このニュースは、1959年8月にソ連が初めて核実験をおこなって以来最大の衝撃を世界の核開発に与えた。「核拡散」に対する深刻な危惧がたちまち世界中を駆け巡った。いまや誰でも原爆をつくることができる、絶望的に貧しい国でも、気が狂った独裁者でも、政治的なテロリストでさえも。


 インドが原爆をつくるのに使ったプルトニウムは、最初は平和目的のために意図され、設計された原子力プラントから出てきたものだった。カナダと米国が、インドに対して必要な技術と物資を提供していた。両国ともこうした結果には当惑したが、反応は違っていた。インドに重水炉を供給していたカナダは、直ちに原子力に関する援助を停止したが、重水を供給して、原爆をつくるのに一役買っていたアメリカは責任を逃れようとした。ヘンリー・キッシンジャー国務長官は、アメリカはインドが原爆をつくるためのいかなる物質も供給していない、とシラを切る道を選んだ。彼はインド側に原爆を放棄するよう圧力をかけることも拒否した。彼が外交政策を牛耳っていたニクソン政権は、ケネディ・ジョンソン両政権の下で発展させてきた「核拡散」防止政策の優先順位を格下げした。


 ニクソン政権が、インドに重水を供給し、しかも使用上の制限を何もつけていなかったのを公式に認めたのはそれから2年後のことだった。と同時に、アメリカのインドに対する核援助には、1367人を下らないインド人の核物理学者を、原子力のノウハウに関するさまざまな分野で訓練することも含まれていることが、議会の調査で明るみに出た。これはインドに限らない問題だった。アメリカの再処理プラントのあるハンフォードでは、1958~1972年の間に、外国人のための特別クラスが設けられていて、そこで学んだ169人の学生のうち、インドから来たのは14人だったが、やがて核兵器保有国になるかもしれない潜在的な可能性を持った国は、すべてこのクラスに学生を送り込んでいた。ブラジル人が7人、ドイツ人が12人、イスラエル人が5人、日本人が29人、パキスタン人が11人、南アフリカからも8人、そして台湾から8人、というように。


 インドがプルトニウムを抽出する再処理プラントを開発したのは、最初は増殖炉を建設したいという願望からだった。1956年にカナダがインドにプルトニウム製造用の重水炉を供給する協定が、「原子力平和利用」の浮き浮きするような雰囲気の中で調印された。調印式は、インドの「原子力の父」、ホミ・バーバー(55)がジュネーブでの「第1回原子力平和利用国際会議」の議長を務めるという個人的な栄誉を収めたあとを受けて行われた。当時アメリカの政策は「保障措置(セイフガード)」を求めておらず、インドが、原子炉を平和目的にだけ使うと約束すれば、それで十分だと思われた。それから2年後、バーバーが、使用済み核燃料からプルトニウムを抽出するための再処理プラントを建設する意図を発表したときでさえ、誰も警鐘を鳴らさなかった。やがて再処理プラントが、ボンベイから25マイルのトロンベイに建設されたが、すべてはガラス張りで、秘密は何もなかった。バーバーは世界中の彼の同僚たちと同じように、遅かれ早かれ原子力発電はすべて増殖炉で行われるようになると考えていて、着々とそれに向かっているインドの「進歩」は国際的に喝采を浴びてさえいた。


 しかし、やがてそのわずか数年のちに、カナダとアメリカは「保障措置(セイフガード)」という考え方を主張するようになり、カナダはインドとの協定にその取り決めがないことを懸念し始めた。そこで1963年、インドがもっと大型の原子炉を輸入するため、新たな契約を結びたいと求めてきたとき、「保障措置(セイフガード)」の取り決めを導入して、それを最初の原子炉にも遡って適用するようにすべきだ、という声がカナダ側の一部から出たが、「インドが求めるものを与えてやらないと、インドはよそから買うだろう」という商業ベースの論理に押し切られて、インドの核開発に「枠」をはめる絶好のチャンスを逃してしまった。


 実は、バーバーはこの新しい大型原子炉とトロンベイの再処理プラントによって、インドが核兵器の選択肢を手にすることができるのを最初から知っていた。1964年には、インドと国境紛争を起こしていた中国が最初の原爆を爆発させていた。中国の原爆は、核科学の分野では中国よりもはるかに進んでいると公言していたバーバーの誇りと愛国心を傷つけた。それから何週間も経たないうちに、彼は「核抑止力」の必要を唱えはじめた。そしてその数ヶ月後、彼はラル・バハドル・シャストリ首相から、「実験場」を準備せよという指令を受けた。部分核実験停止条約の調印国として、インドは大気圏内の核実験を行えなかったので、地下実験場を建設しなければならなかった。1966年、「射撃実験場」という名目で、ポカランに用地が確保された。


 しかしインドの軍部は、核兵器のために資源を通常兵器から大規模に割くことに反対した。バーバー自身も全面的な核兵器開発は主張しておらず、インドの核能力を証明するため、1回だけ爆発させれば十分だと考えていた。しかし、バーバーは、その後の経緯を自分の目で確認することはできなかった。1966年の終わりに、彼は飛行機事故で死亡した。


 バーバーのあとを継いで、インド原子力委員会(AEC)の委員長になったビクラム・サラバイ(109) は原爆開発計画の消極的だったが、AEC内部にはバーバーの意を継ぐ原爆推進派が残っていて、彼らは増殖炉の研究を進めるというのを口実に、サラバイからプルトニウムを燃料とする実験炉の建設の許可を得て、相当量のプルトニウムを生産していた。そして、1971年にサラバイが死去してまもなく、インディラ・ガンジーの新しいリーダーシップの下で新たな展開が始まった。


 インディラ・ガンジーの父のジャワハルラル・ネールは科学好きで、とくにホミ・バーバーを贔屓にしていた。ネールは核政策を他の国内制度の制約から切り離して、首相とAECの直接接触によって決定を下せるようにしていた。この閉ざされた世界の中で、原爆実験のオプションはその気になれば容易いことだった。インディラ・ガンジーは、1971年の対パキスタン戦争の勝利とバングラデシュ創設の栄光のあと、急速に国内での政治的評価を低下させていた。1回の核爆発によって、インド人の愛国心を最大限にかき立てることができれば、こうした傾向を劇的に逆転できるかもしれない。そこで、1973年の初め、ガンジーはポカラン実験を命じたのである。つまるところ、決定は指導者が強いから下されたのではなく、その決定を必要とするほど弱かったから下されたのだ。


 実験の後、核の無政府状態という感じが強まった。中東を歴訪したニクソン大統領はイスラエルとエジプトに原子炉の提供を申し入れた。西ドイツはブラジルとの間に、再処理プラントおよび濃縮プラントを含む、核燃料サイクルのすべての分野にわたる膨大な契約を結んだ。フランスはパキスタンと韓国に、再処理プラントを供給する契約に調印した。フランスはイラクにも実験炉を供給することに同意した。その他、台湾は自前の再処理プラントを秘かに建設しているところをアメリカに見つけられ、南アフリカも独自の濃縮プラントを建設すると発表した。


 こうした各種の原子力施設の国際的な売り込みが急激に増えていくなか、インドの核実験によって気まずい思いをしたカナダは、単にウランの供給だけではなく、原子力技術の供給をコントロールするため、西側供給国グループの会議を再開するよう、外交努力を始め、その結果、1974年の秋、ロンドンのアメリカ大使館でその秘密会議が開かれた。そして第1回の会合に出席したアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、カナダ、西ドイツ、そして日本の各国は、適切な「保障措置」がない限り輸出を規制すべき技術の一覧表、「トリガー・リスト(保障措置の引き金になる項目)」をつくった。その後、ベルギー、オランダ、スウェーデン、スイスなど7ヶ国が加わり、計14ヶ国が加盟した供給国グループの存在は1975年に公表された。


 厳重な「保障措置」を強く主張していたカナダは、いかなる分野にせよ保障措置のないプラントを持っている国に対しては、核物質を一切輸出しないことを提案した。これには、インドとイスラエルのプルトニウム生産炉、南アフリカの濃縮プラントが対象に含まれていたが、14ヶ国の合意に達することができなかった。さらに、1976年の終わりに、カナダとアメリカが、再処理プラントと濃縮プラントの輸出を禁止することを提案したが、フランスと西ドイツはちょうどこうしたプラント類の輸出契約を結んだばかりだったので、反対した。結局、供給国グループは、こうしたプラント類の輸出を「自粛」するという曖昧な協定でお茶を濁した。


 こうしたルーズな取り決めを不満としたアメリカは、すでに契約済みの輸出を元に戻させる作戦に出た。アメリカの強い圧力によって、韓国はフランスとの契約を破棄し、台湾は建設中のプラントを取り壊した。西ドイツは将来の輸出を控えることには同意したが、ブラジルに圧力をかけて、すでに結んだ契約をキャンセルさせることは拒否した。


 フランスの契約は、1975年にジャック・シラク首相の下で結ばれたものだった。シラクは、アメリカの歩調を合わせるいかなる行為もフランスの愛国心に対する侮辱だというドゴール派の伝統を受け継いでいた。核の分野でアメリカの鼻をへし折ることは、ドゴール派にとってかねてから器量をためす試金石だったが、1976年8月、シラクが辞任して、レイモン・バールが首相になると、フランスの政策は変わった。ジスカールデスタン大統領は今後再処理プラントの輸出を一方的に一切禁止するとこにし、パキスタンおよびイラクとすでに結んだ契約もキャンセルした。


 1976年、退陣間際のフォード大統領は、核拡散に対して厳しい立場をとる方向に政策を転換した。フォードはホワイトハウスを去る前に、「増殖炉こそ未来の原子炉で、どの国も再処理プラントを持つようになる」というのはもはや当然のことと受け取ることはできない、と宣言し、そして就任早々のジミー・カーター新大統領は、この政策転換の結論として、アメリカは、エネルギーへの需要がもうそれ以外に代替物がないというところまで増大するまでは、再処理ならびに増殖炉を禁止するか、少なくとも開発を中止することを望むと発表して、原子力と取り組んでいる諸国を驚かせた。


 プルトニウム増殖炉を魅力的にしていたのは、ウランが不足してくるという予測のためだったが、実際にはウランはだぶついていた。原発の建設計画が縮小されて、需要が減退しただけでなく、新しいウラン鉱山が次々と発見された。そのうえ、大規模な増殖炉の推定コストは急速に上がり続けており、増殖炉は採算的にも怪しくなっていた。取り返しのつかないコミットメントをする前に、いまこそ核兵器用の物質を使わずにすむ、代わりの原子力技術を開発しようではないか、とカーター大統領は呼びかけた。


 増殖炉こそ究極的な原子炉のタイプだという過去30年間の技術的前提に突然待ったがかかったのだが、アメリカ国内でも反対は強く、議会は開発中の増殖炉に引き続いて予算をつけた。ヨーロッパやアジアの同盟国はそれ以上に、カーターのやり方に二の足を踏んだ。石油禁輸がまだ生々しいこれらの国々は、たとえ短期的にみて採算がどんなに悪くとも、あるいは「核拡散」のいかなる危険があるにせよ、エネルギーの選択肢を切り捨てるべき時期ではないと考えていた。フランス、イギリス、西ドイツ、日本は、いずれも増殖炉の道を歩むことに踏み切っており、これら諸国の原子力官僚と研究機関には途方もない弾みがついていた。


 とくにフランスは、増殖炉開発にどこよりも深く踏み込んでいた。フランスは技術面ではアメリカよりも進んでいると信じており、アメリカの提案は自分が技術的に立ち後れているからだと考えた。イギリスも増殖炉は避けて通れないと信じていた。再処理サービスの国際市場で大きなシェアを占めようという決意でも、フランスと共通していた。


 アメリカが核保有国での再処理を阻止できないことはすぐに明らかになった。問題はまだ核兵器を保有していない供給国、すなわち、西ドイツと日本だった。カーターは両国からの強い反対に出会った。日本のある外交官は、フラストレーションをあらわにして次のように述べた。「これまで20年間、われわれはアメリカの核政策のガイドラインに従ってやってきた。ところが今になって、あなた方はこれまでのやり方が全部間違いだったと言い出した。でももう遅すぎる」。


 しかしカーター提案の意図せざる衝撃が原子力業界全体に広がった。当時業界は、きわめて放射能の高い使用済み燃料棒の処理について技術的にまともな方法を編み出せないことで激しい批判を浴びていた。西ドイツや日本では再処理がこの問題を片づけてくれるはずだった。なのに、もし再処理ができなくなれば、新しい原発は建設できなくなる。


 でも、依然として軽水炉用の濃縮ウランの供給国であるアメリカに全面的に刃向かうことはできなかった。長期的には、ヨーロッパでは、4つの濃縮プラント(フランス2、オランダ1、イギリス1)の建設が進んでいたので、いずれはアメリカの独占は覆されることは確かだったが、原料ウランの供給はアメリカ、カナダ、オーストラリアで西側世界の半分以上を支配していた。


 ところでアメリカはこの間、他の核保有国と同様、核兵器を大幅に増強し、核兵器の貯蔵は恐ろしい比率で増えた。非保有国は、1970年の核拡散防止条約が、保有国に対して、「核兵器競争の停止」と「核軍縮」のために誠意を持って交渉するよう求めていたことを指摘しはじめた。「戦略兵器制限交渉(SALT)」のプロセスは軍備競争についての義務を部分的に果たすものだったが、軍縮についての交渉はまったく開かれなかった。非保有国に対しては文言をはるかに越えた制約を強制しながら、自分たちは条約を一向に守ろうとしない。そのうえにさらに、可能なエネルギー源の選択肢を絶つ「制約」を付け加えられた。非保有国の不満は募った。


 そんな中で、アメリカの圧力の及ばない国もあった。その典型的な国は南アフリカで、国内に自前の埋蔵ウランが大量にあるうえ、一部西ドイツから供給を受けた設備を使った濃縮プラントを持っていた。この強力な組み合わせで、南アフリカは核兵器用の高濃縮ウランを生産することは可能だった。


 1977年8月、ソ連の人工衛星が、南アがカラハリ砂漠で核実験場を準備しているのを見つけたと公式に発表、アメリカの査察システムもそれを確認した。アメリカ、ソ連、イギリス、フランスが一斉に南アを非難した。それ以後、核実験場の話は杳(よう)として聞かれなくなった。そして、1979年9月、アメリカの核実験探知衛星が、南半球のどこかで原爆実験と覆われる現象をキャッチした。南アが第1の容疑者にされ、次いでイスラエルが疑われた。両国の共同計画ではないかという憶測も一部にあった。しかし両国はそのような事実は一切ないと否定し、アメリカも放射能検出など、衛星写真を裏づける証拠は何ひとつ発見できなかった。


 インドも問題国だった。アメリカが公然と不快感を表明し、インド側でもラジ・デサイ首相が国内の核タカ派を抑える努力をしたにも関わらず、「保障措置」の対処にならないプルトニウムは増え続けた。


 そしてその間、隣国のパキスタンが1979年に、遠心分離式ウラン濃縮プラントの部品を秘かに買いつけていることが明らかになった。その年にクーデター政権によって死刑に処されたアリ・ブット首相(110) がその中心にいた。1965年に、パキスタンの核計画担当相の地位についたブットは、インドの原爆計画を意識して、翌年再処理プラントを買い入れようとした失敗した。そして1971年、自身が首相になるとその計画を再開し、いったん決まっていたフランスとの再処理プラント購入が破棄されると、ウラン濃縮に方針を切り替えた。


 パキスタンはオランダに住むあるパキスタン人物理学者が、アルメロにあるオランダの遠心分離プラントの機密情報に接する立場にあるのを利用して、彼に濃縮プラントに必要な材料や装置のリストをつくらせ、ダミーの会社網をつくりあげて、必要なあらゆる資材を「繊維工場用」という名目で買い集めた。西側の情報機関がそれを察知してすぐさま資材の供給は打ち切られたが、すでにどれだけのものが入手されていたのかは明らかではなかった。



【登場人物の整理】


(109) ビクラム・サラバイ(印):原子力委員長(原発計画を推進、原爆には消極的)

(110) アリ・ブット首相(パキスタン):核計画担当相、首相(原爆製造計画を進める)





第25章  高慢と偏見


 ウィーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)が1974年に発表した『発展途上諸国における原子力発電の市場調査』という文書ほどバカげた文書は、原子力の過大評価の歴史の中でも、他にはちょっと見当たらないであろう。世界の発展途上諸国の原発の潜在需要について、どうにもならないほど楽観的すぎる見通しを描いていたからだ。


 この文書によると、50~60万キロワットの原発が140ヶ所建設されるだろうと予測されていたが、こうした貧しい国の配電網は、こんなに大出力の発電所の電力をうまく送配電できるようにはつくられていなかった。例えば、バングラデシュは、40万キロワットを6基、60万キロワットを4基建設する市場性があるとされていたが、当時バングラデシュ全体の送配電システムは、需要のピーク時で20万キロワットを僅かに超える程度だった。


 このIAEA報告は、内容があまりにも極端だったため、何ヶ月もしないうち棚上げされてしまったが、発展途上国の側では、報告に書いてあるような市場があるにちがいないという考えを捨て切れなかった。というのは、これまで発展途上国が原子炉メーカーに小型の原子炉を製作してほしいとしきりに要請しても、メーカー側は耳を傾けようとはしなかったからだ。


 1950年代半ばの楽観主義の時代に、インド、台湾、韓国、アルゼンチンなど、いくつかの発展途上国は原子力委員会を設置した。これら諸国のエリート政治家たちは、科学技術とりわけ原子力発電のような威信を高める計画こそ、将来の繁栄のカギだと固く信じた。


 インドは1970年の初めに、重水製造工場を1年間に1ヶ所の割合で建設し、1980年までに合計出力270万キロワットの原発を建設するという10カ年計画を策定した。しかし、インドの送配電網はこんな膨大な電力を扱うだけの容量はなく、またインドにはそれらを建設する工業力もなかった。この計画は2年も経たないうちに放棄されたが、原子力官僚はへこたれず、原発はインドにとっては高くつきすぎると認めたのは、何億ドルもつぎ込んだのちの1978年のことだった。


 韓国やブラジルなどは、大型の原発を組み込めるだけの規模を持った送配電網を持っていた。また、台湾やフィリピンのように、送配電網を拡充することを前提として原子力発電に取り組んだ国もあった。いずれにしても、原子力は未来の夢の技術だという信仰が、他のエネルギー源と真剣にコストを比較することに目をつぶらせていた。自らを、ひどく愛国的で、進歩的だと信じ込んでいる発展途上国の原子力官僚たちは、西洋の、すでに峠を越えようとしている流行のとりこに、依然としてなっていた。


 先進工業国からの注文が途切れがちになっていた原子炉メーカーにとって、発展途上国向けの新規契約はことのほか重要だった。こうした何億ドルにものぼる大型の取引をする原子力のセールスマンの中には、航空機産業のように、売り込みに熱心なあまり、時として不穏当な商法を使うものもあった。


 1970年代の、ロッキード社とノースロップ社のヨーロッパおよび日本向けの航空機売り込みをめぐる国際的なワイロ商法は、大きな取引についてのひとつの前例をつくった。原子力もまさにそうした大型取引で、原子力機器の売り込みにはリベートがつきものだという噂が流れた。その証拠を見つけるのは困難だったが、1976年、カナダ原子力公社(AECL)が獲得した2件の契約を同国の会計検査院が詳細に検査した結果、いくつかの奇妙な取引が明るみに出た。アメリカの軽水炉によって支配された市場に食い込もうと悪戦苦闘していた、重水炉メーカーのAECLは、重水炉2基をアルゼンチンと韓国に売り込むことに成功した。そのとき、AECLはすでにおなじみとなっていた「出血受注」を敢えてしたのだが、それ以外に、第3国の、リヒテンシュタインや日本の銀行口座に巨額の送金をしていたことが判明した。


 さらにこうした巨額リベート以上に問題だったのは、原子炉メーカーが、発展途上国向けには、先進工業国よりも安全性の低い、運転の規格もそれほど厳重でない設計をとっていることだった。これは、IAEAの安全部門のモリス・ローゼン博士(111) が1977年の発展途上国に関するレポートの中で、フィリピンに対するウェスチングハウスの原子炉輸出について指摘したものだった。


 この取引の中心人物は、エルミニオ・ディシニ(112) というイタリア系のフィリピン人だった。ディシニは1970年に紙巻き煙草のフィルターをつくる零細企業から出発して、5年と経たないうちに35の会社と2億ドルの資産を支配するコングロマリットの当主にのし上がった叩き上げの人物だった。


 当時フィリピンは、フェルディナンド・マルコス大統領が、1972年の戒厳令で独裁的な権力を握っていた。マルコスの独裁政権は、高水準のテクノクラートの助言と、封建的な人脈の争いの奇妙な混合物だった。マルコスとその妻のイメルダは人脈の方を重んじた。ロマノフ王朝の崩壊以来、いや、ベルサイユ宮殿以来、世界がかつて見たことのない豪勢で大げさなパーティーや会食が、マラカニアン宮殿や大統領専用ヨットで際限なく続き、お追従を言う取り巻きや、お気に入りの芸人、踊り子の群れでいつもいっぱいだった。


 ディシニもいつもその中の一員だった。彼の妻は医者で、イメルダの従姉妹であり、イメルダの子供たちの家庭教師であると同時に、イメルダの主治医でもあった。ディシニもしょっちゅうマルコスのゴルフのお供をし、こうして得た大統領夫妻の知己が彼の成功の秘密だった。


 原子力発電は、こんな野心的なディシニにまさにぴったりで、マルコスの大物意識にもマッチした。マルコスはバターン半島の外側に原発を2基建設すると大々的に発表して、フィリピンの原子力推進派にゴーサインを出した。マルコスは原子力発電が何か進歩的で、自分の国の国際的なイメージを高めることができると信じた。原発2基の契約は、フィリピン産業発展史上最大の建設発注になるはずだった。


 1974年、フィリピンのテクノクラートたちは原発プラントをめぐる詳細な交渉をまさに終えようとしていた。その時点では、GEとの間に契約が結ばれそうに見えた。同社は詳細な調査を完了して、4冊分のコストおよび明細の見積もり書を提出し、合計7億ドルで2基の原発を建設すると提案していた。


 一方、ウェスチングハウスは、「普通の宣伝用のパンフレットに毛が生えた程度の見積もり書」を提出し、ただ価格は2基で5億ドルとオファーしただけだった。自社の原子炉がフィリピンのケースに適しているかどうかの詳しい調査は一切していなかった。だから、マルコスが顧問たちの勧告を覆して、ウェスチングハウスと契約すると発表したとき、少なからぬ衝撃が走った。ウェスチングハウスの担当者は、成約に漕ぎつけることができたのは同社の販売代理人に選んだエルミニオ・ディシニのおかげだとおおっぴらに認めた。のちに、ディシニに対して多額の手数料を払ったことも判明した。噂では、400万ドルとも、契約総額に対するパーセンテージで数千万ドルにもなるだろうとも言われた。


 それにしても、ウェスチングハウスが提示した5億ドルという価格は不自然なほど安値だった。原子炉の売り込みを側面がら促進していたアメリカ大使館でさえ、安すぎると評した。同社が詳細な見積もり書をつくりあげた段階では、2基で5億ドルが、1基で11億ドルとなり、さらに20億ドルにふくれ上がりそうだった。


 もめごとの兆候はローゼン博士の報告書とともに表面化した。ローゼン博士は、フィリピン向けの原子炉設計の安全性が、ユーゴスラビア向けに売却された原子炉の安全性を「参照」することになっており、そのユーゴ向けの炉は、ブラジル向けに売却した炉の安全性を「参照」することになっている点を指摘した。さらに、そのブラジル向けはプエルトリコ向けにウェスチングハウスが提案した原発計画を「参照」することになっていたが、ここにひとつの問題があった。プエルトリコ向けの原子炉はその後キャンセルされており、したがって、この原子炉が第三者の安全性規制調査の対象になったことは一度もなかったのである。「この原子炉の安全性はトランプカードで組み立てた城と同じだ」とローゼン博士は言った。


 しかし、それよりもっと気がかりなことがわかってきた。フィリピンは強い地震が発生する地帯に位置しており、建設予定地のバターン半島からわずか20マイルのところに火山もあった。IAEAの安全調査チームは、耐震性を大幅に強化する必要があると結論し、こうした懸念に採算性の悪さが次第に知れわたってきたことも手伝って、結局、マルコスは建設を一時停止するよう命じざるをえなくなり、原子力の進歩の夢はフィリピンでも悪夢となった。


 経済の面でも訓練を積んだ科学者の無駄遣いという点でも、インドほど原子力への投資によって打撃をこうむった国はなかった。


 「原子力の父」であるホミ・バーバー(55)が1966年に死去するまでは、原子力によって安価な電力をつくり出すというビジョンはまだ生きながらえていた。エネルギー自給自足の旗印の下、バーバーは、アメリカが独占する濃縮ウランに依存することのない重水炉の開発に努力していた。この炉は高率のプルトニウムを生産するので、次の段階では増殖炉の燃料としても使える。しかし、1964年、オイスター・クリークで「突破口」が開かれたあと軽水炉の人気が高まると、バーバーは、官僚のなかにわだかまっている原子力発電の経済性への疑念を静めるために、GEの沸騰水型軽水炉を1基だけ発注した。この原子炉は、カルカッタの北250マイルのタラブールに建設されるはずであった。


 ネール首相の死によってバーバーは政治的なパトロンを失い、彼の計画に対する疑念はいっそう高まった。そして、バーバーが死ぬと、後継者のピクラム・サラバイ(109) は別の新計画を提案した。バーバーと違って、経済に強いことを自負するサラバイは、自分の一族の繊維産業を近代化するときに威力を発揮した、オペレーションズ・リサーチという経営技術を持ち込んだ。ただこの技術の欠点は、ある分野での投資決定の必要性を、他の分野のそれと関連させて考えないことだった。彼は原子力の分野に限って分析を進めることにより、いかにも合理性のありそうなインドの長期的原子力計画を作成した。1970年に発表された彼の10ヶ年計画は、当時世界中の原子力産業にみなぎっていた楽観的な見通しを反映したものだった。この計画はまた、インドの送電線網が、建設を予定していた50万キロワットの原発はおろか20万キロワットの発電所でさえ吸収できないものであることを無視していた。


 1971年、サラバイは年を追ってエスカレートしていく技術的問題点を残したまま死去した。重水炉計画と重水の生産は遅れる一方だった。建設コストは計算し直すたびにふくらんでいった。タラブールにあるたった1つの軽水炉は、さまざまな装置や材料の欠陥のために最初から問題続出で、しょっちゅう運転を停止した。送電線網の電力負荷と電圧が絶えず不安定に上下するため、核燃料に損害が生じ、しばしば運転を止めなければならなかった。しかし、電力供給が途切れるのを恐れて、止めるのをはばかったため、プラント維持補修は最低レベルに落ち込み、運転上の不手際で生じた残留放射能が除去されることもできなくなってしまった。


 タラブールの抱える問題は、インド国内でも批判の的になった。これまでの甘いコスト見積もりにも厳しい視線が向けられた。政府部内のインド計画委員会からも、将来のコスト予測について、もっと詳細な資料を求められたが、原子力官僚は返事に窮した。1978年の5ヶ年計画草案では、原子力はコスト高の選択肢であり、インドの電源開発計画の主役を演じるわけにはいかないということをついに認めた。だが、それまでに費消された何億ドルもの資金、何千人もの科学者はいったい何だったのか、そのことに触れるものは誰もいなかった。多分、考えるだに空恐ろしかったのだろう。



【登場人物の整理】


  1. (111)モリス・ローゼン(米):国際原子力機関(IAEA)安全部長(途上国向け原発の安全性を告発)

  2. (112)エルミニオ・ディシニ(フィリピン):実業家(マルコスの取り巻き、ウェスチングハウス原発販売代理人)





第26章  第二氷河期


 1977年、原子力産業は推進派の言う「第二氷河期」に入った。それまでの楽観的な予測がどうにもならないほど的外れだったことが明白になってきた。新規の受注が激減したばかりか、電力会社はすでに注文した分の着工を遅らせはじめた。下火になった大きな理由は、70年代半ばの景気後退であった。西側諸国はどこも電力需要の伸びが劇的に低下し、電力会社は設備過剰に直面した。


 石炭火力より安くなるという原子力発電の経済性はついに実現しなかった。そのうえに、原子炉の安全性、ウラン価格の急激な上昇、増殖炉の不確かな未来、いっそう手の込んできた反対派の挑戦などが、原子炉メーカーの宣伝や新技術の魅惑、企業の威信などにからまれて「原子力のワナ」にはまってしまった電力会社の幹部たちに降りかかってきた。


 それまでの約10年間にわたって、原子力業界は原子炉の安全性は心配しなくてもよいと考えてきた。しかし、原発の運転が開始されるにつれ、問題が表面化してきた。強い放射線と高温高圧の下で、パイプやバルブやノズルがひび割れを生じてきた。燃料棒は曲がり、いわゆる「放射線封じ込みシステム」にはあちこちに漏れが発見されてきた。


 こうした問題が起こるたびに、コンクリート壁を厚くしたり、鉄骨の補強材を追加したり、新たな装置を設置したり、そんな手直しを行わねばならず、そのたびに、原子炉は長期間にわたって運転を停止し、発電コストはますます上がった。


 原子力発電の経済性の論拠のひとつにウランの燃料コストが安いということもあったが、70年代半ばのウラン価格急上昇によって、その利点も消えてしまった。これは第21章で取りあげた、フランス主唱の「5ヶ国クラブ」の秘密カルテルの結果であるとともに、アメリカの濃縮ウラン販売政策の変更にもよるものだった。


 世界の電力会社は、1973年までは必要なときにいつでも濃縮ウランを注文することができた。ところが石油危機が発生した1973年に、アメリカのAECは、原発の増設によって予想される濃縮ウラン不足を懸念して、2つの厳しい制限を導入した。ひとつは、それまで濃縮ウランの購入予約は、6ヶ月前でよかったのが8年前になり、同じ量の濃縮ウランを手に入れるためには、これまでよりも多くのウラン鉱石を渡さなければならなくなった。


 またプルトニウムを割りの合う価格で生産できるような再処理プラントを建設することができるのか、ということも疑わしくなってきた。アメリカで計画された3ヶ所の再処理工場のうち、1ヶ所は技術上の欠陥のため閉鎖され、あとの2ヶ所はコストが当初の見積もりを上回ったため、ついに完成しなかった。西ドイツではある企業グループが再処理プラントの建設を計画していたが、採算に乗らないと判断して撤退した。こうして、最初は設備過剰になると懸念されていた再処理能力が、1980年には逆に大幅に不足して、再処理のコストは10年前に比べて10倍に跳ね上がった。原子力業界は再処理という考えに余りにも偏りすぎていたために、使用済み核燃料が再処理できない場合どうするのかという問題を考えていなかった。反対派は、原子力計画のこの驚くべき欠陥を突いて、この問題は原発をめぐる大きな争点となった。


 燃料棒は炉心から取り出されたとき、きわめて強い放射能を帯びている。これを「冷やす」ため、いったん、原子炉の近くにある普通の水を循環させたプールに貯蔵される。この間、半減期が8日のヨード131などの放射能は減衰する。使用済み燃料棒を1~3年間プールで貯蔵したのち、梱包して再処理プラントに運び、そこで硝酸によって溶かされて、使えるウランとプルトニウムを分離して抽出する。


 再処理をしても、放射性廃棄物は残る。「ハイレベル廃棄物」と呼ばれるさまざまな放射性物質を大量に含んだこの残留物は、人間の手に触れないどこか遠くに何千年もの間貯蔵しておかねばならない。アメリカではすでに、原子力潜水艦を含む核兵器計画によってできたこのような廃棄物が1億ガロンも溜まって、巨大な鋼鉄製のタンクに詰められて軍用地に埋まっている。さらに原発から出てくる廃棄物は、何らかの処分方法を考えないと、使用済み燃料棒を貯蔵しておく場所がなくなってくる程のペースで増え続けている。短期的には、それらを新しいタンクに入れて原子炉から、そして人口密集地から離れたところに貯蔵するのは、少なくとも理論的には可能である。長期的には、どこか別のところ、地下深く穴を掘ることから、海底の底まで、さまざまな案が出ている。しかし、貯蔵するとき、それらが地下水に漏れたり、海水によって容器が腐食したりしないようにしなければならない。廃棄物を、腐食しないガラスやセラミックの中に封じ込める方法なども提唱されているが、いまだに決定的なものにはなっていない。最初の原発が設計図の段階から離れてから30年以上経つというのに。


 当初、環境保護運動の目が、自然破壊をする水力発電や、大気を汚染する火力発電に向けられていたときは、原子力発電は威勢がよかった。むしろ、「クリーンなエネルギー」だというイメージさえ持たれていた。しかし、原発が排出するものが、他の発電所よりも桁外れに有害なものである可能性が見えてきたとき、矛先が変わった。原発に対する厳格な規制が要求されるにつれて、その発電コストは上がっていった。また、原発に対する政府の「隠れ補助金」も問題にされはじめた。電力会社が原子力発電を採用しやすくさせるため、これら補助金が「不公平」に支払われている、というのが、反対派にとっての大きな論拠のひとつとなってきた。


 こうした、原子力発電にとって「冬の時代」に、断固として原子力から引き下がるのを拒否したのは、フランスとソ連だった。両国は原発計画を圧縮するどころか、逆に拡大した。どちらも国営企業が電力産業を独占しており、政府の命令に従って、原子力発電能力を拡大するのが国益だと見られていた。


 フランス電力(EDF)では、マルセル・ボワトー(96) とミシェル・ユーグ(97) が、その組織の目的を、安価な電力を提供することから、フランスがエネルギー面で独立を達成することに置き換えた。理工科大学の「橋梁・道路組」だったユーグは、70年代半ばになってフランス国内でも高まってきた、強引な原子力計画に対する議論に応えて、「すべてを電気で! すべてを原子力で!」という古いスローガンを闘いの雄叫びにしようとした。ユーグは、原子力計画がひとりEDFのイニシアチブによるものでなく、政府自体の、つまり原子力庁(CEA)の、経済法則の基づく計画なのだと主張しはじめた。


 自分の権限と権力を満喫していたユーグと違って、ボワトーはEDFが「国家の中の国家」と呼ばれ出すとだんだん不安になってきた。彼は権力が好きでなかったし、求めもしなかった。彼は命令よりも、説得を信じていた。社長というより、大学教授の方が似合いそうなボワトーはフランス国民に、原子力を選ぶことのコストと利点を理路整然と説明した。しかし彼のエレガントな経済モデルでは、社会問題は測定不能な要素として片づけられ、測定できるものの方が測定できないものよりは重要だと考えるワナにはまってしまった。ボワトーは、自分では決して認めないであろうが、民主主義においては何が政治的に重要か決めるのは、専門家ではなくて一般大衆であることを忘れていたのである。


 ソ連で原子力発電に対する関心が再び高まったのは、1964年10月のフルシチョフ失脚のあとであった。その翌年には、原子力発電への新しいコミットメントについての論文が新聞紙上にあらわれ、そこでは1950年代半ばの大げさな計画が結局何も生み出さず、コスト見積もりも不正確だったことが自己批判されていた。そのあとは、原子力のためのキャンペーンは全開となり、新しいコスト見積もりや、「原子力の父」として有名なイゴール・クルチャトフ(11)の伝記など、一連の記事が新聞雑誌を賑わした。


 この復活劇で最も重要な役を演じたのはソ連の独占電力企業である電力省だった。同省の技術者兼行政担当者は、かつてのコスト見積もりが楽観的すぎたことは認めたが、その後、科学者と技術者による長年の努力の結果、いまや原子力発電の効率は改善されたと主張した。1968年に電力省内の原子力部門が復活し、1971年の第24回ソ連共産党大会で第9次5ヶ年計画の中に、600~800万キロワットの原発を新設することが盛り込まれた。さらに、1976年からの第10次5ヶ年計画では、1300~1500万キロワット、そして80年代には毎年1000万キロワットの原発が建設できる体制を整える、ということが決定された。安全性の問題はおおむね抑え込まれるか、無視された。大規模な原発建設に対する地元の反対がソ連でも散発的に起きていると、西側の報道が伝えたり、1976年には有名な物理学者ピョートル・カピッツァ(113) がソ連科学アカデミー250周年記念講演で、原子力発電の危険性を強調したが、ソ連の新聞には掲載されなかった。その頃、西側の原子力推進派は、ソ連の計画は円滑にしかも効率的に進んでいると、好意的に論評していた。



【登場人物の整理】


  1. (113)ピョートル・カピッツァ(ソ):物理学者(アカデミーの記念講演で原発の危険性を強調)






第27章  パラケルスス精神で


 ある意味で天才、ある意味で大ぼら吹きのパラケルスス(1493-1541、スイスの医学者・錬金術師。化学療法の祖といわれるが、当時の医学を批判したかどでスイスを追放され、ザルツブルグで亡くなった)は、1970年代末の核社会を体現する人物かもしれない。


 そんなパラケルススにあやかるかのように、1977年春、第5回「平和のための原子力」国際会議はザルツブルグで開催された。エネルギーの需要の伸びがストップして、原発の新規発注が絶え、また世界中で原子力反対の声が上がって、原子力賛成派の2000人がザルツブルグに到着したとき、反対グループの「非核未来会議」と名づけられた集会が同市で終わったばかりだった。


 「原子力の否定は、世界的な貧困へ向かう道だ」と、原発支持派の指導的人物のひとりである、フランス原子力庁(CEA)のアンドレ・ジロー長官はうそぶいた。しかし、そんな強気と裏腹に、原子力が素晴らしい未来の象徴だった頃に会議が催されていたジュネーブを避けて、ザルツブルグが選ばれたことは、楽観的なジュネーブ時代を一切思い出すまいとする慎重な努力の結果であった。万能の「平和のための原子力」というテーマは「原子力発電と核燃料サイクル」ときわめて具体的なものに変えられ、原子力発電に関する問題の討議にしぼられて、医療での放射性同位元素(アイソトープ)の使用とか、「平和的な」核爆発による港湾建設、X線照射による害虫の絶滅、原子力貨物船といった「夢のような」話題は姿を消した。しかし、自分たちを依然、永遠の進歩に貢献する、特別な科学のエリートと自認する原子力支持派の意気軒高は衰えなかった。そんな熱狂の真ん中に、彼らのムードに完全には同調しない人物がいた。世界の原子力支持派の中でも長老と見なされていたアルビン・ワインバーグ(114) だった。


 ワインバーグはマンハッタン計画のころはシカゴ大学におり、加圧水型原子炉をつくった人物で、オークリッジ原子力研究所の所長となった。視野の狭い大部分の原子力支持派とは異なり、彼はいつも研究所の研究領域を拡げようと試み、またその研究が持つ社会的意味を考えようとしていた。彼は、科学には一切の技術問題を解決する能力があると確信していたが、同時に社会的影響に配慮することなく高度な技術を信仰するという、「巨大科学」の落とし穴には警戒していた。


 ワインバーグは、原子力の選択はファウスト的取引であることを認めた。原子力は人類に提供する約束は危険(リスク)と隣り合わせだった。ザルツブルグで、痩身、白髪のワインバーグは聴衆に向かって、「もしも原子力が支配的なエネルギーになるとしたら、それは、他のどんな技術が要求するよりもはるかに多大な献身を原子力の指導者集団に要求するだろう」と警告した。そして、現在の見積もりでは、世界の原発のどこかで4年ごとに1回の「炉心溶融」の可能性があること、そして、2050年までに世界で5000基の増殖炉が稼働していれば、それらのために毎日100トンのプルトニウムを再処理する必要があることを指摘した。


 この思いがけない演説に原子力支持派は大いに混乱したが、反対派も拍手喝采というわけにはいかなかった。なぜなら、ワインバーグはそれでも結局は原子力に本当に代わりうるものはないと、聴衆に向かって保証したからだ。推計によると、2050年までに、1977年現在の6~9倍のエネルギーが必要になり、もしその大部分を化石燃料でまかなうとすれば、それによって排出された二酸化炭素が地球の周りを毛布で覆うかたちになって地球の気温を上げ、大幅な気候変動を起こしてしまう。最終的には太陽エネルギーの活用は可能かも知れないが、それが完成するまでのつなぎとして、また完成してもおそらくそれだけですべてをカバーできないので、それを補完するものとして、やはり原子力は必要だ、と結論づけた。


 その1週間前に開かれた「非核未来会議」では、そうしたテーマに意識的に挑戦していた。それまで原子力反対運動の特徴は「否定的アプローチ」にあった。つまり、原子炉の安全性、廃棄物処理、核兵器拡散といった、原子力の危険に対する敵意である。代替エネルギーに関心を持つ人々もいたが、それはあまり目立たなかった。しかし、ザルツブルグでは、この新しい、もっと積極的なテーマが成熟していた。代議員の全員が、原子力に代わる一連のエネルギーを強調し、原子力はもはやいかなる絶対的意味においても必要でないという事実を強く指摘した。


 この新しいアプローチの知的指導者として、1人の若い科学者が登場した。環境保護団体「地球の友」イギリス支部で働くアメリカのエネルギー専門家、エイモリー・ロビンス(115) だった。原子力支持派の、世界中にエネルギー需要がある以上、大規模な原子力発電は避けられない、という考え方は基本的に間違っている、とロビンスは主張した。また、公平な観測者たちが、原子力を「必要悪」だとして、容認に傾いていたとき、それは「必要」というより、はっきり「悪」である、と断言した。


 2年前の1975年、フォード財団のエネルギー・プロジェクトが、1973年の石油危機の経験から、さまざまな代替エネルギーを検討していた。風車、太陽熱ヒーター、台所のゴミや植物の液体アルコール燃料への転換、流動床燃焼システムによる、よりクリーンな石炭燃焼方式、地熱エネルギー、海洋の温度差を利用した発電などが提案された。原子力支持派は、どの方法も「十分な」エネルギーを生産することはできないと批判したが、ロビンスは、すべての可能性を合わせると、代替エネルギーは全体として長期的には十分なものになりうる、と主張した。「小さいことは美しい(Small is beautiful)」哲学の信奉者でだった彼は、集中されないかたちで小規模に利用できるテクノロジーの発展を擁護し、そうした代替エネルギーの開発が遅れているのは、全世界の優秀な科学者や技術者が原子力に没頭して、何十年間かがムダに失われたからだ、と述べた。


 ロビンスは原子力支持派から猛烈な攻撃を受けた。コストと技術開発の困難を双方とも軽視している、開発のスピードを誇張している、その提案が引き起こすかも知れないたくさんの副作用を考慮に入れていない、などであったが、それらは実は、何十年かにわたって原子力社会の特徴となっていたものに他ならず、この皮肉は誰にも気づかれないままにやり過ごされた。


 ロビンスは、原子力支持派にとっては「アウトサイダー」でしかなかったが、「グループ」の一員であるワインバーグが基本的な点でロビンスと同意見だったことは支持派を狼狽させた。つまり、長期的なエネルギー計画の立案は、石炭、石油、ウランなどいずれなくなってしまう資源に依拠しない新しいエネルギー体系への移行が必要なこと、大部分の国では少なくとも一時的には、原子力発電のこれ以上の開発を延期することが可能であること、移行期の穴埋めは石炭でできる、などであった。ただ違っていたのは、ロビンスが広範囲にわたる再生可能資源(とくにあらゆる形での太陽エネルギー)で世界の需要を十分に満たせると見ていたのに対して、ワインバーグは再生可能資源のコストはあまりにも高く、ウランは再生可能資源ではないにしても、増殖炉の採用によってその寿命を無限に延ばすことができるはずだとしていたことだった。



【登場人物の整理】


  1. (114)アルビン・ワインバーグ(米):原子力支持派学者の長老(原発の危険性と将来性を憂慮)

(115) エイモリー・ロビンス(米):科学者(反原発のエネルギー専門家)






第28章 「われわれはすべて、今ペンシルベニアに住む」


 1979年3月16日、ハリウッド製のサスペンス映画『チャイナ・シンドローム』がアメリカで公開されて、たちまち大当りをとった。この映画は、原子炉が大故障を起こし、溶融の一歩手前で間一髪制御されるという物語であった。映画がヒットしたため、「溶融(メルトダウン)」とか「チャイナ・シンドローム」という言葉が家庭の中にも入って、期せずして、最悪の事故が発生する事態に世界を備えさせることになった。それから間もない、3月28日に、ペンシルベニア州東部のサスケハナ川の真ん中にある細長い中州、「スリーマイル島」で、加圧水型原子炉の冷却水がなくなるという事故が起きた。


  この日の午前4時、蒸気発電機に給水していたポンプが止まってしまった。直ちに安全装置が働いて発電機が止まったが、炉心を冷やしていた水の流れも止まって加熱され、空気が膨張して圧力が異常に高くなった。この時点で第一の安全装置である安全弁が開いて、過剰な圧力を排出し、次いで第二の安全装置が働いて、核分裂を止めるための制御棒が投入された。安全弁は、そこから蒸気となった冷却水が過度に失われるのを防ぐため、13秒後には閉じるはずだった。制御盤のランプが消えていたので、オペレーターは弁が閉じたのだと判断したが、実は開いたままで、2時間以上その状態が続いたため、死活的な冷却水を外へ流してしまった。炉心上部がむき出しのまま熱せられ、燃料棒を覆っているジルコニウム合金の被膜が蒸気に反応して水素が発生し、小規模の水素爆発が起こった。残りの水素は原子炉自体の中に残り、それから先何日間も専門家たちをびくびくさせた水素の気泡をつくった。


 スリーマイル原発を運転するメトロポリタン・エジソン社はすぐにPR活動を開始した。社長のウォルター・クライツ(116) はテレビに登場し、発電所は誰にも危害を与えることなく、まもなく安全に閉鎖される、と自信を持って断言したが、その直後の記者会見の席上で、同社の最高技術担当者であるジョン・ハーバイン(117) は、重大な間違いが起きたことを初めて認め、会見場は騒然となった。炉心がオーバーヒートし、放射性ガスと蒸気が爆発可能な水準まで原子炉建屋の中に蓄積していた。


 3日目の朝、発電所の上空を飛んでいたヘリコプターが、放射能が突然大幅に増加しているのを感知した。このデータはすぐさま、原子力規制委員会(NRC)のワシントン本部とペンシルベニア州知事リチャード・ソーンバーグのオフィスに知らされた。知事は地元民を疎開させるべきかどうか知りたがった。NRCは、発電所から1マイルの住民がこうむる放射線量は、胸部X線と大して変わらないので、疎開の必要はないと答えた。しかし、今後、どのくらいの放射線が排出されるのか、だれにもわからなかった。


 公衆は事故発生の知らせは受けていたが、放射線の排出については、何も知らなかった。そして、その時、メトロポリタン・エジソン社とNRCの専門家たちが完全な混乱状態に陥っていたことも知らなかった。彼らは、事故の内容をよくつかめないまま、事故4日目まで、疎開させるべきかどうか、マラソン討議を続けていた。そして、5日目には、発電所の状況は改善し、疎開命令は出されなかった。原子炉は比較的落ち着いた状態になり、ゆっくりではあるが、温度は下がっていった。


 こうしてスリーマイル島は、原子力の伝説となった。西側における単一の原子炉事故として、これまでの最悪であり、「平和のための原子力計画」が始まって以来、西側では最大量の放射能を排出した。原子力反対派にとって、これ以上格好の宣伝はなかった。1ヶ月後の5月6日からヨーロッパでは10万人以上の人々がデモを行った。ある人たちはすべての原子炉を直ちに閉鎖するよう求めた。別の人たちは、問題が解決したことが証明されるまで、少なくともモラトリアムを実施するように求めた。


 原子力業界は最悪の危機に直面しながらも、アメリカのエネルギーは現在も、また将来も原子力なしではやっていけないと自信を持って予測し、現存の原発では不十分で、もっと建設する必要があるとしていた。すでに操業中の140基以上に加えて、20の州で92の原発を建設する過程にあり、NRCのテーブルには、さらに28基の原発建設の許可を求める要請書が積まれていた。


 アメリカのエネルギー省の予測者はこれほど強気ではなかった。彼らは自分たちの見積もりを急速に下向き修正中で、1985年までの原子力での総発電量は1億1800万キロワットになるとしたが、1977年に出した数字は1億4000万キロワット、そして1970年は3億キロワットだった。


 ホワイトハウスでは、カーター大統領が、あらゆる原発を即座に閉鎖することは問題外である、と言ったが、スリーマイル島事故を調査し、アメリカにおける原子力発電の将来について勧告を行わせるための特別委員を任命した。委員長になったのは、戦後ロスアラモスで仕事をしたことがある数学者のジョン・ケメニー(118) だった。彼とともに多数のコンサルタントと11人の委員が仕事をしたが、その中には、スリーマイル島住民代表として43才のミドルタウンの主婦、アン・トランクがいた。「私は普通の消費者として参加するつもりです。委員会は私にも解るように運営される必要があります。私に解るようだったら、ミドルタウンの誰にでも解るのですから」。


 夏の間じゅう、スリーマイル島のマヒした原子炉は封印されたまま沈黙しており、アメリカ最高の科学者や技術者たちもこれをどう処置したらよいものか、依然首を捻っていた。格納容器の内部では、こぼれた冷却水で空気は湿り、高い放射能を帯びているので中に入るわけには行かなかった。格納容器の入った建屋にも大量の放射能を帯びた水が溜まったままだった。7月には、専門家たちが、発電所を再出発させるには4年の歳月と最高4億3000万ドルの費用がかかると推定した。その数字はやがて10億ドルを突破するかもしれない。この原子炉で生産されたはずの電力を補充するのに必要な費用まで含めたら、コストは20億ドル以上に達するはずである。


 1979年10月、ケメニー委員会は報告書を提出した。それは非常に明快で読みやすいものだったが、結論は意外なものだった。つまり報告書は、テクノロジーの失敗に焦点を当てるのではなく、基本的な問題は人間に関わるもの、という結論を下した。


 「誰もが機器の安全を過信し、原子力発電が持つ人間的側面の重要性を軽視していた」「安全関連の機器ができるだけ機能するよう多大の努力がなされ、バックアップ用の機器も十分あった反面、発電所を管理運営する人間が重要な安全システムを形成している、という点が認識されていなかった」「電力の生産と供給にあたる会社には安全を保証するためにもっと厳重な基準が必要である」「原発の運転担当者の訓練を改善し、公衆や発電所の労働者の健康にもっと注意を払い、将来の事故に備え電力会社の緊急対応計画を改善し、そうした計画の確立を建設許可の条件とすべきである」。


 44に及ぶ勧告のうち、技術に関するものは2つだけで、残りは原子力発電に関する制度の改革をめざすものであった。委員会は、原発建設の停止または延期を勧告していなかったので、反対派を失望させたが、しかし、翌年の新規発注はゼロ、契約済みのうち11件がキャンセルされて、事実上、モラトリアムの状態となっていた。


 アメリカの外でも、スリーマイル島原発の事故は、1週間にわたってトップニュースとなり、ヨーロッパでは各地で大規模な原発反対デモが行われた。一部の国の政治家は、原発に対する態度が選挙の結果に影響を与えかねないことに気がついた。西ドイツでは、ニーダーザクセン州の州政府首相が、ゴルレーベンの再処理工場に許可を与えないと表明したが、これはその工場の安全性を懸念したのではなく、政治的に受け入れられないからであった。スウェーデンでは、全政党が原発に関する国民投票の実施に同意した。1年後スウェーデン国民は、制限つきで原発を容認する、という答えを出し、向こう10年間に原発計画を6から12に拡大することは認めたが、その後25年間で原発を漸進的に廃止していくという原則を承認した。


 スリーマイル島事故に関するヨーロッパ産業界の答えは、「ここでは起きるはずがない。われわれは異なった、もっと優れた設計の原子炉を持っている」というのが多かった。西ドイツのクラフトウェルケ・ウニオンの取締役、クラウス・バルトヘルト(119) は、西ドイツの設計になる加圧水型原子炉(PWR)にはもっと安全のために手が加えられているので、同じ事故が起こるはずがない、と主張した。もちろんイギリスは、ジェームズ・キャラハン首相が「原子炉の型が違うのでハリスバーグで起きたような事故はここでは起こりえない」と胸を張ったように、軽水炉ではなく、ガス冷却炉を推進してきたイギリス原子力業界の見識を誇った。


 低レベルの放射線に関する論議はそれまで、ネバダの核実験の降下物を浴び、実験台にされた兵士たち、実験場近くの住民、原子力工場の労働者、の3つのグループに焦点を合わせられていたが、スリーマイル島事故以後は、その周辺住民が中心となった。


 事故から1年後の1980年3月、ペンシルベニア州の元保健局長が、事故後、原発から10マイル以内の地域での乳幼児死亡数は前年同期比で50%増加していると発表した。すぐさま州の保健局の現役の疫学者が違うデータを示して、その見解を否定した。


 ミドルタウンで32年間開業してきた獣医のロバート・ウェーバー(120) は、1976年にスリーマイル島で原発が操業を開始して以来、農民が飼っている牝牛に広範囲にわたり骨の異常が生じており、事故の後には、豚の出産に問題が起こって、以前は1~2年に1件程度だった帝王切開を、週1回しなけらばならなくなった、ということを明らかにした。しかし、州農業局は、事故以後、地域の100の農場で死んだ家畜から組織を採取したが、放射線の被害を受けた証拠は見当たらなかった、と発表した。


 経験的に明らかに「異常」が感じられるのに、その証拠は見つからない。それを「原子力ノイローゼ」と呼ぶ医者もいた。


 こうした非常に現実的な懸念の背後で、放射線からの公衆保護基準に劇的な再考が加えられていた。高いレベルで発見される放射線の影響は、比率的に低下していくが、最低の量に至るまでずっと存在する、という見方を、保健関係の医学者たちが一般にとるようになってきた。つまり、100レントゲンの被曝が100のガンを引き起こすとすれば、10レントゲンでは10のガンを引き起こす、ということで、それ以下は無害であるという「敷居線量(スレショールド・ドーズ)」など存在しないということであった。


 この新しいアプローチは、原発だけでなく、X線、建物の建築資材、カラーテレビ受像機、ジェット機旅行など、あらゆる人工および自然の放射線が、たとえ僅かでも、人間のガンの原因になってきたのかもしれない、ということを示唆していた。


 原発から排出される放射線はごく僅かだから、人体にはまったく影響がない、と繰り返してきた原子力支持派はもちろん反発した。「安全」を証明するのは不可能に近かったが、その逆の証明も困難だった。そんな、新たな論争の中心に、イギリス人疫学者、アリス・スチュアート(90) がいた。


 彼女は早くも1956年にX線による低レベル放射線の影響についての科学的兆候を発見し、それは、妊婦へのX線検査の禁止への道を開いたのだが、依然それに関する論争は続いていた。しかし、1976年、アリス・スチュアートは70才になっていたが、全世界の政府諸機関を結ぶ正統的な公式組織である「国際放射線防護委員会」が、彼女の20年にわたる研究結果を認めたのであった。


 その少し前の、1976年5月、アリス・スチュアートは、ピッツバーグ大学のトーマス・マンキューソー教授(121) から、ハンフォードのプルトニウム生産工場で働く人々についての疫学的研究を手伝ってもらえないか、との要請を受けた。彼女は同僚の統計学者ジョージ・ニール(122) とともに、正確な被曝量を基にしたそのデータを解析し、たとえ極めて低レベルの被曝であっても、ハンフォードの労働者たちのガンによる死亡率は一般住民よりもはるかに高いことを指摘した。


 また、低レベルの被曝サンプルが大量に入手された他の唯一の例である、広島・長崎原爆を生き残った一部の人々には、何らの影響も見られないということが、「低レベル放射線無害説」の根拠となっていたが、スチュアートは、原爆破裂後に広島に入った人々にはガンにかかった率が比較的高いことを新たに立証した。


 スチュアートがこの新しい研究成果を発表した直後、多数の研究所で他の研究者たちが同じような数字を指摘した。ニューハンプシャー州ポーツマスで原子力潜水艦の整備にあたった労働者を調査したところ、ガンにかかっている率が全米平均の2倍に達していた。原爆破裂のあとネバダの実験場に入った数千人の兵士グループを観察した結果、予想される白血病死亡率が2倍に達していた。ユタ州南部の実験場近くの住民の白血病にかかる率が実験前に比べて2.5倍になっていた、など。


 こういった調査に対しては、統計上の完全性を欠いているという非難も浴びせられた。スリーマイル島から出た低レベルの放射線が無害で取るに足りなかったかどうかが証明されるには、まだまだ長い時間が必要とされ、原子力の影響にますます関心を深める公衆は、専門家たちの意見の分裂に当惑するばかりであった。

(完)



【登場人物の整理】


  1. (116)ウォルター・クライツ(米):メトロポリタン・エジソン社長(スリーマイル島原発)

  2. (117)ジョン・ハーバイン(米):同社最高技術担当者(スリーマイル島事故の重大性を発表)

(118) ジョン・ケメニー(米):数学者(スリーマイル島事故調査委員会委員長)

  1. (119)クラウス・バルトヘルト(独):クラフトウェルケ・ウニオン取締役(西ドイツの加圧水型原発の安全性を強調)

  2. (120)ロバート・ウェーバー(米):獣医(スリーマイル島周辺の家畜の異常を告発)

  3. (121)トーマス・マンキューソー(米):ピッツバーグ大学教授(ハンフォードの原子力工場労働者の健康調査)

  4. (122)ジョージ・ニール(米): 統計学者(ハンフォードの原子力工場労働者の健康データを分析)





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