システムを問題にしているのである


 本稿の(1)について、前号、A氏から手厳しい批判をいただいた。まだ論考の途中の段階なのでちょっと驚いたが、自分の考えを文章にして公表した以上、それに対する異論もあるのは当然で、そんなことも忘れて(2)ではのんきに長々と野球談義などしていたのだから赤面の至りである。気を引き締めて本題に戻りたいと思う。


 A氏の文章には啓発されるところが多かった。「日本の金メダル数はその体格や筋力からいって、いま程度が妥当で、東京からロスまでの2桁は出来過ぎだった。」という評価は私にとって新鮮だったし、また、いわゆる「練習」を Exercise(技術の習得)と Training(体力・筋力の鍛練)に分けて考える視点など、なるほどと感心し、今後、大いに使わせてもらおうと思っている。


 しかし一方、批判を受けた「私の意見」の中には、私自身、はたしてこんなことを書いていたっけ、と当惑するようなものもあった。それは、私の意見が「学校のクラブ活動に対するアンチテーゼ」で、「TVの前で日本が惨敗していく姿を見て、耐えきれなくなって、その責任転嫁をクラブ活動に押しつけ」、ただひたすらその指導者を責めている、と決めつけられている点である。


 論の途中で中断しているので言葉足らずだったかもしれないが、私の論点は最後の一文:「学校のクラブ活動が日本の競技スポーツを支える時代はもう終わった」に尽きている。すなわち、もはやそういうシステムでは技術革新された現在の世界の競技スポーツのレベルにはついていけないのではないかということを指摘したのであって、学校のクラブ活動の指導者の責任など全然問うてはいない。A氏の巧みな比喩を借用すれば、「歴史学者を育てられない史学研究部」や「プロ棋士を育てられない将棋部」「プロのロックバンドを育てられない軽音」などが駄目だなどと言っているのではなくて、学校のそういうクラブに歴史学者やプロ棋士やプロのミュージシャンの育成を期待する方が間違っていると言いたいのである。


 でも、誰も学校の運動クラブにオリンピック選手の育成など期待していないではないか、ということであろうか。私が「これまで、そして今も、日本のアマチュア・スポーツを底辺で支えているのは学校のクラブ活動である。」と述べたのに対して、A氏は次のように反論している。

 「多くのスポーツで競技人口を支え、大衆化せしめているのは学校のクラブ活動である。しかし、多くの競技、特にオリンピック種目で金メダルを狙えるような一流選手育成を支えているのは、〈昔も今も〉学校ではない。(中略) おそらく〈昔も最近も〉日本の金メダリストの多く、特に水泳や体操の選手はおもに学校外で育てられた選手ではないのか。だいたい多くのスポーツで中学からでは遅すぎるのは常識である。」      .......〈 〉設置は引用者

 しかし、〈  〉部分の、「今」はさておいても、「昔」もそうだったというのは事実であろうか。




日本のメダリストの多くは学校外で育てられてきたか


 日本最初の学校外のオリンピック選手養成機関が、水泳の「山田スイミングクラブ」であるということには異論はないであろう。それが、大阪のロート製薬の山田輝郎社長(ちなみに、本校卒業生の祖父にあたるそうである)の私財によって設立されたのはそんなに古いことではなくて、たしか東京オリンピックの後のはずである。しかし、自分の記憶に自信がなかったので、とりあえず本校の図書館に調べに行ったが、もはや「現代」ではなく、かといって「現代史」にもまだ入っていない事柄の資料は意外に少なく、困ったあげく司書の先生に助けを求めた。すると、さすがプロである。忽ちのうちに『現代日本・朝日人物辞典』という書物から“山田輝郎”の項を見つけて下さった。関係するところを引用すれば次の通りである。

「(前略) 一方、東京五輪における日本水泳陣の惨敗を見て、“水泳ニッポン”の復活を目指し、65年に私財を投じて“山田スイミングクラブ”を設立。ここからミュンヘン五輪で金メダルを獲得した青木まゆみらが育ったが、72年に解散した。」


 当時、世界の競泳選手(特に女子)の低年齢化は著しいものがあった。その震源地はおそらくアメリカだったであろう。

 私が中学生ぐらいの時、即ち、56年メルボルン~60年ローマ五輪の頃、世界の競泳界はアメリカ、日本、オーストラリアの3国が鼎立して覇権を争い、「日米対抗」「日米豪3国対抗」の水泳大会が毎年、各国持ち回りで開催されていた。当時の花形競技はなんといっても男子の400、1500メートル自由形で、56年のメルボルン大会で彗星のごとく現れ、高校生で2つの銀メダルを獲得した山中毅が、かつて敗戦国日本を鼓舞した「フジヤマのトビウオ」古橋広之進の再来として日本中を沸き上がらせていた。その山中の前に立ちはだかったのがオーストラリアのマレー・ローズジョン・コンラッズ。これらの大会ではたいてい優勝は彼らで、山中は惜しくも2位、そしてアメリカはどうかといえば、ジョージ・ブリーンという選手がいつも3位であった。この種目以外も含めて概ね、この3国の勢力は豪・日・米の順でアメリカはあまり冴えなかった。

 そういうことはアメリカ人自身が強く自覚していたであろうし、さらにそこにいわゆる「スプートニク・ショック」が加わった。57年10月4日、ソ連がアメリカに先駆けて人類初の人工衛星の打ち上げに成功したのである。
 

 ソ連はその後、61年のユーリ・ガガーリンによる初の有人宇宙飛行でもアメリカを凌いだ。これは大戦後の世界を一極支配していると自認していたアメリカにいっきょに冷水を浴びせるものであった。意外に早かったソ連の水爆開発(アメリカの1年後の53年)の事実とも合わせ、アメリカ中に危機感が走り、科学教育の徹底的な見直しが始まり、その成果は12年後のアポロ11号の月面着陸において結実する。

 一方、その危機感はスポーツの世界にも波及し、競泳においては、幼児から年齢別のクラブ組織や大会を整備し、コーチングスタッフを充実させるなど大幅な強化策をとるようになった。そして、その成果は早くも64年の東京五輪にあらわれて、男子自由形で10代のジョン・ショランダーが大活躍するなどして、その強さを完全に復活させ、現在に至っている。

 日本はといえば、その頃の選手育成は完全に学校中心であった。というより、水泳を練習するプールは学校にしかなかった。それ以外は川や海。石川県輪島高校出身の山中毅は幼い頃から近くの海で荒波に揉まれて練習したので強くなった、と言われていた。そうした自己流の力まかせな練習法が当たり前だった時代に、いちはやく科学的なトレーニングや新しい泳法などを導入したのがアメリカだったといえようか。(今では小学生でも常識の「とんぼ返りターン」が考案されたのもその頃で、それができない山中毅はターンのたびにリードを広げられて、日本人観客は切歯扼腕したものであった。)

 アメリカのそのようなクラブ組織を手本に、全国から有望な中学生を集めて競泳の「英才教育」を施した「山田スイミングクラブ」は、たちまちのうちに日本の女子競泳界を制覇した。68年のメキシコ五輪の自由形で入賞した西側よしみらがその初期の代表選手で、次の72年ミュンヘンで青木まゆみがバタフライで金メダルをとったことで、当初の目的は果たしたとして解散したのであろう。なお、当時、彼女らは国内の大会では「山田スイミングクラブ」ではなく、通学していた私立の「浪花女子高校」の選手として出場していた。

 その後、今をときめく「イトマン・スイミングスクール」などがあとに続くのであるが、そこに至るまでには少し時間がかかったようである。「クラブシステム」が有効だということはわかっていても、それを支える財政的な基盤が篤志家の寄付だけでは続かない。その後、幼児・児童向けの水泳教室の企業化が各地で成功するようになって、ようやく全国に、男子も含めたクラブ組織ができはじめたのであった。そしていまや、オリンピックの水泳選手の所属欄を見れば、学校名とともにさまざまな民間の水泳クラブの名前が併記されており、やっとそれらがわが国でも公認されたことがわかるが、「山田スイミングクラブ」が生まれてからでも30年余、民間クラブの名前が大会で使用されるようになったのはおそらく、そのずっと後のことで、いずれにしても「昔から」といえるようなものではない。

 また、新聞や雑誌に掲載されたアトランタ・オリンピックの選手名簿に、学校名や企業名以外の名称があったのは、プロも参加しているサッカーや自転車を除いては、競泳の他にシンクロナイズド・スイミングと体操ぐらいのものであった。「多くのスポーツで中学からでは遅すぎるのは常識」だとしても、ではいったい、今の日本で他にどんなスポーツ選手が学校外で育てられ、そしてそのことが公に認められているのだろうか。

 学校外で一流選手を育てはじめたのはそんなに昔のことではなく、そしていまだにそれは一部の競技にとどまっている、(あるいは事実上そうなっていても公には認められていない)というのが実情ではないだろうか。確かに学校のクラブはオリンピックに出るような一流選手の育成のためにあるのではないのは、今も昔もそうだろう。しかし、日本の現在のオリンピック選手の出自を遡っていくと、おそらく、そのほとんどは学校のクラブ活動にしか行き当たらない。それも当然で、彼らがその競技を教えてもらい、その練習ができ、その試合に出場できるところは学校以外にはなかったからだ。そして、その中でいくらか抜きん出た者がその競技の「名門校」(といっても、その競技の日本代表選手を育てるという使命感を持っているかどうかは疑わしいと思う。なぜなら、学校である限り、あくまで「教育」が優先され、実力本位の効率的なシステムは採りにくいと思われるからである。)に入り、そこで揉まれた結果、オリンピック出場に至ったというのが大部分であろう。

 しかし考えてみれば、このような過程はきわめて自然なものである。おそらく、どの国においても、選手たちはこのようなルートを通ってオリンピックに出てきたのかもしれない。そこにはクーベルタンの「勝つことではなく、参加することに意義がある」という精神が息づいている。しかし、そういう時代はかなり前に終わった、というべきであろう。(あるいは、そのような牧歌的なアマチュアリズムの時代など、もともとなかったのかもしれない。)そしてそれと時を同じくして、急速な「技術革新」が始まったのではないだろうか。




「システム」ではなく「個人」が生み出した「日本の栄光」


 では、かつて技術的に世界の最先端を走っていた「日本の体操」「日本のバレーボール」「日本の卓球」などを支えていたのは何だったのか、ということであるが、それらは結局、選手やコーチ個々のいわば「天才」的な創意工夫や努力の賜物であって「システム」の力ではなかったと、私は思う。

 戦前の三段跳びの金メダリストたちは動物園でカンガルーやウサギの跳ぶ姿を観察して、そこから何らかのヒントを得ようとしたというエピソードが残っているが、戦後の「月面宙返り」や「回転レシーブ」「一人時間差攻撃」などの新技術もそういう超人的な努力や才能の中から生まれてきたのではないだろうか。だから、そのような「天才」や「超人」が途絶えてしまうとその競技はたちまちのうちに衰退してしまうのである。必要なのは、そう次々とは生まれてこない「天才」や「超人」たちのした仕事を、科学的に分析・整理して、数多くの「凡才」たちがうまく分担して発展させていくことができるような「システム」をつくることなのだが、そういう努力が現在の日本のスポーツ界でどれほどなされているだろうか。現場に疎い私にはその辺の事情はよくわからないが、そこがしっかり出来ていれば急速な「衰退」はなかったのではないかと思う。

 また、NOMO、DATE、OGIWARAらの外国での活躍に対する評価も「システム」という観点から見れば逆転する。

 例えば野茂英雄。今でこそ彼のメジャー・リーグ進出は日米交流の新時代を拓いたものと賞賛され、すべての日本人から高く評価されているが、3年前、彼が突如メジャー行きを言い出した時、それを支持したものはどれだけいただろうか。エースに去られる近鉄球団が反対するのは当然としても、リーグ首脳、他球団の選手や監督、マスコミや評論家、それに野茂のファンに至るまで、彼の「愚行」にあきれ、また悲しんだものである。(私自身もその一人だった。)

 そういう四面楚歌の中で、「任意引退」という退路を断たれたかたちで、彼は昨今の長谷川滋利伊良部秀輝とは違って、将来に対して何の保証もない異国の地へ、自分の実力と運のみを頼りに出かけていったのであった。そして、その10年前にあの江夏豊が挑戦し、あえなく挫折したアメリカ野球のいくつもの厳しい関門をひとつずつ突破して、やっと念願のメジャーのマウンドに立つことができた。それからは、7試合目での初勝利、11試合目での初完投・初完封、6連勝、オールスター戦出場、と着実に実績を積み重ねてメジャー・リーグでの確固たる地位を築いていくうちに、いつの間にか日本での評価は手のひらを返すように変わっていた。

 このような過程からみて、野茂の成功が日本のプロ野球のレベルが上がった(あるいは、日米格差が縮まった)証拠だとして素直に喜ぶことはできない。なぜならば、そこにはひとりの孤独な「天才」が不屈に努力を重ねる姿はあっても、その「天才」を生み出した「システム」はどこにも見当たらないからである。見えてくるのは、たったひとりの力で日米野球の歴史を変えてしまった、文字通りのこの「天才」選手に対して、その足を寄ってたかって引っ張るしかその処遇のしかたを知らない我が国の哀しい土壌で、そういう「天才」は結局外国でしか認められないというこれまで何度も繰り返されてきたパターンの延長でしかない。(野茂のトルネードと名づけられたあの有名な投球フォームは誰に教えられたのでもない彼の全くの独創で、それを「矯正」しないことをプロ入団時の条件にしたというエピソードは有名であるが、新人の時、打撃コーチの「矯正」に応じなかったために二軍に落とされていたイチロー(鈴木一朗)、高校、大学の野球部はいずれも中途退部、自由な雰囲気の社会人チームに入って一挙に実力を開花させた落合博満など、「システム」によって潰されかかっていた「天才」が偶然に理解者に出会って大成するという話は今の日本にはいくらでもある。)

 また、プロ・テニスやスキーの世界では、一流選手の活躍の場は完全に国際化されており、彼(女)らは国内の大会を跳び越えて、世界中を転戦しながら腕を磨いていく、というようになっているので、その好成績とその国の競技レベルと結びつけて考えることは困難になっている。だから伊達公子荻原健司の活躍がただちに日本のスポーツ界の不振の反証にはなりにくいのではないだろうか。

 では、具体的にどのような「システム」が必要なのかを考えてみる前に、学校のクラブ活動の意義についての私自身の考えを述べておきたい。




学校のクラブ活動の意義


 以前組合で「ミニ教研」というのが毎月行われていたときのことである。ある月の例会が終わった後のささやかな小宴の話題として、次回のテーマは何がいいかという話になった。どうせなら、やや刺激的な方が集まりもよかろうということで、「勉強とクラブの両立は本当に可能か?」というのはどうだという意見が出た。

 もちろん、教師としては「可能」と言うのが建前で、事実これまでそう言って生徒や親に説明してきたのであるが、それをいちど疑ってみることによってシミュレーション的な頭の柔軟化を図るとともに、教師の本音も探ってみたいというのがこのテーマの狙いである。

 アルコールも入って話が弾み、議論の瀬踏みとしては進み過ぎるぐらい話が進んだ。そして誰かが、「毎日疲れ切って8時、9時に帰ってくる者に何時間も予習復習せいというのは、やっぱり無理やわな。」と言ったのが結論みたいになってその場はお開きとなり、結局このテーマは日の目を見ないまま立ち消えとなってしまった。たぶん、両者の激論沸騰という当初のもくろみが外れて、「本音論」の勢いばかりが強くなってしまったせいであろうが、それにしても、「クラブ不要論」は不思議なことにまったく出なかった。

 そのことについては、その時も、その後も、話し合ったことはないが、私が推察するに、「クラブを一生懸命やれば、その分どうしても勉強がおろそかになる。時には成績が下がることがあるかもしれない。しかし、それでもなお、クラブ活動は必要なものなのだ。」という暗黙の共通認識があったのではないだろうか。そして、この場合の「クラブ活動」の概念を、生徒会活動なども含めた「課外活動」一般、そして、体育祭や文化祭や遠足、修学旅行などの「学校行事」、さらには、ボーイスカウトや各種ボランティアなどの「校外活動」などへと拡張していけば、これらにいかに否定的な教師であっても、その必要性を完全に払拭することはできないだろう。そこには、All work and no play makes Jack a dull boy. (よく遊び、よく学べ)とことわざにもいわれているような一般性が存在するからである。

 そもそも、学校での勉強の中心である「授業」という方法は既成の知識を効率よく伝授し、詰め込むのには適しているが、「創造」的な面を育てるのには向いていないようである。では、中学・高校レベルで「創造力」をつける教育がどこで行われているかというと、それは「クラブ活動」や「課外活動」や「学校行事」「校外活動」などにおいてではないかと私は考える。

 これらは教師の目には本業である勉強の息抜きにしか見えず、また生徒にとっても「ただ楽しいからやっている」としか現象していないかもしれないが、しかし、よく考えてみれば、野球をやったり、バレーボールをやったり、生物の共同研究をしたり、仲間と演劇をしたり、文化祭で展示物をつくったり、という活動の中で必要とされ、鍛えられる「技術」や「創意工夫」や「機転」などは授業で教えられるものではないし、またなによりも、これらの「グループ」作業は、基本的に個人的なものである学校の「勉強」では絶対に体験できないものである。グループ活動においては、とうぜん人間関係の葛藤など、苦しいこともあるだろうが、うまくいったときの達成度や充実感は個人のそれに数倍するものがあろう。そのプラス・マイナス両者を取り混ぜたものが一体となって卒業後、社会に出てから大いに役立つのである。企業などが採用の時にクラブ活動経験者を優遇するのはそのためであろう。要するに、学校で行っているとされる「人間教育」の大部分は実は「授業」以外のところで行われているといっても過言ではない。そして、そのような直感的な認識がみんなの、特に意識されていないところにあるからこそ、どんな学校であってもクラブなどの課外活動や学校行事などを廃止してしまうことができないのではないだろうか。

 ただ、ここで私がイメージしているクラブ活動は現在の日本の学校の、特に多くの運動部のそれとは少し食い違うかもしれない。私は本稿の(1)でも述べたように、クラブ活動は本来、生徒の自主的な活動だと思っている。だから指導者(監督やコーチ)の存在が前提とされ、彼らが全面的に主導権を握って指導していくやり方では結局は「授業」の延長でしかないので、本来のクラブ活動の趣旨にはあわないと思う。最近の大学キャンパスでよくいわれる言い方を用いれば、「体育会」ではなく、もっと自主的で緩やかな「サークル」のようなものが学校のクラブ活動としては相応しいのではないだろうか。そして顧問教官は文字通り、側面から助言・指導する存在でいいのではないだろうか、というのが私の考えである。


 では、「体育会」的なクラブは必要ないのか、ということになるが、それはそれでまた別の存在意義があると私は思う。しかし、その問題に入る前に、「体育会」的クラブとはいったい何か、何を目的としているのか、などについて、もういちど考え直していくと、この問いかけは、スポーツとはそもそも何なのか、というところまで遡っていく。

(以下次号)


初出誌: 『Mini 雑想』 第3号 (1997年12月20日発行)


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