詩を暗誦する(2)


 

「教職」をめざしたきっかけ

 1970年代のはじめ、望むところになかなか就職できなかった私は、ようやく、大阪市内中心部にある、とある私立高校で非常勤講師の職を得た。

 就職できなかったといっても、実態は、いい歳をしていたにもかかわらず、自分がどんな仕事を望んでいるのかよく分からなかったのだ。つまり、できるだけ実社会に出るのを遅らせて、経済的には不安定ながらも自由のある今の生活を続けたい、という、当時流行(はや)りの言葉で言えば「モラトリアム人間」の状態にいたのであった。

 しかし、この、未来へ踏み出すのを「先送り」するという姿勢は、私に、無意識のうちに不安を与えつづけていた。寒い朝、じっと暖かい布団の中でうつらうつらするような、何とも言えない心地よさに浸りながらも、そんな状態はいつまでも続くものではないということはよく分かっていたからだ。勇気を奮って布団からとび出せば、冷たいながらも爽やかな世界が待っているかもしれない。そこに行きたいと強く願いながらも、どこかでそれを引き止める根強い引力が存在していた。

 だから、とにかく、仕事らしい仕事にありついたときは、正直、ホッとした。それまでの堂々巡りの、真綿に包(くる)まれたような「地獄」から脱出できて、救われた、と思った。

 教師という職業は、もともと望んでいたものではなかった。しかし、ぐずぐずと大学に在籍し続けて、いわゆる一流企業が定めている「大学新卒生の年齢制限」を超えてしまったとき、万が一のためにと、教員免許を取る決心をしたのである。

 私が取得できる「教科」は、国語、英語、社会の3つであった。当時専攻していたのは、あるヨーロッパ系の文学で、そのどれとも直接には関係がなかった。大学にも在籍期限があって、それはあと2年間。その限られた時間と、将来、実際に教職に就くことができる可能性をも考慮しなければならなかった。私としては、昔から一番好きだったのは「社会」で、とくに歴史は大好きだった。だが、現実は厳しい。

 まず、需要と供給の関係。「社会」の免許に直接関係する専攻は、文学部では、歴史学、地理学、哲学など、それに「政治経済」分野は、法学部、経済学部にも直結していて、それこそ、免許取得者は掃いて棄てるほどいる。それに対して、高校、中学での授業時間は、国語や英語よりも少ない。すなわち、それだけ教員採用の数も少ないということである。そんなところへ、大学でその科目を専門に勉強したこともない者が食い込んでいくのが大変なのは、火を見るよりも明らかだった。 それに、「社会」は、その中身が、日本史、世界史、地理、一般社会(今でいう、倫理・政経)とじつに多様で、そのどれでも教えられるというのが建て前だから、それぞれに対応した必要単位が多く、それらを2年間で習得することはまず不可能だった。

 それに対して、英語ははるかに条件がよかった。まず第一に英語は、高校、中学において、数学と並んで「受験」の2本柱になっているため、授業時間も多くて、それだけ採用者も多い。それに必要単位という点でも、大学入学直後の「教養課程」で取得した「外国語(英語)」の単位がそのまま転用できるので、これも大きい、とのことだった。今回、教員免許を取るのはあくまでも就職のためだったので、とにかく何よりも仕事にありつきやすい教科にするのがいちばんと、英語の免許を目指すことにした。英語は、昔から、それほど得意でも、好きでもない科目だったにもかかわらず。



「教員免許」取得大作戦

 こうして2年間、付け焼き刃的な英文学の勉強が始まった。教室ではほとんどが4~5才ほど年下の学生ばかりで、少し浮いたような存在だったが、うしろの隅の席でこっそりノートを取っていると、その反対側の隅に私と同じぐらい年を食った学生がいつもいるのに気がついた。すぐに自分と同じ境遇の人間だと直感したが、お互い、最後まで口をきくことはなかった。

 それにしても幸いだったのは、折りしも、全国の大学を席巻した「学園紛争」がようやく終焉を余儀なくされ、私の通う大学でも「封鎖」が「解除」されて、授業が再開されたのがその年の9月だということだった。つまり、私の免許取得作戦1年目の年は、実質半年間で1年分の単位が取得できたのであった。それに、まだ学内情勢不安定ということで、その年は試験がレポートに振り替えられることが多く、私は例年よりかなり楽に、必要な単位の大部分を獲得できたのであった。

 こうしてあわただしく英語の免許取得を目指す一方、私はどん欲にも「国語」の免許をも視野に入れていた。これは、英語で仕事がない場合の「受け皿」のためであったが、そうしようと思ったのは国文科のある教授の存在がある。

 その先生は、難解な国語学が専門であったが、毎年学期前に受け付けられる「受講届」と「受験届」に名前だけ書いておくと、だれでも全員「優」で合格させてくれた。その「勇名」は文学部以外の大学中にもひそかに轟いていたらしく、その名簿には、法学部や理学部など、思いがけない学部の学生の名前も少なからずあったように思う。私も、毎年毎年、何年にも渡って、その先生のすべての科目、中には畏れ多いような高度な内容の科目もあったが、目をつぶるようにして名前を記入していた。おかげで、その先生に頂いた「優」の単位は私の成績表のかなりを占めていたのだが、私はその先生の顔を最後まで一度も見たことがなかった。

 現在では考えられないような、「古き良き時代」の恩恵をこうむりながら、取得作戦2年目の後期までで、国語もあと1科目というところまで到達した。しかしその最後のひとつである「国語科教育法」という、実際に国語の授業をするために必要な実践的ノウハウを教わる演習授業が、同様の演習である「英語科教育法」と同じ時間に設定されていたため、国語の免許も同時に取得することはできなかった。私のような無精者が厚かましくも2つも同時に取得するのを避けるためにわざわざそういう時間割りにしてあったのだろう。その後、仕事についた1年目、その単位を取るべく、わざわざ大学に「聴講生」の手続きをして、お金も払っていたのだが、結局、1回も出席することはなかった。そんな時間もなかったし、その必要もなくなってきたからである。

 2年目の9月に、自宅近くの自分の出身中学校へ「教育実習」に行った。「実習」を担当してくれたのは、中年にかかりはじめたばかりの女性の先生だったが、開口一番、春にも一人来ましてねえ、あとが大変でした、と宣(のたま)われた。私は明らかに歓迎されざる客のようであったが、その先生の指導は女性らしくきめ細かくていねいなもので、その後、実際に教壇に立ってから役に立つことが多かった。

 短大生の若い女性の後輩たちが大部分の実習生の中で、ひとりそれよりもはるかに年嵩(としかさ)だった私には、先生方や生徒への挨拶、代表しておこなう「研究授業」などの役目がすべてまわってきた。もはや私の在学中にお世話になった先生は皆無で、私にとって初対面の先生方は、教え子だった短大出の若い女の子たちには容赦ない指導をしていたが、その中学校にあっては自分たちよりも古い存在である私に対しては、何か一目置いたような感じで、そんな「おとな扱い」は満更(まんざら)でもないものであった。



「でもしか教師」

 かくして手に入れた「英語」の教員免許状だが、それはやはりすぐに役に立つことになった。結局、私には教師の仕事「しか」残っていなかったのだ。

 いまや死語となってしまったようだが、その頃、「でもしか教師」という言葉があった。他によい仕事がないから、とりあえず、教師「でも」するか、あるいは、もう教師「しか」する仕事がなくなって、しかたなく教師になった先生のことをそう呼んだのである。

 普通に考えれば、こんなひどい教師もいる、という「蔑称」にあたるのだろうが、当時は必ずしも否定的なニュアンスばかりでもなかった。他の仕事をする能力は十分にあるのだが、今のところその機会を得られていないので、それが見つかるまでの「つなぎ」として教師「でも」やるか、という感じで、そのまま結局その機会が得られなければ、教師「しか」することがなくなってしまうのであるが、いずれにしても、自分の本領はもっと高いところにある、という自負に満ちたニュアンスを、少なくとも自分でこの言葉を使う時には込めていたようである。教師というのは当時、それほどなり易い、いいかえれば人気のない職業だった。

 念のために説明しておくと、学校で教える「教師」という職業にも種類がある。大学の教師は資格が不要である。小学校や幼稚園は、幅広い科目を教えなければならないので、それ専門の養成コースを持つ教育大などの教育系の大学・学部でないと資格が取れない。この2つの種類の教師は当時でも人気はあった。大学教師は、自分の好きなことを研究してお金がもらえるうえ、ステータスも高い。小学校、幼稚園の先生は、子供ころにお世話になって、いわば自分がいちばん最初に身近に接したおとなの職業なので、その時「刷り込ま」れた好印象は他のどの職業よりも強いであろう。

 その中間にある、高校、中学の教師は、英語、国語、理科などの教科別になっていて、その免許は教育系以外の普通の大学でも取得することができた。この制度は、戦前、旧師範学校(現在の教育大)出身者で占められていた教師の世界の狭さが、画一的な「軍国教育」へ流されていった要因のひとつになったという反省から生まれたのだろうが、その多様な、風通しのよさと同時に、反面、やや専門性に欠けるのではないかという胡散臭さも内包することになった。言いかえれば、「聖職者」という「偽善」をかなぐり捨てて「普通」の職業になったとたん、それまで曲がりなりにも得ていた「世間的評価」を下げてしまったと言えるかもしれない。

 よく言えば、給料は安いが、夏休みなど、自分の時間がたくさんある気楽な職業、裏返せば、高度経済成長華やかなりし時代、自分の一生を託すには物足りない職業、さらに、一歩踏み込んでみれば、年頃の難しい生徒を相手の、精神的にかなり「しんどい」職業、というイメージもあっただろう。実はこれこそ、私がずっと教職を避けていた理由の大きなものであった。



就職

 話を戻して、私がはじめて職を得たその私立高校は、中学も併設した大きな学校だったので、大きな職員室にも先生が入りきらず、私たち非常勤講師の大部分には「第2職員室」という名前の、教師用の机が10余り入った小さな部屋が与えられていた。非常勤で、週に2~3日しか出講しない先生もいるので、その机は共用となっていたが、週に4日出講の私は自分だけの机を与えられた。

 私の隣にはやはり英語の、あきらかに60歳をかなり過ぎた老教師が座っていた。以前この学校で専任教諭だったが、何年か前に定年退職して、そのあとも非常勤講師として高校生を教えていると言う。その老教師は、昔は商社勤めをしていて、中年になってから教師になったという経歴の持ち主で、授業が終わってからも、本を読んだり、まわりの人と雑談して、夕方になってから帰るのが常だった。お酒は飲めないが、コーヒーが好きで、帰りに誘われて、よく奢(おご)ってもらった。映画が好きで、その点、私ともよく話が合った。オーソン・ウェルズ主演の『第三の男』の大ファンで、何十回も見たと言って、オーソン・ウェルズの例の観覧車の中での長い名セリフを流暢な発音で再現してみせたりした。

 生来、「内気で引っ込み思案」とまわりから言い続けられていた私の性格では、大勢の生徒の前で話したりする仕事はまったく不可能だと、長い間思い込んでいた。自分が通っていた中学や高校時代、生徒が言うことを聞かず、授業中、なす術もなく立ち往生してしまう先生がいると、それが他人事とは思えなかった。こんな仕事だけは生涯するまい、と心のなかで固く決めていたほどだった。

 しかし、「教育実習」に行って、はじめて教壇に立ったとき、意外にも生徒たちが私の話を聴いてくれるのに驚いた。へえ、どうしたのだろう、と訝(いぶか)りながらも、夢中で2週間が過ぎた。結構、できるじゃないか。そんな秘かな「自信」の感触は、この学校で、非常勤といえども一人前の教師として教えはじめてからも続いた。

 英語を教えるといっても、私には2年間の教職課程で受講した大学の授業と、自分がかつて受けた高校での授業の経験しか蓄積がなかった。教科書に付属する教師用の「指導書」と、何冊か買い込んだ生徒用の学習参考書などと首っ引きで、その日その日の授業を何とかこなしていった。自分でもよく分からないところをその老教師に教えてもらったことは数知れない。

 そして1ヶ月ばかり過ぎた頃、帰り道の行きつけのコーヒー店で、老教師がふと言った。「あんたはほんまに学校、好きなんやなあ。なんでて、自分の学校時代のこと、よう憶えてるもん。でも、これからずっと教師やっていくんやったら、それは大きな財産やで」

 学校が好き? それはこれまで自分でもまったく気づいていなかったことであったが、そういえば、そうかも知れなかった。そしてこの時はじめて、教師という職業は、ひょっとして自分に向いているのではないかと思った。

 翌年、私は別の私立学校で専任教諭に採用されて、それ以来33年間、定年まで無事勤めあげ、現在、老教師と同じように、その学校で非常勤講師を勤めている。私が就職してまもなく、教師の待遇を改善する法律がつくられたりして、教師は人気のある職業になった。また、私学に対する評価も上がり、以前とは逆に、公立から私学に移ってくる先生も増えている。ちょうど私が勤めている間に、職場としてはまさにピークに近い状態まで上昇していったわけで、私はとにかく「幸運」に恵まれていたといえよう。そして、そもそもそんな教師という職業のスタートを何とかうまく切ることができたのはこの老教師の一言のおかげだったかもしれない、と思うと、いまだ感謝の念に堪えない。



非常勤講師群像

 ところで非常勤講師の中には、私のように大学を出たばかりや、あるいは大学院に在学中の若い者もいくらかいた。そんな一人で、源氏物語の研究をしているという年下のN君、そしてもうひとつのパターンの、定時制高校に勤めながら昼間はこの学校に非常勤で来ているという一人である、年上のI氏と懇意になった。2人とも国語の教師で以前からこの学校に出講していたが、出講日が食い違っていたためか、それまで話したことはなかったようだった。ちょうど私がこの学校に来てから、顔を合わせる日が2日ほど生まれ、空き時間や放課後、3人で何やかや、話すことが多くなった。

 I氏は夜は定時制の仕事があるので、ゆっくりと話す時間はなかなかとれなかったが、やっと1学期が終わって、その晩は定時制も休みだという日に、3人でミナミへ行って、お酒を飲んだ。学生時代はお酒といえば、友人の下宿に一升瓶やウィスキーを持ちよって酒盛りをするのが常だったので、自分の金で居酒屋で飲んだりするのは新鮮で、やっと社会人になった気がした。「キャバレー」というところに行ったのもこの時がはじめてだった。

 これですっかり打ち解けあった私たちに、I氏は夏休みに一度うちに遊びに来ないかと招待してくれた。I氏は妻帯者で、奥さんが私たちに会いたがっている、というのである。奥さんはI氏とは学生時代の同級生で、演劇をやっていて、家庭に入っていたその頃も地域の劇団に所属し、また京都にあった毛利菊枝の「くるみ座」の研究所にも通っているとのことだった。

 尼崎にあったI氏のアパートに行くと、待ちかまえたように迎えてくれた奥さんは、女優の浜木綿子似の非常に明るい美人であった。話し好きで、次から次へと話題が豊富で、私とN君はすっかり魅せられてしまい、その後何度もI氏の家に伺(うかが)うこととなった。

 定時制の仕事で遅いI氏の帰る頃からはじまって、特にお酒を飲むということもなく、延々と夜を徹して喋(しゃべ)り明かして、空が白みはじめてから、冬なら炬燵に足を突っ込んで寝てしまう、というのが常だった。奥さんが端役で出演した芝居の後とか、その頃神戸であった太地貴和子主演の文学座『飢餓海峡』公演をみんなで見に行った帰りなど、奥さんの友人の別の女性たちもいっしょになって語り明かしたこともあった。

 長身で、長い髪を額に垂らした近藤正臣ばりの二枚目で、いかにも文学青年風であったI氏は当時、塚本邦雄の本の収集に凝っていた。『水葬物語』『緑色研究』など魅惑的なタイトルの歌集であったが、どの本も「豪華限定本」として出版されていて、古本屋では数万円の値がついているという。本は結局は中身なのだから、数万円も出さなければ読めない本というのにはどうも合点がいかなかったが、I氏によれば、記号としての言葉だけではなく、印刷された文字の字体、紙の質、装幀、製本、それになかなか入手できないということさえも「作品」の一部になっているのだそうで、今は手が出せないでいるある歌集を、毎日帰り道の古本屋のガラスケースで確認しているとのことであった。そして、すでに入手しているそれらのうちの1冊をおそるおそる触らせてもらったが、その時の印象はあまり記憶にない。ただそのときI氏が、自分もいつか詩を書いて詩集を出すときは、塚本邦雄みたいに思いっきり「造本」に凝ってみたいと言ったのは憶えている。

 夜を徹して楽しく語り明かすという体験は、年の割にはまだ学生気分が抜け切っていなかった私には馴染み深いものであったが、すでに三十路に入っていたI氏夫妻にとっては、おそらく、いわば「青春後期」が思いがけなく訪れたような感じではなかっただろうか。しかし、この至福の時は1年しか続かなかった。

 はじめて仕事を得たこの学校で、私は英語科の専任の先生方にもよくしてもらった。新人歓迎会、学期末慰労会、忘年会、新年会など、教科の飲み会には必ず招かれ、ある時など、日帰りだったが近鉄特急に乗って、鳥羽まで海の幸を堪能しに行ったこともあった。そんな時、将来のことを尋ねられて、公立の採用試験でも受けようと思っていますと言うと、公立もいいけれど、私立もいいよ。何といっても、公立みたいにあちこち転勤させられることもないからね。給料も悪くないよ。という答えが返ってきた。私立といえば、なんとなく身分や待遇が不安定という先入観を持っていたが、この学校に勤めてみてそれも変わりつつあった。そこで、校長に来年、自分を専任に採用してくれないか、と頼むことになった。

 結局、その学校での専任採用はかなわなかったが、学年末近くになって、別の私立高校で専任教諭の仕事を得ることができた。いっしょにI氏宅を訪問していたN君も専任教諭の口を見つけてこの学校を去ることになった。

 一人残されることになったI氏とはしばらく、梅田辺りで飲んだり、私のアパートに遊びに来てもらって将棋を指したりしたこともあったが、「去る者は日々に疎し」の感は拭えなかった。子どもが産まれたということで引っ越したマンションを訪問したことがあったが、奥さんもすっかり落ち着いた「母親」の顔となっていた。私も新しい職場の仕事と人間関係に夢中になっていって、そのうちにI氏と会うことは全くなくなってしまったが、年賀状のやりとりだけは続いていた。



詩人の誕生!

 ある年、I氏の年賀状に、「海荒れてスープを啜る聖家族燭台の前その額(ぬか)明かり」という短歌が認(したた)められていた。

 それを見た家人は思わず、かっこいいわねえ、と呟いたものだが、それから何年かして、I氏から小包みが届いた。封を切ると、『二月のテーブル』というタイトルの詩集が出てきた。I氏の処女詩集だった。とうとうやったのだ。「造本」は塚本邦雄には及ばないであろうが、堅牢な箱に入った、ハードカバーのしっかりとした品のあるものだった。奥付けには、発行「かもめ社」とあったが、その住所はI氏の自宅と同じものだったので、自費出版であろう。そして巻頭には、年賀状にあった、あの短歌が掲載されていた。

 その7年後の1987年(I氏と知りあってから16年目になる)に、第2詩集の『日の門』が送られてきた。出版社は「詩学社」、れっきとした現代詩の老舗出版社である。定価2000円とあって市販されているらしく、「第2刷」となっていた。

 自分の生い立ちや長く勤めている定時制高校の生徒を題材とした「夜学生もの」など、それまでに書きためた作品が第1部にあったが、やや抽象化されたような印象だった第1詩集に比べ、ずっと具体的に素材に肉薄している感じがした。そして圧巻は第2部の「平家物語シリーズ」であった。

 平家物語は学生時代からのI氏の研究対象で、それについての学術論文もいくつか発表されていたようだが、ここでは、平家物語から13の場面が選ばれ、そこから13編の「散文詩」が紡(つむ)ぎ出されていた。それらはときに非常に分析的で、詩でありながら一種の「平家物語論」でもあるという、稀有(けう)な作品となっているように思われた。

 この詩集は、第1回福田正夫賞を受賞した。全然知らない賞だが、授賞式で井上靖に会えるというので、それが楽しみだ、とI氏は電話の向こうで言った。井上靖はI氏が詩に目覚めるきっかけとなった詩集『北国』の作者でもある。

 この当時、くだんのランボー研究家の宇佐美斉氏がある新聞の文化欄で「詩」についてのコラムをしばらく連載していた。それは最近発刊された詩集などを取り上げる「時評」のようなものであったが、そんな頃宇佐美氏と会ったとき、何かおもしろい詩集を知らないか、と尋ねられたことがあった。詩に疎(うと)い私に尋ねるほどだからよっぽどネタに困っていたのだろう。その時私はすぐさまI氏の『日の門』のことが口まで出かかったが、その言葉を呑み込んでしまった。自分の詩を見る目に自信が持てなかったこともあるが、その時は私にとってI氏は親しくしていた知人の一人ではあっても、いまだ「詩人」という認識はなかった。

 さらに5年後の1992年、第3詩集の『地球の水辺』が送られてきた。年末近くのことで、恒例としていた一泊の「人間ドック」受診の時、この詩集を持ち込んで、ホテルのベッドの中で読んだ。第2詩集の第1部で少し登場した、「夜学生」と「生い立ち」の詩がこの詩集では第2部にまとめられてメインになっているようだった。

 そして翌年、驚くような知らせが入った。この詩集で、I氏は、「詩壇の芥川賞」といわれる、第43回H氏賞を受賞したのである。詩人「以倉紘平」の誕生であった。

 ここに至って、私は自分の不明を恥じた。あのI氏(以倉紘平氏)がここまで大きな存在になっていることにまったく気がついていなかった。宇佐美斉氏にあのとき『日の門』のことを告げなかったのが残念だった。自分の「炯眼」を誇るとともに、それを宇佐美氏にもお裾分けする機会を逸したのがなんとも口惜しかった。

 さて、それからすでに16年がすぎている。しかし、これまで3冊も献呈されていながらただ読み流すばかりだったのが、いまやっとそれにいくらか報いることができるようになったのだ。

 まず選んだのは、(7) 『二月のテーブル』である。この詩は第1詩集のタイトルに用いられている作品で、5連21行という暗誦するには手頃な長さであった。



(7) 二月のテーブル


窓ぎわの小鳥たちは

声をふるわせ

買物かごの野菜は

うなだれて緑をなくした


貧しいテーブルのように

与えることを忘れた

海の上を

しめやかな調べが流れて

葬列が晴れ上がった

空を渡った


やがて冷えたコーヒーのように

朝の雨がこの窓ベを洗い

どしゃぶりの雨に

とじこめられて二月が

貧しさの歌を

歌うだろう


どうか愛を

やさしい愛を

海のように豊かな愛を

このテーブルに この街に


この大地にと――



 そのあと、他の作品をいくつかはさんで、(12)『千年ーーー「1860年英国大衆詞華選」一編』を暗誦した。第3詩集『地球の水辺』の代表作のひとつと目されている30行の詩である。



(12) 千年 ―― 『一八六〇年英国大衆詞華選』一篇


昨夜 仕事を終えて

馬車の走るぬかるみ道を帰ったことが

はるか昔のことのように思われる

今朝 学校に行く子供たちと

雨上がりの虹をみながら

イチゴジャムとパンを食べたことも

遠い日のことのように思われる

入道雲の下

伯母を訪ねる妻の乗った蒸気機関車が

(ロンドンブリッジ)を離れていくのを見送っている

今 そんな束の間でさえも

遠い日のことのように思われる


百年がかくのごときものであるならば

私は百年を生きたことになる


千年がかくのごときものであるならば

千年を生きたことになる


― ぼくは架空の『英国大衆詞華選』を閉じる

  そしてひそかに次のような盗作の文字を綴る


昨夜 勤務(つとめ)を終えて

灯の点った街路を地下鉄大国町駅まで歩いたことが

はるか昔のことのように思われる

今朝 学校へ行く子供たちと

束の間の食卓を囲んだことも

彼等の出払ったあとが

急に静かになったことも

遠い昔のことのように思われる……




― 捕虫網をもった少年のように

僕は時の垣根を覗きこむ

静かに 静かに

永遠が流れすぎる



 しかし、私は、(この3冊の詩集に限っての話であるが)以倉紘平の詩の本領は「平家物語」と「夜学生」だと思っていた。しかし、いずれも散文詩風のかなり長いものである。それを覚えきる自信がなかなか持てなかったが、やっと、今年の春、暗誦30番目の作品として、25字×25行の(30)『太陽(平家物語巻第7・篠原合戦より)』を暗誦することができた。知りあってからはや37年、私はやっと以倉氏の神髄にいくらか触れることができたような気分を味わったのであった。



(30) 太陽


平家物語の文体は太陽の痕跡をとどめている。けれども

この物語の太陽は、ただの一度も古代の戦場の蒼空(あおぞら)の上

に輝いたりはしなかった。たった一個所合戦描写に現れ

た太陽にしても決してその例外ではありえない。〈午(うま)

(こく)、草もゆるがず照(てら)す日に、我おとらじとたたかへば、

偏身(へんしん)より汗出(い)で水をながすに異(こと)ならず〉。風無く(太陽

が)野を照らす日に、倶梨迦羅(くりから)が峠に続く戦いがあっ

た。寿永二年五月廿一日、篠原合戦のくだりである。し

かし、この記述においても、太陽は、他動詞「照(てら)す」の

背後に隠れてその日の気象を説明する修飾語句のなかに

組み込まれ、主格として、明確に対象化されてはいな

い。近代の詩人なら〈日は照り、草ゆるがず〉とでも書

くところを、平家の作者は〈草もゆるがず、照(て)らす日

に〉といとも無造作に歌ってしまう。そして、後にも先

にももう太陽などにはまるで無関心の様子だ。あれほど

物語の行間に人馬の汗と哄笑と飼い葉の干し草にこもる

ような日の匂いをふんだんに撒き散らしているにもかか

わらず。恐らくこれはこの物語作者の肉体に、まだ太陽

が失われていなかったことの何よりの証明ではなかろう

か。晴れ渡った蒼空を従えた太陽への渇仰(かつごう)は近代のもの

である。〈なごの海の霞の間(ま)より眺むれば入る日を洗う

沖つ白波〉のごとく、太陽は外に永遠のまなざしによっ

て眺められた時、すでにその魂は病んでいなければなら

なかった。対象化による穢れを知らなかった古代の美し

い太陽よ。



【自註】

第2回目も調子よく書けた。いよいよ「回想録」めいたものになってきたが、でもこの年齢になれば、先は短いかもしれないが、「過去」だけは豊富だ。そのへんを洗い直すことによって、「未来」が見えてこないとも限らない。しばらくは、筆のおもむくがままに前進していきたい。(2009.08.16)




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